斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(18… 斎藤 宇一郎(さいとう ういちろう、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 大正15年(1926年)5月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→革新倶楽部)、農業指導者。三男の憲三はTDKの創業者。 出羽国由利郡平沢町(現在の秋田県にかほ市)に斎藤茂介(茂助)の長男として生まれる。生家は旗本仁賀保氏の家老格の家柄であった。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学を卒業し、一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1892年(明治25年)12月20日、予備役陸軍少尉に任ぜられ、翌年に後備役となった。日清戦争がおきると召集され、海城まで従軍し、中尉に昇進した。
高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(… 高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(慶応2年5月17日) - 1945年(昭和20年)6月28日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の仏教学者・インド学者。号は「雪頂」。 東京帝国大学(東京大学の前身)文学部教授、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長。 1866年(慶応2年)、備後国御調郡篝村(現三原市八幡町篝)の農家・沢井家に7人兄弟の長男として生まれた。幼いころから祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ進学するだけの余裕はなく、14歳で小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって、1885年に西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現・龍谷大学)に21歳で入学した。
武藤 金吉(むとう きんきち、慶応2年5月15日(1866年… 武藤 金吉(むとう きんきち、慶応2年5月15日(1866年6月27日) - 昭和3年(1928年)4月23日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期、立憲政友会)。族籍は群馬県平民。 上野国山田郡休泊村(現在の群馬県太田市)出身。武藤房吉の長男。英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業した。東奥日報創刊とともに記者となり、自由民権を主張した。1899年(明治32年)には自ら「実業新聞」を創刊した。また蚕糸業の発展に尽力し、帝国蚕糸株式会社専務取締役、大日本蚕糸会評議員などの職に就いた。その他山保毛織株式会社社長、群馬県農工銀行取締役などを歴任した。 1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
渡辺 香墨(わたなべ こうぼく、本名:渡辺 助治郎(わたなべ… 渡辺 香墨(わたなべ こうぼく、本名:渡辺 助治郎(わたなべ すけじろう)、1866年6月27日(慶應2年5月27日) - 1912年(大正元年)12月28日)は、日本の法律家、俳人。 正岡子規の門人で、台湾俳壇の基礎を作った一人。 1866年(慶應2年5月27日)、常陸国稲敷郡君原村に生まれる。1886年(明治19年)に東京法学校(現・法政大学)卒業し、裁判官となる。1894年(明治27年)、正岡子規の門人となる。1898年(明治31年)に新潟県の裁判所に赴任し、新潟県における新派俳人の草分けとして活動、子規から『著き進歩を現したる者』として『東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり』とし、『香墨は漸を追ふて進む者基礎既に堅し』と評されている。
東郷 慎十郎(とうごう しんじゅうろう 慶応2年5月12日(… 東郷 慎十郎(とうごう しんじゅうろう 慶応2年5月12日(1866年6月25日) - 昭和5年(1930年)4月20日)は日本の実業家・篤志家。湘南地域の学校や教育施設などに多額の寄付を行い、地域の教育に多大な貢献をした。特に鎌倉町の図書館設立に当たっては、建設費の寄付・図書千冊の寄贈を行い、中心的な役割を果たした。
池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶… 池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶応2年5月13日) - 1943年(昭和18年)10月4日)は日本の植物学者、理学博士、東京帝国大学名誉教授。日本の植物形態学の先駆者平瀬作五郎のイチョウの精子の発見に続いてソテツの精子を発見した。 最後の堺奉行を務めた旗本池野好謙(山城守、通称は勇一郎)の子として、江戸駿河台の屋敷で生まれた。開成学校、大学予備門から帝国大学理科大学植物学科に入学し、1890年(明治23年)に同校を卒業。翌年に帝国大学農科大学助教授に就任、留学先の帝政ドイツなどの大学の教授にも就任。 平瀬作五郎のイチョウの研究に協力し、平瀬は1896年(明治29年)にイチョウの精子を発見した。
島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2… 島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2年5月12日)- 1952年(昭和27年)3月21日)は、自由民権運動家・歴史家、自由民権運動高知旧各社記念会・世話人。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 慶応2年5月12日(1866年6月24日)、土佐藩士・島崎善七の次男として、高知城下に生まれる。 明治10年(1877年)10月5日、高知県土佐国高知市第八大区四小区築屋敷38番地より高知市小高坂村越前町22番屋敷(現・高知市桜馬場)に転住。 高知市九反田の旧開成館に開校した立志学舎に学び、同年12月、自由民権運動の少年結社「活動舎」に加盟し、のち「嶽洋社」の活動に加わる。 明治15年(1882年)3月25日、高知第一中学校高等科(現・高知県立高知追手前高等学校)を卒業。
宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年… 宍戸 俊治(ししど しゅんじ、1866年6月24日〈慶応2年5月12日〉- 1925年〈大正14年〉5月19日)は、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)出身の医師。 慶応2年5月12日、三河国碧海郡上重原村(現・愛知県知立市)の旧家である宇都宮家に生まれ、後に刈谷藩の藩医の家系である宍戸家の養子となった。1882年(明治15年)12月に東京大学予備門に入学し、1889年(明治22年)6月に第一高等中学校(予備門の改称後の名称)を卒業すると、1893年(明治26年)11月に東京帝国大学医学部を卒業した。 その後東京帝国大学の大学院で病理学を学び、恩師に病理学者の三浦守治などがいる。1895年(明治28年)7月に養父の宍戸隆一が死去したことで郷土に戻り、宍戸家を継いで宍戸療院を開業させた。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
大平 晟(おおだいら あきら、1865年7月22日 - 19… 大平 晟(おおだいら あきら、1865年7月22日 - 1943年1月19日)は、日本の明治・大正・昭和時代の教育者、登山家。新潟県小千谷市出身。生涯を通じて郷土の教育振興に尽くし、また日本の登山文化の広まりにおいても指導的な役割を果たした。日本の近代登山の黎明期に全国各地の山々に数多く登り、実質的で複合性のある紀行文をもってそれらの存在を世に広く知らしめた。また樺太(鈴谷岳)、朝鮮半島(金剛山)、台湾(玉山、南湖大山、大屯山)といった山域にも先駆的な足跡を残した。教え子の一人に日本山岳会発起人の一人である高頭仁兵衛(高頭式)がいる。国の名勝・天然記念物である清津峡の名付け親。 1865年(慶応元年)7月22日、新潟県三島郡高梨村五辺の農家の父・大平覚三郎(屋号:六郎右衛門)と母・トシの長男として誕生。
伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈… 伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉- 1924年〈大正13年〉4月26日)は、明治・大正時代の日本の外交官。外務大臣。男爵。妻の芳子は大久保利通の長女。 1864年(元治元年)、薩摩藩鹿児島城下高麗町において、薩摩藩士・伊集院吉次の長男として生まれた。その後、上京して築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。1890年(明治23年)7月に帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年(明治25年)からは翻訳官となり、1893年(明治26年)には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った。
笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年… 笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。 静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。 1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。その後、警保局監獄課長、山形県参事官、岩手県警察部長、高知県書記官、台湾総督府事務官、台南県書記官、岐阜県書記官、新潟県書記官、同県第一部長、熊本県第一部長などを歴任。 1907年1月、岩手県知事に就任。1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。1914年6月、岡山県知事に転じた。
吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元… 吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月3日)は日本の応用化学者。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・吉武樗の長男として生まれる。開智学校を経て東京大学予備門に入学。1884年東京大学卒業後、1887年から翌年にかけ東京府第一中学校教諭、さらに東京師範学校教諭を経て、第二高等学校教授、東京高等工業学校教授などに就任、理化学を講じていた。1932年、文部省から毛染及び毛織物捺染法、仕上法の研究を命じられ、イギリス、ドイツに3年間留学。帰国後、再び前職を務める傍ら、文部省視学官に任じられる。1920年東京高等工業学校校長、1923年東京高等工芸学校校長を兼任となる。
池田 蘆洲(いけだ ろしゅう、1864年7月22日(元治元年… 池田 蘆洲(いけだ ろしゅう、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1933年(昭和8年)1月24日)は、明治時代から昭和時代初期の漢学者。大坂の人。名は胤(いん)。通称は四郎次郎で蘆洲と号した。二松学舎専門学校、国学院大学教授。主著に『故事熟語大辞典』『日本芸林叢書』『定本史記補注』など。 大坂・道修町出身。坂本葵園、近藤元粋に師事し、東京に出て三島中洲にまなび陽明学を主とし、三島の創立した二松学舎専門学校で教授、理事をつとめ、のちに国学院大学の教授となる。編著には、未完に終わった『史記補注』130巻のほか、『日本詩話叢書(そうしょ)』10冊、『日本芸林叢書』12巻を編集し近世学芸の史料編集で知られる。
天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元… 天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元治元年6月16日〉 - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科。広島市医師会会長。族籍は広島県平民。 広島県・天野環の長男。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ。広島中学校卒業。のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し、監獄医を兼ねた。 1894年、家督を相続した。同年広島市西魚屋町で医院を開業した。天野医院長として名声を馳せたという。広島市医師会長を務めた。 『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。
有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年… 有馬 頼萬(ありま よりつむ、1864年7月18日〈元治元年6月15日〉- 1927年〈昭和2年〉3月21日)は、日本の華族(伯爵)。 旧筑後国久留米藩主・有馬家の第14代当主。昭和期の政治家で日本中央競馬会理事長を務めた有馬頼寧は子。 1864年(元治元年)、久留米藩最後の藩主・有馬頼咸の子として生まれる。母は側室・金田ミヨ。幼名は和之助といった。 1877年(明治10年)3月26日、病弱な兄の13代当主頼匡に代わり家督を継承し、4月に従五位に叙せられる。 1884年(明治17年)2月、宮内省式部職御用掛として出仕する。同年7月、華族令の公布にともない、伯爵の爵位が与えられた。1886年(明治19年)9月に宮内省を辞し、義兄にあたる小松宮彰仁親王とともに欧米諸国を歴訪した。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、旧姓・茂木、1864年7月18日(元治元年6月15日) - 1928年(昭和3年)9月6日)は、日本の政治家、衆議院議員。政界進出以前に、オーストラリアの木曜島で実業家として活動していたことでも知られる。 1864年(元治元年)に武蔵国児玉郡太駄村(後の埼玉県本泉村、さらに本庄市の一部)に、庄屋であった茂木太平の次男、ないし、三男として生まれた。 横浜の実業家であった原善三郎の家に奉公し、商法と英語を学んだ後、1884年8月に渡米してミシガン大学に学び、そこで南方熊楠と親交を結んだ。1890年6月ころまでは、アナーバーにとどまった。帰国後は国民自由党系の活動家としてさまざまな動きに関わった。
安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年… 安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年6月12日)- 1935年(昭和10年)1月28日)は、現在の高知県出身の武士、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1864年(元治元年)土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市)の武士、安藤厳技の長男に生まれる。[要出典] 1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。1904年(明治37年)3月、皇族附武官(守正王附)に就任し、1905年(明治38年)10月、歩兵第49連隊長に転じ、1906年(明治39年)12月、歩兵大佐に進んだ。1910年(明治43年)11月、陸軍少将となり歩兵第5旅団長に就任。
千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6… 千葉 胤明(ちば たねあき、1864年7月14日(元治元年6月11日) - 1953年(昭和28年)6月25日)は、東京府士族、歌人、書家、日本芸術院会員。親族:秋山虎六、天本浩義。 肥前佐賀出身。1881年佐賀中学校卒。1884年佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。1885年高崎正風に師事、和歌を学ぶ。書を長三州に学ぶ。1888年農商務省博覧会勤務。1890年内国勧業博覧会、パリ万国博覧会事務。1892年宮内省御歌所勤務。1908年御歌所寄人。1916-1919年明治天皇御製編纂に従事。1936-1944年歌会始点者。1937年帝国芸術院会員。1946年従三位に叙せられた。墓所は青山霊園。 近衛公爵、徳川公爵、大山公爵、前田侯爵、蜂須賀侯爵、鍋島侯爵等へ伺う。
本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日… 広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日(元治元年6月8日)- 1930年(昭和5年)10月21日)は、日本の実業家、漁業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、現:氷見市)で、素封家・広瀬義太郎の長男として生まれる。小学校を卒業し、金沢で漢学を、東京で禅学、語学を学んだ。 1885年頃、同郷の浅野総一郎が経営する秋田の鉱山で支配人に就任。日清戦争後、浅野らと台湾で事業を展開し、台北電燈取締役、台北米穀市場理事などを務めた。1910年、氷見に三漁組を設立して漁業経営を行った。その他、光針製造取締役、日本電気興業取締役、東方公司取締役、樺太炭礦取締役などを歴任した。
森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日… 森 肇(もり はじめ、1864年7月10日(元治元年6月7日) - 1927年(昭和2年)1月23日)は、日本のジャーナリスト、政治家、衆議院議員(3期)。弁護士。族籍は愛媛県士族。
森 肇(もり はじめ、1864年7月10日〈元治元年6月7日… 森 肇(もり はじめ、1864年7月10日〈元治元年6月7日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月23日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(中央倶楽部、当選3回)。族籍は愛媛県士族。 現在の愛媛県松山市柳井町で生まれた(原籍は同県温泉郡朝美村)。伊予国松山藩士である。小学校を卒業して松山中学校に通学したが1881年、同校を中退して大阪、東京に出て法律学を専攻した。英吉利法律学校(のち東京法学院、現・中央大学)で学び、法政二科を修めた。 1884年、代言人試験に合格した。いったん帰国したが、ふたたび東京に出て代言事務を開業した。また、自由党員になった。後「感ずる所」あって同党を退き、内地雑居尚早会を起し、更に大日本協会が起ると共にその党員に列し拡張に尽瘁する所があった。
高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元… 高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元治元年5月30日)- 1930年(昭和5年))は、明治から昭和初期の弁護士、政治家。衆議院議員。 上野国甘楽郡野上村(群馬県北甘楽郡額部村野上を経て現富岡市野上)で、高橋曽米吉の末子として生まれた。高橋玄硯、新井又右衛門から漢学を学び、1887年(明治20年)に上京して明治法律学校に入学し、1889年(明治22年)同校を卒業。 同年、代言人試験に合格して代言人(弁護士)となる。東京市下谷区西町(現東京都台東区東上野)に住み、弁護士会常議員会長となり、下谷区会議員、東京市会議員なども務めた。1897年(明治30年)専売特許製瓦 (株) を設立して社長に就任し、その他、日本漁獵監査役、海産貿易監査役などに在任。
杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月… 杉田 盛(すぎた さかり、元治元年5月27日(1864年6月30日) - 1934年(昭和9年)3月6日)は、戦前日本の開業医。幼少期を沼津で過ごし、上京して医学を修め、神戸・丹後・隠岐島・盛岡で病院院長を歴任し、横浜、大森に医院を構えた。号は東江・峯州医生・梅所・槑翁。杉田玄白4世孫。 元治元年(1864年)5月27日江戸浜町山伏井戸に杉田玄端の五男として生まれた。幼名は鶴五郎。明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い、両親・兄杉田武と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移った。明治2年(1869年)沼津で親戚杉田廉卿が病没すると、祖父の命でその跡を継いだ。 父に『三字経』『大統歌』『大学』『孝経』『論語』で漢学、『ウイルソン・リーダー』『ミッチェル(ロシア語版)地理書』で英学、母に習字を学んだ。
榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864… 榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864年6月29日) - 昭和4年(1929年)10月10日)は、明治時代から昭和時代の政治家。仙北郡会議員、秋田県会議員を経て元衆議院議員(当選7回)。地方問題の解決と床次竹二郎内閣実現のために奔走した。 出羽国仙北郡大曲村(現秋田県大仙市大曲地区)に大地主・四世榊田清兵衛(長蔵)と由利町出身のさだの長男として誕生。幼名は清蔵。女ばかりの後の待望の男子となる。1874年(明治7年)に大曲小学校に入学後、まもなく父長蔵が亡くなり、家督相続し、家名の清兵衛をついだ。わんぱく少年だったが学問を好み、神沢繁(素堂)、黒沢利吉、高垣重明、岡田好成らに師事し、自宅向かいに講習義塾を設立した。
井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年… 井上 仁郎(いのうえ にろう、1864年6月27日(元治元年5月24日) - 1920年(大正9年)1月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 伊予国喜多郡新谷(現・愛媛県大洲市)の新谷藩士の家に生まれる。小学校時代の友人に井上要(のちの実業家、衆議院議員)がいた。陸軍士官学校(旧7期)に入り、1885年(明治18年)6月、陸軍工兵少尉任官。同期には宇都宮太郎・島川文八郎両大将や柴勝三郎中将らがいた。1887年(明治20年)に陸士を卒業。軍用鉄道研究のためドイツに派遣された。 日清戦争時には寺内正毅少将の副官を務めた。1904年(明治37年)3月、鉄道大隊長に就任し、日露戦争では大本営臨時軍用鉄道監督部長となった。
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864… 稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864年(元治元年)6月25日 - 1947年(昭和23年)9月20日)は、教育者であり詩文作家である。特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲ありと評判であった。現在の岡山県井原市出身。 1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)の稲本重五郎の長男として生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった。1882年(明治15年)、19歳で岡山県小田郡星田小学校長となる。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ、全国でも名が知られていた。
高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元… 高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日) - 1914年(大正3年)6月24日)は、真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人である。 尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)生まれ。尾張小教校(のちの旧制尾張中学、現在の名古屋大谷高等学校)修了。和歌山県新宮市浄泉寺12代住職。旧姓は山田、幼名は妻二郎。 日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。 1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したことから幸徳事件(大逆事件)の関与を疑われ逮捕される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役に減刑された。
樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(… 樋戸 次右衛門(ひわたし じうえもん、1864年6月22日(元治元年5月19日) - 1934年(昭和9年)10月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。後の揖宿郡頴娃町(現南九州市)生まれ。攻玉社、三田英学塾で学び、アメリカへ留学する。小学校教員、英語教師となり、頴娃村会議員、同助役、同学務委員、同農会長、鹿児島県会議員、同参事員を務める。また、農業を営み、鹿児島県茶葉組合連合会議所会頭、福徳生命保険(株)鹿児島出張所長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補したが落選した。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6… 白水 淡(しろうず あわし、1863年7月21日〈文久3年6月6日〉- 1932年〈昭和7年〉1月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等功三級。号は孤峯。 筑前国那珂郡春日村(福岡県筑紫郡春日町大字春日を経て現春日市)で白水喜一の二男として生まれ、1904年(明治37年)1月に分家した。 1871年(明治4年)春日村の浦田塾に入塾。1880年(明治13年)8月、陸軍教導団に入り歩兵科生徒となる。1881年(明治14年)に修業し同年11月、歩兵伍長に任官し熊本鎮台に配属された。1884年(明治17年)陸軍士官学校(旧9期)に入校し、1887年(明治20年)に卒業し同年7月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊小隊長に就任。
平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈186… 平岡 定太郎(ひらおか さだたろう、文久3年6月4日〈1863年7月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月26日)は、日本の内務官僚。樺太庁長官(第3代)。福島県知事(第17代)。正三位勲三等。作家三島由紀夫の祖父。農商務官僚平岡梓の父。 文久3年6月4日(1863年7月19日)、播磨国印南郡志方村上富木村字横山(現在の兵庫県加古川市)で、農業を営んでいた父・太吉と、母・つる(寺岡久平の長女)の間に二男として生まれる。 少年の頃は、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学んだ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。兄の萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進み、定太郎も同じ地の師範伝習所へ入った。伝習所はすぐ神戸へ移り、神戸師範(御影師範学校、現・神戸大学)と改称、入学年齢は「二十一歳以上」とあったが、明敏な定太郎は16歳で許され3年間の寄宿生活を送った。
西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月1… 西村 礼作(西村 禮作、にしむら れいさく、1863年7月19日〈文久3年6月4日〉 - 1943年〈昭和18年〉3月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(山口県郡部選出、当選3回)。族籍は山口県平民。 長門国阿武郡、のちの山口県阿武郡奈古村(奈古町を経て現阿武町)で、代々農業と生蝋製造を業とする西村家に生まれる。利右衛門の三男。小学校を了え、漢学と英語と数学を学ぶ。 農業を営む。学務委員、山口県勧業諮問会員、奈古村会議員、同村長、阿武郡所得税調査委員、同徴兵参事員、山口県会議員を務める。藤田組の藤田伝三郎の知遇を得て同家理事のほか、藤田銀行、防長銀行、萩銀行の各監査役を務める。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において山口2区から無所属で立候補して初当選。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。
川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7… 川村 曄(かわむら あきら、文久3年5月26日(1863年7月11日) - 大正12年(1923年)8月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。号は経山。 伊勢国安濃郡津(現在の三重県津市)出身。川村弥右衛門の長男として生まれる。漢学やドイツ学を学んだ。1889年(明治22年)より新聞記者や雑誌記者を務めた。 1909年(明治42年)、衆議院補欠選挙で当選。第11回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、立憲政友会院外団理事を務めた。
石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863… 石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863年7月5日) - 大正8年(1919年)1月28日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡赤津村(都賀村、都賀町を経て現在の栃木市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。弁護士となり、東京市会議員に選出された。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。 その他、日本点灯株式会社取締役、東京湾汽船株式会社監査役、日本電線株式会社監査役、明正印刷株式会社監査役、渡辺倉庫株式会社監査役、東京消毒洗濯株式会社監査役、二十七銀行監査役、旭日生命保険株式会社監査役、駿豆電気鉄道株式会社監査役などを務めた。
松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月… 松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月18日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月26日)は、日本の国語学者(文学博士)。旧姓は宮内。号は刀水、碧湾。東京文理科大学名誉教授。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)出身。父は国学者の宮内嘉雄。帝国大学特約生教育学科を修了後、文科大学国文学科選科に在籍。その後学習院教授、東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を歴任。墓所は雑司ヶ谷霊園。 20年近くかけて国語辞典『大日本国語辞典』を著し、刊行後も修訂を続けた。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7… 百瀬 清治(ももせ せいじ、文久3年5月17日(1863年7月2日)- 昭和18年(1943年)4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡平田村(現長野県松本市)生まれ。武居用拙の猶興塾に学び、東京専修学校を卒業。明治22年(1889年)芳川村会議員、同24年(1891年)東筑摩郡会議員、同26年(1893年)長野県会議員となり、議長も務めた。同42年(1909年)芳川村長となり、大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選した。 長野県の県道七路線開削事業のうち、松本・上田間の第二線路(現国道143号)の完成や、牛伏川の砂防工事などに功績があった。また扶桑銀行頭取、信濃民報社社長なども務めた。
下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(186… 下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(1863年7月1日) - 大正13年(1924年)2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校、金沢医学専門学校、金沢医科大学の教授。 紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年)12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年)5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年)11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。
井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6… 井手 三郎(いで さぶろう、文久3年5月15日(1863年6月30日) - 昭和6年(1931年)11月16日)は、衆議院議員(中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)、ジャーナリスト。 肥後国飽田郡中島村(現在の熊本県熊本市西区)出身。1887年(明治20年)、済々黌を卒業。中国語を学び、漢口や北京を巡った。日清戦争の際には大本営附となり、第一軍民政庁通訳官を務めた。戦後、海軍軍令部嘱託として北京・天津を視察した。 1897年(明治30年)、福州にて「漢字新報」を創刊。翌年、貴族院議長・公爵近衛篤麿が東亜同文会を創設すると、それに参加し、上海支部長に任命された。上海租界では漢字新聞「同文滬報」を発行、1904年(明治37年)7月には邦字新聞「上海日報」の経営を引き継いだ。
西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久… 西久保 弘道(にしくぼ ひろみち、1863年6月30日〈文久3年5月15日〉- 1930年〈昭和5年〉7月8日)は、日本の内務官僚、政治家、剣道家。 福島県知事(第19代)、北海道庁長官(第13代)、警視総監(第23代)、貴族院議員(勅選)、大日本武徳会武道専門学校校長(第5代)、東京市長(第11代)を歴任した。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子、肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現:佐賀市)に生まれる。司法省法学校予科を経て、東京帝国大学法科大学卒。 内務省に出仕し官吏として累進した弘道は福島県知事、北海道長官、警視総監を歴任する。その後大礼使参与を務め、その功により勲二等瑞宝章を受章。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年… 秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年5月11日〉- 1925年〈大正14年〉3月31日)は、明治から大正期の日本の地主・農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。妻のタニは、川端康成の母方の叔母。 摂津国東成郡蒲生村(大阪府東成郡鯰江村を経て現大阪市)で、大地主、豪農・秋岡伊兵衛の長男として生まれる。1884年(明治17年)4月、家督を相続し農業を営む。 実業界では、朝鮮綿業監査役、京阪電気鉄道監査役、京阪土地建物監査役、大阪農工銀行頭取、利別農場業務執行社員などを務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙で大阪府第4区から無所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算8期在任した。
楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文… 楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文久2年6月17日)- 1938年(昭和13年)1月7日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知県香美郡大楠植村長。初名・馬太郎。 土佐国香美郡楠目村(高知県香美郡大楠植村大字楠目、土佐山田町を経て現香美市土佐山田町楠目)で、楠目久米作、兼の長男として生まれる。小学校、旧制中学校を卒業。農業を営む。 1882年(明治15年)から自由民権運動に加わり、1887年(明治20年)政談演説会弁士として活動した。同年、香美郡63カ村総代として三大事件建白運動で上京し、保安条例違反として退去命令を受けたが拒否したため投獄された。
高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈186… 高野 佐三郎(たかの ささぶろう、文久2年6月13日〈1862年7月9日〉 - 昭和25年〈1950年〉12月30日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。諱は豊正。号は靖斎。 警視庁撃剣世話掛、東京高等師範学校教授などを歴任した、昭和初期剣道界の第一人者。 武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれる。幼少時から祖父で忍藩剣術指南役の高野佐吉郎に中西派一刀流剣術を学ぶ。5歳のとき忍藩主松平忠誠の御前で中西派一刀流の組太刀56本を演武し、褒賞を賜る。 その後、上京して山岡鉄舟に師事し、明治19年(1886年)警視庁巡査に任官。本所元町署撃剣世話掛を務め、「警視庁の三郎三傑」の一人に数えられる。
北海 大太郎(ほっかい だいたろう、1862年7月6日(文久… 北海 大太郎(ほっかい だいたろう、1862年7月6日(文久2年6月10日) - 1934年(昭和9年)5月19日)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県平川市)出身で高砂部屋に所属した元力士。本名は岩渕 大次郎。164cm、88kg。最高位は東前頭筆頭。 相撲の盛んな青森県で草相撲に励んでいたが、1884年1月に21歳で高砂部屋に入門。低い重心からの腰投げを得手とした。1888年5月に新十両昇進を果たした後、1890年1月に新入幕。以後連続27場所幕内を務め、1896年1月には東筆頭の地位まで番付を上げた。40歳で十両に陥落してからも現役を続け、1910年1月に47歳を以て引退した。江戸時代の生まれで両国国技館の土俵にあがった力士のひとりである。
六代目 市川門之助(ろくだいめ いちかわ もんのすけ、文久2… 六代目 市川門之助(ろくだいめ いちかわ もんのすけ、文久2年6月10日〈1862年7月6日〉- 大正3年〈1914年〉8月20日)とは、明治に活躍した歌舞伎役者。屋号は瀧乃屋、定紋は四ツ紅葉。俳名は新車。本名は荒川清太郎(あらかわせいたろう)。 出雲国揖屋村(現在の島根県松江市東出雲町揖屋)に生まれる。慶応3年 (1867年) ごろから村芝居に出るようになり、のちに旅役者の坂東歌調の門人として坂東秀之助(ばんどうひでのすけ)、次いで秀之助が嵐鱗若と改名した為、嵐鱗枝(あらしりんし)を名乗る。旅回りを続けるうちに、石見国(現在の山口県)の回漕問屋に芸を見込まれ、その紹介状を持って大阪の初代市川右團次に入門し市川福之丞と名乗る。
田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6… 田中 敬助(たなか けいすけ、1862年7月5日(文久2年6月9日) - 1945年(昭和20年)1月22日)は、日本の医師。ツツガムシ病の研究で知られる。 現在の湯沢市出身。1888年に帝国大学医科大学を卒業した。卒業後は帰郷し、自宅で医院を開業した。1890年に公立横手病院長を兼任した。 1890年に私設の研究所である日本沙蝨病研究所を自宅に建て、ツツガムシ病の研究を行った。1892年に論文「日本洪水熱病原研究第一回報告」を皮切りに数多くの論文を執筆し、ダニが病気を媒介することを指摘した。具体的には1899年にツツガムシ病がケダニにより媒介されることを発見し、その成果を1906年に「日本のケダニ病について」としてドイツの伝染病学雑誌に発表した。