福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1… 藤井 真信(ふじい さだのぶ、1885年(明治18年)1月1日 – 1935年(昭和10年)1月31日)は、日本の財政家、大蔵官僚。大蔵大臣。 徳島県麻植郡牛島村(現・吉野川市)に、藤井市三郎の四男として生まれる。生家は古くから藍商を営む名家であった。徳島中学校、第三高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。高文試験16番目(180人中)で大蔵省に入省する(配属先は専売局書記)。主に税務畑を歩み、1923年9月19日、蔵相事務担当秘書官(〜1926年11月11日)、1924年6月6日、主税局国税課長併任(〜1926年11月11日)、同年12月20日、大臣官房秘書課長併任(〜1926年11月11日)、1926年11月5日、東京税務監督局長、1927年7月17日、主税局長、1929年7月4日、主計局長と順調に昇進を重ね、1934年5月に高橋是清蔵相の下で大蔵次官に就任する。
上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月… 上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月30日)は、日本の教育者、文部官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業。農商務省嘱託、文部属、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任し、その間東京高等師範学校教授を兼ねた。1921年(大正10年)、三重高等農林学校校長に就任し、1939年(昭和14年)には東京農業教育専門学校校長となった。戦後の1946年(昭和21年)から霞ヶ浦農科大学学長を務めた。 その他、日本農業教育会会長、大日本教育会副会長、全国学農連盟副会長、実業教育振興会理事長、日本青年館理事などを務めた。
永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 197… 永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 1973年8月2日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。 東京生まれ。1909年東京外国語学校西斑牙語科卒業、戦後、東京外国語大学教授を務めた。スペイン文学の翻訳、教育に尽くした。 岩波文庫で、セルバンデス『ドン・キホーテ』完訳に挑んだが、徹底的に直す翻訳作業で、行の頭にこの字が来てはいけない、といった直し方を続けたため、続編の翻訳半ばで死去、弟子の高橋正武が継いで、最終巻を刊行した。なお『ドン・キホーテ』は、弟子の会田由が先に完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12… 岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県伊丹町(現在の伊丹市)町長。 兵庫県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。群馬県属、同佐波郡長、同商工課長、香川県商工課長、同水産課長、同学務課長、広島県学務課長、同農務課長、新潟県学務部長、樺太庁警察部長、北海道庁学務部長を歴任した。 その後、共盛無尽取締役、尼崎市助役を経て、伊丹町長に就任した。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月… 田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月26日 - 1945年(昭和20年)9月)は、台湾総督府官僚。名古屋市長。 山口県出身。1904年(明治37年)、早稲田大学邦語法律科(現・法学部)を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計となる。台湾総督府事務官、殖産局商工課長・庶務課長、勅任参事官、台北州内務部長を歴任した。 退官後、名古屋市助役を経て、1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めた。 その後、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となった。 戦時中は新潟県内に疎開し、1945年(昭和20年)9月に亡くなった。
宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12… 宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の警察官。東京市赤坂区長、芝区長。 宮沢今朝吉の長男として長野県に生まれる。中央大学を卒業後、警視庁に奉職し、丸の内、築地、神田錦町、両国、象潟各警察署勤務、上野、芝、愛宕各警察署長を歴任した。 1936年(昭和11年)9月、赤坂区長に就任し、1938年(昭和13年)10月、芝区長に転じた。1943年(昭和18年)1月、退官し、日本医療団参事となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月… 太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月24日 - 1969年(昭和44年)5月1日)は、愛知県出身の洋画家・挿絵画家。挿絵画家としては君島柳三の名を用いた。日本画の号は本名をもじった沙夢楼である。光風会所属。 1884年(明治17年)12月24日、愛知県西春日井郡下小田井村(現・清須市西枇杷島町)に生まれた。父の太田仙草は青物問屋を営む傍らで、日本画の土佐派を学んだ文人でもあった。 17歳の時に上京し、まずは日本画を、その後洋画を学んでいる。日本画は寺崎広業に師事した。洋画は黒田清輝に学び、さらに白馬会洋画研究所にも通っている。 1913年(大正2年)の第7回文展で「カッフェの女」が受賞した。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1… 山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に兵庫県立工業専門学校を卒業。1927年に東邦ガス取締役に就任し、1934年2月に西部ガス社長に就任し、1960年2月には会長に就任。RKB毎日放送取締役、九州電力取締役、福岡商工会議所会頭なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章。 1970年9月24日福岡市の病院で死去。85歳没。
哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19… 哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19日 - 1997年〈平成9年〉5月4日)は、長寿日本一だった山口県の女性。 山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)に生まれ、1910年に結婚。農業をしながら1男3女を育て、1995年7月12日に長寿日本一となる。 1984年、宇部温泉病院に入院。食事や風呂など身の回りのことは自分でやり、時には民謡を歌ったり踊ったりするなど元気に過ごしていたが、1996年11月に急性心不全を起こし、4人部屋からベッドの2人部屋に移り、看護を受けていた。 1997年5月4日、老衰のため山口県宇部市の宇部温泉病院で死去。113歳105日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1… 植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 1963年〈昭和38年〉12月3日)は、日本の歌人(筆名・岸良雄)、実業家。下野鉄工、東野電力、植竹商業各取締役。 栃木県那須郡黒羽町大字黒羽向町(現・大田原市)の素封家・植竹三右衛門の三男。川西小学校卒業後、東京の日本中学校に入学したが、病気のため退学した。19歳、出家を志したが、両親に許可されず断念。 糠塚の植竹農場で、悶々の空白の歳月を過ごす。1911年に上京、神田佐久間町に文芸出版社の「植竹書院」を創設した。 大正時代の重要な文芸書シリーズ「現代傑作叢書」「現代代表作叢書」「文明叢書」「薔薇叢書」を刊行し、また広津和郎らの同人誌「奇蹟」の発行所となった。
古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年… 古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛知県瀬戸市長。 岡山県勝田郡古吉野村石生(現・勝央町石生)に生まれる。1906年(明治39年)11月、和歌山県属となり、以後、滋賀、鳥取、北海道、大阪、福井各県属を経て、1918年(大正7年)3月に福井県知事官房主事となる。 同年12月に同県大飯郡長、ついで足羽郡長、敦賀郡長、遠敷郡長を経て、1925年(大正14年)1月、地方事務官となり福井県内務部勧業課長に発令される。翌年の1926年(大正15年)8月、辞任し、新潟市主事を経て、1927年(昭和2年)7月に樺太庁に転じ、豊原支庁長、本斗支庁長、真岡支庁長を歴任し、1929年(昭和4年)11月まで務めた。
長岡 隆一郎(ながおか りゅういちろう、1884年1月15日… 長岡 隆一郎(ながおか りゅういちろう、1884年1月15日 - 1963年11月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。警視総監、関東局総長、満州国総務庁長、貴族院議員。
永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月1… 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年〈明治17年〉1月14日 - 1935年〈昭和10年〉8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。 陸軍中央幼年学校次席卒業、陸軍士官学校首席卒業、陸軍大学校次席卒業を経て参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。 軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。 陸軍省軍務局長(階級は陸軍少将)時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された(相沢事件)。 長野県諏訪郡上諏訪町本町(現・諏訪市)出身。
生田 清三郎(いくた きよさぶろう / せいざぶろう、188… 生田 清三郎(いくた きよさぶろう / せいざぶろう、1884年(明治17年)1月13日 - 1953年(昭和28年)11月7日)は、朝鮮総督府官僚。 徳島県名西郡石井町に坪井定三郎の三男として生まれ、生田彦平の養子となった。徳島中学校を経て、1905年(明治38年)、中央大学を卒業し、高等文官試験と弁護士試験に合格した。統監府属、朝鮮総督府事務官、殖産局水産課長、同商工課長、監察官、平安北道知事などを歴任した。1925年(大正14年)に内務局長に就任し、中枢院書記官長と日本赤十字社朝鮮総督府副総長を兼ねた。 1929年(昭和4年)に退官した後は、多獅島鉄道株式会社社長に就任した。 1945年(昭和20年)には京城府尹、京畿道知事を務めた。
有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1… 有川 小三(ありかわ こうぞう、1884年1月13日 - 1973年4月14日)は、鹿児島銀行役員、実業家、弁護士。 8歳にして父を亡くし、有川矢九郎(貞実)宅にて寄食しながら島津奨学資金等の援助により、大正2年7月10日東京帝国大学法科大学(英法)を卒業。 大正2年8月14日、東京青山高樹町住み海軍少将縦四位勲三等功四級、有川貞白の三女愛子と結婚する。 株式会社泰昌銀行(東京)、 古河合名会社(東京)、 株式会社第百四十七銀行 (現、鹿児島銀行)大阪副支店長、 大島支店長、 沖縄支店長、昭和8年8月本店支配人営業部長を歴任。 昭和14年1月、監査役に就任後、銀行合併により職を辞する。 沖縄電気株式会社監査役に選任される。
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12… 宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12日 - 1963年〈昭和38年〉5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。 広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした。
北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月… 北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月12日 - 1968年(昭和43年)9月18日)は、日本の大正・昭和期における歯科医。名古屋大学教授・愛知県歯科医師会長。長崎県出身。 1884年(明治17年)、本籍は父親の郷里である長崎県で幼少時も長崎で暮らすが、検事であった父の勤務先東京で生まれた。1911年(明治44年)第三高等学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業する。 卒業後「ただ歯科をやりたかった」と言う理由で当時唯一の官制歯科学教室であった石原久の教室に入局した。しかし、「歯科医学専門学校は内容を整備して着々と国家的に其存在の根を固め、帝国大学に歯科医学科の無きに係らず歯科医学士の称号を獲得し、其学会は漸次形式内容を整えて学会に加えんとするに至った。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月… 今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月10日 - 1971年(昭和46年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、八日市市長。旧姓・三浦。 京都府京都市下京区綾小路通出身。三浦寛一の二男として生まれ、今宿家の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省。内務省に転じ滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同理事官、熊本県理事官、福岡県事務官、千葉県警察部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。 1926年9月、沖縄県知事に就任。第1次若槻内閣総辞職に伴い1927年5月に辞任。1929年9月、佐賀県知事に就任。
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月… 石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。 「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。 この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。
龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1… 龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1961年2月16日)は、日本の造園史家、造園家、教育者、文筆家。日本文化史及び造園史の教育にすごした。造園家の龍居竹之介は子息。 1884年(明治17年)、東京市京橋区に生まれる。父は龍居頼三(1856 - 1935)。東京府立第四中学校、学習院高等科を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業する。1917年(大正6年)同大学大学院へ進学し、当初住宅史の研究に従事した。恩師である文学博士の三上参次に加え、建築学者(工学博士)の伊東忠太と関野貞にも師事し、後年の日本造園史家として名を馳せる基礎をつくる[要出典]。
坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8… 坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8日 - 1970年(昭和45年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 愛知県出身。坪井政兵衛の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し神奈川県属となる。 以後、神奈川県警視、同理事官、秋田県警察部長、岡山県警察部長、香川県書記官・内務部長、山口県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長などを歴任。 1929年7月、香川県知事に就任。塩江温泉鉄道の開通に尽力。1931年6月、高知県知事に転任。同年12月18日に知事を依願免本官となり退官。
長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)… 長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)1月7日 - 1945年(昭和20年)8月25日)は、日本の内務官僚。 東京府知事や警視総監を歴任。 旧唐津藩士・長谷川芳之助(一刀流の使い手である長谷川善兵衛久徴の子)の長男として岡山県で生まれる。第一高等学校を卒業。 1907年(明治40年)、東京帝国大学法科政治科を卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入る。内務書記官、内務参事官、三重県警察部長、千葉県警察部長、警視庁第二部長、警視庁保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、内務省土木局長を歴任。 1923年(大正12年)10月25日、1924年(大正13年)6月24日、石川県知事を務める。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、188… 小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員。農本主義者。 長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助の長男として生まれる。旧制諏訪実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制第一高等学校工科を途中休学。1910年に東京帝国大学農科大学を卒業し、さらに同法科大学政治科に入学。在学中の1913年に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。 農商務省に入り、農政課に配属。農政課小作分室長として石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。1922年に産業組合の主管課である農務課長に就任、産業組合中央金庫の設立に中心的役割を果たした。
高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 19… 高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 1958年2月24日)は、日本の医師・医学者。妻・ふく子は大沢岳太郎の次女。 長野県小県郡武石村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第四高等学校を経て、1910年東京帝国大学医学部卒業。同大助手を経て、1917年千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)の第一外科主任教授となる。1919年から2年間欧米諸国に留学、1923年、千葉医科大学(同)教授となり、1929年には学長に就任した。1938年勲二等瑞宝章、1940年従三位に叙された。 その後、千葉県医師会会長、千葉県済生会長、日本外科学会会長、国際外科学会名誉会員などを歴任した。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5… 今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。高雄市尹、花蓮港庁長。 新潟県中頚城郡高田城下に生まれる。1899年(明治32年)台湾に渡り、1908年(明治41年)6月に台北庁警部、1920年(大正9年)9月に台北州保安課長を経て、1922年(大正11年)5月、台湾総督府地方警視に進み、台北南警察署長に就任する。 1924年(大正13年)12月、地方理事官に進み、台中州新高郡守となり、ついで1926年(大正15年)1月に新竹州苗栗郡守、1927年(昭和2年)8月に台中州彰化郡守を経て、1929年(昭和4年)5月に高雄市尹に就任した。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - … 中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日)は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授、元臨時帝室編修官補)。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月… 横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月1日 - 1963年(昭和38年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。東北興業総裁。 以下、「横山 助成 (よこやますけなり)東京都知事も務めた 内務省高級官僚」(秋田高等学校同窓会、2014年3月21日更新)参照。 「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。 石田八弥の女婿。義弟は文化人類学者の石田英一郎、姪の子に阿部牧郎がいる。
沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉… 沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉1月1日 - 1930年〈昭和5年〉5月23日)は、日本の東洋美術・美術史研究家、詩人。京都帝国大学文学部教授。第三高等学校寮歌を作詞し、詩人としては沢村 胡夷(さわむら こい)と号した。 明治17年(1884年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町京町(現彦根市京町)に、鉄道技師沢村伝次郎と定夫妻の長男として誕生した。父母が台湾に移住したため、祖父母により養育された。明治31年(1898年)滋賀県立第一中学(現彦根東高等学校)に入学し、明治36年(1903年)9月第三高等学校第一部に入学、明治39年(1906年)9月京都帝国大学文科大学哲学科に入り美学美術史を専攻、明治42年(1909年)7月『日本詩律論』を論文提出し卒業した。
中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年… 中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年)1月1日 - 1936年(昭和11年)11月1日 )は、熊本県上益城郡大山町出身の大正・昭和期の大蔵官僚。 中島又平の二男として生まれた。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を卒業。1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年7月、大蔵省に入省して専売局書記に任官し専売局製造部に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、京都税務監督局経理部長、東税務署長、神戸税関監査課長兼徴収課長、同総務課長などを経て、1920年(大正9年)5月、主税局に転じ、長年にわたり関税課長として関税行政事務を率いた。
中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1… 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1月1日 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町、2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。1898年(明治31年)3月、尾島尋常高等小学校卒業。1903年(明治36年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。1907年(明治40年)4月25日、海軍機関学校卒業。
小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 -… 小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 - 1967年4月2日)は、現在の青森県黒石市出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 金作(旧姓工藤)。170cm、86kg。最高位は西前頭5枚目。 左四つからの押しと寄りを得意とし、地味であったが力が強かった。1906年5月初土俵、1911年6月十両昇進。1913年1月入幕を果たし、華々しい活躍こそなかったが、前頭5枚目まで躍進する。しかし地方巡業中に足を骨折する怪我で全休が続き、1916年5月十両陥落となり、そのまま1917年1月廃業した。その後は旧両国国技館内で「天金」という天ぷら屋を経営し、後に「大金」という料亭を経営して繁盛した。
大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)1… 大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)12月31日 - 1961年(昭和36年)2月20日)は、日本の雅楽家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府で伯爵・大原重朝の三男として生まれる。学習院を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学文科大学国文科を卒業した。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月28日、伯爵を襲爵した。 郢曲を綾小路有良に、箏・琵琶を豊原喜秋に、篳篥を安倍季節にそれぞれ師事した。1909年(明治42年)宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。 1922年(大正11年)5月11日、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し、研究会に属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した。
増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1… 増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1933年8月6日)は、日本の心理学者。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学、旧制四高、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。元良勇次郎、松本亦太郎に師事。欧米留学を経て、1922年東京帝大助教授。1933年「心理学ノ研究法-殊ニ数量的研究ニツイテ」で東京帝国大学文学博士。51歳で死去した。
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月2… 高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 1883年12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現・佐賀県小城市三日月町)遠江で生まれた。1897年3月に三日月村晩成小学校を卒業し、佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀西高校、佐賀北高校、佐賀東高校)に進んだ。1902年3月に卒業し、第五高等学校第一部に入学。1907年7月に卒業し、同年京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1914年9月、京都帝国大学法科大学講師に就いた。
澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-195… 澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-1950年4月7日)は、日本の菌学者・植物病理学者。 1883年12月26日、岩手県盛岡市の生まれ。 1903年3月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を卒業。その後、1903年6月から1908年7月まで盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の植物学教室と図書館に勤務、同教室の教授だった山田玄太郎の助手として植物標本製作などの業務に従事する。1908年8月より、同年6月に設置されたばかりの台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)に植物病理部技手として勤務、1910年より教育部技手、同年7月より図書館取扱主任を兼任、1920年より植物病理部主任心得を務める。
井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12… 井上 二三雄(いのうえ ふみお、1883年〈明治16年〉12月25日 - 1919年〈大正8年〉3月5日)は、日本の海軍軍人。海軍航空草創期の搭乗員の一人で、第一次世界大戦において日本初の航空作戦に参戦し、のちに殉職した。最終階級は海軍中佐。血盟団指導者の井上日召は弟。 群馬県利根郡川場村谷地に、医師・村会議員の井上好人の子として生まれる。前橋中学校沼田分校(現・群馬県立沼田高等学校)卒業後、成城中学校を経て海軍兵学校33期。同期生に豊田副武、豊田貞次郎、中村亀三郎らがいる。1906年(明治39年)12月少尉任官。初級士官時代の「音羽」、「三笠」乗組みなどを経て、大尉進級後の1912年(大正元年)10月に航空術研究委員を命じられる。
米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12… 米川 琴翁(よねかわ きんおう、1883年(明治16年)12月25日 - 1969年(昭和44年)1月24日)は日本の岡山県高梁市出身の地歌筝曲家。娘は生田流家元の米川敏子。 幼時から弱視で異母兄である米川暉寿に箏を習った。15歳から斉藤芳之都に箏曲を師事した。1905年(明治38年)に上京し、小出といから三弦を学んだ。その後一時的に姫路で指導をしていたが、東京に戻り、1922年(大正11年)研箏会を創設し、自らが会長となって多数の弟子たちの育成に励んだ。1919年(大正8年)に13弦の低音箏などを開発した。1959年(昭和34年)に長男の米川親利に会長の座を譲り、琴翁と名乗った。ロシア文学者の米川正夫は弟。
安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12… 安藤 三郎(あんどう さぶろう、1883年(明治16年)12月24日 - 1963年(昭和38年)8月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 旧黒羽藩家老・安藤小次郎の長男として生れる。東京府立第四中学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。歩兵第66連隊付などを経て、1917年(大正6年)11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第66連隊中隊長、陸士教官、参謀本部員、中国政府招聘(北京陸軍大学校教官)、歩兵第40連隊付などを歴任し、1925年(大正14年)5月、航空兵科に転じ航空兵少佐となり下志津陸軍飛行学校教官に就任した。
吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - … 吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - 1963年7月20日)は、ドイツ文学者、随筆家。