光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12… 光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12日 - 1964年(昭和39年)5月14日)は、日本の病理学者、皮膚科医。生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。生前は「救癩の父」と崇められ、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動や「らい予防法」制定の中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物ともされる。贈正三位勲一等瑞宝章。 1876年(明治9年)1月12日、山口県佐波郡中関村(現・防府市)に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。
雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11… 雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11日 - 1922年3月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾(現・名古屋市)生まれ。弟子に山田正三、井上直三郎など。 ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。 「大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。 1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。
喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。
橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1… 橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1月7日 - 1947年(昭和22年)2月21日)は、日本の政治家。薬剤師、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1876年、徳島市東新町の薬舗「郡茂」の分家、橋本半太郎の長男として生まれる。 小学校を卒業後、大阪市内にある田辺製薬へ勤務し、その傍ら大阪薬学校(現在の大阪大学薬学部)に入学。1890年(明治23年)、14歳の若さで薬剤師試験に合格。後に東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進学し1894年(明治27年)7月に同校を修了する。 1904年(明治37年)、徳島市会議員に当選。その後、徳島薬業組合長・徳島市商店研究会長・徳島県薬剤師会長を歴任。
吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月… 吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月6日 - 1937年(昭和12年)10月10日)は、山口県出身の文部官僚。日本語学者。
加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日… 加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日 - 1971年(昭和46年)1月31日)は、明治から昭和を代表する禅僧。最初は曹洞宗であったが、臨済宗に転向した。しかし曹洞宗の4歳年下の沢木興道とは40年来、兄弟のような交わりであった。室号は是々庵。愛知県西加茂郡三好町(現・みよし市)の出身。世寿96歳。 1876年(明治9年)1月6日、愛知県西加茂郡三好町黒笹に、父加藤長蔵の三男(十人兄弟)として出生。名前は三治郎という。父親は、のちに名古屋に出て酒造業を営む。 1884年(明治17年)、実家では尋常小学校3年まで通った。そして名古屋市守山にある曹洞宗大永寺の小僧となる。僧名は徳成。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - … 沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - 1956年1月31日)は、日本の小説家、牧師。 和歌山県生まれ。明治学院神学部卒。宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童文学、通俗小説などにも作品を残す、異風の流行作家として知られた。 1876年1月5日、和歌山県日髙郡美山村に生まれる。1895年、和歌山師範学校に学び、川原河小学校(和歌山県)教師となり、この頃から小説等の創作活動を始める。22歳で龍神小学校(和歌山県)校長に就任。この間宣教師ジョン・バックスター・ヘールによりキリスト教に導かれた。1904年、上京し明治学院神学部に入学。1907年、新宮日本基督教会(和歌山県)牧師となる。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日… 小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日 - 1937年(昭和12年)1月20日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡大砂土村長。 埼玉県足立郡土呂村(のち北足立郡大砂土村大字土呂、現:さいたま市北区)で、大地主・小島宅十郎の息子として生まれる。1902年(明治35年)大日本実業会農学科を卒業。 明治法律学校で学んだが、郷里の茶業の衰退を憂いて退学し、帰郷して製茶職人の修業を行う。さらに特産地の宇治、静岡に遊歴して技術を磨き、帰郷して私立製茶伝習所を設立して茶業の振興を図った。その他、養鶏改良、米麦改良、甘藷栽培改良などにも尽力して、その普及を図り、埼玉県農会・群馬県農会・栃木県河内郡農会の嘱託講師、地方森林会議員、埼玉県茶業組合連合会議長などを務めた。
村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治… 村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治9年)1月1日 - 1957年(昭和32年)12月13日)は、日本の農業技術者、政治家。衆議院議員。旧姓・大道。 京都府何鹿郡吉美村(現綾部市)で大道嘉右衛門の二男として生まれる。1898年、大阪府立農学校を卒業。1899年、村上三郎兵衛の長女のへ の入夫となり村上に改姓した。 農事試験場技手、農事巡回教師兼農事試験場長、県立熊本農業学校教諭を経て、村上農園を設立しその経営を行った。その他、何鹿郡農会長、京都府農会副会長、帝国農会評議員、農地開発営団評議員、何鹿郡畜産同業組合長、同郡米穀同業組合長、同郡養蚕業組合長、京都府養蚕業組合連合会議員を務めた。
小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月… 小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月1日 - 1940年(昭和15年)12月28日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(2期)。旧姓は山川、旧名・真純。 三重県安濃郡津城下(現津市)で、山川真源の二男として生まれる。1902年(明治35年)8月、一志郡雲出村(現:津市)の先代・小林嘉平治の養子となり、1908年(明治41年)1月、家督を相続し嘉平治を襲名した。 1901年(明治34年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業する。真宗勧学院教授を経て、1911年(明治44年)三重県会議員に当選する。ほか、三重県農会特別議員、同評議員、津商業会議所顧問、県農会長などを歴任した。
嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日… 嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した。 1875年(明治8年)12月31日、大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる。その環境から、幼少より芸事を覚える。 満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ。
森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 -… 森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 - 1928年(昭和13年)1月3日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 在清国全権公使・森有礼の長男として生まれる。父の影響で「英気溌溂」なことも時代を送るが、父の死去に伴い1889年(明治22年)4月4日、子爵を襲爵。 学習院を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を優等で卒業し、恩賜の銀時計を授けられた。 1908年(明治41年)3月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 -… 江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 - 1939年12月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は北村。 和歌山県和歌山市生まれ。1889年、日蓮宗学林を卒業した。1891年12月に日蓮宗の僧侶である叔父の江羅日明の養子となる。1891年、日蓮宗宮谷大学林を卒業した。1895年、哲学館(現・東洋大学)を卒業する。その後は、京都で僧侶になる為の修行を積んだ。1907年に京華日報が創立すると記者となり、後に副社長となった。 1910年4月に京都市会議員に当選した。以後、1913年、1917年、1929年、1937年と5選を果たした。また、1915年9月には京都府会議員となった。
小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉1… 小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉12月24日 - 1936年〈昭和11年〉5月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。衆議院議員。 青森県東津軽郡幸畑村(筒井村、筒井町を経て、現在の青森市)に生まれる。函館中学校を卒業し、警官、陸奥日報記者を経て、日月新聞を主宰後、政治家に転身する。1905年(明治38年)東平内村長となり、1909年(明治42年)まで在職。1907年(明治40年)には東津軽郡会議員、同議長を経て、1915年(大正4年)東津軽郡選挙区から青森県会に立候補し当選し、再選後議長に就任した。 県議に3選後の1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第5区から政友本党所属で出馬し当選するが、選挙後の訴訟に敗れて失格した。
岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 19… 岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 1926年1月10日)は、明治・大正時代の日本の実業家。 郷純造の四男として東京府に生まれる。幼名(出生名)は郷 昌作(ごう しょうさく)。2歳で三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の養子となり、同時に岩崎豊弥と改名した。 東京府中学校(現・東京都立日比谷高等学校)卒業後1年志願兵として軍務に服した。兵役を終えた後は専ら英語を勉強した。1898年イギリスに渡りはじめロンドン大学に学んだ。翌1899年3月ケンブリッジ大学に入学しはじめ機械工学を学んだが、1901年同大学の法科に転じて法学・経済学・財政学を学んだ。1904年ケンブリッジ大学卒業後実務練習のためロンドンの会社に入社し諸般の事務を修習した。
穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月1… 穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月19日 - 1929年(昭和4年)1月3日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓は小野。 山梨県巨摩郡、のちの北巨摩郡旭村(現韮崎市)で、小野八左衛門の二男として生まれる。甲府市金手町の穴水嘉三郎の店に奉公し、1898年(明治31年)7月、嘉三郎の養子となる。米相場で失敗して破産した。 1901年(明治34年)横浜に移り米穀、肥料、食塩商を営む。1908年(明治41年)上京して富士製紙に入社し、実績を積み1918年(大正7年)専務取締役に就任した。製紙業に重要な電力に関心を向け、1921年(大正10年)北海道電燈(のち大日本電力)を設立して社長となる。
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。
小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 … 高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 - 1949年10月25日)は、日本の社会教育家、仏教学者、宗教家。東洋大学第12代学長。号は大圓。聖徳太子奉賛会理事を務め、『聖徳太子正伝』(明治書院)が天皇・皇后・皇太后・皇太子に献上されるなど、皇室とも深い関わりがあった。 1875年、新潟県中頸城郡竹直村(現在の上越市吉川区)生まれ。高田の興仁教校、西本願寺文学寮を経て1893年(明治26年)に上京して哲学館(後の東洋大学)に入学し、1896年(明治29年)卒業。井上円了の助手となり、『東洋哲学』の編集に従事する。その後『北國新聞』記者、京華尋常中学校講師を経て『中央公論』の評論を担当する。
三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13… 三井 高泰(みつい たかやす、1875年(明治8年)1月13日 - 1946年(昭和21年)12月15日)は、日本の実業家。芝浦製作所(現東芝)会長や、三井物産社長を務めた。別名・守之助。三井永坂町家7代当主。 東京出身。三井伊皿子家当主三井高生(1843-1914)の三男で、鳥居坂家(三井永坂町家)6代当主・三井高潔(三井篤次郎、三井物産社長)の養子。妻は住友家当主・住友友親の娘で住友友純養妹の楢光。三井高寛や三井高信は兄。横浜商業学校卒業。1899年三井物産船舶課(のちの三井船舶)課長。1904年芝浦製作所(現東芝)会長。1909年三井銀行取締役。1921年から三井物産社長を務めたが、池田成彬三井合名理事による改革で1934年に退任させられ、専門の役員と交代した。
奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 … 奥村 三樹之助(おくむら みきのすけ、1875年1月13日 - 1939年6月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1896年、東京法学院卒。横浜燃料、名古屋コークス、横浜石炭同業組合副組合長となる。 1915年の第12回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から無所属で立候補したが落選した。1917年の第13回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1919年に衆議院議員を辞職した。1939年死去。
佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月1… 佐々木 亀吉(ささき かめきち、1875年〈明治8年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉)は、日本の政治家、実業家。青森県北津軽郡五所川原町会議員。五所川原通運、木造合同運送各社長。佐々木銀行監査役。津軽鉄道社長、青森県議会議員佐々木啓二の祖父。 青森県北津軽郡五所川原町平井町の人。峰五郎の長男。初代佐々木嘉太郎の甥。分家する。 西北運送業界の先駆者。初代日通五所川原支店長。宗教は禅宗。趣味は謡曲。住所は青森県北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)… 長嶺 俊之助(ながみね しゅんのすけ、1875年(明治8年)1月12日 - 1945年(昭和20年)11月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1894年(明治27年)12月、士官候補生(8期)として陸軍に入る(原隊は歩兵第5連隊)。1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。 日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入された。
田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963… 田中 右橘(たなか うきつ、1875年1月8日 - 1963年12月22日)は、日本の元裁判官。東京控訴院長や大審院判事などを歴任し、八幡大学(現・九州国際大学)初代学長を務めた。従四位勲三等。族籍は鹿児島県士族。
五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 19… 五味 国太郎(ごみ くにたろう、1875年1月8日 - 1922年4月28日)は、日本の俳優である。 1875年(明治8年)1月8日、栃木県に生まれる。 東京に移り、1900年(明治33年)、満25歳のとき、新派の高田実が主宰する「高田実一座」に入座、東京・本郷座で多く出演した。 1908年(明治41年)に吉沢商店が目黒に開設したグラスステージをもつ映画スタジオ・吉沢商店目黒撮影所に、1910年(明治43年)ころから出演を始める。女形の木下吉之助と多くの作品で共演した。1912年(大正元年)、同社は他の3社と合併してトラスト日活を形成、翌1913年(大正2年)10月には日活向島撮影所を建設・開所し、目黒撮影所を閉鎖した。
井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 -… 井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 - 1963年(昭和38年)7月19日)は、日本の家政学者・教育家。日本女子大学校(現在の日本女子大学)初の女性校長(第4代、1931年11月 - 1946年11月)。 1875年(明治8年)1月6日、兵庫県氷上郡船城村(現・兵庫県丹波市)に生まれる。10歳で氷上郡各町村組合立氷上高等小学校に入学。在学中に裁縫の教師から「女に学問はいらないというのは古い考え方である。これからは女子も大いに勉強して国家に尽くす人にならなければいけない」と言われ、京都府立第一高等女学校を志す。 15歳で京都府立第一高等女学校に進学する。同校の寮で広岡浅子(明治・大正期に活躍した女性実業家)の娘・亀子と同室になった縁で、広岡家が営む大阪の豪商・加島屋久右衛門家にも出入りするようになる。
小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 194… 小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日)は、日本の医師、医学者。特に眼科学の分野で著名な人物である。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。 1889年(明治22年)長谷川泰の済生学舎(のちの日本医学校、日本医学専門学校を経て日本医科大学)に入門し、3年で医師免状を下付された。 さらに東京帝国大学の選科生として河本重次郎に学び、修了後は軍医として1894年(明治27年)には日清戦争、1905年(明治38年)には日露戦争に従軍。陸軍軍医学校教官、陸軍医務局御用掛となる。 その後は東京第一衛戍病院に勤務。その間、「小口病」として学会に認められた特異な眼病患の最初の研究が成された。
和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月… 和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月6日 - 1937年(昭和12年)3月5日)は、北アメリカ、アラスカ、カナダで著名なマッシャー(犬ぞり使い)。金鉱発掘やトレイル開拓、遭難船救助など行う。アラスカで行われる屋内マラソンランナーとしても三度の優勝を飾る。
河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 … 河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 - 1950年〈昭和25年〉12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村長。足柄肥料会社社長。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役。 副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣・防衛大臣、デジタル大臣などを歴任している衆議院議員、河野太郎は曽孫にあたる。
若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日… 若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日 - 昭和21年(1946年)9月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員。東京府平民。位階および勲等は従三位・勲二等。 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 兵庫県城崎郡豊岡町(現在の豊岡市)の西楽寺に、熊本県人で僧侶である若宮正海の三男として生まれる。 開成中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し、同年12月、逓信省に入り逓信属・管船局勤務となる。また、兄正音の養子となる。 1902年(明治35年)家督を相続する。 北海道逓信局長、北部逓信局長、管船局長兼高等海員審判所長、戦時船舶管理局長などを歴任。
國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1… 國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1932年2月17日)は、徳島県美馬市出身で小野川部屋、草風部屋(京都相撲)、入間川部屋に所属した力士。本名は山本 宇八。8代待乳山、7代稲川。165cm、88kg。最高位は東前頭18枚目(ただし、番付外幕尻格)。 大坂相撲、京都相撲に在籍し、京都相撲では史上最後の大関となった。その後39歳で東上し1914年5月幕尻格で初土俵入幕。それ以後は十両、幕下で過ごし、1919年1月に引退して待乳山を襲名、のち稲川に変更し、出羽海部屋で指導した。 日ノ出松→國岩→國ヶ岩
木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日… 木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。 1875年、元東与賀村助役木下善次の長男として生まれる。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校に8期生として入校。成績優秀で所謂「恩賜の銀時計」組であった。日露戦争に従軍し、遼陽会戦にて負傷し前線を離れた。戦後は陸軍大学校に学び(陸大18期)ここでも銀時計組となった。 その後は歩兵第56連隊長、第2師団参謀長、歩兵第29旅団長を経て1925年(大正14年)旅順要塞司令官に着任。軍事に加え遼東半島の軍政を司った。
竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月… 竹内 佐太郎(たけうち さたろう、1875年(明治8年)1月3日 - 1966年(昭和41年)12月6日)は、日本の裁判官、検事。 富山県下新川郡入善町出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。浦和地方裁判所判事、東京区裁判所判事、長野区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、和歌山地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任。その後、台湾総督府法院に転じ、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1935年(昭和10年)、広島控訴院検事長となった。1937年(昭和12年)に退官した後は弁護士を開業した。
石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日… 石井 常造(いしい つねぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、生気研究者。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将で、また生気自強療法を唱え生気の医療への応用を図った。従四位勳三等功四級。
登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月… 登坂 又蔵(のぼりさか またぞう、1875年(明治8年)1月2日 - 1944年(昭和19年)3月4日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。山形県米沢市長。 現在の山形県米沢市に生まれる。1897年(明治30年)京都市染織学校訓導を拝命し、1899年(明治32年)退職したのち、1905年(明治38年)東京高等工業学校染織科選科を卒業する。米沢義社取締役、奥羽電気常務取締役を経て、1915年(大正4年)9月、山形県会議員に当選し以来6期務めた。その間、米沢市会議員、同副議長、同議長を歴任。ついで1929年(昭和4年)3月、米沢市長に就任したのち、1933年(昭和8年)11月、山形県会議員に再選した。
沈 鈞儒(しん きんじゅ、1875年1月2日〈同治13年11… 沈 鈞儒(しん きんじゅ、1875年1月2日〈同治13年11月25日〉 - 1963年6月1日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家。立憲派・政学系の政治家で、日中間で武力衝突が勃発すると抗日運動を展開した。そのために蔣介石の弾圧を受けた「七君子」の1人としても著名である。中華人民共和国では初代最高人民法院院長となった。字は秉甫。号は衡山。祖籍は浙江省嘉興府嘉興県。 祖父は蘇州知府、叔父は陝西学政使、父は候補知県という地方官吏の家庭に生まれる。沈鈞儒は幼年で旧学に親しんだが、後に変法派の思想へ傾いた。1900年(光緒26年)、父が死去したため西安に赴き、叔父の下で文書係を務めた。1903年(光緒29年)、挙人となり、翌年、進士となっている。
加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2… 加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2日 - 1932年(昭和7年)11月24日)は、静岡県出身の日本の俳人。別号に清白之舎、千里坊など。本名は孫平。 1875年(明治8年)静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。静岡師範学校(現在の静岡大学)在学中に俳句を始め、正岡子規に入門。高浜虚子、河東碧梧桐とともに、早くから子規門となった若手俳人として注目される。また静岡師範学校の仲間を中心に俳誌『芙蓉』を主宰、同誌を発行する「芙蓉会」は松島十湖、藤田紫亭、渥美渓月、久保田九品太らが集い、静岡における日本派の拠点となった。 静岡師範卒業後、教員となった後も俳句を続けたが、子規亡き後は次第に自由律俳句に傾倒。
児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 -… 児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 - 1900年7月4日)は、日本の明治時代の外交官。父は大審院長を務めた児島惟謙。 1875年(明治8年)1月1日に児島惟謙の長男として東京府神田に生まれる。1881年(明治14年)に錦華小学校(現千代田区立お茶の水小学校)に入学するが、1883年(明治16年)に父が大阪控訴院長となったことから、大阪師範学校(現大阪教育大学)附属小学校に転じる。 同志社普通学校(現同志社中学校・高等学校)を経て、1891年(明治24年)に東京に戻り、商工中学校(現日本大学第三中学校・高等学校)を経て、高等商業学校(現一橋大学)に進学し、1894年(明治27年)に卒業。
久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月2… 久保 猪之吉(くぼ いのきち、1874年(明治7年)12月26日 - 1939年(昭和14年)11月12日)は、日本の医学者・歌人・俳人。医学博士。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学、現・九州大学)教授。 明治7年12月26日、陸奥国二本松藩の藩士久保常保の子として現在の福島県二本松市に生まれる。戊辰戦争の当時、猪之吉は6歳、実兄たちは、二本松藩士久保長一郎常保(父親と同名のため父親と誤認されるが、実兄である)、二本松少年隊の久保鉄次郎13歳と久保豊三郎12歳として知られる。猪之吉は兄の豊三郎と共に二本松の戦いに参加したいと母親に懇願したが、懐妊中の母は猪之吉を無言で抱き締めていたと伝わる。
森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1… 森 三之助(もり さんのすけ、1874年12月25日 - 1940年6月9日)は、日本の俳優である。本名は森 三吉(もり さんきち)、ニックネームは森三(もりさん)。 1874年(明治7年)12月25日、神奈川県横浜市中区初音町の海産物問屋森寅に、長男の「森三吉」として生まれる。 長じて、旧制・横浜商業学校(現在の横浜市立横浜商業高等学校)を卒業する。 1894年(明治27年)、川上音二郎の「川上音二郎一座」に入座、初舞台は横浜の港座であった。1902年(明治35年)、満27歳のときに独立し、「新演劇森三之助一座」を結成する。人気を得て、ファンやジャーナリズムから「森三」との愛称をいただく。 のち東京へ進出、1911年(明治44年)には、目黒にあった吉沢商店の撮影所で黎明期のサイレント映画に出演した。
住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12… 住田 寅次郎(すみだ とらじろう、明治7年(1874年)12月25日 - 昭和2年(1927年)11月25日)は、日本の実業家、政治家。米子商工会副会頭、米子町会議員、郡会議員。 漫画家水木しげる(本名武良茂)の大叔父。父は住田呉服店の主人で米子町長をつとめた住田善平。 米子東倉吉町の商家に生れた。家業は呉服商。 1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、法学士。 後には転じて製パンを志し、世上これを“学士パン”と呼んだ。 明治40年(1907年)9月、町会議員に当選。学務委員、角盤学校組合議員其の他各種の名誉職を兼ねた。 住田寅次郎は1902年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 19… 和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年 - 1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。 1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。 3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19… 常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年1月19日 - 1922年6月19日)は、茨城県東茨城郡(のちの水戸市)出身の大相撲力士。第19代横綱。本名は市毛 谷右衛門(いちげ たにえもん)。 大相撲を「国技」に押し上げ、その品格力量から角聖と呼ばれた。出羽ノ海部屋師匠として3横綱4大関など多くの力士を育て、出羽海一門を角界の保守本流として確立したほか、ちゃんこ鍋や後援会などの風習を始めたとされる。 1874年(明治7年)、旧水戸藩士だった市毛高成の長男として水戸の宝鏡院の門前に生まれる。市毛高成は明治維新後に河川運送業と倉庫業を営んだが、荷主から預かった商品を騙し取られ、責任を一身に負って弁償してからは経営が悪化して両方とも倒産してしまった。
森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明… 森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明治7年〉1月18日 - 1938年〈昭和13年〉4月12日)は、日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。 高知県野市町(現・香南市)生まれ。号は形外。 高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。 1919年(大正8年)、妻の久亥の助けを借りながら、自宅を利用して神経症の入院療法を開始する。
賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月… 賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月16日 - 1949年〈昭和24年〉4月6日)は、日本の農商務官僚、実業家。台湾総督府総務長官。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町佐田)で、佐田賀来氏一族の賀来重八郎の長男として生まれ、親戚の賀来熊次郎(本名は惟達、『大神系譜』の著者)の養子となる。第五高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、農商務省に入り、鉱山局属となる。 1900年(明治33年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。東京鉱山監督署で鉱山監督官として勤務。1903年(明治36年)9月、台湾総督府に転じ、同年10月、民政部通信局庶務課長に就任。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)… 岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年(明治7年)1月14日 - 1942年(昭和17年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。自転車輸入商、相模鉄道社長。衆議院議員(通算6期)。 神奈川県横浜市相生町で、米屋・岡崎安之助の長男として生まれる。10歳で家出し上京、漢学塾の書生となり、1889年に高等商業学校(現一橋大学)に入学、同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)などがいた。1895年に卒業後三井物産に入り、取引先のアメリカ人に同行して渡米、一年余欧米を視察し、帰国の船中で徳富蘇峰と知り合う。三井に戻り結婚ののち、独立し京橋に日米商店(のち日米富士自転車)を開く。1898年よりたびたび海外へ視察に向かい、主要メーカーと特約を結び、大阪にも支店を持つなど成功する。