林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年… 林 元俊(はやし げんしゅん、1861年3月30日(万延2年2月20日)- 1904年(明治37年)10月31日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 琉球国薩摩藩領大島郡花徳村(鹿児島県大島郡花徳村、天城村、東天城村を経て現徳之島町花徳)で生まれた。今藤勇に師事し、漢学、数学を修めた。 経済界では、1896年(明治29年)1月、大阪第七十九国立銀行取締役に就任。以後、同行大島支店主任、鹿児島県農工銀行設立委員、大島興業社長を務めた。 政界では、1889年(明治22年)1月、大島郡第19学区学事委員に就任。同年7月、大島郡山村外五ヶ村戸長となる。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(鹿児島県第7区、無所属)で当選し、その後立憲政友会に所属して、衆議員議員に1期在任した。
都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年… 都筑 馨六(つづき けいろく、1861年3月27日〈万延2年2月17日〉- 1923年〈大正12年〉7月6日)は、日本の官僚、外交官、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、法学博士、男爵。位階は正二位、勲等は勲一等。都築と表記される場合がある。 上野国高崎藩稲荷台(現:群馬県高崎市)の名主・藤井安右衛門(のち安治)の二男として生まれる。満1歳を迎える前に西条藩士・都筑侗忠の養子となり、渋谷の藩邸で暮らすこととなった。幼少期から同藩士・阿曽沼正六綱義に素読の教えを受け、10歳のときからは芝新堀町の千村塾に通った。さらに横浜の修文館、カロザースの築地大学校で学ぶ。15歳のときに東京開成学校へ入学。1881年(明治14年)7月、旧東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業した。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(186… 野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、郡会議員、町会議員。中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。 元米子市長野坂寛治の父。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。 地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。 明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。 明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。
宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元… 宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1938年(昭和13年)10月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。 宇田家は香宗我部氏の重臣の末裔で、代々家老職を務めた名家。江戸時代に香宗の城下より故郷の岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)に戻った。岸本浦にて半農半漁の生活を営んだのち、江戸時代後期頃に「増田屋」の屋号を名乗るようになった。 2代宇田長蔵、久満子の二男として土佐国香美郡岸本に生まれる。1866年(慶応2年)村の寺子屋である柳瀬塾へ入り、柳瀬清治(別名近森孝策)に学ぶ。当時、「大鼻水垂れ」とのあだ名で塾中の評判となり、読書よりも習字を好む少年だった。
斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年… 斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1928年(昭和3年)3月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(8期)、ジャーナリスト、勲四等旭日小綬章。 武蔵国(現在の埼玉県羽生市喜右衛門新田)に斎藤喜右衛門の長男として生まれる。埼玉中学を経て大学予備門に入学するが中退。その後慶應義塾に入って政治経済を学び、自由民権運動に参加し、自由党に加盟。 1885年(明治18年)に埼玉県会議員改選に当選し、矢部忠右衛門・堀越寛介らと「埼玉倶楽部」を結成。県会議員を辞任し、1890年(明治23年)に大同協和会の結成に参画。秩父暴動の暴動で放免、その後再選し、東京倶楽部の設立委員。
工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4… 工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4月15日) - 大正14年(1925年)7月19日)は、青森市初代市長。港湾、水道、中央停車場(現:青森駅)など青森市の振興に取り組んだ政治家として知られる。衆議院選挙には2度当選。政財界の巨頭でもあった。合浦公園には彼を偲んで「工藤卓爾君彰徳碑」が建てられている。孫には第26~29代青森市長の工藤正がいる。
清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延… 清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延元年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(青物商、乾物砂糖商)、資産家、実業家。池田実業銀行頭取。北摂信託副社長。摂池銀行、池田実業銀行、池田製氷各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・清瀧徳兵衛の長男。1883年、家督を相続する。青物商や、乾物砂糖商を営み、傍ら池田実業銀行頭取のほか会社重役であった。大阪府在籍で、住所は豊能郡池田町(現池田市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年… 平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年3月22日〉 - 1933年〈昭和8年〉2月14日)は、日本の牧師。 万延元年(1860年)3月22日、青森県弘前城下に生まれる。明治8年(1875年)に朝陽小学校、明治12年(1879年)に東奥義塾を卒業し、明治12年(1879年)に耕教学舎(後の青山学院大学)に入学する。同年9月に横浜神学校に転校し、明治16年(1883年)に卒業する。 明治15年(1882年)に美以教会(メソジスト派)の伝道師になる。明治20年(1887年)に按手礼を受けて、牧師になる。 明治21年(1888年)に東京英和学校を卒業し、神田、飯田、松本、四谷の美以教会を歴任する。
岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延… 岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延元年3月19日)- 1942年(昭和17年)11月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。 播磨国飾東郡八重畑村(兵庫県飾東郡谷内村、飾磨郡谷内村、飾東村を経て現姫路市飾東町)で、代々農業を営む家に生まれた。普通学を修めた。 1880年(明治13年)小学校教員となり8年間在任。1888年(明治21年)兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。その他、徴兵参事員、旅団徴兵参事員なども務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第7区、進歩党)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(兵庫県第7区、憲政本党)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月… 高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。 衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任した。 1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。文学部の授業では外山正一、中村敬宇、信夫恕軒の授業に感化され、黒川真頼の授業が一番役に立ったという。
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(186… 山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。 武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。 1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。
大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年… 大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年3月12日〉 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋・大竹英治の六男として生まれる。若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ。1873年、新潟学校に入り、1874年に官立新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが、1876年8月に中退した。 1880年、中之島村会議員に就任(1912年まで在任)。南蒲原郡会議員、新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水路工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した。
山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月… 山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月11日) - 1939年(昭和14年)1月9日)は、明治から昭和初期にかけての日本の鉱山学者、実業家。大久保利世の孫、大久保利通の甥。 薩摩藩士の山田有庸とスマ(大久保利世三女)の次男として鹿児島城下で生まれる。 1874年に上京し、伯父の大久保利通宅に寄宿。東京英語学校に入学する。1877年に大学予備門、1885年に旧東京大学を卒業し、理学士を授与される。 1886年、正八位となる。翌年依願免官後、ドイツへ留学。1889年の帰国後、大島高任の娘である大島ヒサと結婚。 1894年に帝国大学工科教授に就任。1897年、三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社し、同年5月に分家する。
5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次… 5代上野 松次郎(うえの まつじろう、旧姓・鵜月、前名・豊次郎、1860年3月31日〈万延元年3月10日〉 - 1939年〈昭和14年〉11月27日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、栃木県多額納税者、資産家、実業家、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は栃木県平民。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)生まれ。鵜月庄蔵の二男。鵜月庄三郎の弟。1883年、栃木県宇都宮の上野家の4代目松次郎の長女タミと結婚し、養子となり、1889年、上野家の家督を相続した。 五代目松次郎として家業の肥料商を営み、また肥料問屋として業界で重きをなした。また銀行会社の重役だった。宇都宮商工会議所初代会頭、宇都宮銀行、下野中央銀行各頭取、下野製紙、宇都宮瓦斯、上野松次郎商店各代表取締役などをつとめた。
平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万… 平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万延元年3月8日〉 - 1923年〈大正12年〉12月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。兵庫県平民。 内務官僚・平岡定太郎の兄。定太郎の孫に作家・三島由紀夫、外交官・平岡千之がいる。 万延元年(1860年)、播磨国印南郡志方村上富木(現在の兵庫県加古川市)の農家に生まれた。父・太吉と、母・つるの長男。 15歳まで、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学ぶ。ここでは忠君愛国の講話が行われた。萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進んだ。 上京し、明治14年(1881年)明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、明治16年(1883年)卒業、更に専修学校(現在の専修大学)を卒業。
唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延… 唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延元年3月5日)- 1905年(明治38年)1月2日)は、明治期の林業家、政治家。衆議院議員。旧姓・五十嵐。 陸奥国耶麻郡早稲谷村(福島県耶麻郡山都町を経て現:喜多方市山都町早稲谷)の五十嵐家に生まれ、同郡朝倉村(現:喜多方市)、唐橋茂久の養子となる。漢学を修めた。 政界では、朝倉村会議員、山都村・相川村などの組合村長を務め、1894年(明治27年)、耶麻郡会議員、同議長に就任。1897年(明治30年)から福島県会議員に3期在任し、同参事会員も務めた。 産業界では、植林を奨励し、国有森林原野下戻しに尽力した。また岩越鉄道の敷設にも尽くした。
関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3… 関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の国文学者。 1869年、江戸日本橋茅場町に関根只誠の長男として生まれる。幼名を又三郎、直三郎。正直と名乗ったのは中村正直に倣ってのことである。 東京大学で小中村清矩、黒川真頼に国学を学ぶ。同級生に落合直文、池辺義象があった。1886年、大学卒業、1888年、華族女学校助教、ついで学習院教授、女子高等師範学校教授として教鞭をとった。1909年、文学博士を授けられ、1917年、宮内省御用掛、1926年、講書始に国書を進講する。1928年、帝国学士院会員。1932年、心臓病のため死去。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年… 小山 吉郎(こやま きちろう、1860年3月22日(安政7年3月1日) - 1929年(昭和4年)2月26日)は、明治期から昭和期にかけての大日本帝国海軍の造船技師。海軍造船総監を務め、最終階級は海軍造船少将。 兄は画家の小山正太郎。 越後長岡藩士・小山良運の二男に生まれる。長岡洋学校を経て、工部大学校造船学科を1883年(明治16年)に卒業した。1884年、小野浜造船所に入り、[要出典]1888年に海軍大技士となる。1890年、呉鎮守府造船部製造科主幹となる[要出典]。1891年に従七位に叙せられる。 1896年に造船監督官となり、ドイツ帝国に留学して造船学を学ぶ。 1898年に正六位に叙せられた。
南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859… 南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859年4月18日) - 1936年8月9日)は、日本の農学者。農学博士。北海道帝国大学名誉教授で、北海道帝国大学総長。肥前国大村(現・長崎県大村市)出身。 肥前国大村藩の藩士南仁兵衛の次男として出生し、幼名を久作といった。伯母の嫁ぎ先であった末松家の養子に入ったが、実兄邦蔵が病弱なため実家に戻った。9歳になって藩校五教館に学んだのち、14歳で半ば出奔するような形で長崎の広運学校に移り、2年後には上京して工学寮(のち工部大学校、現在の東京大学工学部の前身)小学校(予科に相当)へ入学した。1877年(明治10年)4月に工部大学校に入学したが、この年より定員の半数のみが官費生となってその選に漏れたこともあり、9月より札幌農学校(現在の北海道大学)の第2期生となる。
浅尾 長慶(あさお ながよし、安政6年3月14日(1859年… 浅尾 長慶(あさお ながよし、安政6年3月14日(1859年4月16日) - 大正15年(1926年)7月17日)は、衆議院議員、山梨県の名望家。 山梨英和女学校の設立者の1人。甲府教会の教会員。 甲斐国山梨郡中小河原村(山梨県西山梨郡住吉村を経て現甲府市中小河原町)に父「長右衛門(長栄)」、母「世以」の長男として生まれる。明治11年(1878年)に同志とともに甲府緑町に英学義塾を開設し英学の普及を図った。明治15年(1882年)には野口英夫、三枝七内らとともに立憲保守党を結成し山梨県内の民権派に対抗した。明治18年(1885年)12月から明治25年(1892年)まで山梨県会議員を務めた後、明治25年(1892年)2月の第2回衆議院議員総選挙に山梨県第一区(甲府市、西山梨郡、中巨摩郡、北巨摩郡)から立候補し衆議院議員に当選。
清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政… 清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政6年3月12日〉 - 1926年9月2日)は、明治から大正時代に活躍した英学者、教育者。旧姓、中川。幼名、佳之助。同志社英学校(現・同志社大学)や、大阪・英和学舎(現・立教大学)を始め、多くの学校で教授を務め、第五高等学校(現:熊本大学)では夏目漱石の後任となった。英文学者として、日本英文学会を創設し、日本における英文学の発展に貢献した。 1859年(旧暦安政6年3月12日)に中川進之丞玄佳の二男として大阪市東区安土町にて生まれる。幼名を佳之助と称し、家は代々儒者にして医者を業としていた。 1870年(明治3年)、10才の頃に、当時の日本では開国の思想が大きく国内に勃興し、四民平等の精神が発展していく最中、その主旨に感動し、籍を平民に移すことを決心し、その年の12月に清水姓となり、名を泰次郎と改めた。
松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(18… 松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(1859年4月13日) - 大正14年(1925年)10月29日)は、日本の教育者。宮中顧問官。
本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年… 本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年3月10日) - 1928年(昭和3年)12月27日)は、日本の剣術家、政治家。流派は本間念流。称号は大日本武徳会剣道範士。衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡赤堀村(現・群馬県伊勢崎市)の本間千五郎の三男。家伝の念流剣術(本間念流)を修行する。 明治時代に榊原鍵吉が撃剣興行で前橋を訪れ、その後榊原に入門。山岡鉄舟にも師事する。 1893年(明治26年)、警視庁の各警察署に撃剣試合を挑み、門奈正、内藤高治、佐々木正宜、夏目又之進、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛を連破する。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に当選。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年… 高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年3月7日) - 1915年(大正4年)5月29日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。 越後国頸城郡板倉村(現在の新潟県上越市)出身。板倉村会議員、中頸城郡会議員、新潟県会議員、同参事会員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立憲改進党系の高田新聞社社長を務め、上越電気株式会社取締役に選ばれた。
安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4… 安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4月5日) - 明治27年(1894年)2月16日)は、上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に尽力したことで知られる。 結城藩の休泊所(中宿)を営む安井家に生まれ、半蔵(はんぞう)と名付けられる。 1878年(明治11年)に20歳にして戸長となり、自らの屋敷を役場として政務を行う。 1886年(明治19年)に27歳にして鉄道計画に着手、150有余名の株主を募って総州鉄道を設立した。このとき名を理民に改める。 東京神田に総州鉄道創立事務所を設けて鉄道創設に尽力したものの、利根運河を優先する当時の千葉県知事 船越衛の反対にあった。
藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年… 藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。 1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。 東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年… 河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年3月1日) - 1935年(昭和10年)5月26日)は、日本の教育者、英文学者、翻訳家。日本で初めて原文からシェイクスピア劇を翻訳し、ロミオとジュリエットの翻訳「露妙樹利戯曲 春情浮世の夢」、ジュリアス・シーザーの翻訳「沙吉比亜戯曲羅馬盛衰鑑」を刊行するなど坪内逍遙と双璧をなした。教え子には元田作之進(立教大学初代学長)や杉村楚人冠(俳人、朝日新聞社記者)らがいる。 1859年4月3日(安政6年3月1日)、現在の和歌山県和歌山市に和歌山藩士河島喜八郎の長男として生まれる。幼児期より聡明で記憶力に富んでいたという。1869年(明治2年)11歳のときに紀州藩学習館の漢学寮に学ぶが、同時にこの学校に付属する「洋学寮」で英語とフランス語を学ぶ。
小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈185… 小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈1859年4月1日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月26日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の実業家・政治家である。長野県上田市の人物で、家業の鋳物製造業を営みつつ会社経営にも関わり上田温泉電軌(現・上田交通)初代社長を務めた。長野県会議員を務めた時期もある。 小島大治郎は、安政6年2月28日(新暦:1859年4月1日)、小島佐門太の長男として生まれた。出身は信濃国小県郡常入村(のちの長野県小県郡上田町、現・上田市)。小島家は代々勅許鋳物師として神社仏閣の御用をつとめてきた旧家であり、父・佐門太は幕末に生きた人物ということもあり上田藩・松代藩の大砲・銃器をも製作し名を知られた。
後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4… 後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4月19日) - 昭和4年(1929年)3月6日)は播磨国(兵庫県)生まれの実業家。後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者であり、明治から昭和初期にかけて活躍した。 播磨国揖東郡網干村(現・兵庫県姫路市)生まれ。明治8年(1875年)に清国公使として赴任した森有礼に随行し、北京で毛織染色法を学んだ。日本に帰国後、明治12年(1879年)本郷で小工場を設立しなめし革、毛糸紡績を行ったがこれは失敗し、じゅうたんなどの製造を始めた。明治13年(1880年)芝区白金台(現東京都港区)に民間としては日本初の毛織物工場である後藤毛織製造所を設立、明治25年(1892年)には大井町(現品川区)にも工場を進出させて生産基盤を強化し、日清戦争、日露戦争期には業績を躍進させた。
渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3… 渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3月5日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、日本の慈善家・女性活動家。名前は多満、玉子あるいは多満子とも。明治後期 - 昭和初期の横浜市において、多くの慈善事業団体の立ち上げや運営に関わった。正六位。 現在の群馬県碓氷郡松井田(現安中市)に、回送業を営む大河原太右衛門の次女として生まれる。大河原家は地元の名家であり、代々総社の神官を務めていた。 父太右衛門の兄新次郎は江戸の海産物商明石屋七代目渡辺治衛門に見込まれ、渡辺家の入り婿となり、八代目を襲名していた。太右衛門も明石屋との関係を深め、7代目明石屋治右衛門とともに開港にともなって、主に石炭を商うために出店した横浜の明石屋(明石屋平蔵商店、後に石福商店)の経営に当たった。
鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(… 鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(安政5年3月3日) - 1931年3月8日)は、明治時代の政治家。福島町(現福島市)町長、名誉市長、福島県会議員、衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。私財を投じて水道敷設事業や明治14年の福島大火(約1800戸焼失)の復興、福島市の駅前開発などに尽力した。また、福島県庁を郡山市に移転させるという動きがあった際には、福島市の代表として上京し陳情、移転を阻止した。再三の衆議院議員立候補要請を断り続け、晩年は廃寺を買い取って隠居。馬巌(ばがん)という俳号を持ち、風流に興じる一面も持っていた。 鐸木三郎兵衛は安政5年3月3日(1858年4月16日)、宮城県刈田郡白石本郷桜小路(現白石市)の金谷武功の次男・金谷正足として生まれた。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2… 西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2月17日)- 1903年(明治36年)3月30日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 肥前国彼杵郡矢上村(長崎県東彼杵郡矢上村、東長崎町を経て現長崎市)で牟田逸馬の二男として生まれる。1877年(明治10年)西村或之助の養子となる。漢籍を修めた。1877年(明治10年)長崎英語学校普通科を卒業。その後上京して、津田仙の学農社で学び、1880年(明治13年)に卒業した。1886年(明治19年)1月、家督を相続。農業、酒造業を営む。西村製糸場を経営し、諫早銀行頭取、矢上教育銀行監査役、大成社取締役なども務めた。
湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年… 湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治から昭和戦中期にかけての聖書学者・図書館学者・詩人。雅号の半月(はんげつ)で知られる。兄は衆議院議員を務めた湯浅治郎。同志社大学、国際基督教大学の総長を務めた湯浅八郎は甥(治郎の子)に当たる。 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて、味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の四男として生まれる。明治5年(1872年)、家業を継いだ兄・治郎が作った私立図書館「便覧舎」の設置を手伝い、後に同郷の新島襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。1877年(明治10年)に新島が京都に創設した同志社英学校に入学し、1885年(明治18年)に同校普通科ならびに神学科を卒業する。
和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(185… 和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(1858年3月29日) - 大正11年(1922年)5月16日)は、秋田県十和田湖開発の先駆者である。幼名は吉弥。 1858年、南部藩領陸奥国鹿角郡毛馬内村(現:秋田県鹿角市)に生まれた。和井内家は、南部藩重臣で毛馬内陣屋(柏崎新城)城代桜庭氏の筆頭家老職を代々務めていた。1866年、儒学者の泉沢恭助(修斉)の私塾に通った。1874年、毛馬内学校(現:鹿角市立十和田小学校)に助教員として採用され、1881年、工部省小坂鉱山寮に吏員として採用されて小坂鉱山に赴任する。1884年、十和田湖にはじめて鯉600尾を放流する。十和田湖への魚類放流は、貞行が6人目で、鯉の放流も3人目だった。
新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5… 新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5年2月12日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第5代)。 先代新関善八の長男としてのちの山形県山形市肴町に生まれ、高等商業学校(現一橋大学)に進学した。肴町出身の後輩に会計学者の鹿野清次郎がいた。山形県多額納税者に列し、山形商業会議所特別議員を務めた。ほか、山形市農会議員、山形県会議員、山形商業銀行監査役、山形市参事会員を歴任した。1906年(明治39年)12月、山形市長に就任。前市長の菱田義民に懲りた市会が土着のものからという基準で最適任者として市長の座に就いたが、誠実一点張りで市政の舵取りに不慣れなうえ、助役の木口市之助が事務の人でなかったため、助役二名説が議論された。
杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25… 杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25日 - 1936年)は、日本の教育者。 柳河藩納戸役杉森憲正の長男として、柳川奥州町に生まれる。妹のシカは杉森女紅会(現・福岡キャリアi高等学校)の創立者、日本郵船社長を務めた白仁武は従兄弟。 1874年熊本洋学校に入学、在学中はL.L.ジェーンズから英語を学んでいる。1877年柳河師範学校を経て、1884年東京一致英和学校(後の明治学院)高等普通学科を卒業し、英和予備校英文解釈教員となる。 1885年明治学院助教授、1890年同教授となり、1894年福岡県立尋常中学修猷館教諭、1896年茨城県尋常中学校教諭、1897年山口高等学校教授、1898年第四高等学校教授を経て、1902年新設された広島高等師範学校教授に就任。
小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政… 小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1936年(昭和11年)2月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県遠敷郡松永村長。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の長男として生まれた。1894年(明治27年)家督を相続した。漢学、算術を修めた。 1876年(明治9年)敦賀県属となり地租改正を担当し、滋賀県でも担って1881年(明治14年)に退官。若狭国敦賀郡人民総代となり復県の誓願を行う。福井県属となり勧業事務を担当し、養蚕、製糸、羽二重製造を奨励した。1890年(明治23年)農商務省に転じて大日本蚕糸会の設立に尽力し、同会幹事を務め、1894年(明治27年)に退官した。
友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7… 友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7日(1858年3月21日)- 大正14年(1925年)10月26日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、親和中学校・親和女子高等学校の基礎を築いた。摂津国八部郡東須磨村(現在の兵庫県神戸市須磨区)出身。 代々庄屋をつとめる大地主の豪農の家に生まれる。祖父甚左衛門は和漢の学に通じ、俳諧にも造詣が深かった。 8歳ごろから7歳年上の姉いわと一緒に村内の儒者であり医師でもある小松春徳の私塾に通った。祖父の影響を受けたのか晴子は学問好きになり、男子と一緒に実語教・童子教などの教科書をスラスラと読み上げたと伝えられている。
池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政… 池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政5年2月7日) - 1934年5月17日)は、能楽研究家。 伊予国松山(現・愛媛県松山市)で、松山藩の剣術監である池内信夫(荘四郎政忠)、リウ夫妻の3男として松山城下の長町新丁(現、港町4丁目)に生まれる。幼名、嘉源次、後に号を如水・如翠とした。6男の清は後年高浜家を継いだ(俳号虚子)。松山は能が盛んな所だった。 1869年(明治2年)旧浩久松家の東京移住に付き、献能の催しがあり、初めて能楽「安宅」の判官と 「皇帝」の子方を勤めた。能楽に足を踏み入れた発端であるという。 1874年(明治7年)秋、家禄奉還に伴い、父に従い、風早郡別府村大学柳原の町外れ字西の下に郷居し農業に従事する。
藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857… 藤岡 市助(ふじおか いちすけ、安政4年3月14日〈1857年4月8日〉 - 大正7年〈1918年〉3月5日)は、日本の工学者・実業家。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。日本に電気および電球灯を普及させた功績があり、「日本のエジソン」、「電力の父」と評される。 安政4年3月14日(1857年4月8日)、周防国岩国(現在の山口県岩国市)に生まれた。父は岩国藩士の藤岡喜介、母はウメであり、市助は長男だった。慶応元年(1865年)には岩国藩藩校の養老館に入った。 14歳だった1871年(明治4年)には新設された岩国兵学校に入学し、1872年(明治5年)には岩国英国語学所に移った。1873年(明治6年)には英語教師がいなくなったことで、しばらく藤岡が英語の授業を担当したという逸話もある。
須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安… 須藤 求馬(すどう もとめ/きゅうま、1857年4月2日〈安政4年3月8日〉- 1917年〈大正6年〉10月22日)は、日本の教育者。徳島県出身。漢文学などの教授として複数の師範学校で教鞭をとり、近代日本の人類学・考古学における研究にも参画し「北陸人類學會(北陸人類学会)」を創設した。名の読みは「きゅうま」とする資料もあるが「もとめ」が正しいと見られている。 徳島県美馬市穴吹町三島字三谷(旧阿波国美馬郡三島村大字三谷)にて、幕末期の安政4年3月8日(1857年4月2日)に生まれた。なお『日本考古学人物事典』での名前の読みは「きゅうま」となっているが、金沢大学の資料では「もとめ」が正しいとされる。
船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(… 船坂 与兵衛(與兵衛、ふなさか よへい、1857年4月1日(安政4年3月7日) - 1914年(大正3年)10月13日)は、明治時代の政治家。神職。殖産家。衆議院議員。本名・真楫(まかじ)、初名・永胤、通称・与兵衛、号:鉄壁・水松園・櫟園。 飛騨国吉城郡瓜巣村、のちの岐阜県吉城郡国府村(国府町を経て現高山市国府町)出身。漢学を修める。農業を営む。 学校世話役、国府村副戸長、小学校訓導、荒城神社祠官、学務委員、岐阜県会議員、吉城郡会議員を歴任した。ほか、国益社を創立し養蚕や植林事業に尽くした。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第7区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年… 村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年3月27日) - 昭和14年(1939年)4月11日)は、日本の政治家、キリスト教伝道者、社会事業家。 藩校成章館(現愛知県立成章高等学校)で伊藤鳳山から儒学を学ぶ。16歳で上京。東京外国語学校ロシア語学科に入学。レフ・メーチニコフの門下生となる。板垣退助の思想に影響を受け、帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎たちと「恒心社」を結成。 自由民権運動に加わり、私擬憲法「日本国憲法草案」を起草、愛岐日報に発表した。飯田事件により投獄されたが、1889年大赦により出獄した。 下宿先の娘きみと結婚後、1894年(明治27年)自由党から衆議院選挙に立候補するが落選。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。