長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - … 荒井 良平(あらい りょうへい、1901年10月22日 - 1980年10月22日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。 1901年(明治34年)10月22日、長野県上田市に生まれる。 長じて東京に移ったが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起き、焼け出されて大阪に移る。当時、日活大将軍撮影所の時代劇の原作募集に応募、入選した。これをきっかけに同所の池永浩久の面接を受けて、監督志望である旨を伝えたが、俳優研究生として同社に入社した。記録に残るもっとも早い時期の出演作は、1926年(大正15年)2月28日に公開された楠山律監督の現代劇『愛の貴公子』における「滝川耀子の父・義人」役で、満24歳にして宮部静子の父親役を演じた。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6… 兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6日 - 1969年(昭和44年)9月18日)日本の音楽家、教育者。バイオリニストで元東京芸術大学教授の兎束龍夫は実弟。 長野県上田市松尾町の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれる。1912年(大正元年)3月上田尋常小学校卒業。1919年(大正8年)3月旧制東京芝高輪中学校卒業、4月旧制青山学院入学。在学中に東京楽器研究所入所(山田耕筰主宰)セロ科3年修了。その後も山田耕筰のもとで学ぶ。東洋音楽学校(現東京音楽大学)中退。 1921年(大正10年)志願兵として高田輜重大隊入隊。1922年(大正11年)関東大震災で山田耕筰のオーケストラが解散となり上田へ帰郷。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治… 清水 逸平(しみず いっぺい / いつへい、1895年(明治28年)11月5日 - 1983年(昭和58年)2月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、狭山市名誉市民。入間川ゴム創業者。 1895年(明治28年)、長野県小県郡上田町(現:上田市)で生まれた。日本大学専門部法律科で学んだ。 東北銀行倉庫部支配人、大和ゴム製作所第二工場長、日本工業工場長、入間川ゴム取締役社長、新潟ゴム取締役社長、同会長、扶桑商事取締役会長、日本東部ゴム工業組合理事、日本ゴム工業組合連合会医療用品部長、東京鑑識化学研究所顧問、全国商工会連合会副会長などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区に民主自由党所属で出馬して当選。
林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年… 林 倭衛(はやし しずえ、1895年6月1日 - 1945年1月26日)は、大正から昭和にかけての日本の洋画家。浦和画家。 長野県小県郡上田町(現・上田市)の生まれ。父が製糸工場経営に失敗し、小学校に通い始めた倭衛と弟を実家の小林家に預けたまま東京に逃げたため、倭衛は小学校6年を終えてから上京し、15歳頃から書店や印刷会社に勤める。両親の他に弟3人と妹一人の生計を支えるために苦慮した。明治44年(1911年)4月から大下藤次郎が主宰する日本水彩画研究所の夜間部に入って絵の勉強を始め、丸山晩霞の指導を受けた。大正2年(1913年)7月から道路人夫として働きながら、サンジカリズム研究会に加わり、大杉栄ら無政府主義者と交流するようになる。
榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6… 榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6月28日 - 1974年〈昭和49年〉9月25日) は、日本の自動車実業家、自動車技術者。位階は正五位。 榊原はアート商会を創業し、後にアート金属工業へと改組し、同社をピストン製造の大手企業へと発展させた。本田技研工業の創業者である本田宗一郎の若い時分の雇い主だったことでも知られる。(→#本田宗一郎との関係) 榊原家は武士の家系で、上田藩領主の藤井松平家に出仕し、特に財務家としての能力を代々評価され、勘定方を拝命していた。しかし、明治維新に伴い失業し、榊原郁三の父である泰一郎は手先の器用さを活かして家具職人に転身して暮らしていた。 泰一郎は「これからの世の中、科学で身を立てるがよい」を口癖としており、子である榊原も子供の頃からまず木工に親しみ、小学生の時に木製の自転車を自作して村の人々を驚かせてしまうような子供だった。
久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23… 久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の造語者として有名。 芥川龍之介らと第三、四次「新思潮」同人となる。理知的な作風から、のち感傷的作風の通俗小説に転じた。作品に戯曲『牛乳屋の兄弟』(1914年)、小説『受験生の手記』(1918年)、『破船』(1922年)など。 永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。 長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は1898年(明治31年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。
斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - … 斎藤 源八(さいとう げんぱち、1888年12月26日 - 1970年5月6日)は戦前の日本ホーリネス教会(戦後の日本ホーリネス教団)の牧師である。 1888年(明治21年)に長野県小県郡西内村(現上田市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本聖公会上田教会に出席し、同教会で1907年(明治40年)に聖公会の洗礼を受ける。 1909年(明治42年)に上京し単立教会・本郷浅嘉町教会に出席する。そこで、初めて救いの確信を得る。その後、牧師になるため直接献身する。聖書学院に入学し、神学を学ぶ。 1916年(大正5年)に聖書学院を卒業し仙台福音伝道館の牧師に任命される。 その後、兵庫県武庫郡住吉村で開拓伝道をする。
滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年… 滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年)1月2日 - 1963年(昭和38年)1月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 滝沢忠三郎の長男として、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。1921年(大正10年)家督を相続する。1897年(明治30年)長野県小県蚕業学校卒業。 陸軍に入り、三等主計に進む。蚕業に従事し、1897年(明治30年)には弟の徳太郎とともに蚕種、蚕具販売店を開き、雑誌『蚕友』を発刊した。ほか、長野県蚕種検査員、上田蚕業講習所所長、上田新聞社取締役を歴任した。 1911年(明治44年)家業を整理し上京し、1926年(大正15年)本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京鋳物工業組合、日本鋳物工業組合各連合会理事長、可鍛鋳鉄滝沢工業取締役社長、東京鋳物研究所各理事長、日本鋳物工業会長、日本可鍛鋳鉄工業会理事長を歴任した。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 194… 小口 忠太(おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日)は、日本の医師、医学者。特に眼科学の分野で著名な人物である。 長野県小県郡上田町(現上田市)生まれ。 1889年(明治22年)長谷川泰の済生学舎(のちの日本医学校、日本医学専門学校を経て日本医科大学)に入門し、3年で医師免状を下付された。 さらに東京帝国大学の選科生として河本重次郎に学び、修了後は軍医として1894年(明治27年)には日清戦争、1905年(明治38年)には日露戦争に従軍。陸軍軍医学校教官、陸軍医務局御用掛となる。 その後は東京第一衛戍病院に勤務。その間、「小口病」として学会に認められた特異な眼病患の最初の研究が成された。
浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年1… 浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1950年(昭和25年))は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本。 信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業。1899年(明治32年)故郷の上田に開業。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年… 飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年11月2日) - 昭和6年(1931年)7月26日)は明治時代から昭和時代初期の日本の実業家。第十九国立銀行頭取。号は花月。 信濃国小県郡上田城下(現長野県上田市)の和泉家に生まれ、のち飯島家の養子となった。小学校を卒業して三等郵便局長となる。一時政治に関心を持ち、立憲改進党系の結社・己丑倶楽部に入って活躍。明治29年(1896年)小県郡上田町の収入役、明治32年(1899年)小県郡会議員となる。一方、諏訪倉庫や上田倉庫の取締役、上田商業会議所会頭などを歴任して経済界に腕を振るう。 大正8年(1919年)第十九国立銀行頭取に就任、昭和恐慌に際し、松代の第六十三国立銀行との合併による八十二銀行の創立に奔走したが、合併直前に腸チフスで急逝した。
細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文… 細川 吉次郎(ほそかわ きちじろう、1861年10月6日〈文久元年9月3日〉 - 1924年〈大正13年〉5月25日)は、明治から大正時代の政治家、蚕種業者。長野県小県郡城下村長、上田市長。 信濃国小県郡諏訪形村(現・上田市諏訪形)で吉兵衛の二男として生まれた。生家は代々庄屋を務め酒造業などを営んでいた。松平(しょうへい)学校を卒業。家業の酒造業から蚕種製造業に転じ、1873年(明治6年)上田初の製糸場を設立する。その後、蚕種製造のみとし小県郡蚕種検査所主事を務めた。ついで、1890年(明治23年)城下村会議員に選ばれ、1893年(明治26年)同村長に就任し、小学校の増築や高等科新設などに尽力した。
伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859… 伊藤 松宇(いとう しょうう、安政6年10月18日(1859年11月12日) - 昭和18年(1943年)3月25日)は俳人、古俳書収集家である。本名は半次郎、俳号は松宇・雪操居。 伊藤洗児の長男として、信濃国小県郡上丸子村(現長野県上田市)に生まれた。10代頃から俳句を作り、加部琴堂に師事する。1882年、家業の藍取引を通じて知遇を得た渋沢栄一に認められて、第一国立銀行横浜支店の調査職につき、王子製紙、渋沢倉庫などの渋沢財閥の幹部社員となった。1897年、静岡に転勤し、のちに東京に戻った。 旧来の宗匠の指導をうける句会の形にあきたらず、1890年、一高学寮舎監の片山桃雨、郵便局員の森猿男らと「椎の友社」を結成した。
小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈185… 小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈1859年4月1日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月26日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の実業家・政治家である。長野県上田市の人物で、家業の鋳物製造業を営みつつ会社経営にも関わり上田温泉電軌(現・上田交通)初代社長を務めた。長野県会議員を務めた時期もある。 小島大治郎は、安政6年2月28日(新暦:1859年4月1日)、小島佐門太の長男として生まれた。出身は信濃国小県郡常入村(のちの長野県小県郡上田町、現・上田市)。小島家は代々勅許鋳物師として神社仏閣の御用をつとめてきた旧家であり、父・佐門太は幕末に生きた人物ということもあり上田藩・松代藩の大砲・銃器をも製作し名を知られた。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2… 工藤 善助(くどう ぜんすけ、安政5年1月5日〈1858年2月18日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、明治から昭和戦前期にかけての日本の政治家・実業家。長野県小県郡丸子町(現・上田市)の人物で、政界では長野県会議員や衆議院議員(当選2回)などを歴任し、実業界では蚕種業・製糸業を営み銀行・鉄道会社にも関係した。 工藤善助は、安政5年1月5日(新暦:1858年2月18日)、信濃国小県郡上丸子村(後の小県郡丸子町、現・上田市)に工藤伝五郎の次男として生まれた。1874年(明治7年)12月に分家。1876年(明治9年)より宗家にならって蚕種の製造・販売業を始めた。蚕の繭を得る養蚕業ではなく蚕の卵(蚕卵紙)を製造・販売する蚕種業は幕末以降丸子地区で盛んであった。
正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(185… 正木 直太郎(まさき なおたろう、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和9年(1934年)4月20日)は日本の教育者。 信濃国上田藩士、正木六郎左衛門の長男として上田城下(長野県上田市)に生まれる。1864年藩校明倫堂に学ぶ。1874年上京して同人社で英学を学び、1882年東京師範学校中等科を卒業。1884年旧制郡立小県中学校(長野県上田高等学校)校長に就任、1886年長野師範学校教諭となり、1893年同校長に就任し、信濃教育会長も務める。1899年埼玉師範学校長、1901年香川師範学校長を歴任するが、教科書裁判に連座し休職となった(のちに無罪)。 1904年弘文学院教授、のち清国安慶高等師範学堂に招かれ、1913年帰国。
世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年1… 世良田 亮(せらた たすく、安政3年10月3日〈1856年10月31日〉- 明治33年〈1900年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。 海軍省主事、海軍省軍務局軍事課長、戦艦「富士」艦長、戦艦「三笠」回航委員長などの要職を歴任したが、現役の海軍少将のまま、満43歳の若さで病死した。 ※ 本節の出典は、特記ない限り、秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮。 信濃国・上田藩の上田城下に出生。父は、上田藩士で弓術師範を務めた山本義隆。幼名は山本源之丞で、廃藩の際に本姓に復し、世良田亮と名乗った。 世良田は神童の評判が高く、9歳の時から上田藩の藩校に学んだ。
南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(… 南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(1853年6月15日) - 昭和11年(1936年)5月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国小県郡別所村(現長野県上田市)生まれ。幼名は豊太郎。横浜開港に伴う養蚕業の隆盛により、蚕種の国内需要が増大したのを受けて蚕種製造業を始める。明治31年(1898年)から小県蚕種同業組合長を務めた。 明治12年(1879年)村戸長となり、自由民権運動に共鳴して嚶鳴社に参加し、同14年(1881年)大隈重信の知遇を得て、千曲川沿いの一帯に立憲改進党の支部を組織した。[翌年(1882年)長野県会議員となり、同22年(1889年)上田に改進党系の結社「已丑倶楽部」を結成して会長となった。
中島 精一(なかじま せいいち、嘉永元年(1848年)10月… 中島 精一(なかじま せいいち、嘉永元年(1848年)10月 – 1941年(昭和16年)3月9日)は明治時代の長野県の政治家、蚕種製造業者。名は直寿、号は菊堂。小県郡秋和村庄屋、長野県会議員、更級郡長兼埴科郡長、上水内郡長、小県郡長、東筑摩郡長、茨城県警部長。 嘉永元年(1848年)10月信濃国小県郡下塩尻村(長野県上田市下塩尻)に母袋忠右衛門康保と北村氏の子として生まれた。幼くして両親を喪い、秋和村(上田市秋和)庄屋中島林太郎直道の養子となった。明治元年(1868年)8月養父直道が病没し、庄屋職を継いだ。 明治2年(1869年)7月浅間で駅逓司制度の改良会議に参加したが、議論は捗らず、帰郷した。
佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日… 佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日(弘化3年3月7日)- 1909年(明治42年)5月23日)は、明治期の日本の政治家、蚕種業者。衆議院議員、初代長野市長。幼名は勝彦。号は柏堂、忠恕。 信濃国小県郡上塩尻村(長野県小県郡塩尻村を経て現上田市)で生まれた。和漢学を修めた。家業の蚕種業に従事し、1872年(明治5年)には上塩尻村の戸長となる。1875年(明治8年)蚕種製造業上田組を設立して頭取に就任し、東京蚕種会事務局議員兼幹事、東京蚕種取締所委員として蚕種の改良と輸出振興に尽力した。1886年(明治19年)には東京蚕種組合中央部長野県総代から長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、1896年(明治29年)信濃蚕種業組合長に就任するなど、一貫して蚕種業の発展に尽力した。
唐澤 昌子(からさわ まさこ、10月13日-)は、フリーアナ… 唐澤 昌子(からさわ まさこ、10月13日-)は、フリーアナウンサー、元長野放送アナウンサー。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
久保 貫太郎 は、日本の俳優、声優、ナレーター、ラジオパーソ… 久保 貫太郎 は、日本の俳優、声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ。長野県上田市出身。所属事務所はフクダ&Co.。クロムモリブデン (活動休止中) の劇団員。身長167cm、体重84kg(前後3kgぐらいは常に変動している)。血液型B型。愛称は「クボカン」
真田 アサミ は、日本の声優、舞台女優。長野県上田市出身。ア… 真田 アサミ は、日本の声優、舞台女優。長野県上田市出身。アミュレート所属。
宙花 こより(そらはな こより)(本名・小西あゆみ)は、日本… 宙花 こより(そらはな こより)(本名・小西あゆみ)は、日本の漫画家・イラストレーター。長野県上田市出身・在住。 主に4コマ漫画や児童向け漫画、少女のイラストを手がけている。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
寺島 惇太 は、日本の男性声優、歌手。長野県上田市出身。ケン… 寺島 惇太 は、日本の男性声優、歌手。長野県上田市出身。ケンユウオフィス所属。
関﨑 俊三(かんざき しゅんみ、6月22日 - )は、日本の… 関﨑 俊三(かんざき しゅんみ、6月22日 - )は、日本の漫画家。長野県上田市出身。筑波大学大学院芸術学研究科修士課程修了。 旧表記は﨑の字体が異なる関崎 俊三、デビュー時の名は唯野 俊三。 1996年1月、白泉社の第6回YA(『ヤングアニマル』)月例新人賞で投稿作『膳は急げ!』が佳作を受賞。この時のペンネームは、唯野俊三。その後も第10回、第16回で入選を果たし、1996年10月第16回入選作『豚が飛ぶとき』で『ヤングアニマル』本誌デビュー。 読者ページのイラストなどを描きながら、翌1997年に掲載2作目となる『NINE BALL BLUES』を発表し、この作品からペンネームを唯野俊三から関崎俊三に改称する。
河野 匡泰(こうの まさひろ、6月1日 - )は、日本の男性… 河野 匡泰(こうの まさひろ、6月1日 - )は、日本の男性俳優、声優。長野県出身。 アマチュア活動の際に使用していた芸名が現在の芸名になっている。 それ以前のプロ活動においては河野清人(こうの きよひと)を使用していたが、2008年より河野匡泰に改名。 文学座付属演劇研究所出身。以前は、劇団昴、ケッケコーポレーションに所属していた。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
小宮山 瑞季(こみやま みずき、1月16日 - )は、長野放… 小宮山 瑞季(こみやま みずき、1月16日 - )は、長野放送 (NBS) のアナウンサー。 長野県上田市出身。長野県上田染谷丘高等学校、大妻女子大学文学部英文学科(現・英語英文学科)卒業。 大学を卒業後、2014年4月に長野放送に入社。報道制作局制作部に配属され、同期の松山航大とともに同局のアナウンサーになる。2021年6月30日までは制作部に所属していたが、『NBSみんなの信州』のキャスターに就任するのに伴い、同年7月1日付で報道部へ異動した。 小学生の頃には放送委員会に所属していた。また、地元のケーブルテレビでリポートとアナウンスを担当したことがある。大学在学時にはフジテレビアナウンストレーニング講座アナトレにも通い、アナウンスの基礎を学び直した。
中澤 きみ子(なかざわ きみこ)は、日本のヴァイオリニスト。… 中澤 きみ子(なかざわ きみこ)は、日本のヴァイオリニスト。夫は「ヴァイオリンドクター」とも呼ばれる弦楽器製作家、修復家の中澤宗幸。中澤創太は子息。 長野県上田市出身。長野県上田染谷丘高等学校を経て、1973年(昭和48年)新潟大学教育学部卒業。大学卒業後オーストリアに渡り、ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院でレナート・デ・バルビエリ(イタリア語版)に師事した。2007年から2016年まで尚美学園大学客員教授。2017年から上野学園大学客員教授。
はっとりみどり(生年不明)は、日本のフェルト&クレイ作家。 … はっとりみどり(生年不明)は、日本のフェルト&クレイ作家。 長野県上田市出身。武蔵野美術大学彫刻学科卒業。1988年に株式会社サンリオに入社して、立体デザイナーとして勤務。サンリオ退社後、1992年にデザイン事務所 有限会社ポッシュベールを設立。 初めての手芸は小学校3年生の時で初めての作品はエコアンダリアのバッグ。 カルチャークラブなどでの羊毛フェルト・粘土のワークショップの講師も務める。 信州大学で造形実習の講師としてフェルト造形を教えている。 臨床美術士として、アートセラピー、障がい児造形教育にも携わる。
樋田 和彦(ひだ かずひこ)は、日本の漫画家。長野県上田市出… 樋田 和彦(ひだ かずひこ)は、日本の漫画家。長野県上田市出身。作品に『京四郎』などがある。 高校卒業後、長野県のレストランに就職するも、4年で退職。その後、浜岡賢次の2代目チーフアシスタントを務める傍ら、「週刊少年チャンピオン月例フレッシュまんが賞」で1992年に「フレッシュ賞」を2度獲得。第41回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」(1993年下期)に入選した「くそったれバカ野郎」が、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)1994年15号に掲載され、デビュー作となる。 浜岡プロを退社後、[要出典]27歳で『週刊少年チャンピオン』にて『京四郎』の連載を開始、5年に及ぶ長期連載となる。続いて『戦士は眠らない!?』を短期集中連載。