浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3… 浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。浜崎芳雄商店会長。鳥取生コン会長。鳥取振興開発社長。日本海テレビジョン放送監査役。鳥取市議会議長(31代)。 鳥取県鳥取市(旧青谷町)出身。1921年(大正10年)、銅鉄商・黒川明四郎商店に入社し、大阪市立実業学校商業簿記専修科を卒業する。1924年(大正13年)に神戸営業所支配人。 1931年(昭和6年)に退社し、銅鋼鉄商・浜崎芳雄商店を設立する。1964年(昭和39年)、株式に改組、社長となる。1960年(昭和35年)12月、鳥取市議会議長に就任する。 高額所得者である。宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、旅行、ゴルフ。
矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日… 矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。政治学博士。旧姓横山。 1902年11月9日、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官・矢部安男の養子となる。美穂小学校、旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学。1926年3月同大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師・小野塚喜平次博士に従って政治学者への道を進むこととなる。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 … 中谷 隼男(なかたに はやお、明治35年(1902年)1月 - 没年不明)は日本の医師。田園調布中央病院分院長。医学博士。日本外科学会。胸部外科学会評議員。 鳥取県八頭郡佐治村高山(現鳥取市佐治町)出身。農業・中谷龜治の二男。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小田 雪窓(おだ せっそう、1901年(明治34年)11月2… 小田 雪窓(おだ せっそう、1901年(明治34年)11月28日 - 1966年(昭和41年)9月17日)は、大正・昭和時代の日本の臨済宗の禅僧。大徳寺506世、大徳寺派第11代管長等を歴任した。本名は小田虎蔵。雪窓は道号で、法諱は宗甫。蔵暉室と号した。 1901年(明治34年)に鳥取県八頭郡河原町(現在の鳥取市河原町)で生まれる。1913年、鳥取・竜峯山広徳寺の第21世住持・杉原春窓(元令)の下で得度。 1921年(大正10年)に妙心寺に掛塔、瑞巌宗碩に師事し、法嗣となる。 1947年(昭和22年)、師の瑞巌が大徳寺派9代管長・大徳寺503世に就任すると、高齢を理由に雪窓を大徳僧堂の師家代参とした。
津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25… 津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25日 - 没年不明)は、鳥取県鳥取市出身の法学者。専攻分野は法哲学。法学博士。津田短期大学(1982年廃止)の学長・明治学院大学の教授も歴任した。著作も多数ある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月1… 徳安 実蔵(德安 實藏、とくやす じつぞう、1900年2月13日 – 1988年2月7日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(9期)、総理府総務長官・郵政大臣を歴任した。 鳥取県気高郡青谷町(現・鳥取市)に農家の三男として生まれる。幼くして両親とは死別する。青谷実業補習学校を卒業後、近所の住職と神主について2年間漢学を学んだ。『大阪新報』、『東京夕刊』記者、月刊誌『運輸』発行人を経て、芝区(現在の東京都港区)会議員を皮切りに政界入りする。芝区会議長、東京市議、港区議、同区議会議長を経て、1952年第26回衆議院議員総選挙に自由党から旧鳥取全県1区で立候補し初当選する。以後当選9回。東京市議時代から師事していた大野伴睦の派閥(大野派)に入り、大野の死去後は村上勇→水田三喜男派に所属した。
押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 194… 押本 映治(おしもと えいじ、1900年1月3日 - 1946年5月26日)は、日本の俳優である。本名は米村 俊民(よねむら としたみ)。芸名の表記は押本 英治、押本 暎治、押本 映二、押本 榮二と揺れがある。創立間もない松竹蒲田撮影所に所属した若手俳優で、大正末期までは冒険活劇のスターとして活躍、後年は日活多摩川撮影所、大映東京撮影所などであらゆる役柄をこなした名脇役として知られる。 1900年(明治33年)1月3日、鳥取県岩美郡富桑村(現在の同県鳥取市行徳、鳥取市行徳町は誤り)に生まれる。富桑尋常高等小学校(現在の鳥取市立富桑小学校)を経て、旧制鳥取県立鳥取中学校(後の旧制鳥取県立鳥取第一中学校、現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 19… 吉田 璋也(よしだ しょうや、1898年1月17日 - 1972年9月13日)は、日本の民藝運動家。医師。鳥取県鳥取市出身。 医学生時代より交流のあった柳宗悦の民藝運動に共感して活動。柳宗悦が見出した民藝の美を日常の生活の中に取り入れるため、1931年(昭和6年)新たな民藝品を作り出す活動を開始した。工種は陶芸・木工・家具・竹工・漆工・染織・金工・石工・和紙・建築等に及び、このような運動は全国各地でも起こりのちに新作民藝運動と呼ばれることになる。吉田は「民藝のプロデューサー」を自認し、「たくみ工芸店」(鳥取・東京)を開き民藝の普及に大きな足跡を残した。新作民藝のプロデューサーとして、企画・デザイン・生産・流通に関わり、また自らも多くのデザインを残しており、衣食住に渡る幅広いデザイナーとしての業績も大きい。
遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月1… 田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月10日 - 1935年(昭和10年)4月20日)は日本の小説家。本名は涌島コヨ(わくしまこよ)。鳥取県気高郡逢坂村(現在の鳥取市気高町)出身。大正初期より『女子文壇』、『文学世界』などに短歌や散文などを投稿。1915年(大正4年)、山陰日日新聞社へ入社し県下初の女性新聞記者になる。同年文芸誌『我等』同人となり雑誌や新聞に多くの作品を投稿し文学青年の崇拝を集める。若き女流作家として将来を期待されたが、持病のためその後は多くの作品を残すことはなかった。地元鳥取でも知名度は高くなかったが、2023年に米子市出身の作家・三上幸四郎の江戸川乱歩賞受賞作『蒼天の鳥』で、娘の田中千鳥とともに取り上げられ知られるようになった。
山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1… 山本 義章(やまもと よしあき、1896年10月5日 - 1961年9月26日)は、日本の内務官僚、弁護士。第32代京都府知事(最後の官選知事)、陸軍司政長官。 鳥取県鳥取市出身。山本吉太郎の長男。東京帝国大学法科卒業。 大阪市警察署長、北海道庁・兵庫県・警視庁各特高課長、大阪府工場課長、長野県書記官・警察部長、千葉県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、熊本県経済部長、秋田県書記官・総務部長、ジャカルタ州長官、京都府知事を歴任。その後、公職追放となる。 1946年弁護士を開業。追放解除後の1953年の第3回参議院議員通常選挙において出身地の鳥取地方区から緑風会公認で立候補したが落選した。
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月… 猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。鳥取県出身。戦艦「武蔵」艦長として戦死し、一階級特進で最終階級は海軍中将。 鳥取県気高郡賀露村(現・鳥取市)において大工棟梁・猪口鉄蔵の長男として生まれる。弟に猪口力平(海軍兵学校第52期)がいる。海軍内では兄は「猪口敏(チョコビン)」、弟は「猪口力(チョコリキ)」と区別する呼称もあった。旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校第30期を受験し双方に合格。海兵第46期へ入学。1918年(大正7年)11月、10番/124名(1番は山階宮武彦王、実質は9番)の成績で卒業。
松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - … 松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - 1940年代)は、日本の元俳優である。本名同じ。新派の川上貞奴一座からキャリアを開始、伊庭孝らの歌舞劇協会など、新派のみならず新劇・歌劇の諸劇団を組織して実演年数を重ね、映画界に転向後は帝国キネマ芦屋撮影所、日活太秦撮影所などで活躍した大スターとして知られる。 1895年(明治28年)12月21日、鳥取県鳥取市立川町に生まれる。『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)など、一部の資料によれば、生年月日は「明治二十八年一月三十一日」(1895年1月31日)である旨が記されている。また、『新映画年鑑』(豊國社)によれば、生年月日は「明治二十八年十月」(1895年10月)、出生地は「鳥羽市」(三重県鳥羽市)である旨が記されているが、誤植と思われる。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。
岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12… 岩仲 義治(いわなか よしはる、1892年(明治25年)12月3日 - 1947年(昭和22年)2月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鳥取県出身。鳥取中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第40連隊中隊長に就任した。 陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)12月から1928年(昭和3年)4月まで、陸軍自動車学校で甲種学生として学んだ。以後、歩兵第59連隊大隊長、歩兵学校教官、教育総監部課員、第8師団参謀、第7師団参謀、陸軍戦車学校教官などを務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進。
辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 19… 辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 1962年8月6日)は日本の小説家。鳥取県鳥取市出身。東京帝国大学法学部卒。本名、小堀竜二。別名に双竜子。 大学卒業後、十年以上のサラリーマン生活を経た後、1929年(昭和4年)懸賞小説として「青バスの女」を「新青年」に投稿、以後、作家となる。 その後は「モダン日本」「サンデー毎日」「スタイル」などに寄稿。主にユーモア小説の第一人者となった。1936年(昭和11年)には、佐々木邦らとともにユーモア作家倶楽部を結成、自ら世話人もつとめた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 19… 野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 1974年7月6日)は、日本の小説家・脚本家・連句人。本名は「ちかまさ」だが小さい頃から「あいせい」と呼ばれそれを筆名とした。 1891年(明治24年)8月21日、鳥取県法美郡大茅村大字楠城村(後の岩美郡国府町大字楠城、現在の鳥取市国府町楠城)生まれ。鳥取中学(現鳥取県立鳥取西高等学校)を病気のため中退し、鳥取新報社(新日本海新聞社の前身)に入社。1913年(大正2年)上京し文学の道に入る。有島武郎に師事し『新潮』『中央公論』などに小説を執筆。 1917年(大正6年)、27歳のときに大阪朝日新聞が本社落成記念として募集した懸賞小説に応募し、『明ゆく路』で一位を獲得した。
長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉… 長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉7月27日 - 1961年〈昭和36年〉1月10日)は、日本の実業家。三菱化工機社長。 鳥取県鳥取市出身。呉服太物商・長田幾蔵の長男。1915年、神戸高等商業学校を卒業。三菱合資に入社、三菱重工業に配属され長崎支店をふり出しに、本店営業第五部長、機械部長、三原車輛製作所長等を歴任して1946年12月に取締役に選任される。 1950年中日本重工業の取締役に転じて活躍中、偶々三菱化工機が潰れかかったので同社の再建に起用され、1952年1月同社に顧問で入り、翌2月社長に就任する。 1961年1月10日、突然脳出血を起こして東京都世田谷区上馬1丁目の自宅で逝去する。
井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭… 井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭和42年〈1967年〉)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 尾形月耕の門人で本名は宗市。耕宗と号す。鳥取県勝谷村今市(現在の鳥取市鹿野町今市)に井江藤三郎の子として生まれる。明治36年(1903年)、14歳のときに上京し月耕の内弟子となり、美人画や人物画を学んだ。月耕から風景、花木、鳥獣の写生をするよう勧められ、西日本各地を回る。昭和2年(1927年)から昭和5年にかけては朝鮮京城(現ソウル)に滞在し画家としての生活を送った。その後東京に帰ったが、再び朝鮮や中国、九州、鹿野など各地を漫遊しながら絵を描く。昭和30年(1955年)ごろ鹿野町に滞在し、絵筆を振るったのが画家生活の終わりであったといわれる。
西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月… 西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月 - 1971年(昭和46年)2月)は、日本の医師。倫理哲学者西晋一郎の弟。 鳥取県鳥取市出身。士族西昇蔵の二男。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、副手となって母校で研修し、その傍ら駒込病院に3年間勤務した。 1918年(大正7年)5月、新潟県吉田病院長として赴任した。 1926年(大正15年)5月、京都府綾部町の郡是製糸の郡是病院長となり、1948年(昭和23年)まで勤務した。
由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1… 由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1日 - 昭和33年(1958年)10月8日)は、日本の政治家、実業家。鳥取県多額納税者。鳥取市会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取電機製造社長。 鳥取市川端四丁目、鹿野街道の呉服商で地主の由谷喜八郎の長男に生まれる。油谷家は県内屈指の資産家。 旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校卒業。在校中に同級生の橋浦時雄らと社会主義グループを結成。早稲田大学中退。父・喜八郎が創業した運送業に従事。1912年家督を相続する。二十代はもっぱら運送屋の若主人として、厚司と前垂れ姿でよく働いた。 1919年(大正8年)5月に市会議員、9月に県会議員となり、1924年に第15回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選して以来、太平洋戦争終結まで政治家として活躍した。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひで… 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。 鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。 種田と並ぶ「自由律俳句の雄」。活動の場を荻原の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつし、貧窮のうちに病没した点でも共通している。 一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8… 村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8月31日 - 1953年(昭和28年))は、日本の官僚。枢密院書記官長、貴族院議員等を歴任した。
谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16… 谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1979年〈昭和54年〉11月21日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選2回)。鳥取銀行取締・相談役。 鳥取県岩美郡大路村(のち岩美郡米里村東大路、現・鳥取市東大路)の豪農の家に生まれた。谷口竫晃の長男。1902年、鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。農業を営む。 鳥取税務署管内所得調査委員、広島税務署監督局管内所得審査委員、鳥取県議、米里村議、岩美郡農会長、鳥取県農会議員となる。因伯産業社長、大正鳥取銀行取締役、鳥取新報社監査役、鳥取県米穀会副会長、鳥取銀行頭取、鳥取大丸取締役となる。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月… 西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。
本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) … 本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) - 昭和7年(1932年))は、日本の政治家。第34代鳥取県会議長。元鳥取県気高郡大和村長。農業。 鳥取県気高郡大和村横枕(現・鳥取市横枕)に生まれる。大和村長を務めた本城竹次郎の長男。 1895年、鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 1901年から農業技術員として鳥取・大分・群馬・新潟県下に勤務。 1919年に大和村長、1923年から鳥取県会議員となり、1932年に第34代鳥取県会議長に就任したが、2ヵ月足らずで任期中に死去。 民政党鳥取県支部幹事長、鳥取県一心会評議員も務めた。
北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 19… 北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 1950年1月23日)は、鳥取県(当時は島根県)高草郡三谷村(後の気高郡松保村大字桂見、現在の鳥取市桂見)出身の梨農家。鳥取での二十世紀梨の栽培・普及に尽力した篤農家である。 1904年(明治37年)、松戸覚之助から二十世紀梨の苗木を10本購入し、鳥取県に二十世紀梨をはじめて導入した。 二十世紀梨は換金作物としての魅力が高く、国内各地で生産され始めていた。北脇は「これを鳥取県に普及させて、農家の貧しさを救おう」との志を持ち、新聞広告等を通じて熱心に苗木の配布を行った。この熱い想いが、のちの「鳥取といえば二十世紀梨」の隆盛につながっていく。 当時、二十世紀梨は上品な香りと爽やかな酸味が受けて日本各地で栽培されていたが、黒斑病の大流行で栽培を断念する農家が続出。
佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月… 佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月28日 - 1965年〈昭和40年〉8月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学・行政法。学位は法学博士。貴族院勅選議員。京都大学名誉教授。立命館大学学長。京都市名誉市民。文化功労者、文化勲章受章者。贈正三位、贈勲一等瑞宝章(没時追贈)。 佐々木惣三郎の長男として現在の鳥取県鳥取市西町に生まれる。 1895年(明治28年)、旧制鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。現存している一年級と三年級の成績は、前者が次席、後者が首席である。 同年9月、旧制第四高等学校入学。一般家庭出身で学資に困っていた佐々木は、旧鳥取藩主池田家の奨学金や鳥取時代の友人からの援助を受けて高校に通った。
菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 … 菅 楯彦(すが たてひこ、明治11年(1878年)3月4日 - 昭和38年(1963年)9月4日)は、日本画家。鳥取県鳥取市出身。本名は藤太郎。号は、初め盛虎、のち静湖、静香。大阪美術会会員。大阪市名誉市民、倉吉市名誉市民。浪速の風俗を愛し「浪速御民(なにわみたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。 明治11年(1878年)、鳥取市で菅大治郎(画号・盛南)の長男として生まれる。本名は藤太郎。父は元倉吉藩士の日本画家であり、塩川文麟の門下で岸派を折衷したという。5歳頃まで、父母の郷里・倉吉で過ごす。陶器の絵付を指導する父と共に姫路、ついで赤穂へ転居。明治14年(1881年)、京都へ向かう途中大阪の身内に引き留められ、ここに住むことになる。
岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月1… 岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月16日 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は 、日本の作曲家 、教育者 、オルガニスト。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した。
鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - … 鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - 昭和10年(1935年))は日本の教育者。県下初等教育界の第一人者。 鳥取市に生まれる。鈴木惟孝の長男。 明治21年(1888年)、鳥取県尋常師範学校卒業(第1回生の首席)。米子角盤高等小学校訓導に破格の高給で採用されて話題となった。 明治27年(1894年)、西伯郡淀江町(現在の米子市)の善良高等小学校校長に転じ、明治33年(1900年)、再び角盤校に第2代校長として迎えられた。 角盤校では軍事訓練と質実剛健の校風で名を挙げた。 元鳥取県米子市長野坂寛治によると「先生は、久しく角盤高等小学校長として令名高かったが、後に懇請によって市立高等淑徳女学校長に転ぜられてその校風を樹立せられた。
下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日… 下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日 - 1939年(昭和14年)7月3日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。大正鳥取銀行監査役。鳥取新報社長。鳥取県平民。 元鳥取大学長下田光造、元参議院議員田中信義の兄。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現鳥取市河原町)出身。下田弥平の長男。 鳥取一中(現鳥取西高)に学び、また漢籍を林良造に学んだ。 1904年(明治37年)村会議員、1907年(明治40年)に八頭郡会議員、1911年(明治44年)鳥取県会議員となり、引き続き1920年(大正9年)まで3期当選した。この間佐貫村長も務めた。 1920年(大正9年)5月、原内閣のときの第14回衆議院議員総選挙では、憲政会に推されて鳥取県第2区から立候補して当選し、1期在任した。
中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月… 中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月 - 没年不明)は日本の農民、政治家。元鳥取県八頭郡佐治村会議員、八頭郡会議員。農業。 医師中谷隼男の父。孫恭子は精神医学者下田光造の養女。 鳥取県八頭郡佐治村高山・中谷貞次郎の二男。 因幡高等小学校に学び明治33年(1900年)中佐治村会議員に挙げられ三佐治合併以来今日迄引続き村会議員及学務委員に就任。 明治43年(1910年)八頭郡会議員となり八頭郡宅地地価修正委員等となり一期間就職し退職した。
柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1… 柏木 亀蔵(かしわぎ かめぞう、1875年4月13日 - 1955年6月19日)は、日本の大正から昭和時代前期にかけて活動した歌人、作詞家。鳥取県出身。 1875年(明治8年)、鳥取市藪片原町に生まれる。1896年(明治29年)に鳥取県尋常師範学校を卒業後、県内各地の小学校訓導を経て東京高等師範学校国文科へ入学し、1903年(明治36年)に卒業する。 旧制都城中学校で教諭を1年間務めた後、1904年(明治37年)に岐阜高等女学校へ転任。和歌や長詩を嗜み、1908年(明治41年)に文部省が懸賞募集した新体詩で第一部二等に入賞する。1915年(大正4年)11月に執り行われた大正天皇の御大典記念事業として京都市が歌詞を募集した「京都市歌」で応募作が二等に入賞したが、一等は「該当作なし」となったため柏木の応募作が採用となり、1951年(昭和26年)に現行の市歌へ代替わりするまで歌い継がれた。
石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7… 石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7年〉6月16日 - 没年不明)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村長。大御門村会議員。大御門信用組合監事。鳥取県園芸会評議員。八東園芸組合長。旧姓・山本。 鳥取県岩美郡倉田村円通寺(現・鳥取市)・山本粂七の二男。小学校卒業後、家業の農業に従事する。1909年、石破家入夫となる。 1913年、大御門村会議員となり1917年、満期退任後農業に従事する。傍ら果樹園を経営する。 1927年12月、大御門村長に就任し1929年4月、辞任する。 1912年に刊行された『五百円以上所有者地価表姓名録 因幡の巻』によると、石破の地価所有高は「513円96銭」である。
岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日… 岡田 機外(おかだ きがい、明治6年(1873年)5月15日 - 昭和24年(1949年)5月)は、日本の俳人。本名は鉄蔵。 鳥取県法美郡宇倍野村奥谷(現鳥取市国府町奥谷)に、秋田治三郎の二男として生まれる。 明治20年(1887年)、気多郡鷲峰村(現鳥取市鹿野町鷲峰)の岡田権九郎の養子となる。 明治21年(1888年)から俳句を始め、明治24年(1891年)に俳誌「鹿野苑」を創刊。明治25年(1892年)には上京し、阿心庵永機に師事して華峰庵機外と号した。 明治27年(1894年)に立机を許され、その後、俳誌「稲葉の光」を創刊したり、鷲峰吟社を主催するなど、数多くの俳誌の選者として全国的に活躍した。
桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7… 桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、鳥取市収入役。旧姓・池原。 鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)、池原茂兵衛の二男として生まれる。小学校中等科卒業後農業に従事する。1895年に八村八次郎の養子となり、同年桝田の絶家再興をおこない、元魚町1丁目で呉服商を経営する。一時は智頭街道筋で呉服商を営む。 1900年に旧名・房吉を八次郎と改名し、京都呉服同業組合繁盛会地方幹事を嘱託され、1912年に廃業の居を東町に移し、1915年8月に鳥取市収入役となる。 1934年、自治功労者表彰を受ける。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、桝田八次郎の地価所有高は「839円40銭」である。
林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年1… 林 重浩(はやし しげひろ、明治4年9月22日(1871年11月4日) - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の教育者である。 鳥取県邑美郡向国安村(後の気高郡美穂村大字向国安、現在の鳥取市向国安)生まれ。東京音楽学校で岡野貞一、永井幸次らとともに学ぶ。各地の県立師範学校や中学校で数学・音楽を担当した。1895年(明治28年)から1933年(昭和8年)まで39年間にわたり子弟の教育に努めた。1906年(明治39年)、36歳の若さで鳥取県立第二中学校(のち米子中学校に改称、現米子東高校)校長に就任。1911年(同44年)には鳥取中学校(現鳥取西高校)校長となり、山積する難問に対処して学校を再建するとともに野球を奨励し、野球部の強化を図った。
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日… 奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日)- 1942年(昭和17年)2月10日)は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主。 因幡国高草郡猪子村(鳥取県高草郡大和村、気高郡大和村字猪子を経て現鳥取市猪子)で、大地主、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)1月、家督を相続した。漢籍を修めた 国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した。1895年(明治28年)大和村会議員となる。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選。
臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4… 臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4年1月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉7月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は鳥取県士族。 因幡国法美郡立川町(現鳥取県鳥取市立川町)で、鳥取藩士・臼田久雄、つね夫妻の二男として生まれる。立川小学校を卒業後、京都市丸太町烏丸の林益習館で学んだ。 小学校教員を経て、第八十二国立銀行に勤務。1895年(明治28年)神戸の戸崎商店に入り大牟田支店詰となる。1905年(明治38年)に独立して臼田商会を設立。鉄道鉱山用材料の輸入商を営み、炭鉱に鉄類などを納入して事業を発展させた。 その後、三池無尽取締役、大牟田瓦斯取締役社長、帝国セメント監査役、大牟田製氷取締役社長、博多株式取引所理事などを務めた。
武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久… 武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久3年7月23日) - 1930年(昭和5年)4月26日)は、明治・大正期を代表する日本の英語学者。 因幡国気多郡潮津村(現在の鳥取県鳥取市青谷町)出身。1876年、官立愛知英語学校(のちの愛知県立第一中学校)に入学、同校廃止後は愛知県中学校に編入となり、1880年に卒業する。同年、札幌農学校の第4期生となる。1884年同校卒業、長野県中学校飯田支校の英語教員、1887年『ジャパン・メール』の記者となった。一時期三重県の教員を務め、1897年に頭本元貞と『ジャパン・タイムズ』を創刊。頭本元貞(1863年-1943年) とは同郷同卒で親しく、福澤諭吉ら政財界の後押しによって、『ジャパン・タイムス』の刊行が実現した。
樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(… 樺 正董(かば せいとう、かば まさしげ、文久3年6月7日(1863年7月22日) - 大正14年(1925年)12月27日)は、日本の数学教育家・数学者。数学教育近代化の先駆的役割を果たした。 1960年の安保闘争のとき、死去した東大女子学生樺美智子の曾祖父、社会学者樺俊雄の祖父。 鳥取市定府内町に生まれる。藤六、とめの長男。家庭は織物屋兼紺屋だった。 13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。。しかし金は無く、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった。そこで、或る家に奉公することになった。主人の使い歩き、時には子守なども命令された。
筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文… 筧 馬蔵(筧 馬藏、かけい うまぞう、1862年1月7日〈文久元年12月8日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。吉岡ホテル社長。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の四男。寺子屋式の教育を受ける。吉岡村に分家する。酒小売、質商を営む。 村区長、村評議員、村会議員、信用組合長、気高漁業、山陰倉庫各監査役等をつとめる。酒造会社を経営する。 趣味は骨董、囲碁。住所は鳥取県気高郡吉岡村大字吉岡(現・鳥取市吉岡温泉町)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元… 八村 八太郎(はちむら やたろう、1862年1月2日〈文久元年12月3日〉 - 1926年〈大正15年〉10月17日)は、日本の商人(呉服商)、地主、会社役員、政治家。鳥取県会議員。鳥取市会副議長(15代)。鳥取勧業取締役。 鳥取市元魚町1丁目、八村八次郎の長男。森本晩盛塾に、漢学を学ぶ。家業の呉服商に従事したが、1887年頃に廃業した。1892年に鳥取市会議員となり、1911年1月に副議長に就任した。 1911年6月に鳥取県会議員補欠選挙に当選した。帝国党、憲政会に所属。1915年10月に県参事会員となり、1916年11月に辞職した。 趣味は茶の湯、生花、書画、骨董。住所は鳥取市元魚町1丁目。
奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、186… 奥田 義人(おくだ よしと / よしんど / ぎじん、1860年7月31日〈万延元年6月14日〉- 1917年〈大正6年〉8月21日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の官僚・政治家・法学者。学位は、法学博士。従二位勲一等。男爵。号は秋軒。 衆議院議員(当選2回)、貴族院議員(勅選)、第1次山本内閣で文部大臣兼司法大臣を歴任したほか、晩年には請われて東京市長も務めている。また中央大学の創設者の一人で、第2代学長。 因幡国邑美郡栗谷町(現在の鳥取市栗谷町)に生まれる。幼名は留三郎。父の奥田鉄蔵は禄高300石の鳥取藩士で、作事組頭、武術師範を務めた。 7歳のとき藩の儒者坂田順蔵の門弟となり、藩校・尚徳館に入学。
臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。