加奥 隆三(かおく りゅうぞう、1937年7月15日 - )… 加奥 隆三(かおく りゅうぞう、1937年7月15日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 大阪市立高等学校(現・大阪府立いちりつ高等学校)から1956年に阪急ブレーブスへ入団。1961年に引退。
職業が野球:7,475人
加奥 隆三(かおく りゅうぞう、1937年7月15日 - )… 加奥 隆三(かおく りゅうぞう、1937年7月15日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 大阪市立高等学校(現・大阪府立いちりつ高等学校)から1956年に阪急ブレーブスへ入団。1961年に引退。
若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は… 若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高校時代は若生忠男・若生智男と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1956年に中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは低目を突く速球と威力あるシュートを武器に活躍する。3年次の1958年春季リーグでは東京農業大学戦でノーヒットノーランを達成し、5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学野球日本選手権では、決勝で立教大学に惜敗して準優勝。1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武・森田斌、同期には小栗秀夫、西山弘二(広島)・本田威志がいた。 大学卒業後の1960年、本田と共に大洋ホエールズへ入団。
西本 道則(にしもと みちのり、1937年6月29日 - [… 西本 道則(にしもと みちのり、1937年6月29日 - [要出典])は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。 1956年に柏原高を卒業するが、教師を志望して受験した関西学院大学を不合格となり浪人していた。同年7月に叔父の勧めで高橋ユニオンズの入団テストを受けると、遠投で1位になるなど、実力を認められて仮採用となる。3人の仮採用の一人に東映を退団していた小川健太郎もいた。その後、西本だけが本採用となって11月に正式に入団する。しかし、1957年のキャンプ中に高橋は大映スターズと合併したため、そのまま大映ユニオンズに移籍した。 大映では、開幕第2戦となる4月7日の東映フライヤーズ戦に2対2で同点の延長10回表からプロ初登板する。
西山 弘二(にしやま こうじ、1937年6月27日 - 20… 西山 弘二(にしやま こうじ、1937年6月27日 - 2025年9月11日 )は、広島カープに所属した高知県出身の元プロ野球選手(捕手)(右投右打)。 1963年のみ登録名を「西山 幸次」に変更した(読みは本名と同じ)。 土佐高等学校から中央大学を経て、1960年に大型捕手と期待され広島カープに入団。期待されたが、思うような成績を残せず4年で退団した。
今泉 喜一郎(いまいずみ きいちろう、1937年6月24日 … 今泉 喜一郎(いまいずみ きいちろう、1937年6月24日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手。右投げアンダースロー。 群馬県立桐生高等学校ではエースとして活躍。1953年秋季関東大会に進むが、1回戦で水戸農に敗退。1955年には同期の田辺義三とバッテリーを組み、春夏の甲子園に出場。春の選抜は準々決勝で明星高を相手にノーヒットノーランを達成。決勝まで勝ち上がり浪華商と対戦した。浪華商の四番打者坂崎一彦に対し、桐生高監督の稲川東一郎は徹底敬遠を指示する。しかし全打席敬遠はノーヒッターとしてのプライドが許さず、第3打席に勝負を決意するも2点本塁打を喫し逆転を許す。9回に同点に追いつくが、延長11回裏にスクイズを決められ3-4でサヨナラ負け、準優勝にとどまった。
近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )… 近藤 三明(こんどう みつあき、1937年6月21日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。 水戸農業高校、日本鋼管を経て1959年に近鉄バファローへ入団。1962年に引退。
稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 20… 稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。血液型はB型。 昭和30年代のパ・リーグを代表する本格派投手。大下弘・中西太・豊田泰光らと共に、西鉄ライオンズの3年連続日本一(1956年 - 1958年)を成し遂げるなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれ、特に1958年の日本シリーズではチームが3連敗したあとで4連投4連勝して日本一を達成し、「神様、仏様、稲尾様」と賞賛された。 1961年に記録したシーズン42勝は、ヴィクトル・スタルヒンと並ぶNPBタイ記録。
吹田 俊明(ふきた としあき、1937年6月9日 - )は、… 吹田 俊明(ふきた としあき、1937年6月9日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
牧野 伸(まきの のぼる、1937年6月5日 - )は、福井… 牧野 伸(まきの のぼる、1937年6月5日 - )は、福井県出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球審判員。 武生高校ではエースとして1954年夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で新宮高の前岡勤也と投げ合い0-2で惜敗。高校同期の田中平八郎とともに、1956年に東映フライヤーズに入団。その年ルーキーながら開幕投手を務め、翌年には15勝をマークするなど将来を嘱望されていたが、3年目の1958年から調子が下がり始め、1961年オフに近鉄バファローズに移籍。1964年には久保征弘に次ぐ27試合に先発し8勝をあげるが、その後は登板機会が漸減し、1968年限りで現役を引退した。スリークォーターからのスライダー、シュートが武器。
西岡 清吉(にしおか せいきち、1937年5月18日 - )… 西岡 清吉(にしおか せいきち、1937年5月18日 - )は、高知県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月1… 池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月13日 - 2023年〈令和5年〉1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 進学校・福岡高校では当初遊撃手であったが、1年次の1953年秋から投手に転向。2年次の1954年には夏の甲子園県予選で準決勝に進み、小倉高の畑隆幸と投げ合うが0-1で惜敗。その後も県予選で敗れ、甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は西鉄の誘いを断り、1956年に兄が講師をしていた明治大学へ進学。1年次の同年秋季リーグから投手陣の主軸となり、東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、2年次の1957年秋季に7勝を記録。長嶋茂雄らのいた立大には及ばぬも2位躍進に貢献したが、冬休みのランニング中に肉離れを起こす。
松浦 三千男(まつうら みちお、1937年5月8日 - )は… 松浦 三千男(まつうら みちお、1937年5月8日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(投手)。
富永 格郎(とみなが ただお、1937年5月4日 - 201… 富永 格郎(とみなが ただお、1937年5月4日 - 2014年7月18日[要出典])は、京都府京都市中京区西ノ京小堀町出身のプロ野球選手である。ポジションは投手。 立命館高校では1955年に、チームの主戦投手として、二塁手の辰市祐英らとともに夏の甲子園に出場。立命館高はこの大会で、中京商や桐生高などと共に優勝候補のひとつと目されていた。準々決勝では津久見高の田中喜八郎と投げ合い完封勝利。準決勝に進むが坂出商の岡崎秀智投手(中大-電電関東)に抑えられ、1-2で惜敗した。8月には辰市らとともに全日本高校選抜チームの一員として初のハワイ遠征を果たす。同年の神奈川国体は準々決勝で新宮高の前岡勤也に投げ勝ち2-0で完封、準決勝に進むが四日市高の高橋正勝に抑えられ敗退。
高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 20… 高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 2006年1月23日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 浦和高校時代はサッカーをしていたこともあった。捕手として1954年秋季関東大会県予選決勝に進むが、浦和商に惜敗。高校卒業後は日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。宮田征典とバッテリーを組み、1959年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算31試合出場、73打数20安打、打率.274、0本塁打、6打点、ベストナイン1回受賞。大学同期に会田豊彦・黒木基康(大洋)・笹木士朗(日本鋼管)らがいた。大学卒業後は富士製鐵釜石に入社し、1961年に常磐炭砿の補強選手として都市対抗に出場。
須藤 豊(すどう ゆたか、1937年4月21日 - )は、高… 須藤 豊(すどう ゆたか、1937年4月21日 - )は、高知県安芸郡安芸町出身の元プロ野球選手(内野手)・監督。現在は野球解説者。
花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は… 花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉県立銚子商業高等学校から1956年に大映スターズへ入団。1957年まで在籍したが制球に難があり1勝もできなかった。
青木 宥明(あおき ひろあき、1937年4月18日- 200… 青木 宥明(あおき ひろあき、1937年4月18日- 2001年11月8日)は、静岡県出身のプロ野球選手。
田辺 義三(たなべ よしぞう、1937年4月12日 - 20… 田辺 義三(たなべ よしぞう、1937年4月12日 - 2018年9月12日)は、群馬県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手、内野手)。 桐生高校では3年次の1955年、捕手として春の選抜に出場。今泉喜一郎とのバッテリーで決勝に進出するが、坂崎一彦・山本八郎・広島尚保らがいた浪華商に延長11回3-4でサヨナラ負け、準優勝に終わる。同年は夏の選手権にも出場したが、2回戦で日大三高のエース並木輝男に抑えられ、4-10で敗れた。同年8月には1年下の外野手間所宏全(阪急)らと共に全日本高校選抜チームの一員として初のハワイ遠征を果たし、4番を打った。 身長174cmは当時としては大型で、高校屈指の強打の捕手として中日、大映、東映、大洋などが獲得合戦を繰り広げたが、卒業後の1956年に西鉄ライオンズへ入団。
湊谷 武雄(みなとや たけお、1937年4月9日 - )は福… 湊谷 武雄(みなとや たけお、1937年4月9日 - )は福井県出身の元プロ野球選手、横浜ベイスターズ代表取締役(1997 - 2003年)。選手時代の姓は松井。 福井県立若狭高等学校では1955年、エースとして甲子園に春夏連続出場を果たす。春の選抜では準々決勝に進むが、県尼崎高の今津光男投手に完封を喫する。同年の春季北信越地区大会県予選決勝で、武生高を相手にノーヒットノーランを達成。北信越地区大会でも決勝で大町南高を降し優勝した。同年夏の選手権では、2回戦で立命館高の富永格郎投手に抑えられ敗退。カーブ、ドロップ、シュートが武器だった。高校同期には、後にプロで同僚となる遊撃手の浜中祥和がいた。 1956年に投手として大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。
稲尾 義文(いなお よしふみ、1937年4月8日 - )は、… 稲尾 義文(いなお よしふみ、1937年4月8日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鎮西学院高から社会人野球の日炭高松を経て、1961年に広島カープへ入団。 1964年限りで、現役を引退。
若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024… 若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024年6月3日)は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、評論家。 兄には仙台商業高校元監督で宮城県野球連盟会長を務めた若生久二雄、弟には埼玉栄高校元監督の若生正廣がいる。東北高校時代は若生忠男(西鉄→巨人)・若生照元(中大→大洋)と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 卒業後の1956年に毎日オリオンズへ入団し、8月23日の阪急戦(駒澤)に和田功・中西勝己の3番手で初登板。9月3日の大映戦(後楽園)では先発に起用されるが、5回途中で降板。 2年目の1957年は8月18日の大映戦(西京極)で初勝利を挙げ、10月23日から同24日の東映3連戦(駒澤)では2勝を記録。
安藤 治久(あんどう はるひさ、1937年4月3日 - )は… 安藤 治久(あんどう はるひさ、1937年4月3日 - )は、静岡県伊豆の国市出身の元プロ野球選手(投手)。
会田 豊彦(あいだ とよひこ、1937年4月1日 - 201… 会田 豊彦(あいだ とよひこ、1937年4月1日 - 2012年3月23日)は、山形県出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。 山形南高校では、1954年秋季東北大会県予選決勝に進むが米沢商に敗れる。翌1955年夏の甲子園予選東北大会に進出、しかし1回戦で福島商に敗退。卒業後は日本大学へ進学した。東都大学野球リーグでは在学中、3度優勝を果たす。1年生時の1956年秋季リーグでは、打率.351で首位打者を獲得し優勝に貢献。リーグ通算91試合出場、321打数86安打、打率.268、0本塁打、46打点。ベストナイン(三塁手)2回。大学同期に高木時夫捕手、黒木基康、笹木士朗(日本鋼管)両外野手らがいた。 1960年に中日ドラゴンズに入団。
大庭 宏(おおば ひろし、1937年3月31日 - )は、長… 大庭 宏(おおば ひろし、1937年3月31日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(投手)。 佐世保北高校から1955年にトンボユニオンズへ入団。 1956年に球団が吸収合併したため1957年は大映ユニオンズ所属となり同年引退。カーブ、シュートを武器とした。 弟の清は、のち西鉄に入団している。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)のプロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。 1955年から1956年までの登録名は和田 博美。 鹿児島で生まれたが、父親の転勤で幼少時に臼杵へ転居。小学校5年から捕手となり、臼杵高校でも野球部に入部するが、父が「息子を医者にさせたい」と考えており一旦退部。後に「血を見るのは苦手だった」という事情で野球部に復帰。捕手として2年次の1953年に秋季九州大会へ進むが、1回戦で長崎商に延長15回サヨナラ負け。3年次の1954年も夏の甲子園県予選を勝ち抜き東九州大会に進出するが、1回戦で黒木基康のいた高鍋高に完封を喫し、甲子園には届かなかった。
和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009… 和田 博実(わだ ひろみ、1937年3月26日 - 2009年6月22日)は、大分県臼杵市出身(鹿児島県生まれ)の元プロ野球選手(捕手、外野手)・コーチ・監督、評論家。
片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は… 片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。 大田原高校を経て、社会人野球のいすゞ自動車で活躍し、1959年に社会人・大学生混成の第3回アジア野球選手権大会全日本代表に選出された。同社を経て1960年に中日ドラゴンズへ入団。 1年目から新人王を期待されたが、キャンプで風邪をひき、さらに無理がたたり肩を痛める。その後、4月17日の国鉄スワローズ戦で1試合投げたが、7月に投げられない申し訳なさから任意引退を申し出た。その後再び中日と再契約したものの、翌1961年に引退。
久保 友之(くぼ ともゆき、1937年2月20日 - 202… 久保 友之(くぼ ともゆき、1937年2月20日 - 2023年7月7日)は、高知県室戸市出身のプロ野球選手・プロ野球審判員である。 1957年に高知県立室戸高等学校を卒業後大阪タイガースに入団したが一軍経験のないまま3年で退団。選手時代の背番号は36。その後サラリーマン生活を送っていたが、野球への情熱が忘れ去られず審判になることを決意。1970年テストを受けてセントラル・リーグ審判となり関西審判部に所属。1996年まで審判を務めた。 50代の時はインサイドプロテクターに変更した。 審判員袖番号は11(1988年初採用から1996年引退まで、2004年から吉本文弘が44から変更して継承。) その後はプロ野球マスターズリーグで審判をつとめるほか、少年野球教室の指導などをしていた。
小谷 信雄(こたに のぶお、1937年2月16日 - )は、… 小谷 信雄(こたに のぶお、1937年2月16日 - )は、高知県安芸市出身の元プロ野球選手。 高知商業高校時代の1954年に春夏連続で甲子園に出場した。 1955年に広島カープへ入団。1957年に退団後は篠崎倉庫でプレーした。その後地元に帰郷して安芸市役所に勤めた。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
田中 平八郎(たなか へいはちろう、1937年2月6日 - … 田中 平八郎(たなか へいはちろう、1937年2月6日 - )は、福井県出身の元プロ野球選手。 武生高校では1954年に夏の甲子園へ出場した。 1955年に東映フライヤーズへ入団。1956年に退団した。
山中 雅博(やまなか まさひろ、1937年2月4日 - )は… 山中 雅博(やまなか まさひろ、1937年2月4日 - )は大阪府大阪市東住吉区出身の元プロ野球選手。
谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日 - 2010… 谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日 - 2010年)は、愛媛県八幡浜市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。 八幡浜高校1年次の1952年に板前であった父親を亡くし、「母親を楽にするために」と大学進学を諦めてプロを志す。3年次の1954年に行われた夏の甲子園県予選では打率.660と打ちまくったが、準々決勝で宇和島東高に惜敗。1955年、高校の監督が藤本定義監督の兄であった事から大映スターズに入団。1年目の同年は3月27日の東映戦(駒澤)に捕手で開幕戦スタメンデビューを果たすが、これは日本プロ野球史上初の「高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビュー」であり、2006年の炭谷銀仁朗(西武)まで51年間なかったという非常に稀な出来事でもあった。
西尾 裕(にしお ゆたか、1937年2月1日 - 2009年… 西尾 裕(にしお ゆたか、1937年2月1日 - 2009年6月11日)は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。元八幡大学硬式野球部監督。 1955年に小倉南高から南海ホークスに入団。 宅和本司、皆川睦雄と肩を並べる実力のある新人投手として期待されたが、入団早々肩を壊してしまい、一軍での成績は0勝1敗に終わり、芽が出ないまま1957年に退団。 その後は、北九州市の企業に就職し社会人野球を経験。 1960年に八幡大学に入学し硬式野球部に入部。1961年の九州六大学野球春季リーグ初優勝に貢献。3学年時から選手兼監督を務める。 1964年に八幡大学を卒業。その後も同大の野球部監督を継続、後就職課長、学部事務長を務めた。
志農 介啓(しのう すけひろ、1937年1月27日 - )は… 志農 介啓(しのう すけひろ、1937年1月27日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。 八代工業高校から1955年に近鉄パールスへ入団。 1957年に1軍初出場し、5試合出場したが同年に退団した。
木次 文夫(きつぎ ふみお、1937年1月26日 - 197… 木次 文夫(きつぎ ふみお、1937年1月26日 - 1977年5月14日)は、日本のプロ野球選手(一塁手)。
岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没… 岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没年不詳)は、茨城県つくば市出身の元プロ野球選手。 下妻第一高校から東京鉄道管理局を経て、1957年に国鉄スワローズへ入団。
上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 20… 上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日)は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 鮮魚店を営む家に5人兄弟の長男として生まれ、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。 上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。 海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。
伊藤 則旦(いとう のりただ、1937年1月15日 - )は… 伊藤 則旦(いとう のりただ、1937年1月15日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。 愛知県立津島高等学校から1955年に毎日オリオンズに入団。入団した1955年から1958年までの4年間在籍した。
木頃 博巧(きごろ ひろよし、1937年1月12日 - )は… 木頃 博巧(きごろ ひろよし、1937年1月12日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。 岩国工業高校から1956年に阪急ブレーブスへ投手で入団。後に内野手へ転向。
岡田 守雄(おかだ もりお、1937年1月12日 - )は、… 岡田 守雄(おかだ もりお、1937年1月12日 - )は、和歌山県新宮市[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
森 祇晶(もり まさあき、本名・旧登録名:森 昌彦〈もり ま… 森 祇晶(もり まさあき、本名・旧登録名:森 昌彦〈もり まさひこ〉、1937年〈昭和12年〉1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手(捕手、右投左打)・コーチ・監督、解説者・評論家。 読売ジャイアンツ(巨人)のV9時代に正捕手を担い、「V9の頭脳」の異名を取った。また引退後、西武ライオンズ監督時代に在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導き、西武黄金時代を築いた。 兄の森和彦も元プロ野球選手(外野手)。 岐阜市立長森中学校出身。野球は中学生から始め、当初は内野手であったが2年時に捕手に転向。岐阜県下随一の進学校・岐阜高校では伊藤利夫監督の指導で開花し、3年次の1954年に夏の甲子園に強打の捕手兼主将として出場したが、1回戦で泉陽高に完封負けを喫する。
森 祇晶(もり まさあき、1937年1月9日 - )は、大阪… 森 祇晶(もり まさあき、1937年1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(捕手)・指導者・監督、野球解説者。本名「森 昌彦」(もり まさひこ)。
桑田 武(くわた たけし、 1937年1月5日 - 1991… 桑田 武(くわた たけし、 1937年1月5日 - 1991年1月21日)は、神奈川県横浜市鶴見区出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、主に内野手(三塁手、遊撃手)。右投げ右打ち。
川原 政数(かわはら まさかず、1937年1月5日 - )は… 川原 政数(かわはら まさかず、1937年1月5日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。
野村 徹(のむら とおる、1937年1月1日 - 2026年… 野村 徹(のむら とおる、1937年1月1日 - 2026年4月8日)は、大阪府出身の野球選手(捕手)・コーチ・監督。 北野高校卒業後の1957年に早稲田大学へ進学し、東京六大学リーグでは在学中2度優勝に貢献するなど頭脳派捕手として活躍。3年次の1959年春季では同期の金沢宏、1年下の安藤元博の両投手とバッテリーを組み、木次文夫、徳武定之らの強力打線の援護もあって、4連覇を続けてきた立大に競り勝ち優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で再試合の末、関学を降し優勝。4年次の1960年秋季の早慶六連戦では全6試合にマスクを被り、安藤元の力投を支えた。リーグ通算59試合出場、179打数40安打、打率.223、0本塁打、16打点。
長島 康夫(ながしま やすお、1937年 - )は、島根県安… 長島 康夫(ながしま やすお、1937年 - )は、島根県安来市出身(福岡県北九州市生まれ)の野球選手(投手)・監督。 北九州で生まれたが、1945年8月に製鉄会社に勤める父親の仕事の関係で、朝鮮東部の清津に住んでいた。旧ソ連軍の侵攻で残された家族は南を目指したが、旧ソ連占領下の平壌で収容され、小学3年時に当地で終戦を迎えた。終戦の3日前に民間召集で戦地へ行った父親は行方不明となり、母が一家を支えてきた。長島も生計を助けるため、牛乳配達をしていた。 戦後の混乱で、本土に引き揚げるまでに姉を栄養失調で失うなど、過酷な1年間を過ごしながら、母、妹と共に命からがら帰国。1946年7月に長島の家族を含む30 - 40人が収容所を脱出し、命がけで北緯38度線を越えた。
葛城 隆雄(かつらぎ たかお、1936年12月21日 - 2… 葛城 隆雄(かつらぎ たかお、1936年12月21日 - 2013年7月27日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 大分上野丘高校では2年生の時、1953年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東九州大会準決勝に進むが、佐伯鶴城高に敗れ甲子園出場はならなかった。高校の1年上に太田文高がいた。 1955年、別当薫監督率いる毎日オリオンズに入団。高卒新人ながら活躍を見せた。 1956年にはレギュラー遊撃手となり、規定打席(22位、打率.250)にも到達。 1957年は三塁手に回り、リーグ3位の91打点を記録した。 1958年は遊撃手に戻るが、1打点差で中西太(西鉄)の三冠王を阻み、打点王を獲得。
小林 兵太郎(こばやし ひょうたろう、1936年12月10日… 小林 兵太郎(こばやし ひょうたろう、1936年12月10日 - 2022年8月30日[要出典])は、大阪府出身のプロ野球選手。 関西大倉高校から青山学院大学を経て1959年に大洋ホエールズへ入団。
榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 20… 榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 2012年3月14日)は、東京都中野区出身のプロ野球選手(一塁手)。
打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - … 打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - 2003年3月3日)は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手。 常磐高校から1956年に西鉄ライオンズへ入団。 1958年シーズン終了後トレードで中日ドラゴンズへ移籍。 1962年に近鉄バファローズへ移籍し、同年引退。 西鉄時代はバッティングピッチャーやブルペンキャッチャーとしての仕事が多く、出場機会はほぼなかった。1958年に西鉄が日本シリーズ三連覇を果たした際には、これまでの貢献を考慮して三原監督から金一封が送られた。