前田 五郎(まえだ ごろう、1942年4月8日 - )は、日… 前田 五郎(まえだ ごろう、1942年4月8日 - )は、日本の元お笑い芸人。坂田利夫との漫才コンビコメディNo.1のツッコミ担当。本名、前田 邦弘(まえだ くにひろ)。大阪府大阪市出身。
職業がお笑い:826人
前田 五郎(まえだ ごろう、1942年4月8日 - )は、日… 前田 五郎(まえだ ごろう、1942年4月8日 - )は、日本の元お笑い芸人。坂田利夫との漫才コンビコメディNo.1のツッコミ担当。本名、前田 邦弘(まえだ くにひろ)。大阪府大阪市出身。
上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年… 上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年〉3月20日 - 2023年〈令和5年〉5月19日)は、日本の元漫才師、元司会者、元タレント。上岡劇団座長。 本名は小林 龍太郎。京都府京都市左京区出身。旧芸名は横山 パンチ、伊井 パンチ。その他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)、落語立川流Bコース高座名・立川右太衛門を持つ。また、作詞家としての別名義にミケランジェロをもじった「三池嵐次郎」(みいけ らんじろう)がある。 1959年、「横山パンチ」の芸名で、横山ノック・横山フックとのトリオ芸人『漫画トリオ』として大阪でデビュー。漫画トリオ解消後の1970年代からはピンでラジオ、テレビに出演し、1980年代には『鶴瓶上岡パペポTV』(パペポ)や『探偵!ナイトスクープ』などテレビ司会者として活躍。
今宮エビス(いまみや えびす、1942年1月10日 - 20… 今宮エビス(いまみや えびす、1942年1月10日 - 2008年1月27日)は、お笑い芸人、漫才師。京都府京都市嵯峨野出身。本名は土屋 嘉生(つちや よしお)。芸名は吉田留三郎が命名。
小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさ… 小松 政夫(こまつ まさお、本名:松崎 雅臣(まつざき まさおみ)、1942年〈昭和17年〉1月10日 - 2020年〈令和2年〉12月7日)は、日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身。 愛称は「親分さん」「小松の親分(自らのコントから)」「小松与太八左エ門」。所属事務所は有限会社ドン・タック。プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携。 7人兄妹の5番目として、櫛田神社の前および鐘紡福岡工場の近くで育つ(博多の総鎮守である櫛田神社の前が自宅であることを福岡県福岡市博多区にいる仲間たちにも自慢していたことがあった)。
隼 ジュン(はやぶさ ジュン、1941年11月23日- 本名… 隼 ジュン(はやぶさ ジュン、1941年11月23日- 本名:中竹英孝)は、日本のコメディアン。長男はタレントでパントマイマー・ヘブンアーティストのクラッチ。 宮崎県串間市出身。国士舘大学・体育学部卒業。大学卒業後に芸能界デビュー。大学時代は体操の東京五輪強化選手だったが収入が無く芸能界に興味津々となり、芸能界入り後はショーの世界に入り日劇にも出演、更には大学の体操仲間らとスポーツショーのチームを組み舞台に出演。吉本興業にも所属し、「隼ジュン&ダン」として寄席とテレビ出演をする。吉本興業退社後は「隼ブラザーズ」を結成し、地道な芸能活動を展開している。
内海カッパ(うつみ カッパ、1941年9月14日 - 200… 内海カッパ(うつみ カッパ、1941年9月14日 - 2008年8月27日)は、日本のお笑い芸人。本名、神田 常巌。鹿児島県奄美大島出身。 大鉄高等学校卒業後に初代内海突破(突破没後は夢乃タンゴの門下)に師事し、1963年うめだ花月で吉本新喜劇のコメディアンとしてデビュー。その後OSミュージックに移籍。 1966年に今宮エビスと「内海カッパ・今宮エビス」を結成(松竹芸能所属だが、ホームページ上にプロフィールは記載されていない)。相方のエビスが病気療養中にカッパは高野山と比叡山で得度し、僧侶になった。この経験を生かして坊主姿で僧侶姿で数珠持ちネタを披露していた事もある。 弟子に内海英華などがいる。
マンガ 太郎(まんが たろう、本名:朝倉 康夫、1941年8… マンガ 太郎(まんが たろう、本名:朝倉 康夫、1941年8月10日 - 2014年8月5日)は、漫画家・芸人。山口県出身。日本漫画家協会会員。東京演芸協会理事、同副会長等を歴任。 創作絵描き歌を披露したり、観客のリクエストに応えて即興で似顔絵を描いたり、ある絵を描いた後に手を加えて別の絵にしてしまったりするなど、漫談をしながらイラスト・漫画を舞台上で描くという芸で知られる。公式プロフィールではその芸を「漫画ボードビルショー」としている。 高校時代は貸本漫画家として活動。漫画芸人(のち画家に転身)の春田美樹の芸を見て刺激を受け、春田に師事。20歳頃に漫画演芸家としてデビューする。海外での公演も数多く行っており、ベトナム戦争の時期には、前線の米軍キャンプで芸を披露した経験があるという。
西條 笑児(さいじょう しょうじ、 本名:河内弘、1941年… 西條 笑児(さいじょう しょうじ、 本名:河内弘、1941年〈昭和16年〉8月8日 - 1996年〈平成8年〉4月3日)は、元漫才師、タレント。 兵庫県神戸市出身。甲南大学文学部卒業。父は西条凡児。兄は西條遊児。娘は元宝塚歌劇団の西條三恵。 1966年、それまで勤務していた広告代理店をリストラされたことを機に兄とコンビを結成し漫才師デビュー。神戸を中心にラジオのパーソナリティーを長年勤めた。 1996年4月3日、死去。55歳没。 西條の没後、日本映画批評家大賞内の舞台ミュージカル大賞に西條笑児賞の副名称がつけられている。
ポール牧(ポールまき、1941年〈昭和16年〉8月2日 - … ポール牧(ポールまき、1941年〈昭和16年〉8月2日 - 2005年〈平成17年〉4月22日)は、日本のコメディアン、タレント、俳優、元僧侶。北海道天塩郡天塩町出身。実家は曹洞宗寺院。北海道天塩高等学校卒業。血液型はAB型。 本名は榛澤一道(はんざわ かずみち)。僧名は熈林一道(きりん いちどう)。 関武志とともにコント・ラッキー7を結成し、人気を博した。リズム良く指を鳴らす「指パッチン」で知られた。
仲本 工事(なかもと こうじ、1941年〈昭和16年〉7月5… 仲本 工事(なかもと こうじ、1941年〈昭和16年〉7月5日 - 2022年〈令和4年〉10月19日)は、日本のコメディアン、ミュージシャン(ギタリスト)。ザ・ドリフターズのメンバー。東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)出身。本名は仲本 興喜(なかもと こうき)。バンドでの担当はボーカルとギター。ドリフから派生したこぶ茶バンドメンバーとしても活動した。生前は渡辺プロダクション→イザワオフィスに所属して、同じザ・ドリフターズメンバーで既に故人となっているいかりや長介、志村けんと同様に没後もイザワオフィス所属となっている。 当初は「仲 こうじ」「仲本 こうじ」「仲本 コージ」を名乗っていた。
萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年〈昭和16年〉5月… 萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年〈昭和16年〉5月7日 - )は、日本のコメディアン、テレビ司会者。 1966年、相方の坂上二郎と結成した「コント55号」が絶大な人気を得て、60年代後半のテレビを席巻する。 70年以降は司会者としての単独活動も開始。特に80年代以降は彼の名前を冠したレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録、「視聴率100%男」との異名を取った。また、これらの番組から始まった様々なお笑いのスタイルは(後述)その後のバラエティー番組へ多大なる影響を与えた。 昭和のバラエティー番組黄金期を代表する人物である。 日本野球連盟に所属する野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、初代監督を務めた。
たこ 八郎(たこ はちろう、1940年〈昭和15年〉11月2… たこ 八郎(たこ はちろう、1940年〈昭和15年〉11月23日 - 1985年〈昭和60年〉7月24日)は、日本の元プロボクサー・コメディアン、俳優。本名は斉藤 清作(さいとう せいさく)。 元日本フライ級王者。俳優活動では太古 八郎、多胡 八郎、多古 八郎、タコ 八郎などの名義も用いた。 座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。 宮城県仙台市新田(現宮城野区)の農家に、8人兄弟の次男(第4子)として生まれる。少年時代に友達と泥んこの投げ合いをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失う。すぐに病院に行き治療すれば失明はしなかったと言われたが、少年時代は裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている。
小野 ヤスシ(おの ヤスシ、1940年〈昭和15年〉2月11… 小野 ヤスシ(おの ヤスシ、1940年〈昭和15年〉2月11日 - 2012年〈平成24年〉6月28日)は、日本のタレント、コメディアン、俳優、司会者、ミュージシャン。鳥取県境港市出身。自称「鳥取が生んだスーパースター」。本名∶小野 泰。 父親の仕事の関係で日本統治下の朝鮮元山市に生まれる。幼少の頃に日本に引き揚げ、鳥取県境港市で育つ。鳥取県立境高等学校卒業、成城大学文芸学部中退。 「ザ・ドリフターズ」の初期のメンバーで、1960年「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」とグループ名を変更後、正式に参加する。 1964年、桜井輝夫の脱退後にリーダーの座を譲られた碇矢長一のワンマン体制に不満を持って、碇矢と対立した。
船場 太郎(せんば たろう、1939年〈昭和14年〉11月8… 船場 太郎(せんば たろう、1939年〈昭和14年〉11月8日 - 2020年〈令和2年〉11月27日)は、日本のコメディアン、政治家。位階は正五位。 元吉本新喜劇座長。大阪市会議員(6期)、大阪市会議長を務めた。本名は松原 昌平(まつばら しょうへい)。大阪府大阪市旭区出身。 大阪府立旭高等学校を卒業後、和田弘とマヒナスターズのバンドボーイとなる。初舞台は1959年2月11日に日劇で行われた「第2回 日劇コーラスパレード」というショウのイベントであった。そのイベントはザ・ピーナッツの初舞台でもあった。 のちに喜劇に転じ「マヒナ太郎」を名乗る。その後劇団・笑いの王国に在籍、花登プロダクションを経て、1965年吉本新喜劇に入団。
なべ おさみ(本名:渡辺 修三、1939年〈昭和14年〉5月… なべ おさみ(本名:渡辺 修三、1939年〈昭和14年〉5月2日 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント。ラジオパーソナリティ、司会者、放送作家、著作家、声優。2024年末まで吉本興業所属。2026年1月1日よりゴッデス・エンターテイメント所属。 東京府東京市大森区(現:東京都大田区)出身。明治大学文学部卒業。 妻は笹るみ子、息子はお笑い芸人で元パワーリフティング日本代表のなべやかん。
東京 ぼん太(とうきょう ぼんた、1939年4月7日 - 1… 東京 ぼん太(とうきょう ぼんた、1939年4月7日 - 1986年10月14日)は、日本の芸人、歌手、漫談家。栃木県出身。トレードマークは唐草模様の風呂敷。本名は中山孝一。 作新学院で野球をやっていたが、肘のケガで中退する。コメディアンを志して上京した。芸名の由来は「東京の上野駅に着いた時にボーンと鐘が鳴った」ことが芸名のヒントになったといわれる。キャバレーなどを転々とした後に、1960年頃から寄席に出演。1963年からは唐草模様の風呂敷包みを背負ってテレビに登場して「夢もチボーもないね」「イロイロあらあな」など、栃木訛りを誇張したギャグで人気を博した。 レコードも発売しており「マアいろいろあらァな」は、20万枚のヒットとなった。
小島 三児(こじま さんじ、1939年〈昭和14年〉1月1日… 小島 三児(こじま さんじ、1939年〈昭和14年〉1月1日 - 2001年〈平成13年〉4月16日)は、日本のコメディアン・俳優。東京都足立区出身。 駒込高校卒業後、佐山俊二に弟子入り。その後テレビの台頭に伴い東八郎・原田健二とともにトリオスカイラインを結成。東など他人の肩に頭を乗せて「懐くな!」とツッコミを入れられる芸風や、とぼけた風貌で人気を博す。トリオ解散以降も数多くの映画やテレビドラマにおいて、コミカルな三枚目から悪役まで、多様な役柄をこなす脇役として活躍した。 2001年4月16日、腎不全のため62歳で死去。
泉 ひろし(いずみ ひろし、1938年6月25日 - )は、… 泉 ひろし(いずみ ひろし、1938年6月25日 - )は、元吉本新喜劇、松竹新喜劇の座員、元漫才師、俳優。本名は小泉賢麿。 京都府京都市の出身。最初は新劇・アクタープロ所属の役者。その後1957年に小人座に入座。1959年に柳枝劇団の三遊亭柳枝門下に入門、同年6月に柳豊作の名で柳万作と漫才コンビを結成し新花月で初舞台。1961年に松竹トンボリ座に入座し「泉ゆたか」の名でコメディアン。1964年から泉スナップの名で中田チャックとコンビを結成。1968年に解散し同年9月11日に吉本新喜劇入団、1991年よりライバルの松竹新喜劇に移籍。2000年4月に退団後はフリーの俳優でNHKなどのドラマに出演。
青空 はるお(あおぞら はるお、本名:坂上 洋祐〈さかうえ … 青空 はるお(あおぞら はるお、本名:坂上 洋祐〈さかうえ ようすけ〉、1937年11月5日 - 2010年代初頭)は、日本の漫才師、俳優、レポーター、司会者。 新潟県三条市出身。地元の中学校を卒業後、集団就職で上京。しばらくは会社員として勤務していたが、漫才師を目指して1959年にコロムビア・トップ・ライトに師事。同門の青空あきおと2人で「青空はるお・あきお」コンビを結成し、人気を博す。 1972年、12年に渡って組んで来たコンビを解散する。その後は単独でタレントとしてNTV系列の『テレビ三面記事 ウィークエンダー』や『ルックルックこんにちは』などに事件レポーターとして出演し、主に「男女関係のもつれによる事件」を担当する。
西條 遊児(さいじょう ゆうじ、1937年〈昭和12年〉9月… 西條 遊児(さいじょう ゆうじ、1937年〈昭和12年〉9月10日 - 2018年〈平成30年〉2月12日)は、日本の漫才師・タレント。本名:河内 武夫(かわち たけお)。漫談家の西条凡児の息子で、弟の西條笑児とコンビを組んだ。自身の出身地・兵庫県の地元放送局であるラジオ関西、サンテレビに多く出演した。 神戸市兵庫区出身。関西学院大学法学部卒業後、父・凡児の「秘書兼見習い」として芸能界に入り、1966年に弟とコンビ「西條遊児・笑児」を結成し漫才師デビュー。漫才のかたわら、弟ともにテレビ司会者、ラジオパーソナリティとして数々の番組に出演し、兵庫県内のお茶の間に親しまれた。 2018年2月12日、レギュラーコメンテーターを務めていたラジオ関西の生番組『三上公也の情報アサイチ!』のスタジオに姿を見せず、関係者と連絡が取れなくなった。
伊東 四朗(いとう しろう、本名: 伊藤 輝男、1937年〈… 伊東 四朗(いとう しろう、本名: 伊藤 輝男、1937年〈昭和12年〉6月15日 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント、テレビ司会者。日本喜劇人協会相談役。オルテ企画所属。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)出身。血液型はO型。5人きょうだい(兄2人、姉1人、妹1人)の三男。 兄は教育評論家の伊藤竹三。息子は俳優・タレントの伊東孝明。 1937年6月15日、東京府東京市下谷区竹町(現在の東京都台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)、母親は同県掛川市の出身。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。
東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)… 東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)、1936年〈昭和11年〉5月31日 - 1988年〈昭和63年〉7月6日)は、日本のコメディアン、タレント。昭和を代表するコメディアンの一人。妻との間に3男2女があり、次男はお笑いコンビ・Take2の東貴博、三男はタレントの東朋宏。タレントの安めぐみは義娘(次男・貴博の妻。ただし、東の死去から23年後の2011年に結婚したため、生前に面識は無い)にあたる。 東京府東京市浅草区 (現・東京都台東区浅草) 出身。父は岐阜県大垣市の出身で皇宮警察官であった。戦時中に家族とともに名古屋市に疎開し、名古屋時代の親友にプロゴルファー塩谷育代の父親がいた。
前田 隣(まえだ りん、1936年4月12日 - 2009年… 前田 隣(まえだ りん、1936年4月12日 - 2009年2月19日)は、日本のコメディアン。本名:中澤 永一郎(なかざわ えいいちろう)。芸名はMy Darling(マイ・ダーリン)から。後輩芸人らからは「ダーリン先生」の愛称で呼ばれた。 東京都品川区出身。のち浅草に住む。イラストレーター・山藤章二は立正中学校・高等学校時代の同級生。 1956年、東京池袋アヴァンギャルド(後に池袋アバン座に名称変更)を振り出しに、名古屋、大阪の劇場で修行を積み、コロムビア・トップ・ライトの門下として、漫才「青空あれや・これや」で活躍。 1964年、「ナンセンストリオ」に加入。「親亀の背中に小亀を乗せて〜」「赤あげて! 白下げて!」などのギャグでトリオブームの頂点に立つ。
内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年〈… 内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年〈昭和11年〉2月23日 - 1997年〈平成9年〉10月6日)は、日本の漫才師。東京市浅草区(現・東京都台東区)出身。マセキ芸能社に所属し、内海桂子・好江の名で内海桂子と女性漫才コンビとして活動していた。 両親は夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿。1945年にデビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年の14歳の時に内海桂子と女性漫才コンビ「内海桂子・好江」を結成。 三味線教室へ通い毎日10時間以上の猛練習を行い、猛スピードで成長。1958年、4度目の挑戦で『NHK新人漫才コンクール』で優勝。その前年は、準優勝だったことを桂子から「好江のせいだ」と当たられ自殺未遂を起こしたことがある。
東 京二(あずま きょうじ、1935年11月5日 - )は、… 東 京二(あずま きょうじ、1935年11月5日 - )は、漫談家・漫才師。北海道出身(漫才協会のプロフィールでは函館市、落語協会のプロフィールでは札幌市)。本名:神田 公司。 この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。
レオナルド 熊(レオナルドくま、本名:井上 千蔵 <い… レオナルド 熊(レオナルドくま、本名:井上 千蔵 <いのうえ せんぞう>、1935年6月27日 - 1994年12月11日)は、日本のコメディアン。 石倉三郎と組んだコントコンビ『ラッキーパンチ』『コント・レオナルド』で一世を風靡した。
岸野 猛(きしの たけし、1935年5月 - )は日本のお笑… 岸野 猛(きしの たけし、1935年5月 - )は日本のお笑い芸人である。本名:伊東 正弘。東京都世田谷区出身。社団法人漫才協会専務理事。
原 哲男(はら てつお、1934年〈昭和9年〉3月21日 -… 原 哲男(はら てつお、1934年〈昭和9年〉3月21日 - 2013年〈平成25年〉1月11日)は、日本のお笑い芸人、俳優。本名:柳原 哲也。吉本興業所属。 熊本県熊本市上近見町に生まれる。九州学院高等学校卒業後、剣戟の「富士川昇一座」に入って、九州を巡業する。また「島陽之助一座」にも籍を置いた。 1953年、大阪に出て、「堀江洋子一座」に入る。その後、ストリップ劇場のコメディアンに転向して、新世界のジャンジャン横丁にあった「温泉劇場」などに出演していたが、生活に困窮し、堀江洋子一座で一緒で「島陽之助一座」にいたころからの旧知の島田洋之介に誘われ1963年、吉本興業に入社する。 以後、吉本新喜劇で活躍、1969年には座長に就任、『てなもんや三度笠』では、毎回CM時に藤田まこと、白木みのると掛け合いで登場し、レギュラー出演していた。
阿吾寿朗(あご じゅうろう、1934年3月11日 - 199… 阿吾寿朗(あご じゅうろう、1934年3月11日 - 1990年 没)は、漫才師、元吉本新喜劇の役者で一時は座長も務めた。本名:高橋享。 青森県十和田市生まれ、法政大学在学中に映画のエキストラを経験、役者になる為、大学を中退し晩年の榎本健一の元に弟子入り、あごぼん十の名で喜劇の舞台に立つ。喜劇役者のかたわらはせさん治と漫才を組む。1968年に角座に出演の為に来阪。1970年11月、吉本新喜劇に入団。翌年に阿吾十朗の名で準座長に昇進。1972年に座長に就任。1974年に座長の座を若い座員に譲る。1980年2月より今喜多代と組み漫才に復帰。その後コンビを病気の為に解消、引退した。後に通っていたスナックのママに看取られつつ死去。
ケーシー 高峰(ケーシー たかみね、1934年〈昭和9年〉2… ケーシー 高峰(ケーシー たかみね、1934年〈昭和9年〉2月25日 - 2019年〈平成31年〉4月8日)は、日本のコメディアン、タレント・俳優。本名:門脇 貞男(かどわき さだお)。主なギャグに、インターンからUターンして、セニュール、グラッチェ、よし子、などがある。 白衣姿で黒板やホワイトボードを用いる医事漫談の創始者だった。『笑点』など、テレビのお笑い/寄席番組でも人気を博した。俳優としても活躍した。シングル、アルバムもリリースしている。 山形県最上郡最上町出身。母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医であり、ケーシーの姉も医師、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家だった。
財津 一郎(ざいつ いちろう、1934年〈昭和9年〉2月22… 財津 一郎(ざいつ いちろう、1934年〈昭和9年〉2月22日 - 2023年〈令和5年〉10月14日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手。 本名:財津 永栄(ざいつ ながひで)、旧芸名:財津 肇メ。熊本県熊本市出身。熊本県立済々黌高等学校卒業。 財津家は神武天皇の時代から続くというほどの名家であった。父親は農林省(現:農林水産省)の役人で、3人兄弟の末っ子として東京に住んでいた、父が日中戦争で中国大陸へ出征したため、1944年に一家は故郷の熊本へ疎開した。 1947年に、阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村(現・阿蘇市)へ移住、学校もそれまで通っていた済々黌中学校から阿蘇農業高等学校(現・熊本県立阿蘇中央高等学校)へ転校した。
世志 凡太(せし ぼんた、1934年1月4日 - 2025年… 世志 凡太(せし ぼんた、1934年1月4日 - 2025年11月18日)は、日本のソングライター(作詞家・作曲家)、俳優、コメディアン、演出家、音楽プロデューサー。本名は市橋健司(いちはし・けんじ)。東京都豊島区出身。芸名は、フランス語の「C'est si Bon.」(セシボン・「とってもいい」の意)から来ている。事実上の内縁関係にあった女優の浅香光代と35年間生活を共にしていた。浅草喜劇人協会会長。 18歳の時からアルバイトでバンドに加わって進駐軍のキャンプを回り、1957年に「原信夫とシャープス&フラッツ」にベーシストとして参加。渡邊プロに所属しバンドマンとしての活動他に同時期にコメディアンとして朝日放送の「てなもんや三度笠」などのテレビ番組、ハナ肇とクレージーキャッツ主演の映画、東宝・松竹の喜劇映画、NHKの音楽番組等に出演する。
平 凡太郎(たいら ぼんたろう、1933年3月10日 - 2… 平 凡太郎(たいら ぼんたろう、1933年3月10日 - 2002年10月4日)は、東京市(現:東京都)中野区出身の俳優、コメディアン。本名平正美。 東洋工業学校(現:東洋高等学校)卒。 15歳の時に九州地方で「コミック一座」を立ち上げ、全国を巡業。その後は喜劇俳優の柳家金語楼に弟子入りし、「メリケン小僧」の名でデビュー。 映画、テレビドラマ、舞台と幅広く活動。森川信、由利徹、谷村昌彦らと喜劇の一時代を築いた。 1950年、東宝の専属女優であった持田和代(柏まゆみ)と結婚(1985年、死別)。1988年、桂子と再婚。 2002年10月4日、肺炎のため死去。69歳没。 弟子は俳優・司会者の仲良太郎。
高木 ブー(たかぎ ブー、boo Takagi、1933年〈… 高木 ブー(たかぎ ブー、boo Takagi、1933年〈昭和8年〉3月8日 -)は、日本のコメディアン、ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)。ザ・ドリフターズのメンバー。 本名は、高木 友之助(たかぎ とものすけ)で、高木ブーへの改名以前は高木 智之名義で活動していた。「8時だョ!全員集合」のオープニングなどでは、高木 ブ~名義で表記されていた。身長160 cm。芸名の由来となったのは若い頃からの肥満体型である。 東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)に兄2人・姉3人の末っ子として生まれる。第二次世界大戦末期の1945年に戦災で焼け出され、12歳の時に母方の郷里を頼って千葉県東葛飾郡柏町篠籠田(現:千葉県柏市明原2丁目)に一家で移り住み育った。
谷 幹一(たに かんいち、1932年11月21日 - 200… 谷 幹一(たに かんいち、1932年11月21日 - 2007年6月25日)は、日本の俳優・コメディアン。東京都出身。本名は西村 昌明(にしむら まさあき)。「タニカン」の愛称で親しまれた。 1950年に都立農芸高校を中退後、新宿のムーランルージュ新宿座に最後の研究生として入る。 ムーランルージュ解散後は、劇団東京喜劇での地方巡演の後、浅草フランス座で渥美清、関敬六と出会い、下積み時代を共に送った。葛飾区青戸の自宅には渥美や関が頻繁に訪問し、谷の義母が振る舞うカレーライスを好んで食べていた。後年、渥美は「あの味だけは忘れられない。もう一度食いたいねえ」と懐かしがったという。 戦前の役者谷幹一に似ていると言われたことから芸名を谷昌明から谷幹一に改める。
安田 伸(やすだ しん、1932年〈昭和7年〉9月19日 -… 安田 伸(やすだ しん、1932年〈昭和7年〉9月19日 - 1996年〈平成8年〉11月5日)は、日本のサックス奏者、コメディアン、元ハナ肇とクレイジーキャッツのメンバー、俳優、作曲家。本名は安田 秀峰(やすだ ひでみね)。愛称はヤッさん。 現在の東京都中野区江原町生まれ。父は佐賀県出身で、右翼活動や満州の諜報活動をしていたが、やがて毛皮と皮革の商売を始めた。生後まもなく川崎市の溝の口の大山街道沿いに移り、川崎市立高津小学校6年生のとき旧町役場の延焼を防ぐために強制疎開となる。母の実家がある川崎市柿生を経て厚木市に移り、旧制厚木中学校(現在の神奈川県立厚木高等学校)1年生のとき敗戦を迎える。軍人志望で陸軍幼年学校に願書を出していたが敗戦によって音楽の道に志望を変更し、コルネットを独学で学ぶ。
海野 かつを(うみの かつを、1932年4月29日 - )は… 海野 かつを(うみの かつを、1932年4月29日 - )は、日本の芸人・俳優・声優。本名は海野 教麿(うんの きょうまろ)。旧名:海野かつお。東京府東京市(現・東京都区部)出身。 代々浅草区育ちで、実家は仁丹塔の傍のお好み焼き屋。来店する芸人に幼少時より可愛がられ、1944年の大映作品『五重塔』に子役で初出演。 戦後コメディアンを志し、日本大学第一高等学校を休学してムーランルージュ新宿座で演出見習として働き始めた途端に閉館の憂き目に遭い、同高に復学して卒業。東京吉本のシミキン一座に入り、浅草花月劇場のストリップの幕間コントで初舞台を踏んだ。 その後は脱線トリオ一門に移り、浅草フランス座をホームグラウンドに活動した。
谷 啓(たに けい、本名:渡部 泰雄(わたべ やすお)、19… 谷 啓(たに けい、本名:渡部 泰雄(わたべ やすお)、1932年〈昭和7年〉2月22日 - 2010年〈平成22年〉9月11日)は、日本の俳優、コメディアン、トロンボーン奏者。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。 東京府荏原郡東調布町(現・東京都大田区田園調布)出身・三鷹市大沢に居住していた。渡辺プロダクション所属。中央大学経済学部中退、中央大学学員会三鷹支部会員。日本トロンボーン協会名誉会員。 写真家の吉田ルイ子は従妹にあたる。長男の渡部泰裕は映像ディレクター。 会社員の渡部四郎の長男として生まれる。祖父の渡部競一は福島県会津若松市出身で、現在の東京工業大学の前身の東京職工学校を卒業後、技師となり横須賀海軍工廠製造所や日本製鋼などに勤めたのち芝区(現在の東京都港区)三田四国町で鋼材を扱う成工商会を経営した。
いかりや 長介(いかりや ちょうすけ、1931年〈昭和6年〉… いかりや 長介(いかりや ちょうすけ、1931年〈昭和6年〉11月1日 - 2004年〈平成16年〉3月20日)は、日本の男性コメディアン、ミュージシャン(ベーシスト)、俳優、司会者。「ザ・ドリフターズ」の3代目リーダー。東京市本所区中之郷横川町(現在の東京都墨田区東駒形)出身。本名は碇矢 長一(いかりや ちょういち)。後年は俳優としても活動した。 愛称は「長さん」。ドリフ時代初期は芸名を「いかり矢 長介」としていた。ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。身長175.2cm。 東京府東京市本所区中之郷横川町(現・東京都墨田区東駒形)生まれ。渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属し、没後もイザワオフィス所属扱いとなっている。
青空 たのし(あおぞら たのし、1931年10月30日 - … 青空 たのし(あおぞら たのし、1931年10月30日 - 2021年8月24日)は、ハーモニカ漫談家、元漫才師、司会者、ラジオパーソナリティ。東京都台東区浅草出身。本名:北川 要。旧芸名:神田 一郎、青空 田の志。 コロムビア・トップ・ライト門下で「青空たのし」を名乗った人物は3人いる。 1949年9月、双葉バラエティー団で初舞台を踏んだ。その後浅草松竹楽劇団員、1955年からは岡晴夫歌謡ショー専属司会者を経て、1958年に中野四郎(元『ハッピーボーイズ』の瓶九郎)と立体司会コンビを組み、松山恵子歌謡ショー専属司会者として巡業した。 1960年6月にコロムビア・トップ・ライト同門の司会者・島田寿三(青空うれし)と、漫才コンビ青空うれし・たのしを結成した。
横山 あきお(よこやま あきお、本名:横山 孝信、旧芸名:青… 横山 あきお(よこやま あきお、本名:横山 孝信、旧芸名:青空あきお・横山あきを、1930年9月26日 - 2014年6月20日)は、日本の俳優、コメディアン。最終所属は優企画。 富山県富山市出身。日本大学芸術学部中退。 元は映画監督志望で上京し、大空ヒットに師事。 最初は兄弟子の大空はるか(後のケーシー高峰)と「大空はるか・かなた」を組み、そこそこ売れたが、長続きせずに解散。次いで兄弟子の大空曇天、大空かんだとコンビを組み「大空はるか・かなた」を継続させたが、大空ヒットから破門される。 コロムビア・トップの青空一門に移籍して青空はるおと「青空はるお・あきお」を結成。1967年『NHK漫才コンクール』で優勝し、その実力を認められた。
人見 きよし(ひとみ きよし、1930年8月1日 - 198… 人見 きよし(ひとみ きよし、1930年8月1日 - 1985年5月22日)は、秋田県出身の俳優、コメディアン。本名は五十嵐 孝治。 1948年、森川信一座に入り、関西中心に喜劇で活躍。その後、朝日放送のドラマ『びっくり捕物帖』でテレビ初出演。1961年放送の『スチャラカ社員』では「ほんと、ちい〜とも知らなかったわァ」が流行語になった。『てなもんや三度笠』などに出演。その後テレビ、映画、吉本新喜劇などの舞台に数多く出演。時代劇や刑事ドラマでは、コミカルな役や普段のイメージとは違う悪役を多く演じた。家庭での素顔は子煩悩で優しい父親だったという。 1985年5月20日朝6時頃、自宅トイレで吐血して倒れているところを家族に発見される。
大瀬 しのぶ(おおせ しのぶ、1930年7月24日 - 20… 大瀬 しのぶ(おおせ しのぶ、1930年7月24日 - 2004年9月15日)は、日本のお笑い芸人。ローカルタレント。本名:小笠原 敏夫(おがさわら としお)。 青森県上北郡法奥沢村(のち、十和田村→十和田町→十和田湖町、現・十和田市)出身。生家はかなりの資産家だったが、警察官をしていた父が病に倒れ、治療費や薬代に消えたため次第に減った。高等小学校卒業後、地元の消防団に入団。ある時村で火事が起き、消防自動車を無免許にもかかわらず運転したため、カーブを曲がり切れず、水田に転落させた。また、密造酒(どぶろく)を川に捨てたのを税務署員に見つかり、検挙され、裁判にかけられたが、無罪となったこともあった。
ハナ 肇(ハナ はじめ、本名:野々山 定夫(ののやま さだお… ハナ 肇(ハナ はじめ、本名:野々山 定夫(ののやま さだお)、1930年〈昭和5年〉2月9日 - 1993年〈平成5年〉9月10日)は、日本のドラマー、コメディアン、俳優。コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーであり、同バンドのドラマーでもある。 東京府北豊島郡(現在の東京都豊島区)長崎町生まれ。工学院土木科(後の工学院大学専門学校)を中退した。1990年10月13日、特選校友として学長より証書を授与され卒業を認められる。 妻は、結婚当時日活のスター女優だった島村葉子。かつて阪神タイガース、埼玉西武ライオンズに在籍した元プロ野球選手の桟原将司は又甥に当たる(ハナの兄が桟原の祖父という関係である)。
小野 栄一(おの えいいち、1930年2月5日 - )は、日… 小野 栄一(おの えいいち、1930年2月5日 - )は、日本の司会者、コメディアン、ボードビリアン、実業家である。娘は歌手の小野ひとみ。 1930年(昭和5年)2月5日、北海道に生まれる。新制・北海道立札幌第二高等学校(現在の北海道札幌西高等学校)では映画評論家の品田雄吉と同期、俳優の左右田一平は一期下であった。同校卒業後、北海道大学に進学するも中途退学。 1952年(昭和27年)、日本コロムビアの司会者として舞台に立ち、デビューする。 昭和中期にテレビや寄席などで活躍、美空ひばりや灰田勝彦の物まね、テレビ番組『そっくりショー』の司会などで知られた。また、テレビ映画『オットいたゞき』では人情味あふれる詐欺師役を演じ、テレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』では声優を務めるなど、多方面で活躍した。
逗子 とんぼ(ずし とんぼ、1929年11月5日 - )は、… 逗子 とんぼ(ずし とんぼ、1929年11月5日 - )は、日本の俳優、コメディアン。 日本大学芸術学部卒業。大学卒業後、新派の地方巡業一座、清水金一一座などで下積み生活を送る。1955年、これで芽が出なかったら廃業することを考えながら、三木鶏郎主宰のトリローグループに参加し、三木門下に入る。芸名も三木が名付けた。芸名はみんなで海水浴に行った時に生まれたという。昭和30年代初め頃(1955年頃)から歌と洋舞とコントの得意な“二枚目半”として活躍。色川武大は彼の風貌をして「万年青年のよう」と評し、その風貌は「どの番組に出ても邪魔にならない」として「各テレビ局がまだ整備されていなかった時代、重量感のある番組が制作出来なかった当時は打って付けのタレントだった」としている。
ショパン 猪狩(ショパン いがり 、1929年6月20日 -… ショパン 猪狩(ショパン いがり 、1929年6月20日 - 2005年11月13日)はコメディアン。本名は猪狩 誠二郎(いがり せいじろう)。 子供のころに見た覗きからくりをヒントにアラブ人風の顔・派手な衣装で「ヘェ〜イ!!レッドスネェ〜ク!!!カモォ〜ン!!」と言いつつ笛を吹き、3つの壷からカラフルな蛇の縫いぐるみをニョロニョロと登場させる芸「三蛇調教」で人気を博す。他にマジックも演じており、相方が突っ込みを入れたりするコミック的な要素を取り入れた芸もしていた(マジックの最中に「手順がおかしい」と言う、ナイフを突き刺すマジックで「痛い」と言う等)。 東京目黒の生まれ、宮大工の五男として育つ。
フランキー堺(、1929年〈昭和4年〉2月13日 - 199… フランキー堺(、1929年〈昭和4年〉2月13日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、日本のコメディアン、俳優、ジャズドラマー、司会者。 鹿児島県鹿児島市出身。本名は堺 正俊()。慶應義塾大学法学部卒業。 鹿児島市車町(現在の上本町の一部)出身。父親は鹿児島の士族の家系の出身。明治・大正時代に活躍し、映画『ノンキナトウサン』の主役としても知られる曾我廼家五九郎とは親戚に当たる。 小学校在学中はボーイソプラノの歌い手として注目され、合唱団としてNHK鹿児島放送局のラジオ番組に出演した。 一家で東京市大森区池上へ引越し、池上第二小学校、私立麻布中学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業。中学時代の同級生には小沢昭一、加藤武が、他の同級生にはなだいなだ、内藤法美、仲谷昇、大西信行らがいた。
荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 … 荒井 注(あらい ちゅう、1928年〈昭和3年〉7月30日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本のコメディアン、俳優。ザ・ドリフターズ元メンバー。東京都出身。本名は荒井 安雄(あらい やすお)。 四谷にて生まれる。家は料亭を営んでいた。旧制日本学園中学校を経て、立教大学文学部宗教学科を中退後、二松學舍大学文学部国文学科卒業。 大学卒業後は脚本家を目指しながら、音楽バンドグループ『クレージーウエスト』のバンドマンを務めていた。なお、二松學舍大学在学中に中学と高校の教員免許(高校の科目は国語)を取得したことから、同大学卒業後に教師を務めたことがあるとの文献もあるが、真偽は不明である。芥川龍之介や太宰治を愛読する文学青年という一面もあった。
関 敬六(せき けいろく、本名:関谷 敬二(せきや けいじ)… 関 敬六(せき けいろく、本名:関谷 敬二(せきや けいじ)、1928年3月25日 - 2006年8月23日)は、日本のコメディアン、俳優、声優。栃木県足利市出身。 1945年3月旧制栃木町立栃木商業学校(現・栃木県立栃木商業高等学校)を卒業して、陸軍特別幹部候補生として入隊するも、終戦で除隊。その後、法政大学政治経済学部に入学、1951年最後の旧制大学専門部を卒業した。 浅草の税務署に勤務していたが、出征中に演じた素人芝居が忘れられずに仕事をさぼって度々喜劇の舞台に出演するようになる。榎本健一のエノケン劇団を経て、浅草フランス座に所属した。当時は渥美清や谷幹一と出会い、三人で下積み時代を支えあった。