山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月1… 伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身。魚屋の丁稚の子として生まれる。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った。 長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10… 庄司 総一(しょうじ そういち、1906年(明治39年)10月6日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、昭和期の小説家・詩人・台湾文学者。筆名は、阿久見謙。同人雑誌『新表現』創刊・主催者。 山形県飽海郡北平田村漆曽根(現・酒田市)生まれ。 医師の子として生まれ、父親の仕事の都合で北海道、大連、台湾と居を変えながら、台南市の台南一中を卒業した。慶應義塾大学文学部英文科に進み、西脇順三郎の薫陶を受ける。阿久見謙の名で『三田文学』・『新三田派』に創作を発表しながら、内台共婚を題材にして描いた小説『陳夫人』で第1回大東亜文学賞を受賞した。次いで日本文学報国会の会員となり、皇民化運動の一翼を担った。
県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9… 県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9月26日 - 1922年(大正11年)7月12日)は日本の詩人。福岡県出身。 福岡県福岡市生まれ。生後間もなく父の赴任先である旧・満州に一家で転居。1912年福岡に戻り、1913年には東京へ転居した。日本橋区箱崎小学校に入学するが、1914年に麹町区麹町小学校へ転入し卒業、1919年明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校・中学校)に入学。この頃、独学で詩作活動を始める。明治中学在学中の1921年、学校遠足の帰りに雨に濡れ体調を崩し3週間病床に伏し、一旦は回復するも再び入院。その後、通学出来るまでに回復するが、担当医師の勧めで千葉県安房郡北条町(現:館山市)北条に療養のため転居。
毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月… 毎田 周一(まいだ しゅういち、1906年〈明治39年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉2月27日)は、日本の仏教思想家、詩人。金沢市出身。第四高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1937年長野県師範学校教諭、1942年石川県師範学校教諭。 暁烏敏に師事し、西田幾太郎に学ぶ。雑誌『真』、『大雪山』を主宰。仏教の教えを日常の言葉で語り、多くの解説書や詩を残した。没後「毎田周一全集」が纏められた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1… 耕 治人(こう はると、1906年8月1日 - 1988年1月6日)は、日本の小説家・詩人。本名の姓は「たがやす」と読む。 熊本県八代市生まれ。明治学院英文科卒業。千家元麿に師事して詩作を始め、1930年(昭和5年)『耕治人詩集』を上梓する。 戦前の1937年(昭和12年)から川端康成を頼り、1939年(昭和14年)7月には、『文學界』に初めての小説を載せてもらうなど世話になっていた。 戦中の1945年(昭和20年)3月に、左翼思想犯として逮捕される。 戦後、主として私小説を書き始め、長く不遇だったが、1970年(昭和45年)に『一条の光』で読売文学賞、1972年 (昭和47年に『この世に招かれてきた客』で平林たい子文学賞受賞。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年(… 吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年(明治39年)5月10日 - 1940年(昭和15年)7月8日)は、日本のダダイスト詩人、小説家。 アナキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐり(旧姓、松本)と結婚し、長男の吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。 上京後、詩人の辻潤、清沢清志、高橋新吉らと交友を通し、『ダダイスム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆した。1940年に狭心症のため34歳で急死した。前日まで元気であったが突然の事であったという。
遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 199… 遠藤 栄(えんどう さかえ、1906年3月17日 - 1997年6月)は、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)出身の詩人・児童文学作家。児童文学同人誌『若木』を主催。 1947年(昭和22年)から1967年(昭和42年)まで三好町立三好中学校で教員を務めながら画家としても活動した遠藤稲子は妹。遠藤栄の詩「逝く春」をイメージした油彩の大作「逝く春」なども描いている。 1906年(明治39年)3月17日、愛知県南設楽郡新城町(現・新城市)に生まれた。父は駐在所の巡査を務めていた遠藤寅吉、母はたい。姉に君代、妹に稲子がいる。明治末期には新城町からたいの故郷である岡崎市に転居し、1912年(大正元年)に岡崎で尋常小学校に入学した。
永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17… 永瀬 清子(ながせ きよこ、1906年(明治39年)2月17日 - 1995年(平成7年)2月17日)は、日本の詩人。岡山県赤磐郡豊田村熊山(現赤磐市)出身。幼年期を石川県金沢市で過ごし、愛知県立第一高等女学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。本名は永瀬清。 高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事し『詩之家』同人となる。1930年、詩集『グレンデルの母親』を発表。1940年、その名声を得た詩集『諸国の天女』の序文は高村光太郎によるもので、生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁だった。またこの詩集によって、山内義雄や宮本百合子らに認められ、随一の女性文学者たちの仲間入りを果たした。1945年岡山県に帰り、農業に従事しながら詩作を行う。
野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 19… 野長瀬 正夫(のながせ まさお、1906年2月8日 - 1984年4月22日)は、日本の詩人・児童文学作家。
中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24… 中野 鈴子(なかの すずこ、1906年(明治39年)1月24日 - 1958年(昭和33年)1月5日)は、日本の詩人。 福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。作家、政治家の中野重治は次兄。坂井郡立女子実業学校(現福井県立三国高等学校)を卒業、郷里で2度望まない結婚をし、2度離婚を勝ち取った。 1929年4月、中野をたよって上京。1930年、検挙された小林多喜二の救援活動の中心を、原泉や村山籌子とともに担った。この活動を通して第一線のプロレタリア詩人として成長し、1931年日本プロレタリア作家同盟に加入した。1932年1月、宮本百合子編集長のもとで『働く婦人』編集部員となり、昭和東北大凶作取材記事を3回にわたり同誌に連載するなどの仕事をした。
阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月… 阪本 越郎(さかもと えつろう、1906年(明治39年)1月21日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本の詩人・ドイツ文学者。
李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14… 李 孝祥(イ・ヒョサン、朝鮮語: 이효상、1906年1月14日 - 1989年6月18日)は、大韓民国の詩人、哲学者、教授、政治家。第6・7代国会議長、参議員、第6・7・9・10代韓国国会議員。 本貫は星山李氏(朝鮮語版)。号はハンソル。カトリック教徒。 1906年に大邱で生まれた。1930年に東京帝国大学(現・東京大学)文学部独文学科卒、帰国後は嶠南学校で教職を務め、1940年に校長に就任した。解放後は慶尚北道学務局長を経て、1952年に慶北大学校文理科大学教授に着任した。1954年にルーヴェン・カトリック大学で哲学と文学を修学し、帰国後は慶北大学校文理科大学の初代学長を務めた。他には大倫教育財団理事、嶺南大学校財団理事長、国際新聞編集者協会・アジア新聞編集者協会韓国代表、大邱毎日新聞社理事など教育・新聞界でも活動した。
神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉1… 神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉11月29日 - 1990年〈平成2年〉10月24日)は、昭和期の日本の詩人・ドイツ文学者。本名は光太郎(みつたろう)(姓の読みを「じんぼう」とする文献もある)。 山形県山形市生まれ。山形県立山形中学校から山形高校を経て、京都帝国大学文学部独文科を卒業。在学中から同人誌に詩や短歌を発表して新散文詩運動の一翼を担った。 1934年、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の別所沼のほとりに家を新築し、生涯にわたって活動拠点とした。この別所沼の家に、神保を兄と慕う立原道造の来訪をしばしば受けている。1935年、保田與重郎や亀井勝一郎らと『日本浪曼派』に参加し、詩誌『四季』などに作品を発表した。
原 民喜(はら たみき、1905年〈明治38年〉11月15日… 原 民喜(はら たみき、1905年〈明治38年〉11月15日 - 1951年〈昭和26年〉3月13日)は、日本の詩人、小説家。広島で被爆した体験を、詩『原爆小景』(1950年)や小説『夏の花』(1947年)等の作品に残した。 縫製業を営む裕福な家庭の五男に生まれた。慶大英文科に進み、ダダイズムの影響を受けた詩を発表する一方、左翼運動にも一時近づく。卒業後の翌年、掌編小説集『焔』(1935年)を自費出版。「三田文学」などに短編小説を発表するなど創作盛んであった。妻が病死した悲しみも創作への原動力となる。 郷里広島に疎開中に被爆。以降体調すぐれない中、「このことを書きのこさねばならない」という強い信念のもと、被爆体験を綴った。
金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月2… 金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月22日 - 1977年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人、翻訳家、評論家、独立運動家。本貫は全州金氏。号は怡山(イサン、이산)。 死後、氏の精神と文学を称えるために1989年、怡山文学賞が作られ文学と知性社主管で施行されている。 咸鏡北道鏡城生まれ。鏡城公立普通学校を経て、1920年鏡城中央高等普通学校から転入し1924年に中東学校を卒業。同年、早稲田大学英語英文学科に入学し、1928年修了。1927年に同窓会誌に詩『蚊帳』を発表し、創作活動と文壇での活動を始めた。その後、中東学校の英語の教師を務め、1933年に劇芸術研究会に参加し、徐恒錫、咸大勲、毛允淑、盧天命らと知り合った。
武内 俊子(たけうち としこ、1905年9月10日 - 19… 武内 俊子(たけうち としこ、1905年9月10日 - 1945年4月7日)は、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家。僧侶であり世界探険家の渡辺哲信は叔父にあたる。広島県福山市の勝願寺住職足利瑞義の姪。 1905年(明治38年)広島県三原市西町の浄念寺に生まれる。 1912年4月広島市に転居、学齢期の6歳から土手町(現在の南区比治山町)で育った。広島県立第一高等女学校(現在の広島皆実高校)を経て、広島女子専門学校(現在の県立広島大学)に進学したが中途で退学。 その後、結婚して東京の世田谷に居住。1929年(昭和4年)頃から、童謡や童話の創作を始める。女性の社会進出が困難を伴った昭和初期にあって、4人の子供の育児と両立させ創作に励んだ詩人だった。
山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 199… 山崎 栄治(やまざき えいじ、1905年8月9日 - 1991年8月27日)は、日本の詩人、フランス文学者。 1905年に佐賀県西松浦郡伊万里町で生まれる。幼少期に中国に移住して幼稚園時代を奉天市で過ごし、小学校の途中で大連市から東京市の青山に移っている。大倉商業学校に進み、教科書に載っていたロングフェローの詩やウォルト・ホイットマンの『草の葉』を英語で読んだ他、15歳の頃にジャン=ジャック・ルソーの『懺悔録』、16歳の頃に野口米次郎の詩、そして17歳頃に萩原朔太郎の詩をそれぞれ読み、詩作への影響を受けた。東京美術学校の受験に失敗して東京外国語学校に進み、1925年には『日本詩人』に投稿した詩が四等に入選している。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は… 与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ) - 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一、与田準一の表記もある。日本ペンクラブ会員。 1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。
上野 壮夫(上野 壯夫、うえの たけお / そうふ、1905… 上野 壮夫(上野 壯夫、うえの たけお / そうふ、1905年6月2日 - 1979年6月5日)は、日本の詩人、小説家、コピーライター。妻の小坂たき子も小説家。戦後はコピーライターとしてヒットを飛ばし、広告業界で活躍した。 茨城県筑波郡作岡村(筑波町を経て現つくば市)で、上野清二郎(地主、警察官)、とく の三男として生まれた。早稲田高等学院露文学科を中退し、アナキズム系の「黒嵐時代」の一員となり、1929年「文芸戦線」に携わり、1927年に労農芸術家連盟の書記長及び前衛芸術家同盟の結成や、日本プロレタリア作家同盟に加入した。 後に人物評論社に就職し、『人物評論』編集部に勤務し、尾崎一雄の「暢気眼鏡」を掲載した。
山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 197… 山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 1977年9月11日)は、昭和期の日本の詩人・フランス文学者。本名・山中利行。 愛知県名古屋市に生まれる。1923年(大正12年)に名古屋高等商業学校に入学。在学中に当時名古屋で刊行されていた象徴派の詩誌『青騎士』に参加している。3年後に卒業するとNHK東海支部に就職する。1929年(昭和4年)、冨士原清一から雑誌『衣裳の太陽』を贈られたことを機にシュルレアリスムに傾倒。同年、雑誌『Ciné』を創刊。1933年(昭和8年)からフランスの詩人ポール・エリュアールとの文通が始まり、その交際はアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ユニエ、ルネ・シャール、マン・レイ、サルヴァドール・ダリ、ハンス・ベルメールらに広がっていき、彼らの作品を『詩と詩論』『文藝汎論』『マダム・ブランシュ』『Vou』『Cendre』などの雑誌に発表、紹介を始める。
氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月… 氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉12月31日)は、日本の小説家、詩人、教育者。山口県阿武郡篠生村(のちの阿東町、現在の山口市)篠目出身。氏原大作は筆名で、本名は原 阜()。 尋常小学校高等科を卒業後、故郷の小学校の代用教員などを務めながら、同人誌を発行するとともに、短歌などを発表。1936(昭和11)年に雑誌『少年倶楽部』に投稿した『見たか青空』が同誌に掲載されたのを契機に、同誌の常連作家となる。1938(昭和13)年に、主婦の友社の懸賞小説で『幼き者の旗』が一等に当選、のちに同作が映画化するなど、注目を集めた。 1905(明治38)年3月20日、山口県阿武郡篠生村篠目の農家に生まれる。
泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 195… 泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 1959年4月9日 )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。 鹿児島県大島郡伊仙村生まれ。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした。1931年、日本大学専門部国文科中退。 1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた。
岩佐 東一郎(いわさ とういちろう、1905年3月8日 - … 岩佐 東一郎(いわさ とういちろう、1905年3月8日 - 1974年5月31日)は、日本の詩人。 東京府生まれ。父親の岩佐藤次郎(1880年生)は東洋染料や鱗与商店の重役を務めた実業家。暁星中学校を経て法政大学仏文科卒。暁星中学の頃、当時父堀口九萬一とともにブラジルに在った堀口大学に手紙で入門を請い、その門人第一号となる。1923年に第一詩集『ぷろむなあど』を18歳で上梓する。1925年に正岡容、藤田初巳(俳人)とともに雑誌『開花草紙』を創刊。1931年城左門と『文藝汎論』、1946年北園克衛と『近代詩苑』を創刊する。モダニズムと抒情の混交した詩を書いた。俳句、随筆、或いは小学校唱歌の作詞(「アマリリス」「よろこびの歌」等)でも知られ、1935年創刊の日本のモダニズム詩人による俳句雑誌「風流陣」の初代編輯・発行人であった。
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - … 佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - 1968年12月16日)は、大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人。代表曲に『犬のおまわりさん』など。ひらがな表記のさとう・よしみ名義の作品も存在する。 代表作の『犬のおまわりさん』は、2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。他に童謡の代表的な作品に、『グッドバイ』、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。 また、童話集『あるいた雪だるま』は1954年(昭和29年)に第1回産経児童出版文化賞を、『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年(昭和50年)に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 … 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。 本名は伊藤整(いとう ひとし)。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は… 清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は、日本の詩人、劇作家。 長野県南安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。旧制青山学院専門部卒業。1921年、穂高演劇協会を創設、「安曇野モダニズム」の拠点とした。1924年、在京中に知り合った吉行エイスケとモダニズム雑誌『売恥醜文』を発刊(後に発禁処分)。同人誌『葡萄園』に「東を目指す」を発表。1930年には第二次信州詩人連盟講演会を行い、1939年には「藤村会」を創設。戦後は県下各地で積極的に公演を行った。
竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12… 竹内 てるよ(たけうち てるよ、1904年(明治37年)12月21日 - 2001年(平成13年)2月4日)は、北海道出身の詩人、小説家、霊能者。本名、竹内照代。 銀行員と芸者との間に札幌市で生まれるが、生後すぐに釧路の父方の祖父母に引き取られる。日本高等女学校を肺結核療養のため中退。婦人記者となった後に20歳で結婚し、一子をもうけるが、脊椎カリエスに罹患して1928年に離婚。以後、詩作を続け、1930年に第一詩集『叛く』を刊行した。2001年2月4日、老衰のため死去。 2002年9月29日、スイスのバーゼルで開催された 「国際児童図書評議会」 (IBBY) 創立50周年記念大会で、日本の美智子皇后がスピーチの中で代表作「頬」を引用したことから、改めて注目されるようになった。
野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 19… 野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 1966年10月27日)は、日本の作詞家、詩人。福島県福島市出身。本名は鈴木 喜八。 福島県福島市大町の魚屋に生まれる。幼少期、近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、5歳年上の野村は兄貴分であり遊び仲間だった。 1924年、20歳の時に福島民友新聞社に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当する。1931年をもって福島民友新聞社を退社。すでにコロムビア専属の作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京する。同年、古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売され互いにデビュー作となった。この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。
村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 -… 村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 - 1946年2月1日)は、日本の詩人。本名=邑井武雄。 1904年(明治37年)石川県石川郡美川町(現:白山市)にて生まれる。幼少期に一家は金沢に移り、武雄は文学に興味を持つようになり、室生犀星、木山捷平など多くの詩人と交流し、雑誌を発行する。東京や大阪に転居したが、1934年(昭和 9年)に金沢へ移り、 粟崎遊園の少女歌劇の舞台監督、脚本などに関わる。1940年(昭和15年)中国の太原で新聞局員となり、終戦後、1946年(昭和21年)帰国前に北京にて客死。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日… 坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉5月27日)は、日本の詩人。兵庫県加東郡東条村(現・加東市横谷)出身。 1904年、兵庫県加東郡東条村に生まれる。父は教職で兵庫各校の校長として辺地教育に力を注ぎ、そのため家庭を顧みるいとまがなく、母が農作業に従事して一家を切り盛りした[要出典]。 1923年、関西学院大学英文科に入学。同級生に竹中郁がいた。1925年、草野心平らの『銅鑼』同人となる。竹中郁らの『羅針』にも参加。1926年、神戸の下宿に草野が来訪し、母校の小学校の謄写板を借り、草野が筆耕、坂本が印刷を担当して二人で『銅鑼』7号を制作した[要出典]。
近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24… 近藤 東(こんどう あずま、1904年〈明治37年〉6月24日 - 1988年〈昭和63年〉10月23日)は、日本の詩人。 1904年東京京橋に生まれる。岐阜中学時代より短歌を作り始め、15歳で窪田空穂に年少の才能を賞賛される早熟ぶりを示した。明治大学在学中に「謝肉祭」を創刊。明大卒業後、鉄道省に入り、その一方で詩作をし、春山行夫、竹内隆二、棚夏針手、佐藤一英などと交友をもった。北原白秋に認められ、「詩と音楽」「近代風景」などで新進詩人として出発。27年上海外遊。28年雑誌『詩と詩論』創刊に編集同人として参加、以後「MADAME BLANCHE」「文学」「詩法」「新領土」と戦前戦中のモダニズム詩運動の中心で活動した。
城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 197… 城 昌幸(じょう まさゆき、1904年6月10日 - 1976年11月27日)は、日本の小説家、推理作家、詩人、編集者。本名は稲並 昌幸。 東京市神田練塀町生まれ。京華中学校4年次退学。城左門名義で詩作している。時代小説『若さま侍』シリーズは有名で、時代劇映画・ドラマ化された。江戸川乱歩は、城を「彼は人生の怪奇を宝石のやうに拾ひ歩く詩人である」と評している。またショートショートの先駆者と称される。日夏耿之介の門下。 横溝正史が創作した名探偵・金田一耕助のモデルとなった一人でもある。 1977年に東京都大田区の区立馬込図書館に旧蔵書4,750冊が寄贈され、翌1978年5月に「城昌幸記念文庫」が開設され、公開された。
滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 19… 滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 1982年5月15日)は、大分県出身の日本の詩人。 大分県東国東郡武蔵町(現:国東市)の出身。大分師範学校を卒業。 中国の大連市に渡り、安西冬衛らが大連市で創刊した詩誌『亞』に3号から参加(1924年)、3号から23号までは実質的に滝口と安西の2人で編集を行なっていた。 大連では小学校の教師をしており、生徒にはのちの詩人、清岡卓行がいた。 他に『詩と詩論』『詩聖』『日本詩人』などに作品を投稿していた。特に『亞』に発表した作品は2行詩が多く、単純で簡素な表現形式を取っていた。1933年に、『亞』に発表した作品を中心に収めた詩集『園』を発行。 1939年に帰国し、大分県で教員を勤めた。
中尾 彰(なかお しょう、1904年〈明治37年〉5月21日… 中尾 彰(なかお しょう、1904年〈明治37年〉5月21日 - 1994年〈平成6年〉10月6日)は、昭和初期~平成初期にかけて活躍した日本の洋画家、童画・絵本作家、詩人。島根県鹿足郡津和野町出身。 津和野で生まれ、教員をしていた父親の仕事の関係で物心つく前に津和野から離れ、幼年期を中国山脈の山間の草深い村で過ごす。高等小学校進学を機に津和野へ戻り、卒業目前に満州へと渡る。独学で絵を学び、満鉄育成学校を卒業後は島根県下で教員生活を送る傍ら、時折上京して画学生をする生活を送り、1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に入選。以来、独立美術協会を中心に油彩画を発表し、1949年(昭和24年)には同協会会員に、また、1992年(平成4年)には同協会会員功労賞を受賞する。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 198… 秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 1988年11月14日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の詩人、アナキスト。終戦まで局(つぼね)清のペンネームを用いる。 1904年、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれる。小倉中学(現・県立小倉高)を経て日本大学中退。1924年創刊のアナーキズム系の詩誌『詩戦行』に参加。1930年、小野十三郎と『弾道』創刊。第二次世界大戦後、1946年、金子光晴、岡本潤、小野十三郎とともに詩誌『コスモス』を創刊。アナキスト連盟や新日本文学会常任委員の活動のかたわら、『新日本文学』、『現代詩』に詩や評論を発表。詩史や自伝、作家論などの著作も多い。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年… 竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。 兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。小磯の弟子の石阪春生は竹中の甥。 中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月… 木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ[独自研究?]。 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。
寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 198… 寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 1980年12月10日)は、日本の小説家、詩人。 岩手県盛岡市生まれ。父は検事。早稲田大学仏文科中退。1926年、同級の田畑修一郎、火野葦平らと同人誌『街』を創刊。西條八十に師事し、佐伯孝夫らと詩誌『棕櫚の葉』を創刊。のち横光利一に師事。 1935年、文壇デビューを果たし以後は小説を中心に執筆。1936年、徳田秋声の娘喜代と結婚。1941年、報道班員としてマレーに赴く。 戦後は中間小説を多く書いた。代表作に短編集『祝典』、長編『情熱』、詩集『落葉に描いた組曲』など。『からたちの花』は山田耕筰の伝記小説である。墓所はさいたま市思い出の里市営霊園。
森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991… 森山 啓(もりやま けい、1904年3月10日 - 1991年7月26日)は、新潟県出身の詩人、小説家である。 旧制中学校教師の父の転任に伴い、富山県高岡市に移り少年期を過ごす。1912年、福井市に移住。1916年、福井中学に入学。同級生に深田久弥、上級生に中野重治がいたが、この時点で親交は無かった。1920年中学を4年修了で第四高等学校へ進学。ここにも中野がいたが依然親交は持たなかった。1925年、東京帝国大学に入学。漸く中野と親交を持ち、同時にプロレタリア文学に傾倒する。1928年に大学を中退。1932年、『プロレタリア詩のために』を出版。1941年、石川県小松市へ疎開。1942年、『海の扇』で新潮社文芸賞を受賞する。
一瀬 直行(いちのせ なおゆき、1904年2月27日-197… 一瀬 直行(いちのせ なおゆき、1904年2月27日-1978年11月14日)は、日本の詩人、小説家。 東京府東京市浅草区浅草吉野町一丁目(現在の東京都台東区今戸一丁目)生まれ。大正大学中退。在学中より詩作を発表。1938年「隣家の人々」で第7回芥川賞候補。
小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996… 小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、キリスト教徒。獨協大学名誉教授。第14代獨協中学校・高等学校校長。 東京生まれ。水戸高校、東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒業。東京大学教養学部教授。定年退官後、1965年、獨協大学教授。1970年から1979年にかけて獨協中学・高等学校校長。1980年、ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章。 学生時代から無教会の内村鑑三、藤井武、塚本虎二の聖書集会に参加、1940年から武蔵野市に武蔵野幕屋を設け日曜聖書講筵を行う。1950年、阿蘇山で聖霊にうたれ開眼し、使徒的次元の原始キリスト道を唱道し、独自の神学をうちたてたとされる。
今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 193… 今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 1935年6月19日)は、日本の詩人。 宮城県伊具郡丸森町生まれ。幼時に北海道旭川市に移る。小学校卒業後、新聞社給仕を経て、旭川郵便局に勤務。この頃から詩作を始め、1927年に小熊秀雄らと詩誌『円筒帽』を発刊。その後上京し、『婦人戦旗』などの編集にたずさわる。1931年日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成に参加し、『プロレタリア文学』などに反戦詩を発表。1932年3月、駒込署に検挙され、その時の拷問がもとで入院。人事不省に陥り、生死の境をさまよう。回復後の1933年、日本共産党に入党。病気に苦しみながら創作を続けるが、1935年結核で死去。
武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 199… 武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。 1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている。 旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科に進学。1930年(昭和5年)に卒業した後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された。
青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944… 青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944年7月30日)は日本の詩人、文芸評論家。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)に医師の三男として生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)では同級に唐木順三がいた。早稲田大学英文科在学中からアナーキズム文学雑誌『世紀文学』を創刊する。その後、文芸雑誌『黒色戦線』を創刊し、「丹沢明」の筆名で、同人誌にダダイズム的な評論や詩を発表した。1930年(昭和5年)『黒色戦線』を廃刊し、『黒戦』1932年『アナーキズム文学』を創刊する。1931年(昭和6年)京都帝国大学の青柳栄司の世話で、四条畷女子学校の英語教師となるが、2ヶ月ほどで退職し、千住税務署に勤務しながら文芸評論を続ける。