別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月… 別府 節彌(べっぷ せつや、1904年 <明治37年> 3月4日 - 1992年 <平成4年> 5月17日)は日本の外交官。初代ダブリン総領事。初代ラオス駐箚特命全権大使。元バチカン駐箚特命全権大使。位階は正三位。 1941年の開戦に先立つ1940年、英国のリバプール領事であった別府は、イースター蜂起をきっかけに英国から分離していたアイルランドに民家を借りて領事館を開設し、早くから日本とアイルランドの関係深化に努めた。第二次世界大戦中、中立国であったアイルランドでは諜報合戦が繰り広げられており、日本側はわずかな人員(領事と副領事のみ)であったにもかかわらず、十分に機能したというのは別府の功績によるものが大きい。
松平 忠久(まつだいら ただひさ、1904年〈明治37年〉2… 松平 忠久(まつだいら ただひさ、1904年〈明治37年〉2月11日 - 1991年〈平成3年〉10月27日)は、日本の外交官、政治家、実業家。衆議院議員。 長野県小県郡(現・上田市)出身。1925年(大正14年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)中国語科を卒業し、1930年(昭和5年)、広東嶺南大学(現・中山大学)を卒業。さらに、北京大学、ミシガン大学で学んだ。1930年(昭和5年)、外務省に入省し広東書記生に任官。1934年(昭和9年)10月、高等試験外交科試験に合格。以後、上海大使館報道部長、広東領事、南京領事などを歴任。 1951年(昭和26年)、長野県副知事に就任。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙で旧長野2区に右派社会党から出馬し当選。
田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月… 田村 秀治(たむら ひでじ、1904年 – 1988年10月2日)は、日本の外交官。アラブに長く勤務し、日本とアラブ諸国の友好関係樹立に貢献したとされる。 福井県大飯郡高浜村(現・高浜町)和田で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、1927年3月に、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現・大阪大学外国語学部)を卒業した。外務省留学生試験に合格し、エジプトへ派遣され、エジプト大学(現・カイロ大学)でアラビア語を学んだ。そのまま現地にとどまり、1930年4月よりアレキサンドリア総領事館に勤務した。ギリシャ人の女性と結婚。エジプトで田村は、日本とは大きく異なる気候・風土の中で土地を愛し、現地人になり切って友好関係の樹立を図った。
成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) … 成田 勝四郎(なりた かつしろう、1904年(明治37年) - 1982年(昭和57年)10月26日)は、日本の外交官。在ドイツ日本大使や終戦連絡中央事務局第一部長、国連政府代表団代表などを歴任。東京府出身。
奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 19… 奥村 勝蔵(おくむら かつぞう、1903年8月7日 - 1975年9月26日)は、昭和期の外交官。 岡山県岡山市出身。天王寺中学、第三高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。1926年(大正15年)、外務省入省。 アメリカ合衆国在ワシントン日本大使館の一等書記官在任中であった1941年(昭和16年)12月8日に、太平洋戦争が始まった。奥村はこの際に不得手なのに日米交渉打ち切りの文書をタイプライターを使い時間を浪費し浄書した。大日本帝国がアメリカ合衆国のコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りの文書を手渡したのは同日午後2時20分で、命令で指定された予定時刻から1時間20分の遅れであり、既に真珠湾攻撃は始まっていたため、日本による騙まし討ちと米国は宣伝した。
磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2… 磯野 勇三(いその ゆうぞう、1903年〈明治36年〉6月2日 - 1986年〈昭和61年〉11月19日)は、日本の外交官。 東京府(現・東京都)出身。1928年東京帝国大学法学部卒業。外務省入省後、1938年上海領事等をへて太平洋戦争開戦時はラングーン総領事。戦時中、第3部対外報道課長兼同調査課長等を歴任。敗戦時には文書課長。戦後、管理局在外邦人部長兼同経済部長、終戦連絡中央事務局管理部長兼管理局経済部長をへて、1948年特殊財産局長、1949年京都連絡調整事務局長等となる。 一旦退官後、1955年にサンパウロ総領事、57年ポルトガル公使、59年同大使、61年レバノン大使兼ヨルダン公使等に就任し、64年退官。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問、日本を守る国民会議議長などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子であり、オノ・ヨーコは姪。 終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」とも称された。 1903年(明治36年)に最年少代議士・弁護士・中央大学副学長であった父・加瀬禧逸の五男として千葉県旭町(現在の千葉県旭市大田)に生まれた。
桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25… 桑原 鶴(くわばら つる、1902年〈明治35年〉12月25日 - 1969年〈昭和44年〉7月28日)は、日本の外交官・文筆家。外交官としてはエジプト王国代理公使などを勤めた。外務省内にあって日独防共協定締結に反対し、太平洋戦争の無条件降伏による敗戦を予見して講和による終結を唱えたことで知られる。戦後は外務省を退官し在野で著述活動を行った。 群馬県利根郡川場村門前に生まれる。川場村尋常小学校を経て、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)から第一高等学校に進み、東京帝国大学法学部に入学。1924年高等文官試験外交科、翌1925年同行政科に合格。 1926年に外務省入省。イタリアや青島で在勤の後、1936年に公使館三等書記官としてアフガニスタンに赴任。
木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - … 木村 四郎七(きむら しろしち 1902年10月24日 - 1996年8月28日)は、日本の外交官。位階は正三位。 奈良県下市町長木村熊治郎の5男として誕生。1927年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1930年高等試験外交科合格、外務省入省。1941年5月から6月まで在香港領事館領事。1948年2月、連絡調整中央事務局第一部長に就任。1949年1月、連絡調整中央事務局次長に就任。1949年6月、外務省連絡局長、中央連絡協議会副会長に就任。 1951年11月、国交未樹立の台湾(中華民国)にて在台北日本政府在外事務所が開設され、同所長として派遣された。1952年、台湾政府との和平交渉に参加。同年から1953年まで、在中華民国(台湾)大使館参事官を務めた。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。
矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5… 矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5日 - 1990年(平成2年)8月13日)は、日本の外交官。初代外務省入国管理部長、初代外務省移住局長、駐チリ特命全権大使、駐キューバ特命全権大使。 山形県出身。旧制山形県立鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科卒業。1931年外務省入省。特別調達庁事業局次長兼経営部長、連絡調整中央事務局第三部長、外務省管理局入国管理部長などを経て、外務省移住課参事官として移民政策を構想した。日本・カンボジア平和条約が締結された1955年からは外務省移住局長を務め、農業労働者のカンボジアへの移民を行う旨の大綱について合意を獲得した。
太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 199… 太田 一郎(おおた いちろう、1902年6月6日 - 1996年1月20日)は、日本の外交官。位階は正三位。 外務省総務局長、外務事務次官を経て、駐タイ兼ラオス特命全権大使、駐イタリア特命全権大使兼駐チュニジア特命全権公使等を務めた。 山梨県甲府市生まれ。1922年第五高等学校文科甲類卒業。1924年(大正13年)高等試験外交科試験合格。同年東京帝国大学法学部政治学科を中退し、外務省在外研究員として中華民国に留学。1927年(昭和2年)外交官補任官、中華民国在勤、叙従七位。1928年英国在勤。 在南京副領事を経て、1932年(昭和7年)在上海副領事。同年在中華民国公使館三等書記官。1937年(昭和12年)在ロスアンゼルス領事、日本赤十字社ロスアンゼルス特別委員長。
根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18… 根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18日 - 1992年〈平成4年〉3月31日)は、日本の外交官、法務官僚。杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクへ逃れてきたユダヤ難民に対して、在ウラジオストク総領事代理として外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる。2017年以降に、彼自身も命のビザ(根井ビザ)を発行していたことも判明した。 1902年(明治35年)、宮崎県宮崎郡廣瀬村福島(現在の宮崎市佐土原町)出身。1908年(明治41年)、広瀬尋常高等小学校入学、同校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する。1916年(大正5年)、長崎県立中学玖島学館に入学。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
松原 秀治(まつばら ひでじ、1902年 - 1984年12… 松原 秀治(まつばら ひでじ、1902年 - 1984年12月)は、日本の外交官、言語学者。 慶應義塾大学卒業、外務省に勤務し、翻訳課で仏訳などを手がけるうちに、冠詞研究を深めていった。三宅徳嘉によれば、その業績は日本人の仏語研究としてフランス本国で高い評価を得た最初のものであるという。以後も外務省勤務の傍ら仏語研究や著述を続けた。 コンゴ代理大使などを経て、退官後は白百合女子大学教授。 1929年から32年までパリ、リヨン、グルノーブルに留学・勤務した。グルノーブル大学(フランス語版、英語版)に留学中、フランス文学者松原秀一が生まれている。青柳瑞穂の友人。娘は小山七々子の名で著作活動をしている。
土屋 隼(つちや じゅん、1902年 - 1978年2月9日… 土屋 隼(つちや じゅん、1902年 - 1978年2月9日)は、昭和時代の日本の外交官。位階は正三位。 静岡県出身。東京府立中学の教諭を務めた後、1930年東北帝大法学部卒業、外交官試験合格、同年外務省入省。外交官補として米国勤務の後、1935年情報部第2課、40年上海、42年調査局、スウェーデンで勤務。戦後は終戦連絡中央事務局総務部を経て、1950年調査局長、翌年12月欧米局長を務める。欧米局長時代の1953年2月、接収解除貴金属及びダイヤモンド関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。その後、1954年4月総領事としてニューヨークへ赴任。 1957年3月駐コロンビア大使、61年3月駐フィリピン大使、63年1月駐ギリシャ大使を歴任。
北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - … 北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員、外務省参与、内閣官房副長官を務めた。 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学でM.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する。その後は香港で中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官兼北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館に参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。
川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月… 川村 茂久(かわむら しげひさ、1901年(明治34年)3月21日 - 1980年(昭和55年)8月6日)は、日本の外交官。甲府市長。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)で父「広瀬久政」、母「さと」の四男として生まれる。七里尋常小学校、旧制日川中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官(外交科)試験に合格後、大正13年(1924年)に外務省に入省、大正15年(1926年)にワシントン日本大使館、昭和2年(1927年)にロサンゼルス日本領事館、昭和3年(1928年)外務省アジア局、昭和8年(1933年)スイス・ベルン日本公使館、昭和9年(1934年)外務省調査部、昭和14年(1939年)に興亜院調査官を務め、昭和22年(1947年)に行われた山梨県知事選挙に出馬するが落選。
結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 196… 結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 1968年11月20日)は、日本の外交官。東京帝国大学法学部政治科卒業。外務省アメリカ局第一課長・同第三課長、通商局第三課長、スウェーデン公使、セイロン(現スリランカ)大使、トルコ大使などを歴任。日米交渉時の来栖三郎特命全権大使の随行員として渡米し、英米への日本側の情報漏洩元として名が挙がったことで知られる。 息子は結城弘隆。娘は結城美栄子。孫は岩城滉一の妻・結城アンナ。(結城美栄子は結城アンナの叔母) 福島県奥川村の農業・熊八の四男として生まれ、大正15年に高等試験外交科試験に合格し、昭和2年に東京帝国大学法学部政治科卒業後、外務書記生として英国、外交官補としてドイツに赴任、国際連盟の日本帝国代表者随員を務め、満州国、ポーランド在勤を経て、昭和15年末に外務書記官・叙高等官4等として外務省アメリカ局第一課長に就任、翌年10月には通商局第三課長、同11月に日米交渉のため急遽渡米した来栖三郎特命全権大使の随行員としてワシントンの日本大使館で事務方作業にあたった。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12… 寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12月21日 - 1951年(昭和26年)8月21日)は、日本の外交官、元・宮内省御用掛。 1900年、貿易商・寺崎三郎(福岡藩出身)の二男として神奈川県に生まれた。兄は、外交官・寺崎太郎。暁星中学より旧制一高を経て東京帝大法学部を中退し、1927年に外務省入省。ブラウン大学に公務留学。1931年、ワシントンD.C.の日本大使館在勤中に米国人グエンドレン・ハロルド(Gwen Harold, 1908-1990)と出会い結婚。 その後、上海(勤務時に娘マリコが出生)、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンの日本大使館に赴任。
華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月… 華山 親義(はなやま ちかよし、1900年(明治33年)9月26日 - 1972年(昭和47年)8月10日)は、昭和期の官僚、外交官、政治家。衆議院議員。旧姓・江口。 山形県で江口親明の二男として生まれ華山儀一郎の養子となる。山形高等学校を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部を卒業。同年、内閣統計局に入局し統計局属に任じられ、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、統計局書記官・庶務課長、興亜院書記官・総裁官房勤務、大東亜書記官・大臣官房会計課長、北京大使館参事官兼総領事などを務めた。戦後、参議院常任委員会専門員、山形県副知事などを歴任した。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に山形県地方区から日本社会党公認で出馬して次点で落選。
古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月… 古垣 鉄郎(ふるかき てつろう、1900年(明治33年)9月20日 - 1987年(昭和62年)3月8日)は、日本のジャーナリスト、外交官。筆名は中馬 藤十郎。 1900年(明治33年)に鹿児島県日置郡日置村大字日置(現在の日置市日吉町日置)に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、第一高等学校を卒業したのち、島津奨学資金の援助でフランス共和国のリヨン大学法学部へ留学し同校を卒業した。1923年(大正12年)からジュネーブに駐在し国際連盟事務局情報部に勤務した。同部ではロックフェラー3世(英語版)が連盟を学ぶために配属されており、古垣は彼と同室で過ごして面倒を見ている。1929年(昭和4年)に国際連盟事務局を退職し、同年に朝日新聞社に入社してロンドンとパリに在住し、論説委員としてロンドン支局長、欧米部長、ヨーロッパ支局長などを務めた。
中嶋 忠三郎(なかじま ちゅうざぶろう、1900年〈明治33… 中嶋 忠三郎(なかじま ちゅうざぶろう、1900年〈明治33年〉9月4日 - 1998年〈平成10年〉1月18日)は、日本の判事、外交官、西武鉄道重役。 群馬県碓氷郡岩野谷村岩井(現・安中市岩井)に、名望家・中嶋利平の四男として生まれる。父方の親戚には衆議院議員・須藤嘉吉がおり、母方の従兄にヤマタネ創業者・山崎種二がいる。陸軍幼年学校への進学を希望したが父に反対され、小学校高等科から東京の日本中学校に編入する。脚気により同校を休学後、目白中学校の編入試験を受け合格。目白中学校を卒業し、中央大学法科に学ぶ。1925年に中央大学法科を卒業し、同年高等文官試験司法科に合格。この年入営し、1927年司法官試補として採用された。
井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - … 吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - 1969年7月15日)は、日本の外交官。初代駐カンボジア特命全権大使。 熊本県熊本市出身。府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)、第三高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1936年在中華民国大使館二等書記官。1940年外務省調査部第六課長。1945年在フランス大使館参事官。 同年から外務大臣官房儀典課長事務取扱を務め、帝国ホテルの犬丸徹三と相談し、連合国軍占領下の日本における連合軍将官宿舎の選定を進めた。 1946年終戦連絡京都事務局長。1948年京都連絡調整事務局長。1953年外務省参与。1954年駐カンボディア特命全権公使。
杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 19… 杉原 荒太(すぎはら あらた、1899年8月28日 – 1982年1月20日)は、日本の政治家、外交官。参議院議員(4期)。防衛庁長官(第3代)。 佐賀県杵島郡中通村(後の山内町、現武雄市)に生まれる。 1917年旧制鹿島中学校卒業。旅順中学校を経て1922年大阪市立高等商業学校(後の大阪市立大学)を卒業後。外務省に入省。アメリカ合衆国ヴァーモント大学に留学、卒業する。 帰朝後は南京総領事、本省法規課長、企画課長、大東亜省総務局長、外務省調査局長、同条約局長を歴任。 戦後、首相となった吉田茂とは何かと対立し、1946年いわゆる“Y項パージ”で外務省を追放され、弁護士となる。 1950年、第2回参議院議員通常選挙に自由党から佐賀選挙区にて立候補し当選を果たす。
川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 19… 川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 1985年10月9日)は、日本の外交官。1921年に外務省に入省して以降、主にラテンアメリカ諸国に置かれた在外公館に駐在し、1965年に在ボリビア日本大使(特命全権大使)に任ぜられた。外務省を退官後、1970年から1977年までラテンアメリカ協会の理事長を務めた。 1899年3月27日に生まれ、福岡県で幼少期を過ごす。1921年3月に東京外国語学校西語部拓殖学科を卒業し、同年4月に外務省に通訳生として入省する。 入省後は、在ダバオ領事館、在スペイン大使館などを経て、1928年に在リマ領事館への赴任以降は、ラテンアメリカ諸国を中心にキャリアを歩んでいく。
西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 19… 西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 1980年11月12日)は、日本の外交官。 佐賀県出身。佐賀中学、五高を経て1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業後外務省入省、在中華民国日本国大使館外交官補。入省同期や前後期に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、伊東隆治(自治政務次官、衆議院議員)などがいる。 在フランス日本国大使館書記官を経て、1937年条約局三課長、1940年条約局一課長、1944年(昭和19年)ハノイ総領事。終戦(敗戦)後の1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)の条約局長時にサンフランシスコ平和条約、旧日米安保条約締結の事務にあたる。
井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996… 井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長や、内閣総理大臣秘書官、駐トルコ特命全権大使、日本ユネスコ国内委員会事務総長などを務めた。 東京出身。旧制暁星中学校を経て、1922年東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。1925年同大学学部卒業、外務省入省。外務大臣官房文書課長、外務省総務局付大使館参事官等を経て、1945年外務省戦時経済局長。同年日本の降伏に伴う改組により外務省経済局長。1946年外務省調査官。1947年終戦連絡中央事務局経済部長。1948年外務省特別資料部長。1949年内閣総理大臣秘書官。1950年九州連絡調整事務局長、九州地方連絡協議会会長。
渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - … 渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - 1983年7月15日)は、日本の外交官。外務事務次官。
福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年… 福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年5月3日)は、日本の外交官。元南西方面海軍民政府司政長官。 神奈川県生まれ。1923年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒。 1921年高等文官試験外交科試験合格、1922年高等試験行政科試験合格、1923年外務省入省、在上海領事官補。1925年在アメリカ合衆国外交官補。1928年在カナダ外交官補兼在オタワ領事官補。1929年在カナダ公使館三等書記官兼在オタワ副領事。1932年外務省条約局第一課外務事務官。1936年同課長代理。同年在上海領事。1937年在中華民国日本大使館二等書記官兼南京総領事代理。同年南京事件のため引揚。1938年在中華民国日本大使館二等書記官。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1… 加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。 外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一(としかず)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。 東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進む。東京帝大在学中の1920年に高等文官試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、鹿島守之助など。 1935年に欧亜局第一課長、1938年に在アメリカ合衆国日本国大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開戦後の1942年にイタリア公使となった。
岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月1… 岡崎 勝男(おかざき かつお、1897年(明治30年)7月10日 - 1965年(昭和40年)10月10日)は、日本の政治家、外交官。内閣官房長官(第6代)、外務大臣(第72-74代)、衆議院議員(3期)。第二次世界大戦後、吉田茂によって推進された対米協調外交において重要な役割を担った人物。また陸上競技選手(中距離走・長距離走)としての経歴も持つ。 神奈川県横浜市生まれ。米屋を営む岡崎安之助の十男。23歳上の長兄に政治家で日米富士自転車を創業した岡崎久次郎がいる。 厚木中学(現神奈川県立厚木高等学校)、第一高等学校を経て、1922年東京帝国大学経済学部を卒業。 カルカッタ総領事、外務省調査官、情報局情報官を経て外務省調査局長となる(1945年6月)。
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6… 松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 台湾台北で、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ、広島県呉市広育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て経て、1921年(大正10年)東京帝国法学部卒業し外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任。 1942年(昭和17年)、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年に東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。
安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月… 安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月4日 - 1986年(昭和61年)1月20日)は、日本の外交官、弁護士、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(2期)。 岐阜県可児郡御嵩町出身。1922年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1925年パリ大学卒業(法学博士)。 外務省調査部第3課長、欧亜局、大東亜省総務局長、1942年11月条約局長、同省政務局長、1945年退官。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に岐阜2区から当選。衆議院では外務委員長を務める。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では落選するが1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で返り咲き。
秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月… 秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月12日 - 1947年〈昭和22年〉9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。 長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年(大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。
阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 194… 阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 1944年7月5日)は、日本の外交官。第二次世界大戦中ドイツの将来に悲観的な見通しを持ち、日本の対英米戦争への参戦に反対したことで知られている。
神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月… 神吉 正一(かんき しょういち、1897年(明治30年)1月5日 - 1964年(昭和39年)8月17日)は、日本の外交官。満州国総務庁次長。蒙古聯合自治政府最高顧問。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1… 田尻 愛義(たじり あきよし、1896年11月28日 - 1975年10月29日)は、日本の外交官。特命全権公使として上海在勤ののち、外務省政務局長や、大東亜次官、外務次官を務めた。 中国の民族主義を尊重する立場をとり、外交官生活の大半を中国で送った。日中和平交渉史の中では、汪兆銘側から求められて香港総領事に就任したことで知られるが、実際には田尻は「汪兆銘工作」に対して強い批判を持っていた。 1896年11月、島根県に生れる。1920年3月、東京高等商業学校(のちの一橋大学)附設商業教員養成所を卒業し、同年4月、京都市立第一商業学校(のち京都市立西京高等学校)の教諭となる。1921年外交官及領事官試験合格。
市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)… 市河 彦太郎(いちかわ ひこたろう、1896年(明治29年)9月2日 - 1946年(昭和21年)4月1日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 静岡県の市河彦三の子として生まれる。市河家は沼津の大地主で豪商。静岡県立沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。フィンランド公使館一等書記官、外務書記官・文化事業部第三課長、同第二課長を歴任。1940年(昭和15年)12月、駐イラン公使に就任した。 1946年4月1日、第22回衆議院議員総選挙に立候補した森田豊寿の応援演説中に、我入道公会堂において脳溢血のため死去した。 沼津中学時代の後輩芹沢光治良の『人間の運命』に登場する主人公森次郎の親友・石田のモデルであるとも言われる。
水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月… 水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月20日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、日本の外交官。特命全権公使。 静岡県出身。1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部法律科を卒業した。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、大使館三等書記官、外務事務官、公使館二等書記官、同一等書記官を歴任し、その間にベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアに勤務した。1935年(昭和10年)、外務書記官・調査部第二課長となり、通商局第一課長、同第三課長兼第四課長などを経て、1940年(昭和15年)に通商局長に就任した。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 19… 塚本 毅(つかもと たけし、1896年〈明治29年〉- 1973年〈昭和43年〉12月7日)は、昭和期の日本の外交官。 熊本県玉名郡に生まれる。熊本県立玉名中学校(1916年卒業)を経て、1921年(大正10年)に東京高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業した。1920年(大正9年)高等試験行政科試験に合格し、1921年に外務省に入省した。若手の頃から白鳥敏夫らとともに革新派官僚と呼ばれる。 外務省アメリカ局第二課長、スイス公使館書記官、外務省南洋局長心得、拓務省拓南局参与、ハルビン総領事や、スイス公使、外務省通商局勅任事務官、サイゴン公使、仏印総督府総務長官などを経て、1945年(昭和20年)から翌年にかけて最後の仏印大使を務めた。