増沢 洵(増澤 洵、ますざわ まこと、1925年〈大正14年… 増沢 洵(増澤 洵、ますざわ まこと、1925年〈大正14年〉5月5日 - 1990年〈平成2年〉10月12日)は、東京都生まれの日本の建築家。1952年発表の自邸吹抜けのある家『最小限住居』などで著名。
職業が建築家・建築学者:1,277人
増沢 洵(増澤 洵、ますざわ まこと、1925年〈大正14年… 増沢 洵(増澤 洵、ますざわ まこと、1925年〈大正14年〉5月5日 - 1990年〈平成2年〉10月12日)は、東京都生まれの日本の建築家。1952年発表の自邸吹抜けのある家『最小限住居』などで著名。
内田 祥哉(うちだ よしちか、1925年5月2日 - 202… 内田 祥哉(うちだ よしちか、1925年5月2日 - 2021年5月3日)は、日本の建築生産学者、建築家。東京大学名誉教授。日本学士院会員。一級建築士資格所有。 東京都生まれ。内田祥三(建築構造学の大家で東京帝国大学学長を歴任)の二男。兄は、敗戦後まもなく夭逝した建築家内田祥文。 武蔵高等学校 (旧制)を卒業。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、逓信省、電気通信省を経て、日本電信電話公社建築部(現・NTTファシリティーズ)に勤務。 1961年、東京大学工学博士。論文の題は「建築構法の分析と綜合の研究」。 東京大学助教授-教授-名誉教授、明治大学教授、金沢美術工芸大学教授を歴任。1993年、日本建築学会会長。
篠原 一男(しのはら かずお、1925年4月2日 - 200… 篠原 一男(しのはら かずお、1925年4月2日 - 2006年7月15日)は、日本の建築家。 静岡県生まれ。1947年東京物理学校卒業後、東北大学で数学を専攻。建築に転向し東京工業大学建築学科で清家清に師事。1953年卒業後、1986年定年退官に至るまで東工大の教壇に立ち、プロフェッサーアキテクトとして、住宅を中心とする前衛的な建築作品を一貫して手がけた。 磯崎新と並んでメタボリズム後の日本建築界のリーダーと目され、特に1970年代以降の住宅建築デザインに多大な影響を与えている。坂本一成、白澤宏規、長谷川逸子、葛西潔、葛西秀一郎、高橋寛、高橋晶子、武田光史、西村博司、坂牛卓、安田幸一ら篠原研究室出身者の他、伊東豊雄へも直接的な影響を与えており、彼らは、篠原のカリスマ性や哲学的スタイルから「篠原スクール」「エピステーメー派」などと称された。
光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 20… 光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 2000年3月8日)は、日本の建築家、都市計画学者。九州大学名誉教授。工学博士。社団法人日本都市計画学会九州支部初代支部長、財団法人福岡都市科学研究所初代理事長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。「地方都市の計画と設計における基本的考察」により工学博士の学位を取得(東京大学、1971年2月18日)。 九州大学工学部建築学科の創設期に、九州大学での講義を兼務していた丹下健三(東京大学助教授、当時)の後を受けて助教授として赴任し、定年退官まで同学科の発展に寄与した。 丹下研究室時代には、倉吉市庁舎(1956年、鳥取県倉吉市)の設計等を担当した。九州大学では、建築学教室、九州大学五十周年記念講堂、工学部七十五周年記念庭園等を設計し、キャンパスの整備に貢献するとともに、九州各地において数多くの学校建築、商業建築、公共建築等を手がけた。
井上 孝(いのうえ たかし、1925年2月23日 - 200… 井上 孝(いのうえ たかし、1925年2月23日 - 2004年11月7日)は、日本の建設技官、政治家。 国土庁長官(第23代)兼研究・学園都市担当大臣兼土地対策担当大臣(宮澤改造内閣)、参議院行財政機構及び行政監察に関する調査会長、同議院運営委員長、同国会等の移転に関する特別委員長、同内閣委員長、同エネルギー対策特別委員長、参議院議員(3期)、建設事務次官、建設技監、建設省道路局長、同省東北地方建設局長などを歴任。 1925年(大正14年)2月23日、中華民国吉林省長春南満洲鉄道附属地常盤町に生まれる。本籍地は新潟県。旧制旅順高校を経て、京都大学工学部土木工学科に入学。その後、学士試験に合格し、2年間大学院特別研究生として在籍した。
三輪 正弘(みわ まさひろ、1925年2月7日 - 2013… 三輪 正弘(みわ まさひろ、1925年2月7日 - 2013年7月7日)は、日本の建築家、インテリアデザイナー。 東京市(現中野区東中野)出身。父は弁護士・政治家の三輪寿壮、弟は医学者の三輪史朗。1949年東京工業大学建築学科卒。『新建築』の編集、建築綜合研究所(現アール・アイ・エー)を経て、1971年三輪環造形研究所を設立し所長(のち三輪環境計画と改称)。1971年東京造形大学教授、1977年武蔵野美術大学教授、1995年名誉教授。日本インテリアデザイナー協会会長。一級建築士。1985年『インテリアデザインとは何か』で日本図書館協会特定賞受賞。「にんべん本店ビル」「貝類博物館」「軽井沢町立博物館」など。
沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)… 沖 種郎(おき たねお、1925年2月5日 - 2005年)は、日本の建築家、都市計画家。通称「オキタネ」。 1925年(大正15年)、京都府峰山町に生まれる。1945年(昭和20年)第六高等学校 (旧制)を卒業後、東京大学に入学。1951年(昭和26年)同大工学部建築学科卒業後、大学院修士課程に進学。丹下健三計画研究室に所属し学ぶかたわら、広島平和記念会館本館、神奈川県立図書館・音楽ホール計画、外務省庁舎計画案、広島子供の家、愛知県民館を担当する。1954年(昭和29年)修士課程修了後、丹下健三のもとで清水市庁舎、図書印刷・原町工場(沼津市)、香川県庁舎を担当するほか、白百合学園(仙台市)や旭洋印刷社屋などを手がける。
津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 20… 津端 修一(つばた しゅういち、1925年1月3日 - 2015年6月2日)は、日本の建築家、都市計画家、評論家。愛知県岡崎市出身。 1945年に海軍技術士官として厚木飛行場に赴任するが終戦を迎える。1947年に新制東京大学に再入学する。 1951年、東京大学第一工学部建築学科卒業。丹下健三の下で住宅問題の研究をテーマに卒業論文に取り組む。前川国男の建築設計事務所への入所を希望するが前川と太田博太郎の推薦でアントニン・レーモンドの事務所に所属する。その後坂倉準三の建築設計事務所を経て、1955年日本住宅公団発足と共に入社。 日本住宅公団勤務時、多摩平・高根台団地、阿佐ヶ谷住宅をはじめとする多くの団地を設計するなど、公団初期の全体計画を手がける。
杉浦 克美(すぎうら かつみ、1925年- )は、日本の建築… 杉浦 克美(すぎうら かつみ、1925年- )は、日本の建築家。石本建築事務所、日建設計工務で活動。愛知県出身。 1948年、東京大学卒業。
早川 正夫(はやかわ まさお、 1925年- 2013年)は… 早川 正夫(はやかわ まさお、 1925年- 2013年)は、日本の建築家。1962年に早川正夫建築設計事務所を設立する。数寄屋建築の第一人者であり、茶室の設計や歴史的建築物の復元や改修を数多く手がけている。また木材の接合部に金物を使用しない「カンザシ工法」の開発者であり大規模な現代木造建築を手がけている。 建築家・堀口捨己の高弟であり、堀口の設計体制を継承している。 茨城県生まれ。東京大学第一工学部建築学科を昭和23年に卒業。辰野金吾賞受賞。坂倉準三建築研究所に勤務。昭和26年明治大学工学部の助手として堀口捨己教授の研究室に入る。昭和37、明治大学助教授を退職し早川正夫建築設計事務所を設立する。
青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 200… 青木 正夫(あおき まさお、1924年6月20日 - 2007年8月7日)は、日本の建築学者、建築家。九州大学名誉教授。 1924年(大正13年)6月20日、山口県都濃郡富田町で生まれた。生家は裕福な地主であった。1932年に徳山中学を卒業し、同年4月に旧制広島高等学校へ入学。1934年9月、東京帝国大学第一工学部建築学科へ進学。大学では吉武泰水に師事。1948年3月に東京大学を卒業し、その際には辰野金吾賞を受賞。その後は同大学に進み、1953年3月に特別研究生前後期課程を満期退学。 1953年8月に、東北大学工学部助手に就任。翌1954年4月に講師昇格。九州大学に建築学科が新設されることとなり、1956年9月より九州大学工学部助教授となった。
横山 公男(よこやま きみお、1924年5月10日 - 20… 横山 公男(よこやま きみお、1924年5月10日 - 2010年)は日本の建築家。千葉県船橋市出身。早稲田大学理工学部建築学科卒。 事務所設立初期から日蓮正宗の総本山である大石寺の伽藍の設計を手がけ、大客殿の設計では日本建築学会賞を受賞した。1972年(昭和47年)には大石寺の伽藍設計の集大成となる正本堂を竣工させた。しかし、昭和末期から平成にかけて横山の設計した建物は徐々に取り壊され、現在では大講堂など境内に数えるほどしか残っていない。正本堂の解体には創価学会関係者だけでなく、建築関係者からも反対の声があった。 1988年、株式会社建築家会館第3代社長に就任、2期8年務めた。2008年、日本建築学会名誉会員。
高橋 靗一(たかはし ていいち、1924年4月27日 - 2… 高橋 靗一(たかはし ていいち、1924年4月27日 - 2016年2月25日)は、日本の建築家である。日本統治時代の青島生まれ。大阪芸術大学名誉教授、第一工房代表。日本建築学会員、日本建築家協会名誉会員。 代表作に 佐賀県立博物館、大阪芸術大学、東京都立大学南大沢キャンパス、全労済情報センター、パークドーム熊本、群馬県立館林美術館、あいち海上の森センター、白河市立図書館などがある。 青島生まれ。東京大学第二工学部建築学科を卒業後、逓信省営繕部設計課勤務。大学助教授を経て第一工房を設立(1960〜2015年)。東京大学、東京工業大学、東北大学、九州芸術工科大学、明治大学、東海大学、東京電機大学の非常勤講師歴任。
洪 悦郎(こう よしろう、1924年3月20日 – 2009… 洪 悦郎(こう よしろう、1924年3月20日 – 2009年1月4日)は、東京都出身の建築学者。 文禄の役時に朝鮮半島より日本へと送られた学者・書家の洪浩然を祖とする家系である。東京大学建築学科卒業後、東京大学大学院に進学するものの中退し、同大学の工学部助教授を経て教授となる。その後、1984年に北海道大学工学部教授、1989年に室蘭工業大学工学部教授を歴任し、1994年に退官。日本コンクリート工学協会では会長を務めたほか、日本建築学会でも副会長を務めた。 1986年に北海道新聞文化賞を受賞。1991年には紫綬褒章、1996年には勲二等瑞宝章が授与されている。2009年1月4日、東京都目黒区の病院にて心不全で亡くなった。
木下 茂德(きのした しげのり、1924年(大正13年)3月… 木下 茂德(きのした しげのり、1924年(大正13年)3月17日 - 1999年(平成11年)4月25日)は、日本の建築学者。工学博士。日本大学名誉教授。第8代日本大学総長。1989年から1990年まで日本建築学会会長(第41代)を務めた。位階は正四位。 出生地は愛知県犬山市。出身地は香川県小豆郡池田町(現小豆島町)。 旧厚生省・中央児童福祉審議会委員、旧科学技術庁参与、総務庁・老人問題懇談会委員、厚生省・中央心身障害者対策協議会委員、日本不動産学会副会長などを歴任。 専門は高齢者・福祉施設の建築計画。 建築経済学のうち建築生産学。
大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月2… 大谷 幸夫(おおたに さちお、1924年〈大正13年〉2月20日 - 2013年〈平成25年〉1月2日)は、日本の建築家、都市計画家。東京大学名誉教授。 東京都赤坂区(現・港区)生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。丹下健三の片腕として、広島平和記念資料館や旧東京都庁舎の設計を手伝う。1964年、東京大学都市工学科助教授就任。1971年から1984年まで、東京大学都市工学科教授。1984年から東京大学都市工学科名誉教授。1983年から1989年まで千葉大学建築学科教授。大谷は生前、「住宅は中庭のあるのが基本」と述べ、自身のポリシーとしていた。2001年、勲三等瑞宝章受章。 一級建築士 登録番号第32349号 日本建築学会、日本都市計画学会、日本建築家協会文化庁文化財保護審議会専門委員会、文部省大学設置審議会専門委員会、建設省建築審議会委員、厚生省生活環境審議会 等
池田 武邦(いけだ たけくに、1924年1月14日 - )は… 池田 武邦(いけだ たけくに、1924年1月14日 - )は、日本の建築家、実業家。元日本設計代表取締役社長で株式会社日本設計名誉会長、株式会社日本設計池田研究室代表、ハウステンボス株式会社代表取締役会長、環境NPO「聚」理事長。日本の高層建築の黎明に携わった。
髙崎 正義(たかさき まさよし、1924年〈大正13年〉 -… 髙崎 正義(たかさき まさよし、1924年〈大正13年〉 - 1993年〈平成5年〉7月4日)は、日本の建設技官。国土地理院長を務めた。 水戸高等学校理科を経て、1948年東京大学理学部地理学科を卒業後、建設院総務局企画課に任官。1978年国土地理院長。1986年度から1992年度まで日本地図学会会長を務めた。
齋藤雪彦『むらづくり入門』世界思想社、2022年。 青木 志… 齋藤雪彦『むらづくり入門』世界思想社、2022年。 青木 志郎(あおき しろう、1923年12月24日 - 2017年12月)は、日本の農村建築学者。農村計画学者。東京工業大学名誉教授。日本建築学会副会長、農村計画学会会長を歴任。内閣農政審議会専門委員、農林水産省「豊かなむらづくり」審査委員等を歴任。 長野県東筑摩郡筑摩地村(現塩尻市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制弘前高等学校を経て、1948年に東京工業大学を卒業。同年に東京工業大学工学部建築学科の助手を務めた。1949年、東北大学農学部に新設された家政学科、のち生活科学科に講師として赴任。建築計画学に生活科学の視点を組み込む農村計画学の基礎を構築。
山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1… 山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1998年7月28日)は、日本の運動選手そして建築家。1952年の夏季オリンピックで男子三段跳びに出場。公務員(香川県庁職員)として香川県庁舎の建設に携わり、後に建築家として香川県の現代建築文化の基礎を築いた。 山本は香川県建築課を率いて地元香川に根づく建築の姿を模索。日本を代表する建築家の丹下健三、芸術家では猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、流政之、インテリアデザイナーのジョージ・ナカシマらと協働したほか、大江宏、芦原義信、大高正人、浅田孝ら著名な建築家とも交流し、香川県の公共建築の水準の向上にも努めたことが知られる。一方で自己研鑽にも努め、建築家としての才能を発揮していった。
宮野 秋彦(みやの あきひこ、1923年(大正12年)10月… 宮野 秋彦(みやの あきひこ、1923年(大正12年)10月15日 - 2016年(平成28年)12月7日)は、日本の建築学者。名古屋工業大学名誉教授。元日本熱物性研究会会長。元日本建築学会副会長。 名古屋生まれ。1944年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業。1945年東京工業大学工学部建築学科卒業。1962年東京工業大学工学博士。東京工業大学助手、同助教授、名古屋工業大学助教授、同教授を経て、退官後福山大学教授、名古屋工業大学名誉教授。1972年日本建築学会賞受賞。1986年日本熱物性研究会会長。1987年日本建築学会副会長。2001年勲三等瑞宝章受章。日本建築学会名誉会員、日本熱物性学会名誉員、中国文物学会名誉理事。
大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 201… 大高 正人(おおたか まさと、1923年9月8日 - 2010年8月20日)は日本の建築家、都市計画家。福島県三春町出身。 福島県三春町に生まれる。祖父が三春藩士で河野広中をリーダーに自由民権運動の激しい戦いに身を投じ、苦難の境涯に屈することはなかったが、運動はもはやこれまでと自ら命を絶ったとされ、大高の父は、これを隠して弾圧を逃れる生活を送り、大高の生後間もなく福島市近郊に移った。 1940年旧制福島県立福島中学校(現福島県立福島高等学校)卒業。在学中器械体操部のマネージャーと美術部部長をつとめる。このころや少年時代のもっとも楽しかった想い出は、風景を水彩で写生したことだという。 41年旧制浦和高等学校理科入学。
山本 学治(やまもと がくじ、1923年2月11日 - 19… 山本 学治(やまもと がくじ、1923年2月11日 - 1977年5月20日)は、日本の建築学者。建築研究家。建築史家。建築構造学者。構造史家。建築教育者。建築評論家。 構造工学から建築歴史学などからのアプローチによって、多くの建築批評を展開。また、東京美術学校、東京藝術大学の教員として長く教鞭を執り、多くの建築人材の育成に当たった。また勤務先の東京藝術大学では山岳部長をつとめ、芸大山岳部の歌「ぼくらの故郷(原曲 Lustig ist das Zigeunerleben)」を制作している(『山と雪の歌』理論社、1955年 所収)。 東京出身。東京帝国大学第二工学部建築学科卒業後、東京帝国大学大学院に進学。
藤本 盛久(ふじもと もりひさ、1923年 - 2016年1… 藤本 盛久(ふじもと もりひさ、1923年 - 2016年1月8日)は、昭和期の建築学者である。専門は当時黎明期にあった日本の鉄骨構造建築の広範な学際的、基盤的、先駆的研究。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - … 福島 正人(ふくしま まさと、1922年12月15日 - 2004年3月12日)は、日本の建築工学/建築構造学者、建築材料/建築生産学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。 専門は、建築工学・建築構造、建築材料・建築生産(特にコンクリート工学)。 福島 万沙塔(読みは本名と同じ)の俳号で俳人としても活動した。 鹿児島県に生まれる。1940年に旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を、1942年9月に旧制第七高等学校造士館理科を、それぞれ卒業した。1945年、東京帝国大学第二工学部(現:東京大学工学部)建築学科を卒業する。のちに、東京大学より論文「南九州産軽量骨材の利用に関する研究」にて工学博士号を取得している。
佐藤 巧(さとう たくみ、大正11年(1922年)9月20日… 佐藤 巧(さとう たくみ、大正11年(1922年)9月20日 - 平成30年(2018年)3月9日)は、日本の工学者、建築学者。東北大学名誉教授。 飯田須賀斯に師事する。専門は古建築学で、日本住宅および集落史、東北地方を中心とした中近世の古民家、社寺、城郭建築などの調査、保存研究で知られる。戦災で焼失した伊達政宗の霊廟瑞鳳殿の再建、仙台城復元計画なども業績の一部である。宮城県、山形県、岩手県、仙台市それぞれの文化財保護審議委員を長く務めた。
徳永 勇雄(とくなが いさお、1922年5月27日 - 20… 徳永 勇雄(とくなが いさお、1922年5月27日 - 2003年10月1日)は、日本の建築学者。 長崎県に出生。東京大学卒業後、同大学院修了。専門は建築経済。工学博士。明治大学で教鞭を執り、後に名誉教授。1965年に建築産業の構造分析に関する一連の研究で、日本建築学会賞受賞。その他、日本建築積算協会名誉会長、日本建築学会建築社会システム委員会委員長(1976~1983年)、全日本建築士会会長などを務めた。 [人物レファレンス事典: 昭和 (戦後)・平成編, 第 2 巻 日外アソシエーツ, 2003]
金 重業(キム・ジュンオプ、ハングル: 김중업、1922年3… 金 重業(キム・ジュンオプ、ハングル: 김중업、1922年3月9日 - 1988年5月11日)は、大韓民国の建築家である。 1922年3月9日誕生。本貫は延安金氏(朝鮮語版)。父は金永弼、母は李英子であり、5男2女の家族の次男として生まれた。父は郡守であり、幼少期は江東・中和・成川などを転々とした。平壌の高校を卒業したのち横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)にて中村順平に師事し、ボザール様式建築を学んだ。1941年に同校を卒業したのち、松田平田設計にて3年勤務した。1944年に帰国したのち、朝鮮住宅営団(朝鮮語版)、朝鮮飛行機製作株式会社などを経て、1947年にはソウル大学校の助教授となった。
波多江 健郎(はたえ たけお 大正11年(1922年)1月1… 波多江 健郎(はたえ たけお 大正11年(1922年)1月11日-平成27年(2015年)10月25日 )は、日本の建築家。都市計画家。都市研究者。波多江健郎建築研究所を主宰。工学院大学名誉教授。社団法人大都市圏研究開発協会「リバーブル21東京」研究委員会委員長。 東京生まれ。1948年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。日本放送協会NHK建築部勤務を経て1952年渡米し米国ワシントン州立大学建築学部を卒業し米国建築学士修得。その後ハーバード大学デザイン大学院にて修士課程を修了し米国建築修士修得。大学院在学中にボストンやニューヨーク・タイムズスクエアエリア、スプリングフィールドなどの中心市街地の都市再開発に携わる。
長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月… 長谷川 房雄(はせがわ ふさお、1922年(大正11年)1月 - 2020年(令和2年)12月29日)は、日本の建築学者。専門は建築環境工学、建築計画学。東北大学名誉教授。工学博士。 1922年(大正11年)、静岡市生まれ。1934年(昭和9年)3月、静岡市立安西小学校卒業。1939年(昭和14年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。1942年(昭和17年)9月、静岡高等学校 (旧制)理科一類卒業。1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学第二工学部建築学科卒業。同年11月、財団法人建設技術研究所に就職。1951年(昭和26年)3月、同退職。4月、東北大学工学部建築学科助教授、1961年(昭和36年)9月、『建築壁体の熱伝導計算法に関する研究』により工学博士(東京大学)。
吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、… 吉原 正(よしわら ただし、1922年 - 2014年)は、日本の建築家。中村順平のボザール教育を受け、同級の松本陽一と親交をもつ。鹿島建設時代に、天野太郎や樋口清と親交をもち、天野がフランク・ロイド・ライトのもとから帰国した後、共に設計活動を行う。天野がパーキンソン病で死去するまで設計活動を支え続けた。
長 大作(ちょう だいさく、1921年9月16日 - 201… 長 大作(ちょう だいさく、1921年9月16日 - 2014年5月1日)は、日本の家具デザイナー、建築家。 中国東北部(旧満洲)生まれ。1945年に東京美術学校建築科を卒業し、1947年に坂倉準三建築研究所に入社。 1957年の「藤山愛一郎邸」、1958年の「八代目 松本幸四郎邸」では、建築の設計から家具のデザインに至るすべてを手がけたという。 1960年に「低座イス」を発表して同年グッドデザイン賞を受賞。1972年に長大作建築設計室を立ち上げた。
金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、… 金 正熙(キム ジョンヒ、英: Kim Jeong-hui、1921年7月9日 - 1975年11月2日)は北朝鮮の建築家・都市計画家。1940年代から1950年代にかけて、平壌の都市計画に携わったことで知られる。一般にも1987年に公開された映画『ある建築家に関する話』(한 건축가에 대한 이야기)で知られるようになる。 平壌は朝鮮戦争で壊滅的に破壊されたが、停戦後、ソ連の援助で復興事業が開始され、1951年の金の都市デザインにより、社会主義国特有の広場や、スターリン様式を取り入れたプロパガンダ色の濃い町が建設された。金はその後、平壌のみならず北朝鮮各地の都市復旧建設事業に尽力していく。 平安北道の農家の子として出生。
堯天 義久(ぎょうてん よしひさ、1921年5月24日 - … 堯天 義久(ぎょうてん よしひさ、1921年5月24日 - 2013年1月20日)は、日本の建築学者。専門は建築構造学。第8代神戸大学学長、第3代大学入試センター所長を務めた。 香川県観音寺市出身。1939年、愛媛県立三島中学校(現・愛媛県立三島高等学校)卒業。1941年、徳島高等工業学校(現・徳島大学工学部)機械工学科卒業。 1942年に東京工業大学(のちの東京科学大学)附属高等工業教員養成所建築学科に入学。1944年に卒業し、同年9月に神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)に着任する。 1947年、神戸工業専門学校教授。1951年、神戸大学助教授。1959年、東京工業大学工学博士。 神戸大学教授を経て、1981年から1985年まで神戸大学学長を務め、神戸大学名誉教授の称号を受けた。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
佐野 正一(さの しょういち、1921年(大正10年)1月1… 佐野 正一(さの しょういち、1921年(大正10年)1月10日 - 2014年(平成26年)3月20日)は、日本の建築家。大阪市生まれ。建築家安井武雄は岳父。 1942年(昭和17年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、鉄道省(当時)に入省、海軍技術将校(建築部門)を経て1945年(昭和20年)に復員、運輸省、国鉄などで勤務。1955年(昭和30年)安井建築設計事務所に入社。1961年(昭和36年)同社社長に就任。その他、日本建築協会名誉会長、大阪府建築士事務所協会会長、日本建築士事務所協会連合会名誉会長、日本建築家協会関西支部顧問、建築審議会委員などを歴任。 2014年3月20日午前8時30分、腎臓疾患のため兵庫県西宮市の病院で死去。
大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年… 大竹 十一(おおたけ じゅういち、1921年 - 2005年)は、日本の建築家。 宮城県生まれ。第一早稲田高等学院から、早稲田大学理工学部建築学科に進学。早稲田大学で会津八一に師事。卒業後、佐藤武夫の建築設計事務所(現・佐藤総合計画)を経て、梓建築事務所(現・梓設計)を共同で設立。 その後1952年から早稲田大学へ戻り武基雄の作品に尽力。1954年、吉阪隆正に請われて建築設計事務所の吉阪研究室(のちのU研究室)創設に参加。同研究室の番頭となる。ヴェネツィア・ビエンナーレ・日本館の設計など吉阪作品に携わるかたわら、メンバーを指導。1976年ごろ病を患いしばらく設計活動から遠ざかるがのち復職。1980年の吉阪亡き後もU研究室で設計活動を続けた。
川越 邦雄(かわごえ くにお、1920年12月12日 - 1… 川越 邦雄(かわごえ くにお、1920年12月12日 - 1994年11月2日)は、日本の建築学者。専門は防災科学および防火。日本火災学会会長などを歴任した。 東京府(現・東京都渋谷区)出身。父の丈雄は大蔵次官、平和相互銀行会長を歴任した。母のタミは陸軍大佐の長女。建設省建築研究所第5研究部長を経て、1969年に建設省建築研究所長となる。 1973年に東京理科大学教授に就任し、同大学火災科学研究所を主宰した。1984年に、日本建築設備安全センター理事長となった。 著書に『新建築学大系 12. 建築安全論』『建築施工』(建築士試験講座)など。日本建築学会特殊コンクリート造関係設計基準の基準作成関係委員も務めた。
池辺 陽(いけべ きよし、1920年4月8日 - 1979年… 池辺 陽(いけべ きよし、1920年4月8日 - 1979年2月10日)は、日本の建築家。長く東京大学教授として、工業化という方向から建築をとらえた作品を残した。 戦後すぐの日本における住宅問題に対し「立体最小限住宅(1950年)」と呼ばれる住宅を発表し、同じ50年代に発表された増沢洵の「最小限住宅」、清家清「森邸(1951年)」、広瀬鎌二「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案した。工学博士。東京都出身。 1920年釜山(現・大韓民国釜山広域市)生まれ。父は内務省の官僚。 東京豊島師範小学校、東京高等学校を経て、1942年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、同大学大学院に進学する。
久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 … 久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 - 2011年 <平成23年> 4月1日)は、日本の建設技官。初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、日本の下水道行政の基礎を築いた。1994年には日本人として初めてストックホルム水賞を受賞した。勲二等瑞宝章受章。位階は正五位。 北海道夕張市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)を経て、1944年北海道帝国大学工学部土木工学科卒業。満洲国政府高等官試補、神戸市復興本部を経て、建設省が発足した1948年に同省に入省し、水道課に配属された。建設省下水道課長を経て、初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、流域下水道計画を推進し、長與專齋、關一、ウィリアム・K・バートン、中島鋭治らと並んで、日本の下水道事業を軌道に乗せた技術者と評された。
富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日… 富家宏泰(とみいえ ひろやす、1919年〈大正8年〉7月1日 - 2007年〈平成19年〉12月21日)は、戦後日本を代表する建築家。香川県生まれ。 1919年7月、香川県に生まれて間もなく、一家は朝鮮半島へと移住した。しかし、富家の幼少時、外地でまん延したチフスが原因で一家は子供を除いて全滅してしまった。引き揚げた富家は京都下鴨にある親族の家庭に引き取られて育った。その後、京都府立第一中学校を1937年(昭和12年)に卒業、第三高等学校(理科甲類、1942年卒業)を経て京都帝国大学建築学部(現・京都大学工学部建築学科)へ進学した。入学後ほどなく徴兵され北満州への従軍を余儀なくされたものの、終戦後は復学して建築学科を卒業。
光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8… 光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8日 - 1999年(平成11年)4月11日)は日本の建築家。兵庫県庁舎などモダニズムの作品を残した。位階は正五位。 福岡県出身。1942年、東京工業大学建築科卒業。召集を受け、ビルマ戦線で終戦を迎え、捕虜生活となる。日本に帰還後、1948年に兵庫県庁入り。1950年に営繕課へ配属され、以後、県庁舎や県立近代美術館の設計に当たる。1970年に退職し、明石工業高等専門学校教授。1979年、同校を辞し、光安建築設計事務所を開設する。兵庫県建築設計監理協会会長などを務めた。1999年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は… 境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は、日本人のインテリアデザイナー・建築家。1950年に個人アトリエを開設。以後、主に飲食店のインテリアデザインと建築デザインを手がける。家具やオブジェなどの特徴的な造形要素を一見至って自由に配置しながらも機能性を損なうことのない巧みなプランニング、親しみやすいモティーフを主題とする軽妙で詩的なデザインは、高度経済成長期において店舗事業者から広く受け入れられ、数多くの作品が発表された。国内におけるインテリアデザイナーの社会的認知を高め、その活動の場を拡げるとともに、現在に至るインテリアデザインの主要なボキャブラリーをかたち作った人物のひとりである。
清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月1… 清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月13日 - 2005年 <平成17年> 4月8日)は、日本の建築家。 日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢洵の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日本の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。 勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。
樋口 清(ひぐち きよし、1918年10月8日 - 2018… 樋口 清(ひぐち きよし、1918年10月8日 - 2018年8月10日)は、日本の建築家。東京大学教養学部教授等を歴任。フランク・ロイド・ライトなどの著作を訳した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27… 片山 光生(かたやま てるお、1918年(大正7年)9月27日 - 1985年(昭和60年)8月16日)は、日本の建築家。官庁営繕と民間の建築家として活躍。建設省近畿地方建築局時代の奈良県庁舎が代表作。 名古屋市生まれ。愛知県立第五中学校、奈良中学校、旧制第六高等学校(岡山)を経て、1943年京都帝国大学工学部卒業。海軍に入り、高知で終戦を迎える。 1946年以降、運輸技官、建設技官として高松、大阪に赴任。1956年以降、建設省近畿地方建設局(課長職)、関東地方建設局(同)、中国地方建設局(部長職)を経て、1969年、建設大臣官房庁舎営繕部建築課長。 1973年に退官し、京都の内藤建築事務所の代表取締役社長に就任。
天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 199… 天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 1990年11月15日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学助教授、東京芸術大学教授で教鞭を歴任する中、吉原正、武藤章らと設計活動を行った。1990年従四位勲三等瑞宝章。 1918年広島県呉市生れ。第一早稲田高等学院を経て、1942年早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。卒業後に鹿島建設設計部に入社し、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。遠藤新の薫陶を受け、1952年に遠藤の師であるライトの下に遊学する。その他に、鹿島建設に顧問でいた吉田鉄郎の影響も受ける。
芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年… 芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年> 7月7日 - 2003年 <平成15年> 9月24日)は、日本の建築家。ソニービル、東京芸術劇場などの作品で知られる。『街並みの美学』で、いち早く都市景観の重要性を述べた。位階は従三位。 東京府(現・東京都)生まれ。府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学工学部建築学科卒業、技術士官として海軍に入る。 1945年(昭和20年)、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。1953年(昭和28年)、ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所。
田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918… 田中 角栄(たなか かくえい、旧字体: 田中 角榮、1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)は、日本の政治家、実業家、建築士。号は越山。 衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第64・65代)を歴任した。 自民党内最大派閥である田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤や影の総理などと呼ばれ、多大な影響力をもった政治家として知られる。 自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27… 望月 邦夫(もちづき くにお、1918年(大正7年)2月27日 - 1990年(平成2年)3月5日)は、昭和期の建設技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、水資源開発公団(現水資源機構)総裁、工学博士。 滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)で生まれる。1942年(昭和17年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業した。 戦後、建設省に入省し、河川局開発課長、同河川計画課長、国土総合開発審議会専門委員、建設省大臣官房技術参事官などを歴任し、1968年(昭和43年)近畿地方建設局長(現近畿地方整備局)に就任。退官後、水資源開発公団理事を務めた。 1974年(昭和49年)7月の第10回参議院議員通常選挙に滋賀県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。