多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 200… 多和 健雄(たわ たけお、1918年10月29日 - 2007年6月)は、愛媛県出身の教育者、体育学者、サッカー選手、サッカー指導者。 選手として旧制兵庫県立第三神戸中学校、東京高等師範学校でプレーして、中央大学法学部を卒業した。 大学卒業後は、都立高校体育科教諭として東京都立大泉高等学校などに勤めた。その後、東京教育大学講師となり、1954年には蹴球部監督として関東大学サッカーリーグ戦1部で優勝した。後に教授に昇格し、大学の改編に伴い、筑波大学教授となる。筑波大学退職後は、青山学院大学で教鞭を執った。 主にサッカーの普及・研究において顕著な業績を残した。日本サッカー協会理事・普及指導部長、日本ミニサッカー連盟会長、FIFAコーチングスクール校長、日本幼少児健康教育学会名誉会員などを歴任した。
堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日… 堤 達男(つつみ たつお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の彫刻家、教育者。 構造社会友、静岡県立松崎高等学校講師、鳩巣会会長(初代)、社団法人日展会員などを歴任した。 静岡県出身の彫刻家である。日本美術展覧会での特選を機に評価を確立し、伊豆半島で制作に勤しんだ。また、高等学校にて教鞭を執り、後進の育成にも務めた。彫刻家集団である「鳩巣会」では会長に推戴された。 1918年(大正7年)10月18日、静岡県賀茂郡仁科村に生まれた。幼い頃より美術に関心を持ち、彫刻家になることを志した。静岡県立豆陽中学校を経て、1936年(昭和11年)に東京美術学校に進学、彫刻科で学んだ。
堀内 政三(ほりうち まさぞう、1918年10月8日 - 2… 堀内 政三(ほりうち まさぞう、1918年10月8日 - 2012年12月27日)は、日本の教育者。巣鴨中学校・高等学校第4代学校長、学園長。山梨県出身。 東京文理科大学(現:筑波大学)卒業後、海軍予備員を志願し、特攻隊に入隊するも、出撃前に伊豆大島で終戦を迎える。巣鴨学園の創立者である遠藤隆吉の六女・幸(まさ)の婿であったため、一橋大学助教授から、巣鴨学園の校長に就任した。 1956年校長に就任、51年間もの間校長を務めたが、2007年に校長・理事長を辞任し、息子の堀内不二夫に職を譲った。退任した当時は全国の校長の中では在任期間が長いかつ、全国最高齢の校長だった。実質的に名ばかりではあるが、「学園長」と呼ばれる職に就いていた。
小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 … 小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 - 1976年(昭和51年)8月1日)は、日本の医師、医学博士、教育者、大日本帝国陸軍軍医。
佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9… 佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9日 - 2009年(平成21年)11月8日、旧姓:前田喜美子)は、日本の植物生理学、植物分子生物学者、教育者。北海道大学教授を務めた。 北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)を卒業後、北海道帝国大学農学部水産学科の白浜潔教授の副手となる[要出典]。1943年(昭和18年)に北海道帝国大学農学部水産学科(化学専攻)に入学した山西貞(てい)(お茶の水女子大学名誉教授)の研究への情熱に触発され研究生活への夢がふくらみ、1944年(昭和19年)10月に北海道帝国大学理学部植物学科に入学した。同学科植物第1講座(植物生理学)の坂村徹教授の指導で卒業研究「ハンゼヌラ・アノマーラの硝酸代謝とモリブデンの役割」に取り組む。
河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 … 河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 - 2005年〈平成17年〉9月6日)は、日本の実業家、教育者。河合塾理事長、山一證券副社長。 河合逸治の長男。東京商大を経て日本勧業銀行に入行し、経済安定本部や名古屋造船、山一證券にも出向した。後に実家の河合塾を継ぎ、弟の河合邦人と共に愛知県のローカル予備校から三大予備校の一角にまで育て上げた。1992年、フランス教育功労章オフィシエ受章。 静岡県生まれ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校、59回卒業)、名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月、東京商科大学(現・一橋大学)繰り上げ卒業(井藤半彌ゼミ)。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。
蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈… 高橋 重信(たかはし しげのぶ / じゅうしん、1918年〈大正7年〉4月9日 - 1980年〈昭和55年〉7月30日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県岐阜市出身。1938年(昭和13年)岐阜県師範学校を卒業し、1944年(昭和19年)同研究科を卒業した。 小学校訓導、陸軍伍長、岐阜県下国民学校訓導、中学校教諭、岐阜市教育委員会副委員長、日本社会党岐阜県本部書記長などを務めた。1955年(昭和30年)の岐阜県議会議員選挙に岐阜市選挙区から左派社会党公認で立候補して当選した。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)は社会党公認で当選している。衆議院議員補欠選挙に立候補するため、1964年(昭和39年)12月6日付で県議を辞職した。
吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20… 吉田 廣一(よしだ ひろいち、1918年〈大正7年〉3月20日 - 1967年〈昭和42年〉1月)は、教育者、重量挙げ選手。身長184cm、体重85kgの筋骨隆々体で知られ、平和祈念像のモデルとされている。何事も1番でなければ気が済まないという性格から「先頭」を意味する「せんとうはん」の愛称がある。 徳島県立穴吹高等学校出身のオリンピック代表選手。
三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田… 三宅 春恵(みやけ はるえ、旧字体: 三宅 春惠、旧姓:豊田、1918年〈大正7年〉3月13日 - 2005年〈平成17年〉12月9日)は、日本の声楽家(ソプラノ)・オペラ歌手・音楽教育者。二期会の創設者の一人。夫はピアニストでフェリス女学院短期大学教授兼学長の三宅洋一郎。 福岡市生まれ。父は英文学者・九州帝国大学教授の豊田実。1939年(昭和14年)東京音楽学校を卒業する。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 実質的なデビューは1939年(昭和14年)12月の新交響楽団(現: NHK交響楽団)定期演奏会のベートーヴェン『フィデリオ』マルツェリーネである。 戦時中の1945年(昭和20年)1月においても新交響楽団の演奏会に出演しているのが確認できる。
熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)… 熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)は、日本の画家、美術教育者。 山梨県東山梨郡菱山村(勝沼町を経て現甲州市)生まれ。1938年東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒、1942年早稲田大学専門学校政治経済科卒業。1948年東京美術学校油絵科内地留学修了。東京都の公立小学校教諭を1955年まで務める。1957年東京教育大学教育学部芸術学科構成専攻卒業。1958年二紀会絵画部同人。1965年国際美術教育会議(INSEA)東京会議事務総長を務める。1969年女子美術大学助教授、INSEA本部財務局長、1974年東京造形大学教授。1979年岡山大学教育学部教授。1983年上越教育大学教授。
矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、… 矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として小金井聖公会主任司祭や、教育者として立教大学一般教養部助教授を務める傍ら、立教学院百年史の編纂を提案し刊行するなど、立教学院の史実を掘り起こし、歴史を体系化することに尽力した。 1940年(昭和15年)、立教大学文学部宗教学科卒業。 1954年(昭和29年)、矢崎は小金井聖公会の主任司祭に就任する。1951年(昭和26年)に購入してあった用地に、牧師館と小金井聖公会仮聖堂が建てられ、同年12月12日には献堂式が行われた。 1964年(昭和39年)の秋頃、立教大学一般教育部助教授であった矢崎は、立教学院の年史書である「立教学院八十五年史」の次の年史である「立教学院百年史」の編纂を立教大学文学部史学科教授の海老沢有道とともに提案し、編纂を進めた。
長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2… 長岡 文雄(ながおか ふみお、1917年12月18日 - 2013年?)は、日本の教育者、教育学者。 福岡県八女市出身。書道の雅号 長岡 光邨(こうそん)。1937年福岡県小倉師範学校本科第一部卒。小倉師範附小に勤務時、24歳で文部省 師範学校中学校高等女学校教員検定試験「習字」に当時の最年少で合格した。書道家として東京の学校への就職を薦められたが、同時期に奈良女子高等師範学校附小からの招聘を受け、迷った末、教育者としての道を歩むことを決心する。1943年奈良女子高等師範学校附属小学校教諭となり、木下竹次の「学習法」を引き継ぎ、戦後は重松鷹泰と共に「奈良プラン」を樹立した。 長岡は、「教育は、ひとりひとりの子どもが、人間としての可能性をぎりぎりまで発現していくように手伝うことであり、個性的思考の深化を支援して、人間としての生き方を創造させることである。
安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月1… 安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月15日 - 1989年(平成元年)11月20日)は、日本の教育者、政治家。鳥取県議会議員、境港市長(第3代)。 元鳥取県議会副議長永井貞録の四男。元米子今井書店社長永井準の実弟。鳥取県議会議員安田優子の実父。 鳥取県西伯郡中浜村出身。永井貞録の四男として生まれ、叔母に子供がなかったため安田家の養子となる。実父貞録の「貞」と養父栄の「栄」をとって「貞栄」と命名された。 学期末通信簿を持って帰って、成績が一番になったことを言うと「百姓の跡取りにならなくなるぞ」と叱られた。部落の長老百太郎じいさんは特に説教の名人で「百姓の跡取りは百姓となるべきである。
森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 19… 森田 欽二(もりた きんじ、1917年12月11日 - 1979年4月13日)は、日本の政治家、教育者。自由民主党衆議院議員(1期)。 福岡県甘木市(現・朝倉市)出身。福岡県立朝倉中学校を経て福岡県福岡師範学校卒。甘木市立石小教諭、福岡県視学委員を務めた後、1947年(昭和22年)に福岡県議会議員となる。以来6期当選を重ね、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで県議会議長に就いた。1972年(昭和47年)に県議を辞任し、第33回衆議院議員総選挙で福岡1区から自由民主党公認で立候補したが落選。次の1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙で初当選する。衆議院では農林水産委員を務め農林行政に対する高い見識と実行力で注目された。
木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月1… 木村 剛輔(きむら ごうすけ、1917年(大正6年)12月10日 - 1994年(平成6年)8月16日)は、昭和期の政治学者、教育者、政治家。衆議院議員。父は初代法務大臣の木村篤太郎。 神奈川県出身。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。戦後にシカゴ大学で学んだ。 東京帝大法学部助手となり、召集され陸軍中尉で復員した。その後、東京教育大学助教授、シカゴ大学政治学客員教授などを務めた。小田原女子短期大学(現小田原短期大学)を創立して理事長兼副学長に就任した。 1958年(昭和33年)5月の第28回衆議院議員総選挙に神奈川県第3区から出馬したが落選。次の第29回総選挙でも落選したが、1963年(昭和38年)11月の第30回総選挙で初当選し、衆議院議員に1期在任した。
中村 好明(なかむら よしあき、1917年(大正6年)9月2… 中村 好明(なかむら よしあき、1917年(大正6年)9月28日 - 2019年(平成31年)2月[要出典])は、日本の音楽教育者。名前は「こうめい」と通称された。ふしづくりの音楽教育を山本弘、下通進平らと確立した。旧姓・飯島。 1917年、岐阜県大野郡高山町上三之町(現・高山市)に生まれる。東尋常小学校を卒業後、特進で岐阜県師範学校(現・岐阜大学教育学部)に入学。このとき高山から同時に入学したのが山本弘・下通進平だった。 1937年(昭和12年)、岐阜県師範学校を卒業し、音楽教諭となる。高山市立西小学校在勤中、『国民学校音楽教育』(1942年)、『音楽教育基本指導』(1948年)、『基底カリキュラム 音楽編』(1950年)といった音楽教育指導書を執筆し、1954年には『音楽のおけいこ』を上梓する。
山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月3… 山室 勇臣(やまむろ ゆうしん、1917年(大正6年)8月31日 - 2016年(平成28年)2月27日)は、日本の銀行家、教育者。三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)副頭取を務めた後、財団法人国際教育振興会理事長、ダイヤモンドリース(現・三菱HCキャピタル)社長・会長・相談役、国際大学第4代理事長。 東京府生まれ。陸軍中将・山室宗武の次男。 大東亜戦争の勃発した前年の1940年(昭和15年)7月、第七回日米学生会議では、宮澤喜一(東京帝国大学)、山崎秀之(神戸商科大学)、苫米地俊博(東京商科大学)の3名と共に日本側学生として参加。総務委員長を務めたが、特高警察が「この国家非常時に、毛唐と一緒に騒ぎ立てるとは何事か」と叱責を受ける。
西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8… 西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8月9日 - 2001年(平成13年)3月5日)は、日本の外交官、実業家、教育者。初代在泰日協会学校理事長、タイ・トーメン社長・会長。 大阪府泉南市で生まれる。 6歳の頃に姉を亡くしたが、1937年(昭和12年)、横浜専門学校(現・神奈川大学)に進学。刑法担当の林頼三郎をはじめ、国際法の横田喜三郎、経済学の中山伊知郎、 会計学の太田哲三、商工経営の美濃部亮吉、産業能率の上野陽一、商業数学の久武雅夫、英語のジョン・オーエン・ガントレット、 学監米田吉盛、倫理学の朝比奈宗源、英語の江本茂夫らの指導を受ける。 在学中に外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学した。
浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980… 浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980年1月4日)は、教育者、服飾研究家、学校法人浅井学園元学園長、専門学校北海道ドレスメーカー学院初代院長、北翔大学の前身にあたる北海道女子短期大学創立者。 北海道札幌市生まれ。叔父を頼って上京し、1934年、東京国華高等女学校卒業。その後、東京女子医学専門学校に合格するも、両親に反対されて女医の道を断念。生家の家事を手伝いながら学費を貯め、1937年再上京して、1939年杉野ドレスメーカー女学院師範科卒業。同年9月、洋裁教育を通じて女子の教養を高め、専門的技術修得によって女子に経済的独立の能力を習得させることを目的として、各種学校「北海ドレスメーカ一女学園」を創設した。
洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日ま… 洪 範憙(ホン・ボミ、朝鮮語: 홍범희、1917年6月8日または6月18日 - 1972年2月27日または2月28日)は、大韓民国の官僚、政治家、教育者。槐山郡郡守、内務部次官、制憲・第4代韓国国会議員。 本貫は豊山洪氏(朝鮮語版)。号は逸谷。漢字表記は洪範熹とも。 日本統治時代の江原道原州郡または慶尚北道善山郡出身。京城京北中学校を経て、1935年に京城第二高普、1937年に普成専門学校法科、1941年に中央大学法学部卒。1945年に高等文官試験行政科に合格した後、1946年に原州に育民館を設立し、館長を務めた。朝鮮食糧営団忠清北道支部勤務を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選し、国会交通逓信委員会常任委員会で活動した。
美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - … 美馬 昇(みま のぼる、1917年(大正6年)6月8日 - 1995年(平成7年)4月27日)は、日本の教育者。学校法人生光学園創立者。徳島県徳島市出身。藍綬褒章受章。 名東郡国府町中村(現在の徳島市国府町中)に生まれる。1929年(昭和4年)、三重実業学校教員養成所(現在の三重大学)を卒業。1933年(昭和8年)に地元である国府町中村に美馬学習塾を設立。 1941年(昭和16年)より徳島県立商業学校(現在の徳島県立徳島商業高等学校)で教務を務める。1945年(昭和20年)に徳島市中吉野町に生光商業学院を創立し、後の学校法人生光学園の基礎をかためる。 1995年(平成7年)4月27日、77歳で没する。
金 基喆(キム・ギチョル、朝鮮語: 김기철、1917年5月3… 金 基喆(キム・ギチョル、朝鮮語: 김기철、1917年5月31日 - 1986年10月10日)は、満洲国の教育者、大韓民国の政治家。制憲、第3・5・11代韓国国会議員。 本貫は慶州金氏、別称はソウォン(소원)。カトリック教徒。タレントであるリュ・シウォンの母方の祖父にあたる。 ソウルまたは忠清北道陰城郡生まれ。関西大学専門部修了(または学生赤友会事件により関西大学を中退し明倫学院卒業)後、満州吉林師範学校を経て教師として勤務し、1939年に満洲国神仙公立国民優級学校校長に任命され、その他に新京朝鮮青年団農場文化部長、東亜日報記者も務めた。一方で大韓民国臨時政府に登録し、1945年の時点で大韓民国臨時政府非常国民会議代議員も務めた。
筒浦 明(つつうら あきら、1917年5月14日 – 199… 筒浦 明(つつうら あきら、1917年5月14日 – 1993年1月28日)は、日本の地理学者・教育者。北海学園大学名誉教授。東京都赤坂出身 1942年明治大学大学専門部卒。東京帝国大学理学部地理学教室助手(指導教授:多田文男)(~1944年)。1947年北海道帝国大学理学部卒。北海道立札幌第二高等学校社会科教諭。1950年北海道札幌南高等学校社会科教諭。1953年北海道大学文学部助手。1958年北海学園大学経済学部専任講師。1963年同助教授。1965年同教養部教授。1969年北海学園大学開発研究所長。1972年同教養部長。1980年北海道開発協会会長。1990年北海学園大学定年退職。同名誉教授。
市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 198… 市川 清志(いちかわ きよし、1917年5月8日 - 1986年11月18日)は、日本の都市計画家、教育者。工学博士。建築行政官、戦後は日本大学教授として、商業地の研究のほか都市計画調査や計画立案基礎づくりにつとめるほか、都市計画分野の人材育成に当たった。 中央建築士審査会試験委員のほか、日本建築学会では関東支部長、評議員、文献委員会委員長、総務理事、副会長、建築学大系編集委員、そのほか日中建築技術交流会常務理事、学校施設基準規格調査会専門委員、日本都市計画学会評議員などを歴任した。
康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月… 康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月2日 - 1994年12月9日)は、大韓民国の実業家、政治家、教育者。初代・第2代済州道議会(現・済州特別自治道議会(朝鮮語版))議員、第2代済州道議会議長(1・2期)、第5代韓国国会議員(参議員)、第3代済州道体育会(現・済州特別自治道体育会(朝鮮語版))会長、第10代大韓卓球協会会長を歴任した。 済州島の現在の済州市地域出身。済州公立農業学校、大邱師範学校講習科(現・大邱教育大学校)、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械工学科卒。その後は東洋拓殖済州工場技手、済州酒精工業株式会社専務取締役、貨物船会社三洋企業株式会社社長、自由党所属の済州道議会議員、同議長(1956年9月3日〜1958年2月23日)、済州道汽船株式会社社長、第3代済州道体育会会長(1957年3月2日~1960年2月20日)、民主党所属の参議院議員、財団法人済州女子学院理事、新進工高校長、第10代大韓卓球協会会長(1975年1月~1976年1月)を務めた。
豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13… 豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13日 - 2007年(平成19年)2月9日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。筆名は冬欅。 福岡県筑紫郡席田村下月隈(現福岡市博多区下月隈)で生まれる。1937年(昭和12年)福岡師範学校本科第二部を卒業。その後、九州大学教育学部を修了した。 1937年、福岡市吉塚小学校教諭に就任。以後、東住吉国民学校、東光国民学校、馬出国民学校で勤務。戦後、福岡市立東光中学校教諭に就任した。また労働運動に加わり、福岡県教職員組合連合会長(1948-1949)、福岡県中学校教職員組合委員長(1949-1951)、第2代福岡県教職員組合委員長(1951-1953)を歴任した。
坊城 俊民(ぼうじょう としたみ、1917年〈大正6年〉3月… 坊城 俊民(ぼうじょう としたみ、1917年〈大正6年〉3月29日 - 1990年〈平成2年〉4月6日)は、日本の国文学者、教育者。 東京市にて、堂上華族の嫡子として誕生。父・坊城俊良(としなが)は伯爵で宮内官。母は子爵入江為守の娘・朔子(叔父に、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政)。神田区駿河台と麻布区笄町に育つ。 1935年(昭和10年)から翌年にかけ、親友・長與道夫の叔父・長與善郎(作家)の邸宅にて、中世国文学の研究者風巻景次郎の指導で源氏物語を初めて読み、文学的に大きな影響を受ける。 学習院では文芸部委員をつとめ、校友会誌『輔仁会雑誌』に詩や散文を発表すると共に、文芸部発行の「雪線」誌に自伝的小説『鼻と一族』などを発表。
小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11… 小島 慶三(こじま けいぞう、1917年(大正6年)3月11日 - 2008年(平成20年)8月30日)は、日本のエコノミスト、思想家、教育者、実業家、官僚、政治家、俳人。参議院議員(1期)。
生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 … 生江 義男(なまえ よしお、1917年(大正6年)3月2日 - 1991年(平成3年)4月28日)は、日本の教育者、専門は比較文化論。元学校法人桐朋学園理事長。 宮城県石巻市生まれ。石巻市立石巻中学校、東京高等師範学校卒、1941年(昭和16年)病のため東京文理科大学史学科を中退(のち53年卒業)。 1941年石巻市立石巻中学校教諭となるが、43年応召で中国に渡る。復員後、48年から桐朋学園に勤務。桐朋女子部教務・事務主任のときの51年、音楽科を併設して小沢征爾らの人材を輩出させた。60年から桐朋幼稚園・桐朋小学校・桐朋女子中学校・高等学校の専任校長となり、通信簿廃止・入学時の筆記試験廃止など個性重視の教育を実践し、62年桐朋学園大学教授兼務、86年から桐朋学園理事長を務めた。
嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日… 嘉悦 康人(かえつ やすと、1917年(大正6年)2月21日 - 2009年(平成21年)3月27日)は日本の教育者。元学校法人嘉悦学園学園長・理事長。 1917年(大正6年)2月、東京に生まれる。1943年(昭和18年)に嘉悦学園秘書課長、1946年(昭和21年)に同学園総務部長、1950年(昭和25年)に財団法人嘉悦学園理事長、1951年(昭和26年)に学校法人嘉悦学園理事長に就任する。1953年(昭和28年)に法政大学経済学部経済学科を卒業する。1966年(昭和41年)に日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、1972年(昭和47年)に嘉悦女子高校校長及び嘉悦女子中学校校長に就任する。
海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19… 海邉 忠治(かいべ ちゅうじ、1917年〈大正6年〉2月19日 - 2010年)は、日本の教育者、哲学者、宗教学者。甲子園短期大学元学長。相愛大学名誉教授。兵庫県出身。大阪府池田市に在住していた。 海邉藤八・てい夫妻の長男に生まれる。1941年(昭和16年)龍谷大学文学部を卒業。1947年(昭和22年)京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、龍谷大学講師を務める。 1948年(昭和23年)相愛女子専門学校教授となり、1950年(昭和25年)相愛女子短期大学助教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1958年(昭和33年)相愛女子大学教授(哲学担当)・同教務部長に就任。1984年(昭和59年)同大学人文学部長に就任。
丸尾 文治(まるお ぶんじ、1917年 - 2015年1月5… 丸尾 文治(まるお ぶんじ、1917年 - 2015年1月5日)は、日本の生物学者(生化学・分子生物学・農芸化学)、教育者。勲等は勲三等。学位は農学博士(東京大学・1954年)。東京大学名誉教授、社団法人日本生化学会名誉会員。 片倉製糸紡績株式会社での勤務を経て、東京帝国大学農学部助手、東京大学農学部助教授、東京大学応用微生物研究所教授、社団法人日本生化学会会長(第26代)、東京大学応用微生物研究所所長、東京大学評議員、日本大学農獣医学部教授、日本大学農獣医学部次長、埼玉第一高等学校校長(第3代)などを歴任した。 生化学、分子生物学、農芸化学などを専攻する静岡県出身の生物学者である。枯草菌の酵素に関する研究が知られており、α-アミラーゼの生成を制御する7つの遺伝子を特定し、それらを組み合わせることで生産性を従来の数千倍にまで向上させた。
牧野 隆信(まきの りゅうしん、1917年 - 2006年1… 牧野 隆信(まきの りゅうしん、1917年 - 2006年1月19日)は、石川県の教育者、郷土史家。北前船研究の第一人者。日本海事史学会理事、全国北前船研究会会長。 1917年、石川県加賀市生まれ。石川県師範学校本科第1部卒業。小学校訓導を経て、1943年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験合格(日東史)。石川県立大聖寺高等女学校教諭となる。戦後は新制の石川県立大聖寺高等学校教諭を経て、1977年、大聖寺高等学校校長を最後に退職。退職後は1989年3月まで石川県加賀市立図書館嘱託として勤務。 教員としての勤務の傍ら、1955年、地域の教員、医師、神社宮司らと共に「江沼地方史研究会」を創設。
大島 孝一(おおしま こういち、1916年12月7日 - 2… 大島 孝一(おおしま こういち、1916年12月7日 - 2012年8月27日)は、日本の教育者、物理学者、平和運動家。女子学院院長。 熊本市に生まれる。1935年福岡県中学修猷館、1937年旧制福岡高等学校理科乙類を経て、1940年、東北帝国大学理学部物理学科卒業。 1941年、福岡管区気象台に勤務中に応召し陸軍の気象班員となる。終戦後、1945年の暮れに九州に向かう途中で、原子爆弾で焼野原となった広島を見て衝撃を受け平和運動を志す。 その後、東北大学理学部地球物理学教室助手を経て、岩手大学学芸学部の物理学の助教授となり、岩手県農村文化懇談会の一員として『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書、1961年)の編集に参加している。
富永三郎(とみながさぶろう、1916年11月30日 - 19… 富永三郎(とみながさぶろう、1916年11月30日 - 1987年6月20日)は日本の作曲家・教育家。 長兄は富永太郎、次兄は富永次郎。国立音楽大学卒。作曲を大中寅二、菅原明朗に師事。童謡や邦楽作品などを主に発表する。「赤穂浪士」などの時代劇を中心とした映画音楽を多く手がけた。戦後は明星学園、晩年に尚美学園で教鞭を取り、邦楽や編曲の実演などを強力に推薦し、ヨーロッパへの留学生の後押しを積極的に推し進める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 200… 人見 楠郎(ひとみ くすお、1916年10月7日 - 2000年11月4日)は、日本の教育者、学校法人昭和女子大学の第2代理事長、昭和女子大学第5代学長。1974年から死去した2000年まで26年間にわたり長く学園経営のトップであり、学外での役職も数多く歴任し、「カリスマ理事長」として知られた。 岡山県出身。父は、詩人で昭和女子大学創設者の人見東明(圓吉)。 旧制第四高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部を卒業。旧制第八高等学校の漢文講師などを経て、1946年に父が経営する学園(後の学校法人昭和女子大学)に入り、1951年に関連法人である学校法人昭和高等学校に付設された昭和幼稚園の主事、次いで同法人が設けた昭和小学校の主事となり、1960年には第2代幼稚部園長となった。
小池 喜孝(こいけ きこう (別名よしたか))、1916年(… 小池 喜孝(こいけ きこう (別名よしたか))、1916年(大正5年)9月11日 - 2003年(平成15年)11月28日)は、日本の教育者、編集者、歴史研究者。東京都出身。 1916年(大正5年)9月11日、東京府北多摩郡東村山村(現:東京都東村山市)に小池喜八(東村山化成小学校の校長)とキク(または喜久)の長男として出生。1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校を卒業。小学校教師として東郷小学校に勤務する傍ら、法政大学高等師範部に通い、歴史や社会学の教科研究を続ける。太平洋戦争中は鷺宮国民学校(現:中野区立鷺宮小学校)に赴任し、福島県へ児童らと疎開した。 戦後は、東京都教育労働組合執行委員に選出され、書記局員を務めるが、1948年(昭和23年)にGHQから教職追放令が下ると公職追放となった。
新島 正子(にいじま まさこ、1916年8月17日 - 20… 新島 正子(にいじま まさこ、1916年8月17日 - 2014年10月4日)は、沖縄県出身の教育家。料理研究家。沖縄調理師専門学校設立者。沖縄の郷土料理の体系化、テキスト化に尽力した。またテレビ、ラジオ、講演等で活躍し、沖縄料理の発展に貢献した。 1933年、沖縄県立第一高等女学校卒業。1936年、東京家政学院専門部卒業。1938年、結婚を機に満州に渡り、戦後大阪に引き揚げた。夫の急死に伴って帰郷し、1959年、沖縄県初の料理学校である新島料理学院を設立した。1962年、琉球料理研究会を主催し、その普及・指導に当たる。1974年、沖縄調理師専門学校創立し、校長に就任。2001年から2009年まで沖縄満州会の初代会長を務めた。
田中 ふさ子(たなか ふさこ、1916年(大正5年)8月1日… 田中 ふさ子(たなか ふさこ、1916年(大正5年)8月1日 - 1943年(昭和18年)1月25日) は、日本の教育者。1936年(昭和11年)から1942年(昭和17年)にかけて長野県の小学校に教師として勤務し、生活綴方運動の実践を行った。指導した児童詩「ツクシ」(下平京子作)は児童詩集などに多く紹介された。 1916年(大正5年)8月1日、長野県上伊那郡伊那町で生まれる。子どもの頃に肋膜炎で一か月静養したこともあり、女学校入学後も再発するなど、小柄で病弱だった。しかし女学校時代は、弓やテニスをよくやるなど活発な面があり、数学と国語が得意で成績もよかった。 1933年(昭和8年)伊那高等女学校を卒業し、卒業後は家業を手伝った。
春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 20… 春田 正治(はるた まさはる、1916年4月29日 - 2005年7月24日)は、日本の教育学者、教育者。和光学園理事長を務めた。 愛知県生まれ。東京文理科大学教育科卒。山梨教育研究所、1952-68年和光学園校長、和光大学人文学部教授、1983-97年和光学園理事長。全国生活指導研究協議会、日本生活教育連盟。社会科および生活指導について実践・研究した。
小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014… 小池 千枝(こいけ ちえ、1916年4月14日 - 2014年5月28日)は、日本の教育者、ファッションデザイナー育成者。文化服装学院名誉学院長、文化服装学院10代目学院長、文化女子大学教授、勲四等瑞宝章。 長野県須坂市出身。旧姓は花園。文化裁縫女学校(現:文化服装学院)卒業。 1916年4月14日に長野県須坂市で米穀商を営む父:花園亀(ヒサシ)、母:咲(さく)の第二子長女として生まれる。1933年、須坂高等女学校(現:須坂東高等学校)を卒業後、文化裁縫女学校(現:文化服装学院)本科に入学。1934年に研究科に進み、1935年に研究科卒業と同時に学院に残り教員の道を選び、助手として最年少19歳の「先生」となる。
森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21… 森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21日 - 1979年〈昭和54年〉11月24日)は精神科医、地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設、理事長、学長、病院長を歴任した。 精神科医森村真澄・豊の一人っ子として兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で生まれる。尼崎市第三尋常小学校から兵庫県立第一神戸中学校(現神戸高校)を経て第三高等学校(現京都大学)に進んだ。卒業した1936年(昭和11年)は京都帝国大学文学部哲学科に合格したが方向転換、翌年、東京帝国大学医学部に入学、1941年(昭和16年)卒業、精神病学教室主任教授で東京都立松沢病院長を兼務する内村祐之の指導を受け、東大病院精神病学講座の副手嘱託となる。
大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月… 大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月19日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の建築行政指導者、都市計画家、都市計画研究者、教育者。東京都首都整備局技監や東京理科大学教授を歴任した。 石川県金沢市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、1938年(昭和13年)に優秀な成績で卒業する。当時の都市計画講座は内田祥三(のちに総長)の担当だった。卒業後は警視庁保安部建築課に就職し、都市計画の実務に入る。この就職には、都市計画講座に注力していた内田の薦めがあったともされる。 当時建築行政は警察業務として扱われており、東京府では警視庁が所管して市街地建築物法を執行していた。
有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 199… 有田 一壽(ありた かずひさ、1916年1月1日 - 1999年4月1日)は、日本の実業家、政治家、教育家。一寿とも。旧姓は正木。 日本統治時代の朝鮮平安北道新義州に生まれる。5歳で母親と、11歳で父親と死別し、福岡県築上町の叔父に引き取られる。小倉師範学校、福岡高等学校 (旧制)を経て、1941年東京帝国大学文学部教育学科を卒業。直ちに兵役に就く。 戦後は青葉ヶ丘女子高校(現・高稜高等学校)校長、福岡県教育委員(1948年当選)を務めた後、妻の兄である石橋健蔵が経営する若松築港(現・若築建設)に1952年に入社し、専務を経て、1958年社長に就任。後に会長(1976年)、名誉会長、相談役を歴任する。
権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、19… 権 東哲(クォン・ドンチョル、朝鮮語: 권동철/權東哲、1916年1月1日または1月21日 - 2006年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、大韓民国の公務員、政治家。青松郡守、第8代義城郡守、第4代達城郡守、参議員などを歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)、号は汾谷(プンゴク、분곡)。キリスト教徒。 日本統治時代の慶尚北道義城郡出身。同志社大学文学部神学科卒。私立白牙島(朝鮮語版)学院院長、義城学院院長、米軍政庁人事行政処職員、慶尚北道人事処補任課長、青松郡守、第8代義城郡守(1950年9月24日 - 1951年9月19日)、第4代達城郡守(1951年9月19日 - 1955年8月23日)、慶尚北道農道院長、サムソン中学校長、学校法人サムソン学院理事長、大韓民国憲政会(朝鮮語版)運営委員などを務めた。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月2… 藤井 典明(ふじい のりあき、1915年(大正4年)11月26日 - 1994年(平成6年)11月17日)は、日本の声楽家(バリトン、一部にテノールとなっているものも存在する)、合唱指揮者、音楽教育者。名前の読みをテンメイとしている資料もある。 広島県出身。1940年(昭和15年)東京音楽学校卒、1942年(昭和17年)東京音楽学校研究科修了。 1940年(昭和15年)読売新人演奏会でデビュー。オペラでは、藤原歌劇団を中心に、バリトン歌手として出演するとともに、1947年(昭和22年) - 1955年(昭和30年)藤原歌劇団合唱部の指導にあたった。オペラの公演に関わった記録は66回に及ぶ。 音楽教育面では、1940年(昭和15年)東京音楽学校教師。
小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 … 小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 – 2008年(平成20年)11月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県出身。1933年(昭和8年)米子中学校、1936年(昭和11年)関西大学大学専門部法科を卒業した。1940年(昭和15年)から神戸市の旧制中学校で教員を務めた。 戦後すぐに教職員組合の結成に取り組み、神戸市教職員組合の役員を務めた。1950年(昭和25年)日本社会党に入党。同党兵庫県本部書記長、同委員長、同顧問を歴任。1951年(昭和26年)兵庫県議会議員に選出され5期在任した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から社会党公認で出馬して初当選。
鄭 憲柱または鄭 憲株(チョン・ホンジュ、朝鮮語: 정헌주、… 鄭 憲柱または鄭 憲株(チョン・ホンジュ、朝鮮語: 정헌주、1915年9月23日 - 1999年5月21日)は、大韓民国の実業家、教育者、政治家。交通部長官、国務院事務処長、第2・4・5・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。金大中夫人李姫鎬の甥の1人は娘婿である。 慶尚南道固城郡出身。1935年徽文高等普通学校(現・徽文高等学校(朝鮮語版))卒、1941年中央大学法学部卒。中央大学同窓会委員長に選ばれたことがきっかけに独立運動を展開したが、検挙され投獄された。出獄後は朝鮮陶器社長、大韓独立促成国民会副支部長、釜山韓洋貿易株式会社社長、三千浦中学校(朝鮮語版)・三千浦女子中学校校長(1948年〜1950年)、南陽学園理事長(1951年)、第2代国会憲法起草委員会委員・法制司法委員会常任委員・国防委員会常任委員、第4代国会内閣責任制改憲案起草特別委員会委員長、第二共和国憲法起草委員長、民主党慶尚南道党副委員長・泗川郡党委員長・中央常務委員・政策委員、民主党張勉内閣の交通部(現・国土交通部)長官(通算第10代、1960年8月~9月)、第10代国務院事務処長(1960年9月12日~1961年5月18日)、新民党慶尚南道党委員長、民主党政策審議会議長、新民党政務委員・政策審議委員会議長・選挙対策本部次長兼企画室長・党務委員、第28回UN総会韓国代表、第61回IPU韓国代表理事、新民党全党大会議長(1976年)、民主化推進協議会指導委員(1985年〜1988年1月)を務めた。