小山 高生(こやま たかお、1948年(昭和23年)4月21… 小山 高生(こやま たかお、1948年(昭和23年)4月21日 - )は、日本の脚本家、作家。脚本家集団ぶらざあのっぽ主宰。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授。1988年(昭和63年)3月31日以前は本名の小山 高男名義で活動していた。自称「アジア最大の脚本家(身長が)」。東京都昭島市出身。 早稲田大学第一文学部卒業。大学2年生の時に「企画集団Q」に採用され、テレビ番組『クイズタイムショック』の問題作成のアルバイトを経験。1972年(昭和47年)3月1日に早稲田大学を卒業して、アニメ製作会社タツノコプロに入社。企画文芸部に所属して、数々のタツノコアニメの企画や脚本を担当した。企画を担当し最終作まで執筆した『タイムボカンシリーズ』にはとりわけ愛着が深く、復活運動にも力を入れた。
清水 大敬(しみず だいけい、本名:清水 昇、1948年4月… 清水 大敬(しみず だいけい、本名:清水 昇、1948年4月20日 - )は、日本の映画監督・俳優・AV監督・AV男優・脚本家。兵庫県洲本市出身。明治大学文学部演劇学科専攻卒業。 高校時代に演劇を始め、本格的に役者を目指す目的で、1967年に明治大学演劇学科に入学。 大学卒業後、賀原夏子率いる劇団NLTの研究所に入り、1年後には研究生として仮採用される。以後、清水 のぼるの名義で舞台を中心に活躍。 また、映画・テレビドラマへの出演も多く、『大空のサムライ』(1976年)、『悪魔の手毬歌』『祭ばやしが聞こえる』(1977年)などに脇役で出演した。 しかし、当時のNLTでは研究生として5年間経過すると基本的に準劇団員に昇格して本採用扱いとなるのが普通だったのだが、清水は「劇団の裏方などの仕事をやらない」「自分勝手」などの理由で準劇団員への昇格を見送られてしまう。
丸山 昇一(まるやま しょういち、1948年4月6日 - )… 丸山 昇一(まるやま しょういち、1948年4月6日 - )は、日本の脚本家。映画『野獣死すべし』やテレビドラマ『探偵物語』で知られる。宮崎県南那珂郡出身。 兄と姉は年齢が離れており、本人曰く「一人っ子同然に育てられた」。『年鑑代表シナリオ集』(1964年版)に掲載されていた新藤兼人『鬼婆』を読み、シナリオライターを志す。高校の演劇で戯曲を2本書いたことが地元の新聞に載り、「日本演劇界の天下を取るには」ということで上京。芝居を見まくる学生時代を過ごす。 日本大学芸術学部を卒業。大学の卒業シナリオ「三匹のガニ股」が映画学科主任賞を受賞。大学卒業後はオートスライド(CM・社内教育用スライド)製作会社に就職。
伊藤 秀裕(いとう ひでひろ、1948年2月29日 - )は… 伊藤 秀裕(いとう ひでひろ、1948年2月29日 - )は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサー、演出家である。映画制作会社 株式会社エクセレントフィルムズ代表取締役。CINEMA JACK映画塾 塾長。 1948年(昭和23年)2月29日、秋田県秋田市に生まれる。秋田県立秋田高等学校、東京教育大学を卒業後、電通東芝企画製作室を経て、1973年、日活入社。助監督として、神代辰巳、西村昭五郎らにつく。1979年、『団地妻 肉欲の陶酔』で監督昇進。1982年、フリーとなる。1984年、株式会社ビッグバンを設立し、プロデューサーとなる。平成3年には株式会社エクセレントフィルムズを設立し、三池崇史、渡辺武らの監督作品を発表している。
伊勢谷 宣仁(いせや のりひと、1948年 - )は、日本の… 伊勢谷 宣仁(いせや のりひと、1948年 - )は、日本の演出家、作曲家、デザイナー、脚本家、アート・コーディネータ、劇場運営・指定管理者研究者で、現在オペラ季節館を主宰。昭和音楽大学・同大学院教授を歴任。イベント学会会員。地域活性学会会員。 北海道網走郡大空町(旧東藻琴村)出身。中学校卒業後網走市に転居。網走向陽高等学校卒。国立音楽大学器楽科を卒業。クラリネットを小笠原長孝、大橋幸夫に師事、声楽を吉沢哲夫、指揮を増田宏三に師事。 大学時代よりオペラ研究会に所属。大学4年の6月次に、当時舞台芸術界に新風を巻き起こした東京室内歌劇場から招請され参画。直後発足間もない文化庁と様々な折衝の中、文化庁芸術祭主催公演ブリテン作曲「真夏の夜の夢」をコーディネートしプロ活動を開始。
高田 純(たかだ じゅん、1947年12月11日 - 201… 高田 純(たかだ じゅん、1947年12月11日 - 2011年4月21日)は、日本の脚本家、映画評論家。 別名義に「たかい すみひこ」がある。 長崎県西彼杵郡出身。慶應義塾大学文学部卒。 父親は広島市で爆心地から2キロで被爆しており、被爆2世として出生。本人曰く、親の一族は大半が教師という「教員一族」。 大学入学後に任侠映画を多く見まくっていたということで、その後も「任侠映画を語らせたら日本で五本の指に入る」ほどの自信があるとも語っている。大学在学中には落語研究会に所属、その後同会の先輩でもある松原敏春に弟子入りし、『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ)などのコント番組のギャグなどを手掛ける。
桃井 章(ももい あきら、1947年11月3日 - )は、日… 桃井 章(ももい あきら、1947年11月3日 - )は、日本の脚本家。東京都出身。 父は国際政治学者の桃井真、妹は女優の桃井かおりである。 東京都立北園高等学校卒業。シナリオ研究所修了後、PRライターを経て25歳の時にデビューする。以降、数多くのテレビドラマ・映画のシナリオを手がける。 1998年、雑誌「ドラマ」1998年8月号の寄稿にて脚本家廃業宣言をし、正式に脚本家を廃業する。趣味の料理を職業とすべく、郷鍈治・ちあきなおみが経営していた喫茶店「COREDO」(コレド)の屋号と場所を借り受け、バーとして開業する。その後乃木坂に移転し、2013年11月17日まで営業していた。 2007年11月再婚と同時に脚本家復活宣言をし、2008年に自身の脚本による舞台公演を行う。
川北 亮司(かわきた りょうじ、1947年10月31日 - … 川北 亮司(かわきた りょうじ、1947年10月31日 - )は、日本の児童文学作家、童話作家、漫画原作者、脚本家、エッセイスト。作者名は「かわきたりょうじ」「川北りょうじ」「川北亮司」。東京都荒川区出身、早稲田大学卒業。 [20代] 1967(昭和42)年〜1976(昭和51)年 [30代] 1977(昭和52)年〜1986(昭和61)年 [40代] 1987(昭和62)年〜1996(平成8)年 [50代] 1997(平成9)年〜2006(平成18)年 [60代] 2007(平成19)〜2016(平成28) [70代] 2017(平成19)〜 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
曽田 博久(そだ ひろひさ、1947年10月23日 - )は… 曽田 博久(そだ ひろひさ、1947年10月23日 - )は、日本の映画・テレビドラマ作品の脚本家、小説家。特にスーパー戦隊シリーズでは参加17作品、メインライター担当9作品、執筆本数399本はいずれもシリーズの最多記録である。 島根県簸川郡大社町(現:出雲市)出身、在住。横浜国立大学工学部中退。 大学時代は新左翼の活動家だったが内ゲバの激化に嫌気がさして、学校に通うのも嫌になり、「宮大工になるか、古美術商を目指すか、それとも陶芸家を目指そうか」と進路を迷っていた。そんな時に立ち寄った本屋でたまたま月刊誌『シナリオ』を手にとり、「これなら書けそう」と“勘違い”して、シナリオライターになることを決意。
竹内 銃一郎(たけうち じゅういちろう、1947年10月11… 竹内 銃一郎(たけうち じゅういちろう、1947年10月11日 - )は、日本の劇作家・脚本家。元近畿大学文芸学部芸術学科教授。本名・徳義。以前は「竹内純一郎」というペンネームであった。 愛知県半田市生まれ。愛知県立半田高等学校出身。早稲田大学第一文学部中退。自主映画制作やピンク映画シナリオ執筆などの後、1975年劇団斜光社を結成する。1976年、「少年巨人」で脚本デビュー。1979年、劇団斜光社が解散すると、1980年に秘法零番館を結成。1989年、秘法零番館が解散する。 1981年に『あの大鴉、さえも』で第25回岸田國士戯曲賞。1996年に『月ノ光』で読売文学賞(戯曲・シナリオ賞)と紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
高際 和雄(たかぎわ かずお、1947年10月1日 - 20… 高際 和雄(たかぎわ かずお、1947年10月1日 - 2007年12月)は、日本の脚本家。 青山学院大学在学中に脚本家の倉本聡に師事。倉本の口述筆記作業をこなしつつ1971年、アニメ『新・オバケのQ太郎』で脚本家デビューする。しかしアニメーション作品は自身の作家性に合致しないことを実感し、以降は一貫して実写ドラマを手掛けた。 サブライターの一員として途中からローテーションに加わった『風雲ライオン丸』と『鉄人タイガーセブン』では、従来の変身ヒーロー物が敢えて触れなかった「タブー」とも言える領域に踏み込んだ脚本を続出させ、視聴者に多大な衝撃とトラウマを与えることとなった。両作の最終回も高際が手掛けており、いずれも重く陰鬱な空気が漂うクロージングを迎えている。
大久保 昌一良(おおくぼ しょういちろう、1947年7月4日… 大久保 昌一良(おおくぼ しょういちろう、1947年7月4日 - 2011年2月11日)は、日本の脚本家、演出家。本名、大久保 昌一郎(おおくぼ まさいちろう)。福井県福井市出身。 福井県立藤島高等学校、明治大学文学部演劇科を卒業。 高校生時代から映画やドラマの業界の方へ進みたいと思っていた。大学時代は映画研究会に所属。 6つくらいのペンネームを使ってマイナー雑誌に官能小説を書いたり、大道具のアルバイトをしたりしてつないだ後、劇作家の福田善之脚本の映画を観て衝撃を受け、後にその福田と出会って知り合ったのが縁で、福田の元で脚本助手、演出助手を務め、また後に山城新伍と知り合ったのがきっかけで山城主演のコメディ番組『新伍とんでけ捕物帳』(毎日放送)で脚本デビュー。
古田 求(ふるた もとむ、1947年4月9日 - )は、日本… 古田 求(ふるた もとむ、1947年4月9日 - )は、日本の脚本家。佐賀県佐賀市出身。
高田 ひろお(たかだ ひろお、1947年3月28日 - )は… 高田 ひろお(たかだ ひろお、1947年3月28日 - )は日本の作詞家、絵本作家、脚本家。日本の歌謡曲で史上最多のシングルレコード売上を記録した「およげ!たいやきくん」の作詞者として知られる。 希望学園釧路第一高等学校を卒業後[要出典]上京し、弁護士をめざして大学の法学部に進学する。大学院まで進んだものの、弁護士には(合格に)時間がかかると言われて志望を断念し、25歳の時に星野哲郎に弟子入りする。作詞家や絵本作家を目指した理由は、都会の子供にも故郷の釧路のような自然に触れてほしいという思いだった。 絵本作家からスタートし、子供向けの楽曲の作詞を多く手がけた。「およげ!たいやきくん」は『ひらけ!ポンキッキ』の童謡募集の話を知って持ち込んだ曲の一つで、10歳頃に冬の銭湯帰りに鯛焼きを買って腹巻きに入れた経験を東京で思い出し、釧路の海であの鯛焼きを泳がせてやりたいと考えたことが元になったという。
黒土 三男(くろつち みつお、1947年(昭和22年)3月3… 黒土 三男(くろつち みつお、1947年(昭和22年)3月3日 - 2023年(令和5年)3月25日)は、日本の脚本家・映画監督。熊本県熊本市出身。 熊本県立熊本高等学校、立教大学法学部を卒業後、木下惠介プロダクションの助監督となる。2年間の勤務を経てフリーの脚本家となる。 1978年(昭和53年)TBS系で放送された『コメットさん』でTV脚本家としてデビューした。 1988年「とんぼ」「うさぎの休日」などで第7回向田邦子賞受賞。 1989年(平成元年)『オルゴール』で映画監督デビュー。自身がメガホンを取った作品は全て自らが脚本を手がけている。 山田洋次監督作品映画『幸福の黄色いハンカチ』で脚本家の一人として参加し、以来、木下惠介とともに山田洋次を師として仰ぐ。
松原 敏春(まつばら としはる、1947年2月13日 - 2… 松原 敏春(まつばら としはる、1947年2月13日 - 2001年2月6日)は、岐阜県岐阜市出身の脚本家・作詞家・演出家。慶應義塾大学法学部卒業。1992年、『家族日和'93』で第11回向田邦子賞受賞。 松原敏春が脚本したテレビドラマ、バラエティ番組、舞台演劇は以下の通りである。
荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は… 荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は、日本の脚本家・映画監督。日本映画大学教授。季刊誌『映画芸術』発行人、編集長。東京都生まれ。母方の祖父は日本画家の石井林響。若松プロダクション出身。 東京都立立川高等学校卒業。早稲田大学第一文学部除籍。脚本家の田中陽造に師事。若松孝二作品の脚本を出口出名義で、足立正生とともに執筆した。新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)が初脚本作品となった。その後、脚本家としてピンク映画や日活ロマンポルノなどの脚本を多数執筆している。1997年、『身も心も』が初監督作品となった(脚本も執筆)。「シナリオはシナリオ作家の著作物である」とのスタンスから、監督やプロデューサーが自身に無断で自作シナリオを改変したとして、『時代屋の女房』『眠らない街 新宿鮫』『KT』の公開時に、『月刊シナリオ』や『映画芸術』誌上で強い不快感を表明している。
藤原 緋沙子(ふじわら ひさこ、1947年 - )は、日本の… 藤原 緋沙子(ふじわら ひさこ、1947年 - )は、日本の小説家、時代小説作家、脚本家。 高知県生まれ。女性。本名は藤原 千津子(ふじわら ちづこ)。小松左京が主宰する創翔塾で小説を学ぶ。脚本家を経る。脚本作品は、『部長刑事』『京都妖怪地図』『暴れん坊将軍』『はぐれ刑事純情派』『長七郎江戸日記』『鞍馬天狗』『親子鷹』『刑事がんさん』など(石村嘉子、藤原嘉子名義)。 2001年、立命館大学文学部史学科を卒業する。2002年、「隅田川御用帳」シリーズの第1巻『雁の宿』で小説家デビュー。2013年、「隅田川御用帳」シリーズで第2回歴史時代作家クラブ賞のシリーズ賞を受賞する。 歴史時代作家クラブで、二代目代表幹事をつとめる。
四十物 光男(あいもの みつお、1946年12月1日 - 2… 四十物 光男(あいもの みつお、1946年12月1日 - 2023年6月5日[要出典])は、日本の脚本家。富山県出身。立教大学卒業。 この項目は、アニメ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。
藤井 邦夫(ふじい くにお、1946年11月22日 - 20… 藤井 邦夫(ふじい くにお、1946年11月22日 - 2025年10月12日)は、脚本家、小説家、元監督。北海道旭川市出身。別名義に相里修がある。 北海道旭川北高等学校を経て、日本大学藝術学部卒業。1970年に東映テレビプロダクションに助監督として入社。もともとは脚本家志望ではあったが、本を書くための勉強として割り切ったと本人は後に語っている。同期に映画監督の辻理がいた。 数多くの作品で助監督を務める傍ら、『特別機動捜査隊』(第799話「娘の思春期」)で脚本家としてデビュー。後番組『特捜最前線』では、助監督兼脚本家として活躍した。オープニングナレーションは藤井が考案している。第235話「少女売春・夢を掘る男!」で監督に昇進。
竹山 洋(たけやま よう、1946年7月28日 - 2023… 竹山 洋(たけやま よう、1946年7月28日 - 2023年4月12日)は、日本の脚本家、小説家。株式会社Ami Filmの中心作家。本名:武田 淳一(たけだ じゅんいち)。 埼玉県所沢市生まれ。埼玉県立所沢高等学校卒業。大学時代はジャズ・ベース奏者として活動し、早稲田大学文学部演劇科を卒業。 旅行代理店(広告代理店とも)、制作会社、構成作家、雑誌記者を経て、1973年頃から脚本を書きはじめる。師匠は高岡尚平。妻帯者。 主な作品に、テレビ朝日『特捜最前線』(1977年)、テレビ朝日『鉄道公安官』(1979年)のほか、根岸吉太郎監督の『朝はダメよ!』(1980年)、東陽一監督『うれしはずかし物語』(1988年)といった日活ロマンポルノ映画などでも脚本を執筆。
石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - 2022… 石井 隆(いしい たかし、1946年7月11日 - 2022年5月22日)は、日本の漫画家、脚本家、映画監督。本名・石井 秀紀。 宮城県仙台市出身。宮城県仙台第二高等学校を経て、早稲田大学商学部卒業。 早稲田大学ではシナリオ研究会に所属していたが、学生運動に巻き込まれることを嫌い、革マル派の影響が薄かった映画研究会へ転属。在学中から後に脚本家となった金子裕と組んで、雑誌のライターやカメラマンで生活していた。 卒業後の1970年、『事件劇画』誌で出木英杞のペンネームで劇画漫画家としてデビュー。1975年頃より主に「ヤングコミック」誌等で執筆する。自作『天使のはらわた』(1977年)が大ヒットし、1978年から日活ロマンポルノにてシリーズ映画化される。
金子 裕(かねこ ゆたか、1946年4月20日 - )は、日… 金子 裕(かねこ ゆたか、1946年4月20日 - )は、日本の脚本家、演出家。東京都出身。現在は引退している。 息子は映画監督・脚本家の金子遊。 東京都で2人兄妹の兄として出生。高校の頃は日活映画に熱中して映画の仕事を志すようになる。早稲田大学在学時に早稲田大学映画研究会に所属。同期に脚本家の荒井晴彦、桜井正明。脚本作りを始め、雑誌の編集やルポライターを経験した後に20代後半のとき、先輩の草川隆の紹介によりテレビアニメ『巨人の星』で脚本家になった。当初は東京ムービーのアニメーションを中心に脚本を手がけたが、その後『太陽にほえろ!』に参加。以降は東宝製作の刑事・アクションものを中心に、ドラマの脚本も多く手がける。
池端 俊策(いけはた しゅんさく、1946年1月7日 - )… 池端 俊策(いけはた しゅんさく、1946年1月7日 - )は、広島県呉市出身の脚本家。 広島県立呉三津田高等学校を経て、1970年、明治大学政治経済学部卒業。高校時代から演劇部に入り、脚本作りに熱中していた。大学在学中からシナリオ作家協会主催の「シナリオ研究所」(現在の「シナリオ講座」)に通い、卒業後は竜の子プロダクションに半年勤務。その後は営業職など職を転々とし、今村昌平の脚本助手となり、今村監督の映画『復讐するは我にあり』(1979年、松竹/今村プロ)、『楢山節考』(1983年、東映/今村プロ)の第1稿を手がけた。 1984年、テレビドラマ脚本『私を深く埋めて』(TBS)『羽田浦地図』(NHK)『危険な年ごろ』(読売テレビ)の三作品で第3回向田邦子賞、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し脚光を浴びる。
井沢 満(いざわ まん、本名:井澤 満(いざわ みつる)、1… 井沢 満(いざわ まん、本名:井澤 満(いざわ みつる)、1945年8月6日 - )は、日本の脚本家、小説家。大分県出身。コメンテーターとしてテレビ番組にも出演する。 日本統治下の朝鮮・京畿道京城府(現在のソウル特別市)に誕生。終戦に伴い、0歳の時に居留日本人の引揚船でもともとの郷里である長崎へ帰り、4歳までを過ごす。大分県立大分舞鶴高等学校卒業。早稲田大学第一文学部仏文科中退後、オーストラリアへ渡る。帰国後、NHKのラジオドラマのシナリオコンクールに佳作入選したのをきっかけとして、脚本家の道へと進む。 脚本家として、しばらくはラジオを中心に書いていたが、NHKやTBSのテレビドラマでピンチヒッターのライターを務めるうちに、テレビへと方向転換をする。
青山 定司(あおやま ていじ、1945年6月30日 - 19… 青山 定司(あおやま ていじ、1945年6月30日 - 1980年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。第1回ヨコハマ映画祭で自主製作賞を受賞した『家獣』で知られる。 1945年(昭和20年)6月30日、関東州(現在の中華人民共和国東北部)大連市に生まれる。同年8月15日、第二次世界大戦が終結し、引き揚げ後、両親は東京都渋谷区の恵比寿で仏具店を開く。 1968年(昭和43年)3月、駒澤大学経済学部を卒業、青山デザイン専門学校(現在の東京デザイン専門学校)アニメ科に進学する。満23歳を迎える同年、初めての8mmフィルム作品『追憶』を発表する。1971年(昭和46年)には、同専門学校の学園紛争をテーマに監督・製作した『たろうトウキョウ』を発表する。
宮田 雪(みやた きよし、1945年3月3日 - 2011年… 宮田 雪(みやた きよし、1945年3月3日 - 2011年2月14日)は日本の脚本家、漫画原作者、社会活動家。秋田県出身。早稲田大学文学部中退。 農林省林野庁官僚の父と母の次男として秋田県大曲市(現・大仙市)に生まれる。父の転勤にともない函館市・前橋市などを経て、現在の札幌市豊平区平岸に移り、高校時代まで過ごす。父は短歌の私家集を発行するなど文人としての面も持つが、「文学では飯は食えない」と常に厳しく接していた。雪は厳格な父に反感をおぼえるが、その才を受け継ぎ、密かに脚本家を志すようになる。北海高等学校から早稲田大学文学部へ進学し、「ワセダミステリクラブ」に所属。曽根忠穂(のち「奇想天外」編集長)や石上三登志(のち、CM作家、評論家)らと、映画・漫画などを論じる同人誌『OFF』を上梓。
織田 紘二(おりた こうじ、1945年3月1日 - )は、日… 織田 紘二(おりた こうじ、1945年3月1日 - )は、日本の伝統芸能の制作者、演出家、脚本家、著述家。国立劇場(現・日本芸術文化振興会)で43年間勤務し、主に歌舞伎の制作・演出に携わった。2006年に日本芸術文化振興会理事に就任。現在、日本演劇協会専務理事、日本舞踊協会副会長などを務める。 1945年3月1日、北海道勇払郡安平村(現・安平町)字追分に、織田要と妻ミイの次男として生まれた。父の要は地元追分町の町会議員を40年間務め、町議会議長を務めた。 地元の追分高校を卒業後、1963年4月、國學院大學文学部日本文学科に入学。同大学では西角井正慶、高崎正秀、岡野弘彦、三隅治雄らから教えを受けた。
山川 啓介(やまかわ けいすけ、1944年〈昭和19年〉10… 山川 啓介(やまかわ けいすけ、1944年〈昭和19年〉10月26日 - 2017年〈平成29年〉7月24日)は、日本の作詞家、脚本家。本名は井出 隆夫(いで たかお)。長野県佐久市出身(本籍は南牧村海尻)。 長野県上田高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。血液型はO型。 山川啓介名義での作詞活動の他、本名の井出隆夫名義で「おかあさんといっしょ」をはじめとする子供番組の楽曲の作詞や人形劇の脚本、及び番組の構成を手がけていた。特に「おかあさんといっしょ」では、1982年4月から10年半放送された「にこにこぷん」、1992年10月から7年半放送された「ドレミファ・どーなっつ!」で計18年間にわたっておよそ3500話を超える脚本を執筆し、劇中歌全てを作詞した。
高田 拓土彦(たかだ たつひこ、1944年10月15日 - … 高田 拓土彦(たかだ たつひこ、1944年10月15日 - 2012年10月1日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、演出家。本名は高田 龍彦。旧芸名は高田 裕史、高田 守弘、高田 大嗣。ペンネームは土筆 勉。師は脚本家の石森史郎。弟子は俳優の三木崇史。 福井県出身。桐朋学園大学芸術学部演劇科卒業。 劇団「ぶどうの会」、劇団俳優座を経て、「アメリカン・プロダクションサービス」を設立後、ボクサー、フリーとして活動していた。俳優としてはグループ71 、一騎プロに所属 。 女優の浅茅陽子とは同棲していたが、浅茅の意志で入籍しなかった。 2012年10月1日、間質性肺炎と肺癌のため東京都文京区の病院で死去。
東 隆明(あずま りゅうめい、1944年9月28日 - )は… 東 隆明(あずま りゅうめい、1944年9月28日 - )は、日本の男性作家、脚本家、演出家、作詞家、俳優、コミュニティネットワーク自然会会長。和歌山県和歌山市出身。旧芸名は東 龍明。 近衛文隆の庶子を称する。隆明の生年に文隆は大谷正子と結婚し、隆明の生母とは婚姻を結ばなかったという。 和歌山県立和歌山商業高等学校卒業後、19歳で上京。俳優、演出、脚本、企画制作などに携わる。また、情操教育を通じて青少年の健全育成に尽力すべく、学校演劇も手がける。 1983年、自然会(現コミュニティネットワーク自然会)発足、主宰。愛と究極の平和を説き続けている。講演会多数。 1992年より始められた島原復興支援活動では、復興ビルを創設して運営しながら常駐者を置き、地域のコミュニケーションに尽力する。
葉方 丹(はかた たん、1944年7月8日 - )は、演出家… 葉方 丹(はかた たん、1944年7月8日 - )は、演出家、脚本家、作家、作詞家。 日本アカデミー賞協会、日本音楽著作権協会、日本シナリオ作家協会、日本放送作家協会に所属する。東京都在住。別名、「はがたたん」。 京都市出身。大将軍(白梅町)で生まれる。父は西陣の職人。京都府立山城高等学校卒業後、日本大学芸術学部在学中から映像関係の仕事に携わる。後に大学中退。 アルバイトで日本劇場で働いていた時に叡南覚照と知り合い、「ごぜんさま」と呼ぶようになり、世話になる。ある時、叡南に将棋で勝ち、叡南に「おまえには歯が立たない。おまえ、はがたたん、にせえ」と言われる。また、叡南に「八百屋で行け」と言われ、「来るもの拒まず」で種々の仕事をするようになった。
田口 成光(たぐち しげみつ、1944年2月4日 - )は、… 田口 成光(たぐち しげみつ、1944年2月4日 - )は、日本の脚本家、構成作家、プロデューサー。 長野県飯田市出身。長野県飯田高等学校を経て日本大学芸術学部を卒業後、脚本家を目指して1967年に円谷プロダクション(以下、円谷プロ)へ入社。しかし、円谷プロの意向で『ウルトラセブン』などの特撮班助監督を経験することになり、同社の作品数が激減した1960年代末に企画室の勤務へ就いた。 1971年に放映された『帰ってきたウルトラマン』で、TBSのプロデューサーだった橋本洋二から深夜に及ぶ書き直し要求を経て、第8話「怪獣時限爆弾」が初採用され脚本家としてデビュー。以降は円谷プロで企画室長として1970年代の「第2期ウルトラシリーズ」『ミラーマン』などを企画し、脚本も執筆した。
由木 義文(ゆうき よしふみ、1944年 - )は、日本の浄… 由木 義文(ゆうき よしふみ、1944年 - )は、日本の浄土宗の僧侶、仏教学者、脚本家。 埼玉県加須市出身。慶應義塾大学を経て、東京大学大学院印度哲学専修博士課程修了。龍蔵寺の住職、また長年にわたり宗教学の講師として慶應義塾大学等で教鞭を取るかたわら、2004年、埼玉県公安委員に任命され、2008年まで委員長を勤める。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
南川 泰三(みなみかわ たいぞう、1943年12月3日 - … 南川 泰三(みなみかわ たいぞう、1943年12月3日 - )は、日本の脚本家。大阪府出身。1968年(昭和43年)3月、日本大学芸術学部文芸学科卒業。同大学院中退。 日本放送作家協会理事、文化庁芸術祭賞審査員を務める。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 201… 出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 2011年4月17日)は、日本のアニメ監督、演出家、脚本家、漫画家。東京都目黒区生まれ。クレジットタイトル上では「出崎統」と表記されることもある。別名義として「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「斎九陽」「松戸館」「松戸完」「矢吹徹」「多井雲」など。生前は日本映画監督協会会員。アニメ監督、プロデューサーの出﨑哲は実兄。 1943年、東京都目黒区で、航空科学専門学校の教授であった出﨑晶の次男として誕生。明治時代に福島県相馬郡(現・福島県相馬市)で干拓事業を行った出﨑栄太郎の曾孫にあたる。終戦後に相馬に移り住んだが、小学1年生のときに父が結核で死去。
出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 201… 出﨑 統(でざき おさむ、1943年11月18日 - 2011年4月17日)は、日本のアニメ監督、演出家、脚本家、漫画家。東京都目黒区生まれ。クレジットタイトル上では「出崎統」と表記されることもある。別名義として「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「斎九陽」「松戸館」「松戸完」「矢吹徹」「多井雲」など。生前は日本映画監督協会会員。アニメ監督、プロデューサーの出﨑哲は実兄。
西脇 英夫(にしわき ひでお、1943年11月9日 - 20… 西脇 英夫(にしわき ひでお、1943年11月9日 - 2021年6月4日)は、日本の映画評論家・漫画原作者・小説家・脚本家。東京都出身、日本大学芸術学部卒。 1965年に大学卒業後、CFプロダクション勤務、雑誌『東京25時』(アグレマン社)の編集部を経てフリーとなる。以後、『キネマ旬報』(キネマ旬報社)、『映画批評』(新泉社)などの映画雑誌に映画評論のコラムを発表。現在でも『キネマ旬報』でコラムを発表している。 漫画原作を手掛ける際は、主に『東史朗』名義で活動している。また、清彗社の漫画情報誌『だっくす』1978年9・10月号から改名後の『ぱふ』1979年9月号まで、『B級劇画講座』というコラムを連載していた(西脇英夫名義)。
田上 雄(たがみ ゆう、1943年5月30日 - )は日本の… 田上 雄(たがみ ゆう、1943年5月30日 - )は日本の脚本家、日本脚本家連盟幹事。北海道小樽市出身。 高校生時代はアイスホッケーと学生運動に明け暮れていたという。 中央大学法学部卒業。大学卒業後、東映の採用試験で不合格となり、ぶらぶらしていた所で「昔ちょっと知り合いだったシナリオライター」だとして父親が橋渡し役となって紹介された脚本家の柴英三郎に師事することになる。そして柴の自宅で初めて脚本というものを見たという。そして本人は元々脚本家になりたかったわけではなかったという。 2〜3本柴と共作した後、今度は一人で書いてみるように言われて1968年、『三匹の侍(第6シリーズ)』で単独脚本デビュー。
深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、… 深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は稲生 稔(いのう みのる)。助監督時代の筆名は伊能 実(いのう みのる)、監督デビュー後の筆名は稲尾 実(いなお みのる)、東活では荻西 太郎(おぎにし たろう)の名で作品を発表した。 1943年(昭和18年)4月16日、茨城県水戸市に生まれる。 1959年(昭和34年)4月、茨城県立水戸第一高等学校に進学、1962年(昭和37年)3月に同校を卒業、翌1963年(昭和38年)4月に日本大学藝術学部映画学科に進学した。同期にのちに映画監督・撮影技師になる久我剛(1944年 - )こと斎藤雅則がいた。
高谷 信之(たかや のぶゆき、1943年3月26日 - )は… 高谷 信之(たかや のぶゆき、1943年3月26日 - )は、日本の劇作家、放送作家、演出家、脚本家。東京都出身。 1943年、東京に生まれる。1961年、静岡県立静岡高等学校卒業。早稲田大学第二文学部演劇科中退。1972年、演劇集団 八騎人(ハッキジン) 創立、主宰。「魔都彷徨」「蛍よ、妖しの海を翔べ」等20本以上を作・演出。1999年、劇団ギルドを創立。2018年までに35回の舞台を作・演出して劇団は解散。若手俳優、演出家、脚本家の育成にも力を注いでいる。 放送の分野では、1975年 NHKラジオドラマ 『風に舞う木の葉のように』でデビュー。NHKラジオドラマ 約80本。同テレビドラマ「中学生日記」「風・ふたり」等20本。
大原 清秀(おおはら きよひで、1943年3月14日 - 2… 大原 清秀(おおはら きよひで、1943年3月14日 - 2015年8月4日)は、日本の脚本家。東京都出身、早稲田大学卒業。 東映の社員を経て脚本家デビュー。シュールかつ明快なシナリオを得意としており、日活、東映の成人映画、TBSの大映ドラマでその手腕を遺憾なく発揮した。1994年以降は、リタイアの状態であった。名作ドラマ「スクールウォーズ」屈指の傑作エピソードである第8話「愛すればこそ」を担当した。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
秋田 佐知子(あきた さちこ、1943年2月14日 - 20… 秋田 佐知子(あきた さちこ、1943年2月14日 - 2006年1月25日)は、日本の脚本家。 宮崎県延岡市出身。7人きょうだいの五女。高校生時代から、地元の映画館に足繁く通う。1965年に日本大学芸術学部放送学科を卒業。一旦故郷の宮崎で教職に就いた後、1968年に再上京してシナリオ学校に入学。友人の紹介で出会った脚本家の西澤裕子の推薦で、1971年に電通に入ってラテ局のアシスタントとなり、実質的にドラマの企画製作に参加することになる。1978年の『微笑』(TBS)が、単独脚本での初作品といわれる。 2006年1月25日、癌のため死去。 太字は、単独脚本と思われるもの この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
髙橋正圀(たかはし まさくに、1943年1月8日 - )は日… 髙橋正圀(たかはし まさくに、1943年1月8日 - )は日本の脚本家。 横浜市生まれ。生後すぐの頃に山形県米沢市へ疎開。以後高校卒業時まで米沢で過ごす。 子供の頃から幻灯機に投影する作品を作って友達を集めて上映会を開いていた。それが高じて、自分で絵を描いてストーリーを作るようになった。また子供の頃は東映時代劇のファンでもあった。 山形大学工学部に入学するも、中退して東京のシナリオ研究所に入るために上京。改めて中央大学文学部に入学。学生時代は年に300本は映画を観賞し、大学のサークルでも8ミリ映画を製作していた。後に中央大学も中退。 シナリオ作家協会・シナリオ研究所修了後、24歳を過ぎた頃に「これがラストチャンス」とばかりに応募した第20回新人映画コンクールに佳作入選。
中村 勝行(なかむら かつゆき、1942年11月14日 - … 中村 勝行(なかむら かつゆき、1942年11月14日 - 2022年3月11日)は、日本の脚本家、小説家。俳優の中村敦夫は兄にあたる。時代小説を書くときのペンネームは「黒崎裕一郎」。 機械いじりと絵を描くことが好きだった少年時代だったとのこと。しかし「絵は芸術大学に不合格だった時点で、映画のカメラマンは目が悪いからあきらめた」という。東京電機大学を卒業後、撮影機材会社の技師、制作会社プロデューサーの手伝いなどを経て、必殺シリーズへの原稿持ち込みがきっかけでテレビの世界に入り1975年に『必殺仕置屋稼業』で脚本家デビュー。必殺シリーズ、「ザ・ハングマン」などの脚本を手がける。 また時代小説も手がけており、1995年には、中村勝行名義で発表した『蘭と狗 長英破牢』で第6回時代小説大賞を受賞した。
酒井 あきよし(さかい あきよし、本名:酒井 昭義(※読みは… 酒井 あきよし(さかい あきよし、本名:酒井 昭義(※読みは左記と同じ)、1942年10月23日 - )は、日本の脚本家。熊本県出身。最終学歴は明治大学文学部演劇科卒業。 生家は漢方薬の店。浪曲語りの一座と一緒に各地を回って旅芝居の幕間に店主の父が漢方薬を売って歩くということも家業の一つであり、幼少の頃はこれに付いて行ったこともあったが、その幼少の頃に漢方薬店は閉店。高校は最初商業高校だったが、算盤が苦手だったこともあって退学し改めて普通高校に入学。その高校生時代から演劇をやっていた。大学生時代から日活に自らの脚本の原稿を持ち込むなどしていた。 大学卒業後、竜の子プロダクション(以下、タツノコプロ)に入社。
香取 俊介(かとり しゅんすけ、1942年9月22日 - )… 香取 俊介(かとり しゅんすけ、1942年9月22日 - )は、日本の脚本家、ノンフィクション作家。「異文化摩擦」「異文化コミュニケーション」をメインテーマとして執筆している。 東京府(現東京都)八王子市出身。東京都立国立高等学校を経て東京外国語大学ロシア語科卒業後、NHKに入局。報道局外国放送受信部に所属し主にソ連(現ロシア)の国内放送やタス通信等の傍受にたずさわる。当時は共産圏に自由に記者を送ることが難しく、資本主義圏と共産圏の間には、鉄のカーテンがあるなどと言われた。従って共産圏の情報をとるには、国内のラジオ放送(モスクワ放送)や国営タス通信の傍受に頼ったりしていた。外国放送受信部には内閣調査室(当時)の資金が流れているとして国会でも問題となった。
久保田 千太郎(くぼた せんたろう、1942年7月26日 -… 久保田 千太郎(くぼた せんたろう、1942年7月26日 - 2008年2月17日)は、岡山県出身の脚本家、漫画原作者。早稲田大学第一文学部卒。「劇団NLT」演出部に所属し、劇作を学ぶ。後に独立。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は… 関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は、日本の脚本家・映画監督。京都府京都市出身。日本映画監督協会会員。日本画家の木村了子は長女。 京都の工務店の長男に生まれる。家では工務店の後継にするつもりだったが、本人は継ぐのを嫌ったという。 京都市立伏見工業高等学校建築科を卒業後1961年、東映京都撮影所製作部美術課に入社。美術課では本人が嫌だったという大工仕事ばかりで異動を希望し、製作部に異動、製作事務を担当。そこで多くの台本に目を通すうち「これなら自分にも書けそう」と思って脚本を書き始め、その脚本を当時京都撮影所所長だった岡田茂に読んでもらっていたという。 その後京都撮影所では映画業界斜陽化のこともあって、助監督を大量にNET(現・テレビ朝日)に出向させた影響で助監督不足になり、その穴埋めのような形で演出部に転属し、1973年に監督デビュー。
皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は… 皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は、日本の脚本家・映画監督。 東京都世田谷区松原町出身。佼成学園高校三年のとき、八木保太郎に師事してシナリオを学ぶ。1964年、青山学院大学経済学部卒業後演出を志し東映入社。東映京都撮影所に配属され、伊藤大輔、深作欣二、鈴木則文らの助監督に就く。1971年「女番長シリーズ」一作目の『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』で脚本が採用され、同シリーズ4本の脚本を担当。 1973年、『狂走セックス族』で監督昇進。31歳の若き新人監督として期待された。1974年の『仁義なき戦い 完結篇』は一部の資料に監督を深作欣二と皆川のダブル・クレジットとするものがある。