武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20… 武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20日 - 1998年(平成10年)2月7日)は、昭和戦前期日本の裁判官および満洲国の官僚、昭和戦後期日本の実業家、名誉法学博士、教育者、日米会話学院院長、キリスト教牧師、伝道師、名誉神学博士。キリスト新聞社長・会長。教文館専務・社長・会長。明治学院院長。明治学院東村山高等学校の創設者 (P1~5) で、同高校初代校長。恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長、敬和学園理事長、キリスト教文書センター理事長、日本聾話学校理事長、東京サフランホーム理事長、雲柱社理事長なども歴任した。ペンネームに大賀 捨二。 4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。
小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996… 小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、キリスト教徒。獨協大学名誉教授。第14代獨協中学校・高等学校校長。 東京生まれ。水戸高校、東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒業。東京大学教養学部教授。定年退官後、1965年、獨協大学教授。1970年から1979年にかけて獨協中学・高等学校校長。1980年、ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章。 学生時代から無教会の内村鑑三、藤井武、塚本虎二の聖書集会に参加、1940年から武蔵野市に武蔵野幕屋を設け日曜聖書講筵を行う。1950年、阿蘇山で聖霊にうたれ開眼し、使徒的次元の原始キリスト道を唱道し、独自の神学をうちたてたとされる。
淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月… 淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。 1902年12月3日、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)で教師の父・弥蔵と母・シカの三男として生まれる。旧制奈良県立畝傍中学校を経て、1921年(大正10年)、海軍兵学校に海兵52期として入学する。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいる。1924年7月24日、海軍兵学校を卒業、少尉候補生。 1925年12月、巡洋艦「矢矧」乗組。1926年12月、海軍砲術学校普通科学生。1927年4月、海軍水雷学校普通科学生。1927年7月、駆逐艦「秋風」乗組。
気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。
金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945… 金 教臣(キム キョシン、1901年4月18日 - 1945年4月25日)は、朝鮮のキリスト教指導者。本貫は慶州金氏。 咸鏡南道咸興府出身。1919年に日本の正則英語学校に留学し、1920年に東京のホーリネス教会で受洗、1921年内村鑑三のロマ書講義に感銘を受け、以後の聖書集会に出席した。1927年東京高等師範学校理科第3部を卒業後帰国し、咸興の永生女子高等普通学校の教師を務め、1928年からは京城の養正高等普通学校、1940年には第一高等普通学校、1941年には開城の松都高等普通学校に赴任した。 1927年には咸錫憲ら無教会主義の同志らと『聖書朝鮮』誌を創刊し、「世の中で一番良いものは聖書と朝鮮」であり、「新しい朝鮮を聖書の上に建てよ」と説き、朝鮮的キリスト教を追求した。
政池仁(まさいけ じん / めぐむ、1900年11月-198… 政池仁(まさいけ じん / めぐむ、1900年11月-1985年4月3日)は、無教会主義のキリスト教伝道者。 愛知県宝飯郡赤坂町(現・豊川市)出身。東京帝国大学理科に入学し在学中、内村鑑三に師事して無教会キリスト教に入る。東大理学部卒業後、(旧制)静岡高等学校(現・静岡大学)教授。満洲事変に際し非戦論を唱えて静岡高を辞職。以後約50年間、独立伝道活動を続けた。キリスト教非戦平和団体「日本友和会」の理事長を務めた。
八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3… 八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3日 - 1970年〈昭和45年〉10月10日)は、日本のキリスト教伝道者である。 北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 … 岡村ふく(おかむら ふく、1899年(明治33年)6月3日 - 1982年(昭和57年)4月26日)は日本のカトリック教会修道女、福音史家聖ヨハネ布教修道会創立者。 岡村ふくは父・岡村政四郎と母・政子の五番目の子供として東京・京橋に生まれ、1週間後に正教会の洗礼を受けた。ふくは神田のニコライ堂に熱心に通い、1911年、小学校卒業後、香蘭女学校に入学。聖心女子学院に入学しカトリック教会を知る。聖心会修道女から教えを受け、1919年、卒業と共にカトリックに改宗し引き続き学校に残り修道女の助手を務めた。 その後、ふくは病に臥し長い療養を送っていたがある日、ルーマニア人司祭・ウラジミール・ギカが持参したキリストの茨の冠で奇跡的に癒され、彼女は後年まで話さなかった。
江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日… 江角 ヤス(えすみ ヤス、1899年〈明治32年〉2月15日 - 1980年〈昭和55年〉11月30日)は、日本の教育者、修道女、社会事業家。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)で、誕生した。父・文之助と母・ユウの3女で、9人きょうだいの6番目の子供だった。家の宗教は浄土真宗であった。 1905年(明治38年)、久木村尋常高等小学校に入学し、1911年(明治44年)に卒業する。同年4月には、簸川群直江村外5ヶ村の組合立直江高等小学校に入学し、1914年(大正3年)に卒業する。同年4月、島根県女子師範学校(二部)に入学し、1916年(大正5年)に卒業する。同年4月、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科に入学する。
都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)… 都田 恒太郎(みやこだ つねたろう、1897年(明治30年)10月15日 - 1983年(昭和58年)11月16日)は、日本の牧師、日本基督教団の指導者、キリスト教学者、日本基督教協議会総書記、日本聖書協会総主事、青山学院理事長。長年、毎年秋にバックストン記念聖会の指導を行っていた。 岳父は、ホーリネスの都田友次郎。 1897年(明治30年)、鳥取県境港市に生まれる。旧制佐倉中学校に入学して、1908年(明治41年)笹尾鉄三郎が佐倉に巡回伝道に来た時に、佐倉中学四年生だった都田は笹尾の説教を聞いて深い感銘を受けた。1914年に笹尾鉄三郎から洗礼を授けられた。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業する。
石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4… 石原 兵永(いしはら ひょうえい、1895年〈明治28年〉4月12日 - 1984年〈昭和59年〉8月17日)は、無教会派のキリスト教伝道者。栃木県生まれ。旧姓・鈴木。1920年青山学院英文学部卒。内村鑑三に師事する。青山師範学校の英語教師となり、石原文子と結婚、石原姓になる。青山師範学校教授を1931年に退職し伝道活動を続ける。
秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1… 秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1975年2月8日)は、日本の社会事業家・教育者・キリスト教指導者・編集者である。 視覚障害当事者として視覚障害者のための福祉ホーム・点字出版社である東京光の家を創設したしたほか、日本初の点字『旧約聖書』シリーズ全巻を刊行した。 1892年 東京・中野の大地主の家に生まれる。先天性の弱視であり、5歳で失明。 1906年(明治39年)、14歳で東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学した。 1913年(大正2年)、台湾人留学生である同級生から『新約聖書』「マルコによる福音書」を紹介され、一章三節の「荒れ野に呼ばわる者の声す。「主の道を備え、その道を直くせよ」」に「電光を受けたように感銘を受けて」キリスト教に入信した。
今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年… 今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年)は、日本の法律家、キリスト教伝道者。福音同志会の中央委員・日本基督教団中渋谷教会(日本基督教会)長老牧師を務めた。母の今泉みねは蘭学の家として知られる桂川家出身。母に回想録『名ごりの夢』口述を勧め、自らも『蘭学の家桂川の人々』を著した。 佐賀藩出身の検事今泉利春と今泉みねの三男として生まれる。東京帝国大学法学部を卒業。植村正久の後継者高倉徳太郎の神学を受け入れ、その協力者となり、「福音と現代」の発行を助けた。 1935年に月刊誌『みくに』を発行し、みくに運動を展開した。第二次世界大戦においては戦争協力の姿勢を示し、「キリストにより日本の国体を明らかにする」「皇国の使命を認識して、之をたすけることが最も神のみこころにかなうのである。
岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1… 岩下 壮一(いわした そういち、1889年9月18日 - 1940年12月3日)は、日本のカトリック司祭、神学者、哲学者。大正から昭和初期の日本カトリック教会の精神的指導者と言われる。日本における中世哲学・スコラ哲学研究の第一人者でもある。 1889年9月18日、父・清周、母・幽香子の間に東京府東京市京橋区采女町、現在の東京都中央区銀座五丁目に生まれる。同年、清周が三井から独立して品川電燈会社を設立した折に、一家は芝区高輪南町(現・港区高輪周辺)に移る。 小学校に入る前、壮一は関節炎を患い、右足に障害を負った。多方面にわたって産業家として活躍した清周は、壮一を「ボストンの工科学校」(マサチューセッツ工科大学)あたりに留学させてエンジニアに育てる予定であったが、身体障害により「米国の学校にやられずに済んだ」。
松田 壽比古(まつだ としひこ、1889年(明治22年)- … 松田 壽比古(まつだ としひこ、1889年(明治22年)- 1917年(大正6年)7月18日)は日本のキリスト教伝道者。内村鑑三に影響を受け、弟の松田享爾と共にその配下である黒崎幸吉に師事した。現在の岡山県真庭市出身。 1889年(明治22年)岡山県真庭郡美川村(現在の真庭市)に生まれる。弟に松田享爾がいる。また、同郷出身者に小出義彦がいる。旧制岡山県立高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)を経て、1912年(大正元年)旧制第六高等学校文科丙類に進学した。1915年(大正4年)7月同校を26歳で卒業後、東京帝国大学法科大学へ進学し、そこで内村鑑三と出会う。同じ頃、弟の享爾も東京にある旧制第一高等学校へ進学した。
中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日… 中島 重(なかじま しげる、1888年(明治21年)5月3日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、日本の法学者、社会学者、キリスト教思想家。 法学上の専門は憲法学(美濃部達吉門下)で、社会学上の専門は国家論。元同志社大学および関西学院大学の教授。 日本の政治学及び社会学に多元的国家論をもたらし、また当時のキリスト教思想に対して賀川豊彦と共に社会的基督教の論を唱えた一人として知られる。 1888年、岡山県上房郡松山村広瀬(現在の高梁市松山字新田。備中広瀬駅付近)の、大高檀紙製造家を祖に持つ柳井重宜の三男として生まれる。 三男という立場から父の弟(叔父)の養子先にして獣医家であった中島家へと養子に出された。
大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 197… 大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正・昭和期のキリスト教神学者。文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。 1887年(明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる。1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる。 広島県師範学校講習部から1903年同志社普通学校に入学。1905年日野真澄から受洗。1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学。1912年に渡米し、ユニオン神学校、コロンビア大学で学び、マスター・オブ・アーツの学位を受ける。帰国後の1919年に専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。
黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月… 黒崎 幸吉(くろさき こうきち、1886年(明治19年)5月2日 - 1970年(昭和45年)6月6日)は、日本の聖書学者、キリスト教伝道者、元住友本社社員。 書家・黒崎研堂の長男として生まれる。 荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月に東京帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。帝大在学中に内村鑑三の聖書研究会に加わり入信する。同年8月に住友本社に入社。住友家嗣子の教育掛となり、1915年(大正4年)にこれに随行し渡米留学する。その後、大阪、東京、別子に勤務。1921年(大正10年)の妻の死をきっかけとして、住友製鋼所副支配人を最後に住友を退社。
野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治… 野辺地 天馬(のべち てんま、本名三右衛門、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1965年〈昭和40年〉4月24日)は、岩手県二戸郡福岡町(現二戸市)出身の児童文学者、キリスト教牧師、伝道師である。渡辺善太は義兄である。 1885年(明治18年)1月17日、岩手県二戸郡福岡町(現・二戸市)に生まれ、1890年(明治23年)に郵便局勤務であった父の転勤により盛岡市へ転居。1889年(明治22年)、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)へ入学した。同級生には石川啄木、伊藤圭一郎(『人間啄木』の著者)らがいた。 幼いころから教会に通い、1899年(明治32年)に洗礼を受けた。その年11月盛岡で行われた中田重治の集会での説教を聞いて献身を決意する。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - … 青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - 1972年2月22日)は、日本のキリスト教研究者、牧師、文筆家。植村正久の研究で知られる。徳島県板野郡大津村(現鳴門市)出身。 板野郡大津村で生まれる。幼少期、僧侶となるように、実家の菩提寺に預けられた。しかし、教師を目指して徳島師範学校を卒業。キリスト教に回心して、ニコライ神学校を卒業して、貧しい子供の教育活動を行った。 渡米して、プリンストン神学校を卒業する。帰国後に、植村正久を研究して、全集を出版する。また。「福音新報」に執筆した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年〈明治10年〉… 斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年〈明治10年〉2月20日 - 1968年〈昭和43年〉1月2日)は、岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)出身のキリスト教徒。 無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。また、『雨ニモマケズ』のモデルとも言われている。 東光寺(禅宗)の住職の子として生まれる。岩手師範学校を卒業すると、師範在学中は排耶書(反キリスト教的な書物)に親しんだが、教職についてすぐに入院して聖書に接して、内村鑑三の『基督信徒の慰め』や『求安録』を愛読する。 日露戦争の際、内村に影響され本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。
栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 196… 栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 1967年8月26日)は、日本の英語教育者、キリスト教学者、翻訳家。 1876年、宮城県仙台生まれ。第二高等学校、仙台ホサナ教会でアニー・S・ブゼルにキリスト教を学び、東京帝国大学文学部英文科に進んだ。大学では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の教えを受ける。1901年に大学を卒業。 卒業後、1902年より広島高等師範学校教授。1912年、京都YMCA主事、第三高等学校教授に就任。1930年に三・一五事件との関連により退官した。その後は同志社大学、尚絅女学院大学で教えた。
森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月1… 森本 慶三(もりもと けいぞう、1875年(明治8年)3月10日 - 1964年(昭和39年)12月5日)は日本のキリスト教徒、学者。 樽井藤吉と森本ふさの三男として生まれ、キリスト教について学び、後に津山基督教図書館(現・森本慶三記念館)を設立した。その他にも、学者の一面があり、現在、森本慶三記念館に慶三の遺物が展示されている。 津山一の素封家であった樽井藤吉の三男として岡山県伏見町に生まれる。京都府立洛北高等学校・附属中学校を卒業した後、兄の後を継いで家業の呉服商「錦屋」を営んだ。しかし商売は上手くいかなったため、子供の頃から生きる事に悩んでいたとされている。キリスト教徒である内村鑑三に救われ、自らもキリスト教に入信し、1900年に上京して内村に師事した。
酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年… 酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1940年〈昭和15年〉7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。 酒井には勲五等が贈られている。 オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代の「オカルトブーム」に大きな役割を果たした武田崇元は、酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた『神秘之日本』を復刻している。 オウム真理教の麻原彰晃も酒井勝軍の著作や竹内文書の影響を受けており、麻原は雑誌「ムー」1985年(昭和60年)11月号において、教徒石井久子を伴い、酒井縁の岩手県の五葉山にまで旅して、酒井の著作の中に登場している霊石「ヒヒイロカネ」を、生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。
赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月… 赤司 繁太郎(あかし しげたろう/はんたろう、1873年9月17日-1965年1月9日)は、日本のキリスト教伝道者。 福岡県久留米出身。号は嚼花。1887年上京、東京英語学校入学。1889年東京専門学校に入り、ドイツ普及福音教会のスピンナー・シュミーデルに接し、宗教家を志す。1890年普及福音教会の神学校入学、翌年ユニバーサリストの神学校に入り1894年卒業。1906年成美英語女学校の校長となった。1908年木下尚江と雑誌「新天地」を発行。1909年ユニバーサリスト教会を離脱、自由キリスト教会として東京・東郷坂に普及福音教会を設立した。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月… 柏井 園(かしわい えん、1870年7月22日(明治3年6月24日) - 1920年(大正9年)6月25日)は、日本のキリスト教伝道者、キリスト教史学者、キリスト教思想家、文明評論家である。大正時代の日本基督教会の指導者であった。
蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年… 蘆田 慶治(あしだ けいじ、1867年11月18日(慶応3年10月23日) - 1936年(昭和11年)8月18日)は、戦前日本のキリスト教神学者。 丹波国氷上郡鴨内村(現在の兵庫県丹波市氷上町鴨内)生まれ。幼時に家事の都合で京都に移り、京都府立中学校を卒業する。 1888年(明治21年)に大阪の南美以教会でJ.W.ランバスから洗礼を受け、翌年関西学院神学部に入学する。卒業後の1898年(明治31年)にアメリカへ渡り、ヴァンダービルト大学とイェール大学で学ぶ。1902年(明治35年)に帰国して関西学院神学部で教鞭をとったが、1909年(明治42年)に同志社神学校に移る。間もなく同志社から再び渡米してハーバード大学で研究を重ねる。
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(186… 土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。 慶応2年、信濃国諏訪郡下桑原村(甲州街道上諏訪宿)生まれ。明治14年(1881年)、前年に長野県上諏訪村小和田(現諏訪市)の小学校を卒業したばかりの八千太は、諏訪を訪れたパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)カトリックの洗礼を受ける。 上京後の明治19年(1886年)に上海に渡って神学校のヨハネ学院で学び、明治21年(1888年)9月7日にイエズス会に入会する。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Dom… ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1865年9月21日(慶応元年8月2日) - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけてブラジルで活動した日本人のカトリック司祭・海外宣教師。長崎県五島列島出身。 奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間に渡りブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受章する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、その通知が手許に届く直前にブラジルにて死去。
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2… 内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月28日)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。 万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。
日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7… 佐藤 政吉(さとう まさきち、安政4年(1857年)11月7日 - 昭和9年(1934年)11月17日)は、神奈川県中郡秦野町の実業家、政治家、クリスチャン。 1857年(安政4年)、曽屋村の製油業「大安(だいやす)」を経営する商家に生まれ、1874年(明治7年)に17歳で父が亡くなったことで家業を継ぐ。明治20年頃から醤油醸造業にも進出し、成功を収める。さらに、地方銀行業の草分けとなる相模銀行の前身「共伸社」の設立に関わり、その後、相模銀行取締役、秦野銀行頭取を務める。 曽屋村からコレラ蔓延による死者を出したことを憂えて、町内他の篤志家と協力して、国内初の民間による上水道、曽屋水道の設置に貢献する。
村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年… 村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年3月27日) - 昭和14年(1939年)4月11日)は、日本の政治家、キリスト教伝道者、社会事業家。 藩校成章館(現愛知県立成章高等学校)で伊藤鳳山から儒学を学ぶ。16歳で上京。東京外国語学校ロシア語学科に入学。レフ・メーチニコフの門下生となる。板垣退助の思想に影響を受け、帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎たちと「恒心社」を結成。 自由民権運動に加わり、私擬憲法「日本国憲法草案」を起草、愛岐日報に発表した。飯田事件により投獄されたが、1889年大赦により出獄した。 下宿先の娘きみと結婚後、1894年(明治27年)自由党から衆議院選挙に立候補するが落選。
沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年… 沢山 保羅(さわやま ぽうろ、嘉永5年3月22日(1852年5月10日) - 明治20年(1887年)3月27日)は、日本のキリスト教牧師、教育者。「保羅」は使徒パウロに由来し、本名は馬之進。日本で按手礼を受けた最初の牧師であり、梅花女学校(現在の学校法人梅花学園)を設立した。 周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市吉敷赤田大形)に生まれる。父は長州藩士沢山源之丞。父源之丞は吉敷毛利家の毛利元一に仕える下級武士であった。同郷に先輩に内務大臣の内海忠勝(豪助)がいる。 1858年に憲章館に入学し、四書五経の漢学、書道、武術、礼式などを学ぶ。同輩が服部一三で、6年後輩が成瀬仁蔵である。1867年(慶応3年)まで憲章館で学ぶ。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
向日かおり(むかひ かおり)は、ゴスペルシンガー、コンテンポ… 向日かおり(むかひ かおり)は、ゴスペルシンガー、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュジック (CCM: Contemporary Christian music) の女性ソロ・ボーカリストであり、ソングライティングを手がけるアーティストである。 クラシック仕込みの幅広い音域と、透明で大河のような歌声を持つ。 岡山県真庭市(旧・真庭郡落合町)生まれ。代々のクリスチャンホームに育つ。5歳の時家族と共に大阪へ転居。幼少の時より音楽に親しみ、大学では声楽を専攻、大阪教育大学特別教科音楽課程声楽専攻(現・芸術専攻音楽コース)を卒業、同校専攻科を修了。オペラ、歌曲、オラトリオなどの研鑽を積む。 卒業後は大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団(現・大阪コレギウム・ムジクム合唱団)、同室内合唱団に所属。
竹田文彦(たけだ ふみひこ)は、日本のキリスト教神学者。清泉… 竹田文彦(たけだ ふみひこ)は、日本のキリスト教神学者。清泉女子大学文学部教授。古代シリアにおけるキリスト教の研究を専門とする。日本カトリック神学会理事、日本カトリック教育学会会計監査。
木村 孝三郎(きむら こうざぶろう、1866年(慶応2年) … 木村 孝三郎(きむら こうざぶろう、1866年(慶応2年) - 1940年(昭和15年)は、新潟県新津市大鹿(現・新潟市秋葉区)出身のキリスト教徒。 1866年、新潟県新津市大鹿の豊かな地主の子として生まれる。1888年、22歳の時に、新潟市に開校した北越学館に赴任した内村鑑三の一般人向け講座を受講して感銘を受け、内村を生涯の師と思い定めた。その後、内村は新潟を去るが、孝三郎は内村の『基督信徒の慰め』や『求安録』などの著作を読みあさった。1894年には箱根で行われたキリスト教徒夏期学校に参加、のちに内村の著作『後世への最大遺物』のもととなった講演を聞くこととなった。 1904年、実弟の木村充と合意のうえで、先祖代々の土地を売り払い、内村の聖書研究会に千円を献金。
加藤 勝弥(かとう かつや、1854年2月2日(嘉永7年1月… 加藤 勝弥(かとう かつや、1854年2月2日(嘉永7年1月5日) - 1921年(大正10年)11月5日)は、明治時代のクリスチャン、政治家、教育家、宗教家である。加藤俊子の長男。 越後国板屋沢村(現新潟県村上市)に造林を代々家業とする大庄屋加藤雄次郞・敏子の長男に生まれる。明治12年(1879年)、新潟県会が設立されると、最年少25歳で当選する。以降、8回当選する。 その後、自由民権運動に参加する。明治16年(1883年)に高田事件で山際七司と共に投獄されるが免訴される。1884年大阪事件で入獄する。 1884年5月に妻久子と共に村上教会でアメリカン・ボードの宣教師R・H・デーヴィス宣教師より洗礼を受ける。