田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年… 田中 岑(たなか たかし、1921年4月4日 - 2014年4月12日)は、日本の洋画家。春陽会会員。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、日本大学芸術科卒業。 1937年(昭和12年)三豊中学4年生の時に美術部を創る。1939年(昭和14年)東京美術学校油絵科に入学、小林万吾が保証人であった。その後、海老原喜之助に出会い日本大学芸術科に転校を薦められて入学した。在学中、独立美術協会展などに出展する。 兵役に就き復員後、第15回独立美術展に出品する。1947年(昭和22年)自由美術協会展に出品、同年4月に上京して以後出展を続けた。1950年(昭和25年)春陽会の出展して研究賞を受賞。
滝平 二郎(たきだいら じろう、1921年(大正10年)4月… 滝平 二郎(たきだいら じろう、1921年(大正10年)4月1日 - 2009年(平成21年)5月16日)は、日本の版画家・きりえ作家である。日本美術会委員、日本児童出版美術家連盟会員、日本きりえ協会代表委員。 ※四国新聞記事以外の出典は『滝平二郎望郷編』。 茨城県新治郡玉川村(現:小美玉市)に生まれる。実際には4月10日生まれだが、父親が早く学校に入れたいために4月1日と繰り上げて誕生日を届け出たため、入学が1年繰り上がった。 茨城県立石岡農学校(現:茨城県立石岡第一高等学校)在学中は風刺漫画に関心を寄せていた。1938年に農学校を卒業し、同年若林一男や高林宏一らと漫画研究同人展を開くが、卒業後は木版画へと向かった。
秋山 巌(あきやま いわお、1921年3月21日 - 201… 秋山 巌(あきやま いわお、1921年3月21日 - 2014年9月15日)は、日本の版画家。大分県竹田市出身。 1953年に太平洋美術学校卒業後、棟方志功、布施悌次郎、坂本繁二郎に師事。 その後、独学で民俗学・仏教学・俳詩・陶芸・彫刻・水墨画を学び、1966年より、駐日アメリカ合衆国大使館主催によるCWAJ現代版画展に招待され、作品を出品している。 フクロウをはじめとする動物や民話、種田山頭火の俳句などを題材とした木版画や肉筆画作品を多数発表した。日本美術家連盟会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
小栗 潮(おぐり うしお、男性、1921年(大正10年)3月… 小栗 潮(おぐり うしお、男性、1921年(大正10年)3月11日 - 2013年(平成25年)6月20日)は、日本画家。日展参与。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1944年(昭和19年)東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒。同年学徒出陣。1947年(昭和22年)第一作「不忍池」が院展入選。1956年(昭和31年)日展に所属、同年「尾瀬沼畔」入選。翌年、第十三回展において「尾瀬沼」が初の特選を受賞した。1991年、第23回日展にて文部大臣賞を受賞。 山口蓬春、山本丘人らに師事した。2013年6月20日死去、92歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月… 春田 安喜子(はるた あきこ、1921年 - 2006年4月6日)は、日本の洋画家。二科会理事。海老原喜之助、吉井淳二に学び、二科会で活躍したほか、地元鹿児島県の女流洋画壇振興に大きく貢献した。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。実家は鹿児島市の老舗である春田屋呉服店で、父・吉次郎と伯父・宗次郎は鹿児島のアマチュア画家の草分け。1939年、鹿児島県立第二高等女学校卒業。女子美術専門学校高等科西洋画部を首席卒業。1943年から母校の鹿児島二高女および併設されている鹿児島女子師範学校で教える。加治屋町の自宅が戦災で焼け、アトリエがないので城山に登って桜島ばかり写生した後、鹿児島二高女のバラック校舎にこもって絵の具を使って暗くなるまで描いていた。
野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12… 野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 - 2023年〈令和5年〉6月22日 )は、日本の洋画家。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。 本名は「暁」が旧字体の野見山 曉治であり、文化勲章受章時の名簿でもそのように記載されている。 福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化。帰国後は東京芸術大学で教え、美術学部助教授、教授などを歴任し、同大名誉教授となる。 2023年6月22日、心不全のため死去。102歳没。
福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 … 福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 - 2012年2月21日)は、日本画家、日本芸術院会員、日本美術院理事。名誉三鷹市民。位階は従三位。山形県米沢市生まれ。本名は福王寺雄一。 代表作は、『島灯』『ヒマラヤの花』等。息子の福王寺一彦も日本画家。
大野 百樹(おおの ももき、1920年〈大正9年〉9月3日 … 大野 百樹(おおの ももき、1920年〈大正9年〉9月3日 - 2019年〈平成31年〉3月1日)は、昭和から平成の日本画家。本名は大野慶蔵。 埼玉県秩父に生まれる。 小谷津任牛や奥村土牛に師事する。1948年(昭和23年)再興第33回院展にて初入選。ほか1986年(昭和61年)再興第71回院展にて日本美術院賞(大観賞)、2008年(平成20年)再興第93回院展にて文部科学大臣賞、2011年(平成23年)再興第96回院展にて内閣総理大臣賞などを受賞した。2001年(平成13年)10月17日、日本美術院同人に推挙された。2019年(平成31年)3月1日、肺炎のため死去。98歳。代表作に『谷川岳』など。
上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - … 上田 毅八郎(うえだ きはちろう、1920年8月30日 - 2016年6月18日)は、日本の画家である。海洋船舶画家として、模型メーカー・タミヤの「ウォーターラインシリーズ」をはじめとするボックスアートで知られる。 静岡県藤枝市鬼岩寺に生まれ、静岡市千代田で育つ。上田は子供のころから「子供の科学」「航空少年」といった少年雑誌を見ながら、船舶や飛行機の絵を盛んに模写していた。 1941年(昭和16年)、徴兵の為帝国陸軍の高射砲連隊(浜松市)に入営。後に船舶部隊(暁部隊)の船舶砲兵に転科、陸軍徴用船である軍隊輸送船に乗船し備砲たる高射砲の操作要員(船砲隊員)となり(船舶砲兵第1連隊)、太平洋戦争における数々の輸送任務に従軍。
稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 202… 稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 2021年3月23日)は、日本画家、文化功労者。東京芸術大学名誉教授。女子美術大学大学院客員教授。創画会会員。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現・田辺市)生まれ。父はデザイナーの稗田耕一(号・彩花)。その後大阪に転居、9歳から阿倍野橋洋画研究所に通う。1933年、大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。卒業後上京、東京美術学校日本画科に入学。1943年、戦時体制のため繰上げ卒業。その後山本丘人に師事。 戦後1948年、丘人、上村松篁らが創造美術を結成し、第1回展より出品、奨励賞受賞。1951年、創造美術と新制作派協会が合併し新制作協会日本画部が発足、会員に推挙される。
上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31… 上前 智祐(うえまえ ちゆう、1920年(大正9年)7月31日 - 2018年(平成30年)4月16日)は、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)出身の画家。独学で洋画を学んだ後に吉原治良に師事し、具体美術協会の結成に参加した。 1920年(大正9年)7月31日、京都府中郡奥大野村(現・京丹後市大宮町奥大野)1459番地に生まれた。父は上前由蔵、母は永濱里ん。1歳だった1921年には父の由蔵が死去した。1927年(昭和2年)3月の北丹後地震では家屋が倒壊し、下敷きになりそうなところを巫女に助けられた。同年には奥大野村倉垣尋常小学校に入学した。1932年(昭和7年)には舞鶴市の中村京染洗張り悉皆店に丁稚奉公に出たが、ここで経験した縫い作業がその後の創作活動の原点となった。
石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7… 石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7月3日 - 2015年9月26日)は、日本画家。創画会会員、京都市立芸術大学名誉教授、京都造形芸術大学教授。 島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町)出身。島根県立浜田中学(現:島根県立浜田高等学校)卒業。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学したが在学中に徴兵され中国に渡る。復員後、人物や風景を描く。1944年(昭和19年)9月、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業。1947年(昭和22年)第3回日展で「三人の少女」が初入選。1950年(昭和25年)より創造美術、新制作展に出品し、1951年(昭和26年)「旅へのいざない」など四度新作家賞を受賞。
駒井 哲郎(こまい てつろう、1920年(大正9年)6月14… 駒井 哲郎(こまい てつろう、1920年(大正9年)6月14日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、昭和期の日本の銅版画家、東京藝術大学教授。 油絵や色彩版画の作品も少数あるが、生涯にわたり一貫してエッチングを制作し、モノクロームの世界で、自己の内面、幻想、夢などを表現し続けた。作風は、パウル・クレーの影響が濃い抽象的・幻想的なもの、樹木や風景を繊細で写実的なタッチで描いたものなどがある。大岡信(詩人、評論家)、安東次男(詩人)ら文学者との交流も多く、安東とのコラボレーションによる詩画集『からんどりえ』(1960年)は、版画と詩を同じ紙に刷った、日本では初の試みと言われている。棟方志功、浜口陽三など、同時代の版画家に比べやや地味な存在ではあるが、日本美術界では長らくマイナーな分野であった銅版画の普及と地位向上に貢献した作家として高く評価されている。
増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 -… 増田誠(ますだ まこと、1920年(大正9年)5月24日 - 1989年(平成元年)4月9日)は、日本の画家。洋画家。 山梨県南都留郡谷村町下谷(現在の都留市谷村町下谷)に生まれる。父は理容店を営む清治郎で、誠は次男。母はかね。幼い頃より絵が得意で、中学時代には似顔絵の天才と賞されたという。 1931年(昭和6年)には父の清治郎が死去。谷村尋常高等小学校、山梨県立都留中学校(現在の山梨県立都留高等学校)を経て、山梨師範学校(現在の山梨大学)を卒業。1938年(昭和13年)には吉田尋常高等小学校の教員となり、富士上吉田町(現在の富士吉田市上吉田)の西念寺の離れに下宿する。翌1939年8月には退職し、同年11月には国華工業へ就職する。
弦田 英太郎(つるた えいたろう、1920年5月1日 - 2… 弦田 英太郎(つるた えいたろう、1920年5月1日 - 2014年9月21日)は日本の洋画家、日展会員、一水会常任委員を務めた。 舞妓や裸婦、バレリーナなどを得意とし、神秘的色香を追求した。 1920年、東京都大森区新井宿(現大田区中央)に生まれる。 東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、油絵科(藤島武二教室)を1942年に卒業する。卒業する年から1949年まで第二次世界大戦のためヨーロッパに戻れずにいたスイス人画家コンラッド・メイリ(Conrad Meili, 1895年-1969年)に師事する。1942年には第6回一水会展で初入選している。また、1949年には有島生馬にも師事している。 1950年に裸婦画「マヤ」で日展の特選となる。
甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920… 甲斐 文融(かい ぶんゆう、号 : 古璋、大正9年(1920年)3月15日 - 1997年12月26日)は、日本の画家、曹洞宗の僧侶(大分県中津市崇禅寺の13世住職)。白日会会員で油彩、日本画、彫刻をよくした。 大正9年、大分県宇佐市清水の清水寺に生まれる。地方画家であった祖父、叔父の絵画を見、また兄の作画する姿に接し、幼少時より絵画に憧憬を抱く。その後、兄から自分の果たせなかった夢を託され、東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科に進学し、小林萬吾、南薫造、伊原宇三郎、石橋犀水、川﨑小虎、矢澤弦月、関野聖雲に学び、1941年に卒業した。 1948年の創元展に「渓流」が初入選。1951年には「石彿」により受賞。
佐藤 昌祐(さとう しょうすけ、1920年3月4日 - 20… 佐藤 昌祐(さとう しょうすけ、1920年3月4日 - 2005年6月30日)は日本の洋画家。大正9年3月4日に山形県酒田市中之口町12番地(現-本町)に生まれる。旧制琢成第一小学校、山形県立酒田中学校、東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業。山形師範学校(現・山形大学地域教育文化学部)助教授となる。山形大学を退職後、東京へ移住。上京後は美術団体展や個展等で作品を発表。昭和34年に同志とともに洋画の公募美術団体「蒼騎会」を創立。1978年には第18回蒼騎会展が文部大臣賞を受賞。練馬区文化事業功労者表彰。
三輪 勇之助(みわ ゆうのすけ、1920年2月26日 - 1… 三輪 勇之助(みわ ゆうのすけ、1920年2月26日 - 1990年1月1日)は、三重県四日市市出身の日本の洋画家。 同じ四日市市生まれの従兄弟に芥川賞受賞作家の近藤啓太郎がいる。
山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 20… 山中 雪人(やまなか ゆきと、1920年2月12日 - 2003年6月5日)は、広島県出身の日本画家。宗教画を得意とする。日本美術院同人。元広島市立大学教授。妻は日本画家の水谷愛子。 1920年2月12日広島市台屋町(現在の南区京橋町)の浄土真宗寺院の家に生まれる。1937年に広島崇徳中学校を卒業後、川端画学校で学び、翌1938年に東京美術学校日本画科へ入学し、結城素明や川﨑小虎らの指導を受ける。1941年には結城素明の主宰する大日美術院第4回展覧会では「花屋」が、翌1942年の第5回展覧会では「T先生」が入選する。同年、東京美術学校を繰り上げ卒業し、1946年まで軍籍に身を置くことになる。1944年に中国漢口(現在の湖北省武漢市)の部隊に配属される。
兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2… 兵藤 和男(ひょうどう かずお、1920年1月26日 - 2012年6月23日)は、日本の洋画家。 1920年(大正9年)1月、横浜市中区真砂町1丁目の絹織物輸出商の家庭に兄一人・姉二人のいる末っ子として生まれる。父の和四朗は河東碧梧桐に師事した俳人、母せいは群馬県桐生の機織業者矢島家の三女であった。1923年に発生した関東大震災の後に、三渓園にほど近い中区間門町に移る。1932年、考古学を専攻する兄に代わり家業を継ぐため横浜市立横浜商業学校に入学。1933年、同校2年生在学中に、幼稚園からの同窓の堀江祐造に刺激され油絵を始める。翌年の夏休みからは市内弘明寺町にあった川村信雄の画塾に通い、主に石膏デッサンを学ぶ。
横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月… 横山 操(よこやま みさお、男性、1920年(大正9年)1月25日 - 1973年(昭和48年)4月1日)は、新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)出身の日本画家。多摩美術大学教授。昭和を代表する日本画家である。[要出典] 横山の作品は煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴であるとされる。見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画である。また、同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
國領 經郎(こくりょう つねろう、1919年 <大正8年> … 國領 經郎(こくりょう つねろう、1919年 <大正8年> 10月12日 - 1999年 <平成11年> 3月13日)は、洋画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 神奈川県横浜市生まれ。東京美術学校図画師範科卒業。日展、光風会展、日洋展などのほか、国際形象展、アジア現代美術展などにも出品、国際的に活動。戦前の中学校美術科教諭に始まり、1985年に横浜国立大学教育学部の教授を退任するまで、美術教育の分野でも多くの業績を残した。 1947年日展初入選、1955年、1969年、1971年の日展で特選、1983年第2回宮本三郎記念賞受賞、1986年日展で内閣総理大臣賞受賞。1991年日本芸術院賞受賞、同年日本芸術院会員。
山下 菊二(やました きくじ、1919年10月8日 - 19… 山下 菊二(やました きくじ、1919年10月8日 - 1986年11月23日)は、日本の画家。 徳島県三好市に生まれる。1937年、香川県立工芸学校卒業。翌1938年に上京し、福沢一郎の絵画研究所に入る。 1944年から1949年まで東宝映画教育映画部に勤務、この間、応召による戦場体験と1946年から1948年までの東宝争議を体験した。1946年、高山良策、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。 1949年、美術文化協会の会員になるが、翌年、退会。以後、多くの会を結成、あるいは参加。また、日本共産党に入党し、山村工作隊にも参加した。 1952年、小河内村でのダム反対闘争に参加。以後、松川裁判、安保闘争、狭山裁判などに関与。
加倉井 和夫(かくらい かずお、1919年9月11日 - 1… 加倉井 和夫(かくらい かずお、1919年9月11日 - 1995年9月24日)は、日本画家。日本芸術院会員。俳人・建築家の加倉井秋を(加倉井昭夫)は兄。 神奈川県横浜市に生まれる。1938年、茨城県立太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)卒業。1944年、東京美術学校日本画科卒業。山口蓬春に師事。第8回日展(1952年)から第13回日展(1957年)まで入選を重ねる。1981年、「青苑」で日本芸術院賞受賞。1989年、日本芸術院会員。1990年、日展常務理事。1992年、勲三等瑞宝章受章。1995年春、ニューヨークで「私の映像 - 加倉井和夫展」を開催。 同年9月24日、急性心不全のため横浜市内の病院で死去。
三上 誠(みかみ まこと、1919年8月8日 - 1972年… 三上 誠(みかみ まこと、1919年8月8日 - 1972年1月16日)は、昭和戦後期に活躍した日本画家である。 1919年大阪市に生まれ、福井市で育つ。旧姓・嶋田。1940年東京美術学校 (旧制)油画科受験に失敗し、京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)日本画科予科に入学。1944年絵専本科を卒業し、同校副手となる。 1948年の日本画家・洋画家・陶芸家から成るパンリアルを経て、翌1949年日本画家達によってパンリアル美術協会を結成。"パンリアル"という名称を発案し、パンリアル美術協会結成時には宣言文の草稿を執筆した。1951年同協会会長に就任し、中心的役割を果たす。 1952年肺結核のため京都病院に入院。
林 喜市郎(はやし きいちろう、1919年6月3日 - 19… 林 喜市郎(はやし きいちろう、1919年6月3日 - 1999年11月3日)は、日本の洋画家。千葉県野田市出身。 生まれ育った千葉の故郷等を主題に、様々な風景画、主に民家を描く事で知られる。 1919年、千葉県野田市に生まれる。 1946年にシベリア抑留を経験し、敗戦後、日本に戻り画家を志すようになる。 齢50を過ぎてから画家デビューするという異色の経歴を有しており、数多くの古民家を描き続けてきた事で知られる。 全国の民家を訪ね歩く事により、日本固有の藁葺文化を世界に伝え浸透させるために活動する。 数ある作品の中でも、山梨県忍野村風景が大多数を占めており、優美性と写実性に富んだ独特の技法が絶大な人気を呼び起こした。
斎藤 博之(さいとう ひろゆき、1919年5月22日 - 1… 斎藤 博之(さいとう ひろゆき、1919年5月22日 - 1987年3月8日)は、日本の洋画家、絵本作家。 独立美術協会展に出品して入選。『しらぬい』で第2回講談社出版文化賞絵本賞、『がわっぱ』他で、第21回小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)を受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 200… 清川 泰次(きよかわ たいじ、1919年5月6日 - 2000年8月6日 )は、日本の洋画家。 1919年(大正8年)5月6日、静岡県浜松市にて生誕。1936年、浜松第一中学(現浜松北高校)4年修了後、慶應義塾大学経済学部予科に入学し、油彩画を始めていく。大学在学中は写真部に所属していた。 1944年に慶應義塾大学を卒業し、戦後はアメリカやヨーロッパ、アジア各地を訪問していく。1947年に二科展に初入選し、浜松市で初の個展を開催する。 1949年には世田谷区の成城にアトリエ兼住居を構え、1951年に渡米しシカゴの画廊で個展を開催し、1954年にタイやエジプト、インドなどを周遊後、帰国。帰国後は、「今日の新人展」(神奈川県立近代美術館)や読売アンデパンダン展等に出品していった。
大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16… 大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の洋画家。風景を幻想的に描く作風で知られた。 大森朔衞 (おおもりさくえ) 1919年香川県小豆島、高松市で育つ。幼少期より絵に親しみ、石井柏亭が審査員の中国四国少年水彩画展で金賞受賞。12歳で画家になる決意をする。13歳の夏休みの早暁、屋島で五剣山の日の出を描く藤島武二に遭遇。14歳で大原美術館を訪問した。 親は画家になることを反対したが、17歳で上京、日本美術学校に入学。親の援助がないため、学費や生活費を稼ぎながらでは続かず中退する。1940年の独立展をはじめとして、次々と団体展に入選する。
弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 20… 弥勒 祐徳(みろく すけのり、1919年2月20日 - 2024年5月16日)は、宮崎県内で活動した日本の画家。西都市にて生まれ、在住も死没地も同市であった。珍しい名前だが、本名である。宮崎県立都農高等学校講師、宮崎県美術協会理事。息子はテレビ宮崎役員の弥勒猛。 精力的に活動を続け、350回を越える個展を開いた。自宅の近くに展示室『神楽館』を設けており、作品を見ることができるほか、アートカフェや美術館で作品展示を行った。主に神楽や桜をテーマにする画家として有名。代表作に、銀鏡神楽(しろみかぐら)で舞われた「山の神」を描いた百二十号の大作など。
宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1… 宮永 岳彦(みやなが たけひこ、1919年2月20日 - 1987年4月19日)は、日本の画家。 静岡県磐田郡(現・磐田市)生まれ。名古屋市立工芸学校(現名古屋市立工芸高等学校)卒業後、松坂屋名古屋本店に入社。その後、第二次世界大戦の兵役の後、実家の神奈川県秦野市に戻り、松坂屋銀座店宣伝部に勤務しながら秦野市、後に東京都新宿区にて創作活動を行う。 油絵をはじめ、小田急電鉄や全日本空輸、横浜開港祭のポスター、童画、週刊漫画TIMESなどの表紙画、挿絵、水墨画などの作品を残した。特に1955年の発売以来、現在に至るまでパッケージに使用されている「ぺんてるくれよん」のイラストがつとに有名である。その多才さから「器用貧乏」と揶揄されたが、「器用貧乏が勝つか、不器用が勝つか、勝負だ」と意に介さなかった。
関 主税(せき ちから、1919年1月4日 - 2000年1… 関 主税(せき ちから、1919年1月4日 - 2000年11月1日)は、日本画家、日本芸術院会員。 千葉県出身。1941年東京美術学校卒。戦後日展に出品、1986年日本芸術院賞受賞。1992年日本芸術院会員。1994年勲三等瑞宝章受章。1999年日展理事長。
千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994… 千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994年〈平成6年〉)は、日本の洋画家。詩人、千家元麿の次男として東京都に生まれる。立教大学卒。 ギリシャや日本の神話を題材にした作品を数多く遺しており、古代フレスコ画を連想させるかのような、独特の表現技法には、モネやルノワールなどの、後期印象派へと通ずるものが観られ、繊細、かつ柔和なタッチと淡くも克明なる色遣いからは、鑑賞する者に安堵なる余韻をもたらす。また、ありとあらゆる美術団体に属することを好まず、1994年に75歳で亡くなるまでの間、生涯在野の画家として活躍したことでも知られている。 千家という名からも、本家は出雲国造の出身であり、古い豪族の出に由来している点からも、彼が神話をモチーフにした作品を、数多く制作してきた背景には、由緒ある血縁にも、多少は影響されていたためではないかと考えられる。
櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6… 櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6日)は、日本の洋画家。弟子に三沢忠がいる。 1919年、千葉県印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎)に生まれる。 千葉県立佐倉中学校(旧制、現千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスでル・サロン銅賞・ヴィシー国際展グランプリを受賞。 1967年(昭和42年)第10回日展、1969年(昭和44年)改組第1回日展の2回で特選を受賞した。
太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2… 太田 大八(おおた だいはち、1918年12月29日 - 2016年8月2日)は、日本の絵本作家・画家。 長崎県大村町(現・大村市)出身。戦時中に(旧制)多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)図案科を卒業。1945年8月、徴用で勤務していた会社の出張で広島県大竹に赴き8月5日に広島市に入ったものの、間一髪で原爆被爆を免れ、被爆翌日の惨状を目撃した。 戦後、大阪市で復興のための建築パネルを建てたことをきっかけに美術界に戻り、デザインの仕事をするために東京に帰って「スタヂオ・トーキョー」を設立した。さらに偶然再会した同級生の依頼で詩のイラストを描いたことがきっかけで、絵本作家となる。1949年のデビュー以来、130作の創作絵本、230作の児童書の挿絵を手掛けている。
いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:… いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本の画家、絵本作家。岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロで発表された作品もある。父は陸軍勅任建築技師の岩崎正勝。母・文江は大日本連合女子青年団(のちの大日本青少年団)主事。前夫は東洋拓殖職員、後夫は日本共産党元衆議院議員で弁護士の松本善明。孫は絵本作家の松本春野。 1918年、雪の降る師走の朝にちひろは日本帝国陸軍築城部の建築技師の父親、女学校の教師の母親という当時としては珍しい共働き家庭における三姉妹の長女として福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれた。
鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 20… 鈴木 竹柏(すずき ちくはく、1918年12月4日 - 2020年2月7日)は、日本画家、日本芸術院会員。日展の事務局長や理事長、会長を歴任。神奈川県生まれ。
相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日… 相原 求一朗(あいはら きゅういちろう、1918年12月3日 - 1999年2月5日)は、日本の洋画家。埼玉県川越町(現・川越市)生まれ。冬の北海道の詩情を描く洋画家の第一人者と言われた。新制作協会会員。 埼玉県川越町(現・川越市)に生まれる。父・茂吉、母・よし。本名は相原久太郎(のちに求一朗)。生家は農産物の卸問屋で、恵まれた環境だった。1936年、川越商業学校卒業。商業学校の商業美術担当教師から油彩を学んで東京美術学校進学を志すが、父親の逆鱗に触れ、家業を継いだ。1940年、21歳で兵役に就き、第二次世界大戦中は旧満州やフィリピンを転戦。1944年、フィリピンからの帰還途中、搭乗した飛行機が沖縄沖に墜落。
林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 - … 林田 重正 (はやしだ しげまさ、1918年10月1日 - 1997年1月4日)は、長崎県諌早市出身の画家。 山、川、野原、木立と言った、やさしい日本の風景を、心に映るままに描き続けた。 自由美術家連盟離脱後、特定の美術団体に属することもなく、かつ非常に寡作でありまた謙虚な性格であった為、一部の熱烈な理解者を得てはいた ものの、生前に美術界で大きな評価を得ることはなかった。 底本はによった。ただし、年齢は満年齢とした。 1918年 (大正7年)10月1日、長崎県北高来郡諫早村上ノ馬場(現諫早市上野町)に生まれる。父嘉八・母津枝。家業は地主。 1937年(昭和12年)3月(18歳)、県立諫早中学(現・県立諫早高等学校)を1年遅れで卒業。
久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944… 久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944年7月18日)は、日本の画家。東京美術学校工芸科図案部(現・東京芸術大学デザイン科)を首席で卒業した後、太平洋戦争の中国戦線に出征し、戦死した戦没画学生。東京美術学校卒業生の戦没者はわかっているだけで167名おり、久保はそのうちの1人である。卒業後直ちに応召した後、ほどなく戦死しているので目立った作品が多いわけではないが、1971年 (昭和46年) に東京芸術大学芸術資料館に展示された「図案対象」は、戦没画学生の作品発掘のきっかけの1つになった。 久保克彦は、1918年(大正7年)に山口県熊毛郡佐賀村佐合島(現平生町)の醤油醸造業を営む家で女4人男2人の6人兄弟の末っ子として生まれた。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
寺島 龍一(てらしま りゅういち、1918年4月27日 - … 寺島 龍一(てらしま りゅういち、1918年4月27日 - 2001年10月26日)は、洋画家、日本芸術院会員。寺島竜一とも。 東京府出身。東京美術学校卒。寺内萬治郎らに師事。1979年まで筑波大学教授。1997年「アンダルシア讃」で恩賜賞・日本芸術院賞受賞。1998年芸術院会員。日展理事、顧問。光風会理事長。 人物画、特にエキゾチックな女性像で知られた。ほか児童書の挿絵・表紙画でも知られ、特にJ・R・R・トールキンの作品の挿画が名高い。また自身でも子供向けの著作を著した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 -… 佐藤 溪(さとう けい、1918年(大正7年)3月31日 - 1960年(昭和35年)12月30日)は、日本の画家、詩人。本名は忠義。溪山人、忠石、教祖とも号する。 第二次世界大戦中は中国・東南アジアで従軍する。1945年に復員したのちは、後述の放浪中に作成された作品とは対照をなす、神秘的な油彩画を多く制作した。1955年から5年に渡り日本全国を旅し、昭和30年代の風景や人物を絵画に残した。水彩、フェルトペン、鉛筆等による多彩な画風が特徴である。1959年、旅先の沼津で脳卒中のため倒れ、翌1960年、両親の住む湯布院町で、「父母の後光見たり萩深し」という辞世の句を残し死去。 佐藤の作品の多くは、1991年7月に大分県大分郡湯布院町(現大分県由布市湯布院町)に開館した由布院美術館で展示されていたが、2012年3月に同館が閉館することに伴い、2013年1月からは大分県別府市にある国の登録有形文化財聴潮閣内に開設された佐藤溪美術館で展示されている。
小宮山 俊(こみやま しゅん、本名:込山俊男、1918年1月… 小宮山 俊(こみやま しゅん、本名:込山俊男、1918年1月29日 - 2006年9月12日)は 日本画家である。代表作にヒマール連作シリーズがある。 1918年(大正7年)1月29日に東京市月島(現東京都中央区)で込山熊太郎、母千代次の長男として生まれる。1941年(昭和16年)に東京美術学校日本画科に入学する。同級生に渡辺学(創画会)、太田歳、田所量司がいた。師は結城素明、川﨑小虎、川合玉堂、常岡文亀、矢沢弦月。元新美術協会理事長である。 1955年(昭和30年)頃から千葉県船橋市金杉に居住し、船橋ヘルスセンターの内装デザインを手掛けた。 2006年(平成18年)9月12日に逝去。千葉県立美術館、山梨県南部町立美術館などに作品が収蔵されている。
古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5… 古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5日 - 1960年〈昭和35年〉7月21日)は、昭和期の洋画家。新制作派協会物故会員。愛媛県道後村(現:松山市)出身。 人物画、静物画を得意分野とした。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調として、色彩より形を重視し、均整のとれた構図の人物や静物を描いた。その色彩から、彫刻的な量感や実在感が作品に強く表れ、特別個性のある画風であった。戦後の日本美術で抽象表現主義の流行するなか、自身の信念を貫いて具象絵画を追究し続けた。 愛媛県道後村大字祝谷にて、元町会議員の父・文平の三男として生まれる。兄2人、姉1人、弟2人の6人兄弟。生まれながらにして喘息をかかえており、生涯闘病することとなる。
熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)… 熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)は、日本の画家、美術教育者。 山梨県東山梨郡菱山村(勝沼町を経て現甲州市)生まれ。1938年東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒、1942年早稲田大学専門学校政治経済科卒業。1948年東京美術学校油絵科内地留学修了。東京都の公立小学校教諭を1955年まで務める。1957年東京教育大学教育学部芸術学科構成専攻卒業。1958年二紀会絵画部同人。1965年国際美術教育会議(INSEA)東京会議事務総長を務める。1969年女子美術大学助教授、INSEA本部財務局長、1974年東京造形大学教授。1979年岡山大学教育学部教授。1983年上越教育大学教授。
西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日… 西村 元三朗(にしむら もとさぶろう、1917年12月25日 - 2002年7月11日)は、昭和時代から平成時代にかけて活躍した洋画家。 神戸市に生まれる。1939年~1941年の京城での従軍中に画家になる決意を固め、帰国後1942年に小磯良平に師事した後、日本大学専門部芸術科に入学する。卒業後、小磯良平に誘われて新制作派協会(後の新制作協会)に参加し、その後の主たる活動の場とした。 作品の主題は一貫して建造物で、作風は初期の叙情的風景画から次第に想像上の空間を組み合わせたシュールレアリズム的風景画へと変化し、さらに1953年に発表した「洞」「空間」が高い評価を受けて以降は抽象化した建物の構造体による多次元的広がりをもつ空間の表現へと移行する。
浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年… 浜田 知明(はまだ ちめい、本名の読みはともあき、1917年(大正6年)12月23日 - 2018年(平成30年)7月17日)は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田も棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。 1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。
張 旭鎭(チャン・ウクジン、朝鮮語: 장욱진、英語: Cha… 張 旭鎭(チャン・ウクジン、朝鮮語: 장욱진、英語: Chang Ucchin、1917年11月26日 - 1990年12月27日)は、留学第二世代を代表する韓国の近代美術画家である。家族、木、子供、鳥といった日常風景でよく目にする素朴な素材をモチーフに、童話的な内面世界を表現した作品制作を行った。東京の帝国美術学校で西洋画を学んだ後に帰国し、1954年から1960年までソウル大学校美術大学の教授を務めた。 本貫は結城張氏(朝鮮語版)。 張旭鎭は1917年11月26日、忠清南道の燕岐郡で産まれた。幼い頃より美術に対する素質があり、1926年に広島高等師範学校が主催した「全国小学校美術展」で一等を受賞している。