川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月… 池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月1日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の外交官。内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。 長崎県出身。池邊政五郎の三男。私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。
尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月… 尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月29日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、日本の陶磁器研究家、外交官、男爵。中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財専門審議会専門委員。 東京生まれ。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。
斎藤 良衛(さいとう りょうえ、1880年(明治13年)11… 斎藤 良衛(さいとう りょうえ、1880年(明治13年)11月15日- 1956年(昭和31年)11月4日)は、日本の外交官。外務省通商局長を最後に退官し、南満州鉄道理事、同最高顧問、外務省顧問を務める。『支那ニ於ケル外国人ノ権利義務』で法学博士(東京帝国大学)。会津短期大学学長歴任。 旧会津藩士であった斎藤家に、医師の長男として生まれる。会津中学に進学し、同級生には岸本正雄や常盤盛衛などがいた。検定試験から東京帝国大学に進み、卒業の翌々年(1910年)に外交官及領事官試験合格(同期生は9名で首席合格者は斎藤博)。オタワやワシントンでの在勤もあったが、中国勤務が長く、本省では通商局課長、同局長を歴任した。
太田 為吉(おおた ためきち、1880年(明治13年)11月… 太田 為吉(おおた ためきち、1880年(明治13年)11月12日 - 1956年(昭和31年)11月30日)は、日本の外交官。駐スペイン公使、駐ソビエト連邦大使。位階および勲等は正三位・勲一等。「大田」と表記される場合がある。 鳥取県気高郡青谷村(現在の鳥取市)出身。1901年(明治34年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。1903年(明治36年)に高等文官試験に合格し、1907年(明治40年)に外交官及領事官試験に合格した。領事官補として香港に勤務し、関東都督府事務官、ニューヨーク領事官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、メキシコ公使館二等書記官、サンフランシスコ総領事、オタワ総領事、中華民国公使館参事官を歴任した。
建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10… 建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等功四級。 新潟県出身。陸士13期、陸大21期。日露戦争時に騎兵科士官として奉天会戦の勝利に貢献する。参謀本部第二部長、参謀本部第一部長、第10師団長、第4師団長を経て、二・二六事件後に予備役編入され、松岡洋右外相の下で更迭された東郷茂徳に代わり駐ソビエト連邦大使に就任した。宇垣一成の側近であり、三月事件にも参加している。 現在の新潟県新潟市で地方官吏・野崎美孝の三男として生まれ、同地方官吏・建川周平の養嗣子となる。高田中学校を経て旧制新潟中学校卒。
川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)… 川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)3月14日 - 1957年(昭和32年)8月7日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 京都府出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。諸井六郎領事や、阿部守太郎参事官の下で、日米通商航海条約(小村条約)の改正に向けた調査にあたったのち、1912年(大正元年)からアメリカ合衆国在勤。 領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・書記官、同参事官を歴任。1924年(大正13年)、ハンブルク総領事に就任した。1927年(昭和2年)、駐ギリシャ公使に任命され、駐アルバニア公使も兼ねた。
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月… 松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。 南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。 1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(現:光市室積)で生まれた。 洋右が11歳の時に父親が事業に失敗し破産したことや、親戚が渡米し成功していたことから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。
山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月2… 山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月21日 - 1958年(昭和33年)10月29日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン公使。 静岡県に会田和保の二男として生まれ、山崎金重の養子となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学を卒業し、法科大学法律学科仏蘭西法兼修。 翌年に外交官及領事官試験合格した。領事官補として広州、牛荘に、外交官補としてスペインに勤務した。さらにリヨン領事、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館二等書記官、同一等書記官、同代理公使、外務書記官・通商局総務課長、翻訳課長、会計課長、在ソビエト連邦日本国大使館参事官、ブラジル大使館参事官を歴任した}。
森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9… 森 安三郎(もり やすさぶろう、1880年 - 1952年9月25日)は、日本の外交官。
平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1… 平田 知夫(ひらた ともお、1880年(明治13年) - 1918年(大正7年)3月15日)は、日本の外交官。在カルカッタ領事を経て、在モスクワ領事を務めた。 福岡県宗像郡池野村(現宗像市)に、平田道見の長男として生まれる。福岡県立尋常中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)、第一高等学校を経て、1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 在学中、1903年(明治36年)にはロシア帝国領浦潮から単身徒歩で朝鮮に向い、翌1904年(明治37年)には揚子江を遡って漢口から北京を訪れた。広田弘毅とは修猷館以来の同窓で親友であった。 1906年(明治39年)、第15回外交官及領事官試験に合格。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
鍾 毓(しょう いく、1879年10月28日 – 没年不詳)… 鍾 毓(しょう いく、1879年10月28日 – 没年不詳)は、中華民国・満洲国の官僚・外交官。別号は輯五。中華民国時代は奉天派の行政官僚・外交官をつとめた。満洲国では初代黒河省長となっている。 清末に日本へ留学し、1908年(光緒34年/明治41年)に法政大学法政速成科第五班政治部を卒業した。 中華民国では黒龍江省呼蘭県知事、三姓正紅旗佐領を経て、1919年(民国8年)3月13日に外交部特派黒龍江交渉員署理に任命される。同年10月28日、同交渉員に正式に任命された。翌1920年(民国9年)2月5日、呼倫貝爾(ホロンバイル)善後事宜督弁(後に呼倫貝爾交渉員)に任命され、1921年(民国10年)2月17日までつとめた。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日… 大野 守衛(おおの もりえ、1879年(明治12年)3月1日 – 1958年(昭和33年)7月18日)は、日本の外交官。神奈川県藤沢市長。錦鶏間祗候[3]。
鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月1… 鈴木 榮作(すずき えいさく、1879年〈明治12年〉2月15日 - 1940年〈昭和15年〉6月2日)は、明治・大正期日本の外交官。香港総領事や、シドニー総領事を務めた。 靜岡県出身。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年外交官領事官試験合格、外交官補任官。群山理事庁理事官、ニューヨーク総領事代理などを経て、1908年シンガポール領事。1910年南京領事。1912年待命領事(外務大臣官房記録課臨時勤務)。1916年外務大臣官房会計課長心得兼務。1917年香港総領事、高等官三等。1921年シドニー総領事。1925年依願退官。 妻のふみは室田義文貴族院議員の三女。外交官の古谷重綱は義兄。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中… 孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中華民国の政治家・官僚・弁護士・画家・外交官。字は子涵。南京臨時政府で官歴を開始し、北京政府では国会議員や法制局長などを務めた。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会でも各職を歴任している。 清末に天津北洋大学予科を卒業。日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には汪兆銘(汪精衛)や李文範、胡漢民、古応芬、張一鵬らがいる。 中華民国成立直後の1912年(民国元年)2月より、南京臨時政府内務部で警務局長と警務学校校長を歴任した。翌1913年(民国2年)江蘇省で衆議院議員に当選し、国民党や民憲党に所属した。
岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23… 岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23日 - 1968年(昭和43年)4月1日)は、日本の外交官。幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学卒業。秋田県出身。 岸太右衛門の長男として生まれる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、内閣調査局調査官、在アントワープ領事を経て1940年(昭和15年)に幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官となる。東京帝国大学時代は内閣総理大臣を歴任した広田弘毅と同期であった。 また私生活では正則英語学校の校長である斎藤秀三郎の長女・ふみと結婚し1男4女を儲ける。 1968年(昭和43年)4月1日、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10… 鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10月22日 - 1954年(昭和29年)10月27日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。 1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官、イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25… 出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年(明治11年)7月25日 - 1947年(昭和22年)8月19日)は、日本の外交官、政治家。外務次官、在アメリカ合衆国日本大使、貴族院勅選議員、参議院議員。位階は正三位、勲等は勲一等。 岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校(一橋大学の前身)専門部貿易科卒業。同期に山中千之元国際連盟委任統治委員、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。 1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。
沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1… 沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1919年4月26日)は、日本の外交官。初代在ポートランド領事、在天津総領事などを務めた。 東京府平民・沼野安五郎の長男として生まれる。東京府立第一中学校を経て、1903年(明治36年)に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年(明治37年)に第13回外交官及び領事官試験に合格。同年外交官補に任官し、叙高等官七等、韓国在勤となった。 1905年(明治38年)ダーハム・W・スティーブンス韓国外交顧問補佐官。1906年(明治39年)在ロンドン領事官補、在ロンドン総領事事務代理。1908年(明治41年)初代在ポートランド領事。1910年(明治43年)在ハンブルク総領事代理。
吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1… 吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1月21日 – 1933年(昭和8年)4月23日)は、日本の外交官。駐トルコ大使。
五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1… 五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1月19日 - 没年不詳)は、日本の外交官。バンクーバー領事、特許弁理士、弁護士。 長野県更級郡今里村出身。法政大学在学中の1907年(明治40年)に第14回文官高等試験行政科合格。同年更級郡会議員。翌年の1908年(明治41年)に法政大学卒業後、中央大学、東京帝国大学法科大学政治学科選科に進学。外務省入省。通商局を経て1916年(大正5年)ポートランド領事事務代理。1918年(大正7年)に副領事。 1923年(大正12年)にバンクーバー領事に就任。1924年(大正13年)、前年の関東大震災による影響で一時帰国、内務省経理部供給課に配属。
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)… 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した海軍軍人、外交官、政治家。海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 和歌山県和歌山市出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣を勤めた後、第二次近衛内閣成立後に駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索した。 旧紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校(26期、1898年(明治31年))卒業(次席)。
松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月… 松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10… 菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。菊池侃二の子。 大阪府に衆議院議員・大阪府知事、菊池侃二の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。 同年在福州領事官補、叙従七位。1904年(明治37年)在ドイツ外交官補。1907年(明治40年)叙正七位。1907年(明治40年)在オーストリア大使館三等書記官。1908年(明治41年)在ロシア大使館三等書記官。 1910年(明治43年)に在厦門領事。1912年(大正元年)聖スタニスラフ勲章(英語版、ロシア語版)第三等受章。
田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 196… 田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 1961年10月3日)は、日本の外交官。外務次官、在ソヴィエト連邦特命全権大使、同盟通信社理事会長、日本新聞会会長等を務めた。 京都府宮津市生まれ。旧制京都府尋常中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校の前身)経て、1898年東京高等商業学校(一橋大学の前身)領事科卒。1898年に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省入省、同期に本多熊太郎や埴原正直らがいる。同年から領事官補としてソウル、ホノルル、ニューヨークに在勤。1903年から領事として、シンガポール、香港、シアトルに在勤。1908年に帰国し、通商局第二課長に就任。 駐アメリカ合衆国日本大使館参事官を経て、1919年外務省通商局長、1921年同省情報部次長、1922年同省次官兼臨時平和条約事務局長兼情報部長。
山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1… 山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1949年)は、明治・大正期日本の外交官。元国際連盟委任統治委員。 青森県弘前市笹森町生まれ。1896年青森県第一尋常中学校(現青森県立弘前高等学校)卒業。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年同専攻部銀行科卒業。 同期に出淵勝次元駐米大使、鈴木榮作元シドニー総領事、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。また、在学中青森県出身学生のための寮として初めて東京に設立された修養社で佐藤尚武元外務大臣とともに住み、佐藤はのちに山中の紹介で山中の叔父佐藤愛麿の娘婿となった。 1903年在ホノルル領事館領事官補。
長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1… 長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1949年6月30日)は、日本の外交官。常設国際司法裁判所判事。法学博士。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月2… 埴原 正直(はにはら まさなお、1876年〈明治9年〉8月25日 - 1934年〈昭和9年〉12月20日)は、日本の外交官。外務次官、駐アメリカ大使、ワシントン会議全権委員。位階および勲等は正三位・勲一等。洋画家の埴原久和代は妹。 山梨県中巨摩郡源村(現・南アルプス市)生まれ。1897年(明治30年)に東京専門学校卒業後は東洋経済新報社に勤務し、日本最初の外交専門誌『外交時報』を刊行する。 翌1898年(明治31年)に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省に入省。同期に田中都吉、本多熊太郎らがいる。清国(現・中国)アモイ領事館補を皮切りに、以降順調に昇進を果たす。外務次官時代には当時の海軍大臣・加藤友三郎や駐アメリカ大使・幣原喜重郎とともにワシントン会議の全権委員に選任された。
野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 … 野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 - 1949年)は、明治・大正・昭和の外交官・教育者・社会活動家。名は茂温、別号は三山。外務省留学生及び外交官として中国で各事案に対処し、後に奉天居留民会長として現地の顔役となった。 新潟県北蒲原郡佐々木村(現:新発田市)に生まれる。実家は代々里正の家柄で、農業を営みながらも士分待遇であったという。1892年(明治25年)に上京し、三島中洲の漢学塾・二松学舎で学びながら、早稲田東京専門学校でも法律・政治を修学した。1896年(明治29年)、二松学舎尋常科を卒業し、中等学校漢文教師の資格を得た。 まもなく野口は外務省留学生試験を受験し、1897年(明治30年)、在北京留学生を命じられ、中国語を修学する。
古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 19… 古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 1967年9月17日)は、大正・昭和初期の外交官。古谷綱武と古谷綱正は子息。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市宇和町明間)の庄屋・古谷綱紀の次男として生まれた。同志社を卒業後、米国ミシガン大学に学ぶ。国民新聞社勤務を経て、1902年に外交官及領事官試験に合格した。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。
有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日… 有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日 - 1937年〈昭和12年〉6月25日)は、明治、大正、昭和前期の外交官。国際連盟設立メンバー。上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中華民国公使を経て、大使館昇格に伴い初代駐中華民国大使となる。対中国外交に尽力、軍部の中国侵略に抵抗。 京都府丹後国与謝郡宮津町(現:宮津市)出身。 父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。駐ブラジル大使として日本人のアマゾナス州進出を支援。 国際連盟設立メンバーの1人で、第2回から第4回までの国際連盟総会で日本代表を務めた。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10… 小平 総治(こだいら そうじ、1876年 - 1935年10月18日)は、日本の外交官。通訳官。号は綏芳。 長野県安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。地元で漢学を修めた後、上京して二松學舎に入学し、三島中洲の教えを受け、善隣書院にも学んだ。1899年中国に留学、義和団の乱に陸軍省通訳官として従軍し、川島浪速の推挙によって北京警務学堂監督となり、1910年には武昌高等巡警学堂教習、1911年には漢国領事館勤務を務め、中国初の近代的警察官養成に従事した。 1914年、粛親王愛新覚羅善耆の邸宅に入り、王府内外の事務、子女の訓育にあたった。その間、政治外交の重要事項に関してしばしば日本政府に進言した。1915年、粛親王を擁立し、満蒙独立を画策したが、孫文らの革命勢力の抵抗、袁世凱の急死によって失敗した。
児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 -… 児島 正一郎(こじま しょういちろう、1875年1月1日 - 1900年7月4日)は、日本の明治時代の外交官。父は大審院長を務めた児島惟謙。 1875年(明治8年)1月1日に児島惟謙の長男として東京府神田に生まれる。1881年(明治14年)に錦華小学校(現千代田区立お茶の水小学校)に入学するが、1883年(明治16年)に父が大阪控訴院長となったことから、大阪師範学校(現大阪教育大学)附属小学校に転じる。 同志社普通学校(現同志社中学校・高等学校)を経て、1891年(明治24年)に東京に戻り、商工中学校(現日本大学第三中学校・高等学校)を経て、高等商業学校(現一橋大学)に進学し、1894年(明治27年)に卒業。
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12… 本多 熊太郎(ほんだ くまたろう、明治7年(1874年)12月8日 - 昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。 和歌山県那賀郡で本多宇兵衛の子として生まれる。東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年(明治27年)5月に外務省留学生試験(講習語は中国語)に合格し、同年6月に法学院を中途退学。翌1895年(明治28年)8月に外務省書記生試験(後の外務専門職試験)に合格し外務書記官。同期に中村巍、高橋橘太郎らがいる。1898年(明治31年)、外交官及領事官試験(第7回、後の外交官1種試験)に合格し外交官補となる。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年(明治7年)1月24日 - 1965年(昭和40年)1月5日)は、新潟県中頸城郡高田(のち上越市)出身の日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 父は諏訪村初代村長の芳澤襄良。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。
小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12… 小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。 石川県出身、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学法律学科卒業。警視総監官房に半年間勤務後、外交官及領事官試験に合格して外務省に入り、1898年(明治31年)10月に天津在勤の領事官補へ任じられる。その後、シンガポール、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスでの勤務を経験した。1905年(明治38年)に中国へ転勤、芝罘領事、天津総領事などを務める。1908年(明治41年)柔術家の野口清と在留官民が設立した天津武術會で副会長を務める。 1916年(大正5年)に日本へ戻って外務省政務局長などを務めるが、1918年(大正7年)10月から1923年(大正12年)まで特命全権公使として再び中国へ派遣される。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治… 赤塚 正助(あかつか しょうすけ、1872年10月8日(明治5年9月6日) - 1942年(昭和17年)5月6日)は、明治から昭和前期の外交官、衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 鹿児島県姶良郡蒲生村(現在の姶良市)に旧薩摩藩士・赤塚源太郎の三男として生まれた。1892年(明治25年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1898年(明治31年)外務省に入省し、廈門領事、釜山領事、マニラ領事、外務省通商局第一課長などを歴任し、1912年(明治45年)に広東総領事に就任した。
三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872… 三浦 弥五郎(みうら やごろう、明治5年1月16日(1872年2月24日) – 昭和16年(1941年)4月4日)は、日本の外交官。駐スイス公使。 千葉県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外交官補、ブラジル公使館三等書記官、オランダ公使館三等書記官、馬山領事、京城理事庁理事官・統監府書記官、スウェーデン公使館一等書記官、駐フランス大使館一等書記官、アメリカ合衆国大使館参事官を歴任した。1916年(大正5年)より駐スイス公使を務めた。その後、平和条約実施委員となった。 退官後は弁護士を開業した。
諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年… 諸井 六郎(もろい ろくろう、1872年2月17日(明治5年1月9日) - 1940年(昭和15年)5月6日)は、児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の明治期から大正期の外交官、郷土史家。従三位勲二等。兄の諸井恒平は秩父セメント会社の創設者。 中山道で最大の宿場町である本庄宿(1889年(明治22年)に児玉郡本庄町となる)に生まれた。ちょうど本庄宿では飛脚制度から近代郵便制度が始まり、六郎の父である諸井泉衛(東諸井家10代目当主、元は南諸井家の生まれ)が郵便取扱人に任命される。ここから東諸井家は「郵便諸井」と称されるようになる。泉衛の妻である佐久は渋沢栄一のおばに当たるので、栄一と泉衛の息子たちは従兄弟に当たる。