佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 19… 佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 1978年9月8日)は日本の建築家。旧住友家俣野別邸、日光プリンスホテルなどを手掛ける。 秋田県生まれ。1914年、山形県工業学校(現在の山形県立米沢工業高等学校)建築科卒業後、住友総本店営繕課に入社し、上司であった建築家・長谷部鋭吉(日建設計創業者)の薫陶を受ける。1929年、佐藤秀三建築工務所(現在の株式会社佐藤秀)を創業。16代住友吉左衞門をはじめ、住友系列企業・経営首脳の後援を足掛かりに、設計施工会社としての基盤を固めた。日本の木造住宅に西洋建築の作風を取り入れ、主に木造住宅、別荘、保養所などを設計施工した。また建築をトータルデザインするため、家具や建具、照明、装飾金物なども製作。
池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) … 池田谷 久吉(いけだや ひさきち、1897年(明治30年) - 1956年(昭和31年))は日本の建築家、郷土史家。 大阪、泉州を中心に社寺建築など伝統的な建築作品を多く手掛けた建築家である。また大阪府庁在職中から法隆寺五重塔の調査など古建築の研究調査を行い、退職後も発掘調査や文化財指定に携わるなど、歴史研究においても功績を残した。大阪府泉佐野市出身。 現在の泉佐野市に生まれる。1913年(大正2年)大阪市立大阪工業学校本科建築科入学。 卒業後、いくつかの会社を経て大阪府庁入庁。1922年(大正11年)大阪府建築監督官補となる。 1926年 (大正15年) 大阪府庁退職、池田谷建築事務所設立。1929年 (昭和4年) 大阪府史跡名勝天然記念物調査委員就任。
石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30… 石川 純一郎(いしかわ じゅんいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の建築家。1930年代から1940年代にかけて竹中工務店の看板建築家として活躍し、モダニスト建築家として朝日新聞社の社屋を多数手がけた。 東京帝国大学を卒業し、同期の蒲原重雄、吉田宏彦、土浦亀城、岸田日出刀らと建築家グループ「ラトウ」(ラトー建築会とも表記)を結成。1927年(昭和2年)、竹中工務店に入社。1930年(昭和5年)、竹中工務店設計部の命により鷲尾九郎とともにシベリア鉄道で欧州各地に向かい、鷲尾は劇場と病院、石川はオフィスビルをテーマに建築動向を視察した。1946年(昭和21)より同社設計部長に就任。
上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本… 上浪 朗(うえなみ あきら、1897年-1975年)は、日本の建築家。逓信省営繕課で幾多の逓信建築にたずさわる。 1897年(明治30年)大阪生まれ。1922年(大正11年)東京大学工学部建築学科を卒業し、同年逓信省経理局営繕課に就職し、逓信省の建築家になる。同年経理局営繕課技師に任命。 1927年(昭和2年)、営繕磔謝欄殿計6班主査。この間、下記作品を設計の他、尼崎郵便局電話分室新築、堺郵便局電話分室新築、京都中央電話局祇園電話分局新築、福山郵便局電話分室、宮崎郵便局電話事務室新築、銚子無線電信所新築工事を担当 1946年(昭和21年)、航空局技師を兼任。 1957年(昭和32年)、逓信省退官。
雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1… 雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1945年(昭和20年))は、日本の建築家。 名古屋市で生まれ、横浜市で育つ。1922年(大正11年)、東京美術学校(現東京芸術大学)建築科を卒業。同年宮内省内匠寮に入る。 1926年(大正15年)には陸軍砲兵少尉に任じられる。 1928年(昭和3年)、宮内省の命により欧米18ヶ国へ出張。1931年(昭和6年)より臨時帝室博物館造営課勤務となり、帝室博物館(現・東京国立博物館)の実施設計にあたった。1938年(昭和13年)、同博物館の完成とともに退官。川崎重工業に入り、船内装飾にたずさわる。 その後独立し、満州国の新京市忠霊塔などを設計。
千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 199… 千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 1991年)は、日本の建築家。建築学者。戦前台湾にわたり、台湾先住民の住居を研究・再現するなどの功績を遺した。台湾時代の教え子に郭茂林らがいる。 佐賀県出身。名古屋高等工業学校建築科を卒業後広島、名古屋、宮崎などの旧制中等工業学校で教鞭をとった。1925年に台湾にわたり、台北州立台北工業学校(現在の国立台北科技大学)建築学科の教員になった。1930年に台湾建築会に入会し、会長の井手薫とともに台湾建築会誌の編集を担当した。1940年2月から1940年5月までは台北州立台北工業学校の第六代校長を務めた。その後1944年から1947年までは台南工業専門学校(現在の台湾国立成功大学)建築学科長として教えていた。
繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没… 繁野 繁造(しげの しげぞう、1897年(明治30年)- 没年未詳)は、日本の建築家。三重県出身。 日本大学高等工学校(日本大学理工学部の前身)を1923年(大正12年)に卒業後、神奈川県庁に入り神奈川県営繕管財課の技術者を務めた。
北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12… 北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12月1日 - 1973年(昭和48年)9月1日)は、昭和時代の日本の建築家、数寄屋(茶室)建築学者。東京高等工業学校 (現・東京工業大学)卒。大阪府出身。 大阪府南河内郡北八下村(現・堺市北区の一部および松原市の一部)の北尾吉郎兵衛(浄郭)の四男として生まれる。 父は社寺・楼閣建築に携わるも、春道の9歳の時(1904年・明治37年)には本願寺門跡の僧侶となったため、春道も同時に本願寺の衆徒となった。また春道の初名は春吉であったが、同年に名を改めている。 春道は上京し東京高等工業学校 (現・東京工業大学)に入学、伊東忠太のもと建築設計の実務に携わり、伊東のヨーロッパ旅行にも同行した。
木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)… 木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)9月25日(または10月8日) - 1971年(昭和46年)9月18日)は、日本の建築学者。 京都市生まれ。早稲田大学などにおいて、環境工学の基本的研究と教育にあたった。また、積雪荷重など雪害対策の基礎的研究方向を確立したほか、日本空気清浄協会、日本建築積算事務所協会の設立と運営にも尽力した。 日本建築設計事務所協会初代会長(l971年まで)。
伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 19… 伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 1980年12月3日)は、日本の建築家。旧制・大阪商科大学や大阪市立美術館などの作品で知られる。学位は、工学博士(早稲田大学・1939年)。 大阪市建築課長として、学校施設・美術館などを多く手掛けた建築家。辰野片岡建築事務所を経て大阪市技師着任。退職後、大阪市立大学家政学部教授を務める。作品には、旧制・大阪商科大学昭和初期学者群、大阪市立美術館(実施設計監理)などがある。 千葉県出身。早稻田大學高等豫科理工科を経て、1917年に早稻田大學大學部理工科建築学科を得業(現在の早稲田大学創造理工学部建築学科を卒業)、学業優秀賞を受賞。大阪市技手を経て、1919年に片岡建築事務所入所。
狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5… 狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5日 - 1985年(昭和60年)10月19日)は、日本の建築学者。セメントコンクリートの基礎的研究を大成した。 滋賀県生まれ。東京工業大学などで建築材科学を学問的に位置づけ、後進の教育・育成にあたる。東京工業大学教授を退職後も明治大学工学部建築学科の発足により教授として同大学建築学科の発展に尽くし、さらに工学院大学教授も歴任、多数の研究者、技術者の育成に尽くし特に学閥にとらわれることなく多数の研究者、技術者の育成に尽くした。 旧建設省営繕審議会委員、日本建築学会の材料施工委員会委員のほか建材試験センター、日本シーリング工業界、全日本プレハブ建築防水協会等々の各顧問として広く建築界に貢献した。
瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 198… 瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 1983年)は、日本の建築家・建築学者である。 1896年(明治29年)2月9日に誕生した。長野県東筑摩郡会田村の出身であり、旧姓を矢羽といったが、同郡五常村の滝澤家に嗣養子に入った。郷校を卒業したのち上京し、東京府立第三中学校、第一高等学校を経て帝国大学工学部建築科に進んだ。1920年(大正9年)に同校を卒業し、石本喜久治・堀口捨己・森田慶一・山田守・矢田茂とともに分離派建築会を結成した。建築家としてのはじめての作品は卒業制作である「山岳倶楽部」であり、この年の分離派第一回展覧会にて発表された。分離派は芸術作品としての建築を重視した団体であり、松原紀之・足立裕司・中江研によれば「抽象性」を重んじたことが形態理論における特徴であった。
松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1… 松ノ井 覚治(まつのい かくじ、1895年7月14日 - 1982年9月)は、日本の建築家。「日本にはスパニッシュ(アメリカン・スパニッシュ様式)で自分の右に出る者はいない」と自負していた。 1895年(明治28年)に山形県山形市に生まれた。 1918年(大正7年)に早稲田大学理工学部建築学科を卒業すると、1919年(大正8年)にアメリカ合衆国に渡ってコロンビア大学に入学し、3年間建築設計を学んだ。この間、ニューヨークのトロウブリッジ・アンド・リビングストン建築設計事務所、アンドリュー・ジェ・トマス建築設計事務所、エ・エフ・ギルバード建築設計事務所で設計実務に従事している。1923年(大正12年)からはニューヨークのアーキテクツビル内にあるモレス・スミス建築設計事務所に勤務した。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月2… 石原 憲治(いしはら けんじ、1895年(明治28年)2月28日 - 1984年(昭和59年)7月11日)は、日本の都市計画学者、都市計画家、建築家。工学博士。 日本都市計画学会第五代会長を務めた都市計画学者である一方、民家建築研究家、農民建築研究のパイオニアでもあったが、同時に日本で1920年代に開始された都市美運動の立役者でもあった。さらに旧・東京都立大学工学部建築工学科教授で、1952年に東京都立大学建設工学科ではじめて都市計画の講義をした人物でもある。建築家としては旧東京市建築技師で退職後は石原建築設計事務所を主宰。新興建築家連盟主力メンバー名を連ねる。キリスト教徒で基督教世界平和同盟、愛隣会に属した。
蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 19… 蔵田 周忠(くらた ちかただ、1895年2月26日 - 1966年3月7日)は日本の建築家。分離派建築会に参加し、表現主義からモダニズムの作品を手掛けた。海外の建築作品を精力的に紹介し、建築史関係の著作も多い。また、東京高等工芸学校、武蔵工業大学で後進を指導した。 1895年(明治28年)、山口県萩に濱岡某の子として生まれる。1913年(大正2年)、工手学校(新制工学院大学の前身)を卒業。同年、三橋四郎の設計事務所に入所。三橋の逝去後、曽禰達蔵・中條精一郎らの曽禰中條建築事務所に移る。ここで海上ビルの建設に関わり、所員の高松政雄から美学の話を聞いたという。1920年、早稲田大学に選科生として入学。
増田 八郎(ますだ はちろう、1895年2月11日 - 19… 増田 八郎(ますだ はちろう、1895年2月11日 - 1945年9月29日)は、日本の建築家。内務省技師などを歴任し、和歌山県庁舎の実施設計者として知られる。 東京で江戸時代から続く袴製造の商家に長男として生まれた。学業が優秀だったため東京帝国大学に進学し、家業は弟が継いだ。 1921年(大正10年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業して内務省に入省し、都市計画課に配属される。1922年、警視庁建築監督官となる。1924年4月、内務省外局として設置された復興局の建築講習会講師嘱託を務める。6月に再び都市計画局に戻った後、1925年から内務省復興局技師となり、帝都復興事業に従事した。 1929年(昭和4年)、東北帝国大学技師として赴任し、その後営繕課長や助教授を歴任した。
今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11… 今井 兼次(いまい けんじ、1895年〈明治28年〉1月11日 - 1987年〈昭和62年〉5月20日)は、日本の建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業。母校の教授を長く務め、建築作品とともに教育者として研究室から優れた建築家、研究者を多数輩出した。昭和初期にガウディを日本に紹介した人物である。 東京市赤坂区青山権田原町(現:東京都港区元赤坂2丁目)に生まれる。青山尋常小学校、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)を経て早稲田大学理工学部建築学科へ入学。1919年、大学卒業と同時に助手に任命され、翌年、助教授に就任。1926年から1927年にかけて東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線浅草駅 - 新橋駅間)の各駅の構内・出入口の設計、車両の内装や職員の制服デザインを担当し、ヨーロッパの地下鉄駅の研究及び早稲田大学からの近代建築視察を行うため外遊。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。 気象学者の堀口由己は兄。 佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- … 権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- 1970年(昭和45年))は、日本の建築家。朝香宮邸(東京都庭園美術館)の設計者として知られる。 福岡県筑紫郡三宅村(現・福岡市南区)で権藤伊兵衛の長男として生まれる。福岡県立福岡工業学校(現・福岡県立福岡工業高等学校)建築科から名古屋高等工業学校に進学。1916年(大正5年)同校建築科を銀時計授与され優等で卒業した。 卒業同年、住友総本店営繕課建築係に入り、竹腰健造に師事。 1921年(大正10年)から学校側の推薦により住友を辞し、内匠寮技手として宮内省に勤務。高橋貞太郎の下で東伏見宮邸(大正13年)を手がける。これはのちの宮邸平面計画の原型となる。
森 泰治(もり たいじ、1895年(明治28年)- 1951… 森 泰治(もり たいじ、1895年(明治28年)- 1951年(昭和26年))は、日本の建築家。宮内省と逓信省に勤務し活躍。主な作品に、難波電話分局(1922年)、神戸電信局(1926年)、大阪中央電話局(1927年)など。 東京府士族森茂太郎の二男として生まれる。1920年(大正9年)、東京帝国大学建築学科を卒業し、逓信省経理局臨時電信電話建設局技師となる。1926年(大正15年)から宮内省内匠寮技師となる。
清水 栄二(しみず えいじ、1895年 - 1964年)は、… 清水 栄二(しみず えいじ、1895年 - 1964年)は、日本の建築家。 1895年1月3日、兵庫県武庫郡六甲村(現:神戸市)に生まれる。1918年7月東京帝国大学工学部建築科を卒業。合資会社桝谷組石器栄部入社、1921年より神戸市役所土木課技手に就任。この時期に「癸亥社」という設計事務所を自宅に開設した。1926年に長田セメント事件の責任問題が絡んで辞職。以後、清水設計事務所として活動する。1964年に死去した。 清水は建築事務所を拠転とした設計活動に加えて、住宅会社の建築顧問を兼任するなど複数の活動を行っていた。1931年に中学時代の友人と小住宅を建築、販売する大神住宅株式会社を設立し、専務取締役となった。
吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月… 吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月19日 - 1974年(昭和49年)3月24日)は昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。東京生まれ。東京美術学校(東京芸術大学)卒業。母校で教壇に立ち、多くの後進を育てる。死後、その功績を記念して、吉田五十八賞が設けられた。
平林 金吾(ひらばやし きんご、1894年(明治27年)11… 平林 金吾(ひらばやし きんご、1894年(明治27年)11月27日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は日本の建築家。愛知県西春日井郡豊山村(現在の豊山町)出身。旧姓は安藤。 金吾は安藤喜代三郎・つね夫妻の三男として生まれ、その後母の姉の嫁ぎ先である平林家の養子となり東京に移住。芝中学を経て東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科卒業。その後入社した倉庫設計の会社で高橋貞太郎と出会う。この高橋の勧めでこの会社を退職し内務省明治神宮造営局技手として宝物殿の工事管理に従事、同完成後は高橋が勤務する宮内省に勤務。内務省在籍中の1918年、同僚だった岡本馨との連名で大阪府庁舎の建築設計競技(コンペ)に応募し、一等当選を果たす。
岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)1… 岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)11月24日 - 1976年(昭和51年)10月2日)は東京芸術大学教授、建築家。建築家岡田信一郎の弟である。 東京美術学校図案科第2部(現東京芸術大学建築科)を卒業。病弱な兄・信一郎を補佐して設計に従事し、兄の逝去後は建築事務所を引き継ぎ、明治生命館、琵琶湖ホテルを完成させた。また、母校の東京美術学校建築科の講師となり、後に教授に就任。第2次世界大戦後は東京芸術大学教授。日本建築士会理事長などを務めた。 この間、吉村順三、宮脇檀らの後進を育成する。 妻は伊庭秀栄(東大医学部卒)の四女・春。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)… 古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)10月9日 - 1982年(昭和57年)6月27日)は、日本の建築家。 大正8年(1919年)に文部省入省後、営繕技師として勤務していたが、関東大震災後の大正13年(1924年)に大学時代の恩師である佐野利器に請われて東京市に転じた。その後は東京市の学校建築に関する責任者として勤務し、特に復興小学校の実務により「当時の学校建築の権威」と評された。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、文部省に入省した。
吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 19… 吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとりであり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる。 1894年(明治27年)、富山県東礪波郡福野町(現・南砺市)に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれた。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)を卒業後、美術学校への進学を志望したが兄の反対に遭って断念した。旧制第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学建築学科を卒業した。
山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966… 山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。 岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校、第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業。逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋、聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。
石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1… 石本 喜久治(いしもと きくじ、1894年2月15日 - 1963年11月27日)は、日本の建築家。同期卒業の堀口捨己、山田守らと分離派建築会を結成し、日本の近代建築運動の第一歩を記した。数寄屋橋の旧朝日新聞社でデピュー後に設立した設計事務所において、支所の開設や法人化など、時代を先取りした事務所経営を行なった。 神戸市生まれ。大阪市高津尋常小学校卒業、旧制大阪府立今宮中学校卒業、東京高等工業学校中退、旅順工科大学予科中退、旧制第三高等学校卒業。 1920年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、大阪の竹中工務店に入店。 1922年から自費で欧米を視察し、特にドイツの近代建築運動にふれた。 1927年、白木屋の設計を機に竹中工務店を退社。
松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は… 松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は、日本の建築家。松田平田設計の創始者。福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)生まれ。 兄・松田昌平は旧門司三井倶楽部の設計者で知られる建築家。父の武一郎は鉱山技師。福岡工業学校から名古屋高等工業学校に進学し卒業後、清水組設計部に勤務。1921年に渡米し、コーネル大学で建築学を学ぶ。コーネル大学を卒業してアメリカの建築設計事務所、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所(英語版)で修行。三井本館監理副主任に就任。三井銀行の本店と支店を担当した。 1931年(昭和6年)赤坂の地に兄と松田事務所を開設し、1942年にはコーネル大学卒業の藤井羊三、平田重雄を迎え、株式会社松田平田設計に発展、日本におけるパートナーシップにより運営される組織系建築設計事務所の草分け的存在となる。
岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年… 岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年12月24日)は日本の大正期の建築家。歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与えた。建築家、建築教育者として将来を嘱望されていたが、病気のため早世した。 西陣電話局を設計し、逓信省営繕の中核をなす設計者の一人であった。夭折のため作品数は少ない。 1893年(明治26年)、鹿児島県鹿児島市照国町生まれ。幼少時に父が死去し、兄・岩元禎が一高教師となったのに伴い、上京。青山小学校、府立一中、一高を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学建築学科に入学。1918年に卒業し、逓信省に入った。
小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年… 小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年2月23日)は、日本の建築家、建築史家。東北大学名誉教授。東北地方の民家についての調査を精力的に行ったことで知られ、仙台の歴史的建造物の保存にも影響を与えた。 1893年(明治26年)、宮城県仙台市で実業家・歌人の小倉長太郎(小倉茗園)の八男として生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大学では、高橋貞太郎、小林政一らと同期であった。 1921年、東京府営繕技師となる。平和記念東京博覧会(1922年)の設計を担当。1922年、東北帝国大学技師に採用される。1929年、仙台高等工業学校教授に着任準備のため文部省在外研究員としてドイツ留学。
上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)1… 上野 伊三郎(うえの いさぶろう、1892年(明治25年)12月9日 - 1972年(昭和47年)5月23日)は、建築家。ブルーノ・タウトとの関係で知られる。 1892年京都府生まれ。祖父は京都の宮大工、父・伊助は上野工務店を経営していた。宮大工の修業をしていたが東京へ出て、早稲田大学高等予科理工科を経て早稲田大学理工学部建築学科で学び、1922年(大正11年)に卒業。ドイツのシャルロッテンブルク工科大学、オーストリアのウィーン大学へ留学し、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房に入所(1924年)。ここで所員の工芸家・リチ(Felice Lizzi Rix、1893年 - 1967年)と出会い、結婚する。
宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)… 宮内 初太郎(みやうち はつたろう、1892年(明治25年)12月 - 1957年(昭和32年))は、日本の建築家。 宮内建築事務所を創業した宮内半太郎の息子として神奈川県横浜市で生まれる。東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 父の死去に伴い、1924年に建築事務所を受け継いだ。1935年に宮内組と改称、建築請負業を営む。 横浜市には今でも彼の手がけた多くの建築物が残る。
高橋 貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 -… 高橋 貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 - 1970年10月1日)は大正・昭和期に活躍した日本の建築家。前田侯爵邸や服部邸など豪華な邸宅建築のほか、上高地ホテル、川奈ホテルなどホテル建築に秀作が多い。 滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)生まれ。旧制第三高等学校(京都)を経て1916年に東京帝国大学工科大学建築学科で佐野利器(としかた)に学んだ。卒業時(1916年)には成績優秀につき恩賜の銀時計を授与された。 卒業後、滝川鉄筋コンクリート工務所を経て、1917年に内務省明治神宮造営局技師となり、佐野利器の指導のもと、聖徳記念絵画館(明治神宮外苑所在)の実施設計に従事した。アメリカ・ヨーロッパを外遊。
前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4… 前田 健二郎(まえだ けんじろう、1892年〈明治25年〉4月19日 - 1975年〈昭和50年〉3月14日)は、日本の建築家。位階は正五位。 逓信省・第一銀行勤務を経て独立。戦前から戦後にかけてモダニズムとは一線を画した作品を多く残す。「コンペの前健さん」の異名を取り、戦前の数々のコンペティションに入選したが、実施実現できたものは少ない。 加賀藩出身(士族)の父前田信兆は裁判官。父の赴任地福島で生まれる。 正則中学校(現・正則高等学校)から東京美術学校図案科第2部(東京芸術大学建築科の前身)に進学する。在校中、商工省輸出工芸図案展に出品し2等受賞。1916年(大正5年)東京美術学校卒業。 1917年(大正6年)逓信省経理課(のち逓信省営繕課)に勤務。
本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月2… 本間 乙彦(ほんま おとひこ、1892年(明治25年)2月24日 - 1937年(昭和12年)8月14日)は、大正期から昭和初期に大阪を中心に活躍した建築家。兵庫県出身。
古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)… 古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)は日本の建築家。阪神間モダニズムを代表する建築家の一人。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
菅原 栄蔵(すがわら えいぞう、1892年(明治25年) -… 菅原 栄蔵(すがわら えいぞう、1892年(明治25年) - 1967年(昭和32年))は、日本の建築家。東京銀座にある名物ビアホールとして知られる銀座ライオン7丁目店や駒澤大学耕雲館(現在は禅文化歴史博物館)などの作品で知られる。直線を巧みに組み合わせた細部、スクラッチタイルを多用したフランク・ロイド・ライト式の作風で知られる。宮城県仙台の生まれ。 仙台市立仙台工業学校(現在の仙台市立仙台工業高等学校)を卒業。仙台周辺で建築現場関係の仕事を経験。1913年(大正2年)に上京。一年ほど、三橋四郎の建築設計事務所に臨時雇いで製図工として在籍の後、現場見習で曾禰中條建築事務所が手がける東京海上ビルに携わる。
中村 寛(なかむら ゆたか、1892年 - 1968年、旧姓… 中村 寛(なかむら ゆたか、1892年 - 1968年、旧姓・天野[要出典])は、大正から昭和にかけて活動した日本の建築家、都市計画家。 改良住宅、住宅地区改良事業、また同潤会が担当した建物や住宅地設計に多くの功績を遺す。 広島県呉市に生まれる。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業する。卒業後、文部省を経て内務省に都市計画地方委員会技師採用で入省した。 その後、内務省都市計画課に勤務する。後に主任技師として、住宅問題を多く扱い、不良住宅地区改良とこれに伴う小住宅監督制度を提唱の傍ら、英国の住居法(Housing Act)を研究した。 1920年(大正9年)、都市計画および住宅問題調査のため欧米視察に派遣される。
三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13… 三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13日 - 1970年5月11日)は主に昭和期に活動した建築家。江戸東京たてもの園の「田園調布の家」や滋賀武徳殿などの作品がある。 東京市生まれ。父はニコライ堂の司祭として知られる三井道郎である。1915年(大正4年)、早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、斎藤久孝建築事務所に入所。翌年、司法省に入るが1年ほどで辞め、再び斎藤事務所に入所。 1921年(大正10年)11月、早稲田大学の恩師である岡田信一郎の事務所に入所する。当時はちょうど火災で焼失した歌舞伎座再建工事の設計が進んでいる時期であった。岡田事務所では歌舞伎座のほか、青山会館、東京府美術館、浅野図書館、府立化学工業学校、府立第一高等女学校、府立第一中学校、ニコライ堂修復、信濃町教会、虎屋、明治生命館(現存)、国民会館などの設計に関与した。
野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18… 野田 俊彦(のだ としひこ、1891年(明治24年)6月18日 - 1929年(昭和4年)12月26日)は、日本の建築家で、大正期から昭和初期に建築技師として活動。陸軍省、内務省、警視庁、同潤会と、おもに官公庁系の職場に奉職した。 近代日本建築史上では、建築の実作より「建築非芸術論」など多くの論考を著した論客としての側面で知られる。 横浜市生まれ。画家で日本美術院会員の野田九浦は親戚に当たる。 横浜中学校、第一高等学校を経て、1911年、東京帝国大学工学部建築学科に入学し、1915年(大正4年)卒業。卒業論文「鉄筋混凝土と建築様式」の一部をもとにした論文「建築非芸術論」が内田祥三(当時助教授)の推薦で1915年10月に『建築雑誌』誌346号に掲載される。
村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15… 村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。 1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1… 小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。 1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ崎中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。 1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する。 1926年に東京高等工業学校教授。
梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1… 梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1890年〈明治23年〉12月1日 - 1958年〈昭和33年〉4月29日)は、石川県出身の建築家。位階は正五位。 日本統治時代の台湾で数々の公共建築物の設計を手がけ、多くは文化資産として現在も活用されている。2000年代以降にアニメーション作家、アニメ監督として活躍している吉浦康裕の曾祖父にあたる。 1890年(明治23年)12月1日、石川県石川郡鶴来町(現・白山市)の士族のもとで出生。元は秋田姓だった。本籍は同県金沢市広阪通。 1907年(明治40年)、測量人員として県に就職するが、翌年東京の私立工手学校(現・工学院大学)建築科入学のため離職。
松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1… 山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年9月13日)は、日本の建築家。住宅専門会社あめりか屋技師長として知られる。 1890年(明治23年)2月22日、高知県香美郡岩村(現南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。卒業後の1914年(大正3年)、早稲田大学理工学部建築学科入学。当時、三高から私学に進学するのは異例で、いとこで早稲田大学教授だった山本忠興の勧めと考えられている。1917年(大正6年)、同校卒業。 同年、橋口信助が創立した住宅設計施工会社「あめりか屋」へ就職、5年後に設計部の技師長になる。住宅改良会の機関誌『住宅』の編集・寄稿や、著書『家を住みよくする法』などを通して啓蒙的な執筆活動を行った。
小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)… 小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)は、明治末期から昭和初期にかけて官庁営繕で活躍した建築家。聖徳記念絵画館(原案)の設計者として知られる。 1890年(明治23年)、東京市麹町区紀尾井町に生まれる。1909年(明治42年)に工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業。 在学中から大蔵省臨時建築部に勤務。その後、内務省、文部省と生涯の大半を官庁営繕に捧げた建築家である。副業として、堀商店のほか、若槻礼次郎邸や円地文子邸なども手がけている。 1980年(昭和55年)に死去。
木村 得三郎(きむら とくさぶろう、1890年 - 1958… 木村 得三郎(きむら とくさぶろう、1890年 - 1958年)は、日本の建築家。大阪松竹座、東京劇場など著名な劇場建築を多く手掛けた。 宮城県仙台市出身。1914年(大正3年)に東京美術学校を卒業し、同年4月に大林組に入社した。1930年(昭和5年)には木村が設計した東京劇場が竣工し、歌舞伎座とともに「東都歓楽街の華」と謳われた。 東京劇場竣工後の1930年(昭和5年)10月、欧米各国へ建築視察のために日本を離れた。1931年(昭和6年)8月に帰国した。1938年(昭和13年)には東京府麹町区一番町の串田萬蔵邸(三菱銀行会長)を設計した。木村は大学生だった串田孫一にヨーロッパについて聞かせ、ローマのカタコンベにある古い彫刻のトレース画を贈った。