河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日… 河井 醉茗(かわい すいめい、1874年〈明治7年〉5月7日 - 1965年〈昭和40年〉1月17日)は、日本の詩人。本名、又平。大阪府堺市生まれ。 「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。また雑誌「女性時代」「詩人」を刊行するなどして口語自由詩を提唱した。詩集に『無弦弓』『塔影』など。 1874年5月4日、大阪府堺市北旅籠町に生れた。父は又平、母はせいで、呉服商を営んでいた。幼名は幸三郎。1881年錦西小学校入学。東京専門学校中退。18歳で「少年文庫」などに詩などの投稿を重ねる。20歳のときに詩「亡き弟」が初めて「少年文庫」に掲載され、以後「文庫」(「少年文庫」改題)の記者として、1907年に退くまで詩欄を担当し、北原白秋、島木赤彦らを世に送った。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日… 国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日 - 昭和25年(1950年)2月27日)は、戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。 明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。
岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20… 岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5… 島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5年2月17日〉 - 1943年8月22日)は、日本の詩人・小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。筑摩県木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。次男は画家の島崎鶏二、三男は同じく画家の島崎蓊助。 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年… 宮崎 来城(みやざき らいじょう、1871年11月(明治4年)- 1933年(昭和8年))は、明治期から昭和期にかけて活動した日本の漢詩人、教師。福岡県久留米に生まれ、各地を放浪としながら台湾や中国でも活動した。帰郷後は詩作を行いながら門弟を集め教育を行うなど九州詩壇の盟主となった。代表作に『侠文章』(田岡嶺雲との共著)、伝記『鄭成功』など。 本名は宮崎 繁吉(みやざき しげきち)。字は子寔、初号は柳溪。来城、来城小隠と名乗っていたが、赤髪天狗・赤髪などの筆名を使った文章も見られる。 1871年(明治4年)に久留米裏町(現在の荘島松ヶ枝町)で、久留米藩士であり俳人の宮﨑松語の長男として生まれる。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4… 国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟客」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4… 太田 玉茗(おおた ぎょくめい、1871年6月23日(明治4年5月6日) - 1927年(昭和2年)4月6日)は、日本の詩人、小説家。名は伊藤蔵三(のち太田玄綱から三村玄綱と改名)。僧職のかたわら叙情派詩人として知られ、初期新体詩詩人の一人。田山花袋の義兄にあたり、『田舎教師』の献辞に「この書を太田玉茗氏に呈す」とある。 武蔵国埼玉郡(埼玉県行田市)出身。1888年、曹洞専門本校大学林(現・駒澤大学)卒業。1894年7月に東京専門学校文学科卒業、同期に島村抱月、後藤宙外がいる。小学時代に、羽生市の建福寺住職・太田玄瞳の養子となり、12歳で僧籍に入る。1888年(明治21年)から「頴才新誌」に投稿をはじめ田山花袋を知り、雑誌「少年文庫」「文学界」各誌に新体詩をつぎつぎと発表して新体詩人として認められる。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4… 島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人として知られる。旧姓は佐々山、本名は瀧太郎。 島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家は貧しく、小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となる。同裁判所検事・島村文耕から学資の援助を受け、上京。1891年(明治24年)に文耕の養子となる(後に文耕の姪と結婚)。 増田藤之助が塾主を務める日本英学院を経て、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙、大西祝から文学、美学を学び、1894年(明治27年)に卒業。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治… 北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日〈明治元年11月16日〉- 1894年〈明治27年〉5月16日)は、日本の評論家・詩人。本名、北村 門太郎(きたむら もんたろう)。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 相模国小田原(現:神奈川県小田原市浜町)に生まれた。幼少時代、両親から離れて厳格な祖父と愛情薄い継祖母に育てられ、のちに神経質な母親の束縛を受けたことが性情の形成に大きな影響を与えたといわれる。 1881年に東京数寄屋橋の近くに移住。東京専門学校(現:早稲田大学政治経済学部)政治科に入学し、東京の三多摩地方を放浪して壮士たちと交わるが、民権運動が過激になり離脱。
山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年… 山田 美妙(やまだ びみょう、1868年8月25日(慶応4年7月8日) - 1910年(明治43年)10月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家。言文一致体および新体詩運動の先駆者として知られる。二世曲亭主人、美妙斎、美妙子、樵耕蛙船、飛影などの号も用いた。
飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1… 飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1868年4月6日) - 昭和17年(1942年)6月17日)は、日本の漢詩人。秋田県仙北郡六郷村(のち六郷町)出身。隣村畑屋村生まれの高橋午山、千屋村の坂本東嶽(理一郎)とともに「仙北の三山」と称された。 羽後国仙北郡六郷村飯村永助の次男として生まれた。幼名は堅治、のちに粋と改名した。 六郷の熊谷松陰および岡三慶に師事し、漢籍を学んだ。田尻稲次郎らによって創立された東京の専修学校(現在の専修大学)を卒業後、新聞社に入社し日清戦争に従軍した。上京して以来、臨済宗の傑僧中原南天棒に参禅し、玉川遠州流の茶道も学んだ。「稷山」は師より賜った居士号である。
横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3… 横川 唐陽(よこかわ とうよう、1868年1月14日(慶応3年12月20日) - 1929年(昭和4年)12月12日)は、日本の漢詩人、陸軍軍医。本名は徳郎。雅号は唐陽山人。 信濃国諏訪郡神戸村(→四賀村→現・長野県諏訪市四賀)に生まれる。第一高等中学校医学部(現・千葉大学医学部)を卒業後、陸軍軍医となる。日露戦争では第1師団衛生隊の医長として従軍、のち浜松衛戍病院長、善通寺衛戍病院長、第7師団軍医部長を歴任。また『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂にも従事。 漢詩は森槐南らに師事。落合東郭、野口寧斎、森川竹磎らと親しく交わり、陸軍軍医であった森鷗外とも漢詩を通じた交遊があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)… 武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)は、明治時代から昭和時代の漢学者、詩人、教育者。諱は潜、字は伯龍。 越後国南蒲原郡中之島村大字長呂(後に新潟県中通村)の名主武石弘六の長男として生まれる。長岡の誠意塾に学び、頭脳明晰で師匠の高橋竹之助の信任厚く、塾頭に選ばれる。ここで堀口九萬一と知り合い親友となり、義兄弟の契を結ぶ。長呂の若宮社には、弟の武石弘三郎が制作した2人の胸像が建つ。 後に故郷に戻り自邸にて漢詩塾および修斉館を開き地域の教育に尽力した。東北日報(新潟日報の前身)の漢詩撰者を務め、同紙の同時期の俳句撰者は会津八一であった。また、水田区画整理事業の「島田他三ケ字耕地整理」に従事、ツツガムシ対策により名古屋大学医学部の林直助を村に招待、信濃川流域の荒地に柳を植樹し行李の生産を勧めるなど地域振興に努め、農業整備や架橋、信用組合創立に取り組んだ。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadaki… カール・サダキチ・ハートマン(英語: Carl Sadakichi Hartmann, 旧暦慶応3年10月13日〈新暦1867年11月8日〉 - 1944年11月22日)は、日本出身のアメリカ合衆国の美術家、批評家、詩人。定吉ハートマン、サダキチ・ハルトマンなどの表記もある。写真評論では、シドニー・アラン(Sydney Allan)名を使用することもあった。 ドイツ人の貿易・武器商人カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマンと日本人女性さだの次男として、長崎の出島に出生。幼くして母を亡くしたため父がドイツに連れて行き、兄と共にドイツの親戚に引き取られ、ハンブルクで教育を受けた。裕福な一族だったため、私立校へ通うなど当地の最高の教育を受けたが、ドイツに帰国した父親の再婚に伴って転校し、キール海軍兵学校に通う予定だったが、フランスのパリへ家出。
中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867… 中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年2月11日(1867年3月16日) - 明治27年(1894年)11月16日)は日本の漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など 1867年(慶応3年)2月21日、伊予国宇和島賀古町(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、1899年(明治2年)第一高等中学校本科一部(文科)第二年(三之組)に進級した。同級生に夏目漱石や正岡子規がいた。1894年(明治17年)11月16日午前9時、東京の山龍堂病院で死去した。享年28歳。没後の1895年(明治28年)11月16日、『逍遙遺稿』(正外二編)と題して500部発行された。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治… 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治2/慶応元年1月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月30日)は、日本の外交官(特命全権公使)、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人・堀口大學の実父。 越後長岡藩の足軽(銃卒)堀口良次右衛門の長男として古志郡長岡城下に生まれる。北越戦争で旧暦明治元年6月に父が戦死、翌年2月に幼くして家督を相続した。 明治5年より手習師匠渋川金吾に就き、2年半ほど読み書きを習った後、藤野友徳の漢学塾及び阪之上小学校へ通学。数え15歳で小学校教員を務めながら、叔父・岩神澄海の菁莪塾で学んだが、小林雄七郎の「偉くなるには英語をやらなければ駄目だ」という助言に従い、1883年(明治16年)春に19歳で長岡中学校に入学。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。
嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(18… 嵯峨の屋 おむろ(さがのや おむろ、文久2年1月12日(1862年3月1日) - 昭和22年(1947年)10月26日)は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。 嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎(屋)(やざき さがのや)、北邙散子(ほくぼうさんし)、探美(たんび)などの筆名もある。 本名・矢崎 鎮四郎(しんしろう) 曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。 後の東京市日本橋区(現・東京都中央区)日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ。父親が脱藩し彰義隊(卍隊)に加わったため、貧苦の生活を送る。 1876年、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科の給費生となる。二葉亭四迷とは同級生だった。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年… 湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治から昭和戦中期にかけての聖書学者・図書館学者・詩人。雅号の半月(はんげつ)で知られる。兄は衆議院議員を務めた湯浅治郎。同志社大学、国際基督教大学の総長を務めた湯浅八郎は甥(治郎の子)に当たる。 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて、味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の四男として生まれる。明治5年(1872年)、家業を継いだ兄・治郎が作った私立図書館「便覧舎」の設置を手伝い、後に同郷の新島襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。1877年(明治10年)に新島が京都に創設した同志社英学校に入学し、1885年(明治18年)に同校普通科ならびに神学科を卒業する。
小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- … 小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- 1908年(明治41年)6月13日)は、明治期のジャーナリスト、政治家、詩人。衆議院議員。号・屈山。 武蔵国江戸、のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(東京市渋谷区を経て現東京都渋谷区)の宇都宮藩江戸藩邸で同藩士の家に生まれる。漢籍を修めた。 佐久山で自由民権運動を進めた。田中正造の要請で栃木新聞(現下野新聞)幹事に就任し、栃木県会書記となる。国会開設運動に加わる。1881年(明治14年)自由新聞に転じ、新中新報に移った。その後、長野県で活動。1889年(明治22年)新愛知新聞主筆に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、自由党)で初当選し、その後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日(1857… 大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日(1857年5月22日) - 明治43年(1910年)10月1日)は、日本の詩人、作詞家、国文学者。東京高等師範学校(現・筑波大学)教授。「鉄道唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの作詞者として知られている。 1857年(安政4年)4月29日、伊予国宇和島に生まれた。父の大和田水雲は宇和島藩士であり、その影響で幼少期から書道・四書・和歌・俳句を学び、1869年(明治2年)には培寮に入学して漢学を学ぶ。同時期に穂積重樹や清家堅庭について国学や和歌を学ぶ。 1873年(明治6年)頃、翻訳書によって外国事情を知り、宇和島藩校明倫館卒業後、1876年(明治9年)広島外国語学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)に入学するも、1878年(明治11年)母の死亡のため退学(持病とも言われる)。
井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政… 井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1944年(昭和19年)12月7日)は、明治時代の日本の哲学者・詩人。号は巽軒(そんけん)。通称「井の哲(イノテツ)」。 西洋哲学を日本に紹介し、東京大学で日本人初の哲学の教授となった。また東洋哲学研究の開拓者でもあり、保守派・体制派のイデオローグでもあり、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院第2代総長、貴族院議員なども務めた。 旧姓・船越。筑前太宰府(現在の福岡県太宰府市)に医師船越俊達の三男として生まれる。少年時代、地元の儒者に四書五経を学ぶ。明治元年、博多に出て英語を学び、1871年に長崎の英学塾広運館に入学。
矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30… 矢土 勝之(やづち / やつち かずゆき、1849年3月30日(嘉永2年3月7日)- 1920年(大正9年)11月28日)は、明治から大正期の漢詩人・官僚・政治家。衆議院議員。字・実夫、号・錦山。 伊勢国飯野郡阿波曽村(三重県飯野郡射和村大字阿波曽、飯南郡射和村を経て現松阪市阿波曽町)で生まれる。土井聱牙に師事し漢学を修めた。 太政官に出仕。東京で岩倉具視、伊藤博文の知遇を得た。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(三重県第4区、自由党)で当選した。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(三重県郡部、立憲政友会)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 森春濤の高弟で、その子森槐南らと交友した。
長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16… 長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16年(1883年)11月26日)は、幕末から明治期にかけての勤皇の志士、官僚、漢詩人、画家。漢学者長三洲の弟。明治初期の学制起草に関与し、のち陸軍省御用掛を務めた人物である。諱は革。通称は綱吉・四郎・子金、号は士金・斉などを用いた。画家としては長古雪として知られる。 弘化3年(1846年)に長梅外の子として生まれる。安政3年(1856年)1月、兄・長三洲の紹介により、11歳で咸宜園に入学した。 慶應3年(1867年)には忠勇隊に属し、幕末動乱期の活動にも関与した。 明治維新後、兄・三洲とともに新政府の教育制度整備に深く関わり、明治5年(1872年)には学制起草委員の一人として『学制一覧』の編集を担当した。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年… 長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。
狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - … 狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - 1925年(大正14年))は、日本の漢学者・漢詩人・ジャーナリスト。 出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた。1849年(嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び、以降5年のあいだ、古賀謹一郎、藤森弘庵、田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた。 内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした。
丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年… 丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年7月21日) - 明治19年(1886年)1月8日)は江戸時代から明治にかけての学者、漢詩人。佐渡国雑太郡折戸村名主、佐渡奉行所修教館教授を務め、明治維新後も相川県漢学局、雑太郡学区、公立佐渡中学校で教育に携わった。 文政8年(1825年)6月6日に生まれた。家は代々佐渡国雑太郡折戸町名主、佐渡奉行所官庫出納掾を兼ね、醤油醸造を行っていた。幼少より書を好み、特定の師は持たなかったものの、甲賀達斎等に兄事し、詩を藤木竹窓に学び、間もなく天野恥堂兄弟、万歳東所、西村滄州、大平菰塘、岡崎棟庵、謙亭、棟斎等と交流を持ち、廉社を結び毎月詩筵を開いた。
小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3… 小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。 文化11年1月12日(1814年3月3日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師・横山玄篤(東湖)の長子として生まれた。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿・小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。 当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者・大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、文政9年(1826年)に父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。
頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1… 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。
余田 弦彦(よでん つるひこ、生年不明 - 1927年)は、… 余田 弦彦(よでん つるひこ、生年不明 - 1927年)は、日本の詩人。旧制高知高等学校の寮歌「豪気節」の作詞者である。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1921年卒業)から、旧制高知高等学校に進学する。高知高等学校では応援団長を務めた。寮歌「豪気節」を作詞し、1923年の第1回高知高等学校運動会で発表した。運動会では同年から1924年にかけて「ダクダク踊りの歌」として、全身に墨を塗り、腰みのに竹やりを突いて踊り、大評判になったとされる。この「ダクダク踊りの歌」は、後の流行歌「酋長の娘」の元歌になったとされる。 旧制高知高等学校では同級生に秋田大助がおり、親友だった。 高知高等学校卒業後に京都帝国大学法学部に進学したが、在学中の1927年に死去した。
峯澤 典子 は、日本の詩人。
中島 悦子 は、日本の詩人。詩誌『木立ち』同人。
河野 進 は、日本の詩人。通称「玉島の良寛さま」。位階は正六… 河野 進 は、日本の詩人。通称「玉島の良寛さま」。位階は正六位。
川上 佳風(かわかみ よしかぜ、Yoshikaze Kawa… 川上 佳風(かわかみ よしかぜ、Yoshikaze Kawakami)は、日本の詩人、作家。早稲田大学大学院在学中に日本古典文学に取材した英律格詩を米『古典派詩人』(Society of Classical Poets) に発表し始める。『竹取物語』や『伊勢物語』、唐詩に取材した詩を発表した。ほか、文語体小説『鳳梨の織糸ールイーゼの記』を『森鴎外記念会通信』に連載。 19世紀末の東洋抒情を描いた文語体小説『鳳梨の織糸ー十九世紀東洋抒情ールイーゼの記』を「森鴎外記念会通信」に連載。森鴎外記念会より「見事な雅文体」、神田龍身学習院大学名誉教授から「全くもって秀抜な文体」と評される。同作品の英語版 The Holy Thread は舞台地シライ市、および西ネグロス州立博物館でも取り上げられた。
しあ(日本名:しあ、英名:SHEER)は、MC、詩人。「しあ… しあ(日本名:しあ、英名:SHEER)は、MC、詩人。「しあ」という名前は、本名の一部分と幸せを掛けてできた名前。「生きていて良かったと心から実感できる時間を1秒でも」という想いで、現在も活動を行っている。 福岡県出身、東京都在住。6歳の頃から詩を書くことが好きで、A4の真っ白なコピー用紙に手書きで詩集を作っていた。 中学時代より放送部に所属しており、イベントの司会や朗読などの活動も行なっている。また、その頃から、ハロー!プロジェクト(特にモーニング娘。のプラチナ期)に憧れ、オーディションを受けた経験もある。つんく♂の世界観に魅了され、音楽を介したエンターテインメントに強く興味をもつようなった。
佐々木 桂(ささき かつら、男性、2月23日 - )は、日本… 佐々木 桂(ささき かつら、男性、2月23日 - )は、日本の詩人、エッセイスト、ライターである。 秋田県雄勝郡東成瀬村出身。秋田県立横手高等学校卒業後、成蹊大学文学部を卒業。 学生時代から働いていたIVSテレビ制作に籍を置く。その後、リクルート(現在の株式会社リクルートホールディングス)に入社し、創刊したばかりの『フロム・エー』編集部に所属した。 1988年にライターとして独立。雑誌・単行本の執筆・編集及びパブリシティ、パンフレット等の制作に携わると同時に、ライタープロダクションを立ち上げる。 リクルート社発行の『じゃらん』、『ガテン』、『ゼクシィ』、角川書店の『東京ウォーカー』、祥伝社の『Boon』の雑誌創刊に参画した。