服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4… 服部 嘉香(はっとり よしか、1886年(明治19年)4月4日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本の詩人・歌人・国語学者。 東京市日本橋区浜町の旧松山藩主久松家邸内で生まれた。愛媛県士族・服部嘉陳の長男。父の嘉陳は松山藩士・藤野正久の次男で、服部家を継いだ。 1889年(明治22年)に父の故郷である松山に移る。その後間もなく父が病没したため、叔父藤野漸の下で養育される。松山中学校を卒業後、1904年(明治37年)に再び上京して早稲田大学に入学。1908年(明治41年)、大学部文学科英文学科を卒業。同級生に北原白秋・三木露風・若山牧水・土岐善麿などがいた。中学時代から雑誌『少年世界』『中学世界』などに新体詩を投稿していたが、早大進学によって詩壇での活動はより活発になる。
原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951… 原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は原 鼎(はら かなえ)。初号・鉄鼎。別号・ひぐらし。 簸川郡塩冶村(現出雲市)の医師の家に三男として生まれ、県立簸川中学校(現在の島根県立大社高等学校)に入学。教員として大町桂月がいた。2年のときに『山陰新報』課題句に投句し入選。5年生の時、新任教員であった俳人の竹村秋竹の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中。『国文学』に俳句、短歌、文を投稿ししばしば入選した(俳句は河東碧梧桐、歌・文は金子薫園選)。
有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月… 有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月3日 - 1976年(昭和51年)1月21日)は、日本の詩人・歌人である。 本名歓之助、1886年(明治19年)3月3日、兵庫県飾西郡津田村(現・姫路市)に生まれる。 岡山市の関西中学校に入学。在学中から詩作をし、同人雑誌「白虹」に参加する。上京し、早稲田大学高等師範部を卒業後、実業之日本社に入り、「日本少年」主筆として活躍した。1905年に車前草社に入り、若山牧水、正富汪洋らと作歌。薄田泣菫、与謝野鉄幹、晶子らの先進を敬慕しつつ、「日本少年」に毎号発表した少年詩は少年の読者に愛誦され、文学者に多くの影響を与えた。 1913年(大正2年)4月、岡山県上道郡浮田村北方の井尻龍五郎・林夫妻の長女、清子と結婚。
石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月… 石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)… 安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ。 安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める。 1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し、新傾向派の俳人として注目された。 菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ、東北の俳壇で称された。
高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 19… 高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 1930年9月23日)は、兵庫県津名郡釜口村字里(現:淡路市釜口字里)出身の俳人。旧制洲本中学校卒。中学の教頭・大谷繞石の影響で俳句をはじめ「ホトトギス」に投句、同人誌「落葉」を主宰。1904年、早稲田大学政経科入学。1906年、高浜虚子の 「俳諧散心句会」に参加し指導を受ける。同年、肋膜炎のため大学を中退し帰郷。故郷で小学校の教諭となるが、病のため続かず俳句を主とし「ホトトギス」「懸葵」に投句した。1908年に句集『島舟』(俳書堂)を出版。河東碧梧桐門とも交流があった。1917年に神戸湊川神社の主典となったが、やはり病の悪化のため1919年に帰郷している。
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1… 木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は、日本の歌人、子爵。本名は利玄(としはる)。 佐佐木信綱主宰の「竹柏会」同人。初期の官能的な歌風から、晩年は写実的な作風に変わった。口語的発想による利玄調を確立。「白樺」の創刊にも参加。歌集に『銀』(1914年)、『紅玉』(1919年)など。 歌風は初め官能的、感傷的であった。その後、窪田空穂や島木赤彦らに影響を受けて自然主義・写実主義に傾き、口語や俗語を使用した平易なその短歌は利玄調と呼ばれるようになった。以下は、中高校の教科書に採られたり、入試を始めとする各種試験に使われたりして、広く知られているものである。
大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - … 大橋 八郎(おおはし はちろう、1885年12月19日 - 1968年6月4日)は、日本の政治家、逓信官僚、俳人。岡田内閣の法制局長官、林内閣の内閣書記官長、社団法人日本放送協会第4代会長、日本電信電話公社第2代総裁。現在の富山県高岡市出身。 日本放送協会会長時、終戦時の玉音放送に携わった。戦後の通信事業近代化に貢献。おじは漢詩人の大橋十右衛門。 富山縣高岡中學校、石川縣尋常中學校を経て、1906年(明治39年)7月に第四高等學校を卒業。 1910年(明治43年)7月に東京帝国大学法科大学を卒業した後、逓信省に入省。同年11月、高等文官試験に合格する。1925年(大正14年)10月に郵務局長、1928年(昭和3年)7月に経理局長となる。
岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9… 岡山 不衣(おかやま ふい、1885年(明治18年)12月9日 - 1943年(昭和18年)11月29日)は岩手県花巻市出身の俳人、新聞編集者。岩手毎日新聞社(1933年廃刊。現在の毎日新聞とは無関係)の主筆(編集長)でもあった。生誕時の本名は伊藤儀七であったが、幼少時に養子に出たことで岡山儀七となった。 1885年(明治18年) のちの貴族院議員伊藤儀兵衛の四男として、花巻に生まれる。1889年(明治23年)、岡山直機の養子となる。 旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学し、石川啄木と出会う(学年は啄木が1年上)。1901年(明治34年)に啄木のほか野村長一(後の野村胡堂)や、後に医学博士となる小林茂雄や瀬川深(せがわふかし)、猪川浩らと短歌会「白羊会」を結成する。
田波御白(たなみ みしろ、本名:庄蔵(しょうぞう)、明治18… 田波御白(たなみ みしろ、本名:庄蔵(しょうぞう)、明治18年(1885年)11月8日-大正2年(1913年)8月25日)は、栃木県小山市出身の歌人。初期の号は「水韻」。 1885年(明治18年)、栃木県下都賀郡南小林村(みなみおばやし:現・小山市南小林)に生まれる。栃木中学校(現・栃木高等学校)に入学、中学4年生のとき雑誌『帝国少年議会議事録』に投稿したのが最初の作品とみられている。10代のときに金子薫園の白菊会に参加し、土岐善麿、吉植庄亮、平井晩村らと知り合う。その後、第六高等学校、東京帝国大学英文科に進む。 26歳の時に和辻哲郎らとともに東京帝国大学の帝国文学会委員となる。『帝国文学』に短歌の他、翻訳、創作等も発表するなど歌人として活躍し始めるが、肺結核を患い平塚の杏雲堂病院での療養を経て、七里ヶ浜の療養所にて27歳で永眠。
柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉… 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年〈明治18年〉10月15日 - 1967年〈昭和42年〉2月22日)は、大正から昭和時代にかけての歌人。本名は宮崎燁子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)、北小路(きたこうじ)、伊藤(いとう)。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。 父は柳原前光伯爵。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「燁子」と名付けられる。母のりょうは没落した新見正興の娘で、前光の妾のひとりで柳橋の芸妓であった。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。
西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10… 西出 朝風(にしで ちょうふう、1885年〈明治18年〉10月6日 - 1943年〈昭和18年〉3月14日)は、口語歌人。本名:西出一(つかさ)。 大聖寺耳聞山(現・石川県加賀市)出身。父の孫一は橋立(現加賀市)で代々北前船業を営む西出家の9代西出孫左衛門の長男であったが、家督相続を許されず、大聖寺に分家した。 朝風は石川県立金沢第一中学校(現在の石川県立金沢泉丘高等学校)から慶應義塾(普通部)に進学し、後に中退した。 明治30年代から口語歌を発表。1910年(明治43年)には同じ詩人の西出うつ木と結婚し、1914年(大正3年)「新短歌と新俳句」を創刊。1915年(大正4年)、金沢の北国新聞社に入社し、紙上で、若い歌人に口語短歌への影響を与えた。
斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治1… 斎藤 茂八(齋藤 茂八、さいとう もはち、1885年〈明治18年〉9月18日 - 1964年〈昭和39年〉8月19日)は、日本の地方政治家、薬剤師、俳人。埼玉県熊谷町長・熊谷市長を務めた。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 幼名は清治、俳号は「紫石」。 埼玉県大里郡熊谷町鎌倉町(現・熊谷市)で斎藤今助の長男として生まれた。実家は薬種商だった。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1902年卒業)を経て、旧制千葉医学専門学校薬学科(現・千葉大学薬学部薬学科)を卒業し家業を継いだ。 1912年(明治45年)青年組織壬子倶楽部を結成し政治活動を始めた。1913年(大正2年)から熊谷町会議員に2期在任。
若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月… 若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。本名・繁(しげる)。 宮崎県東臼杵郡坪谷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。1899年(明治32年)宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものである。牧はまき、すなわち母の名である。水はこの(生家の周りにある)渓や雨やから来たものであった」 1904年(明治37年)早稲田大学に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれる。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 194… 平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 1947年2月10日)は、歌人、詩人である。本名は平野久保(ひさやす)。 埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。1890年一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於菟を5歳まで預かった。 本郷区立駒本尋常高等小学校(現・文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を1901年卒業の年、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。
杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月1… 杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月17日 - 1960年(昭和35年)2月16日)は、明治から昭和にかけての歌人。旧姓は岩崎 翠。 夫は日本のグラフィックデザインの礎を築き多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水。洋画家の岩崎勝平は甥。 埼玉県川越(現川越市)に、父・岩崎紀一、母・サダの六人兄弟の三女として生まれた。旧姓は岩崎翠(いわさき みどり)。次兄の福澤桃介は福澤諭吉の娘婿となった大実業家。 翠子が2歳のときに父・紀一と、3歳で母・サダとそれぞれ死別し、祖母・ミキに育てられる。祖母が死去すると次姉・てるの嫁ぎ先である東京・赤坂の出渕豊保に身を寄せ、国語伝習所、女子美術学校(現女子美術大学)を卒業する。
近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月… 近藤 守蔵(こんどう もりぞう、1885年〈明治18年〉4月30日 - 1942年〈昭和17年〉)は、日本の俳人、弁護士。鳥取県弁護士会副会長。 鳥取県気高郡美穂村大字下味野(現・鳥取市)出身。近藤寛次郎の長男。近藤家は分家筋で、美穂村にて代々農業を営む。1904年に鳥取一中を卒業。1908年に第一高等学校を卒業。 1912年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。東京有楽町で弁護士開業。父親がやっていた朝鮮忠清北道の農場経営を手伝うため朝鮮にわたり、傍ら京城で法律事務所を開く。 忠清北道官選道評議員に選ばれる。1929年に郷里の鳥取に帰り、西町で弁護士事務所を開設する。 「鳥取県下法曹界の第一人者」と評される。
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26… 飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年〈明治18年〉4月26日 - 1962年〈昭和37年〉10月3日)は、山梨県出身の日本の俳人。本名、飯田武治(いいだ たけはる)。別号に山廬(さんろ)。高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人であり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。句集に『山廬集』(1932年)、『椿花集』(1966年)、ほかに随筆集なども多数。 山梨県東八代郡五成村(のち境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。飯田家は名字帯刀を許された旧家で、大地主である。
富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月… 富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。 愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。1912年に平塚の杏雲堂で療養。 俳句をはじめたのは遅く、1918年、34歳のとき福岡貯金支局に支局長として赴任した時期に吉岡禅寺洞の手引きを受けたことに始まる。翌年に福岡に来た高浜虚子に接し、「ホトトギス」に投句。同年に本省に転勤。
宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5… 宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5日 - 1962年(昭和37年)3月29日)は、日本の歌人。本名は大四郎(だいしろう)。 石川啄木夫人・石川節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。 新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨の祖父が没して竹四郎が継いだ頃には、借金を抱えて没落していた。 郁雨が2歳の頃に竹四郎は家と田畑を債権者に譲って松前に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春[要出典]、父とともに宮崎一家は函館に移住した。竹四郎は「浜かせぎ」や日雇いなどでしのぐ苦しい生活が続いたが、醸造業で成功、「金久(かねきゅう)」を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - … 北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年1月25日 - 1942年11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。 詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。 弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。 1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現:南関町)に長男として生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現:柳川市)にある家に帰る。
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひで… 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。 鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。 種田と並ぶ「自由律俳句の雄」。活動の場を荻原の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつし、貧窮のうちに病没した点でも共通している。 一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治… 杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治17年)11月21日 - 1974年 <昭和49年> 5月5日)は、昭和時代前期の政治家、俳人。三重県上野市長。雅号は干柿。位階は正六位。 三重県出身。上野中学(現三重県立上野高等学校)を卒業する。 上野町助役となり、全国に先駆け上下水道の完成、町営塵芥焼却炉、町立保育園の建設、公共的企業の創設や育成、伊賀文化産業城の建設などに尽力した。 1939年(昭和14年)11月、同町長となった。1941年(昭和16年)9月に町長を退任した。同年11月29日、周辺自治体との合併で発足した上野市の初代市長となった。 町長時代には市制施行の実現、市長に就任後は市民福祉の向上、地域産業の育成、工場誘致や市域拡張の諸政策を遂行した。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17… 久保 より江(くぼ よりえ、1884年(明治17年)9月17日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の俳人。 1884年(明治17年)、鉱山技師の父・宮本正良と母ヤスの長女として、愛媛県松山市に生まれる。1895年(明治28年)、松山時代の夏目漱石が下宿し、正岡子規が寄宿していた「愚陀仏庵」の持ち主がより江の母方の祖父・上野義方であったことから、当時12歳の少女であったより江は、若くして漱石や子規と面識を持ち、可愛がられたという。漱石の『吾輩は猫である』に登場する女学生・雪江は、より江をモデルにしたとされる。 1899年(明治32年)、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士の久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。
伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月2… 伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月28日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、アララギ派の歌人。短歌結社「美知思波(みちしば)」創立者。山梨県北巨摩郡(現・韮崎市)出身。本名は、伊藤基胤(もとつぐ)。妹の権藤はなよ(権藤花代)は、唱歌「たなばたさま」の作詞者で童謡詩人。 山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に父・友重、母・やよ、の長男として生まれる。1906年(明治39年)山梨師範学校(現・山梨大学)を卒業。母校の穴山尋常高等小学校、山梨師範学校附属小学校に勤める。浅川伯教(朝鮮古陶磁研究者)は、同僚で師範学校の学生時代からの親友。1908年(明治41年)に甲府市に転居。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5… 丸山 芳良(まるやま よしまさ、 1884年(明治17年)5月5日 - 1932年(昭和7年)3月23日)は、日本の歌人。 栃木県足利市通六丁目出身。足利の小学校高等科を経て、中学校時代に石川角次郎から洗礼を受け、1902年商工中学校(現日本大学第三高等学校)卒業。同年東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、病気と実家の倒産のため2年で中退した。 中退後は日清製粉横浜工場主任や、日本統治時代の台湾の台北市の会社への勤務、名古屋市の製陶会社・旭陶器主事なども務めた。この間、1914年から窪田空穂に師事し、歌誌『国民文学』に参加。 1920年に喘息のため足利に帰郷し、1921年に足利印刷社を設立し、同社無限責任社員となった。
安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - … 吉植 庄亮(よしうえ しょうりょう、1884年4月3日 - 1958年12月7日)は、日本の歌人、政治家。 1884年、千葉県印旛郡(現・印西市)の農家に、父庄一郎、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される印旛沼の氾濫に悩まされていた。1892年、父の庄一郎が埜原(やわら)村の村民47戸を率いて、妻とともに北海道石狩国雨竜郡に移住。開墾し、雨竜村和(やわら)(現・北竜町字和)を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父(庄之輔)、祖母のもとで育てられた。開成中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法科経済学科を1916年に卒業。1921年に父の経営する中央新聞に文芸部長として入社する。
小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 19… 小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 1955年12月4日)は、岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人・教育家・書道家。「岩手歌壇の父」と言われる。本名は小田島理平治。旧姓は佐々木。 1884年3月、和賀郡小山田町の農家の二男として生まれる。1902年、19歳で「小国民」懸賞小説に二等当選。同年4月、岩手師範学校本科に入学。1904年、同校文芸同人誌『花摺草』に短歌、俳句、美文「わが罪」を発表。1905年7月、石川啄木を訪問し交際が始まる。[要出典] 与謝野鉄幹は、「君は短歌より長詩の方が優る」と手紙でいさめたが、結果的には石川啄木が小田島にあてた書面「和歌は現代に新価値あり」に動かされ、歌人を目指すことになった。
植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1… 植竹 喜四郎(うえたけ きしろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 1963年〈昭和38年〉12月3日)は、日本の歌人(筆名・岸良雄)、実業家。下野鉄工、東野電力、植竹商業各取締役。 栃木県那須郡黒羽町大字黒羽向町(現・大田原市)の素封家・植竹三右衛門の三男。川西小学校卒業後、東京の日本中学校に入学したが、病気のため退学した。19歳、出家を志したが、両親に許可されず断念。 糠塚の植竹農場で、悶々の空白の歳月を過ごす。1911年に上京、神田佐久間町に文芸出版社の「植竹書院」を創設した。 大正時代の重要な文芸書シリーズ「現代傑作叢書」「現代代表作叢書」「文明叢書」「薔薇叢書」を刊行し、また広津和郎らの同人誌「奇蹟」の発行所となった。
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月2… 高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 1883年12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現・佐賀県小城市三日月町)遠江で生まれた。1897年3月に三日月村晩成小学校を卒業し、佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀西高校、佐賀北高校、佐賀東高校)に進んだ。1902年3月に卒業し、第五高等学校第一部に入学。1907年7月に卒業し、同年京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1914年9月、京都帝国大学法科大学講師に就いた。
宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1… 宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1963年5月)は、明治から昭和にかけて福島県伊達郡を中心に活動した俳人である。幼名を文作、通称を寅吉といい、俳号として梅軒、また麦村とも称した。 福島県伊達郡伏黒村宮本(現伊達市)に生まれる。明治30年(1897年)、14歳で正岡子規主宰の「ホトトギス」に投句し、入選する。これを機に子規に師事した。明治38年(1905年)、機関紙「八重桜」を刊行し、「奥州に梅軒あり」と評される。明治41年(1908年)1月、「土筆(つくつくし)」を刊行する。 大正の初め、山梨県の宿で知り合った自称小説家の青年と意気投合し、文学談議に花が咲き深夜まで語り合う、という出来事があった。
青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1… 青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1964年12月16日)は、日本の小説家、俳人。法政大学名誉教授。本名は井本 健作(青木家より井本家に養子)。国文学者・井本農一の父。 1883年(明治16年)11月27日、山口県都濃郡富田村(現・周南市河内町)に生まれる。1905年(明治38年)旧制山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学哲学科を卒業し、千葉県成田中学教諭として勤務。同僚の鈴木三重吉の影響により小説を執筆。 1910年(明治43年)「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」等を発表。1915年(大正4年)旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭。
菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1… 菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本の実業家、俳人。秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章、1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した。 菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県南秋田郡土崎港町に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。
竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11… 竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11月12日 - 1973年〈昭和48年〉3月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)、歌人。勲等は勲四等。学位は医学博士(京都帝国大学・1923年)。日本児童学会名誉会長、社団法人日本小児科学会名誉会員。旧姓は鈴木(すずき)。号は青夏(せいか)。姓の「內」は「内」の旧字体でありJIS X 0213:2004に収録されておらず、名の「薰」は「薫」の旧字体でありJIS X 0208に収録されていないことから、新字体で竹内 薰兵(たけうち くんぺい)、竹內 薫兵(たけうち くんぺい)、竹内 薫兵(たけうち くんぺい)とも表記される。 京都帝国大学での勤務を経て、竹内病院院長、東洋大学教授などを歴任した。
熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1… 熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1936年8月21日)は、日本の歌人(明治~昭和時代前期)。歌人の熊谷龍子は孫。 宮城県本吉郡新月村(現・気仙沼市)生まれ。少年時、及川義亮に歌を学ぶ。郷里・気仙沼で農林業に従事しながら前田夕暮に師事。 1911年(明治44年)「詩歌」創刊に参加し同時に短歌結社「白日社」同人となる。1912年(大正元年) 仙台の文芸誌「シャルル」同人となり、郷土の文学の高揚に尽力した。 1921年 新月村の村会議員に就任。 1924年(大正13年)「日光」に前田夕暮らとともに参加。「詩歌」同人らが自由律口語短歌に転向するなかで定型律文語短歌をまもり、山村生活をうたった。
三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月1… 三井 甲之(みつい こうし、1883年〈明治16年〉10月16日 - 1953年〈昭和28年〉4月3日)は、日本の歌人、文学者、右翼思想家。皇道歌人として知られる。原理日本社共同創立者。山梨県中巨摩郡敷島村出身。本名は甲之助。 山梨県中巨摩郡松島村(旧同郡敷島村及び敷島町、現・甲斐市大下条)出身。生家は地主の家庭。甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが校風になじめず、上京して京華中学校に転入。 1901年(明治34年)、第一高等学校第一部文科入学。文科の同級生に阿部次郎、岩波茂雄など。1902年(明治35年)に死去した正岡子規の短歌革新に共感する。三井の日記や手帳には子規句の書き抜きや、子規の死に際した追悼句が記されている。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月2… 前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の歌人。本名は前田洋造(洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」を引き継いだ。 尾上柴舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。 現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれ、代々庄屋や戸長を務める家柄で、「油屋」の屋号で食用油や醤油の販売もしていた。父の前田久治は県会議員や大根村の村長を務めた厳格な人物で、母のイセは控えめな性格、夕暮を長男として三男四女の家族であった。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月… 今中 楓渓(いまなか ふうけい、1883年〈明治16年〉4月20日 - 1963年〈昭和38年〉年8月17日)は、大正から昭和期の歌人。本名は今中 保次郎(旧姓は岩崎)。1935年(昭和10年)に東海林太郎の歌で大ヒットした「野崎小唄」の作詞者で知られる。 大阪府北河内郡生まれ。広島高等師範学校(現・広島大学)卒業。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)在学時から作歌し、歌誌『詩歌』に参加。前田夕暮に師事した。 1907年(明治40年)に北河内郡樟葉村大字楠葉(現・枚方市南楠葉)の今中家を継いだ。 のちに『覇王樹』『林間』の同人となり、1931年(昭和6年)女性短歌誌『若葉』を主宰。大阪府立寝屋川高等女学校(現・大阪府立寝屋川高等学校)で教えながら、落語野崎詣りで有名な、北河内郡四条村大字野崎(現・大東市野崎)にある野崎観音参拝について詠んだ「野崎小唄」を東海林太郎が歌い大ヒットとなったため、「昭和歌壇の重鎮」とされている。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。