三浦 信由(みうら のぶよし、1944年5月11日 - )は… 三浦 信由(みうら のぶよし、1944年5月11日 - )は、日本の陸上競技(中距離走)選手。旧姓:松田。 大分県宇佐郡院内村景平(現在の宇佐市院内町景平)出身。陸上競技を行っていた3歳上の兄に刺激され、小学校5年生の時に陸上競技を始める。院内町立竜東中学校3年生のとき、全国中学校放送陸上競技大会に出場し3000m競走で優勝、大分県中学校駅伝会では宇佐郡チームの優勝に貢献。駅伝の強豪であった大分県立四日市農業高等学校(現在の大分県立宇佐産業科学高等学校)に進学し、1962年(昭和37年)には全国高等学校駅伝競走大会に大分県代表として出場した。 大分県陸上競技協会理事長であった池中康雄(東洋大学出身)の勧めで東洋大学に入学。
青山 利春(あおやま としはる、1944年2月17日 - )… 青山 利春(あおやま としはる、1944年2月17日 - )は、日本の元陸上競技選手、陸上競技指導者。専門は円盤投。新潟県上越市出身。国士舘大学卒業。 国士舘大学体育学部教授、国士舘大学大学院スポーツシステム研究科教授、国士舘大学陸上競技部副部長として活躍。 指導者としては、長野オリンピックボブスレー日本代表の脇田寿雄、アテネオリンピック女子砲丸投代表の森千夏、2007年世界陸上競技選手権女子砲丸投代表の豊永陽子、新潟日報社の小林志郎、チームミズノアスレティックの大橋忠司らを育てた。 他に、日本ゴルフ学会常務理事、ロサンゼルスオリンピック投てきコーチなどの要職を歴任している。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。
小林 馨(こばやし かおる、1944年 - )は、日本の元陸… 小林 馨(こばやし かおる、1944年 - )は、日本の元陸上競技選手。群馬県陸上競技協会副理事長、元体育教員、高崎経済大学附属高等学校前副校長などを歴任した。体育教師として勤務するかたわら、群馬県高体連の陸上競技専門部の役員として活躍した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。
木﨑 正子(きざき まさこ、1943年11月7日 - )は、… 木﨑 正子(きざき まさこ、1943年11月7日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は中距離走。現姓:藤本。 愛知県名古屋市で生まれ、太平洋戦争中に岐阜県美濃加茂市に疎開し、終戦後も同地に留まる。美濃加茂市立山之上中学校、岐阜県立長良高等学校と進学。中学校時代はソフトボール部の選手であったが、部活の監督に俊足を見込まれて「高校へ行ったら陸上競技をやりなさい」と勧められたという。 1959年に岐阜県立長良高等学校に進学すると陸上競技部に入部。当初は短距離走の選手だったが、高校2年(1960年)の時にローマオリンピックで女子800m走が復活したことを受けて高校の陸上競技部監督から800m走をやってみるように指示されて本格的に取り組む。
宮本 悦子(みやもと えつこ、1943年8月23日 - )は… 宮本 悦子(みやもと えつこ、1943年8月23日 - )は、日本の陸上競技(短距離走)選手。1964年東京オリンピックで女子400メートルリレー走に出場した。 出身高校は西遠女子学園高等学校(静岡県浜松市)。同校は「陸上の西遠」の名で呼ばれた陸上競技の強豪校であった。1961年のインターハイでは、100m走と200m走で優勝した。 中京大学に進学。1964年5月10日の神奈川県選手権大会の100m走で11秒8(手動計時)を記録、これは当時の日本学生記録であり、また生涯ベストタイムとなっている。1964年7月の日本陸上競技選手権大会では100m走で優勝。同年10月に開催された1964年東京オリンピックでは、400mリレー(井口任子・江副令子・宮本悦子・依田郁子)の第三走者を務めたが、予選突破はかなわなかった。
澤村 博(さわむら ひろし、1943年 - )は、日本の体育… 澤村 博(さわむら ひろし、1943年 - )は、日本の体育学者、陸上競技選手、陸上競技指導者。元日本大学陸上競技部監督、日本大学名誉教授。栃木県出身、東京都八王子市在住。 日本大学経済学部卒業。日本大学在学中は陸上競技部に在籍し、関東学生陸上競技対校選手権大会(以下、関東インカレ)、日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)等で活躍。大学4年次には陸上部の主将を務め、関東インカレ、日本インカレ、箱根駅伝で総合優勝した。日本大学卒業後は渡米し、オレゴン大学に入学、陸上部に所属した。当時の監督は後にナイキの創業者となるビル・バウアーマンであった。また当時のキャプテンは東京オリンピック100m3位のハリー・ジェロームだった。
天野 義裕(あまの よしひろ、1942年10月16日 - )… 天野 義裕(あまの よしひろ、1942年10月16日 - )は、日本の短距離走選手である。 愛知県岡崎市出身。父親は教員。母方の祖父は岡崎市長を務めた小瀧喜七郎。 岡崎市立南中学校、愛知県立岡崎高等学校を経て東京教育大学に進学。大学4年生のとき、1964年東京オリンピックで男子1600メートルリレー走に第三走者として出場した。のちに愛知教育大学教育学部教授となった。1968年第52回日本選手権400mにて記録48秒2で優勝。
江副 令子(えぞえ れいこ、1942年6月20日 - )は、… 江副 令子(えぞえ れいこ、1942年6月20日 - )は、日本の陸上競技(短距離走)選手である。 長野県伊那郡高遠町(現在の伊那市)出身。二階堂高校卒業後、リラックス化粧品に所属。1964年東京オリンピックでは女子400メートルリレー走(井口任子・江副令子・宮本悦子・依田郁子)に出場した。
具志堅 興清(ぐしけん こうせい、1942年6月10日 ‐ … 具志堅 興清(ぐしけん こうせい、1942年6月10日 ‐ )は、日本の元陸上競技選手。専門は三段跳。1972年ミュンヘンオリンピックの日本代表。
鳥居 義正(とりい よしまさ、1942年4月14日 - )は… 鳥居 義正(とりい よしまさ、1942年4月14日 - )は、日本の陸上競技選手である。種目は棒高跳で、元日本記録保持者。 東京教育大学在学中に、1964年東京オリンピックで男子棒高跳に出場した。 また、同年には4メートル80、翌年には4メートル95の日本記録を樹立した。 2016年時点では、日本シニアチア協会の理事を務めていた。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
土谷 和夫(つちや かずお、1942年4月3日 - 没年不明… 土谷 和夫(つちや かずお、1942年4月3日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(長距離走)選手。実業団を経て日本大学に入学し、1960年代にトラック競技やロードレースで活躍。のちにプロ野球のトレーニングコーチを務めた。 宮崎県出身。宮崎商業高校から八幡製鉄に所属し、1962年・1963年には全日本実業団駅伝に出場し区間賞を獲得している。日本大学に入学。 1964年4月に毎日マラソン(日本選手権大会・1964年東京オリンピック代表選考会を兼ね、オリンピックのマラソンコースで行われた)に出場、4位入賞。2位の円谷幸吉はマラソンを始めたばかりであり、4位の土谷がマラソン代表に選出される可能性もあったが、最終的には着順通り3人が代表選手に選ばれた。
田中 章(たなか あきら、1942年3月10日 - )は、日… 田中 章(たなか あきら、1942年3月10日 - )は、日本の陸上選手。110mハードルで1964年東京オリンピック代表に選ばれている。 関西学院大学を卒業後、名古屋鉄道に入り1964年の東京オリンピックの110mハードル日本代表となった。当時は鉄道事業者の従業員が陸上選手と言う事例は珍しい存在であった(ただしその後、大手私鉄では西日本鉄道と東京地下鉄に陸上部が創設されている)。 その後1967年、1968年と日本陸上競技選手権大会の110mハードルで2連覇している。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
山田宏臣(やまだ ひろおみ、1942年3月4日 - 1981… 山田宏臣(やまだ ひろおみ、1942年3月4日 - 1981年10月21日)は、日本の陸上競技選手。元男子走幅跳日本記録保持者で、1964年東京オリンピックとメキシコオリンピックに出場した。
加瀬 忠(かせ ただし、1941年12月25日 - )は、日… 加瀬 忠(かせ ただし、1941年12月25日 - )は、日本の教育家、元陸上選手。元マドリッド日本人学校校長、元スペイン・フェリペII世大学翻訳学部PROFESOR。千葉県銚子市出身。 加瀬は、1961年箱根駅伝に憧れて東洋大学経済学部に入学し、現役時代はキャプテンとしてチームをまとめた。2年時には箱根駅伝にも出場している(第38回大会:8区区間7位)。その後、1966年~1974年、東洋大学陸上競技部箱根駅伝チームのコーチ、監督として黎明期の東洋大学箱根駅伝チームを佐々木秀幸と共に指導する。 1994年、文部省の派遣で、スペイン・マドリッド日本人学校校長として赴任し、在外教育施設の管理・運営にあたる。
山口 東一(やまぐち とういち、1941年12月15日 - … 山口 東一(やまぐち とういち、1941年12月15日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は中距離走。 1964年東京オリンピックに1500メートル競走で出場した 。 中央大学で2年次(第43回)と4年次(第45回)に、箱根駅伝に出場した。
碓井 哲雄(うすい てつお、1941年10月28日 - 20… 碓井 哲雄(うすい てつお、1941年10月28日 - 2021年9月11日)は、日本の陸上競技選手。陸上競技指導者。 2002年から神奈川工科大学陸上競技部監督を務め、1995年から2021年まで日本テレビ放送網『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』の名物解説者として活躍した。 東京都中央区出身。東京・東日本橋の、祖母が経営する料亭で中高時代を過ごした。東京都中央区立久松中学校(現:東京都中央区立日本橋中学校))1年から陸上を始め校内マラソンで優勝。陸上部へ誘われ、隅田川にかかる新大橋と両国橋を巡って健脚を鍛えた。中央大学杉並高等学校(現:中央大学附属高等学校)入学後、1958年の第9回全国高等学校駅伝競走大会(2年時)では4区の区間賞を獲得した。
下 哲(しも さとし、1941年9月22日 ‐ 2003年8… 下 哲(しも さとし、1941年9月22日 ‐ 2003年8月29日)は、福岡県出身の元陸上競技選手。専門は三段跳。元日本学生記録保持者。1963年ユニバーシアードの金メダリスト。現在、主要世界大会の三段跳で金メダルを獲得した最後の日本人となっている。 福岡県に生まれるが、父親の移住で大阪に移った。 高校は近畿大学附属高等学校に進学。2年時の1958年には全国高等学校陸上競技対校選手権大会で5位入賞を果たした。翌年の1959年には第14回国民体育大会(高校生の部)を14m83で制したほか、第12回全国高校東西対抗陸上競技大会では同年度高校ランク1位の記録となる15m04をマークし、同年度の全国高等学校陸上競技対校選手権大会チャンピオン(井上大作)を破って優勝している。
陳 全壽(チン・ゼンジュ、1941年9月9日 - )とは、中… 陳 全壽(チン・ゼンジュ、1941年9月9日 - )とは、中華民国国籍の陸上競技選手である。 1966年アジア競技大会に十種競技で出場、銅メダルを獲得。日本に渡航し、東京教育大学体育学部で体育学士、杏林大学大学院医学研究科で医学博士の学位を取得する。東京教育大学陸上競技部在籍中に中華民国代表として1968年メキシコシティーオリンピックに100mと十種競技で出場した。1976年、東京教育大陸上部のOBで台湾生まれの安田矩明に呼ばれて中京大学体育学部講師に就任、スポーツ科学・運動生理学を研究し、助教授、教授と昇進し、1994年に台湾に戻るまで務めた。 中華民国(台湾)への帰国後は自身も党員である民主進歩党の政権下で中華民国行政院教育部体育署の署長に就任。
君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は… 君原 健二(きみはら けんじ、1941年3月20日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。1960年代から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーである。また、オリンピックには3大会連続で男子マラソン日本代表として出場した。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)出身。 出生当時、実家は小倉市で小間物屋を営んでいた。5人兄弟の3番目で、姉、兄、弟2人がいる。中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校(現・福岡県立ひびき高等学校)時代はインターハイでも予選落ちを経験するなどとりわけ目立った選手ではなく、高校を卒業後の就職活動も思わしくない中、八幡製鐵(現在の日本製鉄)より陸上部の長距離を強化する目的でスカウトされ、卒業直前にようやく入社が決まったという。
河津 光朗(かわず こうろう、1940年11月25日 - )… 河津 光朗(かわず こうろう、1940年11月25日 - )は、日本の陸上競技選手である。 京都市立洛陽工業高等学校工業化学科卒業後、日本大学に入学。日本大学卒業後、日本レイヨン(現在のユニチカ)に入社し競技を続ける。 1964年東京オリンピックで男子走幅跳に出場した。
荒木 紀一 (あらき きいち、1940年11月11日 - … 荒木 紀一 (あらき きいち、1940年11月11日 - ) は、日本の陸上競技選手。1964年東京オリンピック陸上日本男子円盤投代表候補選手 (膝の故障により出場断念)。円盤投男子元日本記録保持者。静岡県浜松市出身。中央大学法学部法学科卒業。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は… 藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は、京都府出身の陸上競技指導者。「F・R・A 藤田ランニングアカデミー」の監督。 1956年(昭和31年)、京都府立洛北高等学校に入学。同高校在学中に陸上競技部に入部し、当時の同部顧問だった塩尻安吉の指導の下、専ら中距離選手として活躍していた。その一方で、同高校に於ける冬の風物詩とされた校内耐寒マラソンに於いては驚異的な走りっぷりを見せていたという。 洛北高校を卒業後、一度は京都市職員として就職するも陸上競技指導者を目指すべく退職。トレーニングと勉学に励む日々を送る中、日本レイヨン(現ユニチカ)の陸上競技部から声がかかり、急遽同社チームの一走者として第4回全日本実業団駅伝に出場、同社チームは第5位の成績を残す。
円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち[要… 円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち[要出典]、1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。
蒲田 勝(かまた まさる、1940年4月21日 - )は、日… 蒲田 勝(かまた まさる、1940年4月21日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は短距離走。 田辺市立明洋中学校では野球部に所属していた。本人の弁では、3年生時に教員の勧めにより通信陸上大会の走高跳に出場したのが、陸上競技に接した最初だった。 和歌山県立田辺高等学校に進学し、陸上部に入部する。 全国高等学校総合体育大会陸上競技大会において、男子100メートル競走に2年生と3年生時に2連覇(1957年・1958年)を達成、3年生時には200メートル競走でも優勝する。高校2年生時の第12回国民体育大会(静岡国体)では100メートル競走で10秒5の高校生日本記録を出して優勝した。3年生時の1958年アジア競技大会では400メートルリレーメンバーに選出され、銀メダルを獲得している。
岡崎 高之(おかざき たかゆき、1940年3月28日 - )… 岡崎 高之(おかざき たかゆき、1940年3月28日 - )は、日本の陸上競技選手。 1960年ローマオリンピックに走幅跳で、1964年東京オリンピックに三段跳で出場した。 千葉県君津市出身。君津市立君津中学校在学中から陸上部に属していたが、本格的に競技に打ち込むようになったのは千葉県立木更津高等学校からという。木更津高校3年生であった1957年、静岡国体に三段跳で出場し、15m70の日本高校新記録を樹立。この高校記録は1986年に蓮勝美によって更新されるまで28年間も残った。 中央大学に進学。1960年ローマオリンピックに走幅跳で出場。決勝に進出したが、足の痙攣により棄権した。 中央大学卒業後、八幡製鐵(現・日本製鉄)に入社。
浅井 浄(あさい きよし、1940年2月6日 - )は、兵庫… 浅井 浄(あさい きよし、1940年2月6日 - )は、兵庫県出身の日本の元陸上競技選手。専門は短距離走。陸上競技引退後にプロ野球阪急ブレーブスでマネージャーやトレーニングコーチを務めた。 父は軍医で、終戦時には父が赴任していたベトナムにおり、フランス語の方が堪能だったという。日本への帰国まで長引いたため小学校には2年遅れて入り、日本語の拙さを周囲に揶揄されて母が通訳のために来たこともあった。明石市立衣川中学校から兵庫県立明石高等学校の時期に、短距離走で好成績を上げるようになる。兵庫県立明石高等学校から関西学院大学に進む。大学では小学生の時とは逆にフランス語の単位に苦しんだという。 在学中、関西学生対校選手権(関西インカレ)では1960年から1963年まで100メートル (m)で4連覇を達成。
横溝 三郎(よこみぞ さぶろう、1939年12月9日 - 2… 横溝 三郎(よこみぞ さぶろう、1939年12月9日 - 2024年11月14日)は、日本の陸上競技選手。五輪選手。陸上競技日本代表。陸上競技テレビ解説者。陸上競技指導者。駅伝指導者。1964年東京オリンピック日本代表。東京国際大学駅伝部監督。 1939年生まれ、神奈川県横浜市緑区中山の出身。横浜市立中山中学校、横浜高等学校を経て、中央大学に入学し、卒業後はリッカーミシンに所属した。 中央大学の箱根駅伝6連覇時の中心選手として4年連続出場。1964年東京五輪では3000m障害の日本代表。選手引退後は、25年間の長きに渡り、NHKラジオ(1981年~1987年)日本テレビ(1988年~2006年)の箱根駅伝実況中継の解説者を務めた。
笠原 章平(かさはら しょうへい、1939年7月21日 - … 笠原 章平(かさはら しょうへい、1939年7月21日 - )は、日本のハンマー投選手。 1964年東京オリンピックに出場した。 埼玉県比企郡竹沢村(現在の小川町)出身、埼玉県立松山高等学校に入学。兄が松山高校の陸上部元主将であった縁で、陸上部に属することとなった。ハンマー投げは高校在学中から始め、県大会優勝やインターハイ準優勝といった成績を残した。 中央大学に進学。1962年(昭和37年)に中央大学を卒業し、東急電鉄に入社、実業団チームに属する。1964年(昭和39年)8月の記録会で、自己最高記録(65m01)を出す。1964年東京オリンピックのハンマー投で出場するが、予選落ち。後年の取材によれば「周囲の期待を裏切ってしまったという申し訳なさから、東京五輪出場の話題は長く封印してきた」という。
森本 葵(もりもと まもる、1939年7月11日 - 202… 森本 葵(もりもと まもる、1939年7月11日 - 2021年2月28日)は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者、体育学者。駒澤大学名誉教授。元800m日本記録保持者。1964年東京オリンピック日本代表。 駒澤大学陸上競技部監督として2000年に箱根駅伝初優勝に導くなど、同大の礎を築いた。同総監督、顧問を歴任。日本学生陸上競技連合参与を務めた。 三重県二見町出身。三重県立宇治山田商業高等学校、中央大学卒業。高校入学時は野球部だったが、脚力を買われ陸上部に加わり高校駅伝に出場。県大会で1区区間賞を獲得したのを契機に陸上の道へと進む。元プロ野球選手の中村稔は高校の同期。東京五輪当時はマラソン優勝の裸足のアベベ・ビキラ選手と同じ身長、体重だった。
三木 孝志(みき たかし、1939年4月27日 - )は、日… 三木 孝志(みき たかし、1939年4月27日 - )は、日本の陸上競技(やり投)選手。 1950年代から1960年代にかけ、日本陸上競技選手権大会の男子やり投種目優勝7回、日本記録更新9回を数える。 和歌山県立那賀高等学校在学中の1956年10月、日本陸上競技選手権大会のやり投競技で優勝(60m07)。また同年の第11回国民体育大会(兵庫県)においても、やり投競技で優勝を果たした。 早稲田大学在学中の1958年7月6日、日本学生陸上競技対校選手権大会のやり投競技において、日本記録(69m50)で優勝。1958年には自らの日本記録を3度にわたり塗りかえており、10月12日の日本陸上競技選手権大会も日本記録(72m81)で優勝した。
蝦名 純(えびな じゅん、1939年2月19日 - )は、日… 蝦名 純(えびな じゅん、1939年2月19日 - )は、日本の元陸上競技選手。ローマオリンピック日本代表。
田中 千鶴子(たなか ちづこ、1939年または1940年 -… 田中 千鶴子(たなか ちづこ、1939年または1940年 - )は、日本の陸上競技選手。専門は中距離走。日本で中断していた女子中距離走が復活した時期に、日本記録を樹立した選手である。 名古屋女学院から愛知学芸大学に進む。愛知学芸大学では、監督の竹内伸也の指導を受けた。愛知学芸大学に所属していた1959年8月1日、第43回日本陸上競技選手権大会でオープン競技の800mに出場し、2分27秒5で25年ぶりの日本記録を樹立した。当時、日本では女子800mについては長いブランクがあり、日本陸上競技選手権大会では1936年を最後に正式種目としての開催が途絶え、1960年ローマオリンピックの正式種目に採用されたことからオープン競技として実施されたものだった。
依田 郁子(よだ いくこ、1938年9月30日 - 1983… 依田 郁子(よだ いくこ、1938年9月30日 - 1983年10月14日)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走・ハードル競走。女子80mハードルの元日本記録保持者で、1964年東京オリンピック日本代表として同種目で入賞を果たした。 長野県小県郡丸子町(現・上田市)出身。長野県上田染谷丘高等学校卒業。結婚後の姓名は宮丸 郁子(みやまる いくこ)。 中学3年生のとき肋膜炎と肺炎にかかり上田染谷丘高校の受験に失敗、同校の定時制に入るが翌1955年に再受験して全日制に入学した。同校は当時バスケットボールの強豪で身体能力を見込まれた依田はバスケット部の勧誘を受けるも、「私は個人主義だからバスケは向かない」と陸上部に入部する。
大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、… 大谷 治男(おおたに はるお、1938年7月4日 - )は、日本の元陸上競技選手。千葉県印旛郡酒々井町出身。専修大学商経学部商業学科卒業。 酒々井町立酒々井小学校、酒々井町立酒々井中学校、成田高等学校、専修大学出身。 東京都墨田区向島で生まれたが、1945年3月10日に東京大空襲があり、父の実家のある千葉県酒々井町に移り住んだ。 中学卒業後はパン屋に就職することになっていたが印旛郡の中学生ロードレース大会で優勝し、成田高等学校に進学した。高校時代には全国高校駅伝に出場した。 高校卒業後は佐倉郵便局に就職することになっていたが、長嶋茂雄の兄である長嶋武彦との縁もあり、専修大学の補欠試験を受けて合格した。
大坪 政士(おおつぼ まさし、1938年6月18日 - )は… 大坪 政士(おおつぼ まさし、1938年6月18日 - )は、日本の陸上競技選手。1964年東京オリンピックで男子棒高跳に出場。その後、姓は小倉となっている。 千葉県木更津市桜井出身。木更津市立木更津第二中学校1年生の時に、校内のマラソン大会で優勝したことから陸上競技を始めたという。千葉県立木更津高等学校に進むと棒高跳で頭角を現し、3年生時の全国高等学校総合体育大会(インターハイ)で優勝した。 中央大学に進み、1959年に日本陸上競技選手権大会の棒高跳で4m20を跳び、同記録の安田矩明をかわして優勝した。 卒業後は日立製作所に属した。東日本実業団陸上競技選手権では第3回大会から第6回大会まで4回連続優勝。
飯島 恵喜(いいじま けいき、1938年5月16日 - )は… 飯島 恵喜(いいじま けいき、1938年5月16日 - )は、日本の陸上競技選手。専門はハードル。1950年代から1960年代にかけて活躍し、400mハードルの日本記録を保持していた。 1964年東京オリンピックで男子400メートルハードルに出場した。 千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。千葉県立銚子商業高等学校在学中の1956年(昭和31年)、第11回国民体育大会(神戸市)で110mハードルに出場し優勝。 早稲田大学に進む。1960年(昭和35年)には、日本陸上競技選手権大会400mハードルで優勝するなどの成績をおさめ、ユニバーシアード陸上競技大会(ブルガリア)に出場した。 1961年、早稲田大学教育学部を卒業し、大昭和製紙に入社。
馬場 孝(ばば たかし、1938年2月17日 - 2021年… 馬場 孝(ばば たかし、1938年2月17日 - 2021年4月28日)は、日本の元陸上競技選手、指導者。神奈川県高座郡相模原町出身。日本大学商学部商業学科卒業。 昭和第一学園高等学校、日本大学出身。 高校では水泳をするつもりだったが、プールがなかったため陸上部の入部を希望した。しかし、体が小さかったため、初めは入部を認めてもらえなかったという。3年時にインターハイに出場したが、決勝では腹痛を起こして途中棄権だった。 高校卒業後は松屋百貨店に就職した。2月の20kmロードレースで日本最高記録で優勝し、中央大学陸上競技部監督の西内文夫や日本大学陸上競技部監督の森本一徳から勧誘を受け、最終的には社会人1年目に世話になった田中茂樹の出身校である日本大学に進学した。
金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月1… 金子 宗平(かねこ そうへい、1937年〈昭和12年〉8月10日 - 2006年〈平成18年〉7月31日)は、昭和時代の日本の陸上競技選手。元円盤投日本記録保持者。ローマオリンピック代表・1964年東京オリンピック代表。日本選手権5連覇、日本記録更新7回など、数々の記録を打ち立てた。群馬県沼田市出身。身長175センチメートル、体重78キログラム。 群馬県沼田市硯田町出身。薄根中学校から群馬県立高崎工業高等学校に進学。高校では陸上部に所属し、1954年の関東大会で40m45をマークし優勝。翌1955年の関東大会で47m50の高校新記録を樹立し優勝し、酒田で開催された全国大会でも優勝。 翌1956年日本大学へ進学。
岡本 登(おかもと のぼる、1937年2月19日 - )は、… 岡本 登(おかもと のぼる、1937年2月19日 - )は、日本のハンマー投選手。1950年代末から1960年代にかけて活躍、日本人選手として初めて60m台の記録を樹て、1960年ローマオリンピックと1964年東京オリンピックに出場した。 福岡県京都郡苅田町出身。福岡県立京都高等学校を卒業後、福岡大学に進む。 1958年(昭和33年)5月18日、九州学生陸上競技大会において、日本新記録(58m85)で優勝。9月4日には、日米交歓陸上競技横浜大会で60.0mを記録、これは日本人初の60m台であり、自己の持つ日本新記録を塗り替えた。1959年(昭和34年)、福岡大学を卒業し旭化成に入社。 1960年ローマオリンピックと1964年東京オリンピックに出場した。
鈴木 章介(すずき しょうすけ、1936年11月11日 - … 鈴木 章介(すずき しょうすけ、1936年11月11日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は十種競技、棒高跳び。 1936年11月11日、静岡県浜松市鴨江にて生まれる。 中学校の時に陸上を始める。当初は走幅跳と三段跳を中心にやっていたが、中学校3年の時に陸上部顧問教師から「棒高跳をやれよ」と言われて、棒高跳に取り組む。中学3年次のベストは2m67cmであった。 1952年に静岡県立浜松商業高等学校へ進学。ここで本格的に棒高跳に取り組みつつも、中学時代にやっていた走幅跳、三段跳でも競技会に出場する。高校3年次の1954年に熊本県熊本市水前寺競技場で開催された第7回全国高等学校総合体育大会陸上競技大会男子棒高跳で当時の大会記録である3m71cmを跳び優勝、高校日本一となった。
安田 矩明(やすだ のりあき、1935年12月11日 - 2… 安田 矩明(やすだ のりあき、1935年12月11日 - 2004年4月16日)は、日本の陸上競技選手・指導者・研究者、新聞記者。専門は棒高跳で元・日本記録保持者。中京大学名誉教授。日本統治時代の台湾生まれ、鳥取県出身。 安田の現役時代は棒高跳のポールの進化が続いていた頃であり、竹、スチール、グラスファイバーの3種を手に競技を行った。 1935年(昭和10年)12月11日、日本統治下の台湾の台北県樹林鎮(現・新北市樹林区)に安田家7人兄弟の5番目として生まれた。当時の樹林は台北市の郊外にある田舎町であり、父は台湾で国民学校の校長を務め、自宅は学校の裏にあった。高いところに登るのが好きで、2歳の頃に学校の樋を伝って10 mほどの高さの屋根まで登り、母をひやひやさせた経験があるという。
寺沢 徹(てらさわ とおる、旧字体: 寺澤 徹、1935年1… 寺沢 徹(てらさわ とおる、旧字体: 寺澤 徹、1935年1月4日 - 2025年3月23日)は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。選手としての専門は長距離走・マラソンで、1963年には当時のマラソン世界最高記録を樹立した。1964年東京オリンピック代表選手。 当時の東京府東京市に生まれる。太平洋戦争中に富山県高岡市に疎開した。[要出典]高校への入学当初はハンドボール部に所属していたが、2年次に健脚を買われて陸上競技部に転じた。富山県立高岡商業高等学校を卒業。卒業後は地元の自動車販売店に[要出典]就職し、会社員として働きながら独力で陸上競技を続けた。1957年栃木国体の5000メートル (m)で6位に入賞した。
南部 敦子(なんぶ あつこ、本名:糠澤 敦子、1934年〈昭… 南部 敦子(なんぶ あつこ、本名:糠澤 敦子、1934年〈昭和9年〉12月1日 - 1970年〈昭和45年〉10月5日)は、日本の陸上競技選手。アジア大会陸上女子100m金メダリスト。1950年代を代表する選手として活躍した。大阪府吹田市千里山出身。光華高等学校卒業、光華女子大学短期大学卒業。短大卒業後は松下電器に所属。南部忠平の長女。 1953年、インターハイ5種競技において2944点の日本新記録を樹立して優勝。高校卒業後は光華陸上クラブに所属。1954年、マニラでのアジア競技大会において100mを12”5で走り優勝。太平洋戦争以来冷え切っていたフィリピン国民の対日感情改善に寄与した。日本選手権では400MRに光華陸上クラブチームの一員として参加し、優勝。
川島 義明(かわしま よしあき、1934年5月10日 - )… 川島 義明(かわしま よしあき、1934年5月10日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1956年メルボルンオリンピック代表選手で、同大会のマラソンで5位に入賞した。 茨城県東茨城郡川根村(現・茨城町)に生まれる。 茨城県立水戸農業高等学校時代に、体育教員をしていた篠崎清(1953年ボストンマラソン出場)から陸上競技(マラソン)に勧誘される。川島は1年生時から青森東京駅伝に茨城県チームメンバーとして出場し、2年生時と3年生時にも出場した。 しかし高校卒業時に進学はせずに家業の農家を2年間手伝った。1955年2月に第3回読売全国マラソン青梅大会に出場して2時間31分29秒で3位となった。
鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 201… 鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 2012年2月27日)は、日本の陸上競技選手、指導者。 1946年、学制改革期の旧制秋田中学校(在学中の1948年に秋田南高等学校と改称。現在の秋田県立秋田高等学校)に入学。楢山の歯医者であった叔父宅から通学しており、鈴木自身も歯医者を目指していたという。1年生より陸上競技を始め、3年生の折に400mと800mで全県大会・東北大会に優勝して駒を進め、インターハイで両種目3位。東西対抗400mで全国優勝を果たした。 早稲田大学に進学し競走部に入部。大学在学中に中距離4種目(400m、800m、1000m、1600mリレー)で日本新記録を立てた。
大串 啓二(おおぐし けいじ、1934年4月3日 - 202… 大串 啓二(おおぐし けいじ、1934年4月3日 - 2020年3月17日)は、日本の元陸上競技選手、陸上競技指導者。専門は短距離、ハードル。 佐賀県杵島郡六角村東郷(現在の白石町東郷)出身。 佐賀県立佐賀農業高等学校を卒業後、佐賀県立白石高等学校の定時制に1年通学して東京教育大学へ進学。 東京教育大学時代は第10回国民体育大会(1955年、神奈川県)で男子400mハードルで優勝したのを始め、400m走とハードルの二刀流で活躍、大学時代には1956年メルボルンオリンピックに出場。そのメルボルンオリンピックでは男子400mハードルに出場、53秒22【電気計時】の日本学生記録(当時)を樹立した。 1957年の世界大学スポーツ選手権(フランス・パリ)陸上競技の男子400mハードルで銅メダル(3位)を獲得している。
布上 正之(ぬのがみ まさゆき、1934年3月24日 - 2… 布上 正之(ぬのがみ まさゆき、1934年3月24日 - 2023年6月25日)は、日本の元陸上競技選手、指導者。熊本県山鹿市出身。中央大学卒業。 2年時の第30回箱根駅伝では9区を走る。2位の早稲田大学とは13秒差と首位で襷を受け、少しずつ差を離していたが、中継所から約300mにある戸塚踏切の警報器が鳴り始め、布上が通る直前に遮断機が降り始める。すると、遮断機をくぐるのにロスタイムがあってはいけないと、ムキになって駆け抜けた。しかし、このペースアップの影響で後半に失速し、早稲田大学に抜かれ、2位に後退。10区でも日本大学に抜かれて順位を一つ落とし、中央大学は総合優勝を逃した。この失敗が布上の選手、そして指導者としての原点になっているという。
野見山 俊一(のみやま しゅんいち、1933年9月1日 - … 野見山 俊一(のみやま しゅんいち、1933年9月1日 - 2012年7月16日)は、日本の陸上競技選手・指導者(長距離)、熊本学園大学名誉教授。 島根県松江市生まれ。福岡県立嘉穂高等学校、東京教育大学体育学部卒。 高校時代は水泳部に所属していたが、長距離選手としての特性を見いだされ陸上競技部に転部。東京教育大学時代は箱根駅伝に2回出場(第30回7区、第31回10区)。 熊本国体(1960年)の開催年に熊本商科大学(現・熊本学園大学)に招聘され、以後46年間にわたり指導にあたる。野見山の指導する熊本商科大学は、全日本大学駅伝対抗選手権大会に2回出場を果たした(第2回、第12回)。 九州一周駅伝では熊本県チームの監督団の一員として参加。
小桜 京子(こざくら きょうこ、1933年〈昭和8年〉5月2… 小桜 京子(こざくら きょうこ、1933年〈昭和8年〉5月27日 - 2023年〈令和5年〉6月15日)は、日本の女優、喜劇役者。 前夫は引田天功、娘は声優の引田有美、叔父は柳家金語楼。 兵庫県明石市出身。新宿区立牛込第一中学校卒業。 3歳の時に柳家金語楼にあずけられ金語楼劇団の子役として舞台デビュー。14歳で修業のため3年間付き人をつとめる。1953年、NHKテレビ開局と共にテレビ番組に出演し、1956年に『金語楼劇場・おトラさん』のお豆さん役がヒットする。 以後、快活な喜劇役者として、映画『おトラさんシリーズ』『駅前シリーズ』『恋人と呼んでみたい』などに出演する。舞台やドラマにも出演し、フジテレビのバラエティ番組『ライオンのいただきます』では準レギュラーを務めた。
小掛 照二(こがけ てるじ、1932年(昭和7年)12月18… 小掛 照二(こがけ てるじ、1932年(昭和7年)12月18日 - 2010年(平成22年)5月9日)は、広島県甲奴郡上下町(現・広島県府中市上下町)出身の元陸上選手。陸上競技指導者。元三段跳世界記録保持者。日本陸上競技連盟(日本陸連)副会長、名誉副会長。日本オリンピック委員会(JOC)元副会長。日本オリンピアンズ協会元副会長。 中国山地山間の町、上下町の農家の長男として生まれる。叔父、父も甲奴体協のリレーメンバーで、恵まれた体を生かし幼少期から跳躍の素養を発揮した。同郷の先輩・織田幹雄(アムステルダムオリンピック(1928年))、から南部忠平(ロサンゼルスオリンピック(1932年))、田島直人(ベルリンオリンピック(1936年))まで三大会連続で金メダルを獲り、当時は日本のお家芸だった三段跳を教師の勧めで始める。