松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985… 松島 彜(まつしま つね、1890年2月14日 - 1985年10月9日)は、日本の作曲家、教育者。女子学習院教授、宝仙学園短期大学教授。 旧水戸藩士で裁判官を務めていた松島茂徳と米子の長女として、父の任地である山形県山形市に生まれる。1902年に福島県立福島高等女学校に入学。学業は優秀で音楽の成績が特に優れていたために、教師の大立目元子に音楽学校への進学を勧められる。1906年に女学校を卒業すると音楽学校受験のために上京し、東京市小石川区高田老松町の伯母(母の姉)の家に寄宿した。1907年に東京音楽学校予科に入学し、1908年に進学した同校本科器楽部ピアノ専攻で戸倉やまにピアノを、ヘルマン・ハイドリヒとルドルフ・ロイテルにピアノと作曲を師事して1911年に卒業。
河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1… 河原 春作(かわはら しゅんさく、1890年(明治23年)1月14日 – 1971年(昭和46年)10月11日)は、日本の文部官僚、教育者。
辺 光鎬(ピョン・グァンホ、朝鮮語: 변광호/邊光鎬、189… 辺 光鎬(ピョン・グァンホ、朝鮮語: 변광호/邊光鎬、1890年 - 1958年5月13日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、教育者、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 本貫は原州辺氏。号は晩軒(マノン、만헌)。 現在の全羅北道群山市出身。現在の中央高等学校、早稲田大学経済科卒。最初の民族資本で作られた京城紡織株式会社の発起人であった。 1921年に群山教育後援会役員、1922年1月に群山庚申倶楽部で設立された庚申商業夜学院経済学科の教授に着任した。1923年6月には群山府に設立された民立大学地方部設立執行委員を務め、同年10月には群山地域で黎明会の研究部役員として活動した。1927年に群山第2公立普通学校期成会準備会規則草案委員、1928年3月に群山府議員資格で群山公設市場改善研究委員を務め、同年5月に群山懇和会の創立に参加し、副評議長を務めた。
太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月… 太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月15日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、日本の弁護士・政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。 旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として福島県で生まれる。日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志し上京、聖学院神学校に入学するが、法律家・政治家に進むことを決意。東京中学卒業時に高等学校受験に失敗し、明治大学法学部を経て、第四高等学校、東京帝国大学法学部英法科を卒業し弁護士となる一方、民族主義運動に傾注。
船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(… 船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(明治22年)12月15日 - 1932年(昭和7年)12月22日)は、日本の声楽家(バリトン)、作曲家、音楽教育者。東京音楽学校声楽科主任教授。新字体で船橋栄吉と表記されることが多い。舟橋栄吉という表記もみられる。姓の読みを「ふなはし」としているものもある。 兵庫県明石市出身。2歳で父を失う。小学校卒業後、家業の旅館を手伝いながら独学し、小学校教員及び中等学校教員免許を取得。また母が長唄をよくしたことから、自身も音楽に関心を持つようになり、特に瀧廉太郎の『荒城の月』『箱根八里』などの唱歌を好んだ。やがて音楽を志して上京、東京帝国大学事務局で給仕として働く傍ら、外山國彦に師事。
山田 善三(やまだ ぜんぞう、1889年(明治22年)12月… 山田 善三(やまだ ぜんぞう、1889年(明治22年)12月5日 - 1947年(昭和22年)11月9日)は、明治末から昭和前期の日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福岡県御原郡御原村(三井郡御原村、小郡町を経て現小郡市)で生まれる。1908年(明治41年)日本体育会体操学校高等本科(現日本体育大学)を卒業した。 福岡県立福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)教諭、同京都高等女学校(現福岡県立京都高等学校)教諭、福岡県立宗像高等実業女学校(現福岡県立宗像中学校・高等学校)長兼教諭、同宗像農学校長兼教諭、福岡県女子専門学校(現福岡女子大学)講師などを歴任した。 その後、福岡県中等学校購買組合専務理事、同県洋服統制組合理事長、同県武具統制組合理事長、同県中等学校制服 (有) 取締役社長、全中制服工業取締役、日本衣料製品統制監事などを務めた。
眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -194… 眞田 範衞(さなだ のりえ、1889年11月15日 -1946年3月15日)は、日本の教育者。旧制灘中学校初代校長。戦後まもない1946年に発疹チフスに感染し、灘校校長在職中に死去した。唱歌や童謡の作詞も行い、灘校の校歌・生徒歌の作詞の他、国定教科書に詩が採用されている。
杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月… 杉山 長谷夫(すぎやま はせお、1889年(明治22年)8月5日 - 1952年(昭和27年)8月25日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者。本名は杉山 直樹(すぎやま なおき)。別名として杉山 長谷雄、杉山 はせをという表記も見られる。 愛知県名古屋市出身。1913年(大正2年)東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケル、ハインリヒ・ヴェルクマイスター、アレクサンドル・モギレフスキーらにヴァイオリンや作曲を師事した。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永、高勇吉、芝盂泰、多忠亮らと室内楽運動を展開。暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えた。
銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 19… 銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 1979年7月22日)は、日本の社会学者、教育者。 1889年、大分県宇佐郡長州町(現宇佐市)に生まれる。1912年、広島高等師範学校国語漢文部を卒業後、和歌山県立粉河中学校の教員を2年間務めた。その後、広島高等師範学校専攻科を経て、1914年に京都帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。1917年に卒業後は京都市役所、大原社会問題研究所、倉敷紡績株式会社に勤め、大学時代に研究した社会問題、労働問題などの実践を行った。1921年、京都帝国大学大学院に入学。西田幾多郎、米田庄太郎の指導を受ける。大学院在学中から佛教専門学校、龍谷大学で社会学関係の講師を務めており、1925年に大学院を退学。
飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 19… 飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 1974年9月6日)は、日本の教育者。川崎市立女子商業学校(後の川崎市立幸高等学校の前身のひとつ)校長、松本商業学校校長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)初代学長などを歴任した。 群馬県に生まれ、前橋中学校に学ぶ。1912年に神戸高等商業学校専攻部を卒業し、1914年には東京高等商業学校(後の一橋大学の前身のひとつ)専攻部銀行科を卒業して、商社に勤務した。 後に、教育界に転じ、大阪市立西区商業学校などを経て、1944年に川崎市立女子商業学校校長となった。その後、東京高商の同窓であった糸魚川祐三郎の要請を受け、1947年に松本商業学校第5代校長となり、戦後の混乱期における学制改革への対処と経営の立て直しにあたった。
澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889… 澤崎 定之(または、沢崎 定之、さわざき さだゆき、1889年(明治22年)5月17日 - 1949年(昭和24年)4月15日)は日本の声楽家、音楽教育者、合唱指揮者、作曲家。日本の洋楽界のパイオニアとして重要な役割を果たした。 和歌山県有田市出身。1912年(明治45年)東京音楽学校声楽科卒。アウグスト・ユンケル、ハンカ・ペツォルトに師事。同年の卒業生には、声楽:中島かね・梁田貞、ピアノ:中山晋平・服部駟郎次、ヴァイオリン:多基永などがいる。 テノール歌手として、日本で最初の四重唱団「澤崎クヮルテット」名義の演奏記録もある(ソプラノ:武岡鶴代、アルト:柳兼子、テノール:澤崎、バス:矢田部勁吉)。
山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月… 山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日… 石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日)は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した。 現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する。 1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる。 1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる。
菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉… 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉4月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現・一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校に入学したのち下折壁高等小学校を卒業。岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての綴方専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。
龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6… 龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6日 - 1986年(昭和61年)7月29日)は、日本の教育者。鹿児島県立大島中学校(旧制)校長、全国公民館協議会会長などを歴任。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民。 1989年、鹿児島県大島郡亀津村(現・徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)、広島高等師範学校卒業。広島高師を卒業後は、福岡県、鹿児島県、広島県、京都府で教職に就く。1924年、35歳で旧制鹿児島県立大島中学校(現・鹿児島県立大島高等学校)の第4代校長となる。学力低下および生徒指導上の問題を抱えていた旧制大島中を、後述の教育方針で再建。
円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治2… 円谷 光衛(圓谷 光衞、つむらや みつえ、1889年(明治22年)2月5日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福島県西白河郡、のちの大信村(現白河市)出身。1909年、福島県師範学校を卒業。小学校訓導、同校長、郡視学、福島県視学、国民学校長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に福島県選挙区から日本自由党所属で出馬し当選。その後、第24回総選挙まで連続3回当選した。この間、経済安定本部嘱託、衆議院文部委員長、日本自由党政調会文教委員長などを歴任した。 その他、西白河郡連合青年団長、日本教育会福島県支部長、福島県教育会理事長を務めた。
長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、… 長沢 英一郎(ながさわ えいいちろう、正字体:長澤 英一郎、1889年1月30日 - 1965年11月5日)は、大正から昭和の日本の英語学者、英米文学者、教育者、翻訳家。学習院教授、東京学芸大学教授、実践女子大学英文科長、立教大学文学部教授、川村短期大学教授。 1889年(明治22年)生まれ。群馬県出身。 1913年(大正2年)、立教大学文科(現・文学部)を卒業したのち、1916年(大正5年)に東京帝国大学英文学科を卒業した。東京帝国大学の同級には芥川龍之介、久米正雄らがいた。 大学を卒業後、東北学院に務めると、1919年(大正8年)に学習院に転じて、1922年(大正11年)に教授となる。1949年(昭和24年)に学習院を退職。
岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - … 岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - 1978年4月20日)は日本の牧師、教育者である。めぐみ教会(現大森めぐみ教会)を創設し、めぐみ幼稚園、めぐみ高等女学校を設立した。幼稚園、教会学校の働きを重視した宗教教育、「教育的伝道」に力を入れ、日本の日曜学校(教会学校)教育及びキリスト教幼児教育の草分け的存在となった。牧師、伝道者の木村清松は実兄。神学者で牧師の岩村信二は二男。 1889年(明治22年)に新潟県中蒲原郡五泉町(現五泉市)にて父木村定之十、母チウの9人兄弟の末弟として生まれる。家業は糀屋。五泉の小学校と高等小学校を卒業、兄木村清松の招きにより青山学院中学部2年に編入する。
石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は… 石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は、日本の地質学者、教育者。 熊本県生まれ。東京帝国大学卒業後、1925年に旧制富山高校に赴任する。 富山では、恩師である山崎直方が発見した立山の山崎カール(石井が命名)の調査を続け、1943年に発表した論文「立山連峰の氷河作用‐特に山崎圏谷に就いて」により、1945年に氷河地形としては初めて国の天然記念物に指定させる契機を作った。1947年、富山市立芝園中学校の初代校長に就任。また、同年行われた昭和天皇の北陸巡幸の際には進講役を務めた。 1955年8月、立山剱沢の調査を行っている最中、誤ってクレバスから滝へ転落して死亡。同年11月、功績を評価されて富山県文化賞文化特別感謝状を授与された。
洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12… 洲崎 義郎(すのさき よしろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1974年(昭和49年)4月1日)は、日本の政治家、教育家である。柏崎市長を務めた。 新潟県にて大地主の家系だった洲崎伝吾の長男として生まれる。早稲田大学卒業後の1918年(大正7年)に同県比角村の村長を務め、その傍らで比角小学校(現在の柏崎市立比角小学校)の青年教師として自由教育の奨励に携わった。また洋画家の中村彝や苦学生の援助にも携わり、新潟県の青年団副団長や柏崎体育連盟の会長、新潟県体育協会の副会長を歴任する。第二次世界大戦直後には戦時中の青年団活動を反省したことで世界平和運動に参加し、1951年(昭和26年)には柏崎市長に就任した。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月… 児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月15日 - 1989年(平成元年)12月15日)は、日本の教育者。学校法人明星学苑創立者。 静岡県田方郡中郷村(現・三島市)出身。1911年第四高等学校卒業。1914年東京帝国大学文科大学卒業。1915年同大学大学院修了。 その後、名教中学校教諭 成蹊実務学校教諭、1917年同主事となる。1920年から1925年まで成蹊中学校校長を務める傍ら、1922年に明星実務学校創立に参画し、1923年同理事に就任する。1924年から翌年まで成蹊小学校校長も兼任した。1925年欧米教育視察のため学校法人成蹊学園を退職し、1926年明星実務学校校長となる。
徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後… 徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後没)は、日本、満洲国の教育者。 徳重義一の五男として、福岡県に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館を経て、1912年東京高等商業学校専攻部貿易科を卒業。 1913年大阪市立大阪甲種商業学校教諭兼大阪高等商業学校講師となり、山口高等商業学校教授を経て、満洲国立大学哈爾濱学院教授に就任。1942年12月大連高等商業学校校長に就任。
前田 若尾(まえだ わかお、1888年10月21日 - 19… 前田 若尾(まえだ わかお、1888年10月21日 - 1947年10月6日)は、女子教育者。平塚裁縫女学校(現:洗足学園音楽大学)創立者。大日本婦人会本部理事、婦人同志会幹事長、日本婦人団体連盟副会長、少年保護婦人協会理事、文部省刷新委員会委員。 高知県土佐郡潮江村(現・高知市)の高知藩士の士族の家に生まれる。1917年東京裁縫女学校卒業。錦秋女学校の教員を務めた後、青山女学院の教員となる。エディンバラ宣教会議が女子教育機関設立を決議し、東京女子大学を設立したため、青山女学院が廃止される。恵まれない下層の女工に奉仕するため、日本絹撚会社に就職するも関東大震災で壊滅。 1923年10月3日に裁縫塾を開き、1924年5月3日平塚裁縫女学校(現:洗足学園音楽大学)の設立認可。
足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉… 足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉9月19日 - 1945年〈昭和20年〉1月5日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・田口。 茨城県で田口贇郎の五男として生まれ、1906年(明治39年)12月、足立正声の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)5月13日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)東京農業大学を卒業。1920年(大正9年)宮内属に就任。その後、東京農業大学助手、同講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7… 川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7月13日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭となり、のち東京聾唖学校長、国立ろう教育学校長兼附属ろう学校長、東京教育大学国府台分校主事を歴任した。昭和初期のろう教育において、手話を否定し純粋口話法による教育を推進した人物のひとりである(同じ時期に口話法を推進した人物として、西川吉之助、橋村徳一らがいる)。また、近代日本での教育として、「教育の社会化と社会の教育化」論を展開した。
平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)… 平川 仲五郎(ひらかわ なかごろう、1888年(明治21年)7月10日 - 1987年(昭和62年)5月30日)は、教育者。東京物理学校(現在の東京理科大学)の第5代校長。東京理科大学第2代理事長。 静岡県出身。1908年(明治41年)、東京物理学校(のちの東京理科大学)全科卒業。1913年(大正2年)東北帝国大学理科大学特待学生選定。1915年(大正4年)東北帝国大学理科大学数学科卒業、東北学院勤務。1919年(大正8年)日本大学中学校講師。1921年(大正10年)東京慈恵会医科大学予科教授。1945年(昭和20年)東京物理学校第5代校長就任。1951年(昭和26年)理窓会理事長就任。1953年(昭和28年)東京理科大学2代理事長就任。
曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月… 曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月16日 - 1968年(昭和43年)1月21日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、大阪府南河内郡高向村長。 大阪府錦部郡、のちの高向村(南河内郡高向村を経て現河内長野市)で生まれる。 小学校代用教員となる。以後、同訓導、市立堺女子手芸学校教諭、府立大阪医科大学書記、滝畑尋常高等小学校長などを歴任。 大阪府会議員に選出され、高向村長も務めた。河陽新報を創刊し経営を行った。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、立憲政友会公認)で当選し、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に1期在任した。戦後に公職追放となった。
黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月1… 黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月12日 - 1967年〈昭和42年〉2月9日)は、日本の教育者。横浜中学校・高等学校創立者。青森県今別町名誉町民。位階は従四位。 青森県東津軽郡一本木村(現今別町)奥平部で旧弘前藩士の黒土形衛の二男として生まれた。父は維新後に始めた商売に失敗し、津軽半島北端の地に移り海藻を採るなどして生計を立てた。12歳で父と死別し、翌年に青森地方裁判所の給仕となった。その後、進学するために弘前にある寺の住職を務めていた伯父の養子となり、東奥義塾に入学した。1908年(明治41年)に東奥義塾を卒業して東京高等師範学校博物学科に進み、1912年(明治45年)に卒業した。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)… 橋本 綱太郎(はしもと つなたろう、1888年(明治21年)5月12日 - 1942年(昭和17年)10月13日)は、日本の教育者、文部官僚。 福井県足羽郡東郷村(現在の福井市)出身。1911年(明治44年)に盛岡高等農林学校農学科を卒業。宮城県立農学校教諭、同農事試験場技手、福井県今立郡立農学校教諭、盛岡高等農林学校助教授などを歴任。その後高等文官試験に合格し、福岡県鞍手郡長、同糸島郡長、同事務官を務めた。1928年(昭和3年)に文部事務官に移り、大臣官房会計課勤務、専門学務局勤務などを経て、1934年(昭和9年)に文部書記官・宗教局宗務課長に就任した。1937年(昭和12年)からは東京聾唖学校校長を務めた。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
石原 雅二郎(いしはら つねじろう、1888年(明治21年)… 石原 雅二郎(いしはら つねじろう、1888年(明治21年)3月6日 - 1946年(昭和21年)11月8日)は、日本の内務・警察官僚、政治家、教育者。官選県知事、津市長、中央大学教授。 福岡県企救郡小倉町紺屋町(現北九州市小倉北区)で石原雅広の二男として生まれる。1906年、福岡県立中学修猷館、1910年7月、第一高等学校独法科を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し京都府属となる。 1915年9月、東京府属兼内務属となる。以後、栃木県理事官、特殊財産管理局事務官・第二課長、警保局図書課長、同外事課長、兼同保安課長、警察講習所教授兼内務書記官、社会局社会部長、同保険部長などを歴任。
向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6… 向井 鹿松(むかい しかまつ 1888年〈明治21年〉3月6日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の商業学者・経営学者・経済学者、教育者。 1888年、愛媛県西宇和郡四ツ浜村(現伊方町)に生まれる。向井孫一の長男。1909年、慶應義塾大学部理財科予科に入学。卒業後は同大学部の助手、商工学校と予科で兼任講師を務めた。 1919年から1922年に欧米へ海外留学を行い、経営学を学ぶ。帰国後は、慶應義塾大学教授に就任して商事経営、商業政策、取引所論、経営経済学、貨幣銀行論、金融論特殊問題の講義を担当した。 1937年に慶應義塾大学を退職し、名古屋商工会議所に移る。第二次世界大戦後の一時期は中央官庁に入り、物価庁で部長職を勤めた。
沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 … 沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 - 1950年(昭和25年)10月16日)は、大正から昭和前期の政治家、教育者、華族。貴族院男爵議員。 本籍・神奈川県。内務官僚・沖守固の庶子として生まれる。父の死去に伴い、1912年(大正元年)11月11日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)4月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1924年(大正13年)帝都復興院嘱託となる。その後、復興局整地部事務嘱託、三峯住宅監査役、中野高等無線電信学校長などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任。さらに、1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 194… 浅野 孝之(あさの たかゆき、1888年2月3日 - 1948年7月25日)は、日本の教育者、浄土真宗僧侶、旧制成蹊高等学校初代校長。旧制姫路高等学校校長、第七高等学校造士館校長、山口経済専門学校校長等も歴任した。 愛媛県越智郡小西村(後の大西町、現今治市の一部)大字脇生まれ。同地の明専寺(浄土真宗)住職であった浅野聖諦の長男。旧制松山中学校(愛媛県立松山東高等学校の前身)を1907年に卒業後、第一高等学校を経て、1914年7月に東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)哲学科を卒業。1914年12月7日、文部省教育調査会嘱託となる。1917年5月、アメリカ領ハワイ(布哇)における通俗教育に関する状況調査を嘱託され、またホノルル市にある布哇中学校と布哇高等女学校の教諭に任命される。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 19… 古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 1974年11月16日)は、日本の教育者。青山学院大学学長、青山学院院長・理事長。
塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - … 佐藤 重遠(さとう じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日)は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員(4期)。研心学園(現・目白研心中学校・高等学校)設立。政治家として、また教育者として近代日本における私学教育の振興に大きく寄与。 父・米四郎、母・カクの長男として宮崎県東臼杵郡南方村(現・延岡市中三輪町)で生まれ、傳次郎と名付けられる。父は渡し守を生業としており、赤貧の中で苦学をして延岡中学校から一高、東京帝大と進学した。1910年に家督を相続し、重遠と改名。妻は内務大臣などを歴任した床次竹二郎の二女・フユ。
池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)… 池村 平太郎(いけむら へいたろう、1887年(明治20年)12月16日 - 1954年(昭和29年)12月17日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、旧制中学校長。 三重県安濃郡野田村(神戸村を経て現津市野田)で、池村浅次郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)3月、三重県師範学校を卒業。小学校訓導を務め、1909年(明治42年)12月、文部省教員検定試験で博物科に合格した。 1912年(明治45年)3月、三重県の伊賀実科高等女学校教諭に就任。以後、福岡県立柳河高等女学校教諭、福岡県立若松中学校教諭、福岡県師範学校教諭、和歌山県立海南中学校教諭を歴任。 1925年(大正14年)3月、和歌山県立日高高等女学校長に就任した。
松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1… 松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1日 - 1968年(昭和43年)7月30日)は、熊本県出身の日本の農業研究者・教育者・著述家である。 農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。
徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21… 徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21日 - 1973年(昭和48年)1月11日、女性)は、日本の幼児教育者、社会事業家。 保育園の源流のひとつとされる二葉幼稚園(のちに二葉保育園と改称)の保母、園長、理事長として幼児教育・社会福祉に貢献し、女性初の名誉都民となった。 「二葉の大黒柱」(野口幽香による評)として幼児教育に携わる傍ら、小学部、少年少女クラブ、日曜学校、夜間診療部、廉売部、五銭食堂、母子寮等を通じて、底辺社会の人々のために尽力した。 恕は、東京府立第二高等女学校4年のとき、友人の看病で出席日数が足りなくなったために、落第している。このとき、新たに加わったクラスに山川菊栄がいた。
木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 19… 木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 1969年10月30日)は、日本の歴史学者、教育家。 静岡県浜名郡入野村(現・浜松市中央区)に、龍雲寺 (浜松市)の二男として生まれる。1913年、東京帝国大学文科大学史学科国史学専修を卒業し、1915年に「足利時代ノ文化」の研究のため、京都帝国大学大学院に入学。1920年山形高等学校教授、1923年水戸高等学校教授、1927年静岡高等学校教授となり、1946年同校長事務取扱を最後に退官し、静岡に静岡女子高等学院(のち学校法人常葉大学)を創立。1959年同理事長となり、1966年常葉女子短期大学を設立し、学長を務めた。日中関係史の研究で知られる。
天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25… 天野 藤男(あまの ふじお、1887年(明治20年)9月25日 - 1921年(大正10年)10月10日)は、日本の社会事業家、教育者。処女会創設者。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡庵原村(現・静岡市)に生まれる。1907年(明治40年)、静岡県立静岡中学校卒業。庵原小学校の代用教員を務める。宮内省に出仕していた漢詩人国府種徳(犀東)に才能を認められて内務省嘱託となり、同省の地方局に勤務。青年団や処女会の指導に当たり、1918年(大正7年)、処女会中央部を結成して雑誌「処女の友」や「青年団及び処女会」「大正新処女読本」などを発行・編集。 また、映画「都に憧れて」(監督:金森萬象)を製作し好評を博すなど、処女会の普及・発展に大きく貢献した。
稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月2… 稗方 弘毅(ひえかた こうき、1887年(明治20年)9月20日 - 1973年(昭和48年)3月8日)は、日本の内務官僚、教育者。官選秋田県知事。 熊本県下益城郡海東村南海東小園に、海東村長・稗方惟一の長男として生まれる。熊本県立中学済々黌、第五高等学校を経て、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し熊本県属となる。以後、大正4年(1915年)に山口県警視、大正6年(1917年)に山口県佐波郡長、大正7年(1918年)に宮城県理事官、大正10年(1921年)に福岡県理事官から内務省に異動し国勢院書記官となり、大正13年(1924年)11月に山梨県書記官・内務部長となり、その後、神奈川書記官・内務部長などを歴任。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。