郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 197… 沢村 五郎(さわむら ごろう、1887年6月9日 - 1977年6月5日)は日本の牧師、神学教育者。関西聖書神学校創設者。 1887年6月9日 熊本県飽託郡城山村(現在の熊本市西区)に生まれる。熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)卒業後、正教会伝道学校で学び、同教会の伝道師になる。1916年9月、日本伝道隊聖書学校に入学。バークレー・バックストン、パゼット・ウィルクスに師事した。 1922年、渡英。エディンバラ聖書学校に学ぶ。 1924年、日本伝道隊の要請により神戸御影に聖書学舎(現在の関西聖書神学校)を設立、校長になる。 1941年日本基督教団の成立の際には第7部の牧師になり、第7部の参与(代表)に選出されたが、第二次世界大戦後に日本基督教団を離脱。
赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 197… 赤井 米吉(あかい よねきち、1887年6月1日 - 1974年2月26日)は、日本の教育者。 石川県金沢市出身。広島高等師範学校(現・広島大学)卒。旧姓は山本。ヘレン・パーカーストによるドルトン・プランを紹介。1924年に明星学園、1946年金沢女子専門学園(現・学校法人金沢学院大学)を創立した。 1974年2月26日、消化管出血のため東京都武蔵野市の森本病院にて死去。86歳。 1887年(明治20年)、石川県石川郡野村字法島(現在の金沢市)で三男として生まれる。 1893年(明治26年)、野南尋常小学校に入学。1897年(明治30年)、同校卒。同時に石川県尋常師範学校付属小学校高等科に入学。
丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 196… 丸山 千代(まるやま ちよ、1887年5月28日 - 1967年4月11日)は、日本の聾唖教育者、社会事業家、ソーシャルワークの実践者。丸山ちよと表記されることがある。 山形県米沢市で、丸山孝一郎の四女として生まれる。姉と妹が聾唖者であったことから聾唖教育を志し、山形県立米沢女学校(現在の山形県立米沢東高等学校)を経て日本女子大学校に進学した。1909年3月に同校を卒業した後は、教職に就くも病気のため郷里に戻った。その後、父親の死を契機に上京する。日本女子大学校の同窓会組織である桜楓会が運営を模索していた託児所経営に、1913年から主任保母として参加し、貧しい婦人の労働機会を確保するとともにその子弟が教育を受ける機会を広げた。
高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 196… 高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日… 塩田 せつ(しおだ せつ、1887年(明治20年)3月29日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、日本の教育者である。旧姓は飯田。 千葉県印旛郡木下町(現在の印西市)に生まれ、千葉女子師範学校(現在の千葉大学教育学部・大学院教育学研究科)に入学する。1904年(明治37年)に卒業後は、成田尋常小学校(現在の成田市立成田小学校)で教鞭を執り以後千葉県内の小学校および師範学校の教師として活動した。1909年(明治42年)に水産学校の講師として活動した塩田文隣と結婚したことにより、夫の勤務地であった宮城県宮古市を経て岩手県、北海道内の学校に転勤する。 1919年(大正8年)に夫が死去したことにより、帰郷し布鎌尋常小学校(現在の栄町立布鎌小学校)にて訓導にあたった。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - … 稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年))は、教育者、書道家。現在の岡山県井原市出身。 1887年(明治20年)、稲本陽州の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する。 1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県の朝倉実科高等女学校に教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父・陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳で死去した。
杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、… 杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、日本の建築家、教育者、実業家である。
高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2… 高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2月13日)は、日本の神学者、教育者、聖職者。立教大学教授、大学チャプレン(牧師)、立教学院理事。ギリシア語の権威で語学の天才と呼ばれた。 立教大学文科(現在の文学部)を1回生として1911年(明治44年)に卒業した。小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級であった。 その後、聖公会神学院を経て渡米し、ケンブリッジ神学院、ハーバード大学神学部で学び神学博士(DD)を取得した。ギリシア語も修学する。 帰国後、京都聖マリア教会の牧師を務める。高松は立教学院のミッションでは1909年に伝道部主任、1910年には日曜学校部を担当する。
青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 -… 青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 - 1938年1月17日)は、日本の華族(子爵)、教育家。青山家当主。 篠山藩藩主青山忠良の子である青山忠惇の二男として1886年(明治19年)に生まれる。はじめは「惇揚」と名乗った。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。佐賀県立鹿島中学校、私立大倉商業学校、奈良県立高田高等女学校、長野県立上田高等女学校などで教鞭を執った。1934年(昭和9年)に旧丹波篠山藩主・青山家を継ぎ、名を「忠揚」と改め、郷土の育英に尽力した。1935年(昭和10年)に襲爵し、子爵となった。
阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3… 阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3日 - 1980年(昭和55年)3月1日)は、日本の牧師・教育者。青山学院第6代院長。 日本メソジスト教会の初代監督の本多庸一は伯父。 弘前市に生まれる。母親は本多庸一の妹で、中田重治の近所に住んでいた。阿部の母親は、暴れん坊だった6,7歳頃の中田少年によく水をかけられていた。1901年(明治34年)8月中田重治が聖書学校の修養生たちで大伝道団を編成して、弘前で伝道集会をした時に、中田の説教を聴いて入信を決意する。 1905年(明治38年)、青森県立第一中学校を卒業する。1912年、青山学院高等科、および青山学院神学部を卒業する。その後、アメリカとカナダに留学する。
小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月… 小野 秀太郎(おの ひでたろう、1886年〈明治19年〉9月20日 - 没年不詳)は、明治時代の日本の官吏、ジャーナリスト、教育者。台湾総督府郵便電信書記官、朝日新聞社外報部記者、台湾銀行通信員、スタンダード・オイル通信員、立教大学教授。英文通信の権威として知られ、教育者として商業英語を教えた。 茨城県西茨城郡、のちの南川根村で小野祐太郎の長男として生まれた。 1897年(明治30年)10月まで、台湾総督府郵便電信書記官を務める。 東京英語専修学校(現・立教大学)卒業。 その後、朝日新聞社に入り、外報部記者を務めた。そのほか、日本における英文通信の権威として、台湾銀行や米国のスタンダード・オイル社の東洋通信員を務めた。
山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26… 山川 黙(やまかわ しずか、1886年〈明治19年〉7月26日 - 1966年〈昭和41年〉2月21日)は、日本の教育者、登山家。旧姓は河田。武田久吉らと日本博物学同志会に参加し、日本山岳会の創始者のひとり。慶応義塾大学教授、旧制武蔵高等学校校長などを務めた。夫人は明治天皇、昭憲皇太后の女官で権掌侍の三千子(子爵久世通章の長女)。 1886年(明治19年)7月26日、東京府四谷区四谷信濃町に生まれる。父は東京市助役を務めた河田烋(かわだ きょう)で、兄は河田烈(かわだ いさお)である。1904年(明治37年)、東京府立第一中学校を卒業する。1905年(明治38年)、日本山岳会の創立発起人となる。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 … 中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年)7月8日 - 1931年(昭和6年)11月27日)は日本の作曲家、オルガニスト 、教育者。代表曲は「早春賦」であり、「日本の歌百選」に選ばれている。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京都出身で高嶺秀夫の奨めによって東京音楽学校に進み、甲種師範科および研究科卒業。東京音楽学校教授として音楽理論、オルガンを教えた。 また、大韓帝国皇太子に唱歌を教授する。1929年、大礼記念章を受章。父は旧会津藩士。妻は奥村土牛の従姉で、作曲家の中田一次は次男、中田喜直は三男。会津会会員。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5… 笹森 順造(ささもり じゅんぞう、1886年〈明治19年〉5月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月13日)は、日本の政治家、教育者、剣道家。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は政治学士、剣道範士。東奥義塾塾長、青山学院院長、衆議院議員(4期)、参議院議員(3期)、復員庁総裁、賠償庁長官、全日本剣道連盟最高顧問などを歴任した。 青森県中津軽郡弘前町弘前若党町(現:弘前市若党町)に旧弘前藩藩士・笹森要蔵の六男として誕生。8歳で北辰堂道場に入門し、小野派一刀流剣術を学ぶ。14歳のときキリスト教の洗礼を受ける。 1910年、早稲田大学政治経済科を卒業後、雑誌『新公論』記者を経て1912年に渡米し、コロラド州デンバー大学大学院を修了。
隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 195… 隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 1957年12月23日)は、日本の教育者。 隈部忠記の長男として熊本県菊池郡隈府町(現・菊池市)に生まれる。1909年第五高等学校文科を経て、1913年東京帝国大学文科大学西洋史学科を卒業。 鹿児島県立志布志中学校校長、山梨県立日川中学校校長、山梨県立甲府中学校校長、1937年8月福岡県中学修猷館校長、1941年5月京都府立京都第一中学校校長を歴任する。1946年4月京都府立京都第一中学校校長を退任。 1947年4月、学制改革により新制甲南中学校が開校すると、その初代校長に就任。翌1948年4月、新制甲南高等学校が開校すると、その校長も兼務した。
中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4… 中村 柳一(なかむら りゅういち、1886年(明治19年)4月26日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の教諭、日本語(国語)の教育者、研究者。日本語方言の開合研究の黎明期に、日本統治下の台湾に勤務した時の経験から、初めて越後方言の開合音(アウ・オウの別)について報告した。 明治19年(1886年)に新潟県刈羽郡高田村堀(現柏崎市堀)に生まれた。明治40年(1907年)に高田師範学校を卒業し、同年に小学校教員免許を取得し、同校の訓導を務めた。後に新潟県の大貫尋常小学校、富山県立魚津中学校で教職を歴任した。 大正6年(1917年)には台湾総督府国語学校に助教授として赴任し、国語(日本語)教育に従事した後、台北女子高等学校普通学校に教諭を担任した。
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 19… 赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は、日本の教育者。号は王郎。 王郎の正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。 長野県上伊那郡東春近村(現伊那市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、東京美術学校学校図案課を卒業後、長野県学務課に勤務。1910年に自殺未遂を起こし、翌年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員となり、諏訪郡玉川小学校に転任。この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月… 湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日 – 1941年(昭和16年)5月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長などを務めた。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した。
大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1… 大和田 愛羅(おおわだ あいら、1886年3月24日 - 1962年8月11日)は、日本の音楽家、声楽家、教育家。 東京府東京市牛込区牛込下宮比町(現在の東京都新宿区下宮比町)で医師の長男として生まれる。父親が若くして亡くなったため新潟県村上市の祖父のもとで育てられ、新潟師範学校付属小学校、新潟県中学校を経て東京音楽学校声楽科に入学。卒業後は東京府立女子師範学校、東京府立第二高等女学校の教諭となる。1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員を務めている。 第二次世界大戦後は上野学園大学の教授に就任。明治大学、東京慈恵会医科大学、国立音楽学校、東洋音楽学校などでも学生の指導にあたった。 第二次世界大戦以前の童謡や学校唱歌を多数作曲したほか、新潟県内を中心に学校校歌の作曲を手掛けた。
小松 謙助(こまつ けんすけ、1886年(明治19年)2月2… 小松 謙助(こまつ けんすけ、1886年(明治19年)2月2日 - 1962年(昭和37年)1月28日)は、新聞記者出身の社会教育先駆者、教育者。わが国社会教育運動の黎明期に独自の境地を拓いた。財団法人社会教育協会(現:公益財団法人)、学校法人白梅学園創立者。 福島県二本松市で商家を営む小松直弼、悦(いつ)の四男として生まれる。小学校卒業後、見習奉公に出されるが、軍人を志し家出。海軍を受験するも叶わず、試験官に東北学院を紹介される。1901年、普通科に入学。学院では労働会寄宿舎に入り学資を弁じる一方、院長デービー・シュネーダーの薫陶をうけキリスト教の信仰に導かれた。3年生の頃、「平民新聞」で論陣を張っていた幸徳秋水の非戦論に共鳴、さらに木下尚江の社会主義に傾倒するようになる。
堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 19… 堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 1968年2月16日)は、日本の物理化学者ならびに教育者である。京都府生まれ。堀場製作所の創業者である堀場雅夫の父である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、… 廖 天祥(りょう てんしょう、1886年 - 没年不詳)は、中国の英語学者、教育者。国立成都大学(現・四川大学)外国語学部長、英文学科教授、四川大学英語学部教授。 1886年生まれ。華陽県(現・四川省成都市)出身。留学で日本へ渡り、1916年(大正5年)、立教大学文学部を卒業。中国の政治家で嶺南画派の創始者の一人でもある陳樹人とは大学の同級である。 国立成都大学(現・四川大学)の外国語学部英語(英文)学科教授として、英語、英文学の授業を担い、学部長も務めた。日本へ留学した天祥のほか、当時の教師の顔ぶれは豪華で、多くが海外留学を経験した帰国子女の四川省人であった。中国文学の教授はフランス留学した著名な作家の李潔仁と歴史家の孟文通が務め、フランス語の教授はパリ大学で哲学博士号を取得した鄧孟徳が務めた。
河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - … 河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。
林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日… 林 芋村(はやし うそん、1886年 - 1929年4月3日)は、長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)出身の教育者。本名は林 芳弥(はやし よしや)。 1886年(明治19年)長野県下伊那郡千代村荻坪(現・飯田市)に生まれた。父は芳平、母はとみ。四男だった。千代村立千代尋常小学校(現・飯田市立千代小学校)、農工補習学校を卒業し、徴兵検査で甲種合格となったことで近衛兵として入隊した。除隊後には役場の吏員として働いていたが、1915年(大正4年)28歳の時に波合村の尋常小学校(現・平谷村立平谷小学校)で代用教員となった。1922年(大正11年)12月、尋常科正教員資格を取得。平谷湖の近くに住み、年老いた母親や子どもとともに暮らした。
門脇 誠一郎(かどわき せいいちろう 1886年(明治19年… 門脇 誠一郎(かどわき せいいちろう 1886年(明治19年) - 1947年(昭和22年)2月11日)は、日本の柔道家、教育者。維新政府の教部大丞門脇重綾は母方の祖父。 鳥取県西伯郡渡村(現・境港市渡町)に父・直衛、母・ゆきの長男として生まれた。生家は米屋を営み繁盛していたが、誠一郎が生まれた頃より家運が少しずつ傾きはじめ、小学校に入学する頃には使用人もすっかり居なくなってしまった。このためよく家業の手伝いをさせられ、米俵を担いで配達して廻ったという。米屋に失敗した父直衛は渡紱緞工場をはじめたが、これも成功せず一家を挙げて米子の灘町に居を移した。 1903年鳥取県立第二中学校(現米子東高校)に入学したが家庭の事情で三年で退学、柔道を志して上京する。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)… 田中 正太郎(たなか しょうたろう、1885年(明治18年)11月23日 - 1965年(昭和40年)1月17日)は、大正から昭和時代の政治家、教育者、実業家。北海道勇払郡苫小牧町長、初代苫小牧市長。 札幌県新冠郡(現・北海道新冠郡新冠町)にて生まれ、1893年(明治26年)苫小牧へ移り住む。苫小牧尋常高等小学校(現・苫小牧市立西小学校)を経て、1908年(明治41年)北海道師範学校第1部(現・北海道教育大学札幌校)卒業。卒業後、直ちに母校の苫小牧尋常高等小学校の訓導となり、その後、1918年(大正7年)苫小牧東尋常小学校(現・苫小牧市立東小学校)訓導兼校長を経て、1921年(大正10年)苫小牧東尋常高等小学校の校長に就任する。
片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 19… 片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日 - 1958年10月16日)は、日本の実業家、教育者。 片倉製絲紡績株式會社取締役、伊勢萬吳服店株式會社取締役、日東紡績株式會社取締役、東部電力株式會社取締役、富國火災海上保險株式會社取締役、諏訪生絲副產株式會社取締役、備作製絲株式會社監査役、郡山商工會議所副会頭(初代)、片倉生命保險株式會社社長、学校法人松本松南高等学校理事長(第3代)などを歴任した。 長野県出身の実業家である。製糸業や金融業などで活躍し、片倉製絲紡績など多くの企業の経営に参画した。富國火災海上保險では取締役となり、片倉生命保險では社長に就任している。そのほかにも郡山商工會議所の副会頭など公的団体の役職や、松本松南高等学校を運営する学校法人の理事長などを歴任した。
久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 -… 久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者、教育者。東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授 1885年(明治18年)11月3日生まれ。千葉県出身。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる。 1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエ(ノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事。
白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年… 白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年11月3日 - 1967年6月28日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は水原白氏。号は解慍、初名は白南勛、児名は長孫。キリスト教徒。 黄海道殷栗郡出身。19歳の時に長連公立小学校を卒業。20歳でキリスト教に入信した。1905年、長連イエス教会が設立した光進学校の教員となり、金九、蔡元瑢と共に長連郡学務委員を務め、海西教育総会の結成にも関与した。その後は儆新学校と普成学校の聴講生を経て、1913年に明治学院、1917年に早稲田大学政経科をそれぞれ卒業した。在学中に学生運動、独立運動に参加し、特に1919年の二・八独立運動を幕後で実務を担当した。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - … 梁田 貞(やなだ ただし(てい))、1885年7月3日 - 1959年5月9日)は教育者、作曲家。北海道札幌市出身。
田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月… 黒澤 酉蔵(くろさわ とりぞう、1885年(明治18年)3月28日 - 1982年(昭和57年)2月6日)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家。衆議院議員。北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業、現在の雪印メグミルク)創業者、北海道酪農義塾(現在の酪農学園大学)設立者。日本の酪農業の発展と北海道開発に功績を残し、日本酪農の父、北海道開発の父と呼ばれる。 1885年(明治18年)3月28日、茨城県久慈郡世矢村小目(現:常陸太田市小目町)で貧しい農家の四人兄弟の長男として生まれる。父母の家ともかっては相当な資産家であったが、黒澤の代には零落しており、又、父による過度の飲酒がもとで負債をつくり、家計は常に苦しかった。
上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月… 上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月30日)は、日本の教育者、文部官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業。農商務省嘱託、文部属、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任し、その間東京高等師範学校教授を兼ねた。1921年(大正10年)、三重高等農林学校校長に就任し、1939年(昭和14年)には東京農業教育専門学校校長となった。戦後の1946年(昭和21年)から霞ヶ浦農科大学学長を務めた。 その他、日本農業教育会会長、大日本教育会副会長、全国学農連盟副会長、実業教育振興会理事長、日本青年館理事などを務めた。
小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月… 小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月14日 - 1966年〈昭和41年〉2月3日)は、明治 - 昭和期の日本の作曲家・教育家・評論家。秋田県由利郡舘合村(後の玉米村→東由利村→東由利町舘合、現在の由利本荘市東由利舘合)出身。東京音楽学校卒業。号は玉巌(ぎょくがん)。 1901年に上京して東京音楽学校選科に入学。1903年に同校本科に進み、ヴァイオリンを幸田延、ピアノと作曲をヘルマン・ハイドリヒ、和声法をノエル・ペリーに師事。1906年に東京キリスト教青年会会館で歌劇「羽衣」を初演。同年、同校を卒業し、研究科でアウグスト・ユンケルに声楽を師事。学習院講師。1920年に渡仏。
石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11… 石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11日 - 1960年10月31日)は、明治・大正・昭和時代の日本の教育者。 新潟県三島郡与板町岩方(現長岡市)出身。三島郡立与板高等小学校(現長岡市立与板小学校)を経て1906年新潟師範学校卒業後、小学校教諭となり新潟県内各校に赴任した。 1922年、開校して間もない新潟市立万代尋常小学校(現新潟市立万代長嶺小学校)校長に就任した。学習以前の問題が根深く存在していた当時の同校に於いて、7年間にわたって能力別編成による授業などの「万代教育」といわれる教育活動に取り組み、大正期の新教育実践者として知られた。その後は現在の新潟市立沼垂小学校、新潟市立白山小学校校長を務めた。
日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月3… 天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年〈明治17年〉9月30日 - 1980年〈昭和55年〉3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。甲南高等学校校長。 第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨逸学協会学校を母体として創立された獨協大学の初代学長を務めた。文化功労者。武蔵野市名誉市民。 1884年、神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身。父・天野藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になることを嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。