長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、… 長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、青森県青森市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者、解説者。
職業が解説者:316人
長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、… 長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、青森県青森市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者、解説者。
柴田 保光(しばた やすみつ、1957年8月20日 - 20… 柴田 保光(しばた やすみつ、1957年8月20日 - 2022年10月9日)は、長崎県島原市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 平成初のノーヒットノーランを達成している。 中学卒業後は進学せず就職する予定であったが、入社試験に落ちたので島原農業高への進学を決めた。 島原農業高に進学後は柔道部に入部したが、毎日のように投げられてばかりで嫌になった。顧問の先生に「退部させてください」と申し出たところ、「他の運動部に入るなら、許してやる」と返され、そこで、たまたま近所の先輩が所属していた軟式野球部を選んだ。当時の同校には硬式野球部がなかったため軟式野球部に所属し、本格的に野球を始めたのは高校時代からとなった。
高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )… 高橋 慶彦(たかはし よしひこ、1957年3月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者・解説者・評論家。現在のマネジメント契約は日本電波制作社。Youtube「よしひこチャンネル」の運営・制作は株式会社A Holdings。娘は声優・モデルの高橋雛子。 NPBにおける連続試合安打記録保持者(33試合)。 1957年、北海道芦別市にあった旧三井鉱山の炭坑街で生まれた。父・慶喜は宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)出身で、実業団のクロスカントリースキー選手であった。現役時代は全日本スキー選手権大会で入賞歴もある。慶喜の芝浦工業大学スキー部監督就任に伴い、4歳の時に東京都清瀬市に移り住んだ。
高橋 三千丈(たかはし みちたけ、1956年11月10日 -… 高橋 三千丈(たかはし みちたけ、1956年11月10日 - )は、静岡県熱海市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。2016年からは名古屋産業大学硬式野球部の監督を務める。
秋元 正博(あきもと まさひろ、1956年〈昭和31年〉9月… 秋元 正博(あきもと まさひろ、1956年〈昭和31年〉9月3日 - )は、日本のスキージャンプ解説者、元会社役員、元スキージャンプ競技選手。北海道札幌市出身。北海道岩見沢緑陵高等学校、明治大学政治経済学部卒。現役時代は地崎工業(現岩田地崎建設)に所属。2007年時点では、旭川市内の企業・ノースプランの専務取締役を務めていた。 1970年代後半より1980年代中盤にかけて、八木弘和とともに日本スキージャンプチームの中心選手として活躍した。また、スキージャンプ・ワールドカップでは国内開催以外での日本勢初勝利も含め4勝しているが、うち2勝はマッチ・ニッカネンなど海外のトップ選手も出場した中でのものであるため当時としては非常に価値が高い物となっている。
角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉… 角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉、1956年〈昭和31年〉6月26日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ、解説者・評論家、タレント。パシフィックボイス所属。 1978年から1987年の登録名は角 三男。1988年から1989年の登録名は角 光雄(いずれも読み同じ)。 長男は元プロ野球選手の角一晃。次男は元プロ野球選手で、独立リーグ・ルートインBCリーグに所属する埼玉武蔵ヒートベアーズ球団社長の角晃多。 米子市立美保中学校卒業後の1972年に米子工業高校へ進学。 1973年には4番・右翼手として夏の鳥取大会決勝に進むが、鳥取西高校に10回裏サヨナラ負けを喫した。
藤城 和明(ふじしろ かずあき、1956年4月5日 - )は… 藤城 和明(ふじしろ かずあき、1956年4月5日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。元歌手・タレント。 琴丘高校卒業後の1975年に新日鐵広畑へ入社し、2年目の1976年には都市対抗に出場。1回戦では大昭和製紙北海道を相手にリリーフで好投、延長13回の接戦を制し初勝利を記録する。2回戦では日本鉱業佐賀関を相手に先発し、藤沢公也・萩野友康の継投の前に惜敗したが、この試合で5連続三振を奪うなど各球団の注目を集める。 同年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。 1977年には新人ながら開幕5試合目に先発で登板。独特の二段モーションから繰り出す緩いカーブを武器に大いに期待されたが、伸び悩んだ。
早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は… 早野 宏史(はやの ひろし、1955年11月14日 - )は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。 神奈川県立生田高等学校を経て、中央大学法学部政治学科を卒業。1978年、のちに横浜F・マリノスの母体となる日産自動車サッカー部に加入。小柄だがスピードに乗ったドリブル突破とゴール近くで得点感覚に優れたFWとして活躍した。中央大学時代の後輩金田喜稔、その金田の高校時代の後輩木村和司とともに、当時日産ターボトリオと称される。 12年間の現役選手生活を経て1987年から日産サッカー部の下部組織である日産ファーム(現在のサテライトチーム)、日産ユース、日産FCレディースなどで監督として指導者の下積みを送った。
山倉 和博(やまくら かずひろ、1955年9月2日 - )は… 山倉 和博(やまくら かずひろ、1955年9月2日 - )は、福岡県田川市生まれ、愛知県大府市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。
山根 和夫(やまね かずお、1955年8月2日 - )は、岡… 山根 和夫(やまね かずお、1955年8月2日 - )は、岡山県真庭郡勝山町(現・真庭市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 実兄は都市対抗に20年連続出場を果たした鈴木政明投手。 勝山高校では2年秋の県大会ベスト4、卒業後は日本鋼管福山に入社し、エース・田村忠義の控え投手であったが、右の本格派として早くから注目されていた。1975年のドラフトで広島東洋カープから2位指名されるも、会社に慰留されたこともあり、1976年の都市対抗に出場。 1977年に入団し、入団当時はチームで一番球が速く150km/hほど出ていたが、コントロールが悪く投球を問題視されていた。しかし投手コーチに選手生命をかけてフォーム改造を直訴すると、フォームをノーワインドアップのスリー・クォーターにしてコントロールが安定した。
遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )… 遠藤 一彦(えんどう かずひこ、1955年4月19日 - )は、福島県西白河郡西郷村出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者、野球評論家。現役時代は横浜大洋ホエールズのエースとして活躍した。元プロ野球選手の遠藤政隆とは従弟にあたる。マネジメント会社は株式会社レガシージャパン。 学法石川高校では1972年、2年生時に中堅手、控え投手として夏の甲子園予選東北大会決勝に進出。東北高と対戦し6回からリリーフに立つが3-6で敗退。翌1973年にはエース、四番打者として福島大会決勝に進むが双葉高に1-2で惜敗、甲子園には届かなかった。 卒業後は東海大学工学部に進学。原辰徳は野球部の3年後輩にあたり、在学中は共にプレーしている。
河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日 - )… 河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ、解説者。2020年からは社会人野球・カナフレックスゼネラルマネージャー。 ニックネームは「カメ」、「シコ」。 元・巨人遊撃手の河埜和正は実兄である。 河埜家はスポーツ一家であったが、名前の「敬幸」の由来は1500gという超未熟児として生まれて生死の境をさまよったため、両親の「幸せに生きているだけでいい」という願いからであった。兄を追いかけるように八幡浜工高で野球部に入り、3年次の1973年、夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、八幡浜高にコールド負けを喫す。同年のドラフト3位で南海ホークスに入団。
山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、… 山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。 北陽高等学校では1973年度に全国高校サッカー優勝。大阪商業大学卒業後、1978年ヤンマー入社。この年サッカー日本代表に選出(代表Aマッチ出場2試合)。1980年には日本サッカーリーグ(JSL)優勝。JSL1部通算成績は125試合4得点3アシスト。 1984年ヤンマーを退社、大阪ガスサッカー部で選手としてプレーするかたわら同部コーチにも就任。その後出身校である大商大のコーチなどを務め、1999年にはS級ライセンスを取得、長崎県立国見高等学校サッカー部コーチに就任。 2001年には東京ヴェルディ1969のコーチに就任するが、成績不振の責任を取ってシーズン途中でサテライト監督に降格、1年限りで退任。
森 繁和(もり しげかず、1954年11月18日 - )は、… 森 繁和(もり しげかず、1954年11月18日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 マネジメント契約先は吉本興業グループの芸能事務所・吉本興業株式会社。 愛称は「モリシゲ」。 市原市の科学技術工業高校では2年次の1971年からエースとなり、夏の県大会ベスト8。3年次の1972年では春の千葉県大会2日目に八千代高から16奪三振を記録するが、同日には成東高の鈴木孝政も市川工戦で16奪三振をマーク。同年に廃校が決定するが、夏の千葉大会で佐倉高に敗退後、同大会で審判の判定に不服を訴えて抗議した様子が駒澤大学・藤田俊訓学監の目に留まり、駒大高校へ転校。
仲根 正広(なかね まさひろ、1954年9月24日 - 19… 仲根 正広(なかね まさひろ、1954年9月24日 - 1995年8月15日)は、東京都渋谷区出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・解説者。一時期登録名を「仲根 政裕」(読みは同じ)としていた。
田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神… 田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、コーチ、解説者。
大宮 龍男(おおみや たつお、1954年6月19日 - )は… 大宮 龍男(おおみや たつお、1954年6月19日 - )は、愛知県岡崎市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。
河内敏光(かわち としみつ、1954年5月7日 - )は、東… 河内敏光(かわち としみつ、1954年5月7日 - )は、東京都足立区出身のバスケットボール選手・指導者・解説者。 1973年に京北高等学校から明治大学に進み、同期の北原憲彦らとともにインカレなどのタイトルを獲得。 卒業後は、1977年に三井生命保険バスケットボール部入部。日本リーグの主力選手の一人としてリーグ戦はもとより1977年から1970年まで全日本チームでも活躍し、1986年の現役引退後は、1988年に三井生命の監督に就任し、実業団選手権大会優勝、天皇杯準優勝、日本リーグ3位にチームを導いた。 1993年には全日本男子監督に就任し、アトランタオリンピック予選アジア選手権3位、ユニバーシアード福岡大会優勝、広島アジア大会で優勝している。
福田 功(ふくだ いさお、1953年6月28日 - )は、奈… 福田 功(ふくだ いさお、1953年6月28日 - )は、奈良県天理市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスチーム統括本部スカウト&ディベロップメント部副部長を務める。
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は… 佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。 佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退。 引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中, 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任。
佐藤 直人(さとう なおと、1953年 - )は、日本のアマ… 佐藤 直人(さとう なおと、1953年 - )は、日本のアマチュア天文家、プラネタリウム解説者である。また、国際宇宙ステーション (ISS) のアマチュア無線局 "ARISS" (Amateur Radio on the International Space Station) と地上の小中学生らが交信する「ARISSスクールコンタクト」プロジェクトの支援活動も行っている。埼玉県所沢市生まれ、狭山市在住。 埼玉県秩父市にあるIAUの天文台コード369の観測所において、1995年以降、浦田武とともに、小惑星番号7038番のトコロザワ以下、カミコウチ・安曇野・ジョウネン・イルマ・サドなど多数の小惑星を発見した。
浜島 裕英(はましま ひろひで、1952年12月13日 - … 浜島 裕英(はましま ひろひで、1952年12月13日 - )は、日本のタイヤ技術者、モータースポーツ解説者。東京都出身。東京農工大学工学部卒業。同大学院工学研究科修士課程修了。 ブリヂストンにて長年モータースポーツ用タイヤの開発を手がけ、開発本部長としてF1参戦の総指揮を務めたことで知られる。後には、スクーデリア・フェラーリの開発スタッフも務めた。F1関係者の間での愛称はハミー。 1977年 ブリヂストン入社後、基礎技術研究、乗用車タイヤ開発を経て、モータースポーツ用タイヤの開発を担当。インディカー、F2等のタイヤ開発に携わる。特に1997年から2010年にかけて行われたブリヂストンのF1参戦において、参戦全期間である14年に渡って総指揮を執ったことで一般に名前を知られるようになる。
小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 20… 小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家、スポーツキャスター・タレント・俳優。 8歳の時に父親から野球用のグラブを渡され、キャッチボールを日課とするようになった。小学校時代にソフトボールをプレーし、中学時代は野球部に所属。当時は胃腸が弱かったこともあり、身長170cmに対して体重が50kgほどしかなかった。 中学卒業後の1968年に由良育英高校へ入学し、野球部に入部。当時監督を務めていた牧野紀史は当時の小林について、「特にボールが速かったわけではない。コントロールは悪くなかったが、抜群に良いというほどでもなかった」、「投げるボール自体は大したことはない」、「『どうしても欲しい』と思うようなピッチャーではありませんでした」と語る一方、「印象的だったのは、マウンドで常に小林は冷静だった」、「タテに割れるカーブを織り交ぜて、相手バッターのタイミングを上手く外す。
三沢 淳(みさわ じゅん、1952年〈昭和27年〉10月1日… 三沢 淳(みさわ じゅん、1952年〈昭和27年〉10月1日 - 2022年〈令和4年〉3月3日)は、島根県浜田市出身のプロ野球選手(投手)・解説者、政治家、元衆議院議員(1期)。 浜田市立第一中学校で野球を始める。主に三塁手を務め、投手もこなしたが、中学当時は上手投げだった。野球部の1年後輩に梨田昌孝がいる。島根県立江津工業高等学校へ進学後、下手投げ投手に転向。同校では1年秋に高橋寛とのバッテリーで県大会決勝へ進み、大田高の福間納と投げ合うも1失点で惜敗。2年夏は西中国大会へ進むが有田修三が4番を打つ宇部商に敗れた。2年秋も県大会決勝で前年に続いて大田高に敗れたが中国地区大会では準決勝へ進出、広陵高の佐伯和司と延長11回を投げ合って敗れた。
村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋… 村田 辰美(むらた たつみ、1952年7月9日 - )は、秋田県横手市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 横手市立金沢小学校、横手市立金沢中学校を卒業後、秋田県立六郷高等学校に進学。1試合18奪三振で無安打に抑えたにも関わらず、試合に敗れた、いわゆる「ノーヒットありラン」を経験。高校卒業後は三菱自動車川崎に入社。菅野光夫とは三菱自動車川崎時代のチームメイト。 1974年の都市対抗野球では、菅野と共に東芝の補強選手として出場し、チームの準決勝進出に貢献。 1974年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は中継ぎ、特に対左打者用ワンポイントとして起用された。 コントロールに難があり登板機会に恵まれなかったが、入団4年目にサイドスローに転向し飛躍する。
柏原 純一(かしわばら じゅんいち、1952年6月15日 -… 柏原 純一(かしわばら じゅんいち、1952年6月15日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家・YouTuber。 実家はイグサ農家で、母親は代用教員をしていたという家庭だった。4人きょうだいの第3子(姉、兄、妹がいる)。高校から本格的に野球を始め、八代東高校では3年次の1970年、春の選抜にエースとして出場。1回戦で日大三高の渡部良克(日大)と投げ合うも0-2で完封負けを喫した。同年の夏の甲子園県予選では、準々決勝で熊本一工に延長15回の末、敗退した。 同年のドラフトで南海ホークスから8位指名を受け、外野手として入団。当時は中央球界ではまだ無名の存在で、地元のファンがたまたま訪れていた南海のスカウトに紹介したことがそのままプロ入りに繋がったという。
山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は… 山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・コーチ、解説者・評論家。愛称は「大ちゃん」。 清水東高校から1970年に一般入試で慶應義塾大学商学部へ進学。東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋季リーグから正遊撃手となり、高校の2年先輩である松下勝実とクリーンアップを組み活躍する。2年上の工藤真投手、清水東高でも2年上の松下勝実、1年上の萩野友康・長谷部優両左腕投手らを擁し、2年次の1971年秋季リーグからの3連覇に3番打者として貢献。1、2年時には「鬼の榊原」と呼ばれた榊原敏一監督に「試合と同じ集中力で練習しろ」と鍛え上げられた。
有田 修三(ありた しゅうぞう、1951年9月27日 - )… 有田 修三(ありた しゅうぞう、1951年9月27日 - )は、山口県宇部市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )… 鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者。旧名は鈴木 治彦(読みは上記と同じ)。現役時代の愛称は「はっぱ」。 大宮高校では、1967年に1年生ながら一塁手として夏の甲子園に出場し、1回戦で報徳学園と対戦。9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。しかし、秋の埼玉国体では、決勝で大分商の河原明を打ち崩し初優勝を飾る。チームメイトに2年上のエース金子勝美、左翼手の吉田誠、1年上に右翼手の新井良雄らがいた。2年次の1968年夏は新井を主戦投手として県予選決勝に進出するが、春の選抜で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1で敗退。
福間 納(ふくま おさむ、1951年7月13日 - )は、島… 福間 納(ふくま おさむ、1951年7月13日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 現役時代には、阪神へ在籍していた時期に一時、福間 納一(読み方は本名と同じ)を登録名に使用していた。 2009年からは株式会社アイランドプロモーションに所属。2021年からはカナフレックスで投手コーチ、2022年に監督就任。 大田高校では2年次の1968年からエースとなり、同年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、浜田高に敗退。3年次の1969年には春の選抜に出場し、1回戦で丸亀商の井原慎一朗と投げ合うが4-9で敗れる。同年夏は県予選準決勝で三沢淳、高橋寛のバッテリーを擁する江津工に抑えられ1-4で敗退、甲子園には届かなかった。
池上 彰(いけがみ あきら、1950年〈昭和25年〉8月9日… 池上 彰(いけがみ あきら、1950年〈昭和25年〉8月9日 - )は、日本の大学教授、ジャーナリスト、ニュース解説者。長野県松本市出身、元NHK職員。 長野県松本市に生まれ、東京都練馬区で育つ。池上家のルーツは松本で、祖父の代に東京に移り住んだ。父は東京で就職し、転勤先の松本で母と出会い、彰が生まれた。父親は銀行員。子供の頃の愛読書は『クオレ』だった。また、父親が池上が小学生の時に買って帰り、「読め」と言って手渡したのが『君たちはどう生きるか』であり、2017年同書が新装版となって刊行された際にまえがきを寄稿した。練馬区立光和小学校、練馬区立開進第三中学校卒業。 小学5年生の時に、地方新聞記者の活躍を描いた『続地方記者』(1962年、朝日新聞社)と出会ったことと、東京都立大泉高等学校在学中に、広島抗争において暴力団と対決した中国新聞記者がモデルのドラマ『ある勇気の記録』(NETテレビ(現:テレビ朝日))を観たことがきっかけで、記者を志すようになる。
松井 優典(まつい まさのり、1950年6月26日 - )は… 松井 優典(まつい まさのり、1950年6月26日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手、捕手)・コーチ・監督、解説者。 和歌山市議会議員の松井紀博は甥にあたる。 星林高では3年次の1968年に甲子園春夏連続出場を果たすが、いずれもチームとして初出場であった。春の選抜では三塁手兼控え投手として出場し、1回戦で清水市商に延長12回サヨナラ負けを喫した。この試合でリリーフに立ち、甲子園初登板を果たす。夏の選手権は三番・捕手として3回戦に進出するが、優勝した興国高の丸山朗に完封を喫する。3年間の通算打率は4割という好記録を残し、高校同期に一塁手の東出康博がいた。 1968年のドラフト3位で南海ホークスに入団し、強肩を買われて捕手から三塁手に転向。
村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - 2… 村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - 2022年11月11日)は、日本のプロ野球選手(投手)、コーチ、解説者、評論家。広島県豊田郡本郷町(現:三原市)出身。旧名は村田 長次(読み同じ)である。 現役時代は東京オリオンズ→ロッテオリオンズで活躍した。そのダイナミックな投球フォームは、「マサカリ投法」と呼ばれていた。通算暴投の日本記録保持者(148回)。 長崎県対馬市の市民球団である『対馬まさかりドリームス』の監督を務めていた。 プロ野球選手を志したのは小学5年の時で、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
江島 巧(えじま たくみ、1949年11月24日 - )は、… 江島 巧(えじま たくみ、1949年11月24日 - )は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
三浦 政基(みうら まさき、1949年11月17日 - )は… 三浦 政基(みうら まさき、1949年11月17日 - )は、宮崎県児湯郡都農町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 日向工業高校卒業後の1968年にトヨタ自動車へ入社するが、1年で退社して1969年に愛知学院大学へ進学。愛知大学リーグでは中京大の後塵を拝し、在学中2位4回にとどまり優勝には届かなかった。1学年下に小林秀一投手がいた。 1972年春季には敢闘賞を受賞し、リーグ通算28試合登板で8勝5敗を記録。 同年のドラフト2位で東映フライヤーズに入団。 1973年から一軍で起用され、7月には初先発を果たす。同年は右オーバースローの小気味いいノーワインドアップ投法で、カーブを決め球に1完投を含む6勝を挙げ、その後も主に中継ぎとして活躍する。
樋口 豊(ひぐち ゆたか、1949年9月20日 - )は、日… 樋口 豊(ひぐち ゆたか、1949年9月20日 - )は、日本のフィギュアスケート選手(男子シングル)、フィギュアスケートコーチ、振付師、解説者。1968年グルノーブルオリンピック、1972年札幌オリンピック日本代表。法政大学卒業。 1949年東京都北区東十条生まれ。幼少時は病弱であったという。1959年、小学校5年生の時から後楽園アイスパレスにてスケートを習い始める。明星学園高等学校3年生だった1968年、1968年グルノーブルオリンピックに出場。同年に高校を卒業後、直ちにカナダ・トロントにスケート留学。トロント・クリケット・スケーティング・アンド・カーリング・クラブのメンバーとなる。1971年に帰国し、法政大学に入学。
片平 晋作(かたひら しんさく、本名:片平 伸作(読み同じ)… 片平 晋作(かたひら しんさく、本名:片平 伸作(読み同じ)、1949年8月5日 - )は、大阪府大阪市港区出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ・監督、解説者。
川藤 幸三(かわとう こうぞう、1949年7月5日 - )は… 川藤 幸三(かわとう こうぞう、1949年7月5日 - )は、福井県三方郡美浜町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者・評論家・タレント・YouTuber。本名:開田 幸三(かいだ こうぞう、旧姓:川藤→武田)。通称「浪速の春団治」、「野次将軍」。あるいは「川さん」、「川」とも。 所属事務所は有限会社ダッシュ・フォーで、田辺エージェンシーのグループ会社・ぐあんばーると業務提携している。 元プロ野球投手の川藤龍之輔は実兄。 地元の名士の家に生まれ、少年時代はやんちゃであったが、佛國寺の甚玄和尚に諭されて、野球に取り組んだ。本格的に野球を始めたきっかけは、同郷で当時日体大生にしてラグビー日本代表選手であった山口良治である。
鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )… 鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )はサッカー指導者、解説者。ドイツサッカー協会(DFB)の公認S級ライセンスを取得している。 東海大学卒業後、1973年に西ドイツ(当時)のボルシア・メンヒェングラートバッハへ留学し、名将ヘネス・ヴァイスヴァイラー監督の下でコーチ修業。また同時にケルン体育大学にも通い、S級ライセンスを取得した。 1975年10月に帰国して三菱養和に所属し、サッカー日本ユース代表監督などを務めたのち、1984-85年シーズンには西ドイツ・ドイツ・ブンデスリーガ1部のアルミニア・ビーレフェルトのヘッドコーチ兼ユース監督を35歳という若さで務めたが、チーム事情の関係もあり、年間順位16位となって翌年の2部リーグ落ちさせてしまった。
道原 裕幸(みちはら ひろゆき、旧名:博幸、1949年5月3… 道原 裕幸(みちはら ひろゆき、旧名:博幸、1949年5月30日 - )は、山口県柳井市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ、解説者。 山口県桜ケ丘高校では2年上に河村健一郎、2年下に長州力がいた。捕手として2年次の1966年に秋季中国大会県予選で準決勝に進出するが、豊浦高に敗退。3年次の1967年夏は県大会準々決勝でまたも豊浦高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は芝浦工業大学に進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1970年春季リーグに優勝。1年上の三塁手・伊原春樹と共にクリーンアップを打ち、リーグ通算79試合出場、264打数75安打、打率.284、8本塁打、32打点。
関本 四十四(せきもと しとし、1949年5月1日 - )は… 関本 四十四(せきもと しとし、1949年5月1日 - )は、新潟県糸魚川市出身の元プロ野球選手(投手)・指導者・解説者・評論家。大洋時代の登録名は関本 充宏(せきもと みつひろ)。 糸魚川商工では3年次の1967年、エースとして夏の甲子園予選北越大会準決勝に進出するが、新湊高に完封を喫し甲子園には届かなかった。 同年のドラフト10位で読売ジャイアンツに入団。ドラフトで指名されながら、打撃投手としての扱いしか受けず3年間は一軍登板が無かった。 1971年に一軍ローテーションに抜擢され、10勝・防御率2.14(リーグ5位)の成績を残して、ヤクルトの若松勉との新人王争いを制す。入団4年目での新人王受賞は小関竜也(1998年、西武)と並ぶ記録であるが、同期入団で1年目に新人王になった高田繁からは「セキ、お前のは新人王じゃない。
吉岡 悟(よしおか さとる、1949年4月14日 - )は、… 吉岡 悟(よしおか さとる、1949年4月14日 - )は、富山県中新川郡上市町出身の元プロ野球選手(内野手)・解説者。
浅野 啓司(あさの けいし、1949年2月22日 - )は、… 浅野 啓司(あさの けいし、1949年2月22日 - )は、広島県福山市草戸町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 創部3年目の福山電波工業高校へ進学し、1965年には2年生エースとして夏の広島県大会で活躍。低めに球を集める抜群の制球力で、伊原春樹がいた北川工、山本和行・三村敏之がいた広島商を撃破。50イニングを投げ1失点の好調で決勝まで勝ち上がったが、広陵高の河本和昭に完封され敗退、甲子園出場を逸する。同期の岡田英樹(太平洋クラブ)とバッテリーを組み、高校の1学年下の後輩に村田兆治がいた。 1966年に別の選手を見に来ていたサンケイアトムズのスカウトの目に留まり、同年の第1次ドラフト9位で入団。
伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、… 伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、広島県甲奴郡上下町(現・府中市)生まれ出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1971年から1973年の登録名は「伊原 春植」(いはら しゅんしょく)。 ニックネームは「ハル」。 6人兄弟の次男で女4人、男2人の4番目であった。 上下中学校卒業後、1964年に北川工業高校へ進学。古葉竹識の実弟である古葉福生監督の指導を受け、3年次の1966年夏の甲子園県予選では4番打者・三塁手として活躍。福山工との準決勝で本塁打を放ち決勝に進出するが、広島商の山本和行に完封を喫し、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は1967年に芝浦工業大学へ進学し、東都大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験。
村松 修(むらまつ おさむ、1949年 - )は日本のプラネ… 村松 修(むらまつ おさむ、1949年 - )は日本のプラネタリウム解説者。周期彗星である串田・村松彗星や多くの小惑星を共同発見したアマチュア天文家でもあり、2017年ごろから「伝説のプラネタリアン」と称される。日本天文学会天体発見賞(1993年度)、日本天文学会天文教育普及賞(2024年度)を受賞。 東京都出身。高校生のときに到来した池谷・関彗星を機に天文に関心を持つ。東京都立工業短期大学(のちに東京都立科学技術大学、現・東京都立大学)機械科を卒業後、民間企業を経て、1974年4月、天文博物館五島プラネタリウムに技術係として就職。五島プラネタリウムの学芸課長を務めた豊川秀治のもとで投影機の保守点検に携わる。
稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 201… 稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 2012年8月11日)は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 5歳の時に兄からソフトボールでボール投げをやらされたことがきっかけで野球を始める。清水工業高校の2年生の時に投手となる。日本軽金属へ入社し、1968年のドラフト会議にて広島東洋カープから6位で指名されるが、まだ20歳と若かったことや会社から残留を要請されたこともあり、入団を拒否した。1970年の都市対抗には大昭和製紙の補強選手として出場し、チームの優勝に貢献。 1970年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。 1971年8月25日の巨人戦(後楽園)に延長11回裏から登板して4イニングを無失点に抑え、プロ初勝利を挙げる。
宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は… 宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は、東京都杉並区出身 の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 在日韓国人で、韓国名は朱 東植(チュ・ドンシク、주동식)。 現在は北朝鮮になっている咸鏡南道出身の父と日本人の母の下に生まれたが、両親は宇田が5歳の時に離婚し、父が宇田を引き取った。父の当時の仕事は、立川基地にいた進駐軍兵士からPXの横流れ品を買うブローカーであり、昼は荻窪の市場で店を開き、夜は買い出しに出かけたため、ほとんど一日、家にいなかった。 小学生の時は音楽部の部長を務め、NHKの子供音楽コンクールに出場するなど、音楽活動を行っていた。杉並区立杉並中学校入学後に野球を始め、ポジションは三塁手であった。
矢沢正(やざわ ただし、1948年8月2日 - )は、愛知県… 矢沢正(やざわ ただし、1948年8月2日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(捕手)、解説者。
前田 健(まえだ けん、1948年7月9日 - )は、日本の… 前田 健(まえだ けん、1948年7月9日 - )は、日本のバレーボール解説者・指導者、実業家。 全日本女子バレーボールチーム監督や日本バレーボール協会副会長などを務め、日本バレーボール界の重鎮だった前田豊が父、全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレーボール)名誉会長などを務めた前田琴子は母。 上智大学在学中、父と同じく高校バレーボールの名門チームである中村学園を春の高校バレーの優勝に導いた。 パキスタン代表監督を経て、1978年3月からはカナダ男子代表監督に就任し、世界選手権では20位に終わり、来日しても二流チームにしか相手にされなかった。1979年にはプエルトリコサンフアンで開催されたパンアメリカン競技大会でカナダ初の国際大会でのメダルとなる銅メダルを獲得し、1981年にはイングランドで開催されたコモンウェルスゲームズで優勝したが、1981年の2度目の来日では全日本に5戦全敗に終わる。
加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、… 加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、静岡県榛原郡川崎町(現:牧之原市)出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)・コーチ・監督、解説者。日本プロ野球名球会会員。加藤 英司(読み同じ)の登録名での活動していた時期あり。 通算犠牲フライで歴代2位の記録数を持つ(野村克也に次ぐ105個)。 父は漁師であったが幼少の頃に死別し、単身PL学園高校に進学する。2年次の1965年に控え一塁手として春の選抜へ出場するが、準々決勝で高松商の小坂敏彦に抑えられ敗退。1学年先輩に福嶋久晃・得津高宏・長井繁夫が、2学年先輩に中村順司がいた。3年次の1966年の選抜にも4番・一塁手として連続出場するが、1回戦で、この大会に優勝した中京商に敗れた。