杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)… 杉本 直治郎(すぎもと なおじろう、1890年(明治23年)2月18日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は日本の歴史学者・東洋学者(専攻:南海史・東西交渉史)。広島大学名誉教授。号は「南翁」(なんおう)。 滋賀県生まれ。滋賀県師範学校卒業後しばらく教職に就き、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に入学、文学部で桑原隲蔵に師事した。 京都帝大卒業後の1929年、広島文理科大学教授となる。在任中の1945年8月6日、原爆投下により爆心地から1.7kmの段原町(現・広島市南区)の自宅で妻とともに被爆するも九死に一生を得る(その後広島市によって編纂された『原爆体験記』に「原爆に遭った日」を寄稿)。戦後の1953年、広島文理大が新制に移行した広島大学の教授となる。
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石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日… 石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日)は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した。 現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する。 1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる。 1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる。
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木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 19… 木宮泰彦(きみや やすひこ、1887年10月15日 - 1969年10月30日)は、日本の歴史学者、教育家。 静岡県浜名郡入野村(現・浜松市中央区)に、龍雲寺 (浜松市)の二男として生まれる。1913年、東京帝国大学文科大学史学科国史学専修を卒業し、1915年に「足利時代ノ文化」の研究のため、京都帝国大学大学院に入学。1920年山形高等学校教授、1923年水戸高等学校教授、1927年静岡高等学校教授となり、1946年同校長事務取扱を最後に退官し、静岡に静岡女子高等学院(のち学校法人常葉大学)を創立。1959年同理事長となり、1966年常葉女子短期大学を設立し、学長を務めた。日中関係史の研究で知られる。
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鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 19… 鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 1959年2月19日)は、日本の歴史学者。 1887年、東京府本郷区に生まれた。東京帝国大学を卒業。東洋史を専攻した。 1928年から1945年まで京城帝国大学教授を務め、渤海国の遺跡を求めて満洲(中国東北部)を精力的に踏査した。 戦後、日本に引揚げてからは第四高等学校校長(第13代)、金沢大学教授、富山大学学長などを務めた。 専門は満鮮史で、渤海史研究では日本のパイオニアとされる。1926年に初版が出た中国通史『黄河の水』は少年少女のためと銘打って書かれたものだが、中国史の好個の入門書として版を重ね、現在まで読み継がれるロングセラーとなっている。
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斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
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岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10… 岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10月11日 - 昭和53年(1978年)12月9日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。 1885年(明治18年)、大阪府大阪市東区に生れた。1904年3月、大阪府立天王寺中学校を卒業。同級には西田直二郎、折口信夫、武田祐吉らがいた。私立國學院大學師範部国語漢文科に進学し、1907年(明治40年)7月に卒業。 卒業後は、1097年8月より大阪市史編纂事務嘱託に就いた。1909年3月、大阪市を辞めて三省堂編修所に勤務し、『辞林』の増補に従事。1911年4月からは国書刊行会に勤務した。1914年(大正3年)9月、三井家史編纂事務を嘱託される、1916年12月まで従事。
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清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 19… 清原 貞雄(きよはら さだお、1885年1月10日 - 1964年9月13日)は、日本の歴史学者。広島文理科大学教授。神道史、国体論史の研究で知られる。 1885年、大分県速見郡南杵築村(現・杵築市)で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1910年に卒業。同大学大学院に進んだ。 京都帝国大学大学図書館司書、内務省神社局嘱託を経て、日本大学講師に就いた。1922年より広島高等師範学校教授。1926年に学位論文『徳川幕府神社制度ノ研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。1929年に広島高等師範学校が広島文理科大学に改組となって以降は同校教授。1943年に広島文理科大学を筆禍事件のため辞した。
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中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2… 中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。 1885年(明治18年)1月、群馬県高崎に生まれる。父は士族で小学校教員の中村勝弥、母は小学校嘱託教員の中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍に造詣の深かった父より漢学を学び、5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校へ見学児として通学、以後複数の学校に転校するも、いずれも抜群の成績で進級した。1899年(明治32年)、14歳の時に小学校准教員検定試験に合格。
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江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年… 江馬 務(えま つとむ、1884年12月2日 - 1979年5月10日)は、日本の歴史学者。日本における風俗史の研究の基礎を築いた一人である。京都女子大学名誉教授。 京都市出身。江馬天江の孫、江馬章太郎(京都府立医学専門学校教授)の子。 1907年に新設の京都帝国大学文科大学史学科第1回生として入学、1910年に卒業。卒業論文は「京都市制史」。同年、「日本風俗史」の研究のため同大学大学院に進学する。卒業後、京都市立美術工芸学校の教員となり、1911年には「風俗史研究会」を設立する。有職故実の文献や史料から過去の風俗の考証を進めるだけでなく、実際に衣装などを復原・着用して考察を進める方法を採用し、1915年から毎月1回「時代扮装実演会」を開き、1916年には研究会の機関誌「風俗研究」を創刊した。
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日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3… 日高 重孝(ひだか しげたか/じゅうこう、1884年10月3日 - 1980年3月5日)は、日本の歴史学者、郷土史家、教育者、宮崎県立博物館初代館長。その他、旧制中学校の校長、宮崎県立宮崎図書館長、上代日向研究所長を歴任。 宮崎県宮崎市中村町生まれ、同市福島町出身。田村弥太郎、きさの二男奈太郎として生まれ、6歳の時に伯父日高健助の養嗣子となる。高等小学校を終えて、1897年(明治30年)に旧制宮崎県立宮崎中学校(現 宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ入学し、1902年(明治35年)卒業。1905年(明治38年)旧制第七高等学校造士館卒業。1910年(明治43年)東京帝国大学文科大学史学科国史学専修卒業。
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村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月… 村岡 典嗣(むらおか つねつぐ、1884年(明治17年)9月18日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の歴史学者。
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川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 19… 川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 1959年7月4日)は、日本の歴史学者。 1884年、茨城県東茨城郡磯浜村(現在の大洗町)に生まれた。1904年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学史学科に入学。黒板勝美や当時講師であった三浦周行らの指導を受ける。1907年に卒業し、黒板勝美の紹介で、経済雑誌社の嘱託として『続国史大系』と『続群書類従』の校訂・校正に携わる。また、大学院に進学し「荘園ノ研究」を研究課題とした。 1912年から1915年3月まで名古屋市史編纂員を務め、1917年12月には、毛利家が毛利元就、吉川元春と小早川隆景の伝記を編纂するために設置した三卿伝編纂所に入所し、史料調査にあたる。
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太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年… 太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。 大阪府吉野郡下市村(現・奈良県吉野郡下市町)に生まれる。京都法政大学予科(現・立命館大学)を経て、1910年に神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立高等女学校教諭、内務省考証官補、同嘱託などを経て、1934年から西園寺家の「管見記」の編纂にたずさわる。同年、立命館大学法経学部講師。1937年に同専門部文学科教授。1941年に同法文学部教授となる。1943年同文学部長を兼ねた。1945年11月7日、「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で法学博士号取得。1949年、近畿大学商経学部教授。
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安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
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伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
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東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日… 東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日 - 1963年1月24日)は、沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家。東京帝国大学卒業。旧制府立高等学校、法政大学、拓殖大学各教授、拓殖大学図書館長、拓殖大学第一高等学校四代校長。沖縄県那覇出身。 1882年10月14日、新参慎氏の父東恩納寛裕母真呉勢の四男として沖縄県那覇東町に生まれる。沖縄県中学校(現・沖縄県立首里高等学校)、第五高等学校文科(現・熊本大学)を経て、1908年に東京帝国大学文科大学史学科卒業。東京府立一中教諭、高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員、府立高等学校や法政大学、拓殖大学等の教授を務めた。死後、琉球新報社によって「東恩納寛惇賞」が創設された。
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石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年… 石原 謙(いしはら けん、1882年8月1日 - 1976年7月4日)は、日本の歴史学者。日本学士院会員。専門は神学史、キリスト教史。 1882年、東京市本郷区本郷4丁目39番地に本郷教会牧師石原量、母ちせの次男として生まれた。「少年の頃既に聖書を教えられ、中学四、五年の頃その研究に少なからず興味を覚えて、その頃受洗」(『石原謙著作全集』11巻214頁)したと、牧師である父の強い影響でキリスト教信仰を持ったことを記している。洗礼は1900年1月7日、18歳の時数寄屋橋教会(現日本基督教団巣鴨教会)の田村直臣牧師から受けた。 早稲田中学を経て、1901年(明治34年)7月一高に入学し、1903年に最初の論文「ナザレの聖者を論ず」を書いた。
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猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 196… 猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 1963年7月3日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本の歴史学者、国文学者。 雅号は恩頼堂学人(おんらいどうがくじん)、電影子(でんえいし)、樟園(しょうえん)。 1882年(明治15年)5月5日、蜂須賀喜心(よしざね、蜂須賀重喜次男・喜翰の末裔)の三男として誕生する。 1895年(明治28年)、13歳で猪熊家の戸主・猪熊全昌の養子となる。旧制高松中学校を卒業する。 1905年(明治38年)、鹿児島県の第七高等学校を卒業し、京都帝国大学工科大学に進学して電気工学を学んだ。 1916年(大正5年)、自身が志した宸筆研究の集大成として『宸筆集』を刊行し、宸筆博士(しんぴつはかせ)の異名を得る。
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時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
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花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 194… 花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津、名古屋、安土桃山時代の三分野で、安土桃山史の権威であった。歴史地理学会幹事。 海軍中佐(海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平、陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は甥である。 現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び、植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった。1903年に第二高等学校を卒業し、1906年に東京帝国大学文科大学を卒業。
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松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 -… 松本 彦次郎(まつもと ひこじろう、1880年12月5日 - 1958年1月14日)は、日本の歴史学者、俳人。東京文理科大学名誉教授、野辺地町名誉町民。「金鶏城」と号した。 青森県上北郡野辺地村(後の野辺地町)に生まれる。1903年、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学法科に進んだが、1904年に東京帝国大学文科大学史学科に入学。1908年に卒業 卒業後は慶應義塾普通部の教員となり、1919年に第六高等学校教授となった。1915年にはシカゴ大学への留学を経験する。1930年、東京文理科大学助教授となる。1931年に教授に昇進し、国史学教室主任として後進を指導した。1943年に東京文理科大学を定年退職し、1944年に同大学名誉教授となった。
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芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年… 芝 葛盛(しば かずもり、1880年4月3日 - 1955年7月13日)は、日本の歴史学者、教育者。宮内庁調査員、帝国学士院帝室制度史編纂室主任、立教大学文学部教授。 東京府牛込(現・東京都新宿区)に雅楽師の芝葛鎮の長男として生まれる。1903年に東京帝国大学文科大学国史科を卒業。 東京帝国大学文学部史料編纂掛の嘱託を務めたのち、1914年に宮内省図書寮編修官に任じられ、1926年に編修課長を命じらる。この間に「天皇皇族実録」286巻を編修したほか、1916年8月には「長慶天皇ヲ皇代ニ列シ奉ル議」を起草・上申し、同天皇の皇代登列の端を開くなど、皇室史全般の研究調査を行った。1946年(昭和21年)に退官するまで、編修課長として長月にわたって歴代天皇の実録編集を担任した。
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植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)… 植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)3月29日 - 昭和34年(1959年)7月8日)は、日本の歴史学者、法学者。國學院大學名誉教授。新潟県出身。
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野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9… 野々村 戒三(ののむら かいぞう、1877年(明治10年)9月7日 - 1973年(昭和48年)11月21日)は、日本の歴史学者、能楽研究者。号は「蘆舟」、「芥叟」。クリスチャンであった。 1877年、大分県生まれ。父・野々村卓二は塩谷宕陰の門人で、母は三浦梅園の玄孫に当たる。1896年、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、東京帝国大学文学部史学科に進み、西洋中世史を専攻した。1901年(明治34年)に東京帝国大学を卒業。 卒業後は立教中学校の教員として勤務。中学校長の元田作之進の依頼で自宅を謡の稽古場として貸すこととなり、能との関わりを持つこととなる。その稽古場で教えていた師匠は池内信嘉であった。
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浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
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川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)… 川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)6月23日 - 1922年(大正11年)12月10日)は、日本の歴史学者である。 京都市の旧家にて生まれる。若くして文部省(現在の文部科学省)の検定試験を受験し、悪戦苦闘の末合格する。その後中等学校の教員を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に選科として入学した。 在学中は主に江戸時代における朱印船貿易の研究に携わり、その研究論文を自身が執筆したものが書籍化された。また同時期に高等学校卒業試験に合格した事により、文学博士を取得した。1912年(大正元年)に卒業後は、京都府学務課長を務めた後に、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)にて教師として活動する。
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辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
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稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 19… 稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 1940年5月23日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史・中国史。旧姓は小林。号は「君山」。 1876年(明治9年)、現在の新潟県村上市で生まれた。1900年、高等商業学校附属外国語学校中国語部を卒業後、中華民国の北京に留学。1904年に勃発した日露戦争の際には、陸軍の通訳として従軍し、その後大阪商船に一時期勤務した。 1909年に満鉄調査部に入り、「満州朝鮮歴史地理調査」に携わった。1915年、陸軍大学校の教官に着任し、主に中国情勢についての講義を担当。 1922年、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員兼幹事に任じられ、1925年からは修史官として歴史書『朝鮮史』の編集にあたった。
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山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
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真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治… 真境名 安興(まじきな あんこう、1875年5月20日〈同治14年4月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月28日)は、ジャーナリスト、歴史学者、沖縄学の研究者。伊波普猷、東恩納寛惇とともに、戦前の沖縄学における「御三家」と呼ばれる。著書に「沖縄一千年史」、「琉歌大観」など。 五大姓の一つ、毛氏池城殿内(元祖・新城親方安基)の支流・毛氏真境名家(系祖・玉城里之子親雲上安暉)の分家13世。父・真境名安布、母・毛氏真牛の次男として首里桃原村(現・桃原町)に生まれる。唐名は毛居易、童名は樽金(タルガネ)。長兄・安宏が真境名本家の養子となったため、安興が父・安布の家督を継いだ。 首里小学校を経て、沖縄県師範学校附属小学校に学び、1891年(明治24年)に沖縄県尋常中学校(のちの県立一中、現・沖縄県立首里高等学校)へ進学した。
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中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月… 中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月 - 1944年〈昭和19年〉3月23日)は、日本の歴史学者、教育者。史料編纂官および立教大学文学部教授を務め、幕末から維新期の古文書の編纂を行った。 1875年(明治8年)3月、滋賀県で中村平太の長男として生まれる。叔父には、彦根藩儒学者の中村不能齊(中村不能斎)がおり、養子の関係から勝麻呂は不能斎の孫となる。 1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、同大学院に入り幕末外交史を専攻する。 1908年(明治41年)、東京帝国大学の史料編纂掛(後の史料編纂所)に務める史料編纂官に任ぜられ、1935年(昭和10年)まで勤務する。
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新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
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黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日… 黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年〈明治7年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。学位は、文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及にも努めた。歴史学者の黒板伸夫は甥。甥の妻は作家の永井路子。 旧大村藩の士族黒板要平の長男として、長崎県彼杵郡下波佐見村(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)に生まれる。長崎県立大村高等学校の前身である旧制大村中学校、熊本大学の前身である旧制第五高等学校を卒業した後、1896年に、帝国大学文科大学国史科を卒業し、帝国大学大学院に入学。同時に経済雑誌社に入り、田口卯吉の下で『国史大系』の校訂に従事した。
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朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月… 朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。日本人初のイェール大学教授。 福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。 1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。 1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3… 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。 1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した。
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山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19… 山本 信哉(やまもと のぶき、明治6年〈1873年〉7月19日 - 昭和19年〈1944年〉12月18日)は、日本の歴史学者、神道学者。東京帝国大学史料編纂所史料編纂官。 元奈良国立博物館館長・山本信吉の父。
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幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 195… 幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 1954年5月15日)は、日本の歴史学者。
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田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3… 田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3月7日 - 1923年〈大正12年〉8月13日)は、大正期の歴史学者、東洋史学者、法学博士。日本における東洋学の草分けで、専門は近世中国研究。 静岡県田方郡大竹村(現函南町)で、後に衆議院議員を務めた田中鳥雄の長男として生まれる。 明治25年(1892年)、慶應義塾大学部文学科を卒業。在学中はドイツ人のお雇い外国人・ルートヴィヒ・リースに師事。卒業後、静岡県伊豆学校(現在の静岡県立韮山高等学校)校長となり、その間に『東方近世史』を執筆。明治38年(1905年)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト(英語: Karl_Lamprecht)博士に師事し、研究を開始。
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八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 … 八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日)は、日本の明治・大正期の歴史学者。文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる。 1873年、木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる。 1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる。 1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った。 1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。
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内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1… 内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日(明治5年1月25日) - 1919年(大正8年)7月22日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。 明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業した。国史科の同期に、喜田貞吉・黒板勝美・笹川種郎・原勝郎・幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した。
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三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7… 三浦 周行(みうら ひろゆき、明治4年6月4日〈1871年7月21日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月6日)は、日本の歴史学者・法制史の研究者。京都帝国大学名誉教授。 明治4年(1871年)、出雲国島根郡内中原町(現:島根県松江市)に於いて、松江藩で18石4人扶持を知行した下級武士の三浦正祐の長男として生まれた。父は維新後島根県の役人を務めた。幼名は禄之助。元服し、周行と称した。1890年に東京英和学校を修業し、東京帝国大学文科大学選科に入学。1893年に国史科を修業。同年父が没したため家督を継ぐ。 卒業後は、史料編纂助員となった。のち史料編纂官に昇進。東京帝国大学法科大学より法制類聚編纂を嘱託され、歴史学と法学双方の研究を行う過程で日本に「法制史」という新しい学問分野を打ち立てた。
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喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
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小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953… 小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953年12月12日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史。 1871年、三重県鳥羽市で生まれた。1887年、神宮皇學館に入学したがすぐに退学して上京し、国民英学会や東京英語学校で学んだ。東京帝国大学文科大学史学科に進学し、1899年に卒業。 卒業後は、長野県師範学校で教職に就いた。後に徳島県師範学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、第一高等学校教授をつとめた。 1908年、大韓帝国政府に招聘され、教育制度改革に従事。教科書編輯課長として教科書の編纂などにあたった。 日韓併合後の1918年には、朝鮮総督府中枢院編纂課長として朝鮮史の編纂にあたり、1923年には朝鮮史学会を創立した。
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原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月… 原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日) - 1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者。京都帝国大学教授、京都帝国大学文学部長。 1871年、岩手県盛岡市で旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れた。盛岡中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科で学んだ。1896年に卒業。同大学大学院に進んだ。 1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。 1899年9月、第一高等学校教授に就いた。1902年10月、文学博士号を取得。 1907年2月から1909年3月まで、イギリス、アメリカ、ドイツに留学。
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山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 … 山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 - 1941年)は、日本の教育者、神学者、歴史学者、聖職者。立教大学教授、聖公会神学院教授、日本聖公会の聖職者。教会史の権威で、東京聖三一教会、府中聖マルコ教会で司牧。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には日本の野球の先駆けとなる野球チーム(現・立教大学野球部)があり、試合は新橋停車場内の広場で行われていたが、山縣は優勝チームの選手の一員として活躍した。 留学し、神学士(Bachelor of Theology(英語版))の学位を取得。 その後、立教大学でチャプレンを務め、立教大学文学部の教授としても基督教史を教えた。
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木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈187… 木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈1870年10月12日〉 - 昭和6年〈1931年〉7月18日)は、主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。 通称「キムタカ」。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。 1870年(明治3年)9月18日、愛媛県宇和島市に生まれる。 明治学院を経て、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて1893年7月修了。陸軍士官学校英語教授職等を務める。 1897年(明治30年)に井上哲次郎・湯本武比古らと大日本協会を組織、同年5月に機関誌『日本主義』を創刊し、日本主義を提唱する。
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本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(186… 本多 辰次郎(ほんだ たつじろう、明治元年4月15日(1868年5月7日) - 1938年(昭和13年)7月8日)は戦前日本の歴史学者。山形県立山形中学校長、宮内省臨時帝室編修局御用掛、法政大学、立教大学講師。 明治元年(1868年)4月15日愛知県海部郡津島町に七里長兵衛の次男として生まれた。1886年(明治19年)上京して浅草区小島町に住み、大谷教校に通ったが、同年高等科が京都に移転したため、共立学校に入学した。1889年(明治22年)第一高等中学校、1895年(明治28年)東京帝国大学国史科、1898年(明治31年)帝国大学大学院に進んだ。 1898年(明治31年)本多正開の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続した。
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斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2… 斎藤 阿具(さいとう あぐ、1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1942年(昭和17年)3月1日)は、日本の歴史学者。夏目漱石の友人として知られる。 武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身。1890年第一高等中学校卒業。1893年東京帝国大学史学科卒業、大学院に進む。1897年第二高等学校教授。1903年から3年間ドイツ、オランダに留学。留学中に本郷区駒込千駄木町の家を夏目漱石に貸した。漱石はここで『吾輩は猫である』を書いたため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された。 帰国後第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた。
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村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶… 村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章受章。日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。 豊後玖珠(大分県玖珠町)出身。1878年(明治11年)から1884年(明治17年)の6年間を同志社英学校に学び、同余科(神学科)卒業後は東京府に移る。第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学文科大学史学科を卒業。その後東京帝国大学講師、東京外国語学校(現:東京外国語大学)校長、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)校長、台北帝国大学文政学部長、上智大学第4代学長などを歴任。
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藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1… 藤田 精一(ふじた せいいち、1868年(慶応4年) - 1938年(昭和13年)7月5日)は、日本の歴史学者。 山城国綴喜郡田辺村興戸(現・京都府京田辺市)出身。号・南山。1894年帝国大学文科大学史学科卒。1898年陸軍教授。広島中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)校長、大阪陸軍幼年学校教頭、広島陸軍幼年学校教頭。1938年、「新田氏研究」で東京帝国大学文学博士。妻は戸水寛人の妹。長男・法学士・藤田春太郎、次男・農学士・藤田二郎は、1926年頃相次いで死去。五男は日本史学者の藤田五郎。
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