鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - … 鈴木 千代松(すずき ちよまつ、明治9年(1876年) - 昭和10年(1935年))は日本の教育者。県下初等教育界の第一人者。 鳥取市に生まれる。鈴木惟孝の長男。 明治21年(1888年)、鳥取県尋常師範学校卒業(第1回生の首席)。米子角盤高等小学校訓導に破格の高給で採用されて話題となった。 明治27年(1894年)、西伯郡淀江町(現在の米子市)の善良高等小学校校長に転じ、明治33年(1900年)、再び角盤校に第2代校長として迎えられた。 角盤校では軍事訓練と質実剛健の校風で名を挙げた。 元鳥取県米子市長野坂寛治によると「先生は、久しく角盤高等小学校長として令名高かったが、後に懇請によって市立高等淑徳女学校長に転ぜられてその校風を樹立せられた。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月… 竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日 - 昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。明治30年(1897年)に二等軍曹となり、歩兵第21連隊(広島)に配属。翌年陸軍士官学校に入学する(11期) 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校夜間部に通う。 明治37年(1904年)日露戦争に出征、砲兵少尉として能美島砲台に配属され、翌年大連に上陸するも病により内地送還、召集解除となる。
阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日… 阿部 宗孝(あべ むねたか、1875年(明治8年)6月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の教育者。山口県豊浦郡( 現・下関市)の出身である。東京府立六中(都立新宿高校)初代校長、府立高等学校2代目校長。 1875年(明治8年)6月20日、山口県豊浦郡豊田中村(現:下関市豊田町)に、豊浦藩藩士・阿部宗忠の二男として出生。初め伝(つたえ)、1911年(明治44年)に宗孝と改名し、陸柱と号した。兄が早逝したため嫡子となった。 1902年(明治35年)に東京帝国大学文科大学国史科を卒業後、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)へ教諭として赴任した。赴任当初は絣木綿の着物に袴をつけていたことからまるで書生のようであったという。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 19… 河原 操子(かわはら みさおこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。婚氏は一宮。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方、日露戦争時の対露特別任務隊を支援したことからスパイとも評される。 筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる。長野県師範学校女子部を卒業後、2年間附属小学校の教員として勤める。1895年東京女子高等師範学校に入学するも、翌年肋膜炎により中退する。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に奉職する。1990年長野に来た下田歌子を訪ねたのをきっかけに、下田の推薦で、横浜で中国人が経営していた在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる。
小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月… 小松原 隆二(こまつばら たかじ、1875年(明治8年)6月2日 - 1944年(昭和19年)12月17日)は、日本の教育者、文部官僚。 岡山県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。1902年(明治35年)、第七高等学校造士館教授に就任し、1908年(明治41年)に第八高等学校教授に転じた。1922年(大正11年)、文部省督学官となり、翌年には姫路高等学校校長に就任した。その後、第八高等学校校長となり、1940年(昭和15年)1月に退官した。退官後は第八高等学校名誉教授の称号を受けた。 また同年3月から翌年にかけて、富山高等学校校長事務取扱を務めた。
佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治… 佐々木 月樵(ささき げっしょう、旧姓山田、1875年(明治8年)4月13日 - 1926年(大正15年)3月6日)は、日本の仏教学者・教育者。大谷大学教授、第3代大谷大学学長。大谷大学の組織と研究方針を確立させた人物として知られる。清沢満之門下。著作に『親鸞聖人伝』、『支那浄土教史』などがある。 1875年(明治8年)、愛知県碧海郡古井村(現・愛知県安城市)にある真宗大谷派の願力寺に生まれた。乳は山田才相、母はつやまであり、次男だった。 幼少時、大分県日田郡日田町の咸宜園(大谷派長福寺の学寮を起源とする)に学び、1888年(明治21年)、東本願寺が設置した三河育英教校に入学。その後、1893年(明治26年)、実質的に東本願寺の運営だった京都府立尋常中学校に編入し、翌年には東本願寺設置の京都第一中学寮に入学した。
中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月… 中村 勝麻呂(なかむら かつまろ、1875年〈明治8年〉3月 - 1944年〈昭和19年〉3月23日)は、日本の歴史学者、教育者。史料編纂官および立教大学文学部教授を務め、幕末から維新期の古文書の編纂を行った。 1875年(明治8年)3月、滋賀県で中村平太の長男として生まれる。叔父には、彦根藩儒学者の中村不能齊(中村不能斎)がおり、養子の関係から勝麻呂は不能斎の孫となる。 1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、同大学院に入り幕末外交史を専攻する。 1908年(明治41年)、東京帝国大学の史料編纂掛(後の史料編纂所)に務める史料編纂官に任ぜられ、1935年(昭和10年)まで勤務する。
石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月2… 石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月22日 - 昭和35年(1960年)6月6日)は、日本の教育者。國學院大學名誉学長。 1875年(明治8年)広島県広島市出身。元広島藩士・石川完治の二男に生まれ、1886年(明治19年)に一家で東京の霞が関に移住。翌年、平河小学校(現・麹町小学校)初等一級に入るが、1887年(明治20年)、本郷区への一家転居に伴い、当地の小学校に転入し卒業。1888年(明治21年)に東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)に入学。のち國學院大學本科に入学し、1895年(明治28年)に第3期生として國學院大學を卒業した。 卒業後は3年間の兵役を経て1898年(明治31年)に、國學院で師事した湯本武比古が社長を務める開発社に入職し、雑誌『教育時論』の記者となった。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。
井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 -… 井上 秀(いのうえ ひで、1875年(明治8年)1月6日 - 1963年(昭和38年)7月19日)は、日本の家政学者・教育家。日本女子大学校(現在の日本女子大学)初の女性校長(第4代、1931年11月 - 1946年11月)。 1875年(明治8年)1月6日、兵庫県氷上郡船城村(現・兵庫県丹波市)に生まれる。10歳で氷上郡各町村組合立氷上高等小学校に入学。在学中に裁縫の教師から「女に学問はいらないというのは古い考え方である。これからは女子も大いに勉強して国家に尽くす人にならなければいけない」と言われ、京都府立第一高等女学校を志す。 15歳で京都府立第一高等女学校に進学する。同校の寮で広岡浅子(明治・大正期に活躍した女性実業家)の娘・亀子と同室になった縁で、広岡家が営む大阪の豪商・加島屋久右衛門家にも出入りするようになる。
三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1… 三浦 修吾(みうら しゅうご、1875年〈明治8年〉 - 1920年〈大正9年〉)は、日本の教育者である。 福岡県浮羽郡吉井町若宮(現うきは市)出身。 福岡師範を卒業後、東京高等師範に進学し、その英語科を卒業。鹿児島師範を経て、姫路師範に転出。鹿児島師範当時の教え子に、玉川学園を創立した小原国芳がいる。同付属小学校主事となる。姫路師範在職2年で結核に罹り、1915年(大正4年)退職。療養生活の中でも執筆などの活動は継続、上京して成蹊学園の機関誌『新時代』の編集主任を務める。45歳で死去。クリスチャンであった。 『学校教師論』が名著の誉れが高い。戦前の東京府青山師範学校では、教育学の教科書に使われていたという。
和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 19… 和田 英作(わだ えいさく、1874年12月23日 - 1959年1月3日)は、鹿児島県出身の洋画家・教育者。東京美術学校校長(1932年 - 1936年)。文化勲章受章者、文化功労者。父は和田秀豊、弟は和田秀穂。 1874年12月23日、鹿児島県肝属郡垂水村(現・垂水市)に生まれた。父親は牧師の和田秀豊、母親は川上トヨ。鹿児島生まれとするのが定説だが、1997年にフェルケール博物館で開催された「日本近代洋画の重鎮・和田英作展」では、東京生まれだとする新説が提示されている。和田秀豊はトヨの父親川上幸彦と親しかった。英作は三男四女の長男である。 3歳4か月だった1878年3月に家族で上京し、東京府麻布区の麻布仲ノ町に住んだ。
太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21… 太田 秀穂(おおた ひでお、1874年(明治7年)12月21日- 1950年(昭和25年)12月23日)は、日本の教育者。 茨城県出身。太田茂兵衛の四男。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。新潟県新潟師範学校教諭、山梨県師範学校校長、新潟県高田師範学校校長、長野県師範学校校長を歴任。1912年(明治45年)、朝鮮総督府視学官に転じ、さらに京城女子高等普通学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、佐賀県師範学校校長となり、1919年(大正6年)には台湾総督府視学官に転じ、翌年には台湾総督府台北師範学校も兼ねた。 1923年(大正12年)からは多摩少年院院長を務めた。
田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月… 三輪田 輪三(みわた りんぞう、1874年(明治7年)11月16日 - 1961年(昭和36年)10月8日)は、日本の教育者。 愛媛県出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学数学科を卒業。山口高等学校教授となり、1901年(明治34年)に第六高等学校教授に転じた。1920年(大正9年)、山形高等学校初代校長に就任した。退官後、松本亀次郎らが設立した東亜高等予備学校学監を務めた。
遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 19… 伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 1956年11月19日)は日本の法学者、教育者。専門は民法。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長。長男伴素彦はサンモリッツオリンピックスキージャンプ日本代表で日本製粉株式会社の会長も務めた。 1874年(明治7年)京都市伏見区生まれ。京都府尋常中学校、第四高等学校 (旧制)を経て1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し京都帝国大学法科大学講師となる。翌1903年(明治36年)助教授となり、1908年(明治41年)からイギリス、フランス、ドイツへ留学。1912年(明治45年)帰国し7月より北海道の小樽高等商業学校に教授として赴任する。
西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - … 西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - 1940年7月18日)は、日本の教育者。大正から昭和初期に日本の聾学校/聾教育に口話教育の普及を推進した教育者。大阪市立聾学校(学校名は当時。現在は大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔とは、『手話の高橋、口話の西川』と対比された。 1874年、滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)生まれ。父は八十二郎、母はきち(西川吉輔の五女)。東京の私立商業素修学校卒業後、1895年に私立小樽商業夜学校を設立するが2年で廃校となる。その後、西川傳右衛門家を継ぎ、西川貞二郎の長女・君と結婚した。 元からの教育者ではなく、耳が聴こえない三女の濱子(はま子)のために始めた口話法が当時の社会で評判を博したため、教育者の道に進んだ人物である。
新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - … 大藤 鋳三郎(だいとう ちゅうさぶろう、1874年8月 - 1961年4月7日)は、日本の聖職者、神学者、教育者。日本聖公会司祭、立教女学院第7代理事長、聖路加国際病院理事、学校法人聖路加看護学園(現・聖路加国際大学)理事。 1895年(明治28年)6月25日、立教学校(立教大学の前身校の一つ)を卒業。この時の卒業式は第3回生卒業式と、第4回生卒業式が併せて行われ、第3回生の卒業生には、木村重治、須藤吉之祐らがおり、同期である第4回生の卒業生には、大藤鋳三郎のほか、濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛、ヤマサ醤油社長)、古河倍造、岩佐松太郎(島根出身)、曾根精(福井出身)、中村正路(熊本出身)、白井兵治(福井出身)、菅沼四郎(奈良出身)、鈴木一(千葉出身)らがいた。
野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 … 野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 - 1950年(昭和25年)11月1日)は、日本の教育者。 福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した。その間の1924年(大正13年)、文学博士号を受けた。 退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた。
島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7… 島崎 赤太郎(しまざき あかたろう、1874年〈明治7年〉7月9日 - 1933年〈昭和8年〉4月13日)は、日本の作曲家、音楽教育者であり、オルガン奏者である。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 東京の築地(入船)に生まれた。父親の熊次郎は大工棟梁であったが、1886年(明治19年)ごろ、一家をあげてクリスチャンとなった。この父親は1890年(明治23年)の内国勧業博覧会にオルガンを出品していた。赤太郎は東京音楽学校(現・東京藝術大学)入学後、専修部でルドルフ・ディットリヒ、小山作之助らの元で学び、1893年(明治26年)に卒業。そのまま母校の助教となり、1901年(明治34年)には昭憲皇太后御前演奏を行っている。
藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1… 藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 - 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月… 貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月23日 - 1938年〈昭和13年〉3月31日)は、長崎県出身の教育者。 静岡県立中央図書館の前身である静岡県立葵文庫の初代文庫長(初代館長)。 1874年(明治7年)6月23日、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)に生まれた。父は旧大村藩士の山田悟であり、二男だった。1887年(明治20年)、遠戚である貞松義一郎の養子となった。1892年(明治25年)7月19日、私立大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)を卒業した。1900年(明治33年)、高等師範学校(現・筑波大学)を卒業し、英語科教員の免許を受領した。 1900年(明治33年)には福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)の教諭となり、1901年(明治34年)には熊本県師範学校(現・熊本大学)の教諭となり、1912年(大正元年)には私立興譲館中学校(現・興譲館高等学校)の英語歴史科教授嘱託となった。
佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 -… 佐香 ハル(さこう ハル、1874年(明治7年)6月6日 - 1958年(昭和33年)3月20日)は、日本の教育者。徳島県出身。徳島県立高等女学校(現徳島県立城東高等学校)卒業。 徳島市幟町に藩絵師の長女として生まれる。徳島女学校を出て結婚したが離婚し、26歳で上京。渡辺裁縫女学校(現帯広北高等学校)、堀越和洋裁女学校で学ぶ傍ら、国語伝習所と帝国教育会中等教員国語漢文教習所にも通う。 母校の堀越和洋裁女学校の教師を経て、1903年に東京都神田三崎町にて私立和洋裁専門女学校を創設し校長となる。翌年夏の帰省中、徳島師範学校女子部にて徳島初の裁縫講習を行なったところ、県知事らの勧めがあり、1905年(明治38年)に地元である徳島県に帰郷し、徳島市で佐香和洋裁女学校を創設(現香蘭高等学校)。
十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 -… 十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 - 1940年(昭和15年)4月29日)は、日本の教育者。 福岡県に衆議院議員十時一郎の二男として生まれ、大叔父の養子となった。第三高等学校から第五高等学校に転じ1896年(明治29年)7月に卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。学習院教授、第三高等学校教授などを務め、1922年(大正11年)、社会学研究のため欧米に留学した。1923年(大正12年)、新設の広島高等学校(現在の広島大学総合科学部)校長に就任し、1932年(昭和7年)に第五高等学校校長に転じた。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 196… 木村 重治(きむら しげはる、1874年5月4日 - 1967年7月18日)は、日本の西洋史学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授・学部長、長崎高等商業学校(現・長崎大学)元校長、東京商科大学(現・一橋大学)元教授、慶應義塾大学元教授、台湾協会学校(現・拓殖大学)元教授、山口高等商業学校(現・山口大学)元教授、啓明学園学園長。 1874年(明治7年)5月4日、奈良県で木村芳三郞の二男として生まれる。 1892年(明治25年)7月、立教大学の姉妹校である聖公会の奈良英和学校に入学。同校が中学校制に改め廃校となると、東京の立教学校(現・立教大学)に転学。1894年(明治27年)6月、立教学校卒業。
岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3… 岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3月1日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、日本の教育者。 大阪府出身。第三高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、岐阜県尋常中学校教諭、第六高等学校教授、第八高等学校校長、第二高等学校校長を歴任。1928年(昭和3年)、第六高等学校長に就任した。1935年(昭和10年)に退官した後は、第六高等学校名誉教授の称号を受けた。建築家の岡野寛次(竹中工務店)は弟儀助の養子となった次男である。
遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1… 遠藤 熊吉(えんどう くまきち、1874年(明治7年)3月1日 - 1952年(昭和27年)8月31日)は、日本の教育家である。 秋田県雄勝郡西成瀬村(現在の横手市)に所在する安養寺に生まれる。後の増田町立西成瀬小学校(現在は閉校)の前身である荻袋安養寺小学校に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に上京し大八洲学校および国語伝習所に入学し標準語を学んだ。1895年(明治28年)に再度秋田に戻り、駒形尋常小学校(後の湯沢市立駒形小学校、現在は閉校)に准訓導として教鞭を執る。 翌1896年(明治29年)には母校である西成瀬小学校に教師として同学校に戻り、同学校にて方言教育を指導せず専ら標準語教育の指導および話し言葉の指導に携わった。
永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日… 永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は日本の音楽教育者。大阪音楽学校(現大阪音楽大学)設立。
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 19… 市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22… 堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22日 - 1920年(大正9年)4月3日)は、明治から大正期の地主、教育者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山口県都濃郡、のちの末武北村(花岡村を経て現下松市)で、豪農・堀済三の長男として生まれる。山口高等中学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに同研究科を修了した。 1900年(明治33年)以降、滋賀県立第二中学校(現滋賀県立膳所高等学校)教諭、日本大学講師、学習院講師、宮内省図書寮勤務などを務めた。1905年(明治38年)3月、家督を相続した。 1907年(明治40年)に帰郷し農業経営を行う。
新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月1… 新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月11日 - 1938年(昭和13年)8月16日)は、日本の教育者。旧名は伊八。 宮城県出身。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1908年(明治41年)、仙台高等工業学校教授となり、生徒監を兼ねた。1912年(明治45年)からは東北帝国大学工学専門部生徒監となり、1915年(大正4年)に同主事となった。その後、東北帝国大学事務官を経て、仙台高等工業学校校長を務めた。
島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月… 島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月2日 - 1940年(昭和15年)8月18日)は、日本の教育者。 広島県佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)出身。1897年(明治30年)、商船学校(のち東京高等商船学校)機関科を卒業。翌1898年(明治31年)、商船学校教諭となり、1903年(明治36年)から1905年(明治38年)まで機関学研究のためイギリスに留学した。帰国とともに教授となり、1923年(大正12年)に教頭に、1925年(大正15年)には校長に就任した。1936年(昭和11年)に退官し、東京高等商船学校名誉教授の称号を得た。 逓信省技師・地方海員審判所審判官・高等海員審判所審判官を兼ねたほか、帝国水難救済会評議員・造船協会評議員・日本海員掖済会理事などを務めた。
西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23… 西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15… 小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15日 - 没年不詳)は、日本の教育者。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。岐阜県大垣中学校教諭、山口県立豊浦中学校教諭、静岡県立掛川中学校校長、石川県立金沢第一中学校校長、福岡県立中学校修猷館校長、第五高等学校教授、松江高等学校校長、第六高等学校校長、水戸高等学校校長を歴任。1931年(昭和6年)に第四高等学校校長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、東洋高等女学校校長を務めた。
志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月… 志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月 - 1959年(昭和34年)2月1日[要出典])は、日本の教育者。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。清水道勝の三男として生まれ、志保田六兵衛の養子となった。1895年(明治28年)、京都尋常師範学校を卒業し、天田郡中部の高等小学校訓導を務めた。1900年(明治33年)、東京高等師範学校文科を卒業し、沖縄県師範学校教諭となった。1901年(明治34年)、台湾総督府国語学校教授に就任。その後、台南高等女学校校長、台南師範学校校長、台北師範学校校長、台北第一師範学校校長を歴任した。 後に帰国、1959年(昭和34年)2月1日に京都市で死去[要出典]。
佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日… 佐野 善作(さの ぜんさく、1873年(明治6年)8月29日 - 1952年(昭和27年)5月1日)は、日本の会計学者、経済学者、教育家。商業教育に大きな功績があるとして、1952年に勲一等瑞宝章を受章した。 1873年、現在の静岡県富士市中島に生まれる。1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同期に石井健吾(元第一銀行頭取)、岡崎久次郎(日米富士自転車創業者)などがいた。 卒業後はコロンビア大学、ロンドン大学に留学し、研究を深める。帰国後は母校の高等商業学校助手となり、1896年より同助教授、1900年より同教授。1903年より附属商業教員養成所主事。1911年、法学博士号を取得。1914年、東京高等商業学校校長、1920年に同校が大学へ昇格すると東京商科大学(現・一橋大学)初代学長を務めた。
蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 19… 柴田 顕正(しばた けんせい、1873年7月15日 - 1940年4月20日)は、日本の郷土史家、教育者、神官。 『岡崎市史』全8巻(1926年~1930年)とその別巻である『徳川家康と其周囲』全3巻(1934年~1935年)を半生を傾けて完成させた。正式には「柴田顯正」と表記。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に伊賀八幡宮社司の柴田顯光の長男として生まれる。額田郡第十六番小学八幡学校(現・岡崎市立広幡小学校)を出たのち上京。1893年(明治26年)7月、國學院大學第一回生として同校を卒業後、史学者の三上参次のもとで教科書編集の仕事に携わった。 その後、1895年(明治28年) 石川県尋常中学校七尾分校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)の教諭を経て、1897年(明治30年)9月から1901年(明治34年)8月まで、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に勤務。
山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月2… 山崎 延吉(やまざき のぶきち、1873年(明治6年)6月26日 - 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の農政家・教育者。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。愛知県立農林学校初代校長。帝国農会幹事。安城市一帯が「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業先進地になったのは、農業改善に力を尽くした山崎の力が大きい。我農生との雅号をもつ。 石川県金沢区(現・金沢市長町1丁目14番地)に生まれる。父親は農業改革指導者二宮尊徳の弟子だった。1894年(明治27年)、第四高等学校卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業。福島県蚕業学校の教諭に採用される。1899年(明治32年) 5月、大阪府立農学校の教諭に転ずる。