溝淵 進馬(みぞぶち しんま、1871年2月14日(明治3年… 溝淵 進馬(みぞぶち しんま、1871年2月14日(明治3年12月25日) - 1935年(昭和10年)9月11日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育者。 土佐国(高知県)出身。第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)に帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、第二高等学校教授、千葉県尋常中学校校長、東京高等師範学校教授、東北帝国大学農科大学予科教授、第四高等学校校長を歴任し、1921年(大正10年)に第五高等学校校長に就任した。さらに1931年(昭和6年)には第三高等学校校長に転じた。
三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年… 三好 愛吉(みよし あいきち、1871年2月12日(明治3年12月23日) - 1919年(大正8年)2月11日)は、日本の教育者、元第二高等学校校長、元皇子傅育官長。 1871年2月12日(明治3年12月23日)に、村上(現新潟県村上市)に、村上藩士・三好義雄の次男として生まれる。村上中学に学び、1891年(明治24年)第一高等学校卒業、1895年(明治28年)東京帝国大学(現東京大学)哲学科を卒業する。 その後、京都真宗大学教授、新発田尋常中学校長を務め、また長野尋常中学(現長野県長野高等学校)を創設、初代校長となる。暖房費を節約して「神聖なるピアノ」を購入などのエピソードを残す。1900年(明治33年)、仙台の第二高等学校(現東北大学教養課程の前身)教授、のちに第5代校長となり、同校の「雄大剛健」の校風を樹立した。
戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3… 戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1939年(昭和14年)7月9日)は、日本の評論家、英文学者、教育者、翻訳家、随筆家。別号は秋骨のほか、棲月・早川鴎村、早川漁郎・蒼梧桐・長帆・かげろふなど。 明治3年、等照とジュンの長男として、肥後国玉名郡岩崎村(現:熊本県玉名市)に生まれた。生まれ年から、明三と名付けられた。等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で、家老の原家から養子入りしていた。1877年、一族と上京し、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に入り、巴町の鞆絵小学校(現:港区立御成門小学校)に転じた。 世を捨てた父よりは、その実弟に躾けられ、1883年(12歳)、大阪へ伴われて大阪中学校(旧制三高の前身)に学ぶかたわら、漢訳の聖書や英語を習った。
杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1… 杉浦 貞二郎(すぎうら さだじろう、明治3年12月18日(1871年2月7日) - 昭和22年(1947年)4月24日)は、日本の哲学者、教育者。立教大学元学長、立教大学名誉教授、陸軍大学校教授。 若狭国小浜(現福井県小浜市)に生まれる。東京の真光教会牧師杉浦義道の弟である。1887年(明治20年)に兄・義道の影響を受けて、C・M・ウィリアムズより洗礼を受ける。立教大学校(現・立教大学)を経て立教学校(第2次)で学び、同級には吉田栄右がいた。立教大学校で学んだ岩佐琢蔵によると、当時の学生たちは勉学にとても熱心で、貞二郎はその頃の日本の哲学書は全て読破したと誇っていたという。 1892年(明治25年)に立教学校(第2次)を卒業した後、留学のため渡米する。
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月… 由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日)は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。 高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。 1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は… 上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は、日本の教育者。山陽高等女学校(後の山陽学園大学・山陽女子中学校・高等学校(現在の山陽学園中学校・高等学校))の校長を51年間務め、岡山県の女子教育の推進に寄与した人物。岡山市名誉市民。 1871年(明治4年)、伊予松山藩士・上代知新の娘として愛媛県松山市に生まれる。程なくして父である知新が生活の糧を得るために淑を含む家族を連れて大阪に上り、同地で新島襄と出会い、彼より洗礼を受けてキリスト教の信徒(のちに牧師)となったため、これに伴う形で淑もまた洗礼を受け、その縁から自家の近所にあった梅花女学校(現在の梅花学園)にて女子教育を受ける事となった。
小林清作(こばやしせいさく、1871年 - 1935年)は、… 小林清作(こばやしせいさく、1871年 - 1935年)は、日本の教育者。愛知淑徳女学校(現:愛知淑徳中学校・高等学校)の初代校長。 元衆議院議員の小林憲司は曾孫。 新潟県西蒲原郡燕町(燕市)の菓子屋「渋屋」の長男として生まれた。燕小学校卒業後、弥彦村の明訓尋常中学に入学。先生に帝大進学を勧められ、1886年(明治19年)明訓中学校を中退、東京第一高等中学の受験科目である英語と数学の教育が進んでいる東京開成中学への編入を選んだ。 1888年(明治21年)、第一高等中学に合格。学友に大町桂月・姉崎嘲風・高山樗牛・武島羽衣・建部遯吾・桑木厳翼らがいる。第一高等中学では回覧雑誌が盛んであり、小林清作は『璞』(あらたま)なる回覧雑誌を主宰し、北越散人の筆名を用いた。
山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 … 山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 - 1941年)は、日本の教育者、神学者、歴史学者、聖職者。立教大学教授、聖公会神学院教授、日本聖公会の聖職者。教会史の権威で、東京聖三一教会、府中聖マルコ教会で司牧。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には日本の野球の先駆けとなる野球チーム(現・立教大学野球部)があり、試合は新橋停車場内の広場で行われていたが、山縣は優勝チームの選手の一員として活躍した。 留学し、神学士(Bachelor of Theology(英語版))の学位を取得。 その後、立教大学でチャプレンを務め、立教大学文学部の教授としても基督教史を教えた。
高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年… 高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年)は、日本の教育者。 徳島県板野郡三俣村にて、長尾惣五郎の次男として誕生。東京高等工業学校建築科卒。 旧徳島藩士・高井幸雄の娘・シウ子と結婚し、同家の婿養子となる。明治37年に徳島県立工業学校教諭となったのを皮切りに、明治39年に香川県立工芸学校長、大正3年に広島県立職工学校長、大正13年に台北州立台北工業学校長(第4代)に就任した。昭和4年現職のまま死去(59歳)。 台北工業学校時代の綽名は「トマト」であった。
星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年… 星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年11月12日) - 昭和8年(1933年)11月25日)は、日本の商学者、教育者。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部教授として簿記論や商品学を講じた。 駿河国(現静岡県)で旧幕臣星野鉄太郎(のちに初代静岡市長)の長男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年同校教授に就任。下野直太郎、鹿野清次郎らと簿記・商品学を講じた。同僚の志田鉀太郎、下野直太郎、關一、佐野善作、村瀬春雄、坂本陶一、石川文吾、瀧本美夫、横井時冬らとともに明治大学商学部設立にも尽力し、1904年に明治大学商学部が設立されると商品学講師に就任。1920年に東京高等商業学校が旧制東京商科大学に改組されると、同大学付属商学専門部教授や予科教授、同大学付属商業教員養成所主事を務めたが、在任中の1933年に死去した。
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10… 十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日)は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である。旧姓は高畑。
石田 新太郎(いしだ しんたろう、1870年11月(明治3年… 石田 新太郎(いしだ しんたろう、1870年11月(明治3年11月)- 1927年(昭和2年)1月26日)は、明治・大正期の官僚、大日本帝国外地統治の陸軍教育者、慶應義塾幹事。 陸奥国田村郡三春町(現福島県田村郡三春町)生まれ。中学校を卒業し、明治22年(1889年)上京して国民英学会に入り、明治24年(1891年)1月慶應義塾大学部文学科に入学し、明治26年(1893年)12月卒業。卒業後に上野図書館において独学で教育及び心理の二学を修めて、高等師範学校教授谷本富と論戦を開く。 明治30年(1897年)の春、陸軍士官学校に出仕し、校長・安東貞美少将の下にて教程編述に参与し、幾ばくもなく寺内正毅少将の幕僚として策をたすける。
坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1… 坂本 龍之輔(さかもと りゅうのすけ、明治3年7月23日(1870年8月19日) - 昭和17年(1942年)3月26日)は、日本の教育者。 明治期に上野下谷に日本で初めて設けられた貧民学校の校長を務め、その教育実践が、かつての教え子であった添田知道の『小説 教育者』として作品化されて、大正、昭和期に教育者の範として知られた。 神奈川県西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市牛沼)に、坂本源吾之輔、あきの五人兄弟の三男として生まれる。神奈川師範学校(現・横浜国立大学教育人間科学部)に学び、初赴任は、西多摩郡古里村の習文尋常小学校(現・西多摩郡、奥多摩町立古里小学校)だった。その後、神奈川県下で、町田村の日新尋常小学校(現・町田市立町田第一小学校)、大和市の渋谷高等尋常小学校(現・大和市立渋谷小学校)、町田村の開矇(かいもう)高等尋常小学校(現・町田市立南第一小学校)の校長を歴任。
岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年… 岩佐 琢蔵(いわさ たくぞう、1870年7月25日〈明治3年6月27日〉- 1946年〈昭和21年〉12月17日)は、日本の英文学者、教育者。立教大学元教授、フェリス和英女学校(現・フェリス女学院)副校長・教頭、横浜英語学校校長、立教大学学監、立教女学校(現・立教女学院)教頭。フェリスでは、ミッションスクールでの宗教教育を禁じる文部省訓令第12号に対処するため英語師範科を創設するなど、女学校の存続と発展に長く貢献した。 福井県出身。福井の中学校を出て、上京する。当時、琢蔵が東京の学校として名前を知っていたのは、帝国大学(後の東京帝国大学)と、その予備校である高等中学校、その他には慶応義塾だけであった。
宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24… 宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24日 - 1924年(大正13年)10月14日)は、明治・大正期の英語学者・教育者。岐阜県出身。 「英文法を独自の立場で研究したことは斎藤秀三郎に次ぐもので、この二氏以外には日本人として独自の立場から英文法を研究した者はそれ迄にはなかったといっても過言ではないであろう。」と評価されている。 「卯の花庵主人」の筆名での翻訳がある。 学問以外では謡曲に精通し、観世清之、その後観世喜之に師事すると共に早大教授の多くを謡道へ引き入れた。
松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870… 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。 妻は旧土佐藩士・岡内重俊の娘「壽(ひさ)」。 遠江国小笠郡中内田村(現:静岡県菊川市)の初代村長・松本丑太郎の二男として中内田村213番地に生まれる。幼名は貞次郎。母は木佐森茂助の三女「幸(こう)」。長じて岡田淡山の私塾・冀北学舎で国学・漢学・英語を3年間学んだ後、東京に遊学した。 1887年(明治20年)8月31日、名を「君平」と改める。 1890年(明治23年)9月11日、兄・栄太郎が廃嫡し、同月17日、静岡県佐野郡西郷村の松浦五平治の養子となって家を出た為、君平が惣領息子となる。
川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日… 川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日 - 1947年2月12日)は、日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。 姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。 1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943… 猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943年)は、日本の政治家、教育者である。 大住郡金目村の名主与右衛門の次男として生まれる。三郡共立学校(神奈川県立秦野高等学校と神奈川県立平塚農業高等学校の前身)を経て、東京神田の共学院で学ぶが、長男の死亡により、帰郷し、家督を継いだ。その後、1898年(明治31年)、金目村役場書記、1900年(明治33年)、収入役を経て、1905年(明治38年)、金目村村長に就任した。以後、1918年(大正7年)から1935年(昭和10年)まで4期村長を務めた。この間、金目村村会議員を6期、中郡会議員を2期務め、また金目村農会長、金目村耕地整理副組合長、中郡農会副会長、会長を歴任した。
一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 19… 一條 慎三郎(いちじょう しんざぶろう、1870年 - 1945年)は、日本の音楽教育者。 信濃国松代城下に松代藩士の子として生まれる。東京音楽学校を中途退学し、音楽教師として立教学院や山形師範学校で教鞭を執る。伊沢修二の招聘により台湾に渡り、台湾総督府国民学校助教授のち、台北師範学校教授となる。爾来、台湾独自の唱歌の制作に励行し、「公学校唱歌集」の編纂にあたり、全46曲中15曲を作曲した。また台湾放送協会に台北放送局(JFAK)楽団を設立し、師範学校の学生合唱団を組織し、各地で演奏会を開催した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 195… 鈴木 たま(すずき たま、明治3年〈1870年〉 - 1958年〈昭和33年〉12月3日)は、日本の教育者。群馬県における女子教育の先駆者のひとり。明治裁縫学校創設者。名は多満子とも。 明治3年(1870年)、前橋に生まれる。 前橋藩士の家柄で、祖父は祐筆を勤めた。父・鈴木福次郎は西南戦争に抜刀隊として従軍して田原坂の戦いで戦功を挙げ、その後は東群馬・南勢多合同郡役所に勤務した。母の名はトワ。 13歳のときに父をチフスで亡くし、さらに母や弟も病死。15歳から前橋の仕立屋で修業ののち、川越に移り裁縫の技術を修練した。また前橋に仙台の松操女学校(現・仙台大学附属明成高等学校)分校ができたため同校で学ぶ。
青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 19… 青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 1964年3月10日)は日本の牧師、教育者である。 1870年(明治3年)に武蔵国岩槻(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に生まれる。明治学院と同志社神学校で学び、渡米してプリンストン神学校、ノースウェスタン大学に留学する。 1902年(明治35年)同志社神学校旧約聖書担当教授になり、同志社女学校教頭を兼任する。当時、同志社神学校での日本人教授は青木と日野真澄の2人であった。1904年(明治37年)に神戸日本基督教会の牧師になり、直接伝道を始めた。 1919年(大正8年)には神戸教会は独立教会になり、神戸イエス・キリスト教会になり、青木は按手礼を返上して一信徒になり、文書伝道など独自の伝道を始めた。
多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年1… 多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年12月9日) - 大正9年(1920年)6月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家、チェリスト。 明治2年、宮廷雅楽の家系である多家の次男として京都に生まれる。東京音楽学校へ進み、1892年年に専修部を卒業すると大阪府尋常師範学校(今の大阪教育大学)で教諭として勤務した。その最中の明治33年(1900年)に、作詞家大和田建樹に依頼され『鉄道唱歌』を作曲した。 このとき、大和田建樹は上眞行(「一月一日」などの作者で、この時東京音楽学校講師)にも作曲を依頼しており、上眞行は自分より格が劣るようだった多にも同時依頼したことを不快に思ったといわれるが、結局は勝つ自信があったため引き受けたといわれる。
曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(186… 曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(1869年11月23日) - 昭和20年(1945年))は、日本の教育者。文化書房主。号は金僊。 伊予国宇和郡吉田(現在の愛媛県宇和島市)出身。小学校訓導、松山中学校教諭、郡視学を歴任。1901年(明治34年)、金港堂に入り、雑誌「教育界」編集主任となった。1911年(明治44年)に独立して明治教育社を設立するが、やがて廃業した。1919年(大正8年)より南北社で編集長となるが、1922年(大正11年)に文化書房を興して再び独立した。 その他、東洋美術協会理事、中央教育品協会理事、愛媛県同交会長、帝国教育会評議員・出版部長、同理事を務めた。
秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2… 秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2年10月17日) - 1954年(昭和29年)12月8日)は、明治から昭和時代前期の教育者。師範学校校長を歴任した後、沼津精華学園を創設。「我が国教育の急務は女子教育にあり」として、女子教育に尽力した。 1869年、徳川家とともに静岡に移った幕臣・秋鹿見山の長男として、沼津城下の棟割長屋に生まれる。沼津兵学校ゆかりの集成舎(沼津小学校)に学び、江原素六が設立し米山梅吉が学んだ私立沼津中学校を経、県立静岡師範学校に進み、1887年年3月29日、静岡県尋常中学校卒業。 上京して1888年4月、高等師範学校文学科に入学、1891年卒業。新潟県師範学校、及び各地の師範学校に勤務。
白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年… 白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年9月13日) - 昭和18年(1943年))は、日本の教育者。 東京府出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、大学院に入った。麻布中学校教諭、陸軍教授・中央幼年学校附、学習院教授・学生監を経て、東京府立第五高等女学校校長を務めた。1939年(昭和14年)、退官。
尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日… 尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日 - 1950年12月22日)は、韓国(大韓帝国及び日本統治時代の朝鮮)の教育者、官僚。号は子亨、字は東庵。日本名は伊東致旿。 牙山生まれ。尹英烈の9男3女のうちの長男。5歳から四書三経のような漢文学を学び、神童と呼ばれた。祖父の尹取東と学んでいたが開化の潮流が起こり、取東は致旿に学者になるよう勧め、早婚(年少期の婚約)後に高僧の多い表訓寺に入り、仏典と有学を修める。以後、3年はそれに専念した。最初の妻は金潤晶の娘。 開化の道へ入ることを決め、推薦で1894年議政府主事。同年甲申政変で親族の尹雄烈、尹致昊が開化派として関与したことで致旿も開化派とされたため日本へ亡命。
伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治… 伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治2年〉 - 1946年〈昭和21年〉3月3日)は、日本の思想家、教育者、心理学者、宗教学者。関西教育界の第一人者であり、特に、女子教育で定評があった。当時、菊池寛、三土忠造とともに、香川県出身の代表的な三人として並べられることもあった。甲陽学院中学校・高等学校創立者。
戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5… 戸板 関子(といた せきこ、明治2年4月19日(1869年5月30日) - 昭和4年(1929年)1月14日)は、日本の教育者。戸板学園の創立者。 1869年(明治2年)、仙台藩士で漢学者の戸板善内の一人娘として仙台北5番町で生まれた。生まれた年に父を亡くし、母の手で育てられた。 仙台の松操女学校で学び、18歳で小学校教員となった。自らの知識を磨くために上京し、横浜のフェリス女学校に入学する一方、フェリス女学校、東洋英和女学校、東京女学館で裁縫教師を務めた。1893年、鳥居坂教会の武田芳三郎牧師と結婚し家庭に入るが、教育への情熱から夫と離れて戸板姓に戻った。後に芳三郎と和解し、芳三郎が戸板家に入ることとなった。
河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 -… 河合 義文(かわい よしふみ、1869年(明治2年)5月 - 没年不詳)は、日本の教育者・数学者。 富山県出身、第一高等中学校卒業、1894年(明治27年)、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業すると1895年に現・金沢市の第四高等学校教授に就任、やがて四高生の風紀の乱れを嘆く北条時敬校長に応え、1897年(明治33年)頃から「三々会」という修養の集まりに講師として西田幾太郎、堀維孝、三竹鉄五郎らと参加する。主担当の数学を教えるかたわら、1910年(明治43年度)から1916年(大正5年度)のあいだの5年間、物理担当の西英盛(明治5年生まれ)をたすけて大学で専攻した物理学も教えた。 1913年1月と9月(44歳前後)に学術調査のため出張を承認されている。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年… 白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和29年(1954年)7月25日)は、日本の教育者。人間環境大学附属岡崎高等学校の創立者。三河地方における女子教育の先駆者である。旧姓は山本。 田原町長を1901年(明治34年)から15年間務めた山本右太郎は次兄。 三河国田原(現在の愛知県田原市)に田原藩士山本源善の長女として生まれる。1888年(明治21年)1月、近所の田原小学校で教員に欠員が生じたため、校長から兄を通じて「代わりをやってもらえないか」との申し出を受ける。白井は1月から5月まで「渥美郡役所雇教員」の辞令で田原教学校の教壇に18歳で立つことになった。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1… 堀沢 周安(ほりさわ ちかやす、1869年2月18日 - 1941年4月14日)は日本の作詞家、教育者。名前は「しゅうあん」と音読される場合もある。号は鹿峡(ろくきょう)。 明治2年1月8日(西暦1869年2月18日)、尾張国丹羽郡善師野村(現在の愛知県犬山市)に生まれる。犬山城下稲置村の丹羽葉栗第一番高等小学校を卒業した後、尋常小学校の教員手伝いを経て1891年(明治24年)に上京、東京国語伝習所(大成高等学校の前身校)で上田萬年に師事して国文学を学んだ。 卒業後は長野県や北海道、香川県、愛媛県で旧制中学校や高等女学校の教員を務め、特に香川・愛媛の両県で校歌や市町村歌を多数作詞した。旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)の校長職に在った1921年(大正10年)、大阪市が3代目市庁舎落成を記念して公募した「大阪市歌」で応募作が一等入選する。
尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 19… 尾田 信忠(おだ のぶただ、1869年〈明治2年〉 - 1957年〈昭和32年〉4月28日)は、日本の教育者。錦鶏間祗候。 新潟県に上田義信の長男として生まれ、尾田信通の養子となった。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍教授となり、東京陸軍地方幼年学校教頭、教育総監部出仕を経て、陸軍士官学校教頭を務めた。 1935年(昭和10年)4月8日に退官し、翌年に錦鶏間祗候となった。 1957年(昭和32年)4月、脳溢血で死去した。
松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月2… 松田 道(まつだ みち、慶応4年9月7日(1868年10月22日) - 1956年(昭和31年)1月15日)は、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町)出身の、明治期から昭和前期の女子教育者。女性として初めて、同志社女子専門学校(現在の同志社女子大学)の校長を務めた。 松田道は、1868年(慶応4年9月7日)、丹後国中郡峰山(現在の京都府京丹後市峰山町室)にて、松田甚八の次女として誕生した。生家は旧峰山藩主の屋敷跡にあったという。時の京都府知事・槇村は学業をよく奨励したので、松田道の父母もこれに倣い、子ども達を学校に通わせるのを好んだ。 創立当時の峰山小学校在学中は冬は藁靴を履いて通い、習字を習いに自宅を訪ねても面倒がらずに面白い話をしてくれた壮年の「高木先生」と、その近所に住み、積雪の日などは自ら背に負って自宅まで送り届けてくれた若い「柴崎先生」のことは晩年まで忘れることはなかった。
大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7… 大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7月11日) - 明治35年(1902年)9月6日)は日本の教育者。出生名は大江磯吉(いそきち)。 1868年、信濃国伊那郡下殿岡村(現・長野県飯田市下殿岡)に生まれた。父および祖父は、殿岡、名古熊、毛賀の3カ村の警備「下役」に従事し、江戸時代は「番太」とされていた家系である。 地域最初の小学校で一年生から教育を受ける。開校された下伊那中学校の第一期生として入学する。1885年7月、改名され長野県立中学校飯田支校の第一期卒業生となる。1886年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入となり、翌年7月卒業する。 1886年9月2日に、長野県諏訪郡平野小学校の訓導として赴任するが、同僚教師の間で排斥する動きとなり、7日後に辞職を余儀なくされる。
石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月… 石井 次郎(いしい じろう、1868年7月8日(明治元年5月19日)- 1939年(昭和14年)3月19日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員をつとめた。 肥前国小城郡、のちの佐賀県小城郡南多久村(現在の多久市)に生まれる。生家の石井家は、旧佐賀藩主鍋島家の外戚家門で、佐賀地方で繁栄した一族であった。 地元で小学校の教師として働き始めるが、郷里の先輩である大隈重信らの活躍に憧れて、政治家を志す。1888年(明治20年)には、弱冠20歳にして郡会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出す。10年後には佐賀県会議員に当選し、その期間、第17代県会議長もつとめた。また、小城郡是製糸、多久金融、多久土地の各社の取締役社長などもつとめた。
板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(18… 板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(1868年7月4日) - 昭和17年(1942年)2月4日)は、日本の教育家。従四位。 慶応4年5月15日(1868年7月4日)土佐藩士・板垣退助の嫡男として土佐国高知城下に生まれる。母は土佐藩士・小谷正臣(善五郎)の娘、鈴。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実弟・乾正士と共に参加。同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動。北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎らがいた。 明治21年(1888年)5月15日、山田平左衛門を校長に招聘し、高知県土佐郡種崎町に私立学校泰平学校を設立した。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明… 矢澤 米三郎(やざわ よねさぶろう、1868年(慶応4年/明治元年)5月2日 - 1942年(昭和17年)3月31日)は日本の博物学者、教育者である。日本におけるライチョウ研究の先駆者として知られる。 信濃国諏訪郡上金子村(現・長野県諏訪市)の寺子屋師匠矢沢正雄の長男として生まれる。長野県尋常師範学校を経て、明治26年(1893年)東京高等師範学校博物科卒業。同31年(1898年)から2年間、高師研究科に学び、長野師範教諭となる。河野齢蔵と乗鞍、白馬、八ヶ岳等の高山学術研究に着手し、矢沢が昆虫、河野が植物の生態観察を行い、幾多の新種を発見している。羽田貞義らと明治35年(1902年)信濃博物学会を設立し、幹事長となる。
玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(18… 玉虫 一郎一(たまむし いちろういち、慶應4年4月6日(1868年4月28日) - 昭和17年(1942年))は、日本の教育者。 宮城県仙台市出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、東京高等師範学校附属中学校英語歴史科講師となる。1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校教諭となり、1898年(明治31年)に宮城県尋常中学校教諭に転じた。1901年(明治34年)、第二高等学校教授となり、1928年(昭和3年)に校長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、名誉教授の称号を受けた。
楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶… 楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日(慶応4年3月25日) - 1927年(昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家、教育者。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。青森県弘前市出身。 弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、1910年(明治43年)〜1917年(大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。 また、島崎赤太郎、岡野貞一、南能衛、上真行、小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。
市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3… 市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日(1868年3月28日) - 昭和16年(1941年)1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者、学校の設置者。女子産業教育の先鞭者。広島県立尾道商業高等学校、名古屋経済大学市邨中学校・高等学校、名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者。 備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業。 尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた。 1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。