清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月2… 清水 鉱治(しみず こうじ、1886年 - 1925年2月25日)は、日本ホーリネス教会の牧師である。離島伝道に従事した。 山形県最上郡豊田村(現・鮭川村豊田)に沓澤家の次男として生まれる。新庄中学(現・山形県立新庄北高等学校)在学時代に、新庄ホーリネス教会清水俊蔵によりキリスト教に入信する。 新庄中学校卒業後に献身し、聖書学院に入学する。また、清水俊蔵の婿養子となる。1912年に妻が死去してから、伊東同盟教会(日本同盟基督教団伊東教会)で伝道する。1914年5月には新島同盟教会(日本同盟基督教団新島教会)に赴任する。 1925年に肺結核のために杉並救世軍病院で死去する。 辞世の歌は「教のため身はすて小舟かへりみで、この荒磯に朽ちはてんとぞ思ふ。
飯島 誠太(いいじま のぶた / せいた、1885年(明治1… 飯島 誠太(いいじま のぶた / せいた、1885年(明治18年)7月28日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の牧師。学校法人大阪女学院理事長。 日本基督教会牧師飯島彌太郎の長男として群馬県佐波郡宮郷村(現・伊勢崎市)に生れる。 1886年(明治19年)伊勢崎日本基督教会にて幼児受洗。1903年 (明治36年)名古屋教会で信仰告白。明治学院神学部在学中、賀川豊彦らと神戸神学校に転学し同校卒業。 1914年(大正3年)からプリンストン大学、ニューヨーク聖書大学に留学。帰国後、日本基督教会(現、日本キリスト教会)岐阜教会牧師となり1925年(大正14年)堺川尻教会(大阪府堺市)牧師となる。
高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 … 高倉 徳太郎、(たかくら とくたろう、1885年4月23日 - 1934年4月3日)は、日本基督教会の神学者、牧師。植村正久の後継者。 京都府何鹿郡綾部町字南西町101番地に生まれる。父は高倉平兵衛、母はさよ。平兵衛の養蚕の仕事による不在と、夫のキリスト教信仰のために、母さよは夫と子供を棄てた。そのとき徳太郎は5歳だった。 1903年9月金沢の四高(現金沢大学)に入学し、西田幾多郎の三々塾に入り、1906年6月卒業。「最も愛すべきものは自己なり」と書いた。 綾部の日本組合基督教会牧師の次女内田光恵に恋愛感情を持ち、結婚を考えるようになる。この少女は綾部一の麗貌だった。やがて婚約式を挙げたが、裕福な商家の長男で秀才の誉れ高く、外交官、政治家としての将来を嘱望されていた高倉が、立身出世の望みを捨てて牧師になろうとしたとき、貧乏牧師の妻にはさせないという光恵の母から婚約を破棄された。
矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年… 矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年8月26日)は、福島県会津出身のキリスト教会の牧師。日露戦争の際、日本において良心的兵役拒否を初めて行った人物である(ただし、後に衛生兵として従軍している)。アメリカ留学から帰国後は、膳所同胞教会、大津同胞教会の牧師として働き、その生涯を全うした。 福島県耶麻郡木幡村(現・喜多方市)生まれ。会津中学(現・福島県立会津高等学校)在学中にプロテスタント入信。日露戦争開戦時、召集されたが兵役を拒否し禁固2か月の判決を受ける。その後、衛生兵として応召した。 日露戦争後はアメリカに留学。銀行のハウスボーイとして働きながら勉学に励むも、猩紅熱に感染。
都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964… 都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964年1月20日)は、日本の神学者、牧師、明治学院院長。 都留音平の息子として大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)に生まれる。長崎市のアメリカ・オランダ改革派教会系のミッションスクールの東山学院で学び、一致長崎教会で瀬川浅から洗礼を受ける。 明治学院高等部、神学部で学び井深梶之助、熊野雄七らの影響を受け、1907年に卒業する。スコットランドのオーボルン神学校に留学し、旧約学を学ぶ。1911年に帰国し、明治学院で旧約学を教えた。1913年、按手礼を受けて牧師になる。 1921年から4年間明治学院高等部長を兼任する。関東大震災の時に2名の朝鮮人学生をかくまう。
青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - … 青芳 勝久(あおよし かつひさ、1883年12月16日 - 1972年2月22日)は、日本のキリスト教研究者、牧師、文筆家。植村正久の研究で知られる。徳島県板野郡大津村(現鳴門市)出身。 板野郡大津村で生まれる。幼少期、僧侶となるように、実家の菩提寺に預けられた。しかし、教師を目指して徳島師範学校を卒業。キリスト教に回心して、ニコライ神学校を卒業して、貧しい子供の教育活動を行った。 渡米して、プリンストン神学校を卒業する。帰国後に、植村正久を研究して、全集を出版する。また。「福音新報」に執筆した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961… 富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961年1月15日)は、日本の神学者、牧師(日本基督教団芝教会)。教会合同、エキュメニカル運動の指導者。日本基督教会(現日本キリスト教会)大会議長、日本基督教団統理者として天皇に賜謁。神の国運動委員長、東京神学大学、明治学院大学理事長、金城女子専門学校理事長、日本基督教連盟議長、日本キリスト教協議会の幹部、など要職を歴任。 愛知県東春日井郡印場村(春日井市)の農家に三男として生まれる。5歳の頃から教会学校に通った。16歳の時南長老ミッションのR・E・マカルピン宣教師より洗礼を受ける。 1904年、明治学院神学部に入学。日露戦争に従軍。1907年、神戸神学校に転校し、1909年卒業。
鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1… 鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1927年12月15日)は、日本基督教会の牧師である。 1883年(明治16年)、東京小石川に永井久一郎、恒の次男として生まれる。兄の永井壮吉は後の永井荷風である。母方の祖母と母はW・シュピンナー宣教師から受洗した普及福音教会の熱心な信徒であった。 母方の鷲津家の養子になる。東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して、三菱銀行本店に勤務する。1902年(明治35年)に洗礼を受ける。東京神学社で学び植村正久の薫陶を受ける。卒業後に、日本基督教会の牧師の按手礼を受け、1912年(明治45年)に山梨教会に、1914年(大正3年)に水戸教会、富士見町教会、明星教会(小石川明星教会)の牧師を歴任する。
海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 19… 海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 1959年1月6日)は、日本組合基督教会の牧師であり、戦前は日本基督教連盟総主事として神の国運動を推し進め、戦後は日本基督教協議会(NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。 水戸藩士海老沢知成の3男として、茨城県西茨城郡笠間町に生まれる。立志学館を卒業した後、札幌農学校土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師のA・M・ドーデ―の英語教室でキリスト教に触れて, 1900年(明治33年) 田中兎毛牧師から洗礼を受ける。 1902年 (明治35年) に農学校を卒業後、日本鉄道会社に入社し、鉄道技手に任命される. 1904年(明治37年) 日露戦争が始まると陸軍少尉として、歩兵第25連隊に加わり、旅順に出征するが帰隊命令を受けて旅順攻囲戦には参加していない。
逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9… 逢坂 信忢(おうさか しんご、1882年〈明治15年〉9月9日 - 1981年〈昭和56年〉1月7日)は、日本の牧師、伝道者、宗教哲学者、社会運動家、郷土史家、著述家。 新潟県中蒲原郡女池新田(現 新潟市中央区女池)の、女池新田、神道寺新田、および小張ノ木新田の戸長を務めていた名望家・逢坂清治の次男として出生。 1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に札幌農学校予修科を卒業、1908年(明治41年)12月に東北帝国大学農科大学(旧 札幌農学校)農学科(農政学・農業経済学専攻)を卒業。 1915年(大正4年)9月に救世軍に入隊、1916年(大正5年)6月に救世軍士官学校を卒業、中尉に任官、東京銀座小隊長に就任、1917年(大正6年)4月に大尉に任官、1919年(大正8年)春に救世軍を除隊。
白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 19… 白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 1985年6月2日)は、日本の牧師。日本基督教団第5代議長。クリスチャン政治家加藤勝弥の従兄。加藤俊子の甥にあたる。 廻船問屋白井勝太郎の3男として新潟に生まれる。1892年(明治5年)に両親が長老派の日本基督新潟教会(現・日本基督教団東中通教会)でキリスト教に入信すると、日本基督教会巡回牧師石原保太郎から長老派の幼児洗礼を受ける。 1899年(明治32年)に北越商興会付属新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)を卒業する。1899年の夏に信仰告白をし堅信礼を受け、日本基督新潟教会の日曜学校の教師になり、日曜学校で教える。1906年(明治39年)に上京し、東京神学社本科に入学し、植村正久の薫陶を受ける。
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 … 逢坂 元吉郎(おうさか もときちろう、1880年6月25日 - 1945年6月10日)は、日本の牧師、神学者である。既存の教会に限界を感じ、民衆教会を提唱した。 1880年(明治13年)、石川県江沼郡大聖寺町字番場町(現加賀市)に、父 平塚鎌吉、母 きしのの五男として生まれた。後に、逢坂家の養子となる。石川県尋常中学校および第四高等学校に在学中に西田幾多郎の感化を受けて、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。上京後の1904年(明治37年)、植村正久から洗礼を受けた。一時的に、植村が創立した東京神学社にも籍を置いた。 東京帝国大学を中退し、1908年(明治41年)に渡米。
日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956… 日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956年6月10日)は日本の牧師、聖書学者で「新約聖書全巻註解」を独力で執筆出版した。号は柿軒(しけん)。 1879年(明治12年)宮崎県児湯郡美々津町に日高新一の子として生まれる。1885年(明治18年)頃、6歳の頃より教会学校に通い、延岡藩校亮文社、鹿児島簿約義塾で学ぶ。1899年(明治32年)に鹿児島日本基督教会の牧師宗像慶二郎より洗礼を受ける。 1899年長崎の東山学院の3年に編入学する。その時の同級生に益富政助、都留仙次がいた。宣教師のヘンリー・スタウト、A・ピータースよりオランダ改革派のカルビニズム(カルヴァン主義神学)を学ぶ。 1903年(明治36年)に上京して植村正久の一番町教会(現・日本基督教団富士見町教会)の会員になる。
三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 … 三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 - 1975年(昭和50年)7月31日)は、日本の牧師、富士見町教会の第4代目主任牧師である。 1878年高知県長岡郡新改村に生まれる。1899年大阪南教会で鈴木寿一から洗礼を受ける。1902年に明治学院神学部に入学したが、中退する。 1904年4月に日本基督教会の教師試補試験に合格し伝道師に准允される。その後、福井、高槻、大連の教会主任を務めた。1908年渡米してイリノイ州オマハ神学校とプリンストン神学校で学ぶ。 1913年2月に大連教会主任となる。1927年南廉平の後を次いで、富士見町教会牧師に就任する。1948年に辞任し、名誉牧師になる。
秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 196… 秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 1963年5月)は、日本基督教会の牧師。1918年から25年間、日本統治時代の朝鮮京城で牧師を務めた。植村正久門下。 1878年(明治11年)、徳川慶喜の御典医、柏原孝章の三男として静岡市に生まれる。致(いたす)は徳川慶喜が命名。静岡師範学校附属小学校、静岡県尋常中学校卒業。尋常中学では、兄の柏原知格が結成した城内倶楽部(静岡中学野球部の前身)に所属した。第四高等学校在学中にクリスチャンとなり、1908年(明治41年)東京帝国大学法科卒業後、直ちに牧師となった。 「父が福沢諭吉と同門の親友で維新前後のハイカラであったため、科学的精神を尊重し、無宗教、伝説打破、個人の自由を標榜し、運動を奨励、健康で体格の良いことを誇りとしたが、このような家庭に成長した私がどのようなものに成ったかと言えば、放縦我侭、傲慢軽率、胸中燃える野心を抱蔵する一個の始末に負えぬ人物と成った。
沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - … 沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - 1956年1月31日)は、日本の小説家、牧師。 和歌山県生まれ。明治学院神学部卒。宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童文学、通俗小説などにも作品を残す、異風の流行作家として知られた。 1876年1月5日、和歌山県日髙郡美山村に生まれる。1895年、和歌山師範学校に学び、川原河小学校(和歌山県)教師となり、この頃から小説等の創作活動を始める。22歳で龍神小学校(和歌山県)校長に就任。この間宣教師ジョン・バックスター・ヘールによりキリスト教に導かれた。1904年、上京し明治学院神学部に入学。1907年、新宮日本基督教会(和歌山県)牧師となる。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 195… 木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。 1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年、北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年、仙台の東北学院に入学する。 1894年6月に渡米する。1895年、アメリカで救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。
青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明… 武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) - 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。 1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合基督教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。 1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。 1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。
釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年… 釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。 大分県北海部郡海添村内畑(現臼杵市)に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。 明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。
都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明… 都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明治5年3月7日) - 1959年(昭和34年)4月15日)は、日本の牧師である。都田恒太郎の父である。 鳥取県境港市に生まれる。叔父の門永尚一とバークレー・バックストンの協力者竹田俊造によって信仰を持つ。1892年(明治25年)クリスマスに境港の竹の内教会でバックストンより洗礼を受ける。1887年(明治20年)に恒太郎が生まれる。1902年(明治35年)東京に行き、中田重冶らの聖書学院の修養生として学ぶ。同郷の人物に米田豊らがいる。 1904年(明治37年)アグネス・グレンの元で働き信州の岩村沢教会に着任する。1918年(大正7年)利根川沿岸潮来の開拓をする。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
川添 万寿得(かわぞえ ますえ、1870年10月20日(明治… 川添 万寿得(かわぞえ ますえ、1870年10月20日(明治3年9月26日) - 1938年(昭和13年)7月11日)は日本基督教会の牧師である。 1870年(明治3年)土佐藩士橋本家の2男として高知県江ノ口村(現高知市)に生まれる。その後、叔母の川添家の養子になる。 1888年(明治21年)高知教会で洗礼を受ける。1892年(明治25年)に片岡健吉と共に、上京し明治学院神学部に入学する。 明治学院を卒業後に長野県佐久郡に伝道に行く。1897年(明治30年)按手礼を受けて正式に牧師になる。1902年(明治35年)に渡米し、オーバン神学校(英語版)に留学する。 1905年(明治38年)に帰国して、東京三田四国町に「みくに伝道会」を起こす。
鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(187… 鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(1870年4月17日) - 昭和5年(1930年)4月3日)は、明治時代から昭和時代初期の日本の牧師である。 1870年に播磨国飾磨郡姫路町元町(現・兵庫県姫路市)に、姫路藩士で漢学者の鵜崎久平の子として生まれる。1887年、アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師のウォルター・R・ランバスから洗礼をうける。献身して関西学院に入学してJ.C.C.ニュートン宣教師に育てられる。メソジストの神戸・広島・大阪・京都で伝道をする。 第三高等学校教授、関西学院教授になり、1912年に日本メソジスト教会機関誌『護教』主筆。1914年には鎮西学院の院長に就任して。
青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 19… 青木 澄十郎(あおき ちょうじゅうろう、1870年 - 1964年3月10日)は日本の牧師、教育者である。 1870年(明治3年)に武蔵国岩槻(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に生まれる。明治学院と同志社神学校で学び、渡米してプリンストン神学校、ノースウェスタン大学に留学する。 1902年(明治35年)同志社神学校旧約聖書担当教授になり、同志社女学校教頭を兼任する。当時、同志社神学校での日本人教授は青木と日野真澄の2人であった。1904年(明治37年)に神戸日本基督教会の牧師になり、直接伝道を始めた。 1919年(大正8年)には神戸教会は独立教会になり、神戸イエス・キリスト教会になり、青木は按手礼を返上して一信徒になり、文書伝道など独自の伝道を始めた。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年… 阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年 )は、日本の実業家、国家公務員、牧師。第25代三井合名会社理事、内閣総理大臣秘書官、外務大臣秘書官。同志会学生寮設立者。ルドルフ・トイスラーを支援し、聖路加病院の国際化に貢献した。聖公会信徒。 愛知県の士族、阪井久の長男として1868年(明治元年6月)に名古屋で生まれる。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1888年(明治21年)には、築地聖三一教会でチャニング・ウィリアムズより洗礼を受ける。1892年(明治25年)、立教大学卒業。 1892年(明治25年)12月に米国に渡り、1894年(明治27年)にニューヨーク州ホバート大学(英語版)を卒業。
大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 196… 大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。 1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。 東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。 岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄から洗礼を受ける。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月… 比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月11日)は沖縄県出身の日本メソジスト教会所属の牧師である。 読谷山尋常高等学校で小学校の校長をしていたが、3人の子供を2年間のうちに亡くす。自分の子供の連続した死を、ユタに不運の解明と将来を占わせていたが解決はなかった。 1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会に行き、キリスト教伝道館に入り、キリスト教の説教を聴いて感銘を受けて、地元沖縄でも教会に通うようになった。那覇メソジスト教会の立て看板に書かれていたマタイ福音書11章28節に心を引きつけられ、クリスチャン医師の勧めで牧師を訪ねて以来、キリスト教を受け入れ1902年に洗礼を受けた。
露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4… 露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4月3日) - 昭和16年(1941年)2月22日)は日本組合基督教会の牧師である。 1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリや金森通倫によりキリスト教に接する。 新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会の亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードのJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。 在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。
鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12… 鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12月13日) - 1948年(昭和23年)5月6日)は、日本の牧師。法学者の鵜飼信成や、アメリカ共産党員でアメリカOSS(戦略情報局)にも所属した鵜飼宣道(ジョー・コイデ)、銀座教会名誉牧師の鵜飼勇の実父でもある。 1866年1月29日(慶応元年12月13日)に松江に生まれる。1879年(明治12年)同郷の鵜飼渚の養子となる。 1885年(明治18年)東京府立第一中学校を中退して、美山貫一を頼ってサンフランシスコに行く。 1886年(明治19年) サンフランシスコの中国人伝道館で洗礼を受ける。その後、アイオワ州のシンプソン大学で学ぶ。 1894年(明治27年) アメリカ・メソジスト教会で按手礼を受けて牧師になる。
三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年1… 三並 良(みなみ はじめ、1865年11月20日(慶応元年10月3日) - 1940年(昭和15年)10月27日)は、日本のドイツ哲学者、牧師である。 1865年(慶応元年)、伊予国松山(現・愛媛県松山市)で漢学者・歌原邁の子として生まれた。長じて母方の三並家を継いだ。同郷の正岡子規の母の従弟であり、実家も近所であり、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど共に育った。1880年、松山中学に入学。しかし半年で退学し、県立医学校に入学。1882年夏に東京に出て、9月に本郷原要義塾に入学してドイツ語を学んだ。1983年に獨逸学協会学校に入学。ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーに感化され、影響を受けた。
小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応… 小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の牧師である。 丹波の南桑田郡千代川村今津(現在の京都府亀岡市)に小北忠蔵とその妻のふじ子の子として生まれる。1883年(明治16年)に京都に出て後に同志社英学校に入学し山本覚馬から法学等を学び、また後に覚馬の影響を受け受洗しキリスト教徒となる。1890年(明治23年)に同学校を卒業後は、同年創立したばかりの熊本の八代教会を経て1896年(明治29年)には再度京都に戻り同地の丹後教会に赴任する。 1909年(明治42年)には北海道に渡り、名寄で天塩教会(名寄教会)の設立に携わり同地でキリスト教の伝道にあたった。
貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応… 貴山 幸次郎(きやま こうじろう、1865年4月27日(慶応元年4月3日) - 1940年(昭和15年)6月9日)は日本基督教会の牧師である。 1865年(慶応元年)伊予国吉田(現・愛媛県宇和島市)に生まれ、幼少期は吉田郷校(藩校文武館の後身)で学び、卒業後に同校の教師になる。1881年(明治14年)に宇和島に来た桜井昭悳の演説を聴いてキリスト教を知った。1885年(明治18年)に横井時雄の伝道説教を聞いてキリスト教信仰を持つ。 1885年に東京に移り津田仙の学農社で学び『農業雑誌』の編集を行う。植村正久の『真理一斑』を読んで信仰を強くし、1885年新栄教会で石原保太郎から洗礼を受ける。その後、献身し東京一致英和学校、東京一致神学校で学ぶ。
安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4… 安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の教師、牧師、経済学者、社会主義者、政治家。 キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 福岡藩士岡本権之丞の次男として現在の福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。 小学校を卒業したのち附属小学校に進んで山座円次郎、不破彦麿、塚本道遠らと級友となり、1879年3月に優秀な成績で卒業したが、実家が貧しかったこと、付近に中学が設立されていなかったこともあり、地元の漢学塾に入門した。
青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文… 青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文久3年8月2日) - 1944年(昭和19年)12月21日)は、日本の牧師である。 岡崎藩士青山昇三郎(後の日本基督教会牧師)の長男として岡崎に生まれる。明治維新になり、1875年(明治8年)8月に父と共に東京に転居。東京市築地の新栄教会でデイヴィッド・タムソンと小川義綏の薫陶を受け、1877年(明治10年)1月に受洗する。 1880年(明治13年)に築地大学校に入学する。ジェームス・ハミルトン・バラらに薫陶を受ける。後に東京一致英和学校に移る。1885年(明治18年)に明治学院の最初の卒業生となる。卒業と同時に、神学部に入学する。 しばらく四国の大洲で伝道をしたのち、1888年(明治21年)に渡米し、マコーミック神学校で学ぶ。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元… 辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元年11月17日) - 1945年(昭和20年)12月21日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活動した日本組合基督教会の牧師。 播磨国加西郡在田村字中富(現・兵庫県加西市中富町にて、辻退蔵と阿以(愛子)の長男として生まれる。1874年姫路病院で医療伝道者ベリーから聖書について学び、1878年に大阪英学校に入学し、11月11日浪花教会で澤山保羅(パウロ)により洗礼を受けた。その後1881年に同志社英学校三年に編入学した後、江州彦根年堂派遣を振り出しに、岡山県高梁教会、熊本県熊本教会などに派遣された。1888年大阪島之内教会で按手礼を受け牧師になった後、三重県津市での伝道、群馬県甘楽教会・高崎教会での牧会を経て、熊本県大牟田教会牧師に就任するなど、日本国内各地で伝道に当たった後ハワイや米国カリフォルニア州・ユタ州の各地で牧会、伝道にあたった。
綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年… 綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1936年6月27日)は、日本の会衆派教会の牧師である。 1860年(万延元年)医師綱島行篤と母もんの二男として美作国真島郡新庄村に生まれる。大阪で、松村矩明に医学を学ぶ。1877年(明治10年)大阪で波花教会を設立するときに、牧師の沢山保羅より洗礼を受ける。同年同志社の神学部に編入し新島襄の教えに心酔する。 1879年(明治12年)、同志社在学中に上代知新と共に鳥取に派遣される。1880年(明治13年)6月に卒業して、西京第三公会(平安教会)の伝道師になる。日本組合基督教会の成立に伴い、各地に派遣され福島など東北地方の伝道などを行う。
星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7… 星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7月6日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月7日)は、明治・大正時代に活動した牧師。フェリス女学院元教頭。 大蔵官僚、政治家、実業家の星野直樹は長男。参議院議員、ジャーナリストの星野芳樹は三男。津田塾大学名誉学長の星野あいは妹。 父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、明治元年(1868年)に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。光多は宗七の次男として万延元年(1860年)に戸鹿野村(現・群馬県沼田市)で生まれた。 明治3年(1870年)に光多は家族とともに横浜に移住した。横浜で外国人と商売をするためには英語が必要だと考え、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった。
平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年… 平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年3月22日〉 - 1933年〈昭和8年〉2月14日)は、日本の牧師。 万延元年(1860年)3月22日、青森県弘前城下に生まれる。明治8年(1875年)に朝陽小学校、明治12年(1879年)に東奥義塾を卒業し、明治12年(1879年)に耕教学舎(後の青山学院大学)に入学する。同年9月に横浜神学校に転校し、明治16年(1883年)に卒業する。 明治15年(1882年)に美以教会(メソジスト派)の伝道師になる。明治20年(1887年)に按手礼を受けて、牧師になる。 明治21年(1888年)に東京英和学校を卒業し、神田、飯田、松本、四谷の美以教会を歴任する。
山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政… 山鹿 旗之進(やまが はたのしん、1860年2月16日〈安政7年1月25日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月1日)は、日本のメソジストの牧師、教育者、文筆家。 万延元年(1860年)に弘前藩の江戸藩邸に生まれる。津軽に帰郷し藩学を経て、東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1877年(明治10年)、イングより洗礼を受ける。 弘前教会資産係を経て、勧士になる。1879年、横浜山手の美會神学校開校と同時に入学する。1887年に東京英和学校を卒業すると、母校の教師になる。 1887年、長老の按手礼を受け、名古屋中央教会に赴任し、岐阜・高山の開拓伝道を行う。名古屋清流女学校の創設にも関わる。
二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(186… 二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(1860年1月24日) - 大正15年(1926年)9月7日)は明治・大正期の日本の牧師、教育者。 備中松山藩士の片貝正倫・ヨシの子として生まれ、藩医二宮英庵の養子となる。 1876年(明治9年)4月に岡山師範学校を卒業し、小学校教員をしながら自由民権運動の演説会などで活動していたが、新島襄や金森通倫の岡山伝道に接したことがきっかけで1880年(明治13年)に岡山教会で新島から洗礼を受け、さらに同志社の速成邦語神学科で学んだ。 1882年(明治15年)には高梁教会の設立に尽力したあと、美作落合教会の2代目牧師に就任する。さらに愛媛県の今治教会に転じ、横井時雄牧師を助けて松山伝道にも加わり、1885年(明治18年)に松山第一基督教会(現・日本基督教団松山教会)を設立した。
中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8… 中田 久吉(なかだ ひさきち、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1905年(明治38年))は、メソジストの牧師。禁酒運動、廃娼運動に大きな働きをした。弘前ではリバイバル運動の先鋒だった。中田重治の実兄。 弘前藩足軽の父兵作、母千代の間に3人兄弟の長男として現在の青森県弘前市に生まれる。明治維新後、一家は南津軽郡大光寺村へ移住する。1875年、父の兵作が脳溢血で死去する。その後は弘前に戻り東奥義塾に通う。1878年、軍人養成所に入所して、西南戦争に出征するも、実戦に参加せずに1883年に弘前へ帰郷する。スパルタ式教育で弟の重治を教育する。 1884年(明治17年)軍隊へ戻り、金沢連隊の営所に転勤する。
藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8… 藤生 金六(ふじう きんろく、安政6年8月4日〈1859年8月31日〉 - 1907年〈明治40年〉7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。 上野国山田郡浅原村(現・群馬県みどり市大間々町浅原)に生まれる。1874年(明治7年)に神奈川県横浜市の英学校・修文館で学び、1875年(明治8年)より、東京語学校等で学ぶ。 1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、S・R・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年(明治10年)7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。 1879年(明治12年)5月から農商業に従事。1880年(明治13年)新井毫らと盡節社を結成して国会開設運動を展開した。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安… 吉田 亀太郎(よしだ かめたろう、1858年10月26日(安政5年9月20日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、明治時代に東北地方で活動した伝道者・牧師。祖父は仙台藩亘理伊達氏に仕えた新妻興左衛門、父はその四男吉田雄吉。 1858年(安政5年)、陸奥国稗貫郡花巻(現岩手県花巻市)で生まれ、現在の宮城県石巻で育った。新潟に赴任した時に、T・A・パームと押川方義らの説教を聞いてキリスト教に回心し、1878年(明治11年)に洗礼を受けた。それから、パーム、押川と共に伝道に従事した。 1880年(明治23年)、吉田は押川と共に、宮城県の伝道を始める。仙台についた吉田と押川は、北三番町木町通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。