遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 200… 遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 2005年6月27日)は、山口県熊毛郡平生町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。
職業が解説者:316人
遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 200… 遠井 吾郎(とおい ごろう、1939年12月4日 - 2005年6月27日)は、山口県熊毛郡平生町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。
石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 201… 石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 2013年7月15日)は、東京都足立区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。ニックネームは「ゴジ」。 足立高校卒業後は1958年に東京鉄道管理局へ入社し、河野安男(のち近鉄)と共に中心打者として第29回全国鉄道大会の優勝に貢献。同大会の首位打者となり、1959年にはプロ入りした河野の後継の4番・一塁手を務め、都市対抗の予選などで活躍。 1960年に阪急ブレーブスへ入団し、当初から背番号「6」で即戦力として期待されていた。1年目の同年は主に控え三塁手として33試合出場にとどまるが、2年目の1961年には三塁手のレギュラーを人見武雄と争い80試合に先発出場。
宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 20… 宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 2006年7月13日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 日本球界におけるリリーフ専門投手の草分け的存在で「8時半の男」と呼ばれた。 種部儀康(読売ジャイアンツ同期入団)は義兄。孫の宮田孝将は四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスでプレーした元プロ野球選手で、2020年は同球団のアカデミーコーチを務めた。2021年からは同球団の野球スクールコーチを務めている。 大姪は、シンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 子供の頃は利根川でよく泳ぎ、小学校5年生から中学生までは水泳好きで水泳部に所属していたが、中学校でいとこに誘われたことをきっかけに野球を始める。
森中 千香良(もりなか ちから、1939年10月20日 - … 森中 千香良(もりなか ちから、1939年10月20日 - 2008年4月14日)は、奈良県奈良市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。1970年から1974年までの登録名は森中 通晴(もりなか みちはる)。 奈良商工では2年次の1956年にエースとして秋季近畿大会に出場したが、1回戦で寝屋川高に敗れたため選抜出場はならなかった。3年次の1957年は春季近畿大会県予選の準々決勝で郡山高に惜敗し、夏も県予選で敗れて甲子園には届かなかった。 卒業後の1958年に南海ホークスへテスト入団。入団当時は制球難で、1年目は選手登録すらしてもらえず、もっぱら打撃投手が主な役割であった。2年目の1959年にウエスタン・リーグで防御率0.90を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得。
石井 宏(いしい ひろし、1939年9月21日 - )は、東… 石井 宏(いしい ひろし、1939年9月21日 - )は、東京都出身の元競泳選手でのちに解説者、共同通信記者、現在は日本大学常務理事。1960年ローマオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト。日本大学卒業。 義兄弟に元フィギュアスケート選手の長瀬洋子と藤森美恵子(共に、旧姓 大岩)、甥に2024年パリオリンピック総合馬術の団体銅メダリストである大岩義明がいる。
島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - … 島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - 2024年6月16日)は、宮城県気仙沼市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・解説者。愛称は寝ぼけの源、おとぼけの源。 2021年までの日本プロ野球最年少完全試合(20歳11ヶ月)達成者(2024年現在はセ・リーグ最年少記録)。 宮城県気仙沼市出身。気仙沼高校では3年次の1957年、夏の甲子園県予選で準決勝に進むが、仙台二高に敗退。卒業後は盛岡鉄道管理局への入社が内定していたが、大毎オリオンズの新人募集広告を目にして、上京して入団テストを受けるが不合格であった。しかし、プロ入りへの夢が捨てきれず、再び家族に黙って上京し大洋ホエールズの入団テストを受験。
前田 益穂(まえだ ますほ、1939年5月24日 - )は、… 前田 益穂(まえだ ますほ、1939年5月24日 - )は、熊本県飽託郡託麻村(現:熊本市東区)出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
安藤 統男(あんどう もとお、本名・安藤 統夫※読み同じ、1… 安藤 統男(あんどう もとお、本名・安藤 統夫※読み同じ、1939年4月8日 - )は、茨城県土浦市出身(兵庫県西宮市生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 兵庫県西宮市平松町で出生後に、実父の転勤で土浦市内に転居。土浦一高進学後は、2年次の1956年まで木内幸男監督の指導を受け、3年次の1957年夏に遊撃手兼控え投手として夏の甲子園へ出場。山本秀一を擁する県和歌山商との初戦に勝利したものの、高木守道を擁する県岐阜商の前に完封負けを喫した。 高校卒業後は1958年に慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、3年次の1960年秋季リーグの早慶六連戦では一番打者、遊撃手として活躍。
鎌田 実(かまた みのる、1939年3月8日 - 2019年… 鎌田 実(かまた みのる、1939年3月8日 - 2019年8月1日)は、兵庫県三原郡広田村(現:南あわじ市)出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家。 男四人兄弟の末っ子として生まれ、生まれて10日目に父が亡くなった。父は近隣地区の情報を特化する新聞を発行して生計を立てていたが、大黒柱が倒れ、家族は窮地に追い込まれる。長男もまだ働く年齢ではなく、母が新聞発行を引き継げるわけもなく、乳呑み児を抱いて淡路島内の実家に引っ越し、呉服を売り歩く商売を始めた。買ってくれるのは親戚だけで、母は自分の着物を質屋に入れ、実父の助けも借りて生きた。淡路島は空襲も少なく、周りは海で温暖な気候であったため、魚や野菜など食べ物に困ることはなかった。
長田 幸雄(おさだ ゆきお、1939年2月24日 - )は、… 長田 幸雄(おさだ ゆきお、1939年2月24日 - )は、山梨県富士吉田市出身の元プロ野球選手(外野手)・解説者。
黒江 透修(くろえ ゆきのぶ、1938年12月12日 - )… 黒江 透修(くろえ ゆきのぶ、1938年12月12日 - )は、鹿児島県姶良郡姶良町(現・姶良市)出身(台湾台北市生まれ)の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。旧名は幸弘。 父親は海軍軍人で、香港に移住後に除隊となってから、軍需品を扱う仕事をしていた。幼少期は裕福であったが、終戦を機に財産を消失して貧しくなる。1946年、両親の故郷である鹿児島市に引き揚げ、父親は精米所の経営を始めた。 黒江は8人兄弟の三男で、4人の男兄弟の中で最も運動神経に優れており、小学校3年生の時に野球を始める。両親は黒江をプロ野球選手にしたいとの夢を抱いており、『野球界』などの野球雑誌を買い与えられたほか、食事の際にも肉を兄弟の中で一番多く出されるなど、優遇されていたという。
並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 19… 並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 1988年9月1日)は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ、解説者。 日大三高在学時は投手として活躍し、エース兼四番打者として、2年次の1955年には夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗を喫し、3年次の1956年には春の選抜にも出場。この大会でも準々決勝に進出するが、渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫す。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。高校同期に中堅手の宮沢重雄がいる。 高校卒業後は早稲田大学に進学を予定していたが、家庭の事情により1957年に大阪タイガースへ入団。元々は中日ドラゴンズへ入団する予定であったが、担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇され、タイガースに移籍したため並木もタイガースに入団することとなった。
醍醐 猛夫(だいご たけお、1938年11月15日 - )は… 醍醐 猛夫(だいご たけお、1938年11月15日 - )は、東京都北区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。
近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - 20… 近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - 2019年3月27日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 妻は元女優の北沢典子。一男二女の子がおり、次女は女優の近藤典子。プロレスラーの中西学は次女の元夫で、長女が結婚した際にはタモリ夫妻が媒酌人を務めた。 近藤の登録上の誕生日は1938年4月1日であるが、実際は4月10日が誕生日である。9日の違いがあるのは父親が「1年得するから」という理由で誕生日を繰り上げて役所に届け出たためである。 近所の遊び友達に4学年上の中西太がおり、1953年に中西と同じ高松一高へ進学。3年次の1955年には春季四国大会に進むが、準決勝となった1回戦で鳴門高に敗れる。
米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥… 米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。 プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。 その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。 祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。
種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は… 種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。妻は宮田征典(読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年に米子鉄道管理局へ入社し、改札の切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。
江藤 愼一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 20… 江藤 愼一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身(福岡県北九州市生まれ)の元プロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・監督、解説者。「愼」の字を新字体にした江藤 慎一の表記で広く知られる。
江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 20… 江藤 慎一(えとう しんいち、1937年10月6日 - 2008年2月28日)は、熊本県山鹿市出身(福岡県北九州市生まれ)のプロ野球選手(捕手、内野手、外野手)・監督、解説者。 前妻は元宝塚歌劇団44期生の瀬戸みちる。次女のはやせ翔馬は74期生。プロ野球選手、コーチ、慶大の監督を務めた江藤省三は実弟。 北九州で生まれたが、太平洋戦争による集団疎開で各地を転々とし、幼少時より新聞配達やアイスキャンディー売りなどで家計を助けていた。八幡製鐵で外野手を務めていた父から野球を教わり、捕手となる。小学4年次の1947年に母の郷里である山鹿へ引っ越す。中学進学後の1950年から本格的に野球を始め、4番・捕手として県大会に出場するなど活躍した。
若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 199… 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。
伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 -… 伊藤 光四郎 (いとう こうしろう、1937年7月28日 - 2011年11月30日)は、島根県簸川郡大社町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 20… 稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。血液型はB型。 昭和30年代のパ・リーグを代表する本格派投手。大下弘・中西太・豊田泰光らと共に、西鉄ライオンズの3年連続日本一(1956年 - 1958年)を成し遂げるなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれ、特に1958年の日本シリーズではチームが3連敗したあとで4連投4連勝して日本一を達成し、「神様、仏様、稲尾様」と賞賛された。 1961年に記録したシーズン42勝は、ヴィクトル・スタルヒンと並ぶNPBタイ記録。
池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月1… 池田 英俊(いけだ ひでとし、1937年〈昭和12年〉5月13日 - 2023年〈令和5年〉1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 進学校・福岡高校では当初遊撃手であったが、1年次の1953年秋から投手に転向。2年次の1954年には夏の甲子園県予選で準決勝に進み、小倉高の畑隆幸と投げ合うが0-1で惜敗。その後も県予選で敗れ、甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は西鉄の誘いを断り、1956年に兄が講師をしていた明治大学へ進学。1年次の同年秋季リーグから投手陣の主軸となり、東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、2年次の1957年秋季に7勝を記録。長嶋茂雄らのいた立大には及ばぬも2位躍進に貢献したが、冬休みのランニング中に肉離れを起こす。
上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 20… 上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日)は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 鮮魚店を営む家に5人兄弟の長男として生まれ、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。 上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。 海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。
森 祇晶(もり まさあき、本名・旧登録名:森 昌彦〈もり ま… 森 祇晶(もり まさあき、本名・旧登録名:森 昌彦〈もり まさひこ〉、1937年〈昭和12年〉1月9日 - )は、大阪府豊中市生まれ、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手(捕手、右投左打)・コーチ・監督、解説者・評論家。 読売ジャイアンツ(巨人)のV9時代に正捕手を担い、「V9の頭脳」の異名を取った。また引退後、西武ライオンズ監督時代に在任9年間でチームを8度のリーグ優勝、6度の日本一に導き、西武黄金時代を築いた。 兄の森和彦も元プロ野球選手(外野手)。 岐阜市立長森中学校出身。野球は中学生から始め、当初は内野手であったが2年時に捕手に転向。岐阜県下随一の進学校・岐阜高校では伊藤利夫監督の指導で開花し、3年次の1954年に夏の甲子園に強打の捕手兼主将として出場したが、1回戦で泉陽高に完封負けを喫する。
光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、… 光沢 毅(みつざわ たけし、1936年9月13日 - )は、長野県飯田市出身の野球選手(投手、外野手)・監督・解説者、ブラインドゴルフ選手。 終戦翌年の1946年に小学4年生で野球を始め、中学時代は投手のほか、様々なポジションをこなした。 飯田長姫高時代は授業中もゴムまりで鍛えた握力で鋭いドロップを投げ、2年春に、3年生のエースが受験勉強のために退部し、代わりにエースとなった。 3年次の1954年、登録身長160cm、実際の身長は157cm、体重51kgの短躯ながら左腕エースとして春の選抜に初出場。1試合平均で12個の三振を奪うなど、剛球投手として注目されたが、完全な光沢のワンマンチームで、チーム自体はそれほど注目されていなかった。
山岡 清二(やまおか せいじ、1936年8月 - )は、日本… 山岡 清二(やまおか せいじ、1936年8月 - )は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家、翻訳家、通訳、ラジオ時事解説者、コンサルタント、国際政治学者。東洋英和女学院大学名誉教授。 大阪府生まれ。1962年国際基督教大学卒業。 共同通信記者、米国務省通訳官、ワシントン・ポスト記者(東京支局)を経てフリーとなり、評論、翻訳、通訳、ラジオ時事解説、コンサルティングのほかに、衆議院国際会議課顧問、文部省教科書審議会委員(外国語部会長)、『ニューズウィーク日本版』編集顧問など。 1988年東洋英和女学院短期大学国際教養科教授、2001年東洋英和女学院大学・国際社会学部教授。2007年定年退任、名誉教授。
中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 … 中 利夫(なか としお、1936年〈昭和11年〉4月28日 - 2023年〈令和5年〉10月10日)は、群馬県前橋市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 登録名を頻繁に変えており、入団時は「利夫」、その後は1964年に「三夫」、1965年に「暁生」、監督時代は「利夫」。コーチ時代は「登志雄」もしくは「利夫」。解説者としては本名の「利夫」を使用。 前橋高校では1年生時の1952年秋からエース、中軸打者として活躍、主将も務めた。1953年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、桐生工に敗退。同年の秋季関東大会県予選も準決勝で桐生高に敗れる。3年次の1954年には春季関東大会県予選決勝で桐生工を降し優勝、関東大会に進むが準々決勝(初戦)で水戸農に惜敗した。
島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、… 島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 四日市高校では3年次の1954年に夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、三岐大会で森昌彦捕手を擁する岐阜高校に敗退、甲子園出場を逸する。高校同期にエースの巽一がいるほか、1年下の高橋正勝(巨人に入団)は、翌年夏の甲子園で主戦投手として初優勝している。 卒業後の1955年に近鉄パールスに入団し、1年目の同年から一軍出場。内野の準レギュラーが長かったが、1962年に一塁手の定位置を獲得し、規定打席(打率.278、18位)に到達。その後も内野全般をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍し、通算1029試合に出場した。
毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1… 毒島 章一(ぶすじま しょういち、1936年〈昭和11年〉1月14日 - 2023年〈令和5年〉5月14日)は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。戸籍上の登録は「毒嶌」。 「ミスターフライヤーズ」と称された。 桐生高校では1951年夏の甲子園に控え投手として出場するが、1回戦で西山和良のいた県和歌山商に敗退。2年上のチームメートに一塁手の中静唯八(西鉄)がいた。 1953年夏の甲子園予選では北関東大会1回戦に進むが、宇都宮商に日没コールド負け。高校ではノーヒットノーランを達成したこともあるが、肘を痛めてしまう。また左打者になったのも高校時代である。 1954年に東映フライヤーズへ入団。
中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - … 中山 俊丈(なかやま としたけ、1935年12月14日 - 2016年10月24日)は、愛知県名古屋市昭和区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 20… 土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 2013年8月24日)は、東京都台東区出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 軟式野球から硬式野球に転向した異色の経歴ながら、昭和30年代(1950年代後半~1960年代前半)に東映で主力投手として活躍。現役引退後は東映→日拓→日本ハム、ヤクルトでコーチ・監督を歴任した。生粋の江戸っ子で、頑固親父的な独特のキャラクターも伴い、野球解説者としても人気を博した。 浅草・雷門の生まれで、実家は鮮魚店だった。戦時中は千葉の幕張に疎開していたが戦後、東京に戻った中学生の時に水泳部に所属する傍ら野球と出会い、草野球チームの雷門サンダースに所属していた。
森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2… 森 徹(もり とおる、1935年11月3日 - 2014年2月6日)は、北海道函館市出身(旧満州生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・監督、解説者。
本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 -… 本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 - )は、兵庫県神戸市東灘区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。現在は芦屋市在住。 芦屋高校では在学中に甲子園に3回、国体に3回出場。1年時はベンチ外だったが、チームが出場した1951年夏の選手権では、1年先輩のエース植村義信を擁し準々決勝に進出するも、中西太のいた高松一高に敗退。秋の広島国体では決勝に進むが、広島観音高に敗退。2年上のチームメートに杉谷和男中堅手(のち大映)がいる。二塁手として出場した翌1952年春の選抜では、2回戦で平安高に敗れる。同年夏の選手権は順調に勝ち進み、決勝でエース木村保を擁する八尾高を降し初優勝を飾る。
横溝 桂(よこみぞ かつら、1935年10月1日 - )は岡… 横溝 桂(よこみぞ かつら、1935年10月1日 - )は岡山県総社市出身の元プロ野球選手(投手・外野手)・コーチ、解説者。
杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年〈昭和10年〉9月17… 杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年〈昭和10年〉9月17日 - 2001年〈平成13年〉11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町大字挙母(現:豊田市若宮町)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球 (NPB) 史上5人目・パ・リーグ初の投手5冠を達成し、「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた。 現在の豊田市若宮町で生まれる。5人兄弟の四男で、「忠」の名は「南総里見八犬伝」から取られたもので、父・定治は、長男を「仁」、次男を「智」、三男を「孝」、四男を「忠」、五男を「義信」と命名した。挙母町立第一小学校(現:豊田市立挙母小学校)、挙母市立東部中学校(現:豊田市立崇化館中学校)、愛知県立挙母高等学校(現:愛知県立豊田西高等学校)を卒業。
皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 200… 皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 2005年2月6日)は、山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・解説者・評論家。 現役当時は同期入団の野村克也と共に南海ホークス黄金期の主力選手であり、同じくアンダースロー投手の杉浦忠と共に南海黄金時代のエースとして活躍した。通算成績は759試合登板、221勝139敗、防御率2.42。通算221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録であり、1983年に山田久志に更新されるまでアンダースロー投手としてのNPB記録でもあった。なお、南海の大エースとして名高い杉浦(通算187勝)よりも通算勝利数は上回っており、200勝がラインとなる日本プロ野球名球会にも入会している。
堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 20… 堀本 律雄(ほりもと りつお、1935年1月20日 - 2012年1月14日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(投手)、コーチ、解説者・評論家。 桃山学院高校では3年次の1952年、夏の大阪府大会で準決勝に進出するが、明星高に敗退。高校卒業後は1953年に立教大学へ入学するが、同期のエース東実や1年下の杉浦忠の陰に隠れ、あまり活躍の機会はなかった。専ら他校のエースを真似た練習台の投手であった。他の大学同期に矢頭高雄がおり、一年下に長嶋茂雄がいた。大学卒業後は1957年に日通浦和へ入社し、同年の都市対抗では3勝を挙げて決勝に進出。熊谷組の島津四郎と投げ合うも完封を喫するが、この大会の久慈賞を獲得。
杉田 秀男(すぎた ひでお、1935年1月16日 - )は、… 杉田 秀男(すぎた ひでお、1935年1月16日 - )は、東京都出身の男性フィギュアスケート選手で現在はフィギュアスケート審判兼解説者。TBSスポーツ局長。明治大学卒。 有坂隆祐に師事。1956年(昭和31年)、全日本フィギュアスケート選手権男子シングルで優勝。1957年(昭和32年)2月、アメリカ合衆国コロラド州で開催された世界フィギュアスケート選手権に出場。その直前には他の出場選手らとともに昭和天皇に模範演技を披露する機会もあった。 その後は佐藤信夫の台頭(1957年(昭和32年)より全日本10連覇)もあって、選手としての冬季オリンピック出場は叶わなかった。現役引退後は審判に転身、1968年(昭和43年)より国際審判。
植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 20… 植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 2023年5月30日)は、兵庫県芦屋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 息子はフジテレビプロデューサーの植村義勝。 当時スポーツの花形であった野球をするのは男子のステータスの一つであり、植村もその波に乗っかった。ボール一つに不自由した時代でもあり、芦屋高校で野球部に入ると「白球を触るだけでうれしかった」という。ボール拾いの際に1球こっそり持ち帰り、裸電球の下、自宅そばの土壁に当てて投球練習をした。この積み重ねが豪速球とドロップを生み出し、その後の人生も変えていった。 杉谷和男(大映)の1学年下、本屋敷錦吾(阪急・阪神)の1学年上で、2年次の1951年夏から3回連続で甲子園に出場。
福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 19… 福田 昌久(ふくだ まさひさ、1934年7月31日 - 1988年11月29日)は、福島県いわき市出身のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 磐城高校、常磐炭坑、専修大学を経て、1956年に南海ホークスへ投手として入団。3年目の1958年には外野手へ転向し、主に左腕対策として起用され、1960年には自己最多の6本塁打をマーク。1961年に27試合、1962年には10試合に先発出場を果たす。長打力と強肩が売りで、巨漢で怪力の福田は打撃練習こそ打球が凄まじく、タイヤを叩く打撃練習では軸のなる支柱を折ってしまったりするが、肝心の試合になると「扇風機」と仇名がつくほどカーブが全く打てなかった。
小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - 20… 小山 正明(こやま まさあき、1934年7月28日 - 2025年4月18日)は、兵庫県明石市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 優れた制球力から「投げる精密機械」と称えられ、金田正一、米田哲也に次ぐ日本プロ野球歴代3位の320勝、同5位の290完投を記録した。通算無四球試合も鈴木啓示に次ぐ歴代2位。2001年に野球殿堂入り。 小山が通った高砂高校はもともと女学校で、小山の入学する1年前の1949年に男女共学となって野球部が設立されたばかりであり、野球では全く無名であった。小山は高校3年秋に進学を勧める父親を説得し、その父親のつてで大阪タイガースの入団テストを受ける。なお、小山の父が息子の入団テストを依頼する手紙を監督の松木謙治郎宛に書いたが、それが大変な達筆であったと松木は数十年後に回顧しており、小山本人からはたいした印象を受けなかったとされる。
森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 199… 森永 勝也(もりなが かつや、1934年4月5日 - 1993年12月7日)は、山口県柳井市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。息子は元俳優の森永健司。 1958年から1962年までの登録名は「森永 勝治」。 柳井商工ではエースとして活躍し、2年次の1951年に秋季中国大会県予選準決勝へ進むが、下関商に敗れる。3年次の1952年には夏の甲子園へ出場し、2回戦(初戦)でエース堀内庄を擁する松商学園に完封勝ち。準々決勝では、この大会に優勝した芦屋高の植村義信と投げ合うが、0-2と完封を喫する。 高校卒業後は1953年に専修大学へ進学し、外野手に転向。東都大学野球リーグでは、1年次の同年春季リーグからレギュラーになり在学中全試合に出場し、2度の優勝を経験。
秋山 登(あきやま のぼる、1934年2月3日 - 2000… 秋山 登(あきやま のぼる、1934年2月3日 - 2000年8月12日)は、岡山県岡山市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - 2024… 鈴木 隆(すずき たかし、1933年9月22日 - 2024年5月31日)は、福島県田村郡三春町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 田村高卒業後は中央大学に進学し、伊藤芳明・穴吹義雄と同期になり、投手と外野手の2役をこなす。東都大学リーグでは1953年春季に優勝を飾り、同年の大学全日本選手権は決勝で立大に敗れて準優勝に終わる。 大学卒業後は川崎トキコに入社し、チームメイトに久保吾一(国鉄)がいた。社会人時代から評判の左腕で、1956年から日本コロムビアの補強選手として都市対抗に2年連続出場。 1957年秋にデトロイトで行われた第3回アマチュア世界野球大会に日本代表として参加し、4試合連続リリーフで優勝に導くと共に大会MVPを獲得すると、メジャー球団のスカウトからも注目を浴びる。
森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 20… 森下 整鎮(もりした のぶやす、1933年9月4日 - 2018年10月26日)は、福岡県八幡市(現:北九州市八幡東区)出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 1952年から1958年及び1986年の登録名は森下 正夫(もりした まさお)。本名は森下 正弘(もりした まさひろ)。 八幡高校時代は高校屈指の強打者として注目され、2年次の1950年に遊撃手として春の選抜へチーム初出場。1回戦で萩北高のエース椙本勝を打ち崩し初勝利を飾る。続く準々決勝では、この大会に優勝した韮山高の東泉東二投手から5点を奪うが、9回裏逆転サヨナラ負けを喫する。この試合では9回まで5-2と勝っていたが、遊撃を守っていた森下が9回裏満塁のピンチでバックホームを大悪投し、サヨナラ負けを喫した。
河村 英文(かわむら ひでふみ、1933年8月30日 - 2… 河村 英文(かわむら ひでふみ、1933年8月30日 - 2005年2月16日)は、大分県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・解説者。 「英文」は「えいぶん」という読み方もさせており、著書の著作権表示にも「Hidefumi Kawamura」ではなく、「Eibun Kawamura」の表記が見られる。 本名・旧登録名(1953年 - 1958年、1962年 - 1963年、1972年 - 1973年)は河村 久文(かわむら ひさふみ)。 別府緑丘高校では小嶋仁八郎監督の指導を受けた。4年後輩に後の同僚となる稲尾和久がいる。卒業後は東洋高圧大牟田でプレーしていたたが、1952年オフに西鉄ライオンズから勧誘を受ける。
三浦 方義(みうら まさよし、1933年8月23日 - )は… 三浦 方義(みうら まさよし、1933年8月23日 - )は、青森県三戸郡五戸町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、… 金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、解説者・評論家、実業家・タレント。愛称は「カネやん」「カネさん」。
土井 淳(どい きよし、1933年6月10日 - )は、岡山… 土井 淳(どい きよし、1933年6月10日 - )は、岡山県岡山市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。
岡本 健一郎(おかもと けんいちろう、1933年2月16日 … 岡本 健一郎(おかもと けんいちろう、1933年2月16日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)・解説者。 済々黌高では1950年、エース岡本和弘(明大-日立製作所)を擁し、夏の甲子園に一塁手として出場。準決勝に進むが大久保英男のいた鳴門高に敗退。高校同期に大学、プロ野球でもチームメートとなる遊撃手の片山嘉視がいた。卒業後は専修大に進学。東都大学野球リーグでは在学中に4回優勝。1954年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが、秋山登らのいた明大に敗れる。1953年秋季リーグから2季連続でリーグ打撃成績2位を記録し、東都のスラッガーとして注目された。片山以外の大学同期に渡辺清がいる。