矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10… 矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。日本文芸家協会、日本演劇協会の各会員。 東京市京橋区尾張町二丁目(現:中央区銀座六丁目)のヨシノヤ靴店(銀座ヨシノヤ)の2階で、父・矢代乙吉、母・園子の長男として誕生。祖父はヨシノヤ靴店の創業者であった。日比谷幼稚園・泰明小学校・東京府立第五中学校から第二早稲田高等学院を経て、1950年に早稲田大学文学部仏文科を卒業。 早稲田高等学院在学中の1944年(昭和19年)に診断書を偽造して大学を休学し、俳優座研究生となる。のち、戦時下の移動劇団に加わる。移動演劇隊の『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、東野英治郎の薦めで演出部に転向する。
土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日… 土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日 - 2014年(平成26年)7月30日 )は、日本の詩人・劇作家・社会運動家。本名:吉沢四郎(旧姓堀井)。 山形県鶴岡市出身。陸軍航空士官学校在校中に終戦を迎え、復員して、旧制新潟高等学校に編入、そこから東京大学法学部卒。1962年(昭和37年)、詩「十年たったら」でデビューした。この詩は、20歳代の日本共産党員を語り手とした詩だったので、それを読んだ壺井繁治が、作者も主人公と同じ境遇だと勘違いしたというエピソードがある。その後、詩人会議運営委員長、同顧問を歴任した。 1964(昭和39)年9月より1966(昭和41)年9月まで、中国 遼寧省大連市 大連日本語専科学校(現大連外国語大学)にて日本語教師を勤めた。
宮本 研(みやもと けん、1926年〈大正15年〉12月2日… 宮本 研(みやもと けん、1926年〈大正15年〉12月2日 - 1988年〈昭和63年〉2月28日)は、熊本県出身の劇作家である。 熊本県宇土郡不知火町(現宇城市)生まれ。父の仕事の関係で中学時代の六年間を北京で暮らす。大分経済専門学校在学中に学徒動員。九州帝国大学経済学部卒業後、大分県の公立高校の教諭となり、続いて上京し在日本大韓人厚生会勤務を経て、法務省に勤務。法務省在職中に労働者演劇サークル「麦の会」の助言者となって演出を担当し、戯曲を執筆するようになり、演劇界に頭角を現した。実質的に処女作の「僕らが歌を歌うとき」(1957年)で職場演劇サークル内の葛藤と希望を描き、注目される。法務省勤務の関係で久保田万太郎と知り合い、作品を激賞される。
広渡 常敏(ひろわたり つねとし、1926年8月3日 - 2… 広渡 常敏(ひろわたり つねとし、1926年8月3日 - 2006年9月24日)は、福岡県宗像郡福間町(現福津市)出身の劇作家、演出家。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
早坂 久子(はやさか ひさこ、1926年(大正15年)2月1… 早坂 久子(はやさか ひさこ、1926年(大正15年)2月12日 - 2017年(平成29年)8月11日)は、日本の劇作家である。脚本家としても活動し、日本脚本家連盟員でもあった。 東京の生まれ。日本女子大学卒業後の1953年(昭和28年)に早川書房に入社し、同社が発行する『悲劇喜劇』の編集に携わる。これによって同雑誌の戯曲研究会に加入し、その後は自身での制作した作品を発表した。 多くの舞台の劇作に携わり、賞を受賞する。後に劇作家のみならず小説の舞台の脚本も携わり、脚本家としても活動した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月1… 橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 - 2021年〈令和3年〉4月4日)は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)(旧姓:橋田)。位階は従三位。静岡県熱海市名誉市民。 1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。 代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。
浜田 善弥(はまだ ぜんや、1925年 - )は、日本の劇作… 浜田 善弥(はまだ ぜんや、1925年 - )は、日本の劇作家。 ニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパン(栃木県大田原市)の創設者としても知られる。 東京都出身。東京大学文学部印度哲学梵文科中退。全日観光㈱社長。鎌倉カントリークラブ取締役理事。土浦国際カントリークラブ理事。水郷カントリークラブ取締役理事。浜田善弥劇場(東京都港区)を開設し、前衛劇を公演していた。 イギリスのセントアンドリュースにある桜は、寄贈者である浜田の名前から「HAMADA CHERRIES」と呼ばれている。 1960年代後半に、浜田は「日本にセント・アンドリュース オールドコースを造る」と、ニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパン (NSAJ) を設立する。
瓜生 正美(うりゅう まさみ、1924年11月30日 - 2… 瓜生 正美(うりゅう まさみ、1924年11月30日 - 2021年6月27日)は、日本の劇作家・演出家。青年劇場顧問。 福岡県若松市(現・北九州市若松区)出身。旧制第五高等学校卒業、九州大学中退。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)… 安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)、1924年〈大正13年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。東京府北豊島郡(現:東京都北区)出身。昭和中期から平成初期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人。 東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。 主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。
真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 … 真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 - 2006年3月12日)は、劇作家、演出家。新歌舞伎で著名な劇作家真山青果の長女。本名は美保子。東京都出身。牛込生まれ小石川育ち。夫は俳優の槙村浩吉。孫(養子・真山正治の養子であり、血はつながっていない)の眞山蘭里(らんり)は、美保死去後の新制作座の理事長。 新制作座文化センター主宰(理事長)。日本演出家協会・国際演劇協会日本センター会員。 東京文化会館及び東京芸術劇場の運営審議委員。文部省・視学委員であった。 1943年日本女子大学国文科卒。1943年に晩年の父と離反し、女優として前進座に入団。1947年新協劇団に転じ、1950年、槙村浩吉らと劇団新制作座を設立。
キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - … キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - 1999年11月29日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。本名は木下 徹(きのした とおる)。東京都出身。テアトル・エコー顧問。妻は、産婦人科医、性医学評論家であるドクトル・チエコ(本名:木下 和子)。 出生時の姓名は松宮 徹。父は東京市世田谷区在住の松宮三郎。のちに木下荘()(満洲パルプ工業常務)の養子となる。俳優の松宮五郎(本名:隆)は、徹の実弟にあたる。 日本大学芸術学部卒業。第二次世界大戦中、予備学生として学徒出陣、海軍航空隊中尉で終戦を迎える。戦後、「独立劇場」設立。「東京青年劇場」を経てテアトル・エコーに入団。脚本家、演出家として劇団活動の基礎を築いた。
林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-c… 林 摶秋(りん でんしゅう、ウェード式:Lin Tuan-chiu、1920年10月6日 - 1998年4月4日)は、台湾の映画監督・劇作家。日本統治期から演出家として活動し、戦後は映画界に転身して台湾映画の近代化をすすめた。日本留学時には「林博秋(りん・はくしゅう)」を名乗っていた。 林は台北で8つの鉱山を管理する富裕な家に生まれ、1938年に高校を卒業後、明治大学政治経済学部へ留学した。この間に新劇への関心を深め、ムーランルージュ新宿座の座長の仲介により、在学中から東宝映画で助監督として働き始める。このときマキノ正博や阿部豊など著名監督の作品にも関わっている。卒業後はムーランルージュ新宿座の文芸部につとめ、このとき初の自作戯曲『奧山の社(深山的部落)』を執筆・上演。
梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 198… 梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫、梅田みかは子。 1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育を受ける。
小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 199… 小野田 勇(おのだ いさむ、1920年1月22日 - 1997年7月15日)は、日本の脚本家、劇作家。 東京・四谷出身。中央大学(1941年)卒業。東京放送劇団に在籍していた。俳優としての実績もある。息子の小野田正も脚本家兼演出家であり、孫の小野田光は歌人兼フォトグラファーである。
西原 康(にしはら こう、1919年1月28日 - 1983… 西原 康(にしはら こう、1919年1月28日 - 1983年12月25日)は、劇作家、児童文学作家。 東京出身。別名・阿久津光。東洋大学文学部東洋文学科卒。在学中から斎田喬宅に下宿して児童向け台本、劇団テアトル・ピッコロの脚本を書き、20歳で児童劇集『花ひらく』を刊行。1946年NHK児童番組部嘱託。
北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 197… 北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 1976年11月18日)は、日本の小説家、劇作家。
北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 197… 北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 1976年11月18日)は、日本の小説家、劇作家。 東京生まれ。1934年旧制府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を四修で卒業。1940年早稲田大学国文科卒。出征ののち、1943年東亜交通公社勤務。川端康成に師事し、1940年『埴輪と鏡』で芥川賞候補。戦後、鎌倉文庫に入社、編集をおこなう。1946年『寒菊』『一年』で野間文芸奨励賞受賞。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北村寿夫とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。1953年(昭和28年)『白扇』で直木賞候補。
西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)… 西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)1月2日 - 2013年(平成25年)7月2日) は、日本の放送作家・劇作家。筆名に苗川正 、芸名に西沢みのる。 日本放送芸術学会、日本放送作家協会、日本演劇協会の各会員。 長野県長野市出身。旧制海城中学卒業。1939年(昭和14年)、東京中央放送局JOAK(現・NHK)が実施した朗読の新人募集に応募する。1941年(昭和16年)には中央大学法学部在学のまま、同年に設立された東京中央放送局専属劇団俳優養成所に参加した。同年大学を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)に応召して第2師団に入隊、戦車隊長としてトラック島で敗戦を迎える。軍隊での最終階級は陸軍中尉であった。
川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 19… 川俣 晃自(かわまた こうじ、1917年8月16日 - 1999年7月5日)は、日本の劇作家、小説家、フランス文学者。東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市出身。第一高等学校を経て、東京帝国大学仏文科卒。一高時代から小説を書き、戦後は都立大学助教授、教授、1957年小説「般若心経」が中央公論新人賞佳作として掲載される。66年戯曲「関東平野」で第12回岸田國士戯曲賞受賞。82年都立大を定年退官、名誉教授、獨協大学教授。
武藤 騤雄(むとう たけお、1915年12月26日 - 20… 武藤 騤雄(むとう たけお、1915年12月26日 - 2009年4月4日)は、日本の劇作家、翻訳家、法政大学名誉教授。福岡生まれ、東京大学英文科卒。法政大学教授。1986年定年退任。 藤川健夫(ふじかわ たけお)をペンネームとして劇作家としても活躍。 受験参考書の「英単語連想記憶術」の著者として知られ、同書は受験生のバイブルとして版を重ねる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 198… 高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 1985年2月12日)は、宝塚歌劇団の劇作家・演出家。兵庫県出身。 関西学院大学卒業後、1936年に宝塚少女歌劇団に入り、1940年に演出家としてデビューした。 進取の気風で宝塚に新たな境地を開拓した。 1970年の日本万国博覧会では、閉会式の演出を担当した。 白井鐵造・内海重典とともに、宝塚の三巨匠に数えられる。 2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979… 名和 青朗(なわ せいろう、1915年3月2日 - 1979年1月4日)は、日本の放送作家、劇作家。本名は津久井柾章(つくい まさあき)。また、名和左膳の筆名もある。 東京出身。1938年日本大学芸術科卒業。1946年ひまわり社に入社し、雑誌『それいゆ』の編集者を務めた後、1950年より牧野英二が創刊した『別冊モダン日本』の編集者となる。他の編集者には吉行淳之介がいた。翌年13号まで発刊したのち、牧野が出資者と対立して廃刊となる。その後、石坂幸男によって設立された三世社で、牧野・吉行・名和の三人を中心として1952年2月から月刊誌「読切倶楽部」を創刊する。この「読切倶楽部」では名和左膳の筆名で主に漫才を執筆している。
加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992… 加藤 衛(かとう まもる、1914年11月9日 - 1992年3月19日)は、ドイツ文学者、演劇評論家、劇作家。神奈川県立横浜第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、1939年上智大学卒業。ドイツ文学専攻、東京水産大学助教授、横浜市立大学教授を務め、演劇評論のほか劇作・上演も行い、横浜演劇研究所所長を務めた。ほか、1948年に湘南工業短期大学の前身とされる湘南工業専門学校の教員にも就任している。 (秋 現代日本戯曲大系 第3巻 三一書房 1971)
木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2… 木下 順二(きのした じゅんじ、1914年〈大正3年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉10月30日)は、日本の劇作家、評論家。代表作に『夕鶴』がある。日本劇作家協会顧問。母方の伯父は佐々醒雪(俳人、国文学者)。著名な進歩的文化人(戦後民主主義者)であった。 東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)生まれ。父は熊本県伊倉町長を務めた木下弥八郎、祖父は玉名郡長・衆議院議員を務めた木下助之。異母兄は天文学者の木下國助、異母姉・静は侍従次長の木下道雄に嫁いだ。第二女子師範附属小学校を経て郷里熊本市に戻る。実家は祖父の代まで惣庄屋を務めた熊本の名家だった。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、第五高等学校を経て1936年、東京帝国大学文学部英文科に入学し、中野好夫の指導でシェイクスピアを専攻した。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月2… 栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月24日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の演出家、児童劇作家。女優栗原小巻の父。 福岡県出身。小倉師範卒業、満州(現、中国東北部)に渡り、大連市に居住。のちに日本大学演劇科卒。 日本大学の講師、テレビ俳優学院理事長などを務め、「泥かぶら」(真山美保作)などを演出する。『学生演劇』を創刊し、教科書用戯曲教材の執筆など、児童・青少年演劇の育成に努めた。日本児童演劇協会会長を務めた。 1981年、『飛ぶ教室』編集委員。 (1994-12-19) 1994年12月19日(83歳没)。住所は東京都杉並区永福1丁目。
秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 200… 秋元 松代(あきもと まつよ、1911年1月2日 - 2001年4月24日)は、日本の劇作家。俳人の秋元不死男は兄。 神奈川県横浜市生まれ。横浜吉田小学校卒業。病身と貧困のためそれ以上の進学は叶わなかった。 秋元家は北足立郡美本町美女木の庄屋の出で代々医家でもあったが、祖父の死後家運傾き、婿養子の父・茂三郎は横浜元町で漆器輸出業を営むも成功せず、松代3歳のときに死去、母が和裁の賃仕事などをして家計を支えた。松代は七人の兄弟姉妹の次女で、長兄は幼時に病死、次兄は秋元不死男(不二男)、三兄は共産党員から転向して古書店を経営、戦時中の予防拘禁を経て戦後は作家を目指した。四兄は30歳で結核死、妹は出生すぐ他家に養子に出され、長崎で原爆死した。
中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 198… 中江 良夫(なかえ よしお、1910年5月3日 - 1986年1月8日)は、日本の劇作家、脚本家である。 1910年(明治43年)5月3日、北海道に中江吉雄として生まれる。弟に喜劇人の佐山俊二がいる。登別市の旧制・尋常小学校を卒業し、札幌郵便局(現在の札幌中央郵便局)に就職したが、その後上京した。 さまざまな職業を経て、1940年(昭和15年)東京・新宿のムーランルージュ新宿座文芸部に入る。おなじころにNHKでラジオドラマを手がけ、中江の『かし家』が1942年(昭和17年)に発行された『放送劇名作選』(日本放送協会編、日本放送出版協会)に収録された。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後、ムーランルージュで社会風俗劇『生活の河』、『にしん場』などを発表した。
藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代… 藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し、初期のテレビ放送劇の台本も書いた。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった。
内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 19… 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 1989年7月27日)は、日本の劇作家、翻訳家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒。岸田國士に師事、同人誌『劇作』を編集担当。1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として「雑木林」(1948)、「遠い凱歌」(1956)などがある。 NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948 - 1951)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ)(1953)や、「追跡」(NHK)(1955)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。
木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日… 木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日本の浪曲作家、劇作家である。浅香光代、不二洋子などの台本を手がけ、女剣劇の普及に努めた人物。戦後、NHKの専属作家にもなる。 晩年には「宗教レコード制作本部」を立ち上げ、道元、親鸞、法然など、日本の名僧を題材とした浪曲を制作。それらを一冊にまとめ上げた作品集「日本名僧浪曲列伝」を執筆後に他界。 浅草に移り父が医院を開業。医者の大学を勧められ受験するが二年浪人する。中学の頃から芝居に興味を持ち劇場に頻繁に足を運んでいた学司は、浪人中に「プペダンサント」を結成した榎本健一が脚本を募集していたことを知り一晩で「ミス浅草」というコメディーを書き上げ投稿。
山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1… 山岡 勝人(やまおか かつと、1908年11月14日 - 1998年10月12日)は、昭和時代日本の詩人、小説家、作詞家、劇作家。長野県出身。 1908年(明治41年)、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)湊に生まれる。旧制松本商業学校を卒業したのち、諏訪地域で小学校各校の教員を務める傍ら、伊藤松雄主宰の「町の劇場」運動に参加した。 1930年代後半からは文芸グループ「諏訪文学」に属し、小説を執筆する傍ら「山岡羊村」他の名義で懸賞歌謡への応募を始め、1941年(昭和16年)には大政翼賛会が制定した「大政翼賛の歌」で入選する。戦後は地域活動に徹し校歌や婦人会歌、音頭の作詞、新聞小説連載などの活動に従事した。
伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日… 伊馬 春部(いま はるべ、1908年(明治41年)5月30日 - 1984年(昭和59年)3月17日)は日本の作家、劇作家。本名は高崎英雄。旧筆名は伊馬鵜平。戦前から戦後にかけてユーモア小説やラジオドラマなどの分野で活躍。釈迢空門下の歌人としても知られる。
大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 19… 大林 清(おおばやし きよし、1908年4月25日 - 1999年10月27日)は、日本の小説家、劇作家。 第4代日本作家クラブ会長。日本放送作家組合(現・日本脚本家連盟)の創立以来、理事長を務め、日本著作者団体協議会会長など文化団体の会長、理事、評議員など歴任。 東京府立第一中学校を卒業後に慶應義塾大学仏文科入学。1932年に同校中退後、1933年同人雑誌「大衆文学」を創刊。1939年に長谷川伸が主宰する新鷹会に入会した。1939年頃、長谷川伸主宰の劇作研究会で舞台脚本を執筆。 1943年に野間文芸奨励賞を受賞。 戦後は都会風俗を描き、ラジオ、テレビの脚本を多く書き、「あの波の果てまで」などの人気テレビドラマの脚本を手掛けた。
岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日… 岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月15日)は、昭和時代の劇作家、演出家、プロデューサー、時代考証家。本名は良雄。弟に俳優岸井明がいる。 1908年(明治41年)3月21日、東京市日本橋区小網町三丁目上田回漕店(上田辰之助の実家)裏店に、弁護士の岸井辰雄とりうの長男として生まれる。 岸井家は江戸時代には裕福だったが、嘉永2年生まれの祖父弁吾の代で散財した。父辰雄は1880年(明治13年)4月2日に現在の埼玉県深谷市に生まれ、貧困の中苦学して青山学院中等部を経て明治法律学校(現在の明治大学)を1903年に首席で卒業。1904年に判事検事登用試験に合格し、浦和地方裁判所に勤務。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2… 永井 鱗太郎(ながい りんたろう、1907年(明治40年)2月26日 - 1985年(昭和60年)11月5日)は、日本の児童劇作家。日本児童演劇協会常任理事を務めた。 福井県あわら市(旧金津町八日)出身。本名は善太郎。 1927年、福井師範学校を卒業。福井県あわら市伊井小学校で小学校教師を始めるが、1933年に上京。 東京で小学校教師として働くかたわら、1936年に正善達三らと児童劇団「子供町」を結成(1944年解散)。戦後文筆生活にはいる。児童劇脚本研究会「こまの会」を主宰。 1953年『お月さまをたべたやっこだこ』で小学館児童文化賞受賞。1980年、日本児童演劇協会功労賞受賞。1984年には芸術文化功労者として勲五等瑞宝章を受けた。
八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 -… 八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 - 1965年5月12日)は、日本の劇作家・脚本家である。新派、新国劇、芸術座、前進座、井上正夫一座、移動演劇隊などあらゆる分野で上演され、映画化も多数なされた。 1906年(明治39年)4月17日、秋田県能代市の向能代の八木財吉・ふみの長男として生まれる。本名:八木財一郎。 3歳の時、両親の離婚で母ふみに連れられて函館に転居、7歳で函館幸尋常高等小学校に入学。13歳で庁立函館商業学校に入学、その翌年から文学活動を始める。仲間と同人誌を発行するとともに、1922年(大正11年)12月15日に創刊された「校友会雑誌」には、"八木小夜二"、"八木青萍子"のペンネームで詩や俳句を投稿する。
田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月… 田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月10日 - 1995年〈平成7年〉11月29日)は、日本の劇作家、演出家、フランス文学者。日本芸術院会員。 長崎県長崎市生れ。旧制長崎県立長崎中学校を経て、1930年、慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。 在学中から獅子文六・岸田國士の「新劇研究所」に入る。卒論はフランスの劇作家、ポール・ジェラルディ。 1932年、岸田主宰の第1次『劇作』創刊に参加、実質的な編集長の任を務めた。1933年、処女戯曲『おふくろ』発表、築地座で上演されて注目される。1934年、やはり劇作家の田中澄江と結婚、神奈川県藤沢町鵠沼に新居を構える。同1934年から演出も始める。
上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま ま… 上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま まさすけ)、1905年(明治38年)2月23日 - 1989年(平成元年)4月11日)は、日本の劇作家・小説家。姉は童謡詩人の金子みすゞ。
清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は… 清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は、日本の詩人、劇作家。 長野県南安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。旧制青山学院専門部卒業。1921年、穂高演劇協会を創設、「安曇野モダニズム」の拠点とした。1924年、在京中に知り合った吉行エイスケとモダニズム雑誌『売恥醜文』を発刊(後に発禁処分)。同人誌『葡萄園』に「東を目指す」を発表。1930年には第二次信州詩人連盟講演会を行い、1939年には「藤村会」を創設。戦後は県下各地で積極的に公演を行った。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年… 宇野 信夫(うの のぶお、1904年7月7日 - 1991年10月28日)は、日本の劇作家、作家、歌舞伎狂言作者。 埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現:埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学文学部国語国文学科卒業。 父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草に東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。その時代に、まだ売れていなかった、のちの古今亭志ん生ら貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。6代目三遊亭圓生とも交友が深かった。新作落語をいくつか創作したが、サゲは噺家に一任した。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 197… 菅原 卓(すがわら たかし、1903年1月15日 - 1970年5月3日)は、日本の実業家で劇作家、演出家でもある。菅原電気商会元社長。 第二次世界大戦後、アメリカ演劇を日本に紹介したことで知られる。弟は劇作家の内村直也。 東京生まれ。1925年、慶應義塾大学経済学部卒。コロンビア大学で演劇を学ぶ。 岸田國士に師事し、1932年雑誌『劇作』を創刊。左翼演劇に反対して演劇の芸術性を擁護し、劇作派と呼ばれる。1934年戯曲「北へ帰る」を発表。 1939年、菅原電気商会社長となる。 戦後、1949年、ピカデリー実験劇場運営委員長に就任し、戦後の演劇復興に尽力し、1950年水谷八重子(初代)とともに現代劇運動を起こす。
菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 193… 菊谷 栄(きくや さかえ 1902年11月26日 - 1937年11月9日)は青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身の画家、喜劇作家。 本名は菊谷栄蔵。青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 1915年青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)に入学、青森中時代から油絵を描き始める。1920年青森中卒業後、東京美術学校・慶應義塾大学部理財科の受験に失敗して故郷の青森大林区署(後の青森営林局)管理課で働いていたが、翌年退職して再び上京。日本大学法文学部文学科(芸術学)および川端画学校に学ぶ。 浅草六区に通ううちに榎本健一と知り合い、当初は美術スタッフとして協力していたが、次第に脚本にも関わるようになる。
北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明… 北條 秀司(ほうじょう ひでじ、新字体:北条、1902年(明治35年)11月7日 - 1996年(平成8年)5月19日)は、劇作家、演出家、著述家。本名:飯野 秀二(いいの ひでじ)。 大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。