関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - … 関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - 1942年(昭和17年)10月26日)は、日本の海軍軍人。南太平洋海戦において戦死。海兵58期。最終階級は海軍中佐。 山形県米沢市に父・関才右衛門と母・ヤスのもとに生まれる。父は海軍大佐で、日本海海戦に第19艇隊所属の水雷艇「雉」艇長として参戦している。母は旧米沢藩士・左近司政記の娘。左近司政三海軍中将は伯父にあたる。 府立五中を経て、1926年(大正15年)11月海軍兵学校58期に入校。この時期はダルトンプランによる教育が実施されていた。1930年(昭和5年)11月18日卒業。58期生は少尉候補生として装甲巡洋艦「出雲」・「八雲」に乗組し練習航海に出発(関は「八雲」に乗組み)。
浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 -… 浦 茂(うら しげる、1909年〈明治42年〉2月11日 - 2001年〈平成13年〉11月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、実業家である。航空自衛隊では第5代航空幕僚長を務めた。最終階級は陸軍中佐(大日本帝国陸軍)、航空幕僚長たる空将(航空自衛隊)。 石川県石川郡三馬村(現・金沢市内)出身。1927年(昭和2年)金沢第一中学校卒、1928年(昭和3年)陸軍士官学校に入学。 1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を全兵科315名中を28番(歩兵科では13番)の成績で卒業する。同年10月25日、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊第10中隊附(第10中隊長は竹内章雄大尉・27期)となり、のち第51代の聯隊旗手を務めている(歩兵第7聯隊編纂『聯隊歴史』)。
金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月1… 金 正晧(キム・ジョンホ、朝鮮語: 김정호、1909年1月19日 - 1970年3月9日)は、満州国および大韓民国の陸軍軍人、警察官僚、政治家。陸軍准将、第3代韓国国会議員。 1909年1月19日、全羅南道光陽郡(現・光陽市)出身。 普成中学校(朝鮮語版)、法政大学卒業。満州国中央陸軍訓練処(奉天軍官学校)3期卒業。 国立警察専門学校(現・警察人材開発院)校長、慶北警察庁長、慶北鉄道警察庁長、忠南鉄道警察庁長、公安局長、陸軍護国軍第105旅団長、全南地区兵事区司令官、全北戒厳民事部長、全北地区兵事区司令官、陸軍106師団長、陸軍本部兵務監、国防部第3局長、合同参謀本部第1部長・第3部長、韓米合経国防部代表を務めた後、陸軍准将として予備役に編入。
友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月… 友永 英夫(ともなが ひでお、1908年(明治41年)12月6日 - 1945年(昭和20年)5月14日)は、日本の海軍軍人。潜水艦を専門とする技術士官として、自動懸吊装置、重油漏洩防止装置を開発し、2度にわたり海軍技術有功章を受章した。第二次世界大戦中にドイツへ赴き、その帰途でドイツの降伏を迎え、乗艦していた「Uボート」艦内で庄司元三とともに自決。最終階級は海軍技術大佐。 現在の釜山広域市に土木技術者の父の三男として生まれた。本籍は山口県。日本に帰国後も父の仕事の関係で住居を転々とした。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校理科を経て1929年(昭和4年)に東京帝国大学工学部船舶工学科に進んだ。
栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11… 栗原 安秀(くりはら やすひで、1908年(明治41年)11月17日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、国家社会主義者。陸軍士官学校第41期歩兵科出身。最終階級は歩兵中尉。 1936年2月26日に勃発した二・二六事件に参加した。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。 1908年11月17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の歩兵大佐栗原勇(12期)。父の転勤に従い、北海道旭川で暮らしている。二・二六事件において処分された予備役少将斎藤瀏(12期)とその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみの付き合いをしていた。坂井直(事件時は歩兵第3聯隊第1中隊附中尉として斎藤實内大臣邸を襲撃、43期)もこの頃の幼馴染である。
対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月1… 対馬 勝雄(つしま かつお、1908年(明治41年)11月15日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 二・二六事件の反乱部隊に参加した青年将校の一人で、事件当日に首相官邸襲撃を実行し、事件後に死刑判決を受け、銃殺刑に処せられた。 青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧農の生まれ。 1915年(大正4年)春から青森師範学校附属尋常小学校に通い始め、成績優秀で3年から終業式の度に運動が優等として壇上に呼ばれたり、全科目の成績は10段階評価でほとんどが10であった。勉強好きで本を好んでいたが家計のことを考えて買って欲しいと頼むことはなかった。卒業式では総代となり、褒章に国漢文辞書を貰った。
山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20… 山岸 宏(やまぎし ひろし、1908年(明治41年)9月20日 - 没年不明)は、日本の海軍軍人。最終階級は中尉。妻は皇族賀陽宮家の従姉妹あや子。 新潟県出身(高田市東城町を経て、現上越市東城町)。名士の家に7人キョウダイの次男として生まれ、父の宏隆は日露戦争に出征した陸軍歩兵大尉で、在郷軍人高田分会長や新潟県会議員を2期、副県会議長も歴任した。姉の多嘉子は従軍記者として日中戦争に赴いた後、北支で宣撫教育に携わった。新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)を経て、陸士海士ともに合格、父が山岸家伝来の刀を手に日露戦争に従軍して敵が恐れをなしたことに憧れ、短剣生活を夢に1928年(昭和3年)3月、海軍兵学校(56期)を卒業。
杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月1… 杉江 一三(すぎえ いちぞう、1908年〈明治41年〉9月18日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵56期、海大甲種37期。第5代海上幕僚長、第2代統合幕僚会議議長。 愛知県出身。旧制愛知県熱田中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)を経て海軍兵学校に入校。太平洋戦争中は海軍大臣秘書官、南西方面艦隊参謀などを経て、終戦時は特殊潜航艇「海龍」36隻、人間魚雷「回天」6隻、「震洋」100隻を擁する横須賀鎮守府第1特攻戦隊第11突撃隊副長。 戦後は公職追放となり、北海道で酪農に従事するが、1953年(昭和28年)10月に海上自衛隊の前身である警備隊に入隊。1963年(昭和38年)7月、第2次防衛力整備計画実施期間中に海上幕僚長となり、第3次防衛力整備計画策定作業に参画した。
万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月… 万年 東一(まんねん とういち、1908年〈明治41年〉9月10日 - 1985年〈昭和60年〉3月28日)は、日本の元陸軍軍人(上海特務機関)、右翼活動家、愚連隊の首領、総会屋。右翼団体大日本一誠会初代会長。全日本女子プロレス初代会長。山形県飽海郡松嶺町出身。安部磯雄襲撃事件、渋谷事件などで知られる。 明治41年(1908年)9月10日に山形県飽海郡松嶺町で生まれた。父は小学校の教頭だった。東一は次男だったが、長男は生まれてすぐに死亡した。 大正8年(1919年)、父が東京の親戚の事業を手伝うことになり、一家で上京した。 同年、父が手伝った事業は失敗し、父は裁判所の書記官に任官した。一家は京王線の沿線に住んだ。
嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月… 嶋崎 重和(しまざき しげかず、1908年(明治41年)9月9日 - 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の海軍軍人。空母「瑞鶴」飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。 本籍は大分県。鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校(現・三重県立上野高等学校)、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を経て、1929年(昭和4年)3月、海軍兵学校(第57期)を卒業。1930年(昭和5年)12月、海軍少尉任官。高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。 1932年(昭和7年)12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。
梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25… 梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25日 - 1987年(昭和62年)10月8日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中佐。名は「覬」と表記される場合がある。 1908年(明治41年)6月25日、現在の広島県江田島市鷲部に、父・藤市と母・スギの9人兄弟の末っ子として生まれる。旧制呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)を経て、1925年(大正14年)4月、海軍兵学校に第56期生として入学、1928年(昭和3年)3月卒業。 装甲巡洋艦「八雲」、重巡洋艦「青葉」、航空母艦「赤城」その他に乗組、1930年(昭和5年)中尉に任ぜられる。その後、駆逐艦「菊」砲術長、駆逐艦「朝顔」、防護巡洋艦「対馬」、吹雪型駆逐艦「白雪」への乗組を経て、1934年(昭和9年)、海軍水雷学校高等科に学び、同年大尉に任ぜられる。
吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2… 吉岡 忠一(よしおか ただかず、1908年5月14日 - 2000年9月5日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校57期。海軍大学校卒。横須賀海軍航空隊で爆撃雷撃の研究、高雄海軍航空隊隊長、第一航空艦隊、第三艦隊航空参謀を経て第26航空戦隊司令部先任参謀として終戦。最終階級は海軍中佐。旧姓は大杉。 真珠湾攻撃に、第一航空艦隊航空参謀として参加。その奇襲成功を伝える暗号電文「トラトラトラ」(我れ奇襲に成功せり)を小野寛治郎通信参謀と二人で発案した。 ちなみに、実際にこれを打電した突撃飛行隊長の淵田美津雄は、当時誰もが奇襲攻撃を危ぶんでいた中で、その成功電文が「虎」の連打と知り、縁起が最高だと喜んだと言う。
稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 … 稲葉正夫(いなば まさお、1908年〈明治41年〉5月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐。
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日… 古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日 - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。 長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。王師会会員となる。 1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。 1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。 事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位、大礼記念章(昭和)を褫奪された。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月… 藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関を指示し、チャンドラ・ボースらと共にインド国民軍の編成や戦後のインド独立に大きな役割を果たした。そのため、インド独立運動に携わり「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーに対して、藤原はボースと並び「インド独立の母」とも呼ばれる。 藤原為蔵の二男として兵庫県多可郡(現在の西脇市黒田庄町喜多)に生まれる。柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となった。
久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 199… 久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 1993年12月21日)は、日本の軍事評論家、海軍軍人。 海軍兵学校〔1928年〕・海軍大学校〔1944年〕を卒業した。海軍中佐となり、大本営参謀兼南方軍参謀として終戦を迎える。 戦後、1953年より軍事評論家として活躍。1968年には沖縄基地問題研究会の座長を務め、沖縄返還の基本政策の提言に関わった。 著書に『戦後世界軍事史』『核時代の軍縮問題』『平和問題の理解』『戦争・平和・ベトコン』など多数。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月2… 奥田 豊三(おくだ とよぞう、1908年(明治41年)1月20日 - 1983年(昭和58年)10月7日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。第2代国土地理院長を務めた。 富山県富山市出身。第四高等学校理科甲類から1933年(昭和8年)3月31日東京帝国大学理学部天文学科学士試験合格後、東京天文台を経て、1942年(昭和17年)11月10日陸軍技師(高等官六等)に任官し陸地測量部付となる。 終戦を受け陸地測量部解体後、地理調査所を経て、1952年(昭和27年)理学博士(東京大学)、1961年(昭和36年)4月1日国土地理院長に就任。1962年(昭和37年)10月1日に国土地理院長を退官後は緯度観測所長、日本天文学会理事長、日本地図調製業協会会長を務めた。
乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13… 乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本の教育者(英語・ドイツ語科)、牧師、軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主。板垣退助の孫。日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師。 1908年(明治41年)1月13日、高知県貫属士族・乾正士の長男として、高知県土佐郡潮江村412番屋敷に生まれる。母は、長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)高野直作の長女・八重野。父乾正士は板垣退助の次男にあたる。乾姓を称したのは、退助が戊辰戦争の際、乾姓から板垣に復姓したが、旧来の乾姓が無くなるのを惜しみ正士を後嗣の無い分家の土佐藩士・乾正厚の家督を相続させる形で残そうとしたため。
梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉… 梅林 孝次(うめばやし たかつぐ、 1908年〈明治41年〉 - 1937年〈昭和12年〉8月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉(殉職により一階級死後進級)。海軍陸攻搭乗員。 揚州への渡洋爆撃に指揮官代理として参加し、中華民国空軍戦闘機との戦闘で乗機が撃墜された際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げて自爆したことから、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。 兵庫県神戸市にて卸売業・梅林行運とさきの次男として生まれる。神戸市・楠尋常小学校に入学、翌年、武庫郡(現・芦屋市)の精道小学校に転校。1920年(大正9年)、第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)に進学するが、父が徳島県の那賀郡桑野村阿瀬比(現阿南市阿瀬比町)にて大理石の採掘を始めたため、1922年(大正11年)、一家で徳島市富浦町東富田に移り住み、徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)に転校。
藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月… 藤森 康男(ふじもり やすお、1907年(明治40年)11月28日 - 1995年 (平成7年) 7月6日 )は、日本海軍軍人。海兵56期卒業。最終階級は海軍中佐。 1907年11月28日長野県諏訪郡湖南村(現諏訪市)に生まれる。諏訪中学を経て、1925年(大正14年)4月海軍兵学校56期に入校。1928年3月、同校を席次111名中16番で卒業。少尉候補生として練習航海に出発。1929年11月少尉任官。1931年12月中尉。1934年11月大尉。1936年12月潜水艦学校乙種卒業。1937年12月伊号第二十三潜水艦水雷長。1938年7月伊号第六十四潜水艦水雷長。1939年伊号第七十五潜水艦水雷長。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月… 中橋 基明(なかはし もとあき、1907年(明治40年)9月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中尉。 1936年の二・二六事件に決起部隊将校として参加し、軍法会議で死刑判決を受けて処刑された。 東京牛込に、陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。本籍地は佐賀県。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校・中等部)を経て東京陸軍幼年学校に入った。 陸軍士官学校第41期生となり、同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。この2人とは二・二六事件の同志となるが、この頃交友があったかは不明。
塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1… 塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業(少候19期)。本名は、塚本清。最終階級は陸軍少佐。戦前からの日蓮正宗の法華講員で、戦後、政財界の顔役として活躍した。 1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。本籍は佐倉市裏新町。 旧制千葉県立佐倉中学校を卒業後、佐倉歩兵第57連隊に入隊。1935年(昭和10年)4月時点で陸軍軍曹であり、陸軍士官学校予科の生徒隊第1中隊第1区隊(区隊長:近藤伝八中尉)助教として51期生の教育を担当。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1… 中原 茂敏(なかはら しげとし、1907年3月28日 - 1991年10月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。戦時中は兵器行政・補給関係の要職を歴任し、戦後は補給戦に関する著作で知られる。 大阪府出身。陸軍士官学校砲兵科(第39期)を経て、陸軍砲工学校高等科(第36期)を優等で卒業。また、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気工学科を卒業している。 陸軍省軍務局軍事課資材班長、企画院調査官を兼務、陸軍兵器行政本部附、陸軍省軍務局課員、兵站総監部参謀、陸軍大学校兵学教官などを歴任した。 太平洋戦争末期には第15方面軍参謀(後方主任)を兼ね中部軍管区参謀を務め、陸軍大佐に進級した。 戦後、陸軍の補給・国力の実態を分析した著書を刊行している。
河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日… 河野 壽(こうの ひさし、1907年(明治40年)3月27日 - 1936年(昭和11年)3月6日)は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件で蹶起し、湯河原で牧野伸顕を襲撃したが負傷。翌月、入院先の熱海で自決した。 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着、伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。
藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月… 藤村 義朗(ふじむら よしろう、1907年〈明治40年〉2月24日 - 1992年〈平成4年〉3月18日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中佐。旧名・義一(よしかず)。 大阪府出身。実業家・藤村義正の長男として生まれる。堺中学を経て、1927年(昭和2年)3月、海軍兵学校(55期)卒業。1928年(昭和3年)10月、海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1934年(昭和9年)7月、「長月」砲術長に就任、以後、砲術学校専攻科学生、「綾波」砲術長、砲術学校教官、「白雲」「厳島」の各砲術長を歴任。1939年(昭和14年)11月、海軍少佐に昇進。1940年(昭和15年)4月、海軍大学校(甲種37期)を首席で卒業した。
金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月… 金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月7日または1907年 - 1960年7月30日)は、大韓民国の海軍軍人(海軍少将)、政治家、弁護士。大韓民国海軍創設の功労者で第3代韓国国会議員。キリスト教徒。 咸鏡北道明川郡出身、本籍は慶尚南道昌原郡。間島永信中学校を経て日本大学専門部法科卒、満州国司法要員養成所修了。弁護士試験合格。満州国法院書記官、高等保護審判官を経て、解放後は軍に投身し、軍法務官、海軍参謀長、鎮海特設基地司令官、海軍鎮海統制府司令官、海軍本部行政参謀副長を歴任した。海軍少将として予備役編入後、自由党所属の民議員、第3代国会国防委員会委員を務めた。 1960年7月30日に死去し、1984年6月27日に国立ソウル顕忠院へ改葬された(将軍第1墓域141号)。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11… 高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 徳島県出身。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)より海軍兵学校56期で入校。 あだ名は「親分」。妻マツエの妹の夫は真珠湾攻撃の第二次攻撃隊長嶋崎重和少佐(海軍兵学校57期)。海兵での同期に久住忠男、田辺弥八、前田実穂、唐島辰男、白相定男、橋口喬らがいる。 1931年(昭和6年)12月、第22期飛行学生となり1932年(昭和7年)11月に修了。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。
林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月1… 林 正義(はやし まさよし、1906年(明治39年) 2月14日 - 1980年(昭和55年)9月26日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱予備罪で有罪となった海軍中尉である。幽顕塾塾長。 熊本県出身。祖父は横井小楠と親交があった人物で、父は刀工、母は神風連に関わった人物の娘である。島田数雄(上海日報主筆)は叔父。妻は五・一五事件で首相官邸を襲撃した海軍士官の一人、村山格之の姪。 済々黌中学を卒業。福村利明は同級生で、刎頚の仲であった。2年の浪人を経て海軍兵学校56期に入校。高橋赫一、田辺弥八、三上作夫のほか、 古賀清志ら五・一五事件に関わる3名が同期生である。卒業席次は111中107番。
ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 196… ジョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 1967年11月)は、満州国軍の軍人。モンゴル人。第二次満蒙独立運動で戦死したバボージャブの三男で、日本で教育を受けたのち軍人となる。1945年8月のソ連参戦後、ハイラル市郊外で叛乱を起こし日系軍官を多数殺害した。最終階級は陸軍少将。日本名は“川島成信”、“田中正”。ジョンジュルジャップとも。 1906年、遼寧省彰武県大冷営子に生まれる。父親のバボージャブ(巴布扎布)は彰武県の巡警局長を務めていたが、1912年に一家を連れてボグド・ハーン政権下のモンゴルのフレー(現・ウランバートル)へ渡り、1916年の第二次満蒙独立運動で挙兵して戦死した。父親の死後、川島浪速によって一家と共に旅順へ送られ、日本第二高等小学校で勉強した。
茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1… 茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。 1905年(明治38年)、松山市河原町に父・木和村利平、母・ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親と死別し、1914年(大正3年)3月24日にツネヨの実弟である茂木氏男・トヨ夫妻の養子となる。
小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月… 小野田 快雄(おのだ よしお、1905年〈明治38年〉10月23日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。 岡山県御津郡今村中仙道(現・岡山市北区中仙道)に生まれる。第六高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科に合格し、1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学法学部を卒業する。 同年5月、台湾総督府内務局地方課勤務を発令され、翌月渡台する。1934年(昭和9年)9月、地方理事官に進み、台北州羅東郡守に就任し、1936年(昭和11年)10月、高雄州警務部警務課長に転じた。ついで同州内務部勧業課長、府事務官官房外務部課長、台南州産業部長、同州警察部長を経て、1942年(昭和17年)10月、軍政部附として南方に転出。
福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10… 福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10月2日 - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の海軍軍人。海兵54期卒。戦死による二階級特進で、最終階級は海軍少将。 熊本県出身。1905年(明治38年)10月2日、福村卯吉の二男として生まれる。中学済々黌の出身で、林正義は同級生であった。のち林とともに王師会の結成に加わる。1926年(大正15年)3月、海軍兵学校(54期)卒業。1927年(昭和2年)10月、海軍少尉に任官。1929年(昭和4年)11月、海軍中尉に昇進し第一遣外艦隊司令部付となる。 1930年(昭和5年)4月、霧島乗組となり、出雲乗組、第5駆逐隊付、波風乗組、第3艦隊司令部付、常磐乗組、安宅乗組を歴任。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月… 浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月16日 - 平成8年(1996年)11月)は、日本の陸軍軍人、実業家。ホセ・ラウレルフィリピン大統領特別顧問(閣僚待遇)、東條英機首相秘書官、山下奉文陸軍大将軍属通訳などを歴任。戦後は戦犯となってGHQから追われ、完全に表舞台から姿を消してその生涯を閉じた。 アメリカに最後まで抵抗したとして「ダグラス・マッカーサーが最後までその行方を探した男」といわれる。 北海道余市町にニシン漁を業とする家に生まれる。正勝の名は、日露戦争終戦後に「正義は必ず勝つ」という意味を込めて名付けたという。やがて父親がハワイ沖にまで漁業に出るようになり、同地に移住すると同時に正勝も同行してオアフ島で教育を受ける。
中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月… 中山 定義(なかやま さだよし、1905年(明治38年)8月16日 - 1995年(平成7年)1月16日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵54期恩賜。第4代海上幕僚長。島根県出雲市出身。東京都目黒区在住であった。長男は第10代明治学院長の中山弘正。 旧制島根県立大社中学校より海軍兵学校第54期入校。席次は入校時は79名中4番、卒業時は68名中3番で恩賜の短剣を拝受。 海兵54期は、ワシントン軍縮会議の結果、艦船のみならず海軍士官も余剰と判断され、海軍兵学校生徒の採用数が通常年度の半分以下になった2期目のクラスである。 佐官になってからは、軍政部門での勤務が多かった。海軍大学校甲種第36期在校中に日中戦争が勃発、人手不足も手伝って、大学校在校者も駆り出され、中山は中国在勤を命ぜられる。
田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月1… 田辺 弥八(たなべ やはち、1905年(明治38年) 8月13日 - 1990年(平成2年)4月29日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。ミッドウェー海戦において、伊号第百六十八潜水艦長として米空母ヨークタウンを撃沈した武功で知られる。最終階級は海軍中佐。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第21回)を経て海軍兵学校(56期)を卒業。海兵56期の同期生に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫らがいる。 田辺は通信学校甲種を修了していわゆる「通信屋」となったが、次いで潜水艦水雷長養成過程である潜水学校乙種を修了し、潜水艦乗りとなる。海軍大尉時代は「伊八潜」通信長を5ヶ月、第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月海軍少佐へ進級。
中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月… 中島 親孝(なかじま ちかたか、1905年(明治38年)5月28日 - 1992年(平成4年)5月31日)は、日本の海軍軍人。海兵54期。最終階級は海軍中佐。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
佐々木 武雄(ささき たけお、1905年3月7日 - 198… 佐々木 武雄(ささき たけお、1905年3月7日 - 1986年3月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は予備役大尉。 1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて日本の降伏に際して発生し未遂に終わった宮城事件に呼応し、出身校である横浜工業専門学校の有志らを募って国民神風隊を編成し、首相官邸と時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした。事件後は憲兵などの目をかいくぐる逃亡生活を行った末、比較的早い時期に大山 量士(おおやま かずひと)として世に現れる。改名後は「亜細亜友之会」を立ち上げて事務局長および理事長として活躍し、アジア出身の留学生から「オヤジ」として慕われた。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。