池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 200… 池谷 三郎(、1923年〈大正12年〉8月19日 - 2002年〈平成14年〉10月19日)は、日本のアナウンサー、俳優。 東京都中央区日本橋出身。青山学院専門部を経て慶應義塾大学文学部卒業。 1951年10月、開局を控えたラジオ東京(KRT。後のTBS)にアナウンサー第1期生として入社。入社1年目に駅伝中継を担当。 『浪曲天狗道場』では1954年10月の第1回から司会を担当。ラジオ番組においてトップレベルの聴収率を上げる功績を残す。池谷も『浪曲天狗道場』を始めるまでは、浪曲のことは全く何も知らず、「広沢虎造の『次郎長伝』といっても、大政も知らなければ小政も知らなかった」という。 1966年1月、ラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部。
庄司 永建(しょうじ えいけん、1923年(大正12年)7月… 庄司 永建(しょうじ えいけん、1923年(大正12年)7月6日 - 2015年〈平成27年〉9月15日)は、日本の俳優。本名:庄司 永建(しょうじ ながたけ)。娘はフリーアナウンサーの庄司麻由里。 山形県出身。上智大学卒業。 1948年(昭和23年)、民衆芸術劇場附属養成所を経て劇団民藝に入り、俳優デビュー。1970年(昭和45年)に民藝を退団してフリーとなる。プロダクションエムスリーを経て、希楽星に所属していた。 日活時代に3度共演した石原裕次郎の信任が厚く、『西部警察』での捜査係長・二宮武士警部補役が当たり役となる。 晩年は俳優業以外にも山形の民話の語り部として、故郷で毎年民話を伝承していた。
湊 俊一(みなと しゅんいち、1923年6月26日 - )は… 湊 俊一(みなと しゅんいち、1923年6月26日 - )は日本の俳優。声優。本名は湊谷 順平(みなとや じゅんぺい)。 秋田県平鹿郡で生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業。大学在学中は演劇研究会で活動。大学卒業後は劇団創作座に参加。1952年、ラジオ東京放送劇団に入団。劇団内では寺島信子、嵯峨隆一とともに研究会を作り演技の勉強を続けた。その後はタレントエージェント、三木事務所、劇団東芸、天知プロ、ニューキャスターブロフに所属していた。 現代劇における科学者や上司役などが当たり役で数多くのドラマに出演。時代劇では主に家老や商人役などを演じた。声優としても草創期から吹き替えを中心に活躍。 社団法人映像コンテンツ権利処理機構においては不明権利者とされている。
市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月2… 市川 喜一(いちかわ きいち、1923年〈大正12年〉6月26日 - 2006年〈平成18年〉3月31日)は、日本の映画プロデューサー・元俳優である。俳優としての芸名は黒田潤。群馬県高崎市出身。妻は市川千恵子(旧姓・関千恵子、元女優)。 海軍予備学生として魚雷艇部隊に在籍した。1946年に早稲田大学法学部を卒業するとともに、黒田潤名義で、新人スターとして大映入りして、いくつかの作品に出演。デビュー作『いつの日か花咲かん』で共演した関千恵子と交際、後に結婚。 1952年に大映を退社してフリーとなる。シナリオ作家志望だった市川は、故郷の群馬県高崎市の交響楽団をモデルにした作品を構想して、今井正監督に売り込んで採用される。
木村 功(きむら いさお、1923年〈大正12年〉6月22日… 木村 功(きむら いさお、1923年〈大正12年〉6月22日 - 1981年〈昭和56年〉7月4日)は、日本の俳優。広島県広島市出身。 広島市千田町(現・中区千田町)生まれ。広島二中(現・広島県立広島観音高等学校)卒業後に上京し1941年、文化学院文学部に入学する。在学中より演劇運動に没頭し、様々な学生演劇に出演した。1943年、文化学院演劇部『華々しき一族』で邦枝梢と共演して見初める。入隊前に梢との結婚を申し込むが、この時は父で作家の邦枝完二の許しは得られなかった。また、東宝撮影所でアルバイトをしていた友人を訪ねたとき、山本嘉次郎監督にスカウトされ、『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した。1943年、文化学院閉鎖に伴い1年繰上げで卒業後、召集され、1944年から1年間海軍生活を送る。
鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月… 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2017年〈平成29年〉2月13日)は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。
岡部 正(、1923年〈大正12年〉5月11日 - 没年不詳… 岡部 正(、1923年〈大正12年〉5月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 同姓同名で医学博士の岡部正とは別人である。 1923年(大正12年)5月11日、埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)に生まれる。日本大学芸術科を卒業。 小学校教諭を経て東宝の専属俳優となり、戦後の早い時期から1970年代前半にかけて、ジャンルを問わず多くの作品に出演した。主に端役、時には脇役として活躍。 東宝特撮映画も多く出演し、学者や医師、またはそれらの助手など白衣の役が多い。また、クレージー映画の出演も多数ある。 1960年代にはテレビドラマにも出演。ウルトラシリーズでは、1966年(昭和41年)に放送された『ウルトラQ』の一の谷博士(江川宇礼雄)の助手・本多や、翌1967年(昭和42年)に放送された『ウルトラセブン』の医師・キタムラ博士を演じた。
高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1… 高原 駿雄(たかはら としお、1923年〈大正12年〉5月1日 - 2000年〈平成11年〉2月26日)は、日本の俳優。本名、高瀬 勲(たかせ いさお)。 東京府東京市(現:東京都区部)出身。明治大学専門部文科(文芸科)卒業。文学座に所属していた。 明大在学中の1941年に文学座研究所に入所し、1943年の舞台『田園』でデビュー。1966年のプロフィールでは、両親の知り合いである漫談家で俳優の徳川夢声に弟子入りし、徳川の勧めで文学座入りしたと紹介されている。また、芸名の高原 駿雄は、徳川の本名である福原 駿雄から採ったものである。 1953年に文学座を退座すると、岡田英次、木村功らと共に劇団青俳を結成。
小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日… 小栗 一也(おぐり かずや、1923年〈大正12年〉4月2日 - 2001年〈平成13年〉12月13日)は、日本の俳優。本名は中村 俊男(なかむら としお)。 東京市荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。正則英語学校(現・正則学園高等学校)中退。たむらプロ、岩崎事務所に所属していた。 1946年に文芸劇場に入団。1955年に劇団葦の結成に参加。その後はフリーとなり、味のある名脇役として数多くの映画、テレビドラマに出演した。 2001年12月13日、肺炎のため死去、78歳没。
金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27… 金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1995年〈平成7年〉1月20日)は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。母方の祖父は元彰義隊で、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという。歯科医の家庭に生まれたが、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育ち、京華学園を卒業。 役者に興味はなく、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする。
船越 英二(ふなこし えいじ、1923年〈大正12年〉3月1… 船越 英二(ふなこし えいじ、1923年〈大正12年〉3月17日 - 2007年〈平成19年〉3月17日)は、日本の俳優。東京都出身。専修大学経済学部卒業。 俳優の三島謙は兄(本名:船越榮太郎)、女優の長谷川裕見子は妻、長男に俳優の船越英一郎がいる。本名:船越 榮二郎(ふなこし えいじろう)。 新宿で生地問屋「船越商店」を開いた呉服商・船越栄一の次男として誕生し、四谷第五小学校から帝京中学校に入学する。当初は美術学校か写真学校への進学を希望するが、父の勧めで1941年(昭和16年)には専修大学経済学部に入学し1944年(昭和19年)に学徒出陣で繰り上げ卒業する。香川県三豊郡豊浜町(現・観音寺市)の陸軍船舶学校に入り、翌年の8月に見習士官として終戦を迎えた後、父の勧めで地元新宿に写真屋を開いた。
相沢 治夫(あいざわ はるお、1923年1月28日 - 19… 相沢 治夫(あいざわ はるお、1923年1月28日 - 1995年3月10日)は、日本の俳優。東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身。 昭和工業技術学校製図課程卒。 シベリア抑留後、舞台芸術学院に所属。1959年には八田元夫と下村正夫と共に東京演劇ゼミナール(現:劇団東演)を結成。 東京俳優生活協同組合所属中の1995年3月10日、肺がんのため死去。72歳没。
白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 20… 白羽 大介(しらば だいすけ、1923年1月23日 - 2005年12月26日)は、日本の喜劇俳優。本名:勝俣定彦(かつまた さだひこ)。神奈川県足柄下郡箱根町出身。 明治大学卒業後、上宮高校教諭の傍ら、アルバイトで歌謡ショウの司会などしていた。 うめだ花月が開場した1959年、吉本興業に入社し吉本新喜劇の旗揚げに参加、一時は座長も務めた。 1965年、吉本首脳陣との対立から千土地興行に集団移籍。ルーキー新一、森信とのトリオを中心にルーキー爆笑劇団を結成しルーキーと漫才を組んだこともある、その後、マスコミを賑わせるような事件を起こし、人気低迷、千日劇場閉鎖などが重なり、劇団活動は頓挫、解散。 映画の端役、脇役を経て、1974年以降は松竹新喜劇に移り、主に脇役として活躍。
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1… 三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1月20日 - 2013年〈平成25年〉4月14日)は、日本の俳優、映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。 息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。群馬県太田市生まれ、静岡県出身。身長178cm、体重70kg。 個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した、日本を代表する名優の一人。デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ。
桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、… 桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、1922年8月16日 - 1983年9月4日)は、昭和期の俳優・演出家。元劇団民衆舞台所属。2男1女あり、長男は桑山正道(舞台監督・舞台プロデューサー)、次男は桑山和之(映画プロデューサー)。 東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。1943年に日本映画学校演技科を卒業し、戦争中は砲兵隊に所属して終戦時には仏領インドシナ(現ベトナム)で武装解除になり捕虜となる。戦後、帰国後しばらく自由労働者をした後、木下順二が主宰する劇団「ぶどうの会」に参加。劇団の創立メンバーとして、看板女優・山本安英の主演による『夕鶴』の与ひょう役をはじめ数々の舞台に出演した。
丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 20… 丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。
大村 千吉(、1922年〈大正11年〉4月27日 - 199… 大村 千吉(、1922年〈大正11年〉4月27日 - 1991年〈平成3年〉11月24日)は、日本の俳優。本名は大村撰吉(読み同じ)。旧芸名は大村仙吉。 東京市(東京都)出身。エヌ・エー・シーに所属していた。 1922年4月27日、東京市深川で、寄席の芸人であり俳優の東家梅之助の息子として生まれる。深川明治尋常高等小学校卒業。 1933年公開の映画『少年忠臣蔵』に子役で出演。これが映画デビュー作である。 1934年にP.C.L.(現在の東宝)に入社。同年公開の映画『あるぷす大将』にて主演。本名と同じ音の芸名「千吉」はこの『あるぷす大将』の出演時に監督山本嘉次郎につけられたもので、『少年忠臣蔵』時には本名のままであった。
北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1… 北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1997年3月7日)は、日本の俳優、演出家。晩年の芸名は喜多村 英三、本名は北村 英蔵(いずれも読みは同じ)。東京府東京市牛込区新小川町(現:新宿区新小川町)出身。妻は関えつ子、娘は北村岳子。 旧制第四高等学校(現:金沢大学)を経て、京都帝国大学文学部国語国文科に入学。学生演劇で当時の日本人男性としては長身だった体躯を生かし、翻案劇の主演と演出を数多く務めた。在学中の1947年に『劇団くるみ座』の創立に参加する。1948年、京都帝大を卒業。 近畿で製作された舞台、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画に数多く出演した個性派俳優として知られ、映画『吸血鬼ゴケミドロ』の政治家・真野剛造のような権力者役や、結束信二脚本・司馬遼太郎原作のテレビドラマ『新選組血風録』と『燃えよ剣』での井上源三郎役、『部長刑事』の大阪府警捜査一課の大鍋部長刑事のような市井の人などの脇役を終生演じ続けた。
川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 20… 川部 修詩(かわべ しゅうじ、1922年4月17日 - 2006年4月3日)は、日本の俳優、脚本家、映画評論家、雑誌編集者である。旧芸名川部 守一(かわべ しゅいち)。筆名の秋田 謙三(あきた けんぞう)では、テレビ台本の執筆、記録映画の製作を行う。日本映画ペンクラブ会員。麹町区第22代区長の川部爽介は実父である。 1922年(大正11年)4月17日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。父の爽介は旧天童藩士で、川部が満3歳であった1925年(大正14年)8月に東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の区長に就任し、川部が満7歳を目前にし尋常小学校就学直前であった1929年(昭和4年)3月まで同職を務めた。
東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1… 東 銀之介(あずま ぎんのすけ、1922年3月20日 - 1997年11月16日)は、東京都世田谷区出身[要出典]の俳優。劇団3◯◯(さんじゅうまる)に所属していた。本名は、新妻東一。 若い頃は陸軍戦闘隊に入隊、戦前に3回墜落し、一命をとりとめたことがある。戦後は航空自衛隊のテストパイロットになり、定年で退官、その後も民間アクロバットチームを編成して飛行を続ける。妻の経営するおでん屋でアルバイトをしていた渡辺えり子と知り合ったのがきっかけで芝居に関心を持ち、1982年(昭和57年)渡辺主宰の劇団3◯◯公演で舞台に初出演した。 大森一樹監督作品に多く起用された。また、日本人の父とフランス人の母とのハーフのため外国人風の容姿であり、『ゴジラvsキングギドラ』、NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』などの諸作品で外国人の役を演じる機会も多かった。
長島 隆一(ながしま りゅういち、1922年1月29日 - … 長島 隆一(ながしま りゅういち、1922年1月29日 - 没年不明)は、日本の俳優。東京府北豊島郡南千住町(現:東京都荒川区)出身。 旧芸名・別名は長島 隆二、長嶋 隆一。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
北山 年夫(きたやま としお、1922年1月16日 - 19… 北山 年夫(きたやま としお、1922年1月16日 - 1994年2月25日)は、日本の男性俳優、声優。劇作家、演出家。東京都出身。 日本大学芸術科卒業。 1944年、瑞穂劇団に入団。1947年、新協劇団入団。1958年、東京芸術座入団。1963年の時点では東京俳優生活協同組合に所属。1965年の時点では劇団砦に所属していた。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
片山 滉(かたやま あきら、1922年1月7日 - 1978… 片山 滉(かたやま あきら、1922年1月7日 - 1978年10月7日)は、宮城県仙台市出身の俳優。岐阜大学卒。本名同じ。東映に所属していた。 東映の映画・テレビで脇役中心に活動。 1978年10月4日、自動車で外出した後に消息を絶ち、3日後の10月7日、静岡県賀茂郡南伊豆町の県道下に転落した自動車内で遺体となって発見された。56歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - … 武内 文平(たけうち ぶんぺい、1921年11月15日 - )は、日本の俳優。本名同じ。別名義:五藤 雅博(ごとう まさひろ)。 岡山県備前町出身 。日本大学芸術科卒業。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道光陽郡で生まれる。大学卒業後、1947年、劇団文化座の創立に参加。その後は、劇団創造座を経て、劇団七曜会に入団、1957年に退団した後はグループ・てえぶらに所属し、活動の中心をラジオに移す。その後、富士放送プロ、つくしグループ創立参加。風の会、エヌ・エー・シー、楡プロダクション、サン・プロモーションに所属していた。北海道深川市在住。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
陶 隆司(すえ たかし、1921年7月31日 - 2010年… 陶 隆司(すえ たかし、1921年7月31日 - 2010年12月26日)は、日本の俳優。群馬県館林市生まれ埼玉県出身。本名及び旧芸名は陶 隆(読みは同じ)。 はちの会、、劇団中芸、東京芸術座、東京映画俳優協会、つくしグループに所属していた。 浦和町立浦和商業学校(現・埼玉県立浦和商業高等学校)卒業。東京陸軍経理学校卒業。 経理将校として、太平洋戦争(兵役(旧・満州国 関東軍経理将校)に従軍。 1951年、舞台『街道』でデビュー。 1954年、劇団中芸(東京芸術座の前身)発足時に、新人オーディションに合格して入団。 剣道と槍術の心得があり、双方では『嗚呼!! 花の応援団 男涙の親衛隊』の青田玄道役を、また、槍術ではテレビドラマ『新選組血風録』(1965年 東映京都+NET)の武田観柳斎役の起用のきっかけとなった。
春日 俊二(かすが しゅんじ、1921年6月14日 - 没年… 春日 俊二(かすが しゅんじ、1921年6月14日 - 没年不明)は、日本の俳優、声優。旧芸名は春日 俊次(読みは同じ)。本名は春日 章良(かすが あきよし)。 新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。東京芸術劇場、劇団青俳、劇団民藝、銀座プロ、劇団新劇場に所属していた。
由利 徹(ゆり とおる、1921年〈大正10年〉5月13日 … 由利 徹(ゆり とおる、1921年〈大正10年〉5月13日 - 1999年〈平成11年〉5月20日)は、日本の喜劇俳優。本名:奥田 清治(おくだ きよはる)。1950年代半ばからお笑いユニット“脱線トリオ”の一人として有名になり、解散後は喜劇役者、またコメディアンとして東北弁を駆使した言い回しや持ちギャグを用いてお茶の間を沸かせた。 宮城県石巻市にて、大工の親方である佐々木庄治と母きよの子として生まれる(3男3女の6人兄弟の長男)。父は腕のいい大工として知られていた。幼少期から茶目っ気があり、父の宴会で芸を披露するなどしていた。現在の石巻市立門脇小学校へ入学すると、学芸会で毎年主役を演じた。1930年小学3年次にレビュー劇団を見て感動し、後日東京に行くため、家出して入団を希望するが父親に連れ戻されたため断念したことがある。
今福 将雄(、1921年〈大正10年〉4月8日 - 2015… 今福 将雄(、1921年〈大正10年〉4月8日 - 2015年〈平成27年〉5月27日)は、日本の俳優。本名及び旧芸名は今福 正雄(読み同じ)。 福岡県飯塚市出身。旧制福岡県立嘉穂中学校(現福岡県立嘉穂高等学校)卒業。文学座映画放送部に所属していた。 1940年に旧制中学校を卒業し、九州飛行機の技師となる。 終戦直後、たまたま闇市で知り合いになった人にラジオドラマの効果音の手伝いを頼まれ、1946年NHK福岡放送劇団に入る。 ラジオドラマ『コメロンの貧乏神』で踏み切りの番人をしている老人役を演じ、テレビドラマへも進出。 1965年に第5回日本放送作家協会男性演技賞を受賞した。 1966年に福岡放送劇団の廃止を受け、文学座に研究生として入る。
天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年… 天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年7月24日)は、日本の俳優。本名は天都 敏(あまつ とし、旧姓:佐藤)。身長182cmの体格、ドスの利いた声、鋭い眼光などを活かし、映画・テレビドラマで悪役・敵役スターとして活躍した。宮城県桃生郡河南町(現・石巻市)出身。 両親および兄弟はすべて教員という一家に育つ。歌と水泳が得意な少年だったという。宮城県師範学校を卒業後、教職に就く。戦時中は海兵団で少年兵の教官の職にあった。1944年に結婚、婿養子となり姓を天都(あまつ)とした。戦後は教職から離れ、鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、水道工事などの仕事をしていた。戦後、教職を離れたのは、戦前と正反対の教育をすることはできないという理由であった。
市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920… 市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920年12月20日 - 1983年8月9日)は、昭和期の俳優。旧東京市(東京都)出身。「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。クレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇の名付け親としても知られる。 東京府立第五中学校卒。日本医師会勤務を経て1938年、日劇ダンシングチームに入団。戦後の1946年、南里文雄らの「南里文雄とホットペッパーズ」でピアニストを務める。 1951年9月21日に上映された映画『花嫁蚤と戯むる』(製作:ラジオ映画、配給:東映)で俳優デビュー、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。映画ではフランキー堺主演の作品に多数出演した。
内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 … 内田 朝雄(うちだ あさお、1920年〈大正9年〉8月1日 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の俳優。本名:内田 朝雄(うちだ ともお)。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌出生、島根県出身。平壌府第一中学卒業。円型劇場、劇団月光会を経て、コヒナタ企画に所属していた。 息子は俳優の内田岳志。 日本領朝鮮(現・朝鮮民主主義人民共和国)平壌に役人の子として生れる。中学校卒業後、満州炭鉱傘下の東満和竜炭鉱に入社。1941年(昭和16年)に応召し、終戦を仁川で迎え、1945年(昭和20年)に復員。翌1946年北海道開拓公社に入社し、江別市で開墾事業に従事した後、長野県上水内郡の飯綱高原に入植するが、1950年(昭和25年)、地元の人間との意見対立から同地を引き払う。
北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30… 北見 治一(きたみ はるかず、1920年〈大正9年〉7月30日 - 1995年〈平成7年〉10月23日)は、日本の俳優、演劇研究家。本名同じ。 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学国文科卒業。六月劇場に所属していた。 大学在学中に劇団「若い仲間」を結成して演劇活動を行う一方、同人誌「演技研究」を発刊する。 1943年より兵役のためフィリピン・レイテ沖海戦に加わる。 1949年、女優の杉村春子の紹介で文学座に参加し、1950年の舞台『わが心の高原』(ユージン・オニール)ので、杉村の相手役を演じる。 岩田豊雄を師と仰ぎ、中村伸郎らと親しかった。1963年、三島由紀夫の『喜びの琴』事件で脱退し、1964年の劇団NLT結成に参加する。
河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24… 河井 坊茶(かわい ぼっちゃ、-ぼうちゃ、1920年7月24日 - 1971年12月1日)は、日本の俳優、歌手、放送タレントである。本名は秋元 喜雄(あきもと よしお)。 1920年(大正9年)7月24日、秋元喜雄として生まれる。早稲田大学理工学部を卒業後、母校の暁星中学校で数学教師をつとめていた。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲、同年8月15日、25歳のときに第二次世界大戦の終戦を迎え、同年11月、復員してきた三木鶏郎が東京大空襲で焼け跡となっていた三木の九段の自宅跡に掘立小屋「鶏小屋第1号」を建てたとき、河井は妻とともに居候する。 翌1946年(昭和21年)1月29日、三木がNHKラジオの番組『歌の新聞』第1回放送に出演するにあたり、繁田裕司(三木)、朝川賞郎、秋元喜雄(河井)3人の「コメディアン・ハーモニスト」名義でともに出演した。
稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 199… 稲葉 義男(いなば よしお、1920年7月15日 - 1998年4月20日)は、日本の俳優。本名:稲葉 吉久。 千葉県成田市宗吾出身。日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)卒業。劇団俳優座に所属していた。 芸術小劇場在籍中に応召。1950年俳優座に入り、『三文オペラ』『桜の園』などの舞台に立った。映画では『七人の侍』で副将格として勘兵衛を補佐する五郎兵衛役を演じた他、多くの作品に出演し名脇役として活躍した。また、『ダイヤル110番』や『ザ・ガードマン』での刑事役や警備員役などテレビドラマにも多く出演した。時代劇では善人役での出演が多いが、悪役として出演することもあった。 1998年4月20日、心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。
岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日… 岡田 英次(おかだ えいじ、1920年〈大正9年〉6月13日 - 1995年〈平成7年〉9月14日)は、日本の俳優。千葉県銚子市生まれ。身長166cm。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。 1946年、村山知義の第2次新協劇団に入団。1949年に『花の素顔』で映画デビュー。 1950年、今井正監督の『また逢う日まで』で久我美子の相手役を演じたことで一躍注目を浴びる。 「新協劇団」分裂後の1954年、劇団青俳を木村功らと設立。後に現代人劇場を経てフリーに。『真空地帯』『ここに泉あり』などの話題作に次々と出演したほか、1959年にはアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』に出演。世界的にも知られることに。
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - … 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。 3人兄弟で、長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。 1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 19… 大坂 志郎(おおさか しろう、1920年2月14日 - 1989年3月3日)は、日本の俳優である。 秋田県能代市に生まれる。父の大坂連治郎は萬町で貸金業、米問屋を営んでいた。母の志保は沢口村小森(現在の北秋田市)の味噌醤油醸造工場を営む名望家の神成千代治の娘。妹に人形作家・陶芸家の神成澪がいる。1927年、夫の浮気性に嫌気がさした母は、志郎と澪を連れて上京し、新宿で郷土居酒屋の「秋田」を営んだ。店には太宰治や井上靖、木下恵介、川島雄三、河西克巳などの文壇映画人が集い、志郎の映画デビューも彼らの影響であった。新聞配達で家計を支え、旧制・日本大学第二中学校を中退し、「新築地劇団」研究生になる。その後、早稲田高等工学校機械科を卒業、満州国鞍山市の昭和製鋼の社員を経て、1942年、松竹俳優研究所に入所し、1943年の吉村公三郎監督の『開戦の前夜』でデビューする。
浜田 寅彦(はまだ とらひこ、1919年9月18日 - 20… 浜田 寅彦(はまだ とらひこ、1919年9月18日 - 2009年10月15日)は、日本の俳優。本名は同じ。 高知県安芸郡奈半利町出身。早稲田大学文学部卒業。劇団俳優座に所属していた。 1937年、早稲田大学文学部国文学科に進み、在学中に演劇の道を志す。移動劇団・瑞穂劇団の研究生を経て、兵役後の1946年に劇団俳優座に入る。『桜の園』や『三人姉妹』などの舞台に立った。 1947年『女優須磨子の恋』で映画デビューして以降、映画で端役・助演問わず多くの作品に出演し、1956年公開の映画『壁あつき部屋』では主演を務めた。またテレビ放送が開始された1953年当時からテレビドラマに出演しており、特に刑事ドラマや時代劇における悪役として、悪徳商人やヤクザの親分、庄屋の役などを演じたが、1980年代以降は善人役・老人役を演じることが多くなった。
伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう … 伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、本名:伊藤 嘉朗(いとう よしろう)、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本の俳優。「ゆうのすけ」は雄之助・雄之弼・侑之助でクレジットされている映画もある。 兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。 1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。
久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛、1919年6月6… 久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛、1919年6月6日 - 1982年6月15日)は、日本の男性俳優、声優、青二塾(東京校)初代塾長。元青二プロダクション所属。
滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年… 滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優。長野県北佐久郡本牧村(現佐久市)出身。旧漢字表記は瀧 謙太郎。本名は笠原 敬三。 長野県北佐久農学校、帝国高等音楽学校研究科卒業。関屋敏子、古関裕而、下八川圭祐、原信子らに師事し声楽を学ぶ。原信子歌劇団、日本劇場、創作座、芸術座小劇場を経て、1941年に日活多摩川撮影所に入社。大映、松竹大船撮影所を経て、東映に入社。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
高品 格(たかしな かく、1919年2月22日 - 1994… 高品 格(たかしな かく、1919年2月22日 - 1994年3月11日)は、日本の俳優。本名、向後 直吉(こうご なおきち)。 千葉県出身。北川事務所、スタッフ・アップに所属していた。息子は作家・カウンセラーの向後善之(1957年生)。本名からわかる通り、同じ旭市出身の高品剛とは無関係。 千葉県海上郡飯岡町に漁師の息子として生まれる。千葉県匝瑳郡八日市場小学校高等科を卒業後、八日市場区裁判所に勤務する。 1935年、東京市杉並区高円寺の「東邦拳闘倶楽部」に入ってプロボクサーになり、東洋フライ級チャンピオンまで登り詰めるが、日本映画に感動して俳優を志し1938年、日活多摩川撮影所に入社。1939年、田坂具隆監督の戦争映画『土と兵隊』でデビュー。
大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - … 大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - 1994年7月26日)は、沖縄県那覇市出身の俳優、脚本家、演出家、舞踊家。沖縄芝居の大御所として知られ、沖縄俳優協会会長もつとめた。なお、「大宣見小太郎」「大宜味小太郎」等と誤記されることも多い。 生誕時の本名は、當間朝義(幼名太郎)。やがて、沖縄芝居の役者の、大宜見朝良の養子に入り、本名「大宜見朝義」となった。さらに、当時の役者には、「太郎」と名乗る者が多かったことから、「大宜見小太郎」を芸名にした。また、南一郎のペンネームで200本以上の脚本を書いている。 妻は沖縄芝居女優の大宜見静子。 1926年(大正15年)7才の時に、石垣にて「瓦屋節由来記」で初舞台を踏み、その後も子役として活躍する。
高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9… 高 英男(こう ひでお、本名:吉田 英男、1918年10月9日 - 2009年5月4日)は、樺太(現・サハリン)出身の日本の歌手、俳優。日本人のシャンソン歌手の先駆けであり、シャンソン音楽普及の第一人者である。フランスでも活躍。独自のムードを醸し出す歌手・俳優として知られた。 大正7年(1918年)10月9日、樺太泊居町で8人兄弟の末っ子として生まれた。生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上の養子になっている。芸名である高英男の姓である「高」は旧姓(実家の姓)であり、自身は日本人である。デビュー以来「日本人ではないのでは」という問い合わせが少なからずあった。「高」という姓は大陸名のように思われがちであるが、日本に存在しない苗字ではなく、韓国には同姓同名の映画監督がかつていた。
佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 19… 佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 1984年1月30日)は、日本のコメディアンであり俳優である。本名は中江 勇(なかえ いさむ)。 1918年(大正7年)9月13日、北海道登別市に中江勇として生まれる。兄は劇作家の中江良夫である。室蘭市の旧制・室蘭尋常高等小学校(現在の室蘭市立本室蘭小学校)を卒業する。 その後上京して、20歳になる1938年(昭和13年)に初舞台、1943年(昭和18年)、25歳になる頃「佐山俊二一座」を旗揚げ、1944年(昭和19年)に「劇団新生座」を旗揚げした。 第二次世界大戦の終結後、八波むと志とあらいやだコンビを結成した。浅草・フランス座で人気を博す。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986… 神田 隆(かんだ たかし、1918年4月14日 - 1986年7月13日)は、日本の俳優・声優。東京府東京市赤坂区(現・東京都港区赤坂)出身。本名は神田 澄孝。かかしプロ、アマチプロゼ、北川事務所に所属していた。 東京帝国大学文学部仏文科を卒業。1942年に日本出版文化協会に入った。上司には南條範夫・杉浦明平、同僚に柴田錬三郎がいた。しかし、映画評論家の内田岐三雄に豪快なマスクと雄弁を注目されて、1943年(昭和18年)、松竹大船撮影所に入社した。映画『暖き風』でデビューし、戦後は『象を喰った連中』の細菌研究所員役で好評を得た。 新藤兼人脚本の『安城家の舞踏会』などで主要な役を演じたが、代表作には恵まれなかった。
美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - … 美川 陽一郎(みかわ よういちろう、1918年3月2日 - 1976年6月2日)は、日本の俳優である。本名は三川 義一(みかわ よしかず)、旧芸名は美川 洋一郎。東京市生まれ。 世田谷中学(私立)を卒業後、義母との折り合いが悪く家出、17歳の時に榎本健一の付き人となったのが芸能界入りのきっかけである。1937年、19歳の時に新国劇に入団、当初から老け役を得意とし、『白野弁十郎』、『大菩薩峠』などに出演した。 終戦後の1952年、映画『次郎長三国志』(東宝、マキノ雅弘監督)の次郎長役に抜擢され、新国劇を退団するが、東宝の創業者・小林一三の意向で、次郎長役は小堀明男に決定したため、美川は端役に回された。
池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 … 池部 良(いけべ りょう、1918年〈大正7年〉2月11日 - 2010年〈平成22年〉10月8日)は、日本の俳優、随筆家。 東京市大森区(現・東京都大田区)出身。身長174センチメートル。立教大学文学部英文科卒業。昭和中期の代表的な映画スターの一人。甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとった。 大学では富田彬などから学ぶとともに、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。監督希望だったが、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。
武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 19… 武藤 英司(むとう えいじ、1917年11月22日 - 1999年1月5日)は、日本の俳優である。本名:武藤 栄治(読みは同じ)。岐阜県武儀郡美濃町(現:美濃市)出身。