島田 屯(しまだ とん、1917年10月27日- 1965年… 島田 屯(しまだ とん、1917年10月27日- 1965年11月7日)は、山梨県甲府市出身の俳優。 画家を志し、太平洋美術学校で絵を学んでいたが俳優志望に転向。1939年に新協劇団入団。1940年、日活多摩川撮影所入社。東宝演劇研究会を経て、1943年に再結成された東宝劇団に入団。瑞穂劇団在籍中の1945年に召集を受ける。1949年、第2次新協劇団に入団。劇団青俳、フリーランス期間を経て、東京俳優生活協同組合に所属していた。 戦前は舞台を中心に活動。戦後は映画やテレビドラマにも多数出演しており、映画では東映の教育映画や独立プロ映画を中心に『おとし穴』などの作品に、ドラマでは『バス通り裏』などに出演した。
多々良 純(たたら じゅん、1917年8月4日 - 2006… 多々良 純(たたら じゅん、1917年8月4日 - 2006年9月30日)は、日本の俳優。本名:田足井 重二〈たたらい しげじ〉。 宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)出身。東京府立第九中学校卒業。新倉事務所に所属していた。 新築地劇団研究生、苦楽座、劇団民藝など舞台俳優として活動し、数多くの映画・テレビドラマに出演。頑固ながら根は優しい役などに定評があり、軽妙な役もこなせる貴重なバイプレーヤーとして活躍した。 1917年(大正6年)8月4日、宮城県牡鹿郡石巻町(現在の石巻市)に、父・重一と母・利の次男として生まれる。幼少時代は家業の都合で石巻、仙台、東京と居を移す。西巣鴨第二小学校を経て、1935年(昭和10年)に東京府立第九中学校を卒業後、国際ホテル学校に入学し、5カ月で中退、帝国ホテル食堂部に就職する。
千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年… 千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年〈平成11年〉11月1日)は、日本の俳優。本名は佐々木勝治()。旧姓は森竹。 妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸は岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。 1917年(大正6年)4月28日(土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる。
安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年… 安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年7月18日)は、日本の俳優。本名:阿部 徹(読み同じ)。旧芸名:原 不二雄(はら ふじお)。 日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画など数多くの作品で悪役を演じ、戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られる。戦前に新興キネマでデビューしており、若手時代は二枚目俳優として活躍した。妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしていない。 1917年(大正6年)3月28日、福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として生まれる。3人の兄はいずれも戦死している。 上京して府立四中(現在の都立戸山高校)を修了後、東京商科大学予科に進むが、酔っ払って西武線を止めて退学処分となる。
芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14… 芦田 伸介(あしだ しんすけ、1917年〈大正6年〉3月14日 - 1999年〈平成11年〉1月9日)は、日本の俳優。本名:蘆田 義道(あしだ よしみち)。 満洲で演劇活動に加わり、敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍した。渋い演技に定評があり、ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を得た。著書に自伝『ほろにがき日々』など。妻は元タカラジェンヌの香久美ひかる(本名:石川明子)。娘婿は俳優の松山英太郎、孫は女優の由夏と俳優の芦田昌太郎。 1917年(大正6年)3月14日(水曜日)、島根県松江市に生まれる。
宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の… 宇留木 康二(、1917年3月1日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。別名は宇留木 耕嗣(読み同じ)、宇留多耕司、宇留木康三など。姓は「宇畄木」と略字体で表記される場合もある。山形県出身。 東宝の俳優で同じ山形県出身の中島春雄によれば、宇留木は赤湯温泉にある旅館の息子であった。戦時中は陸軍に所属して満州へ出征しており、復員後に東宝の専属俳優となる。 クレジットされる作品は少ないが、特撮映画を始め、ジャンルを問わず数多くの作品に出演した。1965年頃には芸名を宇留木 康二(読み同じ)に改名している。 1971年に東宝専属俳優の一斉解雇が行われた後は主にテレビに活動の場を移し、1970年代末まで俳優業を続けた。
生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不… 生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である。本名同じ。 1917年(大正6年)2月12日、東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 1923年(大正12年)12月、渋谷幡代尋常小学校(現在の渋谷区立幡代小学校)1年生の時、築地小劇場で小山内薫演出『そら豆が煮えるまで』で初舞台を踏む。1934年(昭和9年)、青山学院中等部を卒業するまでに、父親である生方賢一郎(1882年 - 1961年)が関係する新劇協会や築地座の公演に子役として出演した。 映画では中学校1年から教育映画や1932年(昭和7年)に公開された、鈴木重吉監督映画『熊の出る開墾地』などに出演していたが、1934年(昭和9年)、父・賢一郎が在籍するP.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『只野凡児 人生勉強』に出演したのがきっかけで中学卒業直後の同年4月に入社。
天草 四郎(あまくさ しろう、1917年1月18日 - 19… 天草 四郎(あまくさ しろう、1917年1月18日 - 1986年7月25日)は、日本の俳優。熊本県熊本市出身。 芸名は同郷の天草四郎からとった。舞台俳優の天草浪子は従姉妹。義父(妻の父)は新国劇の俳優だった根岸若之助。 横浜戸部商業学校中退後。満州に渡り、ハルピン放送局のラジオドラマに出演。従姉妹の天草浪子から影響を受けたことから、1938年に新劇俳優に転向し、満州劇団ハルピンに入団。1939年(昭和14年)満映作品『私のうぐいす』で映画俳優としてデビュー。1944年に応召を受け、慰問活動に参加。1945年に復員し、日本に帰国。1946年に京都府にて劇団銀星座を立ち上げる。1948年、函館NHK放送劇団入団。
若原 雅夫(わかはら まさお、1917年1月1日 - )は、… 若原 雅夫(わかはら まさお、1917年1月1日 - )は、日本の俳優。 1940年代から1950年代前半にかけて、数多くの映画作品に出演し、そのルックスから「和製シャルル・ボワイエ」と称された。 出身地は東京市牛込区。1917年(大正6年)1月1日生まれ。児玉家の姉の次に長男として生まれ、父の「生命長く、男として立派なものになるように」との願いから「稔」と命名される。家業は映画館経営。東京、北海道小樽市、福島県郡山市などで経営。そのため、幼児の時から映画に興味を覚え、父が経営する映画館で、映画を観ることに親しんだ。小樽には4歳まで生活し、そのあと福島県郡山市を経て、7歳の時、学校へ入るため再び上京し、以後、学生時代を東京の学校で過ごした。
清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 201… 清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 2012年8月17日)は日本の俳優。 香川県高松市出身。1939年に新国劇に入団。解散後は数々の舞台や時代劇などに出演。2005年には日本演劇協会演劇功労者賞を受賞した。 2012年8月17日に肝不全のため死去。
平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小… 平 参平(たいら さんぺい、本名:橘高 文夫、別名:近松 小二郎、1916年11月10日-1986年9月14日)は、日本の喜劇俳優。吉本新喜劇の男優。広島県府中市中須出身。吉本興業所属。岡八朗、花紀京、山田スミ子、木村進、桑原和男らとともに吉本新喜劇の黄金時代を担った看板座長。
高田 宗彦(たかだ むねひこ、本名:松本 慈美、1916年(… 高田 宗彦(たかだ むねひこ、本名:松本 慈美、1916年(大正5年)9月15日 - 2004年(平成16年)3月31日)は、長崎県島原市出身の俳優。長女は、女優の松本留美。 母親の姉が勉学のためイギリスに渡り、そこで現地の英国人と付き合い家庭をもった。高田の母も勉強のためにイギリスに渡り、そこでスコットランド人の男性と知り合い結婚、生まれたのが高田である。その日本人離れした容貌から、戦時中は「鬼畜米英」と罵られ、つらい思いをしたという。 日本大学歯学部に入ったが、役者に興味を持ち、芸術学部に転部して演技を学んだ。 戦後、大映の社員俳優として、大映倒産時まで在籍した。外国人役を中心に数多くの作品に出演したが、ほとんどが端役である。
戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 -… 戸上 城太郎(とがみ じょうたろう、1916年5月18日 - 1980年7月24日)は、日本の俳優。 長崎県に生まれる。本名・田川正三。 猶興館中学4年修了。東宝京都撮影所俳優養成所で学び、1939年に今井正監督の『沼津兵学校』でデビュー。すぐに日活に移籍し、1941年に稲垣浩監督の『海を渡る祭礼』で初主演。その後所属先は日活から大映、松竹と変わる。 大柄な体躯と野太い声が特徴で殺陣の名手としても知られたが、台詞回しの癖のため主演スターとしては伸び悩んだ。中年期以降は主に時代劇の悪役・敵役として活躍した。 1960年には高田浩吉、近衛十四郎と共に時代劇量産体制にあった東映に移籍。東映時代『梟の城』(1963年)において大友柳太朗と敵対する忍者の頭目の役で、高所恐怖症のため空を飛ぶシーンの撮影(クレーンとワイヤーを用いた)の際に苦労したとのエピソードがある。
木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年… 木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年5月17日 - 1975年8月19日)は、日本のタップダンサー、喜劇人、映画俳優である。映画に関しては、ほとんどが愛称のキドシン名義で出演している。 1916年(大正5年)5月17日、北海道庁函館区豊川町(現在の函館市豊川町)に、海産商「木村商店」を営む木村喜助・ゑつ夫妻の長男として生まれ、裕福でハイカラな家庭に育つ。名門宝尋常高等小学校を卒業、北海道庁立函館商業学校へ入学したが、1932年(昭和7年)、父が急逝、学校を中退して家業を手伝う。そのころ、映画を観てフレッド・アステアに憧れ、タップダンスに興味を持つ。 1937年(昭和12年)22歳のときに上京、中川三郎に師事。
中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969… 中村 彰(なかむら あきら、1916年4月7日 - 1969年12月9日)は、日本の俳優である。本名同じ。 1916年(大正5年)4月7日、東京府北多摩郡巣鴨村大字池袋(現在の東京都豊島区池袋)に、成蹊学園の創設者である中村春二の五男として生まれる。 1929年(昭和4年)、東京高師附属小学校(現在の筑波大附属小)、1934年(昭和9年)に東京高師附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生には澄田智(第25代日本銀行総裁)がいた。旧制第一高等学校(1950年廃止)を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科へ進学し、父・春二とほぼ同じ学校歴をたどる。 東京帝国大学在学中から、後に映画監督となる家城巳代治や堀川弘通、同じく後に映画評論家として活躍する登川直樹や清水晶と交流し、1940年(昭和15年)、大学を卒業と同時に東宝に入社した。
有島 一郎(、1916年〈大正5年〉3月1日 - 1987年… 有島 一郎(、1916年〈大正5年〉3月1日 - 1987年〈昭和62年〉7月20日)は、日本の俳優。本名は大島 忠雄()。愛知県名古屋市出身。旧制名古屋中学校卒業。有島一郎一座に始まり、小夜福子一座、劇団たんぽぽ、劇団空気座、松竹大船、東宝芸能を経て、最後はフリーだった。俳優・歌手のRomi(成田路実)は孫。 鉄工所経営者の長男として生まれる。 日置尋常小学校を経て名古屋中学に入学。その頃から芝居好きで、学生時代は学芸会の花形であった。が、両親が相次いで亡くなる不幸に見舞われ、自活を迫られる。 1933年、俳優を目指して当時の人気スターだった田村邦男に弟子入り。十代で軽演劇の世界へと飛び込む。
天津 龍太郎(あまつ りゅうたろう、1916年2月10日 -… 天津 龍太郎(あまつ りゅうたろう、1916年2月10日 - 1962年)は、日本の俳優である。新漢字表記天津 竜太郎、本名兼田 隆(かねだ たかし)。日本映画データベースにおける「大津竜太郎」は誤記。 1916年(大正5年)2月10日、岡山県英田郡吉野村(現在の同県美作市五名あたり)に生まれる。 兵庫県神戸市に移り、旧制・神戸市立第三神港商業学校(現在の神戸市立六甲アイランド高等学校)に入学する。同校卒業後、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)にあやめ池撮影所を持つ市川右太衛門プロダクションに入社、同社で俳優としてデビュー、脇役・端役等でサイレント映画に出演をしていた。1936年(昭和11年)12月に同社は解散し、松竹キネマに吸収されるが、それを目前とした同年9月、兵庫県西宮市甲陽園に甲陽撮影所を稼働させていた甲陽映画(同年5月設立)に移籍する。
小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1… 増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1989年5月25日)は、日本の俳優、声優。本名・吉野 順二(のち増田順二)。東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身。旧芸名・別名は増田 順二。息子は劇団NLTの演出家。 増田家の次男として生まれ、吉田家の養子となる。 四谷第三尋常小学校を経て東京府立農芸学校に入り修了後、32年に第一外国語学校英語科に入り34年卒業。同年シナリオ·ライターをめざして日本大学専門部文科に進み、大演劇ワークショップに加入し北村喜八、青山杉作らに師事。36年に創作座へ入り、翌37年3月に大学中退するも同年春、創作座は解散し、38年末、文学座に入る。 1937年、日本大学専門部芸術科演劇科卒業。
殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30… 殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。 神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾()である。父親は広島県生口島出身。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京府東京市中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」である。
岩城 力也(いわき りきや、1915年8月26日 - 199… 岩城 力也(いわき りきや、1915年8月26日 - 1999年12月21日)は、日本の俳優。旧芸名は岩城 力。本名は岩城 力夫。富山県出身。 慶應義塾大学卒業。東映東京撮影所の現代劇映画に端役として出演する一方、テレビドラマにも早くから進出。相馬剛三・河合絃司らと共にバイプレイヤーとして、刑事ドラマから特撮まで東映制作のテレビ作品に多く出演した。 1973年より放送された『非情のライセンス』では特捜部・岩田刑事役で全シリーズに出演した(第3シリーズのみ退職後の役)。同番組の主演俳優・天知茂との親交も深く、時代劇も含め様々な作品で共演している。同じテレビ朝日系の『特捜最前線』にも、メインゲストを務めた第214話「バラの花殺人事件!」をはじめ複数に出演。
小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991… 小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991年4月11日)は、日本の男性俳優、声優、演出家。東京府東京市向島(現・東京都墨田区)出身。戦後のラジオドラマ黄金期を代表する声優。 隅田小、東京府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒業、東京府青山師範学校中退。1934年(昭和9年)、遠縁に当たる二代目市川小太夫の縁で市川猿之助主宰の春秋座で初舞台を踏む(『若き日の成吉斯汗』)同年6月、丸山定夫のP・C・L映画に入る。1935年(昭和10年)10月、小山映画演劇研究所主宰。1936年(昭和11年)3月、新築地劇団演出部(千田是也の助手)を経て、1938年(昭和13年)には文学座旗揚げに参加。
林 敏夫(はやし としお、1915年5月14日 - 1945… 林 敏夫(はやし としお、1915年5月14日 - 1945年8月13日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名同じ。第二次世界大戦で戦死した。 1915年(大正4年)5月14日、大阪府大阪市南区玉屋町(現在の同府同市中央区東心斎橋付近)に生まれる。祖父が初代中村鴈治郎、父が二代目林又一郎、叔父が二代目中村鴈治郎という歌舞伎一家に生まれた。 1921年(大正10年)、数え年7歳にして大阪・中座で初舞台を踏む。作品は『菅原伝授手習鑑』四段目『寺小屋』、菅丞相の子「菅秀才」役であった。以来、鴈治郎一座で歌舞伎役者として活動する。役者としての活動の傍ら、旧制・浪速中学校(現在の浪速高等学校)に進学、同校を卒業したのち、満18歳を迎える1933年(昭和8年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社する。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月1… 大橋 史典(おおはし ふみのり、1915年〈大正4年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉9月20日)は、日本の俳優、特殊技術専門の造形家、スーツアクター、特技監督、映画監督であり、日本特撮株式会社(日本特撮K.K.)の元代表取締役。本名は大橋 幸利(おおはし ゆきとし)。旧芸名は大橋 行利(読み同じ)など。 1915年(大正4年)1月10日、愛媛県に生まれる。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科を卒業。 1935年(昭和10年)、松竹蒲田撮影所の演出課に入り、映画俳優、小津安二郎、島津保次郎の助監督としてキャリアをスタートさせ、キャメラマンも経験した。その後、末期の市川右太衛門プロダクションに関わる。
初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(… 初代 猿若 清方(しょだい さるわか きよかた、1915年(大正4年)- 2003年(平成15年))は、日本舞踊家、振付師、俳優、脚本家。江戸時代以来途絶えていた舞踊である猿若流を復興した。本名、堀越実。 大正4年、東京・亀戸生まれ。新内の太夫だった父の影響で4歳から坂東三寿次に師事し日本舞踊を習う。11歳より初代花柳輔三郎の内弟子となり、花柳輔五郎を名乗った。1941年(昭和16年)に当時の花柳流家元である二代目花柳壽輔の許しを得て花柳流を辞し、猿若舞雀(さるわか ぶじゃく、舞雀は初代傳九郎の俳名)を名乗り、江戸時代以来途絶えていた猿若流を復興させ七世家元となった。1947年(昭和22年)に清方と改名。
松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 200… 松村 達雄(、1914年〈大正3年〉12月18日 - 2005年〈平成17年〉6月18日)は、日本の俳優。東京俳優生活協同組合所属。 大学時代はラグビー選手として活躍し、劇団を結成して舞台で活動するが、劇団の解散後は映画・テレビドラマに多く出演した。しやがれた声の独得な台詞まわしと、芝居臭さを感じさせないリアルで深味のある演技で個性的なバイプレイヤーとして活躍し、崩れたインテリ役に定評があった。映画『男はつらいよ』シリーズで2代目おいちゃん役を演じたことでも知られる。 神奈川県横浜市に父・武重と母・トエ(高橋榮太郎の長女)の3男2女の3男として生まれる。兄は錠司と重雄。父は大阪府の松村繁三郎の三男として1882年3月に生まれ、帝国蓄音機やスタンダード蓄音機、コロムビアレコードの取締役文芸部長となった。
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27… 宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。 宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 19… 野々 浩介(のの こうすけ、1914年9月21日 - 1991年6月19日)は、東京市(現:東京都)出身の俳優、声優。 本名は野々山 浩司(ののやま こうじ)。日本大学専門部芸術科映画科卒業。 1936年、東宝映画京都撮影所入社。1938年5月、大阪劇団宝塚ショー入社。1941年12月、ムーランルージュ新宿座に入団し、軽演劇を中心に活動。人生座、ラジオ東京、伊藤事務所、フリーランス期間、新作座、カタバミ事務所、さむらいプロなどに所属。映画、テレビドラマの端役のほか、人形劇やラジオドラマの声優としても活動した。 1991年6月19日、死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不… 山田 禅二(やまだ ぜんじ、1914年7月17日 - 没年不明)は、日本の俳優。本名は万田 正敏(まんだ まさとし)。北海道浦河郡浦河町出身。グループ71に所属していた。 1929年、北海道庁立室蘭商業学校中退後、王子製紙工業苫小牧工場に入社。 映画『大学は出たけれど』を鑑賞したことがきっかけで、1936年に日活多摩川撮影所の美術部に入社 。翌年、俳優に転向し、助演俳優として活動 。戦後は大映に入る 。戯曲座の舞台でも活動した 。1954年に映画製作を再開した日活に戻り、アクション映画の悪役として活躍。1966年にフリーに転向して以降はテレビドラマを中心に活動した 。
永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ… 永井 智雄(ながい ともお、本名:飯沼 修(いいぬま おさむ) 1914年6月14日 - 1991年6月17日)は、日本の俳優。東京都出身。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 -… 近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評される。本名、目黒 寅彦(出生名は寅一、のち改名)。新潟県長岡市出身。 新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられる。 長岡工業学校卒業後、映画俳優を目指し、1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡秀樹だった。
大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不… 大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名大内 一郎(おおうち いちろう)。 1914年(大正3年)3月15日、愛媛県松山市に生まれる。4歳下の妹に女優の大内照子(本名・大内幸香)がいる。 旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業、東京に移って、旧制・早稲田大学附属早稲田高等学院(大学予科、現在の早稲田大学高等学院)に進学するが、2年次で中途退学する。京都に移り、1933年(昭和8年)9月、満19歳のときに松竹下加茂撮影所に入社した。 記録に残る最初の出演作品は、同年2月22日に公開された二川文太郎監督の『仁義は耀く』である。同年5月9日に公開された笠井輝二監督の『やくざ無敵』、同年7月18日に公開された同じく『第二新選組』ではすでに主演している。
日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 … 日野 道夫(ひの みちお、1914年〈大正3年〉3月10日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。 北海道函館市出身。北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)卒業。いむらプロに所属していた。 中学校卒業後、新協劇団を経て劇団俳優座に入り、移動演劇の芙蓉隊に参加する。1946年3月、俳優座第一回公演『検察官』の舞台に立つ。後に劇団民藝を経てフリーとなり、この間にもジャンルを問わず多くの作品に出演していた。 2004年に公演された舞台『アマデウス』以降の作品が見当たらず、以後の消息は不明である。没年不詳。
植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1… 植村 謙二郎(うえむら けんじろう、1914年(大正3年)1月3日 - 1979年(昭和54年)4月3日)は、日本の俳優。東京府豊多摩郡内藤新宿町(現在の東京都新宿区)出身。 1932年(昭和7年)に東京府立第六中学校を卒業後、日本俳優学校に二期生として入学。尾上菊五郎の下で演技の修行を積み、新興キネマに入所。1936年(昭和11年)6月公開の『街の姫君』で俳優の仲間入りを果たす。以降、新興キネマが大日本映画に合併される1942年(昭和17年)までの間に70本以上の作品に出演した。 合併後は大日本映画専属となるが、当時の日本が戦火の渦中にあったことから、間もなく南方戦線に召集される。 1945年(昭和20年)、終戦によって植村は大映(大日本映画)に復帰、ここでは戦争の爪痕を引きずった役や、当時の大映の基本路線であった多数のサスペンス作品で活躍した。
河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1… 河村 弘二(かわむら こうじ、1913年12月13日 - 1998年8月12日)は、日本の俳優、声優である。本名は河村 弘仁(読み同じ)。 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)出身。府立第八中学校(現在の東京都立小山台高等学校)卒業。創作座、P.C.L映画製作所、文学座、東宝、森の会、プレーヤーズセンター、東京俳優生活協同組合に所属していた。 3人兄弟の次男で、兄は医者の金田義人、妹は女優の河村久子。 中学校卒業後、劇団プレイボーイズを経て、創作座に入団し『デット・エンド』『大地』などに出演する。 1936年、P.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『彦六大いに笑ふ』で映画デビュー。
堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10… 堺 駿二(さかい しゅんじ、1913年〈大正2年〉12月10日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、東京都出身のコメディアン、喜劇俳優である。本名は栗原 正至。 実兄は浪曲師の港家小柳丸(初代)、次男はマルチタレントの堺正章。甥にボンボンブラザースの鏡味繁二郎(本名:栗原重夫)がいる。 東京府東京市本所区太平町1丁目(現:東京都墨田区太平1丁目)の桶製造業の家に8人兄弟の末子の3男として生まれる。芝居好きの母の勧めで尋常小学校を中退し11歳で新派の伊村義雄一座に入る。伊村は師匠の伊井蓉峰と河合武雄から一字ずつもらって芸名とした新派俳優で、20代半ばで一座を立ち上げ、浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍していた。
宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月1… 宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年〈大正2年〉11月15日 - 1985年〈昭和60年〉4月12日)は、日本の俳優。本名は宮口 精次。身長159 cm。 築地座を経て文学座に参加し幹部座員として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属し商業演劇に出演した。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。亡くなるまで約15年間、編集兼発行人として季刊『俳優館』を出し続けた。 1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現:墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる。
夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 -… 夏川 大二郎(なつかわ だいじろう、1913年8月31日 - 1987年7月16日)は、日本の俳優。 1913年(大正2年)8月31日、斎藤大二郎として東京市芝区桜田本郷町(現在の東京都港区西新橋)に生まれる。 1919年(大正8年)に映画芸術協会製作の『生の輝き』に姉の夏川静枝と共に夏川大吾の芸名で子役で出演した。 1933年(昭和8年)日活太秦撮影所に監督見習いとして入社、その後、俳優に転向し1934年(昭和9年)に日活映画でデビューした。 1940年(昭和15年)五所平之助監督『木石』などに主演。 戦後は脇役として、1946年(昭和21年)『瀧の白糸』、1949年(昭和24年)『透明人間現わる』などに出演した。
田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年… 田崎 潤(、1913年〈大正2年〉8月28日 - 1985年〈昭和60年〉10月18日)は、日本の俳優。本名は田中 実。新東宝入社前は舞台俳優として、本名のまま、または月波洋三郎、毛利賢二の芸名を使っていた。青森県青森市出身。 父は公務員。地元の小学校から県立青森商業に進学し、1932年に卒業。1933年、地方巡業の役者となり各地を回る。1935年、森川信らのレヴュー劇団ピエル・ボーイズに入団。この時、月波洋三郎や月波貫一の芸名を名乗る。1936年に退団後は中華民国だった上海にわたり、劇場の踊りの振付師を務める。1937年、帰国して名古屋の劇団に身を寄せるが、まもなく応召。1938年に除隊し、1939年に毛利賢二の芸名で新興キネマ演芸部に所属。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 200… 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥。
志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日… 志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日 - 1991年〈平成3年〉3月16日)は、日本の俳優。本名は嶋 正朶(しま まさえだ)。旧名は島 泰彦。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区本所)出身。 1941年に鉄嶺実業学校を卒業。1942年7月に青少年劇場に入団。1943年4月に関西移動演劇隊に移籍。その後1944年10月にNHK大阪放送劇団を経て、1951年2月に獅子座を結成。1964年に大阪音楽大学演劇科講師。1977年に大阪芸術大学演劇科講師を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年… 加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は、日本の俳優。本名は亀山 邦雄(かめやま くにお)。 次男の亀山達也、三男の志賀勝も俳優として活動した。 東京府東京市日本橋区人形町(東京都中央区日本橋人形町)出身。慶應義塾普通部中退後、浅草の劇場・昭和座での役者修業を経て、1930年にスカウトで映画界入り。「舟波 邦之介」の芸名で新興キネマ京都撮影所『仇討太夫桜』でデビュー。時代劇の二枚目として活動した。「舟波 邦之佑」への改名を経て、1939年に「加賀 邦男」に改名。1940年に新興の東京撮影所に転籍し、現代劇を演じるようになる。後身の大映に所属したのち、終戦直前に退社。
三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳… 三田 国夫(みた くにお、1913年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。三田 國夫と表記されることもある。 1913年(大正2年)1月25日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。出生後まもなく福島県福島市に移住し、幼少期を過ごした。 1932年(昭和7年)、旧制目白中学校(現在の中央大学附属中学校・高等学校)を卒業後、満19歳の時に新劇俳優丸山定夫の門をたたき、新築地劇団に加入する。同年頃に上演された貴司山治の戯作『洋学年代記』などに出演。その後、1935年(昭和10年)に東宝の前身であるJ.O.スタヂオの研究生募集に合格し、三田は6ヶ月の課程を経て、東宝映画の専属俳優となる。以後、1940年(昭和15年)2月28日に公開された矢倉茂雄監督映画『遥かなる弟』や、1943年(昭和18年)3月25日に公開された黒澤明監督映画『姿三四郎』などに出演し、同所の脇役・端役俳優として活動した。
市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 -… 市川 正二郎(いちかわ しょうじろう、1913年1月9日 - 2003年)は、日本の俳優、実業家である。本名牧野 正(まきの ただし)、旧芸名市川 小松(いちかわ こまつ)、木村 正二郎(きむら しょうじろう)。
オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2… オリエ 津阪(オリエ つさか、1912年12月24日 - 2003年)は、日本の俳優。松竹少女歌劇の男役スターとして、1930年代のレビュー・ブーム期に同じ松竹の水の江瀧子や宝塚少女歌劇の小夜福子、葦原邦子らと共に「男装の麗人」として人気を博した。松竹歌劇の黄金時代を築いた人物として水の江と並び称される。松竹退団後は劇団主宰などを経て1950年代初頭まで映画にも出演。その後は日本舞踊の師匠となり表舞台からは退いた。 1912年、秋田県秋田市下米町に添田浩道、貞夫妻の長女(一人娘)として生まれる。本名は添田テフ。後に「順真(よしみ、『よし美』とも)」と改めている。1921年に東京府王子区中野に移り住み、以後同地で育った。
花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年… 花布 辰男(はなぶ たつお、1912年12月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名同じ。花布 辰夫と表記に揺れがある。大映の名脇役の一人である。 1912年(大正元年)12月17日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。1930年(昭和5年)、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)卒業と共に日本映画俳優学校の1期生として入校し、1934年(昭和9年)に卒業する。同期に織田政雄がいた。 1937年(昭和12年)、新興キネマ大泉撮影所に入社し、同年に公開された青山三郎監督映画『煙る故郷』で映画デビュー。以後、脇役として多数の作品に出演した。1942年(昭和17年)、大映に統合された後は東京撮影所に所属し、1971年(昭和46年)に倒産するまで脇役として長く活躍した。
佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 19… 佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 1978年12月21日)は、日本の俳優。本名は関口 正三郎(せきぐち しょうざぶろう)。 昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代)に活躍した二枚目スターの一人である。関口宏、佐野守の父で、関口知宏の祖父に当たる。上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」といわれ、松竹大船の第一号スターとされた。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区神田東紺屋町)に鳶職の父·亀次郎と母·マサの四男六女の6番目にあたる三男として生まれた。1925年に今川尋常小学校、1930年に成立商業、1933年に立教大学経済学部予科を卒業。大学時代は水泳部で、オリンピックの候補だった。