恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3… 水野 仙子(みずの せんこ、1888年(明治21年)12月3日 - 1919年(大正8年)5月31日)は、日本の小説家。本名、服部テイ。筆名、服部水仙、服部貞子、服部水仙子、水野仙など。 服部直太郎とセイとの二男三女の末子として、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に生まれた。燃料などを商う旧家だった。 1903年(明治36年)(15歳)、須賀川尋常高等小学校(現・須賀川市立第一小学校)を最優秀の成績で卒業し、須賀川裁縫専修学校に入った頃から、『少女界』誌に投稿した。長兄の歌人躬治(もとはる)が選者でいた。卒業後裁縫女塾へ通い、1905年から、河井酔茗の『女子文壇』誌に投稿し入選した。投稿仲間の愛称は『お貞さん』だった。
宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887… 宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887年12月3日または1890年 - 1978年7月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員、第5代国会参議院議員。初代韓国大統領の李承晩の側近であった。 本貫は礪山宋氏。別名は鳴皐。 京畿道利川郡長湖院生まれ、忠清北道鎮川郡出身。1908年ごろに新学問を学ぶために渡日し、正則英語学校中等科、中央大学法学部卒。帰国後の1919年に延禧専門学校の法律教授となり、4年間在職した。その後は法律研究のために渡米しようとしたが、東京で関東大震災での朝鮮人虐殺を目撃し苦境に陥った。その時、アメリカ人の宣教師の力を借りてハワイに密航し、そこで李承晩と知り合ってそのまま滞在し、1924年6月までに大韓人同志会の総務として機関誌『太平洋雑誌』を発刊し、関東大震災での朝鮮人虐殺の真相を宣伝した。
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈… 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任し、憲政史上唯一の皇族内閣を組閣した。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施したが、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12… 松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。 福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。 以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 -… 北浦 圭太郎(きたうら けいたろう、1887年12月3日 - 1954年10月16日)は、日本の政治家。衆議院議員を通算4期務めた。 奈良県出身。関西大学専門部法律科卒。小学校訓導、函館区裁検事を歴任。その後弁護士となる。 1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で立候補して初当選。その後民政党を離党し、1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす。 院内会派の第一議員倶楽部に所属し、1940年に北浦がかつて所属していた民政党の先輩議員にあたる斎藤隆夫が反軍演説で除名された際にも除名に反対票を投じている。この時除名反対票を投じたのは北浦を含めて7名であり、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は北浦以外では投票にあたり民政党を離党した岡崎久次郎のみであった。
村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 … 村上 久米太郎(むらかみ くめたろう、1887年12月3日 - 1958年1月26日)は、日本の陸軍軍人。1934年に満洲で起きた人質事件の解決に貢献したことで知られる。 愛媛県越智郡津島村(現今治市吉海)に生まれた。小学校卒業後は農業に従事し、徴兵で18年間軍隊生活を送り、1925年奉天守備隊員を最後に除隊。その後、旅順や大連でも働いた。 吉林省の事務官時代の1934年8月30日に、ハルビン発新京行きの夜行列車で匪賊の襲撃に遭遇し、乗り合わせた外国人2人を含む9人が人質となって監禁されたときに、救助の日本軍捜索隊の「日本人はいるか?」の呼び声に、匪賊は人質たちに答えるなと命令したが、村上は「日本人ここにあり」と叫び、それを聞いて捜索隊が突入し全員が救助された。
阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3… 阿部 義宗(あべ よしむね、1886年(明治19年)12月3日 - 1980年(昭和55年)3月1日)は、日本の牧師・教育者。青山学院第6代院長。 日本メソジスト教会の初代監督の本多庸一は伯父。 弘前市に生まれる。母親は本多庸一の妹で、中田重治の近所に住んでいた。阿部の母親は、暴れん坊だった6,7歳頃の中田少年によく水をかけられていた。1901年(明治34年)8月中田重治が聖書学校の修養生たちで大伝道団を編成して、弘前で伝道集会をした時に、中田の説教を聴いて入信を決意する。 1905年(明治38年)、青森県立第一中学校を卒業する。1912年、青山学院高等科、および青山学院神学部を卒業する。その後、アメリカとカナダに留学する。
内海 忠司(うつみ ちゅうじ、1884年(明治17年)12月… 内海 忠司(うつみ ちゅうじ、1884年(明治17年)12月3日 - 1968年(昭和43年)11月28日)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。台北市尹、新竹州知事、高雄州知事。 京都府出身。1911年(明治44年)、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。山形県東田川郡書記、山形県属、沖縄県警部、同島尻郡長、香川県視学官、青森県理事官、島根県警察部長、群馬県警察部長、佐賀県警察部長、愛媛県内務部長、佐賀県内務部長を歴任した。1928年(昭和3年)より台湾総督府に転じ、台北州警務部長、台南州内務部長、台北市尹を経て、1932年(昭和7年)に新竹州知事に就任。
岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月… 岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月3日 - 1962年(昭和37年)2月10日)は、明治 - 昭和期の小説家、劇作家、劇評家。芹影(きんえい)、芹影女、伊達虫子などの筆名を用いた。
加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3… 加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1962年〈昭和37年〉3月24日)は、日本の教育者。仙台育英学園創立者。 福島県北会津郡、のちの若松町(現会津若松市)で、米屋を営む加藤利喜次郎、こま の二男として生まれた。家業の手伝いをしながら漢文などの学びを続けた。 その後、親が準備してくれた炭百俵を持って上京し、炭を売却して学費・生活費を工面した。まず、神田区猿楽町(現千代田区神田猿楽町)の東京学院に入学し国漢学を学び、1901年(明治34年)3月に卒業。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)に入学。炭の売却金も底をつき始め米屋で奉公しながら通学し、1904年(明治37年)3月に卒業した。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ … 種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。 山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
岩本 武助(いわもと ぶすけ、1882年(明治15年)12月… 岩本 武助(いわもと ぶすけ、1882年(明治15年)12月3日 - 1936年(昭和11年)9月6日)は、大正から昭和前期の林業家、政治家。衆議院議員。 奈良県吉野郡、のちの上北山村日裏で、林業・岩本善太郎の長男として生まれた。1888年(明治21年)父の死去に伴い家督を相続。1905年(明治38年)立命館大学法律科本科を卒業し、さらに同大高等研究科で経済学を修めた。1906年(明治39年)1月、一年志願兵として歩兵第37連隊に入隊し、経理部に配属され陸軍二等主計まで昇進して除隊。のちに帝国在郷軍人会上北山村分会長を務めた。 家業の林業を営み、パルプ材料として販売し、地方森林会議員、大日本山林会評議員、大和山林会理事、帝国林政研究会理事、吉野北山郷木材同業組合組長などを務めた。
米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882… 米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882年(明治15年)12月3日 - 1951年(昭和26年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍砲兵大佐。子爵。貴族院子爵議員。旧姓・細川。旧熊本藩家老米田家。 熊本県宇土郡宇土町(現宇土市)で細川興勝(宇土藩主・故細川興文孫)の三男として生まれ、侍従・米田虎雄の養子となる。養父の死去に伴い1915年(大正4年)12月24日、子爵を襲爵した。 陸軍士官学校(15期)に入り、1903年(明治36年)11月30日に卒業し、1904年(明治37年)2月12日、砲兵少尉に任官。陸軍砲工学校を卒業し、陸軍砲兵工科学校教官、同副官、同生徒隊長、近衛野砲兵連隊付、第1師団兵器部長などを歴任。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3… 永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。
小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1… 小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1965年4月5日)は、日本の実業家。元磯村産業会長。男爵楫取素彦の養孫。 山口県阿武郡に磯村應の五男として生まれ、男爵で元群馬県令の子・小田村希家の養子となる。1906年東京帝国大学機械工学科卒業。 1907年、群馬県旧烏淵村(現高崎市倉渕町)に山林を取得、製炭事業を行う。1910年、特許弁理士資格取得。磯村工業所(磯村産業)専務、会長などを務めた。磯村工業所は東京市芝口と小石川区水道町に店を置き、鉱山、土木、機械、電気、山林の調査設計工事と、特許手続きを業務とし、小田村のほか、実の兄弟の工学得業士・磯村秀策、工学士の磯村利水が所属し、磯村音介も社長を務めた。
只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 … 只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 - 1952年(昭和27年)7月28日は、日本の商学者。高岡高等商業学校創立委員として同校創立にあたり、初代校長を経て、第7代長崎高等商業学校校長。 埼玉県栗橋町(現久喜市)出身。1901年高等商業学校(現一橋大学)卒業。英米独留学、滋賀や愛媛の県立商業学校教諭、大阪市立高等商業学校教授、山口高等商業学校教授、福島高等商業学校教授を歴任し、1924年に高岡高等商業学校創立委員となり文部省の仮創立事務所で創立作業を進め、同年同校初代校長に就任。1930年から長崎高等商業学校校長。1936年初代長崎ロータリークラブ会長。1941年退官、長崎高等商業学校名誉教授。
矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 196… 矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 1969年6月23日)は、日本の地球科学者。東京生まれ。東北大学名誉教授。東京大学卒業。
高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 196… 高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日)は、日本の朝鮮学者。 1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれた。1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し、漢文科で学んだ。1902年、同大学を卒業。卒業論文は『漢易を難して根本博士の易説に及ぶ』であった。 卒業後の同1902年、九州日報の主筆となり、博多に移った。しかし、1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用された。
月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - … 月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - 1942年1月28日)は日本の弁護士、裁判官。 静岡県君沢郡(現在の三島市)で商家の長男として生まれる。上京して旧制第一高等学校に入学するも、祖父の意向により中退を余儀なくされる。1896年、学費を貯めて東京専門学校(現在の早稲田大学)へ入学する。ここで、同学の講師であり、実質的な創立者の一人であった高田早苗に薫陶を受ける。また、在学中、新美卯一郎と親交を深める。1901年、一度の浪人の末に判事検事登用試験に合格する。裁判官として任官し、宮城県の仙台地方裁判所へ赴任する。1904年、司法省参事官の娘と結婚。しかし、仕事の都合もあり、衣食を共にすることは少なかったという。
葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)1… 葉山 万次郎(はやま まんじろう、1877年(明治10年)12月3日 - 1960年(昭和35年)10月7日)は、日本の教育者。 長崎県北松浦郡平戸町(現在の平戸市)出身。私立尋常中学猶興館中退、私立日本中学校、旧制一高を経て1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学独逸文学科を卒業。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任した。1922年(大正11年)、文部省督学官に転じ、翌年から学校制度研究のためドイツ・イギリス・アメリカ合衆国に出張した。帰国後、山形高等学校校長となり、1930年(昭和5年)に第七高等学校造士館館長に転じた。1933年(昭和8年)に大阪外国語学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に退官した。
20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1… 20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1876年〈明治9年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉3月9日)は、大相撲の立行司。 本名:後藤子之吉(旧姓・名川-鯉沼)。栃木県鹿沼市出身。所属は伊勢ノ海部屋、のち出羽海部屋。8代式守伊之助の弟子で、のち養子になった。21代庄之助は弟弟子にあたる。 明治後期から昭和初期の大相撲界を支えた近代名行司の第一人者で、行司史上屈指の名人と謳われている。人望、見識ともに備わり、名行司の証とも言われる 「松翁」 の称号を番付上に冠した。土俵態度、裁きともに秀で角界内では一目置かれていた。行司生活54年間に裁いた取組で差し違えはわずか2番のみであったという。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11… 城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11月1日) - 1908年(明治41年)6月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国児湯郡、のちの宮崎県児湯郡高鍋町で生まれた。同志社で学び、1893年(明治26年)東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。宮崎県高鍋学校(現・宮崎県立高鍋高等学校)校長、宮崎県会議員、同参事会員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立候補したが10票差で落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部公認で立候補してトップで初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(… 一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(明治元年10月20日) - 1939年(昭和14年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国知多郡成岩村(現愛知県半田市)で、名主・一柳浅右衛門の二男として生まれる。苦学して三井物産社員を経て、1897年に北海道に渡る。 ニシン漁で失敗し、1900年、札幌に移り、リンゴ、タマネギの販売を手掛け、海外への輸出なども行った。札幌区会議員、北海道会議員、同議長、日露貿易商組合長、札幌果実蔬菜輸出商同業組合長、札幌果実商組合長、札幌商業会議所副会頭、北海道拓殖倉庫取締役、北海道信託社長、一柳物産社長、合資会社一柳商会代表社員などを務めた。
二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年1… 二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。 後の愛知県半田市にて、小栗富一(初代・富治郎)の長男として生まれる。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造を始め財を成した。 1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。
津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1… 津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日〉- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。 初名はうめ(「むめ」と書いた)。戸籍上はUMEであったが、1902年(明治35年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際にUMEKOと改めた。2024年に発行された5000円札の肖像画に選ばれている。 旧暦 元治元年12月3日(新暦 1864年12月31日)、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(… 山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。 肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士の子として生まれる。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。製鉄技術習得のため官費でドイツ留学した際、鉄の技術の先端が鋼に転換する様子を目の当たりにして先進の製鋼技術を積極的に習得した。この時得た知識や経験、技術に基づく製鋼法の理解者や有力な支援者が集まり会社が設立され日本鋳鋼所(現日本製鉄株式会社関西製鉄所製鋼所地区)が創設された。
関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政… 関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政5年10月28日)- 1924年(大正13年)11月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。号・剣山人。 越後国刈羽郡剣野村(新潟県刈羽郡枇杷島村大字剣野、柏崎町を経て現柏崎市剣野)で、関矢福右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)9月に家督を相続した。 柏崎県立学校などで学び、上條義塾の漢学教師を務めた。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)の高田事件で検挙された。その後、新潟市に移り、北越学館漢学教師を務め、東北日報、自由新報の記者となった。沿海州の漁業、ロシアとの貿易に着目して、北陸地方の発展のための必要性を訴えた。
石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1… 石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1847年12月3日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の門。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わり、また台湾や中国に歴遊して研鑽をつみ、南画の泰斗としてその名を知られた。 弘化4年10月26日(1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。
橘 幸(たちばな こう、12月3日 - )は、宝塚歌劇団・雪… 橘 幸(たちばな こう、12月3日 - )は、宝塚歌劇団・雪組に所属する男役。
古川 裕隆(ふるかわ ゆたか、12月3日 - )は、日本の男… 古川 裕隆(ふるかわ ゆたか、12月3日 - )は、日本の男性声優。ぷろだくしょんバオバブ所属。宮崎県小林市出身。 資格は普通自動車免許、自動二輪免許(中型)。特技は楽器演奏(ベース)。趣味はソロベース、ツーリング。方言は宮崎弁。語学は中国語(簡単な会話程度)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:芸能人)。
小池 雄治(こいけ ゆうじ、12月3日 - )は、日本のシ… 小池 雄治(こいけ ゆうじ、12月3日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家。長野市出身。 1988年、鈴木慶一主宰レーベル「メトロトロン」から綿内克幸と共に「webb」でインディーズデビュー。その後、作曲家として布施明がNHK紅白歌合戦で歌った「ア・カペラ」をはじめ、池田聡、近藤真彦、サーカス、小野真弓などに楽曲提供。2006年千葉熱血MAKINGオフィシャル応援歌「アイノチカラ(作詞:作曲)千葉熱血MAKINGバージョン」(唄:小野真弓)は森田健作のCD「約束」のC/Wとして発売。 近年は作詞・作曲したオリジナル曲中心のソロライブをバックバンドとしてジョナサン・カッツが編成するカルテットと組み年2回のペースで行なっている。
緒月 遠麻(おづき とおま、12月3日 - )は、日本の女優… 緒月 遠麻(おづき とおま、12月3日 - )は、日本の女優。元宝塚歌劇団宙組・雪組の男役スター。 愛知県名古屋市、菊華高等学校出身。身長174cm。愛称は「きたろう」、「づっくん」、「きたさん」。 所属事務所はACT JP エンターテイメント。 1998年、宝塚音楽学校入学。 2000年、宝塚歌劇団に86期生として入団。入団時の成績は32番。花組公演「源氏物語 あさきゆめみし/ザ・ビューティーズ!」で初舞台。組まわりを経て雪組に配属。 2012年5月28日付で宙組へと組替え。 宙組の主要な男役スターとして活躍したが、2015年2月15日、凰稀かなめ退団公演となる「白夜の誓い/PHOENIX 宝塚!!」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。
神谷 順(かみや じゅん、12月3日 - )は、日本の元漫画… 神谷 順(かみや じゅん、12月3日 - )は、日本の元漫画家・イラストレーター。静岡県浜北市(現浜松市浜名区)出身。にのみや はじめというペンネームでも活動した。 角川書店の『月刊コミックコンプ』でデビュー。作品としては『旅芸人天化無敵!!』のほか、テーブルトークRPG『ルナル・サーガ』の小説をコミカライズした『ルナル・サーガ外伝 - 虹の影』(原作・友野詳)があるが、『コンプ』休刊によって中断している。 その後、パンドラボックスにグラフィッカーとして就職。2001年にゲーム『ONI零 〜復活〜』のキャラクターデザインを担当し、ゲームのノベライズでも挿絵を担当。ライトノベルの絵師に転じて、有沢まみずの『インフィニティ・ゼロ』(電撃文庫、2002年)ではにのみや はじめ名義で、また川口大介の『拝啓、姉上さま』(富士見ファンタジア文庫、2003~2004年)でも挿絵を担当した。