大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月… 大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月11日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。 東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。 18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。 新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎・伊志井寛・柳永二郎・川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。
今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11… 今井 梧楼(いまい ごろう、1892年(明治25年)2月11日 - 1944年(昭和19年)12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県岡谷市長。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)の今井千尋の長男として生まれる。今井家は中山道塩尻峠口の本陣を務めた名家。1910年(明治43年)3月、諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 平野村役場勤務を経て、1923年(大正12年)同村助役に就任。1927年(昭和2年)9月より長野県会議員に3期連続で当選する。参事会員などを経て、1934年(昭和9年)平野村長に就任し、諏訪郡町村長会会長を兼任した。翌年の1935年(昭和10年)、諏訪郡農会長に就任し、ついで1936年(昭和11年)5月5日に市制施行とともに岡谷市長に就任した。
戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月1… 戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1939年〈昭和14年〉8月17日)は、日本のカトリック教会 司祭、医師、桜町病院創立者。 東京公教神学校教授。洗礼名はヴィンセンシオ・ア・パウロ。 彼は海軍軍医総監・戸塚環海(とづか かんかい)の長男として神奈川県横須賀に生まれ、佐世保の高等小学校に入学していたが暁星中学校に編入、1909年、第一高等学校在学時にカトリック教会の洗礼を受ける。代父は暁星時代の先輩でのちにカトリック司祭になった岩下壮一。 1912年、東京帝国大学医学大学(現・東京大学医学部)に入学、医学を学び、卒業後、佐藤外科に入局。1921年、北海道帝国大学助教授に任命され、文部省(現・文部科学省)からヨーロッパ留学の命を受ける。
中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月1… 中川 紀元(なかがわ きげん、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、長野県上伊那郡辰野町出身の洋画家である。旧姓は有賀、本名は紀元次。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科入学。中退後、太平洋画会研究所、本郷絵画研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事。1907年(明治40年)から1914年(大正3年)まで玉川尋常小学校の図画工作の講師をしており、当時の校長は島木赤彦が勤めていた。教え子には堀内唯生がいた。
毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961… 毛利 基(もうり もとい、1891年2月11日 - 1961年12月17日)は、日本の内務官僚。特別高等警察で活動、佐賀県・埼玉県などの警察部長を歴任した。 1891年、福島県伊達郡大木戸村に生まれる。大木戸小学校から旧制福島県立福島中学校(現・福島県立福島高等学校)に進学するが、父親の死により2年で中退する。その後上京して警視庁の試験を受け、1915年に警視庁巡査になる。 巣鴨署に配属された毛利は高等課労働係に所属した。ここから毛利と共産党との関係が始まる。また猛勉強を重ね巡査部長、警部補と、とんとん拍子に出世した。警視庁特別高等課労働係として、1928年の日本共産党などの一斉検挙三・一五事件の内偵に従事。
松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 196… 松本 巍(まつもと たかし、1891年2月11日 - 1968年1月27日)は、日本の植物病理学者。台湾の農作物の疾病の研究と防除に功績があり、第二次世界大戦後も国立台湾大学農学院教授として働いた。 1891年、東京・銀座に生まれた。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業後、カリフォルニア州立大学、ワシントン大学などに留学する。帰国後の1921年から盛岡高等農林学校の教授となった。1924年に農学博士となる。1926年に台湾に招かれ、イギリス、ドイツなどに留学後、1929年台北帝国大学教授および付属農林専門部教授として赴任し、植物病理学を教えた。台湾の農作物の病害の研究と防除の研究と実践を行った。
石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2… 石川 寒巌(いしかわ かんがん、1890年(明治 23年)2月11日 - 1936年(昭和11年)3月25日)は、大正-昭和時代前期の日本画家。本名は石川寅寿。 1890年(明治 23年)2月11日栃木県那須郡黒羽町大字北野上(現:栃木県大田原市北野上)石川渉・カネ夫妻の次男として生まれる。本名の虎寿は、干支にちなんでいる。黒羽尋常小学校、大田原中学校を卒業後、1909年(明治42年)に19歳で上京、郵便局員として働くかたわら太平洋画会研究所に通って洋画を学び、その一方で佐竹永邨に日本画を習う。1910年(明治43年)肺炎を患い、夏の徴兵検査に不合格。1911年(明治44年)帰郷・結婚し、代用教員として勤務するかたわら、頃から西那須野の雲照寺に参禅し、釈戒光の感化を受け、「寒巌」の道号を与えられる。
加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月1… 加藤 元一(かとう げんいち、1890年(明治23年)2月11日 - 1979年(昭和54年)5月1日)は日本の生理学者。慶應義塾大学名誉教授。日本学士院会員、アルゼンチン生物学会・医学協会名誉会員、米国生理学会名誉会員。ノーベル生理学・医学賞の候補に3度選ばれている。岡山県新見市出身。 1890年(明治23年)、岡山県阿賀郡新見町(現:新見市)の眼科医の家に生まれる。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学し、1909年(明治42年)に卒業。旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学医科大学に進んだ。1916年(大正5年)、京都帝国大学医科大学を卒業。卒業時には成績優秀により恩賜の銀時計を授与された。
岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日… 岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)は、昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。
阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 193… 阿部 重孝(あべ しげたか、1890年2月11日 - 1939年6月5日)は、日本の教育学者。新潟県生まれ。 旧制長岡中学、旧制一高を経て、1913年東京帝国大学文科大学教育学科を卒業。1919年文学部教育学講座助教授、1934年教授に就任。専門は教育制度および教育行政。教育学研究室教育思潮研究会の基礎を作った。海外教育思潮の研究者兼紹介者。制度の分析に関しては、国を代表する第一人者の立場にあった。六・三・三制(6・3制)への移行を唱えた。アメリカ教育制度を研究し、ロシア教育学における心理学応用を紹介した。教育科学という術語の普及をはかった一人でもある。晩年には、教育研究会を組織し、これは1937年5月教育改革同志会に発展、同年6月の教育制度改革案の作成を主導した。
琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日… 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 - 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (横綱)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。
瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2… 瀬戸山 要藏(せとやま ようぞう、1890年(明治23年)2月11日 - 没年不詳)は、福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身の大相撲力士。本名は安永 要藏。身長176cm、体重105kg。大阪相撲では関脇を務めたが東西合併で十両に編入されその後は入幕できなかった。 当初は東京相撲の雷(元初代梅ヶ谷)の門に入り1910年(明治43年)6月序ノ口についた。その後大阪相撲に移り藤嶋部屋から陣幕部屋の所属となった。1919年(大正8年)1月新入幕、その場所8勝2預で優勝を飾った。1920年(大正9年)1月には関脇に進むが大きく負け越しその後は平幕に低迷した。1923年(大正12年)1月関脇に返り咲き勝ち越し。
北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月1… 北田 正元(きただ まさもと、明治21年(1888年)2月11日 - 1978年7月13日)は、日本の外交官。初代駐アフガニスタン公使。父は代言人の北田正董。
沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 … 沖 貞男(おき さだお、1888年(明治21年)2月11日 - 1950年(昭和25年)10月16日)は、大正から昭和前期の政治家、教育者、華族。貴族院男爵議員。 本籍・神奈川県。内務官僚・沖守固の庶子として生まれる。父の死去に伴い、1912年(大正元年)11月11日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)4月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1924年(大正13年)帝都復興院嘱託となる。その後、復興局整地部事務嘱託、三峯住宅監査役、中野高等無線電信学校長などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任。さらに、1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20… 折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。 折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。 1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。
大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2… 大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2月11日 - 1946年(昭和21年)10月16日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。治水家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県磐田郡井通村長。俳号は天竜。 大橋頼摸の長男として、静岡県豊田郡小立野村(豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。1912年(大正元年)家督を相続する。書籍業を営む。浜松中学校を卒業する。 井通村会議員、同村長を経て、1919年(大正8年)静岡県会議員に当選。1926年(大正15年)同議長に推された。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。
小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治1… 小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治16年〉2月11日 - 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。半古から古径の雅号を授かる。1914年(大正3年)第1回再興日本美術院展で入選、同人に推挙される。1922年(大正11年)から日本美術院留学生として、前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。
守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)… 守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)2月11日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、日本の教育者。 石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身。1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業。大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した。奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事、1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった。退官後は郷里滑川町の公民館長、教育長を務めた。
青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日… 青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使、駐スペイン公使。 熊本県、現在の熊本市で、小学校教員・青木健次郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。シカゴ領事官補、副領事、領事、大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官、外務大臣秘書官、大使館一等書記官、同参事官、ホノルル総領事を歴任し、その間、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジルに赴任した。 1926年(大正15年)駐メキシコ公使に就任し、1930年(昭和5年)4月から同年8月までは駐キューバ公使も兼ねた。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 195… 田村 西男(たむら にしお、1879年2月11日 - 1958年1月21日)は、日本の劇作家、小説家、劇評家。 東京日本橋生まれ。本名・喜三郎。東京法学院(現中央大学)卒。1903年より『文藝倶楽部』に小説を発表。1907年、光村合資出版より滑稽文芸雑誌『笑』を創刊し花柳小説を書く。『中央新聞』の劇評を担当し、劇界・花柳界の通であった。女優の田村秋子は長女。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明… 津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明治10年)2月11日 - 1951年(昭和26年)11月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 高知県香美郡赤岡村(現・香南市赤岡町)に生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1918年(大正7年)7月に水戸連隊区司令官、1920年(大正9年)8月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)2月に歩兵第19連隊長に任官。その後、1924年(大正13年)12月15日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月20日に予備役に編入した。 退役後は、在郷軍人会長、帝国在郷軍人会高知支部顧問、高知市議会議員などを務めた。
奈良原 三次(ならはら さんじ、1877年(明治10年)2月… 奈良原 三次(ならはら さんじ、1877年(明治10年)2月11日 - 1944年(昭和19年)7月14日)は、日本の航空のパイオニアである。鹿児島生まれ、元日本海軍軍属技士で、1911年(明治44年)5月に自作の複葉機で飛行に成功し、翌年日本で初めての民間飛行場を開設し、生涯にわたり航空の発展に寄与した。男爵。
市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 19… 市川源三(いちかわ げんぞう、1874年2月11日 - 1940年3月25日)は、日本の教育者。長野県北佐久郡三都和村(現・立科町)出身。1895年長野師範学校卒業、1900年東京高等師範学校卒業。
木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 … 木村 茂(きむら しげる、明治6年(1873年)2月11日 - 1972年8月25日)は、日本の陸軍軍人。歩兵将校の後主計科に転じ、陸軍被服本廠長・第1師団経理部長・陸軍経理学校長を歴任する。階級は陸軍主計総監。 広島県福山市に生まれる。尋常中学福山誠之館を経て、1891年(明治24年)志願兵として入営、1892年(明治25年)から陸軍士官学校(5期)に入校、1894年(明治27年)7月27日に卒業する。同年9月18日、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵将校として大尉迄進むが、1902年(明治35年)から経理将校を目指し陸軍経理学校に入校する。 1904年(明治37年)に卒業し改めて陸軍二等主計に任官され騎兵第1連隊附を命ぜられる。
築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月… 築田 多吉(つくだ たきち、明治5年1月3日〈1872年2月11日〉- 1958年〈昭和33年〉3月28日)は、大日本帝国海軍の看護特務大尉を務めた人物。「赤本」とも呼ばれる家庭医学書『家庭に於ける実際的看護の秘訣』の著者。 福井県足羽郡酒生村(現・福井市酒生)出身。福井師範学校卒業。広島県広島市を主な活動拠点とした。 大日本帝国海軍の看護特務大尉であった築田は、日露戦争(1904年〈明治37年〉- 1905年〈明治38年〉)に従軍している。築田の軍での務めは、傷病兵やその家族を看病し、手当てすることであった。 戦場で看護していた人々が話す故郷の民間療法を数多く聞くうちに民間療法への関心を深めた築田は、戦後、自ら全国各地を訪ね歩いて、それぞれの地域に古伝として残る漢方薬や和漢薬の薬草類、現在でも良く知られている指圧療法、青汁療法、灸、カイロプラクティック、断食療法などを、研究し、収集を重ねていった。
高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年… 高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年12月22日) - 1932年(昭和7年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(中正会)、弁護士。族籍は愛媛県士族。 伊予松山藩士高野金光の長男として松山湊町に生まれる。広島英語学校に英学を修め、芸備日日新聞や大阪毎日新聞に執筆した。1894年(明治27年)、上京して東京法学院(現在の中央大学)に入学して1896年(明治29年)に卒業した。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格し、翌年に東京で事務所を開業した。一時期花井卓蔵弁護士事務所で実務を練習し刑事事件に精通したが、高野の得意とする所は民事・商事に関する事件であった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月… 狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1868年(明治元年)狩野直恒の三男として熊本市京町に生まれる。竹馬の友に中国文学者の古城貞吉がいる。1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。
樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年… 樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年2月11日) - 昭和21年(1946年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、鉄道政務次官。 筑後国八女郡長峰村(現在の福岡県八女市)出身。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)法律科を卒業。福岡県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾総督府評議会員、台湾農林株式会社社長、台湾製塩株式会社取締役を務めた。 1923年(大正12年)、衆議院補欠選挙に当選。第17回衆議院議員総選挙と第18回衆議院議員総選挙で再選され、その間に岡田内閣で鉄道政務次官を務めた。
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4… 阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日)は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民。 近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する。 1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業。 1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。
上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867… 上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、神宮皇學館館長、貴族院議員。国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めたほか、文部省専門学務局長や臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。小説家円地文子の父。 1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。
渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶… 渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶応元年12月26日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。新潟市長。 越後国蒲原郡一ノ木戸村(現新潟県三条市)で渡辺正友の二男として生まれる。1885年12月、陸軍教導団砲兵科に入団。1890年7月26日、陸軍士官学校(1期)を卒業、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科1番/8名で卒業している。1891年3月26日、陸軍工兵少尉に任官し工兵第1大隊附となる。 日清戦争に工兵第1大隊第2中隊小隊長として出征。1895年11月、陸軍砲工学校(3期)を優等で卒業。
丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865… 丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865年2月11日) - 大正12年(1923年)4月2日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。医師。 播磨国朝来郡生野町(現在の兵庫県朝来市)に福井又次郎の二男として生まれ、丸尾八右衛門の養子となった。1887年(明治20年)、兵庫県立神戸医学校を卒業。生野町会議員、朝来郡会議員、同議長、兵庫県会議員、同副議長に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(186… 鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(1864年2月11日) - 昭和21年(1946年)2月24日)は、日本の言語学者、歴史学者、歌人。号は槐園(かいえん)。 言語学的なアプローチからの古代朝鮮の地名・王号などの考証を行い、また民俗学的な研究にも努めた。その成果は雑攷9集としてまとめられ、今日でも優れた先行研究として扱われている。李朝時代の禁書『鄭鑑録』の収集研究を行った。 京都・秦氏の名前由来を「波旦」(ハダ)説を提起した。1986年に韓国慶尚北道で新羅古碑が発見され、それには古地名「波旦」が明らかにあり、京都大学名誉教授・上田正昭が当地を訪れ、鮎貝説を支持している。 原書は1931年5月から1938年5月にかけて京城にて出版されたものであり、国内13箇所の大学図書館において揃って所蔵される。
池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文… 池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文久2年12月23日) - 1911年(明治44年)7月7日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。山形県飽海郡酒田町長。幼名は辰三郎、別名に光礼。 本間光貞の二男として出羽鶴岡藩領飽海郡、のちの酒井新田村天王下(山形県飽海郡西荒瀬村を経て現酒田市)に生まれる。1879年(明治12年)上京し同人社に入り碩学中村敬宇のもとで漢学や英学を修めたのち帰郷する。1882年(明治15年)飽海郡の中学校教員となり、1885年(明治18年)24歳の時、酒田本町の池田家の養子に入り名を藤八郎に改めた。1889年(明治22年)酒田町会議員に当選し、酒田町長、飽海郡会議員、同議長を経て、1902年(明治35年)山形県会議員に当選する。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万… 西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉- 1928年〈昭和3年〉11月27日)は、日本の政治家、外交官。 遠島の身分であった時代の西郷隆盛と愛加那の長男として、万延2年1月2日(1861年2月11日)、奄美大島の龍郷で生まれた。同父母妹に菊草がいる。異母弟に嫡弟の寅太郎、午次郎、酉三。妻・久子との間に7男7女を設けた。 9歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカへの留学の途についた。2年6ヶ月に及ぶ留学生活を終え、帰国して3年後の17歳のとき、1877年、西南戦争に薩軍の一員として参戦。2月25日から27日までの『高瀬大会戦』(熊本県玉名市)において右足に銃弾を受け負傷。
伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2… 伊佐早 謙(いさはやけん、安政4年12月28日(1858年2月11日) - 昭和5年(1930年)5月14日)は、旧米沢藩士で山形県の漢学者・歴史家・史料収集家。 米沢藩(山形県置賜地方)の藩士の子として誕生。米沢藩藩校の興譲館で漢学を修める。 旧米沢中学校(山形県立米沢興譲館高等学校)で教鞭を執り、明治14年(1881年)からは山形県師範学校(後の山形大学教育学部、現在は山形大学地域教育文化学部に改組)、明治23年(1890年)からは上杉家記録編纂所の総裁となる。 明治41年(1908年)に財団法人米沢図書館を設立、翌年に開館した(後の市立米沢図書館)。旧藩時代の文書や興譲館の蔵書などの貴重書保全に務めた。
田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1… 田中 稲城(たなか いなぎ、1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1925年(大正14年)2月22日)は明治時代から大正時代にかけての日本の官僚、図書館学者。 帝国図書館(国立国会図書館の前身)初代館長、日本文庫協会(日本図書館協会の前身)初代会長。「図書館の父」と称される。 幕末に周防国で岩国藩士末永家の三男として生まれた。幼名は辰之助。田中家の養子に入って田中林蔵、のち稲城と改名する。藩校で漢学、英語学校で英語を学んだのち、1875年に東京開成学校に入学。1881年に東京大学文学部(帝国大学文科大学の前身)和漢文学科を卒業するとともに、東京大学文学部・法学部准講師に任ぜられた。1882年には助教授に昇進するが、1886年に文部一等属に任命され、文部省の本省に転属。
金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855… 金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様。 今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。
錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈18… 錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈1855年2月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は日本の教育者。本名は久美。 竹香は安政元年12月25日(1855年2月11日)、出雲国出雲郡神庭村に生まれた。父・錦織邦臣は神代神社の神官・小学校教師・医者であり、母・登喜は小学校で裁縫を教えていた。竹香は幼いころから手先の器用なことで知られており、とくに絵画は10歳から師に着いて竹の絵を好んで描いたため「竹香」の号を授けられた。 経歴としては1873年(明治6年)に出雲郡第三番小学習字世話係を申し付けられたのに始まり、翌1874年(明治7年)には第二十中学区神庭小学三等助教、さらに翌1875年(明治8年)には同小学兼荘原小学二等助教に就く。
古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5… 古谷 安民(ふるたに やすたみ、1852年2月11日(嘉永5年1月22日) - 1918年(大正7年)11月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。栄典は正五位功三級勲三等。 長門国美祢郡岩永村(現山口県美祢市)士族出身。 西南戦争では第4旅団第1大隊第4中隊に属する。歩兵第30連隊長を経て、日露戦争では第三軍兵站監をつとめる。武学生養成所(※山口県愛山会武学講習所)所長。 1918年没。戒名は奨武院殿安道濟民大居士。
長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと… 長郷 泰輔(ちょうごう たいすけ/なごう たいすけ/ながさと やすすけ、1849年2月11日(嘉永2年1月19日)- 1911年(明治44年)7月15日)は、明治時代に活動した日本の建築家。ニコライ堂の建設で知られる。 陸奥国会津郡(現・福島県会津若松市)に生まれる。父は会津藩士の長郷佐平で、その三男だった。戊辰戦争に従軍後、敗戦により函館に移り、そこでイギリス領事の知遇を得る。 明治4年2月(1871年3月 - 4月)に上京。上京翌年の1872年(明治5年)には、長郷(当時は古田姓を名乗る)は、ロシア正教会大主教・ニコライ・カサートキンに従者として仕え、正教を受洗して「イリヤ」の洗礼名を授かっていた。
太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年… 太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年1月16日) - 1892年4月3日)は日本の実業家。北海道厚岸郡厚岸町の開拓に尽力し、屯田兵村、太田村の村名にその名を残した。日本人とアイヌの混血である。 1846年2月11日(弘化3年1月16日)に場所請負人山田文右衛門の番人、中西紋太郎と奔渡村のアイヌの女性であるシャリコトムの間に生まれる。庶子であった上、幼少期に父を失ったことで母親に女手一つで育てられていたが、それを不憫に思った国泰寺の住職、香山聞禅に引き取られて読み書きそろばんや農業を教わり、8年間同寺の寺男として働いている。1867年(慶応3年)には22歳でアイヌの女性、真歌と結婚する。
朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年… 朝田 又七(あさだ またしち、1839年2月11日〈天保9年12月28日〉 - 1914年〈大正3年〉1月4日)は日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・勘解由、旧名・甚吉。横浜市会議長。 三河国渥美郡、のちの愛知県渥美郡七根村(現豊橋市)で、漁農・勘解由甚四郎、りと子夫妻の二男として生まれる。吉田船町(現:豊橋市)の高橋小十郎回漕店に丁稚として奉公し、22歳で独立して下地町に肥料商を開業した。しかし資金繰りが滞り文化元年(1804年)に廃業した。その後、遠江国新居宿(現静岡県湖西市新居町新居)に移り肥料商・尾崎嘉右衛門家で働いた。文久元年(1861年)、肥料買付を主人に勧めて行ったところ多額の損失を蒙り、責任を感じて店を辞し横浜に移った。
悠浦 あやと(ゆうら あやと、2月11日 - )は、元OSK… 悠浦 あやと(ゆうら あやと、2月11日 - )は、元OSK日本歌劇団の男役スター。大阪府八尾市出身。O型。
綾菓(りょうか、2月11日 - ) は、日本の通訳、翻訳家、… 綾菓(りょうか、2月11日 - ) は、日本の通訳、翻訳家、歌手、作詞家。ローマ字表記は「RyoRca」。かつては「りお☆るか」と表記していた。 シンガポール出身。その後、カナダへ留学し、ニューブランズウィック大学(University of New Brunswick)、上智大学出身。現在は東京都在住。風葉のボーカルとしてではなく、本業の翻訳家活動としても活躍している。自動二輪の免許を所有している。ボーカルとしては、低音域から高音域までを幅広く扱えゲーム楽曲などにも採用実績がある他、高い英訳スキルを活かした英語作詞や英語曲歌唱指導が出来る。(下記参照)
sasakure.UK(ササクレ・ユーケイ、2月11日 - … sasakure.UK(ササクレ・ユーケイ、2月11日 - )は、日本のソングライター、DJ、ボカロP。ささくれPとも呼ばれる。福島県出身。レーベルは自主レーベルのササクレイション。代表曲に『*ハロー、プラネット。』や『トンデモワンダーズ』など。TJ.hangneil氏の友人。 「SF」と「寓話」を作品世界の根幹とし、チップチューン系のサウンドや、音楽のみならずドット絵のアニメーション、アートワークなどでも評価を得ている。ゲーム・ミュージック、男声合唱、日本文学などの影響を受けていると言い、作品に大きな影響を受けた作家として宮沢賢治、星新一、手塚治虫の名前を挙げている。 高校生のときに携帯電話の着メロを作るアプリで曲を作ったのをきっかけに作曲を始め、2002年よりBMS作品の制作を始め2005年には「海神寓拝」でBOF2005優勝を飾った、2007年の末より動画共有サイト・ニコニコ動画などでVOCALOIDを用いた楽曲の発表を始める。
梶西 達(かじにし さとし、2月11日 - )は、大阪府出身… 梶西 達(かじにし さとし、2月11日 - )は、大阪府出身のフリーアナウンサー。 関西外国語大学外国語学部英米語学科を卒業後、2000年に有限会社アナウンス工房(現:株式会社メディアターナー)へ入社、丸亀競艇場の専属実況を担当していたが2006年に退社。 同社退社後はフリーアナウンサーとして活動、京都リビングエフエム(FMはちよんご)のパーソナリティなどを経て、2015年8月31日のまるポカップより丸亀競艇場の専属実況に復帰した。 2015年以降は競艇場の実況業務を主に担当し、2022年3月以前には、尼崎競艇場・常滑競艇場・浜名湖競艇場・児島競艇場の場内実況に交わり、2022年4月からは津競艇場や鳴門競艇場の場内実況に交わる様になった。