安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月… 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日)は、日本の易学者、陽明学者、思想家。私塾「金鶏学院」の設立、右翼政治団体「国維会」や学術団体「師友協会」の創立など、日本の伝統的な哲学・思想の「日本主義」の立場から保守派の長老として戦前から戦後に亘って活躍した。吉田茂(元内閣総理大臣)などの大物政治家とも深い交流があった。 1898年(明治31年)に現在の大阪府大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。 1904年(明治37年)に大阪市芝尋常小学校入学。
北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2… 淡路 円治郎(淡路 圓治郎、あわじ えんじろう、1895年2月13日 - 1979年4月30日)は、日本の心理学者、社会学者、教育者。立教大学名誉教授・初代社会学部長、東京帝国大学教授・航空研究所教授。心理学および労務管理学の権威で、立教大学社会学部の創設者である。労働、通産、文部各省の審議会委員も歴任し、日本労務研究会理事長や雇用問題研究会会長なども務めた 兵庫県神戸市生まれ。1919年(大正8年)、東京帝国大学文学部心理学科を卒業した。その後、大学院に学び、1925年(大正14年)からドイツに留学し、ベルリン大学、ハンブルク大学で学ぶ。 1927年(昭和2年)、立教大学教授に就任。1929年(昭和4年)に東京帝国大学助教授、1939年に(昭和14年)教授となった。
五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 195… 五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 1959年7月21日)は、日本の女優。本名・御手洗忍(旧姓名・前川しのぶ)。 新派から映画界に転じ、創成期の松竹蒲田で活躍。川田芳子・栗島すみ子と並ぶ看板スターとして知られた。また、舞台女優としても劇団「近代座」を結成し、多くの後進を育てた。 埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる。父・潔は浦和警察署の署長をつとめた。埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇を志し、1915年9月に武田正憲と川村花菱が東京・神田の東京座で旗揚げした「新日本劇」に入る。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎・藤村秀夫・岩田祐吉・正邦宏・永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子・村田栄子などがいた。
児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 -… 児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 - 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。
阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(… 阿竹 斎次郎(阿竹 斉次郎、あたけ さいじろう、1892年(明治25年)2月13日 - 1985年(昭和60年)12月30日)は、日本の政治家。宇治山田市(現・伊勢市)長(1期)。参議院議員(1期)。 三重県度会郡宇治山田町中島町(宇治山田市中島町を経て現伊勢市)で生まれる。第五小学校を卒業した。家業の阿竹味噌醤油醸造業を継承。尾崎行雄に私淑し、咢堂会会長を務めた。 1926年(大正15年)10月、宇治山田市会議員に当選し6期在任。1931年(昭和6年)10月、三重県会議員に選出され2期在任した。この間、市是調査委員、市税調査委員、臨時財政調査員、都市計画三重地方委員、選挙粛清実行委員、高等女学校建築委員、学務委員などを務めた。
関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 -… 関矢 孫一(關矢、せきや まごいち、1892年2月13日 - 1942年5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 新潟県北魚沼郡下条村(広瀬村、広神村を経て現魚沼市)で、素封家・関矢橘太郎、チエの二男として生まれた。慶応義塾大学に学ぶ。農業を営み、広瀬村信用組合監事、同理事、同村議、新潟県議、同議長、北魚沼郡青年団長、小出銀行取締役会長、堀ノ内銀行取締役、小出尾製糸(株)社長、北越殖民(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟10区から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙には不出馬。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟3区から立憲民政党公認で立候補して復帰した。
河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - … 河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の経済学者、社会思想家。東京帝国大学経済学部教授。第二次世界大戦前夜における著名な自由主義知識人の一人として、共産主義とファシズムに抵抗した。 東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。戸籍には誤りで「栄次郎」と記載されるが、本人は「栄治郎」で通した。尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰の平民主義に惹かれていた。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒業、銀時計受領。
豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月1… 豊田 豊吉(とよた とよきち、1890年(明治23年)2月13日 - 1943年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員4期、大蔵参与官、東京市助役を歴任した。
山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2… 山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2月13日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。青年時代から村政に関わり、1920年(大正9年)第1回国勢調査員となる。1925年(大正14年)富谷村会議員に当選する。1937年(昭和12年)富谷村長に就任した。この間、学務委員、農会議員兼評議員、家屋税調査員、耕地整理組合副理事長、在郷軍人分会顧問、小作調査委員、警防団副団長などを歴任した。 一度目の村長は1941年(昭和16年)まで務め、戦後は公職追放となったが、公民館副館長、富谷商工会会長などに就任した。
橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月… 橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月13日 - 1975年〈昭和50年〉3月5日)は、日本の農学博士、技師、実業家。酵母の専門家である。 鳥取県日野郡宮原村(のち日野郡溝口村宮原・日野郡溝口町宮原、現・西伯郡伯耆町宮原)生まれ。橋谷義治の二男。溝口尋常高等小学校、鳥取県立第二中学校(後の米子中学、現・米子東高校)を経て1915年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業する。大日本麦酒に入社する。 1923年、農学博士の学位を受く。1930年、薬用酵母剤「エビオス」を創製する。1931年、麦酒醸造に関し、学術研究及び視察のため欧米に出張する。名古屋工場長を経て1935年、吹田工場長。
黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月… 黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月13日 - 1947年(昭和22年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)2月、高知県香美郡山北村(現・香南市)に生まれた。1904年(明治37年)第一中学校卒を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 歩兵第78連隊(龍山)付などを経て、1932年(昭和7年)12月、歩兵大佐に昇進し福島連隊区司令官に就任。1934年(昭和9年)1月、歩兵第27連隊長(旭川)となり、陸軍士官学校予科生徒隊長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長に就任、満州に赴任した。
猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月1… 猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月13日 - 1964年〈昭和39年〉4月30日)は、日本の内務官僚。大分県東国東郡国東町長。 大分県東国東郡北江村(国崎村、国東町を経て現国東市)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した 。逓信管理局書記、秋田県属、同河辺郡長、広島県佐伯郡長、鹿児島県理事官を経て、宮城県書記官・学務部長、石川県書記官・学務部長を経て、1929年(昭和4年)に福岡県書記官・学務部長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、別府市、岡山市、尼崎市の助役を歴任した。1945年(昭和20年)6月には帰郷し、公選初代国東町長に当選した。
西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月1… 西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月13日 - 1939年(昭和14年)12月15日)は、日本の教育者。 兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。代用教員、准教員を経て、1901年(明治34年)に哲学館(現在の東洋大学)に入学した。1905年(明治38年)に哲学館を卒業した後は、雑誌「教育実験界」の記者となり、また日本家庭辞書の編纂にあたった。1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までニューヨーク大学に留学し、教育学博士の称号を得た。 1912年(明治45年)には帝国小学校・帝国幼稚園を創設し経営にあたった。さらに1926年(大正15年)からは東洋大学教授も務めた。
大竹 勇(おおたけ いさむ、1882年(明治15年)2月13… 大竹 勇(おおたけ いさむ、1882年(明治15年)2月13日 - 1950年(昭和25年)2月25日)は、日本の裁判官、弁護士。台湾総督府官僚。 福島県大沼郡赤留村(赤沢村、会津高田町を経て、現在の会津美里町赤留)出身。1907年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、新潟地方裁判所・新潟区裁判所検事、富山地方裁判所・富山区裁判所判事、名古屋区裁判所・名古屋地方裁判所判事を歴任。1916年(大正6年)、台湾総督府法院判官に転じ、台北地方法院判官、台中地方法院判官を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府税関監視官・税関事務官に転じ、台南州内務部長、台湾総督府税関長を経て、1929年(昭和4年)に澎湖庁長に就任した。
田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13… 田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13日 - 1969年(昭和44年)3月2日)は、大正時代から昭和時代中期にかけての日本の教育学者・社会事業家である。社会福祉法人「六方学園」の創立者である。 島根県旧邑智郡都賀村大字上野の出身である。島根県師範学校を卒業した。 1910年(明治43年)、島根県邑智郡川本町尋常高等小学校校長に就任した。在職中の1916年(大正3年)[要検証 – ノート]から2年間、毎年1ヶ月の夏休暇を利用して東京の滝乃川学園の創設者石井亮一に弟子入りし「治療教育」等の研修を受けた。 1916年(大正5年)2月29日に校長を辞任し、広島市白島町へ一家で移住した。
山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉… 山邑 太三郎(やまむら たさぶろう、1880年〈明治13年〉2月13日 - 1928年〈昭和3年〉2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県菟原郡、のちの武庫郡魚崎村(魚崎町を経て現神戸市東灘区)出身。1897年、大阪高等商業学校卒。日露戦争に従軍し、陸軍二等主計となる。魚崎村会議員、同村長、同町長、武庫郡東郷酒造組合長、東醤油(株)社長、山邑酒造、日章火災海上再保険、名古屋信託各(株)取締役、日章信託、太平洋水産、帝国紡績、日清生命保険各(株)監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫4区から無所属で立候補して当選した。御影師範学校附属小学校保護者会役員であったことから、1923年頃から灘校設立運動を支援。
矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13… 矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13日 - 1939年〈昭和14年〉6月10日)は、日本の宗教学者・社会事業家。旧姓は佐藤。号は隈渓。 1879年、福島県生まれ。東京帝国大学を卒業。卒業後は宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究し、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。 長男は弁護士の矢吹輝夫(1926-2006)。
渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928… 渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928年11月4日)は、日本の国粋主義・民族派の思想家。滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)出身。 彦根藩士であった渥美平八郎の子として生まれる。渥美家は藩の武術師範を務めた家で、母は藩主・井伊家の分家である木俣家の出身。幼くして父を失い、母の手で育てられる。 彦根中学を経て、1897年、第一高等学校に入学。1900年には京都帝国大学法科に入学した。大学在学中、哲学・宗教への関心を深めた。また、母の死に相当の衝撃を受け、その遺骨の喉骨を飲み込んだともいわれる。人生に煩悶を抱えたまま、1904年、京都帝大を中退。郷里に帰って中学校教師をしていた時、児童の歌う「桃太郎」の唱歌を聞く中で思想的に目覚め、教職を辞めて大阪に出て鉄工所の作業員となる。
飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞… 飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞、1875年(明治8年)2月13日 - 1958年(昭和33年)7月25日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。慶應義塾體育會柔道部師範、国際柔道協会会長などを歴任した。 栃木県出身。飯塚茂七郎の二男。 早くより武道を稽古していたが若き日に上京の後、慶應義塾大学、二松學舍で学ぶ傍ら、1891年11月に講道館に入門して柔道を修業する。講道館や慶應義塾において、横山作次郎や山下義韶、嘉納治五郎と共に斯道の発達普及に従事。東京高等師範学校、旧制第二高等学校、第七高等学校造士館の柔道教師を歴任。大日本武徳会において形制定に従事する。
昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1… 昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1月13日) - 1946年(昭和21年)10月)は、日本の内務官僚。官選県知事、樺太庁長官。 美作国津山城下(現岡山県津山市)出身。津山藩士・昌谷千里(端一郎)の長男として生まれる。東京英語学校、第一高等中学校を経て、1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省に入省し土木局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1897年4月、宮崎県参事官・内務部第三課長兼第二課長に就任。以後、三重県参事官、神奈川県参事官・第四課長兼官房外出係、滋賀県書記官、福井県事務官・第一部長兼第二部長、静岡県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、京都府事務官・内務部長などを経て、1910年7月、東京府事務官・内務部長に就任。
塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1… 塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、日本の詩人、国文学者、翻訳家。本名・正男。 兵庫県豊岡市出身。豊岡藩士の子。1886年(明治19年)7月、第一高等中学校に入学。1892年(明治25年)7月、第一高等中学校文科を卒業。同月、東京帝国大学に入学。 1895年(明治28年)7月、東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。同年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。詩人として新体詩の普及に貢献する一方で、国文学者としても活躍。 1895年(明治28年)9月、立教学校(現・立教大学)の教授に就任し、国文国語を講じた。
遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年1… 遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年12月28日) - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。 信濃国筑摩郡福島(現・長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門・第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市・大澤三之助・矢橋賢吉と同期生。 卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始。
内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13… 内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13日(慶応元年12月28日)- 1936年(昭和11年)9月28日)は、明治から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。本名・末太郎。 武蔵国多摩郡五日市村(神奈川県西多摩郡五日市町、東京府西多摩郡五日市町、東京都西多摩郡五日市町を経て現あきる野市)で、豪農・内山善右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)家督を相続。同人社で学んだ。林業を営む。 1880年(明治13年)深沢権八らと五日市学芸講談会を設け、自由民権運動の学習活動を行う。その後、キリスト教に入信。1892年(明治25年)神奈川県会議員に選出。三多摩の東京府編入後は東京府会議員、同郡部会副議長などを務めた。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860… 高岡 直吉(たかおか ただよし、安政7年1月22日(1860年2月13日) - 昭和17年(1942年)9月1日)は、日本の内務省官僚・政治家。鹿児島県知事、島根県知事、宮崎県知事、初代札幌市長、錦鶏間祗候。勲二等瑞宝章。津和野藩出身。 北海道帝国大学総長である高岡熊雄は実弟にあたる。甥に高岡周夫がいる。 1860年、津和野藩士・高岡道敬、英の嫡男として石見国鹿足郡後田村(現・島根県鹿足郡津和野町後田)に生まれる。藩校養老館で学び、後に浜田県立英学所で学んだのち、官立東京英語学校から札幌農学校に進んだ。同校を卒業後の1882年(明治15年)山口県御用掛となり、1885年(明治18年)山口県立農学校の初代校長に就任する。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
桜井 直蔵(櫻井 直藏、さくらい なおぞう、1849年2月1… 桜井 直蔵(櫻井 直藏、さくらい なおぞう、1849年2月13日(嘉永2年1月21日) - 1929年(昭和4年)1月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国香取郡西大須賀村(後の千葉県香取郡滑河町→下総町、現在の成田市)生まれ。農業を営む。その傍ら、1872年に学制が発布されると、私財を投じて村内に学校を建てた。1878年に西大須賀村外二ヶ村戸長となる。また、利根川流域は水害が頻繁に起こるため、利根川の護岸工事の必要性を流域住民に戸長として訴えた。1884年に堤防が完成した。1886年に大和田村外六ヶ村の戸長を兼ね、さらなる治水事業に着手し、利根川の堤防改修工事を完成させた。1889年に町村制が施行されると初代滑河町長に就任した。
斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年… 斎藤 太郎(さいとう たろう、1849年2月13日(嘉永2年1月20日) - 1922年(大正11年)7月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級、功二級。 周防山口藩領阿武郡椿郷東分村(山口県阿武郡椿郷東分村、椿東村、萩町を経て現萩市)出身。士族・斎藤喜作の長男として生まれ、1880年(明治13年)家督を相続する。1872年(明治5年)4月、陸軍歩兵少尉に任官する。1878年(明治11年)陸軍戸山学校に入学。以来累進し、日清戦争では第2軍兵站司令官として出征。のち歩兵第1連隊長に転じ、1897年(明治30年)10月、大佐に進む。1901年(明治34年)11月、陸軍少将に進級と同時に歩兵第14旅団長に補され日露戦争に出征し、第1師団と協同し203高地攻略で軍功を挙げ、その後も第3軍の主力部隊として戦った。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12… 曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日〈1844年2月13日〉- 昭和10年〈1935年〉11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。憲仁親王妃久子は玄孫にあたる。 家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者の西原晁樹の次女の民子。元治2年(1865年)に長崎へ出て洋学を学ぶ。学問や武道を好み、長崎では砲術も学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。また同じく長崎で、西坂にあった瓜生寅の仮塾や榎津町にあった柴田昌吉の柴田塾に学び、関沢明清らと懇意にした。
吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしと… 吉富 簡一(よしとみ かんいち、旧名: 吉富 藤兵衛(よしとみ とうべえ)、天保9年1月19日(1838年2月13日) - 大正3年(1914年)1月18日)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の実業家、政治家。幼名は美之助。 周防国矢原村(現・山口県山口市湯田)の裕福な豪農・庄屋に生まれ、井上聞多(後の井上馨)の幼馴染でもあり、尊王攘夷運動及び倒幕運動に参加。農民ではあるが大地主として裕福だった吉富は高杉晋作の奇兵隊に資金提供する他、鴻城軍(長州藩諸隊)を組織し井上を総裁に据える。 明治維新後は長州閥の一員として活動。木戸孝允に認められて明治3年(1870年)に上京して官吏となり士族に列せられ吉富簡一と改名するが、翌明治4年(1871年)に廃藩置県のあおりで長州藩への多額の貸し付けが焦付き、家計の立て直しの為に山口県に帰る。
杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6… 杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日〈天保6年1月16日〉- 1920年〈大正9年〉5月3日)は、日本の宮内官僚。諱は重華。字は子華。通称は徳輔・忠次郎・少輔九郎。号は松城・聴雨。 植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現:山口県山口市)で生まれる。母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、吉田松陰にも師事した。藩主の小姓を務めた後、1861年(文久元年)、藩命により江戸幕府の遣欧使節である竹内保徳・松平康英らに従って欧米諸国を視察する。正式の使節団員ではなく、賄方並小使雇人の杉徳輔としての同行だった。帰国後、下関戦争では井上馨と共に和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。
沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日〈1834年2月… 沢辺 琢磨(さわべ たくま、天保5年1月5日〈1834年2月13日〉- 大正2年〈1913年)6月25日〉は、日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)にして最初の日本人司祭である。聖名(洗礼名)はパウェル(パウロ)。旧姓は山本。 天保6年(1835年)、土佐国土佐郡潮江村(現在の高知市)に土佐藩の郷士である山本信道(1805-1858、代七)の長男として生まれる。幼名は数馬(かずま)。山本信道の父・山本信年(1780-1863、新四郎)の実弟・山本常八郎は同じ土佐郷士の坂本家に婿養子として入り坂本直足(1797-1855、八平)に改名した。坂本直足の次男が坂本龍馬であり、龍馬とは血縁及び実質上の親類同士である。
ANTY the KUNOCIHI(アンチ・ザ・クノイチ、2… ANTY the KUNOCIHI(アンチ・ザ・クノイチ、2月13日 - )は、日本の女性ラッパー。岐阜県多治見市出身。所属レーベルはMADD CAT(マッドキャット)。旧名はANTY the 紅乃壱(読みは同じ)。
岡本 弥紀(おかもと よしあき、2月13日 - )は、音楽制… 岡本 弥紀(おかもと よしあき、2月13日 - )は、音楽制作ユニット『FLAT5th』に所属する日本のソングライター・編曲家。英語表記名はFLAT5th Yoshiaki Okamoto。 和歌山県高野山生まれ。ニックネームは「おかP」。2006年から自身のブランドである制作ユニット『FLAT5th』を設立。同年から伊藤由奈や柴咲コウ等へ楽曲提供、CMソング等への楽曲提供等幅広く活動。FLAT5th設立前はクラブシーンでの活動がメインだった為、ハウスやR&B、各種ルーツミュージックを独自に解釈したサウンドが特徴的である。Macユーザーでミュージックシーケンサーは主にLogic Proを使用。