灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1… 灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1931年4月26日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 新潟県刈羽郡中通村生まれ。1908年第二高等学校卒業、1912年東京帝国大学文学部哲学科卒業。在学中から演劇・詩・翻訳を発表。小山内薫の自由劇場に参加、卒業後丸見屋商店に入社、演劇研究を行う。1914年三木露風・増野三良・柳沢健と雑誌『未來』を創刊。1931年、急性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 -… 伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 島根県海士郡海士村(現在の隠岐郡海士町)出身。大阪府立農学校獣医学科を経て、1910年(明治43年)に盛岡高等農林学校獣医学科を卒業した。のち法科に転じ法政大学に学んで1916年(大正5年)に高等文官試験に合格した。警視庁警視、愛知県額田郡長、同知多郡長、長崎県商工課長、同水産課長、同農林課長、福井県学務部長、岩手県警察部長、滋賀県警察部長、愛知県警察部長、大分県内務部長、関東局旅順民政署長を歴任した。 退官後、興中公司嘱託、天津電業公司総務科長、大連機械製作株式会社支配人・総務部長を経て、東亜生果株式会社社長を務めた。
多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14… 多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14日 – 1951年(昭和26年)2月9日)は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県君津郡神納村(現在の袖ケ浦市)出身。多田子之助の二男として生まれ、兄の昌太郎は君津郡会議員・神納村長を務めた。千葉師範学校に入学するが、病のため退学した。その後明治学院を経て、1911年(明治44年)に早稲田大学政治経済科を卒業した。卒業後は大日本通信社を創設し、社長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で出馬し初当選。5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で逓信参与官を、阿部内閣で外務政務次官を務めた。
十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14… 十河 信二(そごう しんじ、1884年(明治17年)4月14日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。愛媛県西条市長(在任1945年(昭和20年) - 1946年(昭和21年))、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年(昭和30年) - 1963年(昭和38年))を務めた。「新幹線の父」と呼ばれた。西条市名誉市民第1号。 1884年(明治17年)愛媛県新居郡中村(中萩村、中萩町を経て、現在の新居浜市)に十河鍋作・ソウの二男として生まれる。1897年(明治30年)愛媛県尋常中学校東予分校(現在の愛媛県立西条高等学校)に入学した。卒業後、上京し受験準備のために正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に入学した。
瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 … 瀧 正雄(たき まさお 1884年(明治17年)4月14日 - 1969年(昭和44年)8月12日)は、日本の政治家、法学者。衆議院議員、貴族院議員をつとめ、近衛文麿の家老格の側近として知られた。
立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月1… 立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月14日 – 1960年〈昭和35年〉7月31日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県安佐郡三入村(現在の広島市安佐北区)に立川斧太郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、警視庁警部として警務課に勤務した。1915年(大正4年)に警視に昇進し、大塚警察署、牛込警察署、神楽坂警察署、京橋警察署の署長を歴任した。1818年(大正7年)、本庁に復帰して監察官に就任した。1920年(大正9年)、警視庁を退職して弁護士を開業した。 1922年(大正11年)に牛込区会議員に当選し、1926年(大正15年)には東京市会議員に選出された。
大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月1… 大野 政吉(おおの まさきち、1884年(明治17年)4月14日 - 1970年(昭和45年)7月31日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、窯業協会会長を務めた。 東京生まれ。1906年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、農商務省入省。1907年島田硝子製造所入社。1908年に旭硝子入社後、尼崎工場長、鶴見工場長、牧山工場長、技術課長、支配人、取締役等を務め、日本初の窓ガラスの本格量産化を成功させた。 1927年大日本窯業協会理事長。旭硝子常務取締役を経て、山田三次郎会長が死去した1939年から旭硝子社長及び旭化学工業奨励会理事長を務めた。1940年緑綬褒章受章。 1941年日本光学工業取締役。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月1… 小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月14日 - 1938年(昭和13年)10月25日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 熊本県飽田郡奥古閑村(天明村、天明町を経て現熊本市南区)出身。熊本中学校、第五高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。卒業後は熊本中学の教諭兼舎監となったが、辞して熊本市で弁護士を開業した。 熊本県会議員を2期務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その後、満州に渡り、弁護士業のかたわら熊本海外協会満洲本部長に就任した。奉天市で客死。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月1… 斎藤 玉男(さいとう たまお、1880年〈明治13年〉4月14日 - 1972年〈昭和47年〉10月13日)は日本の医師、精神医学者。高村智恵子の晩年の主治医であった。 1880年(明治13年)、群馬県南勢多郡苗ヶ島村(勢多郡宮城村を経て現・前橋市苗ヶ島町)に生まれる。祖父は幕末から明治時代にかけて活躍した国学者・医師であった斎藤多須久(たすく)。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学医科大学を卒業した。その後、ドイツやアメリカに留学。 東京府巣鴨病院医員として勤務。巣鴨病院の後輩には斎藤茂吉がおり親交を結んだ。1916年(大正5年)日本医学専門学校教授に就任し、1944年(昭和19年)まで務める。
11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年… 11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年)4月14日 - 1958年(昭和33年)7月23日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、官選帯広市長。旧姓・武田、初名・雄次。 兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。 1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。
原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4… 原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4月14日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元兵庫県立神戸高等商業学校校長、元神戸商業大学学長事務代理。 兵庫県三原郡榎列村(現南あわじ市)で原口家八代目として生まれる。旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。神戸商業大学(現神戸大学)教授となり、同大学学長事務代理も務めた。1938年に名誉教授の称号を受け、普通試験委員長も退任し、従三位に叙された。同年兵庫県立神戸高等商業学校校長に就任。1941年依願退官。また、勲二等瑞宝章も受章した。
斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう… 斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう しんさく)、1878年〈明治11年〉4月14日 - 1909年〈明治42年〉8月6日)は、日本の評論家。 高山樗牛(林太郎)は兄にあたり、その死後に兄の著作をまとめて全集として発表したが、病弱だったこともあり、その兄と同じ数え32歳で生涯を閉じた。
小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月1… 小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月14日 - 1949年〈昭和24年〉9月27日)は、日本の政治家、学校経営者。衆議院議員、第11代神戸市長。博士(Doctor of Civil Law、 コロンビア大学)。 1877年旧三田藩士・小寺泰次郎の長男として神戸市生田区(現中央区)所在の小寺邸(現相楽園)に生まれる。1894年(明治27年)兵庫県立神戸商業学校 卒業、1896年(明治29年)杉浦重剛の称好塾に学んだのち、1897年(明治30年)米国に留学し、コロンビア大学で法律を、ジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学び、更にヨーロッパのハイデルベルク大学、ウィーン大学、ジュネーブ大学で政治・法律学を修めた。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月1… 堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。 福岡県御井郡、のちの三井郡大城村(北野町を経て現久留米市)出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。
都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明… 都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明治5年3月7日) - 1959年(昭和34年)4月15日)は、日本の牧師である。都田恒太郎の父である。 鳥取県境港市に生まれる。叔父の門永尚一とバークレー・バックストンの協力者竹田俊造によって信仰を持つ。1892年(明治25年)クリスマスに境港の竹の内教会でバックストンより洗礼を受ける。1887年(明治20年)に恒太郎が生まれる。1902年(明治35年)東京に行き、中田重冶らの聖書学院の修養生として学ぶ。同郷の人物に米田豊らがいる。 1904年(明治37年)アグネス・グレンの元で働き信州の岩村沢教会に着任する。1918年(大正7年)利根川沿岸潮来の開拓をする。
笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治… 笹尾 粂太郎(ささお くめたろう、1871年4月14日〈明治4年2月25日〉- 1941年〈昭和16年〉1月29日)は、日本の哲学者である。 長門国、現在の山口県下関市に笹尾勝蔵の息子として生まれ、日本基督教会柳川教会で父から洗礼を受けた。山口高等学校に入学したが、経済的事情で明治学院神学部に転校。同じく、白金にあった自営館(現・巣鴨教会)で共同生活を送った。 明治学院から推薦されて、20歳で渡米し、オーバン神学校、コロンビア大学で学んだ。さらに、1896年にドイツに渡りベルリン大学、ハレ大学、ボン大学でキリスト教とカント哲学の研究を重ね、1899年に学位論文「カントの神概念」によりボン大学より哲学博士号を得た。
川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日… 川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日 - 1947年2月12日)は、日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。 姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。 1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年… 伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年3月3日) - 1914年(大正3年)10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 第一次世界大戦において防護巡洋艦・「高千穂」艦長として戦死した。 佐賀県佐賀市松原にて佐賀藩士伊東祐寿の三男として生まれる。維新後間も無く父を亡くし、藩中老として総野軍監を務めた祖父の伊東祐元に育てられる。攻玉社を経て明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。 海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、占領した砲台に赴き港内偵察にあたった。
富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869… 富岡 兵吉(とみおか ひょうきち、明治2年3月3日(1869年4月14日)/明治4年7月3日(1871年8月18日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の盲教育者。東京盲唖学校卒業後、日本で最初の病院マッサージ師として勤務し、さらに盲学校教師として鍼灸・按摩の指導に取り組んだ。 明治2年(1869年)3月3日/明治4年(1871年)7月3日、上野国利根郡薗原村(現在の群馬県沼田市利根町園原)の農家・富岡作次郎、みつの三男(第4子)として生まれる。3・4歳のころ、眼病を患い視力が弱くなる。12歳くらいまではかすかに物が判別できる程度だった。1880年(明治13年)3月に園原小学校下等科を卒業し、翌1881年(明治14年)に沼田市馬喰町の深代鷲五郎に入門し、按摩・鍼を習う。
神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(… 神崎 東蔵(東藏、かんざき とうぞう、1867年4月14日(慶應3年3月10日)- 没年不詳)は、明治から大正期の裁判官・弁護士・政治家。衆議院議員、佐賀市会議長。 武蔵国江戸麻布(現東京都港区)で佐賀藩士・神崎要助、のせ の四男として生まれる。1889年(明治22年)帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 司法官に任官し、判事試補、和歌山地方裁判所判事、佐賀地方裁判所判事などを歴任し、1891年(明治24年)に退官し佐賀市で弁護士を開業し、その後、福岡市、長崎市、小倉市、久留米市などにも出張所を開設した。 1897年(明治30年)憲政本党に入党し、佐賀市会議員、同議長、佐賀県会議員、佐賀商業会議所議員、九州鉄道顧問などを務めた。
松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(18… 松本 恒之助(まつもと つねのすけ、慶応2年2月29日(1866年4月14日) - 大正15年(1926年)6月1日)は、日本の衆議院議員(猶興会→又新会→中正会→憲政会)。父は伊勢新聞創業者の松本宗一、曽祖父は津藩郷士の松本安親、弟は衆議院議員の松本宗吾、曾姪孫は歌手・女優のあべ静江。 伊勢国一志郡矢野村(現在の三重県津市)に松本宗一の長男として生まれる。1883年(明治16年)、同志社に入学するが、1885年(明治18年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、1888年(明治21年)に卒業した。卒業後は郷里に帰り、伊勢新聞社の経営にあたった。また、津市会議員に選出された。 1904年(明治37年)、衆議院議員に補欠当選。
入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(186… 入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(1863年4月14日) - 昭和8年(1933年)7月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。弁護士。 備前国赤坂郡立川村(岡山県赤磐郡東高月村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)に右遠槌次郎(作家右遠俊郎の曽祖父)の二男として生まれ、入江米吉の養子となった。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、代言人免許を取得した。岡山法律学校を開き、また1897年(明治30年)には岡山弁護士会長に選ばれた。さらに岡山県会議員、同参事会員、同副議長に選出された。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4… 長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4月14日(文久3年2月27日)- 1927年(昭和2年)3月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国丹羽郡、のちの愛知県丹羽郡穂波村(西成村を経て現一宮市)で、尾張藩士・長谷川甚左衛門の二男として生まれた。鷲津私立学校で漢学を修めた。製糸業、石炭販売業を営む。日清戦争に従軍。 木曽川三川四百七箇村土功会議員、愛知県会議員、丹羽郡会議員、同参事会員、愛知県税賦課額調査委員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第4区、無所属)で当選し、その後、新自由党に所属し衆議院議員に1期在任した。 その後、愛知県湯屋連合組合組長、愛知県会議員、同市部会議長、名古屋市会議員、名古屋商業会議所特別議員、日本赤十字社終身社員などを務めた。
大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久… 大野 延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久3年2月27日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月22日)、雅号・大野 雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本の画工・人類学者・考古学者。東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物の図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。 旧越前国の福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京の本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。 1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる。
初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年… 初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年3月5日) - 1930年(昭和5年)5月31日)は、仏語教授、日本の政治家、ジャーナリスト。国会議員衆議院議員。自由民権運動の中心人物。 常陸国猿島郡東山田村(現在の茨城県古河市)出身。東山田村名主の豪農、茨城県多額納税者である初見吉左衛門の四男で土浦五十銀行の頭取を務めた初見敬二郎の長男。明治維新前初見家は代々北山田(きたやまた)の名主でした。農業を中心に大規模な土地経営を行い、地域の有力な地主として知られていました。東山田村は藍の生産地であり、利根川水運を通じて深谷や江戸方面に送られる流通ルート上にあったため、渋沢栄一の藍染業務時代から直接関わっていました。
清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政… 清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政6年3月12日〉 - 1926年9月2日)は、明治から大正時代に活躍した英学者、教育者。旧姓、中川。幼名、佳之助。同志社英学校(現・同志社大学)や、大阪・英和学舎(現・立教大学)を始め、多くの学校で教授を務め、第五高等学校(現:熊本大学)では夏目漱石の後任となった。英文学者として、日本英文学会を創設し、日本における英文学の発展に貢献した。 1859年(旧暦安政6年3月12日)に中川進之丞玄佳の二男として大阪市東区安土町にて生まれる。幼名を佳之助と称し、家は代々儒者にして医者を業としていた。 1870年(明治3年)、10才の頃に、当時の日本では開国の思想が大きく国内に勃興し、四民平等の精神が発展していく最中、その主旨に感動し、籍を平民に移すことを決心し、その年の12月に清水姓となり、名を泰次郎と改めた。
大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年… 大橋 十右衛門(十右衞門、おおはし じゅうえもん、1858年4月14日(安政5年3月1日)- 1940年(昭和15年)2月2日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、漢詩人。衆議院議員、富山県会議長。号・二水(にすい)、鹿陽(ろくよう)。 越中国射水郡掛開発村(富山県射水郡掛開発村大字掛開発村を経て現高岡市)で、町年寄・鷲塚屋七右衛門の息子として生まれた。1879年(明治12年)京都の草場船山に師事し漢文学を修めた。その後、東京で英学を学び、犬養毅らと交友した。 1881年(明治14年)帰郷して海内果から示唆を受け、高岡町片原横町に中等教育塾・越中義塾を設立して教育を行うが、1883年(明治16年)旧制富山中学校(現富山県立富山高等学校)が開校して生徒数が減少し、1884年(明治17年)に塾を閉じた。
三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈18… 三浦 得一郎(みうら とくいちろう、安政3年3月10日〈1856年4月14日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、陸軍副参政官。陸軍軍医監(少将相当官)。 日向国臼杵郡恒富村(現在の宮崎県延岡市)出身。延岡藩校医学館、鹿児島医学校、長崎医学校を経て、陸軍軍医学校を卒業。1883年(明治15年)、陸軍軍医試補に任官し、陸軍軍医補、陸軍二等軍医、陸軍一等軍医と昇進していった。1894年(明治27年)、日清戦争にあたって病院船神祐丸の院長を務めた。1907年(明治40年)12月8日、軍医監に任命された。その間、福岡衛戍病院院長、丸亀衛戍病院院長、医務局衛生課長、関東都督府陸軍軍医部長、第三師団軍医部長を歴任した。
堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3… 堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日)- 1925年(大正14年)1月20日)は、明治から大正期の農業技術者・公吏・政治家。衆議院議員。通称・荘蔵。 豊前国京都郡行事村(福岡県京都郡行橋町を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ、堤兵蔵の養嗣子となる。文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した。 1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力。
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1… 児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞、1852年4月14日〈嘉永5年閏2月25日〉- 1906年〈明治39年〉7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834… 沼田 喜三郎(ぬまた きさぶろう、天保5年3月6日(1834年4月14日) - 大正12年(1923年)12月7日)は、北海道へ開拓民として渡り事業に成功した後、明治27年(1894年)に故郷より18戸を伴って移住し、雨竜郡沼田町の開祖となった人物。 越中国砺波郡新西嶋村(現在の富山県小矢部市新西)の甚三郎の三男として生まれた。12歳で大工の徒弟となり、14歳で庄下村矢木(現在の富山県砺波市矢木)の豪農「根尾家」に奉公人として入り、主人の供をして江戸に出て染工となった。26歳の時、帰郷し、農業に専心。明治元年(1868年)、新西嶋村に分家した。 明治15年(1882年)、喜三郎49歳の時、妻子を残し初めて北海道に渡った。
梨花 ますみ(りか ますみ、4月14日 - )は、宝塚歌劇団… 梨花 ますみ(りか ますみ、4月14日 - )は、宝塚歌劇団月組に所属する女役。月組組長。 大阪府大阪市、夙川学院出身。身長160cm。愛称は「みと」。 1979年、宝塚音楽学校入学。 1981年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に67期生として入団。入団時の成績は20番。花組公演「宝塚春の踊り/ファースト・ラブ」で初舞台。その後、月組に配属。 1996年11月5日付で月組副組長に就任。 2000年8月22日付で花組へ組替えとなり、花組副組長に就任。 2007年12月25日付で専科へ異動となる。 2012年5月28日付で雪組へ異動となり、雪組組長に就任。 2019年2月11日付で再び専科へ異動となる。