朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月… 松平 勇雄(まつだいら いさお、1907年〈明治40年〉6月14日 - 2006年〈平成18年〉4月1日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員、福島県知事を務めた。初代参議院議長などを務めた松平恒雄は叔父。東京都文京区の区議の松平雄一郎は孫。 1907年(明治40年)6月14日、伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男として福島県大沼郡高田町(会津高田町を経て現・同郡会津美里町)に生まれた。旧制目白中学校(現在の中央大学附属高等学校)を卒業し、1933年(昭和8年)に早稲田大学商学部を卒業した。 三菱商事社員、鉄鋼会社社長を経て、1951年(昭和26年)2月12日の参議院補欠選挙に福島地方区から立候補し初当選。
守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 199… 守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身。 岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年5月から1977年6月までに社長を務めた。 1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した。 1990年7月24日呼吸不全のために死去。83歳没。
伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - … 伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - 1963年2月20日)は、元毎日新聞社記者、元プロレス解説者、元ラグビー選手(日本代表キャップ2)。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
新納 太郎(にいの たろう、1905年6月14日 - 199… 新納 太郎(にいの たろう、1905年6月14日 - 1998年9月8日)は、日本の銀行家。八千代銀行頭取、会長を務めた。 徳島県出身。1929年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住宅土地信用購買組合調節社理事に就任。1954年に八千代信用金庫理事長に就任し、1991年に八千代銀行頭取を経て、1994年6月には会長に就任。 1976年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1998年9月8日、消化管出血のために死去。93歳没。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14… 小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14日 - 大正11年(1922年)7月7日)は、日本の教育者。水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職し、全国的な反響を呼んだ。 宮城県刈田郡福岡村(現・白石市)出身。5人兄弟(兄3人・姉)の末っ子で二女。中岡小学校へ入学。3年生の終わり頃に中岡小学校が福岡小学校との合併に伴い福岡小学校に転校する。白石実科高等女学校(現・宮城県白石高等学校)から1918年(大正7年)宮城県女子師範学校(現・宮城教育大学)へ進学。宮城県女子師範学校在学中は3度も級長に選出された。1922年(大正11年)師範学校を卒業し、同年4月4日に宮城県刈田郡宮尋常高等小学校(現・蔵王町立宮小学校)へ訓導として赴任。
瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - … 瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - 1977年7月19日)は、日本の経営者。東京都出身。 1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に住友銀行に入行。1936年2月に住友本社東京支店に出向し、1947年3月に住友商事常務に就任し、1952年6月には専務に昇格した。1956年11月に住友不動産社長に就任し、1974年5月には会長に就任した。経済団体連合会理事も務めた。 1970年11月に勲二等瑞宝章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1977年7月19日気管支肺炎のために死去。77歳没。
望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - … 望月 信成(もちづき しんじょう、1899年6月14日 - 1990年5月28日)は、日本の美術史学者。 1899年、京都府京都市で生まれた。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院は京都帝国大学大学院に進んだ。1929年に京都帝国大学大学院を修了。 卒業後の1929年9月に、恩賜京都国立博物館鑑査員となった。1931年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、1936年に大阪市美術館主事に転じた。 1949年9月に大阪市立美術館館長に任命され、1950年には大阪市立大学教授にも任命された。大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員など多数の役職を兼ね、大阪の文化の発展に尽くした。1965年に大阪市立美術館を定年退職した後は、帝塚山学院大学教授として教鞭をとった。
相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 196… 北川 千代(きたがわ ちよ、1894年6月14日 - 1965年10月14日)は、日本の児童文学作家。筆名に松平鏡子、松平千代子、江口千代、大久保千代子、露おく籬、露子、露香。 没後、日本児童文学者協会により「北川千代賞」が創設された。同賞は1969年から1982年まで存続した。 1894年(明治27年)6月14日、埼玉県榛沢郡大寄村(現・深谷市上敷免)生まれ。父親の俊は日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場長だった。 三輪田高等女学校在学中より『少女世界』『少女の友』に投稿をはじめる。1911年(明治44年)、病気で中退するが『女学世界』より原稿を依頼され、「街はずれの記」で原稿料50円を得る。 1915年(大正4年)11月に両親の反対を押し切り、東京帝国大学在学中の小説家江口渙と結婚。
駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1… 駒村 資正(こまむら すけまさ 1894年6月14日 - 1969年10月22日)は、日本の実業家。政商。大正時代から昭和時代にかけて活動した。 1894年に奈良県に生まれる。1915年に大阪高商(現大阪市立大学)を卒業後、三井物産に入社。綿花を取り扱う綿花部に配属される。1919年に棉花部が東洋棉花として独立した際に移り、海外で棉花の買い付けに従事した。1931年に昭和棉花常務、1945年には江商の社長に就任した。第二次世界大戦後は政財界に面識を広げ、関西財界のみならず全国区の論客としても知られるようになり、通商産業省顧問、大阪商工会議所副会頭、日本綿花協会理事長、経団連常任理事、日本貿易振興会理事長などを歴任した。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月1… 福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月14日 - 1971年(昭和46年)11月13日)は、日本の明治から昭和にかけての社会運動家。大正末から昭和初年にかけての島根の社会主義運動の担い手の多くを育てる。別名福田素顕。 島根県簸川郡久多美村東福(現・出雲市)に生まれる。父・蓮之助は県会議員・県会議長を務めた県政界の有力者であった。1903年(明治36年)、上京して成城中学に入学。1904年(明治37年)11月、普通選挙実現や治安警察法改正を求める平民懇親会(於錦輝館)に参加する。1905年(明治38年)、早稲田大学政治科に入学。清国からの留学生と交流する中で社会主義を受容し、同大学を中退して社会運動に身を投じる。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月… 二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月14日 - 1927年〈昭和2年〉9月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院公爵議員。 公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。当選後は無所属だったが、1922年(大正11年)9月27日、研究会に所属した。 1917年(大正6年)以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年(昭和2年)9月11日、議員在職中のまま死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6… 水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 愛媛県温泉郡道後村(現在の松山市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大蔵属となる。翌年、高等文官試験に合格。1909年(明治42年)より統監府書記官、大韓帝国度支部事務官・大邱財務監督局勤務、平壌財務監督局勤務、朝鮮総督府事務官・平安南道財務部長、同第二部長、度支部関税課長、同税務課長、財務局税務課長、同理財課長・監察官、専売局事務官、営林廠長などを歴任。1925年(大正14年)、専売局長に就任し、1928年(昭和3年)に慶尚南道知事に転じた。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。
津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 19… 津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 1939年12月23日)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授、大阪鐵工所(現・日立造船)取締役会長等を歴任した。 1876年、和歌山県日高郡御坊村(現・御坊市)生まれ。旧制和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年東京高等商業学校 (現・一橋大学)専攻部を卒業。東京高等商業学校校長だった小山健三の娘と結婚した。 1900年から1903年まで欧米に留学し、留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・志田鉀太郎・福田徳三・関一とともに「商業大学の必要」を建議し、東京高商の大学昇格運動を始めた。
岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 … 岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 - 1949年(昭和24年)4月28日)は、明治時代後期から昭和時代前期の土木工学者、鉄道官僚、実業家。 東京市出身。1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、日本鉄道技師となり水戸保線事務所長を発令される。1905年(明治38年)信号や連鎖装置の視察のため欧米諸国の出張を経て、翌年同社が解散すると逓信省鉄道作業局に転じ、ベルリンに学んだ。ついで、帝国鉄道庁技師、鉄道院技師兼内務技師、鉄道院工務局長、鉄道省工務局長を経て、1924年(大正13年)鉄道次官に就任した。 のち実業界に転じ、西武鉄道副社長を経て、1926年(大正15年)同社社長に就任。
原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日… 原 夫次郎(はら ふじろう、明治8年(1875年)6月14日 - 昭和28年(1953年)11月26日)は、日本の政治家、弁護士。島根県知事(1期)、衆議院議員。位階は従四位。勲二等旭日重光章。 島根県楯縫郡、のちの簸川郡檜山村(平田町、平田市を経て現出雲市)出身。和仏法律学校(現・法政大学)仏語法科卒。 明治29年(1896年) 文官高等試験司法科に合格し、以後、判事や検事などを歴任。明治32年(1899年) 弁護士試験に合格。 明治40年(1907年) フランスへ留学(パリ大学、グルノーブル大学)。仏国法学博士を授与される。 帰国後、法政大学講師や司法大臣秘書官を務める。大正元年(1912年) 首相秘書官となり原敬や清浦奎吾らを支える。
根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14… 根来 源之(ねごろ もとゆき、1875年(明治8年)6月14日 - 1939年(昭和14年)4月18日)は、日系アメリカ人[要出典]の労働運動者である。 和歌山県池田村(後の打田町、現在の紀の川市)に生まれる。福沢塾(慶応義塾大学)出身の本多和一郎の門人となり彼が建てた共修学舎で学び、卒業後法学を学ぶために渡米した。カリフォルニア大学に入学し、苦労を重ねながらも法学博士を取得しハワイのホノルルにて法律事務所を開設する。 その後は、日本人のハワイ移民による労働の改善のために1905年に革新同志会を創設し、ホノルル日本国総領事の更迭に貢献した。1908年には人種差別問題による賃金改善の目的で同地で活動る耕地労働者のために、翌1909年までにハワイ移民約7000人の大規模なストライキを起こし首謀者として指導し、後に逮捕され投獄された。
加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月… 加茂 令子(かも れいこ、1871年6月14日(明治4年4月27日) - 1948年(昭和23年)3月5日)は日本の教育者である。 安房国八幡(現・千葉県館山市)に生まれる。父は長尾藩士。渡辺裁縫塾で学び1890年に卒業する。1893年に小学校裁縫専科正教員の免許を取得する。1894年東洋英和女学校(現・学校法人東洋英和女学院)の裁縫教師になる。 1896年東洋英和女学校の寄宿舎監に就任する。J・K・マンローらの指導により、1897年に洗礼を受ける。1936年に引退するまで、42年間教師と舎監を務め、学校の主婦役、母親役であった。
名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治… 名井 九介(みょうい きゅうすけ、1869年6月14日(明治2年5月5日) - 1944年1月23日)は、北海道庁初代勅任技師。工学博士。公益社団法人土木学会第20代会長、名誉会員、勲三等。雨竜電力株式会社顧問。土木学会初代主事。 北海道庁初代勅任技師として土木関係での北海道開発に功績が多い。主なものとして北海道庁旧本庁舎(北海道庁赤れんが)の正面にある道庁前携わる。
今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(… 今村 力三郎(いまむら りきさぶろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日 ) - 1954年(昭和29年)6月12日)は、日本の弁護士であり、元裁判官。専修大学第5代総長。 信濃国(現長野県)下伊那郡上飯田村(現飯田市)に生まれる。旧姓は蜂谷であったが、今村家の養子となって今村姓を名のった。この養子縁組は兵役を逃れるためであった。1884年に上京し、伴正臣大審院(現最高裁判所)判事の玄関番をしながら、1886年に専修学校法律科(現専修大学法学部)に入学する。1888年、在学中に代言人試験(現司法試験)に合格して、専修学校を首席で卒業し、1889年から弁護士としての活動を開始した。1894年から1898年に裁判官として任官した後、1954年に没するまで在野法曹として、民事および刑事の多岐にわたる事件を扱い活躍した。
下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応… 下田 菊太郎(しもだ きくたろう、1866年6月14日(慶応2年5月2日) - 1931年(昭和6年)12月26日)は、日本の建築家。秋田県出身。 アメリカ合衆国の建築設計事務所での勤務後、横浜に建築事務所を開設した。昭和初期の官庁建築等に広く用いられた帝冠様式を初めて提案したことでも知られる。当時の建築界では異色の存在で、自ら「建築界の黒羊」と称した。 1866年、佐竹藩士・下田藤右衛門(幼名、勇助。後に順忠)の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれた。1871年(明治4年)一家で秋田市に転居。明治13年(1880年)秋田師範学校中学予備科に入学したが、1882年(明治15年)6月に中途退学して上京、工部大学校入学を志した。
横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(18… 横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(1860年6月14日) - 昭和17年(1942年)1月20日)は、日本の古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。 長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。 1882年(明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業。農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した。1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された。1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た。
6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日… 6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1944年(昭和19年)10月19日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(3期)。青森県東津軽郡筒井村長。 陸奥弘前藩領津軽郡原別村(青森県東津軽郡原別村を経て現青森市原別)の小笠原家に生まれ、筒井村(筒井町を経て現青森市筒井)の徳差家の婿養子となる。小学校教員、戸長、村連合会議員、学区会議員、同議長、学務委員、村会議員、東津軽郡会議員などを経て、1890年(明治23年)より青森県会議員を3期務めたのち1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。第6回、第7回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政… 浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政6年5月14日) - 1926年(大正15年)2月26日)は、尾張国名古屋出身の発明家。 尾張藩の御用桶業者の浅野文六の次男として、1859年上畠町において生まれる。次男ではあったが、家業を13歳で継ぐこととなる。イギリス製の茶箱に着想し、木材板の製造を志す。1907年(明治40年)、マッチの軸木製造機を元にロータリー式ベニヤ板(浅野式合板)の製造に成功する。この発明に成功した日は11月3日とされており、この日は合板の業界団体である日本合板工業組合連合会とNPO法人木材・合板博物館が共同で「合板の日」として制定している。1910年(明治43年)に特許を取得した。
福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857… 福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日)は、日本のジャーナリスト、政治家、史論家。
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月… 小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、長野県松本市出身の政治家。衆議院議員(自由党)、北海道空知支庁長、初代松本市長。号は雪洲、市隠。 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸(松平丹波守の上屋敷。現在跡地は東京駅構内)で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)8月30日、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導(小学校教員)を務めた。1878年(明治11年)3月27日、教職を辞する。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治12年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた。
内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6… 内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6月14日) - 昭和19年(1944年)11月9日)は、幕末から昭和初期にかけての女性。旧姓は日向(ひなた)。会津藩士・日向左衛門の次女で、旧薩摩藩士・内藤兼備(かねとも)の妻。 会津藩の上士で御旗奉行(後に町奉行)を務めていた父・日向左衛門、母・ちかの次女として会津若松城下に生まれた。 ちかは会津藩士・飯沼粂之進の娘。ちかの姉(ユキの伯母にあたる人物)は藩家老・西郷頼母の妻・千恵子。 元白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方の陸軍軍人・柴五郎は父方のいとこに当たる。 3歳で生母を失い、後に有賀豊之助の妹・秀が左衛門の後妻となる。日向家の近所には、藩砲術師範であった山本権八や、藩大目付であった高木小十郎の家があったことから、彼らの娘である山本八重・高木時尾とは幼馴染であった。
香川 善治郎(かがわ ぜんじろう、1848年6月14日(嘉永… 香川 善治郎(かがわ ぜんじろう、1848年6月14日(嘉永元年5月14日)- 1921年(大正10年)3月7日)は、日本の剣道家。流派は一刀正伝無刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。一刀正伝無刀流山岡鉄舟の高弟。 讃岐国豊田郡古川村(現香川県観音寺市)の中農の二男として生まれる。幼少時に母が他界し、父も病弱であったため祖父母に養育される。祖父磯五郎は武術を好み、自宅に道場を備えていた。 15歳で丸亀藩剣術師範の直清流矢野市之進に入門。3年後の1865年(慶応元年)江戸に出て、田宮流島村勇雄の道場に1年間留学。1866年(慶応2年)に帰郷し矢野から直清流目録を授けられる。その年祖父磯五郎が死去。 1870年(明治3年)、赤心報国党に参加し挙兵を企て捕縛される。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838… 山縣 有朋(やまがた ありとも、新字体:山県 有朋、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家・軍人。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818… 市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。 福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。 清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。
冴樹 高雄(さえき たかお、6月14日 - )は、日本の漫画… 冴樹 高雄(さえき たかお、6月14日 - )は、日本の漫画家。男性。血液型はO型。福岡県出身[信頼性要検証]。別名、牙尾彪(きばお たけし)。中央大学漫画研究会出身で、赤松健やTAGROと交流がある。 劇画調の筆致を得意とする。ジャンルは成人向けの作品が多い。主に『COMIC LO』『コミックPOT(旧コミックライズ)』などで活動中。一昔前の牙尾彪(ヒーロー作品)はアンソロジー本『アンダーカバーボーイズ(「ヒロシとユウ」)』に掲載。 なお当雑誌による、作者の成人向け漫画に極めて特徴的な点として、主人公(ヒロイン)への過激な陵辱描写が挙げられる。『COMIC LO』では、「ラブラブ激甘作品」「ヒーローが肉体関係をもつ(陵辱する)作品」「ヒロインが陵辱される作品」「陵辱を含む別展開作品」「陵辱を含む全く救いが見られない鬼畜作品」(現時点では5種類のみ)等が挙げられる。
幹葉(みきは、6月14日)は、日本の女性歌手、作詞家、声優。… 幹葉(みきは、6月14日)は、日本の女性歌手、作詞家、声優。徳島県出身、血液型はO型。生年は非公表。 2013年1月29日に幹葉がメンバーとして加入したことで、スピラ・スピカの前身バンドであるスノーマンが結成される。 2017年に、現在のバンド名「スピラ・スピカ」に改名し、2018年8月8日にメジャーデビュー。 2021年4月3日からは、FM-FUJIにて放送されているラジオ番組「劇団サンバカーニバル」において番組パーソナリティである劇団ひとりのアシスタントとして林ゆめと共に翌年3月26日まで番組にレギュラーで出演。 2023年Jリーグ・ジュビロ磐田の応援アンバサダーに就任した。 自身がメンバーとして在籍しているバンドスピラ・スピカではボーカルを担当しており、インディーズ時代の楽曲の一部と、メジャーデビュー以降にリリースされたほぼ全ての楽曲の作詞を手掛けている。
後藤 羽矢子(ごとう はやこ、6月14日 - )は、日本の漫… 後藤 羽矢子(ごとう はやこ、6月14日 - )は、日本の漫画家。神奈川県小田原市出身。 主に一般向けストーリー4コマ漫画と、成人向けの雑誌などに短編の実録漫画などを描いている。 ペンネームの由来は「後藤」は2005年当時、内縁の夫となっていた彼氏の苗字から。「羽矢子」は、当初は子供につけようと思っていた名前からと説明していたが、後に漫画で使おうと思っていたキャラクターの名前であると説明を改めた。 少女漫画家佐柄きょうこに師事し、おおばやしみゆきと親交が深い。 原稿を「落とした」ことが無く、単行本作業のため『NAMAIKIッ!』を休んだことが数回あるのみで、連載を予告して休んだこともほとんどない。
亥野 麻紀(いの まき、6月14日 - )は、日本の女性声優… 亥野 麻紀(いの まき、6月14日 - )は、日本の女性声優、歌手。音楽活動表記は亥野 マキ 。大阪府東大阪市出身。 2018年5月20日までスリートゥリーに所属していた。