永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10… 永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10月14日 - 1984年(昭和59年)6月13日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、自治大臣・国家公安委員会委員長、広島県庄原市長を歴任した。勲一等旭日大綬章受章(1969年)。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。庄原市名誉市民(1981年)。 広島県立広島中学校(現・広島県立国泰寺高校)出身で岩畔豪雄と同級。1924年に中央大学法学部予科を卒業後、女子師範学校の教師を務めた。1926年、20代で敷信村(現・庄原市)村長となり、八期務めた。その後、広島県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に昭和会公認で初当選。
田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1… 田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1945年2月26日)は、日本の歴史学者。 1897年、北海道函館市で生まれた。本籍は石川県。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1921年に卒業。 1924年に京城帝国大学予科講師となった。ヨーロッパ留学ののち、1927年に京城帝国大学教授となり、国史学の担当教授となった。1933年から朝鮮総督府の朝鮮史編修会第6編修主任も務め、ついで同会編纂主任を兼任した。1945年に死去。 専門は東洋史で、日本近代外交史、朝鮮近代史の研究を行った。 1882年の壬午軍乱の鎮圧に際して、呉長慶は「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」と述べており、つまり清の東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えており、張謇は『朝鮮善後六策』を作成して、朝鮮は漢の時代は中国の植民地(漢四郡)であったから、李氏朝鮮王を廃止して監国にして属藩とし、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にすることで李氏朝鮮を併合し、「内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」べきとする意見を上申した。
飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10… 飯塚 定輔(いいづか さだすけ、1897年(明治30年)10月14日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 秋田県雄勝郡、のちの羽後町出身。1927年(昭和2年)日本大学法文学部法律学科を卒業した。 協調会嘱託、国務大臣秘書官、立憲民政党政務調査会専門調査員、末広汽船社長、菊谷工業取締役会長などを務めた。1945年(昭和20年)2月14日、従六位に叙される。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で旧秋田県第2区から民主党公認で立候補して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で立候補して初当選。
小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 -… 小菅 宇一郎(こすが ういちろう、1893年10月14日 - 1968年2月14日)は、日本の経営者。滋賀県犬上郡多賀町出身。 1912年に八幡商業学校を卒業。伊藤糸店での勤務を経て、1925年に伊藤忠商事名古屋支店長に就任した。1933年12月に取締役に就任し、1949年12月に社長に昇格した。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年に産業功労賞を受賞し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1968年2月14日脳溢血のために死去。74歳没。
今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14… 小川 蕃(おがわ しげし、1891年〈明治24年〉10月14日 - 1939年〈昭和14年〉9月1日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。京城帝国大学医学部外科学教室外科学第二講座初代教授。朝鮮医学界に大きな貢献をした。 新潟県中蒲原郡津島村大字古津(現 新潟市秋葉区古津)において津島村村長・小川重綽の五男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第二高等学校を卒業、1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業。 東京帝国大学医科大学外科学教室外科学第二講座(担任:近藤次繁教授)副手に就任、1919年(大正8年)12月から神戸三菱造船所病院に勤務、1921年(大正10年)3月に朝鮮総督府医院医官に就任、6月から京城医学専門学校教授を兼任。
星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月… 星野 応韶(ほしの まさつぐ、1890年(明治23年)10月14日 - 1965年(昭和40年)1月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
中尾 脩(なかお おさむ、1889年〈明治22年〉10月14… 中尾 脩(なかお おさむ、1889年〈明治22年〉10月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、地主、鳥取県多額納税者。族籍は鳥取県平民。 鳥取県八東郡若桜村(のち八頭郡若桜村、現・若桜町)出身。中尾徳雄の二男。長兄の夭折により、鳥取中学校を中途退学する。山林業、農業、貸付業を営む。 1916年(大正5年)、若桜町会議員となる。協立銀行若桜支店長、若桜運送社長、八頭木材取締役、八頭銀行取締役をつとめる。 若桜の山林素封家である。名聞利欲に恬淡であり、県会その他実業団体等に乗り出す機会は幾度もあったが、常に固辞してうけず、時流に超然たる態度をとり、自から長者の風格を持していた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
寺倉 正三(てらくら しょうぞう、1889年(明治22年)1… 寺倉 正三(てらくら しょうぞう、1889年(明治22年)10月14日 - 1964年(昭和39年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 岐阜県出身。農業・寺倉祐九郎の二男として生まれる。中学済々黌中退、名古屋陸軍地方幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を優等で卒業した。 1920年(大正9年)4月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、陸軍歩兵学校付(ドイツ出張)、ドイツ駐在、歩兵第37連隊付などを経て、1925年(大正14年)8月、歩兵少佐に進級し歩兵第8連隊付となる。
木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年… 木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年〉10月14日 - 1952年〈昭和27年〉3月13日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。慶應義塾大学医学部外科学教室教授。 新潟県中蒲原郡新津村一之町(現 新潟市秋葉区新津本町4丁目)で全天病院を開業する医師・今井玄秀の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)7月に第四高等学校を卒業、1915年(大正4年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業、1918年(大正7年)2月に京都帝国大学医科大学大学院に入学。 1920年(大正9年)10月に慶應義塾大学医学部外科学教室助手に就任、講師を経て、1922年(大正11年)10月に助教授に就任、1925年(大正14年)9月から1926年(大正15年)9月までヨーロッパとアメリカの病院を視察、1927年(昭和2年)12月に教授に就任、1934年(昭和9年)5月に横浜の警友病院の開設に伴い副院長に就任、1945年(昭和20年)2月に慶應義塾大学病院外科部長に就任、1946年(昭和21年)9月に慶應義塾大学を退職、員外教授に就任、11月に東京都滝野川区滝野川町(現 東京都北区滝野川)の河端病院の開設に伴い院長に就任。
生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月1… 生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月14日 - 1970年(昭和45年)12月8日)は、作家、詩人、女性解放運動家。82年の生涯のうちの14年間、生田春月と同棲した。 徳島県板野郡泉谷村(現・上板町)で、砂糖や藍玉を製造する旧家・西崎安太郎の長女に生まれた。父は村長も務めたが、家は維新後衰えていた。 1903年(明治36年)(15歳)、県立徳島高等女学校2年に編入し、『明星』誌、『文章世界』誌などに投稿した。美しくない容貌と145cmと身長が低いことに劣等感を持っていた。服装は生涯飾らなかった。上京後は貧しい田舎出身者であることも劣等感となった。 卒業後、教員免許を取得し県職員の教員となり、1906年半田小学校の、翌1907年松島小学校の教員となり、病弱の詩人横瀬夜雨に文通の指導を受けて詩作し、『女子文壇』誌に投稿し、同誌の主筆、河井酔茗にも師事した。
飯島 正一(いいじま まさかず、1888年〈明治21年〉10… 飯島 正一(いいじま まさかず、1888年〈明治21年〉10月14日 - 1951年〈昭和26年〉2月10日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の銀行経営者。六十三銀行支配人を振り出しに同社の後身八十二銀行で頭取まで昇った。父は六十三銀行第2代頭取で衆議院議員も務めた飯島正治。 飯島正一は、1888年(明治21年)10月14日、長野県更級郡中津村(現・長野市)に飯島正治の長男として生まれた。飯島家は村の素封家で、父・正治は衆議院議員や長野市に本店を置く県下の有力銀行六十三銀行で頭取(在任期間:1898 - 1921年)を務めた人物である。 1911年(明治44年)に早稲田大学商科を卒業。1917年(大正6年)12月、郷里中津村の村長(第6代)に選ばれた。
石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治1… 石川 節子(いしかわ せつこ、旧姓 堀合、1886年〈明治19年〉10月14日 - 1913年〈大正2年〉5月5日)は日本の女性歌人。石川啄木の妻。 1886年(明治19年)に岩手県南岩手郡上田村(現・盛岡市)上田新小路11番地(現在の岩手大学農業資料館付近)に生まれる。堀合家は南部家臣の家系であり、父・忠操は岩手郡役所に勤めていた。節子が生まれて3年半後の1890年(明治23年)4月に一家は新山小路に転居している。9人兄弟(男子3・女子6)の長姉で、末の弟とは22歳の年齢差があった。すぐ下の妹であるふき子は後述するように、宮崎郁雨の妻となった。 1892年(明治25年)に盛岡第一尋常小学校を、1899年(明治32年)3月に盛岡高等小学校を卒業する。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月1… 小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月14日 - 1976年(昭和51年)12月3日)は、大正・昭和時代の哲学者。ヘーゲル哲学の研究者。東北大学名誉教授。 1884年(明治17年)10月14日、埼玉県北足立郡鴻巣宿で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で、ドイツ哲学を中心とした西洋哲学をラファエル・フォン・ケーベルについて学んだ。同期生には、安倍能成、伊藤吉之助、宮本和吉らがいた。1909年(明治42年)、同大学を卒業。 卒業後は、海軍大学校、慶應大学、東北帝国大学理学部などで講師を務めた。1915年(大正4年)3月5日、板垣退助伯爵の五女、良子と結婚。1921年(大正10年)、ヨーロッパへ留学。
加藤 武夫(かとう たけお、1883年10月14日 - 19… 加藤 武夫(かとう たけお、1883年10月14日 - 1949年4月23日)は、日本の鉱床学者・地球科学者。学位は、理学博士(1924年)。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員。 東京生まれ。劇作家加藤道夫は子供、小説家加藤幸子は孫にあたる。 役人の四男として神奈川県小田原市で生まれ、山形の資産家の養子となる。 東京帝国大学地質学科を1907年に卒業、フライベルク鉱山大学に留学(1909年 - 1911年)。明治専門学校教授(1911年 - 1920年)を経て、東京帝国大学教授(1920年 - 1944年)。1943年帝大理学部長、1945年名誉教授となる。 1924年、柵原鉱床の研究で理学博士。
大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月… 大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月14日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる。両替町(現: 城南町)に分家した。早稲田大学を修了後、欧米に遊学した。 1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った。
東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日… 東恩納 寛惇(ひがおんな かんじゅん、1882年10月14日 - 1963年1月24日)は、沖縄の歴史学者・郷土史家・沖縄史家。東京帝国大学卒業。旧制府立高等学校、法政大学、拓殖大学各教授、拓殖大学図書館長、拓殖大学第一高等学校四代校長。沖縄県那覇出身。 1882年10月14日、新参慎氏の父東恩納寛裕母真呉勢の四男として沖縄県那覇東町に生まれる。沖縄県中学校(現・沖縄県立首里高等学校)、第五高等学校文科(現・熊本大学)を経て、1908年に東京帝国大学文科大学史学科卒業。東京府立一中教諭、高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員、府立高等学校や法政大学、拓殖大学等の教授を務めた。死後、琉球新報社によって「東恩納寛惇賞」が創設された。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日… 水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日 - 1941年(昭和16年)6月26日)は、岡山県出身のアマチュアの天文愛好家。東亜天文協会(現東亜天文学会)名誉会員、倉敷天文台主事として天文の普及に努めた。その功績が認められ1925年9月、小惑星1993TMにMizunochisatoと命名された。 水野千里は1878年(明治11年)10月14日、岡山県岡山市に6男2女の長兄として生まれる。実弟に水野浩四がいる。父は千代之介(後に漸と改名は邑久郡郡長として地方行政に尽力した。) 水野は1893年(明治26年)岡山中学校に入学、この頃より星空に親しみ始める。1899年(明治32年)3月同中学を卒業。
松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10… 松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10月14日 - 昭和29年(1954年)10月8日)は、日本の商法学者(憲法学者ではない)。東京府士族。法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日… 阿部 茂雄(あべ しげお 1876年(明治9年)10月14日 – 没年不明)は、日本の裁判官。
塩田 広重(しおた ひろしげ、旧字: 鹽田 廣重。1873年… 塩田 広重(しおた ひろしげ、旧字: 鹽田 廣重。1873年10月14日 - 1965年5月11日)は、日本の外科医。貴族院勅選議員、日本医科大学学長。 1872年、京都府宮津市で誕生。1888年、大阪の第三高等学校予科の試験に合格するも、東京の一高を目指すために退学。上京し、駿河台にあった予備校の成立学舎にて学び、坪内逍遥らに学ぶ。1890年、第一高等学校予科に入学。1895年、東京帝国大学医学部に入学。1899年、東京帝国大学医学部卒業。病理学教室で三浦守治、山極勝三郎の両教授の下で学んだ後、佐藤三吉教授の外科に移った。そこでユリウス・スクリバや近藤次繁の指導を受けた。 東京帝国大学医科大学助手、済生学舎講師を経て、1902年東京帝国大学医科大学助教授。
若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、187… 若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、1873年(明治6年)10月14日 - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 京都(現:上京区岡松町)で華族・若王子遠文の長男として生まれた。父の死去に伴い、1898年(明治31年)3月2日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、東京府属となる。その後、有隣生命保険重役、箱根土地監査役、日本大博覧会評議員、奉仕会副会長などを務めた。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年… 信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和37年(1962年)11月1日)は、日本の外交官・法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員、中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章。 1871年、鳥取県生まれ。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した。そのためどういう母親だったかの記憶はない。 旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年… 本山 白雲(もとやま はくうん、明治4年9月1日(1871年10月14日) - 昭和27年(1952年)2月18日)は、日本の彫刻家。高知市桂浜で悠然と太平洋の彼方を望んで立つ坂本龍馬の巨大な銅像(総高約15m)は、白雲の代表作である。本名は本山辰吉で「白雲」は雅号。彫塑が巧みで土佐のミケランジェロと呼ばれた[要出典]。 明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。
佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3… 佐柳 藤太(さやなぎ とうた、1870年10月14日(明治3年9月20日) - 1925年(大正14年)2月24日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、熊本市長、小樽市長。 讃岐国多度郡(後に仲多度郡豊原村、現:多度津町)で生まれる。第三高等学校を経て、1892年、東京法学院(現:中央大学)を卒業。1894年、弁護士試験に合格。1895年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1896年、内務省に入り県治局属となる。 以後、新潟県内務部第一課長、山形県内務部長、福岡県事務官・内務部長などを歴任。 1912年12月、滋賀県知事に就任。1914年4月、千葉県知事に転じた。米作、教育、社会教育の振興に尽した。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2… 海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2年9月10日) - 1931年(昭和6年)6月6日)は、土佐国土佐郡比島(現在の高知県高知市比島)出身で友綱部屋(入門は大坂相撲の猪名川部屋)に所属した大相撲力士。本名は笠井 兎之助(かさい とのすけ、外之助とも)。身長173cm、体重99kg。怪力で知られ、得意手は、小手投げ、すくい投げ、合掌捻り。最高位は関脇。二所ノ関一門の源流を創り上げた。 板垣退助の知遇を得て、高知市潮江新田の板垣邸内の角力場で稽古を積む。大坂相撲の猪名川部屋に入門し、鏡川の四股名を名乗る。1890年(明治23年)5月、板垣退助の推薦により同郷の初代海山太郎が師匠を務める東京の友綱部屋へ移籍、序二段付出となる。
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年… 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 - 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元… 岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位、男爵。 久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。 1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。
川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(… 川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。
井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年1… 井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 常陸国水戸にて水戸藩士の子として生まれた。幼名は亮太郎。藩の俊才が学ぶ自彊舎に入学し水戸学と漢書を学び、さらに栗田寛の彰考館にて『大日本史』の資料編集に従事したが、次第に洋学を志し彰考館を辞めることになる。このころ福澤諭吉と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己が福沢の依頼で優秀な若者を探していたが、井坂はこの推薦する4人の中に選ばれ、明治14年(1881年)に石河幹明、高橋義雄らと共に慶應義塾に入学する。在学中は福沢諭吉の家に寄宿し、優秀な成績を修めた。
石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政… 石谷 源蔵(いしたに げんぞう、1858年10月14日〈安政5年9月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉1月31日)は、日本の林業家、政治家、実業家。因幡木材合資会社代表社員。鳥取電燈常務取締役。族籍は鳥取県平民。智頭杉で知られる「智頭林業育ての親」とされる。 1858年10月14日(安政5年9月8日)、因幡国智頭郡智頭宿(現・鳥取県八頭郡智頭町)に生まれた。庄屋を務めた石谷槌五郎の長男である。 文化文政期頃、祖父の代から石谷家は植林を進めていた。源蔵は後に石谷家の家督を相続し、林業近代化と地域振興に尽くした。大和国吉野地方(現・奈良県)を訪れて実生苗の生産や造林技術の研究を行い、スギの実生苗の大量生産に成功した。
阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4… 阪田 貞一(さかた ていいち、1857年10月14日(安政4年8月27日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、明治-大正期の日本の工学者。 江戸(後の東京府東京市、現・東京都区部)生まれ。阪田長十郎の二男、阪田貞明の叔父。工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)卒業。1890年、欧米に留学し機械工学を研究。帰国後、東京工業学校教授。のち同校の校長や後身の東京高等工業学校(現: 東京工業大学)校長などを務めた。 日本機械学会の第3、15、18、20、23期幹事長を務めた。 1920年12月1日、胃潰瘍の療養中に心臓麻痺で死去、享年63歳。
立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政… 立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政4年8月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。『破戒』(島崎藤村)に登場する市村代議士のモデルといわれる。 1857年(安政4年)、淡路国三原郡立川瀬村(後賀集村、現兵庫県南あわじ市賀集立川瀬)で、立川伝平の長男として生まれる。伝平は百姓出身だが足軽の株を買って洲本に移った。雲平は洲本の藩校を経て、1871年、徳島師範学校入学。1876年、京都へ遊学。岸田俊子、小室信介など民権派の人々と交遊関係を深める。1881年、明治法律学校入学。1882年、代言人試験合格。翌年、郷里で弁護士事務所を開業。
宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日… 宮崎 道三郎(みやざき みちさぶろう、1855年10月14日(安政2年9月4日) - 1928年(昭和3年)4月18日)は、三重県津市出身の法学者。法学博士。東京帝国大学教授(法制史)。日本法律学校(現・日本大学)創立者(総代)。 1855年(安政2年)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現在の三重県津市)にて出生。藩校有造館で漢籍や国史などを学んで、1872年(明治5年)に上京。日本法律学校(現日本大学の前身)の創立時には、設立評議員の一人である司法大臣山田顕義らによって、宮崎は若手の法律学者11名とともに設立者の代表として創立に深く関与している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(… 林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(天保14年9月21日) - 1899年(明治32年)9月5日)は、明治時代滋賀県の政治家。 1843年10月14日((旧暦)天保14年9月21日)、近江国甲賀郡相模村(現甲賀市)に生まれる。1872年(明治5年)甲賀郡第7区副区長、1874年(明治7年)同区長に選ばれ、地租改正時には甲賀郡総代として地価軽減運動に奔走した。1880年(明治13年)、第一回県議会が大津南町(現大津市)顕證寺において開かれ、騰九郎は甲賀郡選出県会議員として参加した。1884年(明治17年)4月9日の県会において騰九郎は「農商学校」設立建議案を提出し、これが後の滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)設立に繋がる。
田中 美都(たなか みと、10月14日 - )は、日本の気象… 田中 美都(たなか みと、10月14日 - )は、日本の気象予報士。 埼玉県桶川市出身。埼玉県立浦和第一女子高等学校、学習院大学卒業。 大学卒業後は江崎グリコに就職。2018年3月に気象予報士の資格を取得し、同年6月よりウェザーマップに所属する。
華雪 りら(はなゆき りら、10月14日- )は、宝塚歌劇団… 華雪 りら(はなゆき りら、10月14日- )は、宝塚歌劇団宙組に所属する娘役。
羽立 光来(はりゅう みつき、10月14日生)は、宝塚歌劇団… 羽立 光来(はりゅう みつき、10月14日生)は、宝塚歌劇団花組の男役。公称身長178cm。香川県出身。愛称は「びっく」「みつき」。血液型O型。
祖山 桃子(そやま ももこ、10月14日 - )は、日本の女… 祖山 桃子(そやま ももこ、10月14日 - )は、日本の女性声優。埼玉県出身。青二プロダクション所属。 大阪芸術大学芸術学部放送学科卒業。 中学、高校時代は合唱部に所属していた。 2011年に創設された大阪芸術大学の放送学科声優コースの第1期生である。 趣味は歌唱、洋画・海外ドラマ鑑賞、ハリウッド女優モノマネメイクである。 青二プロダクションの同期にれいみがいる。 太字はメインキャラクター。
中井 友紀(なかい ゆうき、10月14日 - )は、青森朝日… 中井 友紀(なかい ゆうき、10月14日 - )は、青森朝日放送のアナウンサー。 愛知県名古屋市出身。中京大学卒業。大学在学時には東京アナウンスセミナーに通っていた。 2011年4月に青森朝日放送に入社し、同局のアナウンサーになる。社外では、ヴァンラーレ八戸FCのスタジアムDJを務めることもある。 Category:青森朝日放送のアナウンサーを参照 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。