團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 … 團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 - 1973年〈昭和48年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 1892年(明治25年)、三井合名会社理事長團琢磨の長男として、福岡県大牟田市に生まれる。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年(昭和16年)に團の都内別邸として建てられたものである。
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甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月… 甘蔗 義邦(かんじゃ よしくに、1891年〈明治24年〉2月21日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岐阜県に川上貞蔵の四男として生まれ、甘蔗義尭の養子となった。東京帝国大学法科大学政治科に学び、在学中の1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年卒業した。朝鮮総統府試補、道事務官、平安南道財務部長、江原道警察部長、朝鮮総督秘書官を歴任し、1929年(昭和4年)に欧米各国に出張した。帰国後、警務局衛生課長、咸鏡南道内務部長、江原道内務部長を経て、1934年(昭和9年)に平壌税務監督局長に就任した。1936年(昭和11年)より京城府尹に、1937年(昭和12年)より京畿道知事となった。 1940年(昭和15年)に退官した後は、朝鮮放送協会会長を務めた。
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吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
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篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
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池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1… 池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1974年12月25日)は、愛媛県出身の俳人。高浜虚子の兄池内信嘉の長男として松山市に生まれる。能楽の新興に務めた家風にならい当初は能楽師を志したが断念、1913年頃より虚子門に入り、「ホトトギス」発行所に務めながら虚子の指導を受けた。1932年「欅」を創刊・主宰。代表句に「仰向きに椿の下を通りけり」。大正中~後期の「ホトトギス」沈滞期に活躍した作家で、虚子の客観写生を忠実に実践。虚子は「平淡にして滋味がある」とその句風を評した。句集に『たけし句集』『赤のまんま』『その後』『父から聴いた話』『叔父虚子』などの著書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
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阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月2… 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めてであった。 侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され、陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。
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高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月… 高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月21日 - 没年不明)は、日本の政治家。千葉県市川市長。医学博士、内科医。 山梨県出身。1911年(明治44年)岡山医学専門学校(のち岡山医科大学、現在の岡山大学医学部)卒業。卒業後は佐々木杏雲堂病院医長、岡山医学専門学校、岡山医科大学各講師となる。1923年(大正12年)千葉県東葛飾郡市川町で開業する。翌年学位を受ける。 その後、市川市医師会長を経て、1944年(昭和19年)3月市川市長に就任。市長に就任してから戦況は悪化の一途をたどり、終戦を迎えた。終戦後は市長として戦後の処理に当たっていたが、1946年(昭和21年)に市長を辞職した。
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土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月2… 土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉10月2日)は、日本の論理学者、古神道学者、郷土史家。東京帝国大学助教授、神宮皇学館教授、旧制成蹊高等学校校長。 1887年(明治20年)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)に生まれる。秋田師範学校では田村徳治・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。1907年(明治40年)、同校を卒業し、東京高等師範学校英語科を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した。井上哲次郎の門下生であった。東京帝国大学大学院へと進み、1919年(大正8年)、東京帝国大学文科大学助教授となる。
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八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年… 八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年〈明治19年〉2月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日本の水利技術者。 1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義・台南・高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。
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川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月2… 川本 増雄(かわもと ますお、1885年〈明治18年〉2月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。郡山信用金庫専務理事。華道衡山流家元。号は見真斉一舟(けんしんさいいっしゅう)。 奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺町(現・大和郡山市洞泉寺町)に生まれる。川本増蔵の長男。郡山中学校を卒業する。貸座敷業を営む。遊廓改善等に奮闘努力する。 郡山町会議員に7回当選する。郡山信用金庫専務理事、奈良地裁調停委員、司法保護委員、郡山町農業会長をつとめる。 青年時代、非常な運動家で、特に野球の選手として活躍した。趣味は書画、骨董、読書。住所は奈良県生駒郡郡山町大字洞泉寺(現・大和郡山市洞泉寺町)。
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久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 … 久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1962年〈昭和37年〉8月7日)は、日本の建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任。旧制堺中学校、東京帝国大学建築学科卒。従四位。
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山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月… 山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉7月2日)は、日本の書道家。本名は南寿、字は穆卿。 秋田県北秋田郡大葛村(現在の大館市)出身。1905年に秋田県師範学校を卒業し、土崎尋常高等小学校に勤務した。土崎尋常高等小学校在職中に書道を学び、1912年に上京し日下部鳴鶴に入門した。1918年に文部省習字科試験に合格した。日本美術協会第1回展覧会に出品して入賞してから各展覧会で賞を受けた。日本書道作振会第二回展覧会には、久邇宮殿下が台臨のときに御前揮毫を行った。 1936年には秋田書道展主査となり、1962年まで務めた。1939年には興亜書道連盟理事となった。
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橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21… 橋爪 勇(はしづめ いさむ、1880年(明治13年)2月21日 - 没年不詳)は、佐賀市長。弁護士。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年、司法官試補となる。1911年(明治44年)に長野地方裁判所判事、米子区裁判所判事となったが、翌年に退官した。退官後は佐賀市で弁護士事務所を開業し、また高取鉱業株式会社監査役・肥前電気株式会社取締役も務めた。1916年(大正5年)、佐賀市会議員に当選し、副議長、議長を歴任した。 1936年(昭和11年)、佐賀市長に選出され、1946年(昭和21年)まで務めた。その後、公職追放となった。
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永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日… 永井 幸次(ながい こうじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は日本の音楽教育者。大阪音楽学校(現大阪音楽大学)設立。
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田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日… 田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日 – 没年不詳)は、東京市区長、医師。 高知県高岡郡尾川村(現在の佐川町)出身。東京帝国大学医科大学選科で学び、医術開業免状を得た。神奈川県で開業した後、伝染病研究所に技師として勤務した。1902年(明治35年)、香港政庁に招聘されペスト対策に従事した。帰国後、徳島県技師、大分県技師、群馬県技師、内務省検疫官を歴任した。1921年(大正10年)、東京市に転じ、衛生課長、本所区長、浅草区長、日本橋区長、保険局長を務めた。
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川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
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三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21… 三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21日 - 1916年(大正5年)8月7日)は、衆議院議員(立憲同志会)、弁護士。 島根県那賀郡浜田町(浜田市)出身。山口高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。卒業後は司法官となり、岡山区裁判所判事、京都区裁判所兼地方裁判所判事を歴任した。1904年(明治37年)に退官した後は、京都市で弁護士・弁理士・破産管財人として活動した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
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戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2… 戸津 高知(とつ たかとも、明治5年1月13日(1872年2月21日) - 1959年12月30日)は、日本の政治家、教育者。学校法人北海学園元理事長であり、札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)の創設者。 1872年、伊達藩士の長男として仙台に生まれた。北海英語学校を経て、1890年に札幌農学校に進学。 卒業後は、札幌尋常中学校に教諭として勤務。1901年、浅羽靖に望まれて北海英語学校中等部教頭に就いた。1915年、北海中学校校長に就任。また同1915年からは財団法人北海中学校理事(1923年まで)。 1920年、札幌商業学校(戦時中、札幌豊陵工業学校と改名)が創設となると、初代校長に就任。
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深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4… 深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4年1月3日) - 1934年(昭和9年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。深川製磁創業者、元有田町長。有田焼の輸出を進め、パリ万国博覧会金賞金牌やセントルイス万国博覧会一等賞金牌を受賞。 当時の肥前国有田(現・佐賀県有田町)出身。8代深川栄左衛門の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1887年に独立して陶磁器製造販売業を営む。1894年に深川製磁を設立。ヨーロッパ人の陶磁器愛好家の好みに合わせてアレンジした大花瓶を、1900年のパリ万国博覧会に出展し金賞受賞。同年よりボールトン・アンド・ワットを代理店としてヨーロッパでの販売展開を進めた。
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尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年… 尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。
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長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年… 長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。 内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。 帰国後、1893年に開業。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。
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野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応… 野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応2年1月7日(1866年2月21日) - 昭和16年(1941年)8月1日)は、日本の衆議院議員(山下倶楽部)。国際法学者。 慶応2年1月7日(1866年2月21日)下野国芳賀郡下籠谷村(現在の栃木県真岡市)で野澤泰次郎の長男として生まれる。泰次郎は下野紡績株式会社や千住煉瓦株式会社を経営するほか、栃木県議会議員も務めた実業家である。その父の意向を受けて、品川弥二郎に従い織物研究のためドイツに留学し、1888年(明治21年)、ドイツのミュールハイム市工業学校を卒業する。しかし、経緯は不明であるが、スイスに渡り、1895年(明治28年)にジュネーヴ大学で法学を学び卒業する。
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小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年… 小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年1月26日) - 1930年(昭和5年)7月11日)は、日本の化学者。東北帝国大学総長兼教授。 松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学ぶ。1890年6月から1896年8月にかけて、静岡県尋常中学校で数学・物理・化学の教員を務めた。ロンドン大学のラムゼー研究室に留学。 2年間の留学中、トリウム鉱石のトリアナイト(方トリウム石、ThO2)の中に新元素を探す研究を行った。1906年の帰国後も研究を続け、1908年、「原子量が約100の43番目の元素」を発見し、ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したと発表した。
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石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年… 石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年2月21日) - 大正12年(1923年)10月18日)は、日本の鉄道官僚、工学博士。貴族院勅選議員。 豊後国臼杵城下(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士石丸袈裟蔵の長男として生まれる。幼名は袈裟次郎。慶応2年1月14日、7歳の時に漢学者の菊川南峰から教えを受ける。8歳で重美に改名。南峰と共に各地を遊学し、11歳で帰郷し、藩校に入学した。1876年から洋学を志し、南峰の反対や家計の問題があったが、母に嘆願し学費を貰いなんとか上京した。 同郷の荘田平五郎の家に寄宿し、1884年(明治17年)、三菱商業学校に入学するが間もなく廃校となったため、神田区の共立学校に転じた。
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山科 礼蔵(やましな れいぞう、1864年2月21日(元治元… 山科 礼蔵(やましな れいぞう、1864年2月21日(元治元年1月14日) - 1930年(昭和5年)8月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 広島県出身。御調郡三原町(現三原市)生まれ。和学、漢学、英語、経済学及び工学を学ぶ。英語は土井百穀(善右衛門)の私塾・遷喬舎で、漢学は長谷川桜南の桜南舎で学んだ。 日本輔仁会を創立し、会長となる。1884年に上京し、郷産物販売の吉備商会と海事工業の山科海事工業所を設立し、築港、架橋、船渠、岩礁破砕、難破船の引揚及び埋立等の事業に従事する。また、海事工業(株)取締役、山科汽船(株)監査役、東京商業会議所議員、同副会頭となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において広島県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。
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小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年… 小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年1月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉7月5日)は、明治から大正にかけての日本の教育者。長らく東京盲唖学校および東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した。 1854年(安政元年)に越後で生まれる。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。 1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。
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和田 秀豊(わだ しゅうほう、嘉永7年1月24日(1854年… 和田 秀豊(わだ しゅうほう、嘉永7年1月24日(1854年2月21日) - 昭和21年(1946年)7月27日)は、日本の牧師。幕末期の薩摩藩士。日本における社会福祉事業のパイオニアの一人。慰廃園代表、東京同愛盲学校(現・ヘレン・ケラー学院)校長、海軍兵学校教授。 和田英作は長男。和田秀穂は次男。 1854生大隅国肝属郡垂水郷に薩摩藩士の家に生まれる。父は島津家100万石の垂水藩家老職という家柄である。 1872年に上京し、慶應義塾で福沢諭吉に薫陶を受けて、1876年まで慶應義塾に学ぶ。続いて、当時海軍兵学校の中教授であった粟津高明の塾で学ぶ。 1874年(明治7年)2月に東京・築地に開設された立教学校(現・立教大学)の1期生として学ぶ。
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伊藤 修(いとう おさむ、1852年2月21日(嘉永5年2月… 伊藤 修(いとう おさむ、1852年2月21日(嘉永5年2月2日) – 1925年(大正14年)6月17日)は、日本の政治家。高知市長。 土佐国高知城下で伊与木正猪の四男に生まれる。その後、浦戸町(高知城下)の伊藤怡然の養子となる。土佐郡朝倉村12ヶ村戸長になるが、1889年(明治22年)町村制の施行により、廃職となる。同年、高知市の発足により、高知市会議員となる。1891年(明治24年)高知市参事員、1893年(明治26年)土佐郡会議員となる。1895年(明治28年)高知市議に復帰、翌年副議長となる。1897年(明治30年)2月高知市会議長となるが、3月に高知市助役に就任。高知市長一圓正興の元で務めた。
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高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2… 高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2月21日〉 - 大正10年〈1921年〉12月26日)は、明治大正期の機械貿易商。勲三等。墓は谷中霊園。 高田商会創業者。旧幕府佐渡奉行の下級官吏、支配地役人組頭で広間役だった天野孫太郎の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)に生まれる。4歳で父の同僚高田六郎の養子となる。14歳にして慶応元年(1865年)佐渡奉行所に出仕見習いから、公事方書役となる。戊辰戦争(1868年)時には新政府に対抗する中山信安の迅雷隊に名を連ねたが、明治維新後、新政府の相川鉱山下調役となり、英国公使のパークスやお雇い外国人エラスムス・ガウワーらの佐渡金山視察に遭遇し、英語の必要性を感じる。
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井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1… 井手 毛三(いで もうぞう、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1929年(昭和4年)9月15日)は、明治から昭和初期の政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県真庭郡落合町長。 美作国真島郡西河内村(岡山県真島郡瀬田河村大字西河内、真庭郡瀬田河村、落合町を経て現真庭市西河内)で、庄屋・井手勘三郎の長男として生れた。親族の山田方谷、その他、進祥山、三島中洲らに師事して漢学を修めた。 1874年(明治7年)副戸長に任じられ、戸長、久米北条郡区長などを歴任し、1877年(明治10年)父の出身地英田郡区務所長となる。1878年(明治11年)4月、共之社に加わり、1879年(明治12年)12月、国会開設建言書提出の作州総代に選出され元老院に提出した。
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平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永… 平田 力之助(ひらた りきのすけ、1850年2月21日(嘉永3年1月10日)- 1932年(昭和7年)10月1日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 伊勢国朝明郡、のちの三重県三重郡大矢知村(現四日市市)で生まれる。漢学、英学、普通学を学び、1888年(明治21年)慶應義塾を卒業。農業、商業を営む。 大矢知村会議員、学務委員、三重郡会議員、三重県会議員を務めた。一貫して自由党系政党に所属し、地価修正、地租軽減に尽力した。 和波久十郎の失職に伴い、1900年(明治33年)11月に実施された第6回衆議院議員総選挙三重県第3区補欠選挙に出馬して初当選し、その後、第8回まで再選され、衆議院議員に連続3期在任し、この間、政友会院内主事などを務めた。
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中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1… 中西 光三郎(なかにし みつさぶろう、弘化2年1月15日(1845年2月21日) – 明治43年(1910年)7月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡井ノ口村(現在の和歌山県紀の川市)の豪農の家に生まれた。1862年(文久2年)、父の跡を継いで庄屋となり、1872年(明治5年)に大区小区制が実施されると区長に就任した。1879年(明治12年)、県会制度が制定されると初代副議長に選出された(議長は濱口梧陵)。1881年(明治14年)、議長に就任。同年、木国同友会という政社を結成し、濱口会長のもと副会長に就いた。やがて松本鼎県令と対立し、松本は懐柔のため郡長就任をたびたび要請した。
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米倉 一平(よねくら いっぺい、1831年2月21日(天保2… 米倉 一平(よねくら いっぺい、1831年2月21日(天保2年1月9日) - 1904年(明治37年)6月1日)は、幕末の勤皇論者。明治時代の米穀商、実業家。 1831年(天保2年)正月9日、豊後国日田郡陣屋廻村(現在の大分県日田市)の農家米倉市右衛門の9男として生まれる。幼名は永一。幼少より優秀であったと言う。1842年11歳で父を失い、11月日田豆田町の商家草野忠右衛門家で奉公する。23歳となる1854年まで12年にわたり同家の奉公を続け、商業の知識を得た。暇を乞い実家に戻り、朝から晩まで行商を行い、独立する機会を窺った。 長州征伐の際、西国郡代の窪田鎮勝が幕府軍を助けるために小倉に出張すると、米倉は命を受けて小倉に向かい兵糧炊き出しを掌った。
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小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813… 小河 一敏(おごう かずとし、文化10年1月21日(1813年2月21日) - 明治19年(1886年)1月31日)は、堺県知事、宮内省御用掛。通称は弥右衛門。 岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれた。朱子学・陽明学を学び、また詩歌や文章も善くし、早くから尊皇攘夷の志をいだいた。嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリーによる黒船来航を機に九州地方北部の各地を遊説して久留米藩の真木和泉や熊本藩の宮部鼎蔵らと交わった。安政6年(1859年)には気吹舎に入門して国学の徒となり、平田銕胤嫡男平田延胤とは懇意の間柄にあった。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、薩摩藩と結んで倒幕を画策して挙兵を図るが文久2年(1862年)の寺田屋騒動で挫折した。
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柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
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大塚 美幸(おおつか みゆき、2月21日 - )は、日本の女… 大塚 美幸(おおつか みゆき、2月21日 - )は、日本の女性アナウンサー。女性起業家。
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渡邉 りか子(わたなべ りかこ、2月21日- )は、日本の女… 渡邉 りか子(わたなべ りかこ、2月21日- )は、日本の女優、映画監督。 福岡県出身。日本大学藝術学部映画学科演技コース卒業(2016年)。1046 INC. 所属。 旧芸名 渡邉 梨香子。 小学校低学年の時に地元・福岡で劇団四季の「ライオンキング」を観て俳優を目指す。その後、地元の児童劇団に入団し、子役としてミュージカル等に出演。 日本大学藝術学部映画学科演技コースに進学。在学時はコメディ作品に多く出演。 大学卒業後は映画24区が運営する俳優スクールで第4期特待生として訓練を積む。同期に西野凪沙がいる。 映画「夏、至るころ」(池田エライザ監督)にアシスタントプロデューサーとして参加、映画製作に興味を持つ。
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花野 じゅりあ(はなの じゅりあ、2月21日 - )は、元宝… 花野 じゅりあ(はなの じゅりあ、2月21日 - )は、元宝塚歌劇団花組の娘役。元花組副組長。 東京都中野区、順心女子学園中学校出身。身長164cm。愛称は「じゅりあ」。 1998年、宝塚音楽学校入学。 2000年、宝塚歌劇団に86期生として入団。入団時の成績は26番。花組公演「源氏物語 あさきゆめみし/ザ・ビューティーズ!」で初舞台。組まわりを経て花組に配属。 2015年12月28日付で花組副組長に就任。 2019年4月28日、仙名彩世退団公演となる「CASANOVA」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。 退団後は美容スクールでメイクを学び、現在はフリーのヘアメイクアップアーティストとして活動している。
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圓山 詩織(まるやま しおり、2月21日 - )は、日本のフ… 圓山 詩織(まるやま しおり、2月21日 - )は、日本のフリーアナウンサー。ジョイスタッフ所属。 福井県出身。北陸高等学校、椙山女学園大学文化情報学部卒業。高校時代にはフェンシング部に所属し、2000年に全日本選手権のジュニア・オリンピック・カップ・フェンシング (JOC) に出場している。 大学を卒業後、2005年に福井テレビジョン放送 (FTB) に入社。同局在籍時には自社製作番組のほか、フジテレビの『27時間テレビ』や『女子アナスペシャル』にも出演。また、2007年には系列局アナウンサーの三都井美衣(当時富山テレビアナウンサー)、渡辺亜里(当時石川テレビアナウンサー)とともに、映画『茶々 天涯の貴妃』に豊臣秀吉の側室役で出演した。
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山後 美奈子(さんご みなこ、2月21日 - )は、秋田放送… 山後 美奈子(さんご みなこ、2月21日 - )は、秋田放送のディレクター、元アナウンサー。 秋田県秋田市出身。旧姓:大沢(おおさわ)。夫は同じく秋田放送社員(1987年当時は報道部所属)。結婚後も1989年までは大沢姓で活動していた。 アナウンサー時代にはラジオ番組『ABSどんぱんワイド80分』や『あさ採りワイド秋田便』『ABSおはようワイド』『ヤスオとミナコのナマナマ歌謡曲』『まっぴる御免! 歌謡りくうえすと』などのパーソナリティを務めていた。また、2004年には『歌のない歌謡曲』のパーソナリティを務めていた。『ABSどんぱんワイド80分』のパーソナリティー時代には「五城目のトメさん」のナレーションも務め秋田県民を笑いの渦にまきこみ話題を呼んだ。
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