酒井 忠夫(さかい ただお、1912年3月25日 - 201… 酒井 忠夫(さかい ただお、1912年3月25日 - 2010年2月19日)は、日本の中国史学者。 1912年、福井県坂井郡棗村小幡(現・福井市)で生まれた。東京高等師範学校を経て、東京文理科大学東洋史学科に進学。1935年に卒業。 修了後は、中華民国・東亜研究所に勤務。敗戦で引き揚げ帰国。 1961年、学位論文『中国善書の研究』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。東京教育大学教授を務め、1975年に定年退官し、東京教育大学名誉教授となった。その後は、シンガポール南洋大学客員教授。1976年より立正大学教授を務め、1982年に退任した。2010年に死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - … 磐城 徳枩(ばんじょう とくまつ、1912年3月25日 - 1942年6月2日)は、昭和時代の大相撲力士。二十山部屋所属。本名は小野 徳松。197cm、113kg。最高位は十両2枚目。 宮城県亘理郡亘理町出身。二十山部屋に入門し、1929年1月、「小ノヶ嶽」(後、小野ヶ嶽)の四股名で初土俵を踏む。2m近い体格で早くから有望視された。1932年5月十両昇進。6場所連続十両の地位にあったが、1935年1月幕下に落ちた。翌5月に十両に復帰、四股名も「磐城」に改めた。十両は4場所いたが、1938年1月再び幕下に落ち、「春風」と改名。その後は幕下の地位にあった。1942年1月に廃業し、同年6月に満30歳で死去した。
大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-199… 大内田 正(おおうちだ ただし、1911年3月25日-1998年3月5日 )は、日本の経営者。日立建機社長、会長を務めた。 福岡県出身。1933年に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に日立製作所に入社。 1963年11月に取締役に就任し、1968年11月に常務を経て、1970年9月に専務と日立建機取締役に就任し、1981年6月には社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1985年6月に相談役に就任。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年3月5日腎不全のために死去。86歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月2… 長沢 正夫(ながさわ まさお、1911年(明治44年)3月25日 - 2004年(平成16年)5月3日)は日本の実業家。元野村證券投資信託委託会長・野村證券専務。 大阪府に生まれる。1935年(昭和10年)に法政大学経済学部を卒業し、野村證券に入社する。1948年(昭和23年)に同社営業第一部長、1949年(昭和24年)に同社引受部長、1952年(昭和27年)に同社取締役、1959年(昭和34年)に同社常務、1962年(昭和37年)に同社専務を経て、1968年(昭和43年)に野村證券投資信託委託社長に就任する。1973年(昭和48年)に同社会長に就任し、1975年(昭和50年)に証券投資信託協会会長を務める。
福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25… 福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の教育者、スーパーセンテナリアン。茨城県下妻市に在住していた長寿の男性。日本国内最高齢男性であった白井庄次郎が2020年8月11日に死去して以来、11日間日本国内最高齢男性となっていた。 1910年3月25日、茨城県結城郡宗道村(現在の下妻市宗道)で生まれる。 旧制中学校時代にアメリカ人宣教師・ビンフォルド夫妻と出会い、1927年に下妻基督友会員(キリスト教のフレンド派)となる。 茨城県立下妻中学校を経て茨城県師範学校卒業後、真壁郡村田尋常高等小学校に赴任。その後、下妻市立豊加美小学校長、総上中学校長、上妻小学校長、騰波ノ江中学校長、岡田小学校長、飯沼小学校長を歴任。
龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 -… 龍王山 光(りゅうおうざん ひかる、1910年3月25日 - 1948年2月18日)は、福岡県飯塚市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高鍋 光。最高位は東前頭2枚目(1941年1月場所)。得意手は突っ張り、叩き。現役時代の体格は180cm、113kg。 1930年3月場所、出羽海部屋から初土俵を踏む。入門が遅かったわりには出世もあまり早くはなく、十両昇進は1936年1月場所だった。その後は上昇気流に乗り、1938年1月場所で十両優勝して5月場所には新入幕、そこでも勝ち越しを続け、入幕3場所目となる1939年5月場所8日目には初日から勝ちっ放しの横綱男女ノ川から金星を挙げる活躍をした。翌1940年1月場所8日目、横綱双葉山に、仕切り1回で立ち合うという奇襲を仕掛けたが、あっさりと上手投げで退けられた。
春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月2… 春日 一幸(かすが いっこう、1910年(明治43年)3月25日 - 1989年(平成元年)5月2日)は、日本の政治家、実業家。勲章は正三位勲一等旭日大綬章。 衆議院議員(14期)、愛知県議会議員(2期)、民社党委員長(第3代)を歴任した。 岐阜県海津郡東江村(現:海津市)出身。生家は農家で、7人姉妹のうちに生まれた。母親に「男、望むなら王まで望め」と言われ、名古屋逓信講習所に入学。1928年卒業。名古屋中央電話局(現・NTT西日本名古屋支店)職員となる。後年反共主義の立場を取ったが、この時期はプロレタリア文学を読みあさり、ダダイスムに傾倒した。無断欠勤して上京し、杉並の林芙美子宅に押しかけ、10日間粘ってついに自作の詩を生田春月に見てもらうよう約束を取り付けたという。
武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3… 武藤 欣之助(むとう きんのすけ、1910年〈明治43年〉3月25日 - 没年不明)は、日本の実業家。広正社創業者。 山梨県東山梨郡平等村上岩下(現・山梨市上岩下)出身。1931年、20歳で広正社を個人創業。各種看板の製作、屋外広告、浴場広告を主として取扱う。 1953年、有限会社に改組する。1955年、株式会社組織に改める。宣伝自動車、交通広告の方面に進出する。 京成電鉄広告会会長、東京都浴場広告連盟理事、広正社社長、東京浴場組合理事、京成懇談会会長などをつとめる。 趣味は旅行。住所は東京都葛飾区青戸6丁目。本籍は山梨県山梨市上岩下。 1969年5月に税務署に於て発表した年間所得500万円以上の高額所得者の名簿である『全国高額所得調 昭和44年度版』に武藤欣之助(広告宣伝業)が掲載されている。
小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25… 小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25日 - 2006年〈平成18年〉3月2日)は、日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階は従三位。 群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業。三井銀行に入行。 三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任。1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる。
戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1… 戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1988年3月24日)は、日本の評論家、能・狂言の評論家。 東京生まれ。旧制早稲田中学を経て早稲田大学国文科卒。 1933年、中央公論社に入社するが、その年のうちに退社。1948年、天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。『戸井田道三の本』4冊がある。「きものの思想」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日… 江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、日本の政治家。金沢市長を3期12年務めた。 石川県金沢市出身、石川県農学校(現・石川県立翠星高等学校)卒業後石川県庁に入庁。金沢市助役を15年務めた後、1978年12月1日、岡良一の病気辞任に伴う金沢市長選挙に当時の主要全政党(自民・社会・公明・民社・共産・新自由クラブ・社民連)の推薦を受けて立候補、無投票で初当選。1982年11月21日、自民・社会・公明・民社の推薦、共産の支持を受け、再選を果たす。1986年11月16日、自民・社会・公明・民社の推薦を受け、共産推薦候補を破り三選。1990年8月14日、3期限りで引退することを表明した。
岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - … 岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - 2010年11月15日)は、日本の出版人。岡本綺堂の養子。青蛙堂書房創業者。 岡山県勝田郡勝間田町出身、旧姓は森部。 13歳で上京。1924年に額田六福の紹介で作家・岡本綺堂の書生となり、専検(専門学校入学資格検定試験)をとって法政大学の夜学に通う。1930年、法政大学高等師範科(国漢)卒業。 就職できず、綺堂監修の戯曲誌『舞台』の編集手伝いののち、三上於菟吉と改造社の編集者・塩谷晴如が興した出版社「サイレン社」に入り、三上の妻である長谷川時雨の編集担当として時雨の『草魚』や『近代美人伝』を手掛けた。同社は三上が経営から退いたことから経営難となり、塩谷が大衆本出版に手を出したが失敗、健一はその後始末に追われた。
栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月… 栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月25日 - 1989年(平成元年)11月10日)は元日本放送協会(以後NHK)専務理事。 1909年(明治42年)3月25日富山県黒部市で生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業する。 逓信省の勤務を経て、NHKに入局する。NHK名古屋中央放送局長、NHK経理局長などを経て、1963年(昭和38年)からNHK専務理事に就任する( - 1965年(昭和40年))。 1989年(平成元年)11月10日に死去、80歳。 1975年(昭和50年)に藍綬褒章を受章し、1980年(昭和55年)に勲三等瑞宝章を受章する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1… 高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1993年10月29日)は、日本の工学者。 東京市麻布生まれ。1931年早稲田大学理工学部電気工学科卒、1950年工学博士。私立中野中学校講師、1933年早稲田第一高等学院専門部工科講師、早大理工学部助教授、教授、理工学部長、高等学院長、理事、1978年定年、名誉教授。 1971年紫綬褒章受勲、1973年NHK放送文化賞受賞、1980年勲三等旭日中綬章。 啓蒙的な著作を多く書いた。高木は、日本で最初の電気技術史家と言うべき人物である。
新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 198… 新道 繁(しんどう しげる、1907年3月25日 - 1981年6月10日)は、洋画家。 福井県三国町(現・坂井市)出身。1924年東京府立工芸学校卒業。1934年光風会会員。1951年日展審査員。1955年女子美術大学講師、1958年文部大臣賞受賞、日展評議員、1961年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1971年光風会常務理事、1975年日展常務理事、1977年日本芸術院会員、1979年勲三等瑞宝章受章。 1960年以降は「松」を繰り返し描いた。
第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(… 第23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年(明治39年)3月25日 - 1979年(昭和54年)9月15日)は、日本の実業家、政治家、芸術家。衆議院議員。島根県知事。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 奥出雲の山林大地主で「たたら御三家」の一つ「田部家」の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。茶室「明々庵」の再建や「田部美術館」の設立など文化振興にも尽力した。竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である。 祖父と同じ部屋で寝起きしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父の長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという。 若い頃、女優司葉子の父・庄司繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり司の姉妹揃って大いに可愛がった。
市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 -… 市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 - 没年不詳)は、日本の経済・思想史研究者。 横浜市生まれ。東京商科大学本科卒。国立国会図書館勤務、国際事業部長、拓殖大学教授。77年定年、名誉教授。城西大学教授。
伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39… 伊藤 実雄(伊藤 實雄、いとう じつお、1906年(明治39年)3月25日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、広島県安芸郡熊野町長。 広島県安芸郡熊野村(現熊野町)で、伊藤忠兵衛の息子として生まれた。1938年(昭和13年)私立山陽中学校(現山陽高等学校)を卒業した。 農業を営む。熊野町会議員、同町長、同町農業会長、広島県農業中央会初代会長、全国農業会議所副会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で広島全県区に無所属で出馬して当選し、日本農民党に所属して衆議院議員に1期在任した。その後、1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙で広島県地方区に無所属で立候補したが次点で落選した。
薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月2… 薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月25日 - 1969年〈昭和44年〉4月9日)は、日本のドイツ文学者・仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧。大阪府立大学教授。ゲーテ、親鸞を研究した。 1905年、和歌山県和歌山市で浄土真宗本願寺派の妙慶寺に生まれた。1916年に得度。京都帝国大学文学部独文科で学び、1927年に卒業。 卒業後は、同1927年より龍谷大学講師。1931年、大阪商科大学(現:大阪市立大学)教授となった。1951年からは浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授。 宗門においては、1926年より妙慶寺住職(1969年まで)。1947年から1951年まで、浄土真宗本願寺派和歌山教区長兼鷺森別院輪番をつとめた。
片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月… 片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月25日 - 1988年6月8日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、農林中央金庫理事長。 東京府出身。1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、農林省に入省した。貿易庁輸入局長、食糧管理局長官を務めたのちに、1948年、農林次官に就任。 1950年に農林省を退官し、同年に実施された第2回参議院議員通常選挙で緑風会所属として立候補し、当選。1956年の第4回参議院議員通常選挙で落選し議席を失ってからは、全国漁業協同組合長、農林中央金庫理事長といった職を歴任した。 1975年(昭和50年)秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲四等からの昇叙)。
松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 19… 松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 1967年7月29日)は、日本の政治家、台湾総督府及び農林官僚。参議院議員(3期)。衆議院議員(1期)。 現在の大館市出身。菅原精一の二男に生まれ、能代港町(現能代市)の松野一也の養子となる。1927年高等文官試験行政科と司法科に合格。翌1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、台湾総督府へ入庁。台北州海山郡守、台中州勧業課長、総督府米穀、農務、特産各課長、食糧部長、逓信部長を歴任の後、終戦で農林省へ転籍し開拓局第一部長、東京農地事務局長、仙台農地事務局長を務める。この間、1947年には請われて宮城県本吉郡入谷村(現南三陸町)村長に就任した。
黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-198… 黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-1984年8月12日)は童画画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 198… 大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日)は、昭和期の俳人。本名は大野正(おおの まさし)。 神奈川県横浜市生まれ。旧制県立横浜第一中学校、旧制第四高等学校を経て、1927年東京帝國大学経済学部を卒業。大学卒業後は日本光機工業に入社。1930年に会社を辞めて神奈川県立商工実習学校(現・神奈川県立商工高等学校)教諭となる。当時の教え子に、後に高弟となる宮津昭彦がいる。中学時代より鈴木三重吉や佐藤春夫の抒情詩に傾倒。俳句は中学時代の1920年、親友の荻野清(のち俳文学者となる)の父から手ほどきを受け、1921年、荻野の勧めをうけて「石楠」に入会、臼田亞浪に師事する。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25… 羽藤 栄市(羽藤 榮市、はとう えいいち、1903年3月25日 - 1985年11月22日)は、日本の政治家。愛媛県副知事・衆議院議員(1期)・愛媛県今治市長(5期)などを歴任した。 愛媛県越智郡桜井村(現:今治市)生まれ。 逓信官吏練習所を卒業後、高等文官試験に合格し逓信省東京逓信局に勤務。青島電信局長などを務めた。1942年には南方総軍司政官に就く。1949年には初代の四国電気通信局長に就任した。 保守分裂となった1951年愛媛県知事選挙で、日本社会党・民主党推薦の久松定武が愛媛県知事に当選すると、久松は社会党が推す羽藤を副知事に抜擢した。副知事となった羽藤は郵政研修所の誘致を実現し、松山郵政局の高松市移転の動きを抑え込んだ。
武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月2… 武内 五郎(たけうち ごろう、1902年(明治35年)3月25日 - 1981年(昭和56年)2月10日)は、日本の農民運動家、政治家。参議院議員(2期)、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県出身。1926年(大正15年)早稲田大学専門部商科を卒業した。 早大建設者同盟設立に参加し社会主義運動に加わる。日本社会主義同盟、日農関東同盟に加わり農民運動に参画し、新潟県木崎村小作争議、同県王番田、同乙村などの小作争議を指導した。労働農民党、日本労農党、日本大衆党などの無産政党の結成に参画した。 戦後、青森県上北郡浦野舘村長に就任。以後、八戸労働組合学校主事、日本農民組合中央執行委員、社会党左派中央委員、日本社会党新潟県書記長、同執行委員長、新潟県農業会議議員、同県土地収用委員などを務めた。
小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 196… 小高 泰雄(こだか やすお、1901年3月25日 - 1969年8月18日)は、日本の経営学者、会計学者。 神奈川県横浜市生まれ。1928年慶應義塾大学経済学部卒、1929年同助手となり、欧米留学を経て1937年助教授、1939年教授、1948年「企業に於ける資本計算制度の発展」で経済学博士の学位を取得。1963年商学部長。1969年定年となり、名誉教授。
太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 -… 太郎山 勇吉(たろうやま ゆうきち、1901年3月25日 - 1964年12月30日)は、長野県小県郡上田町(現:上田市)出身の元大相撲力士。本名は宮島 諭吉(みやじま ゆきち)。 1917年5月場所において浦風部屋から初土俵を踏んだ。長身・色白・好男子であることから「男は太郎山」とたちまち評判になり、本場所では常に黄色い声援を受けていたが、勝ち味が遅く相撲に豪快さなどが無かった。1925年5月場所において新入幕を果たしたが、一度十両陥落を経て1928年1月場所に幕内へ返り咲いてからは、現役引退まで常に幕内に在位し続けていた。 その間に師匠の廃業で高砂部屋へ、さらに1933年からは伊勢ヶ濱部屋へ身を寄せるなど、転々とした生活を送った。
森永 太平(もりなが たへい、1900年3月25日 - 19… 森永 太平(もりなが たへい、1900年3月25日 - 1983年3月6日)は日本の実業家。第3代森永製菓社長。
今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年… 今村 長太郎(いまむら ちょうたろう、1900年(明治33年)3月25日 – 1969年(昭和44年)6月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 和歌山県和歌山市で生まれた。メリヤス製造業を営み、和歌山商工会議所議員、和歌山メリヤス生地工業組合理事長、和歌山県莫大小製造統制組合理事長、同県メリヤス商工業協同組合理事長、日本メリヤス工業会理事、同会生地部全国委員長、日本メリヤス統制取締役などを務めた。 政界では、1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)まで和歌山市会議員に在任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で和歌山県第1区から日本自由党公認で立候補して当選し、次の第24回総選挙でも当選し、衆議院議員に連続2期在任した。
富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、… 富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、1899年3月25日 - 1925年2月24日)は、日本の小説家。 山形市生まれ。幼い頃に宮城県へ移り、仙台市の木町通小学校、仙台第二中学校(宮城県仙台第二高等学校の前身)に学んだ。 1918年に上京して、早稲田大学予科に学び、佐藤春夫に師事するとともに、横光利一、中山義秀と交友関係をもった。大学は結局、中退となった。 1921年に横光利一や古賀龍視などとともに同人誌『街』を立ち上げ、続く1922年には、横光利一、中山義秀、小島勗などと同人誌『塔』の創刊に参加した。 富ノ澤の作風は「新感覚派の先駆け的存在」とも評され、代表作としては、自伝的作品とされる『流星』などが挙げられる。
佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月… 佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月25日 - 1980年 <昭和55年> 12月12日)は日本の政治家。東京都世田谷区長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 山梨県(南巨摩郡身延町常葉竹之島)生まれ。中央大学法学部卒。1927年弁護士として活動を始めた。1932年世田谷区会議員、1947年都議会議員、都選管委員長、笹塚館社長、公明選挙連盟評議員、選挙制度調査会委員を経て、1959年から1975年まで世田谷区長(4期)。1966年から1968年まで特別区区長会会長も務めた。1980年12月12日、肺梗塞のため81歳で死去。墓所は世田谷区慈眼寺。死没日付をもって従五位に叙され、勲四等旭日小綬章を追贈された。
外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 … 外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 - 1986年8月27日)は、日本の法学者。学位は法学博士。静岡県出身。 静岡県賀茂郡三坂村(現在の賀茂郡南伊豆町)入間に生まれる。賀茂郡立中学豆陽学校から早稲田大学に進学し、1925年に早稲田大学教授に就任。 1942年から1964年まで早稲田大学野球部部長を務める。あわせて東京六大学野球連盟理事長も務め、1943年には出陣学徒壮行早慶戦を敢行している。 戦後はオール早慶戦の開催、1946年春の六大学野球再開を実現させ、12月に日本学生野球協会が結成されると副会長として30年間アマチュア野球の発展に尽力した。その後は中京大学へと移り、1966年の同大学法学部の開設に関わり、1975年まで法学部長を務めた。
松村 又一(まつむら またいち、、1898年(明治31年)3… 松村 又一(まつむら またいち、、1898年(明治31年)3月25日 - 1992年(平成2年)9月30日)は昭和期の作詞家、民謡作家。妻は歌人の松村君代。独特の作風から土の詩人と評される。
白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月2… 白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月25日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県、のちの丸亀市で、白川友一の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 父の事業に携わり白川保善社専務取締役を経て、1930年(昭和5)同社長に就任。1931年(昭和6年)12月、名古屋市の三引陶器(株)の経営再建に携わり業績を回復し、1932年(昭和7年)12月、社名を白川製陶に改称して社長に就任。日本興業銀行からの要請で、合板発明家の浅野吉次郎が創業した名古屋合板(株)の経営を1932年(昭和7年)7月から引き継ぎ社長に就任した。
谷 安正(たに やすまさ、1898年〈明治31年〉3月25日… 谷 安正(たに やすまさ、1898年〈明治31年〉3月25日 - 1975年〈昭和50年〉2月8日)は、日本の応用物理学者。東京大学名誉教授。工学博士。 1898年3月25日、富山県滑川町(現在の滑川市)で生まれた。1921年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、同大学工学部講師に着任し、1924年に助教授に昇任した。1941年に東京帝国大学航空研究所の所員となり、1942年に新設された東京帝国大学第二工学部の教授となった。1950年に東京大学生産技術研究所教授に転任し、1957年に同研究所所長を務めた。1958年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後、日本大学教授、富山県立大谷技術短期大学学長を務めた。
大和 資雄(やまと やすお、1898年3月25日 - 199… 大和 資雄(やまと やすお、1898年3月25日 - 1990年1月12日)は、日本の英文学者、翻訳家。日本大学、武蔵野女子大学名誉教授。 山形県出身。1921年東京高等師範学校卒、香川県師範学校教諭、1925年東京帝国大学英文科卒業、高野山大学教授。1927年日本大学予科教授、1931年日本大学法文学部教授、1958年日本大学文理学部教授、1968年定年、同年勲三等瑞宝章受章、1944年日大名誉教授。1970年武蔵野女子大学教授、1978年まで務め、退任後名誉教授。 イギリス文学を専門とし、『嵐が丘』の翻訳がよく読まれた。ほか著書多数(「大和資雄先生の略歴」『英文学論叢』1990)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1… 江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1987年11月16日)は、日本の洋画家。 大分県臼杵市出身。1918年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、岡田三郎助や片多徳郎に師事した。1923年に東京美術学校を卒業した。 1923年の第5回帝展に出品した「アトリエにて」が初入選した。1928年の第9回帝展に出品した「S氏像」と1929年の第10回帝展に出品した「F君の像」は2年連続特選となった。1933年の第14回帝展に出品した「室内裸婦」も特選を受賞した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"The Rugger"(和題不明)を出品した。 1937年に光風会に会員として参加した。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25… 新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25日 - 1979年(昭和54年)4月2日)は、舞踊家である。本名は、三木富蔵。「新村英一」は、まだ舞踊家になる前、ボストンに向かう列車の中で新聞記事をヒントにつけた名前であり、「Nimura Yeichi」と表記する。 長野県上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1918年(大正7年)単身渡米し、舞踊家を志す。セント・デニス、テッド・ショーンらに師事。1925年(大正14年)ニューヨークのカーネギーホールでデビュー(デニショーン舞踊団(英語版))。1930年(昭和5年)同じくニューヨークで発表会。舞踊における東洋と西洋の融合を果たす。その後、後に妻となるリサン・ケイ(Lisan Kay)を相手にヨーロッパ各地やカナダ、全米で巡回公演、各地で熱烈な支持を受ける。
岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 -… 岡田 源三郎(おかだ げんざぶろう 1896年3月25日 - 1977年10月26日)は、東京都 出身の野球選手・指導者(名古屋金鯱軍監督。明治大学硬式野球部監督)。
秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985… 秦 慧玉(はた えぎょく、1896年3月25日 - 1985年1月2日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授。永平寺76世貫首、曹洞宗管長。号は「明峰」。 兵庫県生まれ。5歳で秦慧昭について得度。曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。岐阜県の正眼寺で修行。1923年に東京帝国大学に入学。同年5月、宇井伯寿の勧めで、東北帝国大学に転学。武内義雄に師事し支那学を研究した。1926年東北帝国大学を卒業。同年9月、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)の教授となる。のち駒澤大学教授。 1976年に曹洞宗管長、永平寺76世貫首。1980年全日本仏教会会長就任。仏教を通して国際親善に尽力。1983年清水寺の大西良慶貫主の本葬では大導師を務めた。
名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25… 名川 保男(ながわ やすお、1896年(明治29年)3月25日 - 1975年(昭和50年)5月25日)は、日本の弁護士、東京弁護士会会長、国家公安委員会委員長代理、明治大学専務理事、東京音楽大学理事長。 衆議院議員、鉄道政務次官、第一東京弁護士会会長を務めた名川侃市の弟。 広島県生まれ。1919年(大正8年)明治大学法学部卒業。1922年(大正11年)千葉地方裁判所判事に任官。1927年(昭和2年)に弁護士となる。事務所は京橋区銀座。 帝人事件、炭鉱国管疑獄、昭和電工事件、日殖事件、造船疑獄といった汚職事件の弁護人を務めた。 1955年(昭和30年)東京弁護士会会長に就任。日本弁護士連合会副会長を務めた。
中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月2… 中部 謙吉(なかべ けんきち、1896年(明治29年)3月25日 - 1977年(昭和52年)1月14日)は大正~昭和期(1920年代後半~1970年代前半)の実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。 1880年に父・幾次郎が起こした林兼商店に入社した謙吉は1924年に28歳で常務に就任、終戦前の1945年には大洋漁業の副社長まで出世した。戦後の公職追放で謙吉は大洋漁業の経営から退き、兄の兼市が2代目の社長となった。1952年に公職追放令が解かれると、謙吉は大洋漁業の副社長に復帰し、1953年に兄の兼市が急死すると、大洋漁業の社長に就任した。
当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治… 当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治28年)3月25日 - 1971年(昭和46年)10月20日)は、戦前の沖縄県および琉球政府の政治家・裁判官。那覇市長・琉球政府行政主席(1956年11月11日 - 1959年11月10日)。フランス語に堪能な人物だった。 ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。
前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5… 前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5月2日)は、昭和時代の経営者。日本経営者団体連盟(日経連)発足時から21年にわたって専務理事を務めた。一説には「サラリーマン」という語を広めた人物とされている。 佐賀県小城郡三日月村(現在の小城市)出身。東京帝国大学法学部を卒業後、経済学部に再入学して1921年に卒業、北海道炭礦汽船会社に入社して労務係となり、以後一貫して総務畑を歩む。1927年に著した『サラリマン物語』が日本に「サラリーマン」という和製英語を定着させるきっかけになったと言われている。1929年にヨーロッパに留学し、日本政府の要請で第12回国際労働会議の日本政府代表嘱託に加わっている。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日… 石井正己(いしい まさみ、1893年(明治26年)3月25日 - 不詳)は、日本の陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医少将。第二次世界大戦における第14軍の生物兵器実験・人体実験に関与した。 広島県で出生。1920年(大正9年)12月25日、陸軍二等軍医。1923年(大正12年)、九州帝国大学大学院への入学が認可され外科学を学んだ。 1930年代から1940年にかけて、満州国の山西省の北支那方面軍第一軍軍医部におり、太原臨時衛生調査班の調査に参与した。 1943年(昭和18年)、第14軍の軍医部長としてフィリピンに駐屯した。同年7月に配属されてきた第16師団防疫給水部に対し、第14軍軍医部長として「予防内服の効果については自信ある成績を要望す」、「濃厚汚染部隊に於ては部隊内感染防止に各班の努力を傾注するを要す」と指示していた。
渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 19… 渡部 義雄(わたなべ よしお、1893年3月25日 - 1964年12月17日)は、日本の会計学者。 東京府東京市麻布区(現:東京都港区)生まれ。麻布中学校より大倉高等商業学校(現:東京経済大学)予科、本科を経て、1913年神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒。東会計人事務所に入所。各務鎌吉の援助で、1920-1922年英国に留学し、英国勅許会計士の会計事務所において訓練を受けた。のち立教大学講師を務めた。