平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日… 浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日 – 1956年(昭和31年)5月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)出身。高知県立第一中学校を卒業し、小学校に勤務した。その後、早稲田大学に入り、1917年(大正6年)に政治経済科を卒業した。『土陽新聞』記者となり、シベリア出兵に従軍記者として派遣された。その後、土陽新聞社社長に就任した。また高知市会議員、同参事会員、高知県会議員、同副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、高知県書籍雑誌商組合長、高知木工工芸学校長などを務めた。
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年… 河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月… 寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 和歌山県伊都郡平野村(隅田村大字平野を経て現橋本市)で、八幡社神官・寺本政吉の三男として生まれる。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任。
石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)… 石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)1月3日 - 1977年(昭和52年)3月9日)は、日本の金属工学者(冶金学者)である。東北大学名誉教授。第2代富山大学学長を務めた。 岡山県岡山市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、東北帝国大学(現在の東北大学)附属理科大学臨時理化学研究所に勤務する。1919年(大正8年)には同大学の講師となり、冶金学の教鞭を執った。その後は助教授を経て1923年(大正12年)には教授に昇格した。1924年(大正13年)から翌1925年(大正14年)まで冶金学の研究により、イギリスやフランス、ドイツ等ヨーロッパの津々浦々に留学した。留学中は蒸留マンガンの製造法や、鉄-マンガン及び鉄-ニッケル-マンガン合金の規則格子の研究に携わり、理学博士を取得する。
木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948… 木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948年1月13日)は、日本のドイツ文学・ドイツ語学者、東京帝国大学教授。文学博士。 秋田県南秋田郡大川村(現・五城目町)出身。県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)、慶應義塾普通部、第二高等学校を経て東京帝国大学独文科でカール・フローレンツに学ぶ。第四高等学校教授から、1924年東京帝国大学独文科助教授となり、1932年教授。同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。生化学者の木村雄吉は実弟、ロシア文学者木村彰一及び外交官木村敬三は息子。画家の木村哲雄は孫。 秋田県南秋田郡大川村(後の五城目町大川)で父松助、母ナヲの7男3女の第3子として生まれる。
細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 196… 細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 1962年11月2日)は、日本の歌人。千葉県君津郡巌根村大字高柳字大海道(現・木更津市高柳)生まれ。尾上柴舟に師事した。 1889年、農家の三男として生まれる。千葉県立木更津中学校(現・木更津高等学校)在学中の1909年ごろより尾上柴舟に師事。1911年3月に卒業。1913年ごろより君津郡役所に勤務する。 1914年、尾上柴舟が歌誌『水甕』を創刊すると、これに参加。のちに主要同人となり、選者も務めた。 1921年、朝鮮総督府への出向が決まり、朝鮮半島に渡る。1922年、病気で入院中に、同じ病院に入院していた市山盛雄(1897-1988)と出会った。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 194… 京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 1940年5月26日)は、日本のアナウンサー、水泳家。 東京出身。早稲田大学政治科卒。雄弁会、水泳部に属して活躍した。卒業後、「二六新報」記者、「国民新聞」記者、「東京日日新聞」記者を経て、1925年、東京放送局(現在のNHK首都圏局)が開設されると初代アナウンサーとなり、第一声を発した。1935年、日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)主事となり、水泳でも活躍した。
田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 196… 田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 1964年6月6日)は、和歌山県出身の俳人・新聞記者。本名省三。笠田町(現かつらぎ町)生。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校) 卒、三高文科を中退。1910年より大阪朝日新聞社で記者として勤め、のち大阪毎日新聞社に移った。 中学時代より句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社を起こす。1917年、高浜虚子に師事。河東碧梧桐にも師事した。1922年、野村泊月、皆吉爽雨らとともに「山茶花」創刊。1934年、「ホトトギス」同人。1946年、休刊していた「山茶花」を復刊し主宰。「狩くらは大月夜なり寝るとせん」など、句に「大」の字を好んで用い、大らかな写生句を詠んだ。
江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889… 江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889年〈明治22年〉1月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の政治家(下関市会議員)、家主、工学博士。参議院議員江島淳の父。参議院議員江島潔の祖父。 山口県人・熊野報介の三男。先代伊助の養子となり1916年、家督を相続する。海軍大尉に任ぜられる(のち海軍少佐)。1922年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業する。のち工学博士の学位を授けられる。 推されて下関市参事会員である。方面委員である。住所は山口県下関市貴船町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月3… 緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年〈明治21年〉1月30日 - 1956年〈昭和31年〉1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。交詢社会員、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。 兄の緒方大象は医学者・九州大学名誉教授、弟の緒方龍は医師。二男の緒方研二は元日本電気(NEC)副社長、三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。 早稲田大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。若くして主筆となり、1943年副社長。1944年退社し政界入り。情報局総裁、小磯内閣、東久邇内閣で国務相となる。
小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月… 小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月29日 - 1952年(昭和27年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、延岡市会議長、宮崎県東臼杵郡延岡町長。 宮崎県東臼杵郡延岡城下北町(延岡町を経て現延岡市)で生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学農科大学林学実科を卒業した。 帰郷して回漕業を営む。延岡商工会議所会頭、商事調停委員、延岡瓦斯取締役、高千穂運輸取締役、宮崎県木材取締役、延岡バス監査役、宮崎県瓦斯用木炭取締役社長などを務めた。 政界では、延岡町会議員、延岡町長、延岡市会議員、同議長、同参事会員、宮崎県会議員、同副議長などに在任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。
田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日… 田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日 - 1964年〈昭和39年〉8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。東京大学名誉教授。工学博士。 長野県長野市出身。元は橋梁技術者ではなく、鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。 関東大震災によって被害を受けた橋梁の総数は、東京で675橋、横浜で108橋であったが、復興事業の設計責任者として隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった橋梁群を手がけ、新技術を次々に導入して橋梁近代化の礎を成した。
岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月2… 岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月27日)は、大正から昭和前期の政治家。衆議院議員(4期)、鹿児島市長(第13代)。号・五山。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町(現・鹿児島市平之町)で、岩切仲二の長男として生まれた。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 その後鳥取県属、同警視、鹿児島市助役、大蔵大臣秘書官を務め、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から立憲政友会で立候補して初当選。以後通算4期務めた。その後、同郷の床次竹二郎が政友会を離党し、政友本党を結成するとそれに従い、政友本党が憲政会と合流し、立憲民政党が結成されると同党に入党した。
川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月… 川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1968年〈昭和43年〉9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。娘は洋画家の川上律江。 岡山県哲多郡(現・新見市)出身。 1907年(明治40年)県立農学校を卒業後、代用教員や岡山県職員を務め、後に大阪府の社会課主事に転じる。1927年(昭和2年)に昭和文化学会に参加して以後、共産党シンパとしての活動を強め、翌年には検挙を受ける。また、1937年(昭和12年)の人民戦線事件でも検挙されて懲役2年の実刑判決を受けている。この間、マルクス経済学を学び、社会主義系の雑誌や研究所の立ち上げに関与した。
守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27… 守屋 徳夫(もりや のりお、明治21年(1888年)1月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。樺太水産(株)社長。樺太魚菜配給(株)取締。樺太水産物統制販売組合監事。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。外交官守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の二男。守屋栄夫の弟。守屋和郎の兄。 明治42年(1909年)宮城師範学校卒業、大正4年(1915年)広島高等師範学校卒業、大正7年(1918年)京都帝国大学社会科卒業。台湾総督府視学・台北高等商業学校教授。旭紡秘書課長。朝鮮殖産銀行勤務。東洋拓殖資金課長。日魯漁業常任監査役 趣味は打球、文学。
金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887… 金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887年12月15日) - 1964年1月13日)は、韓国の独立運動家・弁護士・政治家。大韓民国初代大法院長。許憲・李仁と並んで、日本統治下での三大民族弁護士のひとりとして名を馳せた。本貫は蔚山金氏。号は街人(カイン)。 全羅北道淳昌郡の郷班の家に生まれる。 父の金相熹は漢城府の司諫院に正三品で仕官していたため、祖父から儒学の薫陶を受けた。1904年には全羅南道潭陽の日新學校で西洋人宣教師から算術や西洋史などの新学問を学び、1905年の乙巳条約をきっかけに、崔益鉉のもとを訪ねて義兵闘争に参加した。1906年に金性洙の昌興學校に入学し、留学を決意、1910年に渡日し、明治大学法学部(夜間部)に入学、1912年に明治大学高等研究科の3年次に編入し、1915年に卒業した。
今井 長太郎 (いまい ちょうたろう、1888年1月25日 … 今井 長太郎 (いまい ちょうたろう、1888年1月25日 – 1978年8月5日)は、日本の郷土植物学者。 生家は、農業を営んでいた。母は、名田庄村の漢方医、小野正伯の娘。 三方町南前川に生まれる。大正12年 – 佐久間書院創立に参画。昭和16年 – 大日本農業会総裁より名誉賞状を受ける。 昭和27年 - 県文化賞。昭和28年 – 県文化財保護委員。 昭和49年 – 県政功労者として知事表彰。昭和52年 - 勲六等瑞宝章受章。
相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年… 相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年〈明治21年〉1月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、日本の商人(米穀商)、会社役員、政治家。埼玉県浦和市長〈第3代〉、浦和市会議長。 埼玉県・先代宗次郎の長男。1914年、家督を相続し、前名幾太郎を改め襲名する。米穀商を営む。 1921年、浦和町会議員に当選する。1925年、浦和町助役。浦和市会議員時代には市会議長に選ばれた。1938年9月に浦和市長に就任し、1942年9月に退任した。 戦争中は大政翼賛会の支部長だったため、戦後に公職追放となった。 また浦和商工会長、相川精麦取締役、浦和商業銀行監査役、埼玉県食糧営団理事長、埼玉県中小企業団体中央会会長、全国食糧事業協組連理事などをつとめる。
石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1… 石原 俊明(いしはら しゅんめい、1888年〈明治21年〉1月21日 - 1973年〈昭和48年〉1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家、出版者、曹洞宗の僧侶。化学工業新聞社、国際情報社、国光印刷、大法輪閣の創業者。 静岡県小笠郡大須賀町(現、掛川市)に生まれる。1891年、浜岡町新野(現、御前崎市)の想慈院に引き取られる。この頃、可睡斎で日置黙仙禅師に師事。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。
山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月2… 山口 義一(やまぐち ぎいち、1888年(明治21年)1月20日 - 1935年(昭和10年)4月15日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 大阪府堺市出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1917年(大正6年)、堺市長選挙に推されたが、市会での得票数が対立候補の斎藤研一と同数だったため、年下の山口が譲らざるを得なかった。 その後、京都帝国大学大学院で社会政策を学んだが、1919年(大正8年)に退学。翌年の第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回当選を重ねた。普通選挙や貴族院改革を主張した。田中義一内閣で大蔵参与官に就任した後、政友会幹事長を務めた。 また堺スコップ株式会社、坂自転車株式会社の役員も務めた。
寺島 権蔵(てらしま ごんぞう、1888年(明治21年)1月… 寺島 権蔵(てらしま ごんぞう、1888年(明治21年)1月18日 - 1940年(昭和15年)4月9日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、富山県三日市町長。 富山県下新川郡三日市町(現黒部市)出身。早稲田大学政治科卒業。独立新聞記者、東京毎日新聞記者として活動するかたわら、合名会社横山鉱業部経済調査嘱託を兼ねた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。さらに三日市町長も兼ね、5期在任した。また廣田内閣では商工参与官に任命された。 1937年(昭和12年)、洪水で流失した橋を再度建設し、権蔵橋と名付けられた。 その他、富山日報社取締役・富山海底遊覧船株式会社取締役・魚津製氷会社社長などを務めた。
加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1… 加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年(明治21年)1月17日 - 1954年(昭和29年)8月8日)は、日本の資産家、実業家。加賀証券社長。大阪府多額納税者。 1888年、大阪市東区今橋生まれ。加賀市太郎の長男。加賀家は大阪目抜きの場所、高麗橋通りにあり、大阪屈指の資産家として、又著名の旧家として遠近に知られた。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。 ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。 東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、1911年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。
益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1… 益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本の政治家。位階は従二位。 衆議院議員(14期)、衆議院議長(第46代)、副総理、建設大臣、行政管理庁長官などを歴任した。 1888年1月17日、石川県鳳至郡宇出津町(現在の鳳珠郡能登町)に生まれる。旧制海城中学校から神田神保町にあった大成中学に4年編入後、専検から東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士となった。 1920年、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で石川5区から立候補し初当選。1924年に床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を発足したあたりから政友会で鳩山一郎派に所属していた。
松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 19… 松嶋 鹿夫(まつしま しかお、1888年1月16日 - 1968年11月28日)は、日本の外交官。外務次官や終戦連絡中央事務局次長、貴族院議員等を務めた。
須田 孝太郎 (すだ こうたろう、1888年1月16日 – … 須田 孝太郎 (すだ こうたろう、1888年1月16日 – 1936年6月28日 )は、日本の実業家。 小林多喜二の小説でもある「蟹工船」の創業者。露領水産組合評議員、雲城会幹事、小浜港湾修築期成同盟会評議員。 明治21年(1888年)1月16日、小浜市太興寺に生まれる。小浜市立松永小学校をへて明治36年 – 旧制小浜中学校中退。旧制成城中学校卒業。 大正5年 – カムチャッカで紅サケ缶詰工場経営。昭和2年 – 大同漁業を設立、専務取締役、社長を歴任。 昭和7年 – 日魯漁業と合同、重役となる。昭和10年 – 日露漁業協会理事長。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
奈良原牛之助(ならはらうしのすけ、Ushinosuke Na… 奈良原牛之助(ならはらうしのすけ、Ushinosuke Narahara、1888年1月15日 - ?)は、明治にアメリカ合衆国に渡り現地で日本庭園作庭に活躍した作庭家。造園家。博物館学芸員。 1920年からはアメリカ自然史博物館の展示部門の職員も務め、特にアジア、北アメリカ、アフリカの哺乳類動物園のモデルであるホイットニー記念館ホール展示の仕事で有名。AMNHライブラリーに、奈良原らによって行われたNeanderthalミニチュアグループ背景画が幾つか所収されている。 夢野久作(杉山泰道)の父である国家主義者、杉山茂丸が起こした玄洋社の社員で、玄洋社の殺人鬼といわれた奈良原到の長男。久作の親友で、幼少期は父に似て乱暴者だったという。
藤井 武(ふじい たけし、1888年1月15日 - 1930… 藤井 武(ふじい たけし、1888年1月15日 - 1930年7月14日)は、無教会の伝道者。 陸軍軍人浅村安直の次男として石川県金沢に生まれる。1901年に藤井鉄太郎の養子になる。1904年に第一高等学校に入学、1907年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学する。1909年内村鑑三の聖書研究の会員になり柏会に所属した。1911年に東京帝国大学を卒業すると、京都府に官僚として赴任する。 1913年に山形県警察部の警視になり、1914年山形県の理事官になる。内村鑑三らが日本に紹介したデンマークのニコライ・グルントウィーの国民教育フォルケホイスコーレを規範として那須皓らとともに山形県自治講習所を設立する(校長に加藤完治)。
松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 … 松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 - 1955年12月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1888年(明治21年)、香美郡山田村(現在の香美市)に生まれた。海南中学校を経て、1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、1910年(明治43年)12月、海軍少尉任官。1921年(大正10年)11月、海軍大学校(甲種19期)を卒業。 1921年12月、海軍少佐に昇進し横須賀海軍航空隊附兼臨時航空術講習部部員に就任。1922年(大正11年)11月、霞ヶ浦海軍航空隊教官となり、横須賀鎮守府参謀、軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局局員(一課)などを歴任。
古田 正武(ふるた まさたけ、1888年(明治21年)1月1… 古田 正武(ふるた まさたけ、1888年(明治21年)1月13日 – 1939年(昭和14年)9月8日)は、日本の司法官僚・検事、満州国国務院司法部次長・満州国参議府参議。 岐阜県土岐郡日吉村(現在の瑞浪市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補として東京地方裁判所に勤務した。1916年(大正5年)、東京地方裁判所検事となり、司法書記官、警察講習所教授、大審院検事を歴任した。 1933年(昭和8年)、満州国に招かれて司法部総務司長に就任し、1936年(昭和11年)からは司法部次長を務めた。 その後、日本に帰国して司法省刑事局長を務めた墓所は多磨霊園
安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月1… 安江 仙弘(やすえ のりひろ、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1950年〈昭和25年〉8月14日)は、日本陸軍の軍人。陸士21期。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。 旧松本藩士・台湾総督府官吏、安江仙政の長男として現在の秋田県秋田市中通4丁目で生まれた。安江が生まれた家は、平田篤胤の生家であった。 京華中学校、陸軍中央幼年学校予科(のちの東京陸軍幼年学校)、陸軍中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期、同期には石原莞爾(陸軍中将)、樋口季一郎(陸軍中将)がいる)を卒業し、陸軍歩兵将校となった。 1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接しているうちに、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。
藤本 喜久雄(ふじもと きくお、1888年〈明治21年〉1月… 藤本 喜久雄(ふじもと きくお、1888年〈明治21年〉1月12日 - 1935年〈昭和10年〉1月9日)は、大日本帝国海軍の造船官。最終階級は海軍造船少将、位階勲等は従四位勲三等。石川県出身。 斬新な発想の持ち主で、新技術の導入に熱心であった。長門型戦艦の悩みの種であった、艦橋に煙突の排煙が逆流してしまう問題を、第1煙突を後ろに大きく曲げて「屈曲煙突」にする独自の発想で解決した。先輩の造船官である平賀譲から「屈曲煙突は戦艦の威容を損ねる」と批判されたものの、長門型の艦容は「芋虫煙突」と日本国民から親しまれた。同様の煙突は、他国海軍でも採用された。 1927年に、艦艇設計の責任者である海軍艦政本部第四部基本設計主任に就任し、最上型重巡洋艦・初春型駆逐艦などを設計した。
松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)… 松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)1月11日 - 1948年(昭和23年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県上妻郡川崎村(八女郡川崎村を経て現八女市)で、土木請負業・松尾藤蔵の二男として生まれる。 三菱合資会社に勤務。1917年(大正6年)嘉穂郡碓井村(現嘉麻市)に松尾鉱業所を設立。その後、稲築村山野(現嘉麻市)の中西炭鉱 (株) の坑長に転じた。1926年(大正15年)田川郡に糸飛炭鉱 (株) を設立。1934年(昭和9年)直方市郊外に新高紅炭鉱を開鉱し、後に小林鉱業 (株) に譲渡した。その他、石炭鉱業互助会相談役、金丸鉱業取締役、久恒鉱業顧問、田籠鉱業顧問、藤井鉱業顧問、三崎鉱業顧問、九州曹達顧問などを務めた。
鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月1… 鈴木 文助(すずき ぶんすけ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉11月8日)は、日本の生物学者(生化学・農芸化学)。旧姓は「荒木」(あらき)。京都帝国大学農学部教授、農学部教授。 1888年(明治21年)1月、福島県に生まれた。上京して東京帝国大学の農科大学に進学し、農芸化学科にて学んだ。このとき鈴木梅太郎に師事し、のちに梅太郎の娘婿となった。1912年(明治45年)、東京帝国大学の農科大学を卒業。なお、後年に博士論文「『ビオス』ニ関スル研究」を執筆し、1925年(大正14年)に東京帝国大学より農学博士の学位が授与された。 大学卒業後は生物学者として研鑽を重ね、1923年(大正12年)に京都帝国大学教授に就任。
村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月1… 村井 倉松(むらい くらまつ、1888年〈明治21年〉1月10日 - 1953年〈昭和28年〉10月23日)は、日本の政治家。青森県八戸市の8代目市長。 青森県上北郡百石村(百石町→おいらせ町の前身)に生まれる。青森県立第二中学校(現青森県立八戸高等学校)、京北中学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業、東亜同文書院教授。 1913年(大正2年)に東亜同文書院教授を退任。1914年(大正3年)高等文官試験外交科(外交官及領事館試験)に合格し、同年在長春領事官補、高等官七等となる。 在ホノルル領事官補を経て、1918年(大正7年)在ニューヨーク領事官補。1919年(大正8年)在中国外交官補。
野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964… 野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本のジャーナリスト、放送経営者。朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長、第8代日本放送協会(NHK)会長を歴任。広島県双三郡原村(現・三次市十日市町)出身。 旧制三次中学校(現・広島県立三次高等学校)を経て1911年、早稲田大学専門部法律学校卒業。立憲政友会の機関誌中央新聞に就職、続いて徳富蘇峰社長の國民新聞に移った。ここで原敬の信頼を得て政治記者として大成の道を歩む。1920年朝日新聞社入社。38歳で政治部部長となり取材体制の近代化、政治記事の刷新を行い、記憶力のよさと行動的取材力で「夜討ち朝駆け」の記者像をつくったと言われる。
原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日… 原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日 - 1946年〈昭和21年〉2月26日)は、大正・昭和期の華族・政治家。栄典は従三位勲三等男爵。 最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担い、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。各方面に奔走する「原田男」の名は、政変があるたびに紙面を賑わすほどだった。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。 1888年(明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。
円谷(圓谷)弘(つむらや ひろし、1888年1月7日 - 1… 円谷(圓谷)弘(つむらや ひろし、1888年1月7日 - 1949年11月1日)は、社会学者。日本大学初代理事長。 明治21年(1888年)1月7日、秋田県仙北郡角館町に秋田藩士の家に生まれる。文部省につとめ、日本大学教授を兼ねた。のちベルリン大学に留学後、日本大学の予科長、理事、常務理事を経て、昭和21年(1946年)初代理事長となる。 大正9年(1920年)、日本大学社会学科を創設。科長として就任 昭和2年(1927年)、月刊誌『社会学徒』を発刊(昭和2年4月〜昭和19年6月) 昭和9年(1934年)、『集団社会学の研究』で日本大学より文学博士を取得 昭和21年(1946年)、日本大学初代理事長に就任
阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 … 阿部 良夫(あべ よしお、1888年〈明治21年〉1月6日 - 1945年〈昭和20年〉4月15日)は日本の物理学者、新聞社社長。 阿部宇之八の長男として北海道札幌区に生まれる。北海道庁立札幌中学校から第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。1913年(大正2年)4月から8月までシーメンス・シュッケルト社(現・シーメンス)技師、1916年(大正5年)4月から早稲田大学高等師範部講師、1920年(大正9年)4月から早稲田大学高等学院教授となり、科学哲学と科学史の研究に精励する。1923年(大正11年)10月辞職。父の死去に伴い、1925年(大正14年)に北海タイムス社理事、1927年(昭和2年)に同社社長となる。
中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 19… 中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 1977年12月22日)は、日本の柔道家(十段)。内股の名人として有名である。 新潟県五泉町(現:五泉市)で出生。17歳で上京し講道館に入門。また東京正規英語学校(現:正則学園高等学校)を経て日本大学殖民科で学ぶ。 自然体から左右の内股・跳腰等は後の柔道発展に大きな影響を与えた。 伝説と呼ばれるほどの中野の内股は柔道形にある後ろに崩して投げる技とは違い、腰で跳ね上げるタイプの内股であった。相手が左極端でも右極端でも、押していても引いていても投げられたという。 「新しく内股をやり始めたと言っても、その基礎は跳腰でやっていたから、そんなに苦労はなかった」、「内股は、胸と腰さえ取れば、それほど足を突っ込まなくてもかかる。
安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 195… 安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 1957年8月11日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 福岡県宗像郡河東村(現在の宗像市)出身。1907年に東筑中学校を卒業。吉田組、(出光商会)、内国通運での勤務を経て、1937年に日本通運理事および台湾支社長に就任し、1946年に副社長に就任した。1954年には社長に昇格した。それまでの社長はいずれも鉄道出身者であったが安座上は初の社員出身の社長となった。 日本経営者団体連盟常任理事も務めた。
井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1… 井内 彦四郎(いうち ひこしろう、1888年(明治21年)1月4日 - 1969年(昭和44年)11月6日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)に入社し、その子会社の参宮急行電鉄(参急)専務取締役を務め、同社の路線規模拡大の先導役となった。高知県出身。 高知県安芸市(当時は安芸郡安芸町)、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎を輩出した街で生まれた井内は、明治39年に県立第三中学校(後の安芸高校)を卒業、東京高等商業学校(後の一橋大学)に進学後、岩崎弥太郎の従弟である豊川良平から三菱系列へ入社することを推薦された。しかし、「三菱は既に組織が整っており、私のような鈍才がいってもやる事はない。
両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1… 両角 業作(もろずみ ぎょうさく、1888年(明治21年)1月4日 - 1963年(昭和38年)9月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 長野県諏訪郡湖東村[要出典](現茅野市)出身。諏訪中学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。同連隊中隊長などを経て、陸軍歩兵学校で甲種学生として学んだ。 以後、陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。
古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 19… 古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 1974年11月16日)は、日本の教育者。青山学院大学学長、青山学院院長・理事長。
大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1… 大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1983年6月29日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱床学など。東京市生まれ。 私立開成中学校を経て、1911年東京帝国大学理科大学地質学科専科を修了。1912年、創立2年目の秋田鉱山専門学校に講師として赴任。1956年に停年退職するまで、44年間の長きにわたり秋田鉱専・秋田大学鉱山学部で教育・研究に励む。 研究対象は地質・鉱物・鉱床・火山・温泉・地震などと広範囲にわたり、多くの分野で業績を残したが、特に男鹿半島の新第三紀層の研究は、その後のグリーンタフ研究の先駆として高く評価されている。また、特筆に値するのは黒鉱鉱床の成因についての見解で、1920年前後の早い時期から海底爆裂口温泉沈殿説を打ち出し、数十年にわたり四面楚歌の状態で学界から無視され続けたが、1970年前後に至って、初めてその正当性が評価された。
藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2… 藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2日 - 1956年〈昭和31年〉4月29日)は、朝鮮総督府官僚。岩手県水沢市長。 岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市)生まれ。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。青森県属、同警視、同東津軽郡長、同理事官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府に転じた。咸鏡南道警察部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、朝鮮総督府官房秘書課長、平安南道内務部長、同知事を歴任した。その間、1927年(昭和2年)にはジュネーブ海軍軍縮会議に随員として参加した。 1935年(昭和10年)に退官した後は朝鮮洋紙株式会社社長、北鮮製紙化学工業専務取締役などを務めた。
津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一、1888年〈明治… 津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一、1888年〈明治21年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉2月7日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 第二次世界大戦後の外債処理や賠償交渉に道筋をつけたことで知られる。 愛媛県阿野郡坂出村(現・香川県坂出市)生まれ。旧制丸亀中学、旧制一高、1912年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業。大蔵省に入省。理財局属 昭和戦前期の代表的な国際金融官僚であり、金解禁から昭和恐慌を経て高橋財政に至るまでの期間、海外駐在財務官(英、仏、米駐在)などの職にあって、一貫して第一線で実務に関わった。理財局長、大蔵次官、日本銀行副総裁、北支那開発総裁などを経て、1945年(昭和20年)2月、内閣書記官長に転じた蔵相石渡荘太郎の後任として小磯内閣の大蔵大臣に就任。