西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 … 西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。 名古屋市出身。高岡応次の三男として生まれ、1905年(明治38年)に西脇長太郎の婿養子となった。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入った。大蔵省では税務監督官などを務め、1916年(大正5年)に退官した。退官後は弁護士・弁理士として活動した。 1926年(大正15年)、衆議院補欠選挙に当選。以後、当選回数は4回を数えた。その間、齋藤内閣では外務参与官を務めた。その他、法政大学講師、帝国製鉄・蔵内商事・満蒙土地建物・横浜倉庫監査役、大阪造船所取締役などを兼ねた。
川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年… 川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉6月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県新田郡尾島町前小屋(現・太田市前小屋町)出身。川岸虎造の三男として生まれる。太田中学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉任官。日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 清国駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付、参謀本部員、第1師団参謀などを歴任し、1924年(大正13年)2月から1929年(昭和4年)まで侍従武官を務めた。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1… 金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1948年11月27日)は、日本の植物学者・林学者。九州帝国大学教授、陸軍司政長官を歴任。 金平惣伍の三男として岡山県に生まれる。東京帝国大学を卒業後、台湾総督府技師となり、同府営林局、中央研究所林業部長などを歴任した。1928年(昭和3年)九州帝国大学教授となり、1942年(昭和17年)3月に退官した。同年11月、陸軍司政長官に就任した。台湾のほかフィリピン、ニューギニア、ペルーなどで植物、特に森林資源の調査を行った。 この項目は、植物学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日… 岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日 – 1962年(昭和37年)4月21日)は、大正から昭和期の政治家。参議院議員、徳島県会議長。 徳島県三好郡芝生村(三野村、三野町芝生を経て現三好市)で、岸野藤三郎の長男として生まれる。県立中学校を卒業した。一年志願兵として入隊し陸軍中尉に昇進し、のちに帝国在郷軍人会三好郡聯合分会長を務めた。 三好郡会議員を経て、1923年(大正12年)徳島県会議員に選出され24年間在任し、この間、参事会員、副議長を務め、1937年(昭和12年)県会議長に就任した。この間、大政翼賛会徳島県支部顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に徳島県地方区から出馬して当選し(補欠、任期3年)緑風会に所属したが、公職追放となり任期途中の同年7月2日に辞職し、参議院議員に1期在任した。
黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月3… 黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月30日 - 1944年(昭和19年)3月8日)は、明治から昭和前期の華族、政治家。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。 福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。 1896年(明治29年)断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。1906年(明治39年)イギリス、ケンブリッジ大学に留学した。 1899年(明治32年)東宮職出仕。宗秩寮審議官、衆議院議員選挙革正審議会委員、内閣制度審議会委員、議会制度審議会委員、議院制度調査会委員、貴族院制度調査会委員などを務めた。
岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月2… 岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月28日 - 昭和5年(1930年)10月16日)は日本の実業家で、旭硝子の創業者。
松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 196… 松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 1966年8月13日)は、日本の英文学者。中央大学名誉教授。 東京生まれ。1905年東京帝国大学英文科卒。在学中は、小泉八雲・夏目漱石に学び、卒業後、同大学の講師を経て、1944年高千穂経済専門学校(現高千穂大学)教員、1951年中央大学文学部教授、64年定年退職、大正大学教授、駒澤大学教授を務めた。講師として東大文学部で行った講義は、仏教信仰を基礎とした文学論で知られ、芥川龍之介などがこれを聴講した。養子に松浦孝作(旧姓・小面、教育社会学、東京学芸大学名誉教授、1910-2001)がいる。孝作の長女も教育学者の山崖俊子(1944- )津田塾大学名誉教授。
吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月2… 吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月25日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 高知県出身。第一高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1907年(明治40年)統監府財政監査庁に入り、書記官となった。その後朝鮮総督府道事務官となり、平安北道第二部長、慶尚北道第一部長、仁川府尹を歴任し、1921年(大正10年)から京城府尹を務めた。
香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月2… 香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月25日 - 1954年(昭和29年)12月3日)は、日本陸軍の軍人。陸士12期、陸大21期。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位勲一等功四級。陸軍中将・香椎秀一の弟。皇道派。 福岡県嘉穂郡大隈町(現:嘉麻市)出身。士族・香椎昌の次男として生まれる。市ヶ谷の陸軍幼年学校を経て1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。同期に杉山元、畑俊六、小磯国昭、二宮治重、柳川平助らがいる。 1904年、日露戦争に中隊長として参加し負傷する。帰国後陸軍大尉に昇進。1909年、陸軍大学校(21期)を卒業。寺内寿一、植田謙吉、中村孝太郎、西義一、古荘幹郎、建川美次、多門二郎らが同期。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月2… 篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1917年〈大正6年〉6月20日)は、日本の盲教育者、聾唖教育者。北海道で最初に聾唖教育を行なった人物であり、北海道の聾唖教育の父といわれる。東京市本所区松坂町(後の東京都墨田区両国)出身。 幼少時の眼病により、ほぼ失明に近いほどの極度の弱視となった。愛知県西加茂郡挙母の外四ヶ村立小学校高等科を卒業後、眼病のために仕事が長続きせず、姉の嫁ぎ先を頼って北海道函館区(後の函館市)へ渡るなどして職を転々としていたところ、視覚障害児のための教育団体である函館訓盲会(後の北海道函館聾学校)の存在を知った。1897年(明治30年)より勉学に励み、翌1898年(明治31年)に同会の教員となり、盲教育の道に入った。
片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)… 片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)1月21日 – 1959年(昭和34年)12月9日)は、明治末から昭和前期の台湾総督府官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 福岡県企救郡曽根村(現:北九州市小倉南区)で片山勝太郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)を首席で卒業。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格し、台湾総督府税務官、専売局事務官、参事官、総督官房調査課長、内務局学務課長、台湾総督府高等商業学校長を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙(福岡県第4区、立憲政友会公認)に出馬し、当選を果たした。
平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1… 平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1950年12月10日)は、日本の裁判官。 広渡寺住職、飯能学校教員を務めた平山鳳琳の長男。母は飯能焼の絵付師腰塚小四郎の娘。埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身。飯能小学校高等科、麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学法科を経て、裁判官になった。 浦和地方裁判所判事、那覇地方裁判所長、横浜地方裁判所長、鳥取地方裁判所長、松江地方裁判所長などを勤めた。高等官一等正四位勲三等。69歳で死去した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉… 稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の実業家。稲岡商店合名会社代表社員、イカリ印タオル製造業。族籍は兵庫県平民。 兵庫県印南郡西志方村(現・加古川市)・稲岡九平の二男。早くからタオル製造業に着眼し、斯業の要諦を具に研鑽する。1906年、組織を資本金30万円の合名会社に変更する。後に分家する。 西志方村本工場及び宝殿、天神、池尻、田原の四分工場を有し、大阪、岡山、別府の三ヶ所に出張所を設け、月産優に15万ダースを超え、タオル製造にては本邦首位を占め、その製品のイカリ印タオルは全国業界に最優秀品として喧伝される。 趣味はスポーツ、読書。宗教は真宗本願寺派。
小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)… 小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)1月16日 - 1929年(昭和4年)8月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県中頸城郡、のちの原通村中島(現妙高市)で、小川又三郎、さい夫妻の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1904年(明治37年)4月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、近衛師団参謀、イタリア駐在を務め、1916年(大正5年)5月、歩兵少佐に昇進した。
石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 … 石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 - 1947年1月19日)は、日本の理論物理学者・科学啓蒙家・歌人。弟は石原謙。歌人としての名義は石原 阿都志(あつし)。歌人の原阿佐緒との不倫が報じられ、東北帝国大学を辞職したことでも知られる。 東京府出身。日本基督教会本郷教会牧師石原量と、ちせの長男として生まれる。キリスト教学者・石原謙は弟。郁文館中学、一高を経て、1906年7月 東京帝国大学理科大学を卒業し、同学大学院で長岡半太郎に学ぶ。1908年4月に陸軍砲工学校教授、1911年5月に東北帝国大学助教授となる。1912年3月から1914年5月にかけてヨーロッパに留学し、アルノルト・ゾンマーフェルト、マックス・プランク、アルベルト・アインシュタインらのもとで学ぶ。
川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1… 神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月6日 - 1966年(昭和41年)3月24日)は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身。 岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった。 その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった。その後、第六高等学校へ入学、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した。
山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 193… 山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 1936年1月9日)は、日本の内務官僚。県知事。 山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官・警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官・大臣官房会計課長兼地理課長を経て、1922年、都市計画局長となる。 1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事、兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。
藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1… 藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1月2日 - 1965年(昭和40年)4月25日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県東みよし町出身。号は楽山。 旧三好郡三好町足代(現在の東みよし町)生まれ。後に徳島市福島に移り住む。徳島師範学校卒業。師範学校卒業後、小学校教員・郡視学・県視学・郡長を経て徳島県学務課長・社寺兵事課長・農林課長を歴任。 1927年(昭和2年)、徳島市助役に就任。1933年(昭和8年)に徳島市長に就任、1937年(昭和12年)まで務めた。第二次世界大戦後、一時的に徳島新聞社社長に就任、徳島県選挙管理委員長を歴任した。 1965年(昭和40年)4月25日、85歳で没する。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月… 池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月1日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の外交官。内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。 長崎県出身。池邊政五郎の三男。私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。
入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1… 入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1日 – 1938年(昭和13年)1月17日)は、日本の朝鮮総督府官僚。南満洲鉄道理事。拓務次官。玄洋社社員。 福岡県宗像郡(現・宗像市)出身。1900年(明治33年)福岡県中学修猷館、1904年(明治37年)7月第七高等学校造士館法科を経て、1908年(明治41年)7月東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、統監府嘱託となった。翌年に高等文官試験に合格し、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、総務部会計局経理課長、総督官房会計課長、度支部理財課長を歴任した。1917年(大正6年)、内閣拓殖局書記官に転じ、第一課長、南満洲鉄道株式会社監理官、東洋拓殖株式会社監理官などを務めた。
平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日… 平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日 - 1958年(昭和33年)7月26日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し、衆議院議員選挙に通算6回当選し逓信参与官を務めた。 静岡県庵原郡由比町(現在の静岡市清水区)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部政治科を卒業。『時事新報』記者を務めた。 1922年(大正11年)、衆議院議員補欠選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たした。その間、岡田内閣で逓信参与官を務めた。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。 戦後、公職追放となる。
益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)… 益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)1月1日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、明治 - 昭和前期の日本画家。「玉城」は雅号。本名は「珠城」(たまき)と表記される。宮崎県都城生まれ。 同郷の山内多門とともに上京し、川端玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。 大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、1920年・1921年・1928年・1929年の各年に帝展入選を果たし、1931年(昭和6年)には《姫街道》で無鑑査推薦となる。
横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演したことで、日本の映画俳優第一号となった。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。 1881年(明治14年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)に生れる。 1893年(明治26年)、新派劇の草分けである、角藤定憲の一座に入り、子役として舞台に立つ。1899年(明治32年)、上京して、「赤坂演技座」で書生芝居に出演。同年、駒田好洋の「日本率先活動写真会」が日本での活動写真制作を開始。三越写真部の柴田恒吉と共同で、同年に実際に起こった脱獄事件を題材に、日本最初の劇映画『ピストル強盗清水定吉』を製作。
泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治… 泉 斜汀(いずみ しゃてい、本名:泉 豊春、1880年(明治13年)1月31日 - 1933年(昭和8年)3月30日)は、日本の小説家。泉鏡花の弟。作家の泉名月は実子。 石川県金沢市出身。下町小説、狭斜小説を多く発表し、代表作に『木遣くづし』(「新小説」明三五・二)『松葉家の娘』(大三・六 鳳鳴社)『離縁状』(「新小説」明三六・一一)『深川染』前、後編(明四〇・五 春陽堂)がある。墓所は雑司ヶ谷霊園にあったが2024年新宿区圓福寺に移転された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月… 立花 種忠(たちばな たねただ、1880年(明治13年)1月30日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員、東京府荏原郡入新井町長。旧名・恭忠。 旧三池藩主・立花種恭の八男として東京府深川区深川東元町(現江東区)で生まれる。父の死去に伴い種忠と改名し、1905年(明治38年)2月13日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、明治大学を修了した。1907年(明治40年)12月、一年志願兵として騎兵第1連隊に入隊。1911年(明治44年)5月、陸軍騎兵少尉となり、さらに同中尉に昇進した。 1914年(大正3年)7月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月8日に辞職するまで五期在任した。
立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月2… 立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月28日 – 1942年(昭和17年)11月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。貴族院子爵議員。陸軍政務次官。
菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 -… 菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ、男性、1880年1月25日 - 1937年7月21日)は、福岡県出身のジャーナリスト。五・一五事件に際し、福岡日日新聞の紙上で軍部批判・憲政擁護の論陣を張ったことで知られる。六鼓(六皷)は号で、本名は淳(すなお)。兄に政治家の菊竹博之がいる。 菊竹六鼓の論説は、昭和初期に軍が議会制民主主義をないがしろにした日本近代政治史の転換点において、一貫してメディアを通して戦う姿勢を見せたものであった。その代表は、大正期から護憲運動の擁護者で軍備縮小を進めた犬養首相を暗殺した五・一五事件についての論説であり、全国の大手新聞社が軒並み軍部支持の記事を掲げ、世論を軍国主義へ誘導し、あるいは軍国主義世論に迎合する中でのものであった。
国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13… 国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13年)1月25日 - 1960年3月20日)は、明治時代の大相撲力士。本名は大野 治三郎。年寄楯山。 岐阜県席田郡仏生寺村(現在の本巣市)出身。愛知相撲の三ツ湊に入り、緑島と名乗る。その後三ツ湊により東京相撲の友綱に預けられ、1900年1月友緑で序ノ口。1903年5月国ノ音に改名。1905年1月三段目、その年日露戦争に従軍し、勲八等白色桐葉章となる。小柄で出世に乏しかったが、現役時代に師匠の姪を妻とした。年寄の資格は幕下以上と当時制限されていたが、1910年6月友響と改名し、好成績で1911年2月幕下に昇進し、その場所限り引退。年寄楯山となる。
布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1… 布施 現之助(ふせ げんのすけ、1880年1月24日 - 1946年12月12日)は、解剖学者。医学博士。専攻は神経解剖学。
上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 195… 上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 1953年2月21日)は、日本の彫刻家。広島県賀茂郡川尻村生まれ。 1880年(明治13年)1月23日、広島県賀茂郡川尻村(現在の呉市川尻)宮大工の第一人者と称された上田治作の次男に生まれる。 1906年(明治39年)大阪産業博覧会で高村光雲の「浜辺で遊ぶ子ら」を見て感銘を受け、翌1907年、川尻村光明寺の住職日高緝熙に斡旋された浅草の広楽寺を目指して妻を残し単身上京。東京府下谷区谷中(清水町)真島町一番地にある太平洋画会研究所 に学ぶ。木彫を山崎朝雲に師事、塑像を朝倉文雄のもとで研究。旧広島藩第12代藩主浅野長勲に認められ、望月圭介の庇護を受けた。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
鷲尾 健治(わしお けんじ、1880年(明治13年)1月21… 鷲尾 健治(わしお けんじ、1880年(明治13年)1月21日 - 1937年(昭和12年)8月9日)は、日本の教育者。 新潟県西蒲原郡黒埼村(現・新潟市西区)出身。鷲尾政直の三男として生まれた。1904年(明治37年)、京都帝国大学法科大学を卒業。市立大阪高等商業学校教諭、山口高等商業学校教授を歴任。1909年(明治42年)、ドイツ・フランスに留学した。その後、高松高等商業学校教授、山口高等商業学校校長を務め、1932年(昭和7年)に退官した。 その後、同志社高等商業学校校長を務めた。
山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月2… 山崎 次郎(やまさき じろう、1880年(明治13年)1月21日 - 1958年(昭和33年)10月29日)は、日本の外交官。駐アルゼンチン公使。 静岡県に会田和保の二男として生まれ、山崎金重の養子となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学を卒業し、法科大学法律学科仏蘭西法兼修。 翌年に外交官及領事官試験合格した。領事官補として広州、牛荘に、外交官補としてスペインに勤務した。さらにリヨン領事、アメリカ合衆国大使館三等書記官、アルゼンチン公使館二等書記官、同一等書記官、同代理公使、外務書記官・通商局総務課長、翻訳課長、会計課長、在ソビエト連邦日本国大使館参事官、ブラジル大使館参事官を歴任した}。
木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日… 木島 茂(きじま しげる、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月9日)は、日本の内務官僚。滋賀県彦根市長。広島県三原市長。彦根市名誉市民。 広島県豊田郡忠海町(現在の竹原市)出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年、高等文官試験に合格し朝鮮総督府事務官、新潟県北魚沼郡長、福島県耶麻郡長、高知県警察部長、長崎県警察部長、山梨県内務部長、警視庁書記官・警務部長、大阪府内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)に退官した後は弁護士を開業していたが、1937年(昭和12年)に初代彦根市長に選出され、1941年(昭和16年)まで務めた。 戦後の1946年(昭和21年)6月には三原市長に就任したが、11月に退任、間もなく公職追放となった。
尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月2… 尾佐竹 猛(おさたけ たけき、1880年〈明治13年〉1月20日 - 1946年〈昭和21年〉10月1日)は、日本の法学者(専門は法制史)、明治文化研究者。学位は法学博士。大審院判事。号は雨花子。 1880年1月20日、石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現:明治大学法学部)に学び、1899年に卒業。同年、第1回判事検事登用試験に合格し、1924年、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務める。1924年から1942年まで大審院判事。 判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、188… 白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、1880年(明治13年)1月19日 - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 鹿児島県鹿児島市出身。池田休兵衛の四男として生まれ、1885年、母方の白男川渉の養子となる。第三高等学校を卒業。1906年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大阪市に入る。1909年12月、文官高等試験に合格。内務省に転じ沖縄県属となる。 以後、福井県三方郡長、富山県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁土木部長、奈良県内務部長、京都府内務部長などを歴任。 1921年5月、床次竹二郎内務大臣により起用され福井県知事に就任。
淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 -… 淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 - 1937年1月13日)は、日本の実業家、運搬業者、請負業者。昭和期の地下鉄御堂筋線建設などに従事した。 1880年1月16日、石川県江沼郡我谷村(のち西谷村、現加賀市)の淺山金四郎の三男として生まれる。三男であったため、本家の家督は継がず(長男千太郎が家督を継ぐ)他の兄弟とともに大阪へ出て運送業を始める。『人事興信録』には1923年(大正12年)に三男金五郎が分家したと記載されている。これ以後の淺山家兄弟の動向に関しては、二男仁太郎は西野田今開町を拠点に土佐堀で回漕業(運搬船業)を起業し、五男定吉とともに海上運送業務に携わっていたが、東区北久宝寺の合資会社山口運送店設立の際に四百圓出資している。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月… 北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月13日 - 1931年〈昭和6年〉12月9日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡四賀村(現在の諏訪市)出身。長野県師範学校を経て、1906年(明治39年)に東京高等師範学校を卒業した。福井県師範学校を経て、東京女子高等師範学校教授・同附属高等女学校教諭・同附属小学校主事を務めた。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までドイツに留学し、帰国後は東京女子高等師範学校附属高等女学校主事となった。ドイツから帰国後、作業教育を提唱した。
佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日… 佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日 - 1940年(昭和15年)9月9日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)。旧姓・永江。 永江慎一の五男として長崎県に生まれ、佐保ケサの養子となり、1909年(明治42年)家督を相続する。1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。農業を営む傍ら、佐世保市会議員、長崎県会議員、同参事会員、鉄道大臣秘書官を歴任する。また、佐世保商工会議所議員、佐世保信託、肥薩貯金、佐世保土地、九州鉄工所各取締役、佐世保鉄工所、大和屋洋服店各取締役社長、佐世保貯蓄銀行監査役などを歴任する。南洋方面視察および派遣軍慰問のため満州、北支那に派遣された。
瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月1… 瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月10日 - 1968年(昭和43年)8月21日)は、日本の船長、第二代日本海事検定協会会長。位階は従五位。 牧師である父、瀬川浅と母つやの長男として佐賀県で生まれ、その後すぐ長崎市へ移り、同地で育つ。 東山学院を経て、1906年(明治39年)に東京商船学校を卒業後、日本郵船に入社。英国留学の経験や英語が得意だったことを活かして、主に欧州航路の乗組船員として乗務に就いた後、小樽丸、加賀丸、靖国丸等の船長を務める。 1933年(昭和8年)に日本郵船を退職、1935年(昭和10年)日本海事検定協会に検査員として就職し、横浜出張所所長や理事などを務めた。
河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 195… 河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 1958年3月29日)は、明治期から昭和期の実業家、時計商。河北時計店社長。旧姓、牛島。 九州福岡県八女郡出身。 東京に出て、立教大学商学部に入学。この頃、築地にあった立教大学の寄宿学生たちは、「天國は近づけり、汝等食ひあらためよ」と吟じつつ、夕方になると銀座をふらついては、木挽町にあった天丼屋の「天國」で天丼2杯ほどをペロリと平らげて群歩いていたが、林吾もそうした中の一人だった。また林吾は、学生当時、立教最初の英語劇を催した一人であった。 1911年(明治44年)、立教大学商学部を主席で卒業。立教大学第1回卒業生として、小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長、文学部卒)や、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長)と同級生。
小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961… 小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961年7月30日)は、日本の内務官僚、検察官、弁護士。政友会系県知事。 千葉県出身。小幡締次郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法省に入り、千葉地方裁判所・津地方裁判所・名古屋地方裁判所・浦和地方裁判所・東京地方裁判所などの検事を歴任。 1917年(大正6年)1月、内務省に転じ警視庁保安部長に就任。以後、愛知県・大阪府の各内務部長などを歴任。 1922年(大正11年)10月、高知県知事に就任し、郡道の県立移管問題や発電所の増設に尽力。さらに、鹿児島県知事、徳島県知事を務める。1926年(大正15年)9月28日に知事を休職。
石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月… 石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月4日 - 1947年〈昭和22年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 秋田県南秋田郡秋田町中長町(現秋田市中通)出身。新聞記者、秋田時事新聞主幹、秋田新聞社、東北拓殖、東北物産商事、能代無尽各(株)取締役、秋田木工、辛酉銀行各(株)代表取締役となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選した。1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立候補したが次点落選。最下位当選者とは1票差だった。しかし、同年12月に同じ選挙区の中田儀直の当選無効により、更正決定で議員となる。