高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2… 高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2日 - 1957年〈昭和32年〉3月31日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。旧姓は千種。 旧水戸藩の北辰一刀流指南役・千種甲午郎茂春の次男として茨城県水戸に生まれる。小学校の仲間に、内藤高治の甥で後に横綱力士となる常陸山谷右エ門がいた。茂義は力が強く、相撲部屋への入門を勧められたこともあったという。 14歳で父を亡くし、旧弘道館剣術方教授小澤寅吉の道場・東武館で剣術を学ぶ。1895年(明治28年)、高野佐三郎(中西派一刀流)の道場・浦和明信館に入門。1900年(明治33年)、高野佐三郎の養子となる。 1914年(大正3年)、南満州鉄道株式会社の招聘を受け、終戦まで同社の剣道師範を務める。
黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)… 黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)1月1日 – 1967年(昭和42年)3月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の栃木県塩谷郡高根沢町で黒崎邦三郎の子として生まれる。1897年(明治30年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に砲兵少尉に任じられた。さらに1908年(明治41年)に東京帝国大学工科大学電気科を卒業した。大阪砲兵工廠技術課長、陸軍技術本部総務部長、大阪砲兵工廠弾丸製造所長、陸軍技術本部第一部長を歴任した。1927年(昭和2年)、陸軍中将に昇進し、翌年には陸軍科学研究所所長に就任した。1932年(昭和7年)、予備役に編入された。 その後、奉天造兵所株式会社代表取締役、満洲計器股份有限公司監査人、奉天商工会議所特別議員を務めた。
田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10… 田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 京都府南桑田郡亀岡町(現・亀岡市)で実業家・田中源太郎の長男として生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、さらに同専攻部を卒業。 1907年(明治40年)以降、京都工商社長、同会長、亀岡銀行頭取、伏見銀行取締役、京都織物社長、同会長、京都電燈社長、京都商工会議所議員、京都取引所理事などを務めた。 1925年(大正14年)京都府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、公正会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで1期在任した。
信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 … 信太 時尚(しのだ ときなお、1877年〈明治10年〉1月 - 1922年〈大正11年〉9月23日)は、日本の内務官僚。 秋田県出身。士族柿岡源十郎の二男として生まれる。信太家には養子に入った。 第二高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月の文官高等試験に及第し、司法省司法官試補から内務省に転じた。 以後、和歌山、福井、山梨各県の事務官、滋賀県港務部長、島根県内務部長、長崎県港湾部長を歴任するが、この間、呼吸器を患い2年ほどの休養をとっている。 その後、高知県内務部長、長崎県内務部長を経て、1921年(大正10年)12月、富山県知事に任命され、翌年1月12日に着任した。
堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 … 堀江 久勝(ほりえ ひさかつ、1877年(明治10年)1月 - 没年不明)は、広島高等学校教授。族籍は長野県士族。 長野県士族・堀江久次の二男。松本市生まれ。1927年、家督を相続。1904年、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。茨城県立太田中学校教諭、秋田鉱山専門学校教授同生徒監、山形高等学校教授等を歴任。 1922年、倫理及び教育研究のため独英に留学し、1924年、広島高等学校教授に任ぜられ1932年、退官する。趣味は文学、絵画、園芸。宗教は仏教。住所は広島市白島九軒町、東京市世田谷区玉川等々力町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石川 文吾(いしかわ ぶんご、1877年(明治10年)1月 … 石川 文吾(いしかわ ぶんご、1877年(明治10年)1月 - 1946年(昭和21年)11月20日)は、日本の商学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 東京府出身。海軍省技師などを務めた祖父の石川正員に養われ、1897年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1899年からベルギー、ドイツ帝国に留学。高等商業学校附属外国語学校(現東京外国語大学)助教授、高等商業学校助教授、同教授を経て、1920年東京商科大学予科主事、明治大学商学部教授。1922年東京商科大学教授兼予科教授、汎太平洋協会商業会議政府代表員、商学博士。1935年社会保険調査会委員。1937年叙正三位。1940年教育功労者並徳行者表彰受賞。
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日… 臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30… 牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県玉名郡弥富村(現・玉名市)出身。牛島義雄の五男として生まれる。1893年(明治26年)12月、陸軍教導団に入り、1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1904年7月、歩兵第24旅団副官となり日露戦争に出征。1906年3月、歩兵第23連隊中隊長となり、歩兵第1連隊中隊長を経て、1912年(大正1年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年5月、参謀本部員となり、歩兵第54連隊大隊長、陸大教官を経て、1921年11月から翌年2月までアメリカ合衆国に出張。
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1… 原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。
堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926… 堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926年2月3日)は、日本の内務官僚。警視総監、内務次官。 福島県安積郡河内村(現:郡山市)で堀田喜左衛門の二男として生まれる。安積中学、第二高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。逓信省に入り通信属として通信局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に転じ内務属として地方局に配属された。 1905年11月、千葉県事務官に就任。以後、千葉県第三部長、神奈川県事務官、茨城県事務官・警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長、内務省参事官兼内務大臣秘書官兼官房文書課長、大臣官房会計課長兼文書課長、京都府内務部長などを歴任。
小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、187… 小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、1876年〈明治9年〉1月28日 - 1959年〈昭和34年〉11月25日)は、日本の政治家、新聞経営者。第33代衆議院議長(1937年7月 - 1941年12月)。歿時正三位勲一等旭日大綬章受章。 長野県佐久郡小諸与良町(現:小諸市)に、生糸仲買人・小山与右衛門の長男として生まれる。1895年(明治28年)、東京専門学校(現:早稲田大学)法律科を卒業後、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行っていた。1900年(明治33年)、大阪朝日新聞より戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界入りすることとなる。 帰国後の1902年(明治35年)、大阪朝日に正式採用され、名古屋通信部に赴任する。
泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27… 泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27日 - 1947年〈昭和22年〉10月25日)は、日本の刑法学者、裁判官、司法官僚。第20代大審院長、第13代大審院検事総長、枢密顧問官。法学博士。奄美大島出身で、「東京奄美会」初代会長。 鹿児島県大島郡中勝村、現在の龍郷町中勝出身。泉二当整の長男。中勝小学校簡易科に入学し、後に簡易科廃止・学校統合により戸口小学校に通学。1887年(明治20年)名瀬小学校に転校し、その後同校を卒業。1889年(明治22年)、名瀬に高等小学校が設置され、1期生として入学。1890年(明治23年)、母方の叔父である大島信の勧めにより、高等小学校1年修了で上京して郁文館中学校(旧制)に入学。
三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 195… 三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 1950年2月6日)は、日本の法医学者、血清学者。 1876年、岩手県盛岡で関定昌の三男・関定則として生まれた。盛岡中学を卒業。東京帝国大学医科大学専科で学び、1901年に卒業。1904年、岩手医科専門学校(現:岩手医科大学)創立者の三田俊次郎の養子となった。 1901年、東京帝大医科大学医化学教室に入った。1904年に助教授となり、法医学講座に転じた。法医学講座の初代教授は法医学の父と言われた片山国嘉で、その後を継いで法医学講座を担当した。1907年にドイツ、フランスに留学を命じられ、血清学を研究。1912年に帰国。1914年、医学博士号を取得。
西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)… 西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1957年(昭和32年)12月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府伊勢田(小倉村 (京都府)とも。現宇治市)出身。同志社予備学校、第二高等学校を経て1904年東京帝国大学法科大学政治科卒。二高と東大では吉野作造と同期だった。 大学卒業後、京都の六條生命保険(1899-1907、大阪の中央生命保険の後身)の整理局、マニファクチァラーズ保険会社(Manufacturers Life Insurance, 現・マニュライフ生命保険)日本中央部総支配人、内外肥料社長などを務め、1915年からは同志社校友会会長、同志社財団理事も務めた。
岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月2… 岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1955年(昭和30年)11月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、久留米市長。 三潴県三井郡通町(現福岡県久留米市通町)で、3代・岡茂平の三男として生まれる。父の死後、兄が事業に失敗して朝鮮に渡ったため、岡家の再興を志し、1924年(大正13年)母が死去すると直ぐに中国・青島に渡航して沈没船引揚業を営んだ。私財を蓄えて帰国し、久留米絣 (株) の支配人を経て絣問屋を設立した。その後、久留米商工会議所議員、久留米縞同業組合議長、久留米絣同業組合議長、地方森林会議員、福岡県教育会評議員、同県国防会参与、久留米絣工業組合連合会副理事長、久留米畜産組合長などを務めた。
山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月2… 山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月22日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。長野新聞社・新潟日報社で主筆・社長を務める。 長野県会議員、同参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たす。第16回、第18回でも再選された。その後、稲荷山町長を務めた。 その他に、大日本法令出版株式会社取締役、帝国法規出版株式会社取締役、鹿曲川水力電気会社取締役などを務めた。
大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月1… 大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月16日 - 明治44年(1911年)6月14日)は明治時代の日本画家。 尾形月耕及び川端玉章の門人。明治9年(1876年)1月16日、東京府京橋に生まれる。本名は新之助。幼少から絵を好み、始め京橋桶町の尾形月耕に絵の手ほどきを受け、後に玉章に師事する。同門の結城素明とともに東京美術学校日本画科に入学、師玉章の指導する第三教室において俊秀の誉れがあった。明治24年(1891年)の日本青年絵画協会臨時研究会に「楓亀」を出品すると五等褒状、明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「朧月白鷺」を出品すると三等褒状を受ける。その後、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会に「錦魚」、「空濶」を出品、前者により二等褒状、明治30年(1897年)春の同第2回絵画共進会に「月」を出品して一等褒状、同年秋の同第3回絵画共進会に「夏の海」、「妙音」を出品、後者で一等褒状を受賞、明治31年(1898年)春の同第4回絵画共進会には「海岸」を出品している。
松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日… 松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日 - 1954年(昭和29年)11月29日)は、日本の男性実業家。南洋興発の創業者で初代社長。 1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(東京高等工業学校、東京工業大学を経て、現東京科学大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。
岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 … 岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 - 1960年3月28日)は、愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者。初めて台湾の鉱物を採集した事で知られる。北投善光寺に彼の頌徳碑が現存する。 著書に『台湾鉱物調查報告』(1911年)、『台湾産北投石調查報告文』(1916年)、『福岡県鉱物誌』(1944年)などがある。 子供のときに受けた理科の授業に影響を受け鉱物に興味を持つようになる。 1899年4月に台湾へ渡航し、台湾総督府国語学校の教諭として現地台湾人の教育に当たる。翌年、角板山への鉱物採集旅行後、台湾の鉱物に関する研究を開始する。明治38年(1905年)北投温泉の公衆浴場瀧乃湯にて入浴をした帰りに北投石を発見する。
中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日… 中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日 - 1957年(昭和32年)6月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、東京府北多摩郡調布町長。 神奈川県多摩郡上石原村(北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、自由民権運動家中村克昌の長男として生まれる。二松学舎(現二松學舍大学)で学んだ。農業を営む。 1913年(大正2年)調布町会議員に就任。調布町助役、同町長、北多摩郡会議員、同参事会員を務めた。1924年(大正13年)東京府会議員に選出され、同参事会員、営業税調査委員、北多摩郡教育会副会長などにも在任した。 秋本喜七の地盤を受け継ぎ、1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(東京府第7区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12… 光田 健輔(みつだ けんすけ、1876年(明治9年)1月12日 - 1964年(昭和39年)5月14日)は、日本の病理学者、皮膚科医。生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任した。生前は「救癩の父」と崇められ、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する「癩予防法」改正、無癩県運動や「らい予防法」制定の中心人物であり、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴する人物ともされる。贈正三位勲一等瑞宝章。 1876年(明治9年)1月12日、山口県佐波郡中関村(現・防府市)に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。
雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11… 雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11日 - 1922年3月15日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士。愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾(現・名古屋市)生まれ。弟子に山田正三、井上直三郎など。 ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。 「大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。 1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。
喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月… 喜安 璡太郎(きやす しんたろう、1876年(明治9年)1月10日 - 1955年(昭和30年)12月22日)は戦前日本の英語教育者、雑誌編集者。新潟県立高田中学校教諭、早稲田実業学校教員。長年『英語青年』編集を引き受け、引退後は「河畔通信」「鵠沼通信」を連載した。 1876年(明治9年)1月10日愛媛県伊予郡恵久美村(松前町恵久美)の豪農の長男として生まれた。早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年(明治19年)米湊村の高等小学校に編入した。 伯母宅に預けられて松山高等小学校に転校し、『文学之栞』編集に参加した。1889年(明治22年)私立伊予尋常中学校に進学し、1892年(明治25年)卒業した。
橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1… 橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1月7日 - 1947年(昭和22年)2月21日)は、日本の政治家。薬剤師、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1876年、徳島市東新町の薬舗「郡茂」の分家、橋本半太郎の長男として生まれる。 小学校を卒業後、大阪市内にある田辺製薬へ勤務し、その傍ら大阪薬学校(現在の大阪大学薬学部)に入学。1890年(明治23年)、14歳の若さで薬剤師試験に合格。後に東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進学し1894年(明治27年)7月に同校を修了する。 1904年(明治37年)、徳島市会議員に当選。その後、徳島薬業組合長・徳島市商店研究会長・徳島県薬剤師会長を歴任。
吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月… 吉岡 郷甫(よしおか きょうすけ、1876年(明治9年)1月6日 - 1937年(昭和12年)10月10日)は、山口県出身の文部官僚。日本語学者。
加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日… 加藤 耕山(かとう こうざん、1876年(明治9年)1月6日 - 1971年(昭和46年)1月31日)は、明治から昭和を代表する禅僧。最初は曹洞宗であったが、臨済宗に転向した。しかし曹洞宗の4歳年下の沢木興道とは40年来、兄弟のような交わりであった。室号は是々庵。愛知県西加茂郡三好町(現・みよし市)の出身。世寿96歳。 1876年(明治9年)1月6日、愛知県西加茂郡三好町黒笹に、父加藤長蔵の三男(十人兄弟)として出生。名前は三治郎という。父親は、のちに名古屋に出て酒造業を営む。 1884年(明治17年)、実家では尋常小学校3年まで通った。そして名古屋市守山にある曹洞宗大永寺の小僧となる。僧名は徳成。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - … 沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - 1956年1月31日)は、日本の小説家、牧師。 和歌山県生まれ。明治学院神学部卒。宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童文学、通俗小説などにも作品を残す、異風の流行作家として知られた。 1876年1月5日、和歌山県日髙郡美山村に生まれる。1895年、和歌山師範学校に学び、川原河小学校(和歌山県)教師となり、この頃から小説等の創作活動を始める。22歳で龍神小学校(和歌山県)校長に就任。この間宣教師ジョン・バックスター・ヘールによりキリスト教に導かれた。1904年、上京し明治学院神学部に入学。1907年、新宮日本基督教会(和歌山県)牧師となる。
池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 -… 池田 稔(いけだ みのる、1876年(明治9年)1月4日 - 没年不明)は、日本の建築家。正七位勲六等。工学士。 松本藩士、池田義重の長男として生まれる。1902年(明治35年)、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)建築学科卒業。同年東宮御所御造営厨設計課勤務を嘱託される。1905年(明治38年)には日露戦争に陸軍歩兵少尉として出征するが、同年再び勤務し、1906年(明治39年)農商務省に入省、技師となる。1909年(明治42年)アメリカ合衆国差遣。 1911年(明治44年)10月、一般の新聞ならびに建築雑誌などにおいて懸賞募集が広告された三菱本館のコンペティションに応募し、2等に選出される。
大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1… 大湊 徳枩(おおみなと とくまつ、1876年1月3日 - 1937年1月9日)は、現在の和歌山県御坊市出身で小野川部屋(大坂相撲)、出羽海部屋に所属した元力士。本名は芝松次朗(旧姓阪本)。170cm、90kg。最高位は西前頭3枚目。 大坂相撲に属したが常陸山谷右エ門に憧れ東上し、1905年1月幕内格付出で初土俵入幕。1907年5月場所2日目には横綱・大砲万右エ門と引き分けた。1911年6月に廃業後は、電気器具の貸し出し業を営んだ。
小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日… 小島 善作(おじま ぜんさく、1876年(明治9年)1月2日 - 1937年(昭和12年)1月20日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡大砂土村長。 埼玉県足立郡土呂村(のち北足立郡大砂土村大字土呂、現:さいたま市北区)で、大地主・小島宅十郎の息子として生まれる。1902年(明治35年)大日本実業会農学科を卒業。 明治法律学校で学んだが、郷里の茶業の衰退を憂いて退学し、帰郷して製茶職人の修業を行う。さらに特産地の宇治、静岡に遊歴して技術を磨き、帰郷して私立製茶伝習所を設立して茶業の振興を図った。その他、養鶏改良、米麦改良、甘藷栽培改良などにも尽力して、その普及を図り、埼玉県農会・群馬県農会・栃木県河内郡農会の嘱託講師、地方森林会議員、埼玉県茶業組合連合会議長などを務めた。
村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治… 村上 国吉(村上 國吉、むらかみ くにきち、1876年(明治9年)1月1日 - 1957年(昭和32年)12月13日)は、日本の農業技術者、政治家。衆議院議員。旧姓・大道。 京都府何鹿郡吉美村(現綾部市)で大道嘉右衛門の二男として生まれる。1898年、大阪府立農学校を卒業。1899年、村上三郎兵衛の長女のへ の入夫となり村上に改姓した。 農事試験場技手、農事巡回教師兼農事試験場長、県立熊本農業学校教諭を経て、村上農園を設立しその経営を行った。その他、何鹿郡農会長、京都府農会副会長、帝国農会評議員、農地開発営団評議員、何鹿郡畜産同業組合長、同郡米穀同業組合長、同郡養蚕業組合長、京都府養蚕業組合連合会議員を務めた。
小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月… 小林 嘉平治(こばやし かへいじ、1876年(明治9年)1月1日 - 1940年(昭和15年)12月28日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(2期)。旧姓は山川、旧名・真純。 三重県安濃郡津城下(現津市)で、山川真源の二男として生まれる。1902年(明治35年)8月、一志郡雲出村(現:津市)の先代・小林嘉平治の養子となり、1908年(明治41年)1月、家督を相続し嘉平治を襲名した。 1901年(明治34年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業する。真宗勧学院教授を経て、1911年(明治44年)三重県会議員に当選する。ほか、三重県農会特別議員、同評議員、津商業会議所顧問、県農会長などを歴任した。
石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 -… 石井 秀八(いしい ひではち、1876年(明治9年)1月 - 没年不明)は、日本および台湾の実業家、技術者、電気工業家。 佐賀県杵島郡住吉村(のち山内村→山内町、現・武雄市)で、石川政右衛門の長男として生まれる。家は代々鍋島氏の藩臣だった。幼時に郷校で学を修め、1889年(明治22年)に上京して欧文成功学館に入って語学を学ぶ。その後、工手学校に入り、芝中学校に転校して卒業した後、高等工業学校に入学して電気科を卒業。東京の三吉電気工場に入って、技師となる。 その後、京都電燈付属工場の主任技師に転じ、さらに横浜電話交換局技師、不二製紐会社電気部技師、横浜ヒーリング商社の主任技師などを経て、明治35年に横浜で電気商社を起こして独力で経営に従事するが不成功に終わり、大阪に出て関西電気商社を設立・経営するがこれもうまくいかなかった。
村川 堅固(むらかわ けんご、1875年1月28日 - 19… 村川 堅固(むらかわ けんご、1875年1月28日 - 1946年1月21日)は、日本の西洋史学者。 1875年、熊本県熊本市薬園町で生まれた。旧制第五高等学校を卒業後、文科大学(東京帝国大学)史学科に入学。1898年に同大学を卒業した。 1900年より陸軍大学校教授嘱託として勤務。英語圏における日本史研究の嚆矢として知られるジェームズ・マードックの『日本の歴史』の執筆を手伝う。1903年より3年間、ヨーロッパに留学。1906年に帰国し、文科大学助教授に任ぜられた、1912年、教授昇格。 西洋古代史を専門とし、日本におけるこの分野の開拓者である。エジプト古代史、ギリシャ文化史、ローマ史などを講じ、著書として『西洋上古史』 (1916) 、『ギリシャ史』 (1931) などがある。
岡田 紋三郎(おかだ もんさぶろう、1875年〈明治8年〉1… 岡田 紋三郎(おかだ もんさぶろう、1875年〈明治8年〉1月28日 - 1954年〈昭和29年〉)は、愛知県宝飯郡西浦村(現・蒲郡市)出身の地方自治功労者。 1875年(明治8年)1月28日、愛知県宝飯郡西浦村102番地(現・蒲郡市西浦町)に生まれた。父は岡田紋太郎であり、紋三郎は長男だった。 1901年(明治34年)4月に26歳で西浦村収入役に就任したが、同年10月に収入役を辞任して西浦村会議員に就任した。1907年(明治40年)には初めて西浦村長に就任。1947年(昭和22年)3月まで西浦村会議員の座にあり、この間には3期間計17年間に渡って西浦村長の座にもあった。 日露戦争後には西浦村大山、長瀬、稲村、折敷田にまたがる官有地が民間に払い下げられることになり、村外から高額の資金で払い下げを求める人物も現れたが、岡田は西浦村公債を発行してこの土地を西浦村の財産とした。
叶内 長兵衛(かのうち ちょうべい、1875年(明治8年)1… 叶内 長兵衛(かのうち ちょうべい、1875年(明治8年)1月27日 - 1961年(昭和36年)2月2日)は、日本の銀行家。政治家。殖産相互銀行社長。 山形県山形市の商家である叶内源之助の長男として生まれる。幼名は源治。 第八十一国立銀行取締役支配人を務めていた父が病死したため、香澄小学校高等科を卒業すると母の実家である「吉野家」渡辺吉兵衛方に丁稚奉公として出された後、家業を継ぎ長兵衛を襲名した。 1901年(明治34年)には、27歳で山形市会議員に当選。以降1943年(昭和18年)まで長期に亘り市会議員を務めた。また、その間には1925年(大正14年)6月 - 1942年(昭和17年)6月まで市会議長を務め在任期間の記録を樹立した。
緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1… 緒方 勝一(おがた しょういち、1875年1月25日 - 1960年12月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
丸山 盛雄(まるやま もりお、1875年〈明治8年〉1月25… 丸山 盛雄(まるやま もりお、1875年〈明治8年〉1月25日 - 1947年〈昭和22年〉)は、明治末期の政治家、昭和初期にかけての実業家。長野県会を2期務めたのち信濃電気副社長・六十三銀行常務・長野新聞社長など長野県所在企業の役員を務めた。 丸山盛雄は、1875年(明治8年)1月25日、丸山英一郎の長男として生まれた。丸山家は長野県南安曇郡豊科村(現・安曇野市)の旧家で、酒造業を家業として江戸時代には村の庄屋であった。父・英一郎は南安曇郡などの郡長や長野県会議員、銀行役員などを務めた人物である。 松本中学校を経て早稲田大学を卒業。卒業後に一年志願兵制度を利用して軍務に服すが病気のため兵役免除となった。
石原 平左衛門(いしはら へいざえもん、前名・悦太郎、187… 石原 平左衛門(いしはら へいざえもん、前名・悦太郎、1875年〈明治8年〉1月25日 - 没年不明)は、日本の商人(銅鉄商、金物商、鍛冶平)、愛知県多額納税者。族籍は愛知県平民。 愛知県人・先代平左衛門の長男。先々代の平左衛門は鍛冶職を業とし、後に金物商を営み石原家の基礎を為す。1903年、家督を相続し、前名悦太郎を改め襲名する。祖業を承けて「かぢ平」と称し銅鉄金物卸商を営む。 愛知県多額納税者であり、貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は愛知県名古屋市西区押切町2丁目、東柳町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月2… 斯波 孝四郎(しば こうしろう、1875年(明治8年)1月24日 ‐ 1971年(昭和46年)6月13日)は、日本の実業家、技術者。妻・アイ子は白根専一の娘。 元加賀藩家老斯波蕃の次男として石川県金沢市に生まれる。第一高等学校を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学造船科を卒業。同年三菱造船株式会社に入社。長崎造船所所長、三菱造船常務を務め、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を統合して三菱重工業を発足させその初代会長に就任した。1942年(昭和17年)に三菱重工業会長を退任し、造船統制会会長に就任、1945年(昭和20年)まで務めた。 第二次世界大戦後はGHQにより公職追放[要出典]。
手塚 正次(てづか しょうじ、1875年(明治8年)1月22… 手塚 正次(てづか しょうじ、1875年(明治8年)1月22日 - 1924年(大正13年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県中巨摩郡西野村(現南アルプス市)で、代々油屋と称する素封家、手塚八兵衛の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校を卒業後、西野村長を務めていた父の補佐を行った。 1900年、結成された立憲政友会に入党。1903年10月、山梨県会議員に当選。同副議長、同議長を歴任。1907年、明治40年の大水害の救済と復興事業に尽力。同年12月、在家塚村外二ヶ村組合長に当選し、1908年1月まで在任。 1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に山梨県郡部から出馬し当選。
春島 東四郎(はるしま とうしろう、1875年(明治8年)1… 春島 東四郎(はるしま とうしろう、1875年(明治8年)1月22日 - 1937年(昭和12年)10月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 鹿児島県阿多郡阿多村(現在の南さつま市)に鮫島東右衛門の二男として生まれる。1899年(明治32年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。著述出版業に従事した後、司法官試補を経て、1905年(明治38年)から弁護士を開業した。また『痛快新聞』『西南新聞』『鹿児島毎日新聞』『鹿児島日日新聞』の社長兼主筆を務めた。1913年(大正2年)より鹿児島市会議員に選ばれ、鹿児島県会議員にも選ばれた。その他に大正貯金株式会社社長、合資会社薩摩銀行頭取などを務めた。
財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月2… 財部 実秀(たからべ さねひで、1875年(明治8年)1月21日 - 1968年(昭和43年)4月8日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選島根県知事、都城市長、千葉市長。 宮崎県北諸県郡下長飯村(現:都城市)出身。財部実篤の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1903年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し神奈川県警部となる。 1904年6月、警視庁属兼同警部に就任。以後、警視庁警視・小松川警察署長、麻布区警察署長、秋田県事務官・第四部長、同事務官・警察部長、北海道庁事務官・警察部長、北海道庁警察部長、福島県内務部長、鳥取県内務部長などを経て、1917年10月、広島県内務部長となる。
河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 … 河津 暹(かわづ すすむ、1875年(明治8年)1月20日 - 1943年(昭和18年)3月28日)は、日本の経済学者・社会政策学者。法学博士・東京帝国大学名誉教授。しばしば音読みで「せん」とも称される。 河津祐之の長男として東京府(現在の東京都)に生まれる。本家の伯父・河津祐賢の家督を継ぎ、旧制二高(現・東北大学)を経て1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)政治学科を首席で卒業(いわゆる第1回「銀時計組」)、東京帝国大学大学院(経済学専攻)に入学した。 翌1900年6月、欧州(イギリス・ドイツ)留学に出発し、留学中の1901年3月、東京帝大法科大学助教授に就任した。
岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 19… 岩崎 豊弥(いわさき とよや、1875年1月19日 - 1926年1月10日)は、明治・大正時代の日本の実業家。 郷純造の四男として東京府に生まれる。幼名(出生名)は郷 昌作(ごう しょうさく)。2歳で三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の養子となり、同時に岩崎豊弥と改名した。 東京府中学校(現・東京都立日比谷高等学校)卒業後1年志願兵として軍務に服した。兵役を終えた後は専ら英語を勉強した。1898年イギリスに渡りはじめロンドン大学に学んだ。翌1899年3月ケンブリッジ大学に入学しはじめ機械工学を学んだが、1901年同大学の法科に転じて法学・経済学・財政学を学んだ。1904年ケンブリッジ大学卒業後実務練習のためロンドンの会社に入社し諸般の事務を修習した。
穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月1… 穴水 要七(あなみず ようしち、1875年(明治8年)1月19日 - 1929年(昭和4年)1月3日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓は小野。 山梨県巨摩郡、のちの北巨摩郡旭村(現韮崎市)で、小野八左衛門の二男として生まれる。甲府市金手町の穴水嘉三郎の店に奉公し、1898年(明治31年)7月、嘉三郎の養子となる。米相場で失敗して破産した。 1901年(明治34年)横浜に移り米穀、肥料、食塩商を営む。1908年(明治41年)上京して富士製紙に入社し、実績を積み1918年(大正7年)専務取締役に就任した。製紙業に重要な電力に関心を向け、1921年(大正10年)北海道電燈(のち大日本電力)を設立して社長となる。
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。
小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15… 小西 重直(こにし しげなお、1875年(明治8年)1月15日- 1948年(昭和23年)7月21日)は、日本の教育学者。第9代京都帝国大学総長。 山形県米沢市出身。旧名は代吉。尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。
高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 … 高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 - 1949年10月25日)は、日本の社会教育家、仏教学者、宗教家。東洋大学第12代学長。号は大圓。聖徳太子奉賛会理事を務め、『聖徳太子正伝』(明治書院)が天皇・皇后・皇太后・皇太子に献上されるなど、皇室とも深い関わりがあった。 1875年、新潟県中頸城郡竹直村(現在の上越市吉川区)生まれ。高田の興仁教校、西本願寺文学寮を経て1893年(明治26年)に上京して哲学館(後の東洋大学)に入学し、1896年(明治29年)卒業。井上円了の助手となり、『東洋哲学』の編集に従事する。その後『北國新聞』記者、京華尋常中学校講師を経て『中央公論』の評論を担当する。