岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20… 岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年(明治6年)1月20日 - 1920年(大正9年)5月9日)は、明治・大正期の日本の小説家・詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる。 名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院、仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20… 光行 次郎(みつゆき じろう、明治6年(1873年)1月20日 - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の検察官、政治家。検事総長、貴族院議員。 佐賀県出身。1902年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し司法省に入る。司法省人事局長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長等を歴任し、1935年検事総長となる。1936年に(佐賀人が複数関与した)二・二六事件が起こった日に登庁せずに待合「梅乃井」に身を潜めたことについて東京区検・地検検事が検事総長弾劾に立ち上がり、少壮検事約50人が総長辞職を求める連判状が取りまとめられた。この影響もあり同年12月に退官した。 1939年貴族院議員。 1945年死去。
木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(… 木田川 奎彦(きたがわ ふみひこ / けいひこ、1873年(明治6年)1月19日 - 1951年(昭和26年)3月30日)は、日本の会計検査院・内務官僚。官選奈良県知事、小樽市長。旧姓:桑名。 福井県坂井郡で桑名金五郎の三男として生まれ、木田川梅吉の養子となる。福井中学校を卒業。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、農商務省に入省し農商務属となり鉱山局に配属された。 1901年1月、会計検査院に転じ検査官補に発令され第一部第二課勤務となる。以後、同院書記官兼検査官補などを務めた。1909年8月、内務省に転じ内務大臣秘書官兼内務省参事官に就任。以後、内務事務官、神奈川県港務部長、同内務部長などを歴任。
関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17… 関戸 寅松(せきと とらまつ、1873年(明治6年)1月17日 - 1945年(昭和20年)1月14日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会)。弁護士。 石川県能美郡金野村(現在の小松市)出身。1895年(明治28年)、東京専門学校行政科(現在の早稲田大学)を卒業。1897年(明治30年)、弁護士試験に合格。東京で弁護士を開業するが、後に静岡県に移り、1912年(大正元年)には小笠郡会議員に選ばれた。1914年(大正3年)、金沢市に事務所を開き、石川県会議員に選出された。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1927年(昭和2年)より再び石川県会議員を務めた。
蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日… 蜷川 新(にながわ あらた、1873年(明治6年)1月14日 - 1959年(昭和34年)8月17日)は日本の法学者、外交官、大学教授。専門は国際法。先祖は室町幕府に政所代を世襲した蜷川氏で、後に江戸幕府の旗本となった。格闘家の武蔵、TOMO兄弟は曾孫にあたる。 父は旗本蜷川親賢、母は林田藩主建部政醇の娘はつ子。旗本小栗忠順の義理の甥に当る。静岡県袖師(現在の静岡市清水区)で生まれる。生後すぐに父が死去したため、母の縁を頼って東京に移り住む。 1889年(明治22年)第一高等学校に入学。学友に渡辺千冬や鈴木梅太郎がいた。卒業後東京帝国大学の法科大学に進学し、有賀長雄のもとで国際法を専攻した。卒業後、同大学大学院に進学。
岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月… 岩井 敬太郎(いわい けいたろう、1873年〈明治6年〉1月14日 - 1963年〈昭和38年〉12月)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 長崎県に貞方定衛の三男として生まれ、岩井範一の養子となった。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。警視庁警部となり、1902年(明治35年)には同警視・小石川警察署長に昇進した。1905年(明治38年)からは韓国に渡り、韓国政府警務顧問補佐官、統監府書記官、韓国政府内部書記官などを務めた。 1910年(明治43年)より、宮崎県事務官・警察部長、静岡県事務官・警察部長、青森県内務部長、長崎県内務部長、神奈川県内務部長を歴任し、1918年(大正7年)に退官した。
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月1… 桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれる。桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった。1888年(明治21年)15歳で飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった。
河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1… 河崎 助太郎(かわさき すけたろう、1873年(明治6年)1月13日 - 1943年(昭和18年)2月21日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員。 岐阜県厚見郡富茂登村(岐阜市富茂登釜屋町を経て現:岐阜市大仏町)で、御寿司元(鮎寿司)・河崎喜久夫の長男として生まれ、1904年(明治37年)11月に家督を相続した。1889年(明治22年)神戸私立英学校を卒業した。 大阪に出て、毛織物類、羊毛、毛糸類の貿易及羊毛紡績業に従事。また、大阪地方裁判所商事調停委員、大阪織物同業組合長、日本輸出綿織物連合会大阪支部長、岐阜商工会議所会頭、大阪商業会議所議員、京都土地建物社長、日宝石油社長、日本毛糸紡績取締役社長、朝日毛糸紡績取締役社長、東洋毛織工業取締役社長、東洋毛糸紡績取締役社長、共同毛織取締役社長、日本整毛工業取締役社長、新興人絹取締役社長、河崎商事取締役社長、東華紡績取締役、島津製作所監査役などを務めた。
緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 … 緒方 武(おがた たけし、1873年〈明治6年〉1月12日 - 1940年〈昭和15年〉6月4日)は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(従七位勲六等)、元熊本県議会議員。 明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。 心通学舎(現・合志小学校)から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。 明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職。同僚に夏目漱石がいる。 明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。 明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。
馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月… 馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月12日 - 1945年(昭和20年)5月25日)は、日本の教育者。 福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業。秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任。1924年(大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した。 その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で戦災死した。墓所は多磨霊園。
岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 … 岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 - 1940年〈昭和15年〉7月19日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。位階は正七位。勲等は勲四等。 高知県高岡郡松葉川村(窪川町を経て現四万十町)生まれ。東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事検事登用試験・弁護士試験に合格。神戸地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、関東総督府審理官、関東都督府法院判官を歴任し、韓国政府法務補佐官を務めた。その後、官を辞して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1918年(大正7年)の衆議院補欠選挙で再選された。 その他、北海道と朝鮮で農場を経営した。
福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 19… 福田 令寿(ふくだ れいじゅ、1873年1月10日 - 1973年8月7日)は、日本の医師。教育者。社会事業家。熊本市名誉市民。 ハンナ・リデルが創立したハンセン病病院回春病院はエダ・ハンナ・ライトの時代であったが、国の方針ですべての外国人はスパイだという目でみていた。経済的にも経営は困難であると評議員の福田令寿は閉鎖しようと発議した。福田は清算人代表となり、神戸に出かけシー・ビー・ケネス、上田穣、福田令寿で清算人会議を開いた。患者は九州療養所に引き取ってもらい、当座必要だろうというので九州療養所に6万円寄付、その外に土地建物は日本ライ予防協会(土地7,135.9坪、価格約7万円)を寄付した。後日細川家から土地を返してくれといわれたが、どうしようもなかった。
芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 19… 芦田 惠之助(あしだ えのすけ、1873年1月8日 - 1951年12月9日)は、明治から昭和を生きた教育者。兵庫県出身。 16歳で、故郷の竹田村の竹田簡易小学校の授業生という呼び名の教員になって、教職のスタートを切る。その後1898年、上京して、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)訓導、樋口勘次郎に学び、綴り方教育を提唱。1902年、郷里に戻り、兵庫県姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)の助教諭となり、ここで国語教育の実践を展開していく。 彼の立場は、今の言い方でいえば「自由作文」、当時は「随意選題」といった。これは同時代、ドイツのハンブルクを中心に展開された芸術教育運動の中の作文教育で提唱されたものとほとんど時を同じくしたものである。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。
佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月… 佐藤 熊治郎(さとう くまじろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の教育者。 宮城県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科教育学部を卒業し、北海道師範学校教諭・附属小学校主事となった。1906年(明治39年)、東京高等師範学校研究科を修了し、長野県師範学校教諭・主事に転じた。 1911年(明治44年)、広島高等師範学校教授・附属小学校主事に就任。1922年(大正11年)、教育学研究のためドイツ・イギリス・フランスに留学した。1936年(昭和11年)、退官。
石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1… 石坂 友太郎(いしざか ともたろう、1873年(明治6年)1月6日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、日本の医学者、九州帝国大学医学部教授。九州帝国大学名誉教授。ヘビ毒の研究で知られ、特にハブ毒の薬理学的研究については、1963年の時点で石坂以外には研究例がなかったと報告されている。 教育者であり政治家だった石坂専之介の長男として加賀国(現・石川県)で生まれる。 1891年9月、第四高等中学校予科に入学し、1894年7月に卒業すると、第一高等学校独逸専修科に進む。1897年7月に一高を卒業して東京帝国大学医科大学に入学した。 1901年12月に東京帝国大学医科大学を卒業した。卒業直後の1902年1月、薬物学教室の高橋順太郎教授のもとで助手として採用され、同2月に大学院に進んだ。
藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日… 藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日 - 1946年〈昭和21年〉3月12日)は、日本の実業家、政治家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員。 青森県弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。 東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。法学博士・熊野敏三の書生になる。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。 1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる。
杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4… 杉 栄三郎(すぎ えいざぶろう、1873年(明治6年)1月4日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長。法学博士。 岡山県哲多郡矢神村(現在の新見市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。会計検査院に入ったが、1902年(明治35年)より清国の招聘で京師大学堂(北京大学の前身)教授となった。10年間在職したが、辛亥革命により帰国した。帰国後は会計検査院に戻り、検査官、第一部第三課長を務めた。その後、宮内省に移り、書記官、参事官、帝室林野局主事、図書頭、諸陵頭を歴任した。1932年(昭和7年)より帝室博物館総長を務めた。1938年(昭和13年)6月16日、大正天皇実録及び明治以前の天皇皇族実録編集関係者への行賞が行われる中、前図書頭であった渡部に賜金、賜品が授けられた。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3… 小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。 鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店・スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。これらの事業は後に阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝として阪急東宝グループを形成する。その過程で阪急沿線での六甲山麓の高級住宅地の開発、学校法人関西学院等の高等教育機関の誘致や温泉、遊園地、野球場など娯楽施設の整備を行い、日本最初の田園都市構想を実現した。
八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 … 八代 國治(やしろ くにじ、1873年(明治6年)1月2日 - 1924年(大正13年)4月2日)は、日本の明治・大正期の歴史学者。文学博士(1922年)。國學院大学教授等を歴任。長慶天皇在位の結論を出したことで知られる。帝国学士院恩賜賞受賞。勲六等瑞宝章追賜。東洋史学者・白鳥清は甥に当たる。 1873年、木更津県市原郡上高根村(現在の千葉県市原市上高根)の農家の鈴木吉蔵の次男に生まれる。 1895年、上京し國學院に入学。1897年に國學院を卒業後、東京帝国大学文科大学史料編纂掛に入り、鎌倉時代史料の研究にあたる。 1901年2月、八代房吉の婿養子に入り八代姓を名乗った。 1908年には最初の日本史辞典である『国史大辞典』の編纂を行った。
宮崎 槌(みやざき つち、1872年1月28日〈明治4年12… 宮崎 槌(みやざき つち、1872年1月28日〈明治4年12月19日〉 - 1942年〈昭和17年〉12月23日)は、明治から昭和戦前・戦中期にかけての女性。槌子とも。自由民権運動家の前田案山子の三女。姉の卓は『草枕』の那美のモデルとされる。孫文を支援した宮崎滔天の妻であり、白蓮事件を起こした宮崎龍介の母。 熊本県玉名郡小天村(現・玉名市天水町)生まれ。前田家は地元の名士であり、自由民権運動に奔走した父の影響を受けて育つ。11歳のとき女権拡張運動家の岸田俊子の前で壇上に立ち、「学問ヲ勧ム」という演説をした。12歳の時に中江兆民が熊本を訪れた歓迎会で演壇に立った。熊本の英語学舎、大阪の梅花女学校で学び、さらに神戸のキリスト教の女学校を卒業。
豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872… 豊島 直通(としま なおみち、明治4年12月18日(1872年1月27日) - 昭和5年(1930年)10月14日)は、日本の司法官僚。判事。検事。法学博士。 東京府出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、東京地方裁判所検事・東京控訴院検事、司法省参事官、同法務局長、同刑事局長、東京控訴院検事長を歴任した。1923年(大正12年)、判事に転じ大審院部長となった。在職のまま死去した。
奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(18… 奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(1872年1月26日) - 昭和20年(1945年)5月24日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。大津市長。 園城寺侍医奥野時之の長男として出生。1891年(明治24年)、京都府立第一中学校を卒業後、陸軍士官学校(6期)に入った。1895年(明治28年)に士官学校を卒業し、少尉として歩兵第8連隊に勤務した。その後陸軍大学校(15期)に入り、1901年(明治34年)に卒業した。参謀本部付を経て、少佐として1909年(明治42年)に歩兵第70連隊大隊長に就任。以後、第12師団参謀、第7師団参謀、第14師団参謀、由良要塞参謀を歴任した。1912年(明治45年)、中佐に進級して朝鮮軍司令部参謀に就任した。
亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治… 亀山 理平太(かめやま りへいた、1872年1月26日〈明治4年12月17日〉 - 1915年3月4日)は、日本の内務官僚。官選徳島県知事。地方行政官である。族籍は岡山県平民。 岡山県御野郡今村に生まれる。岡山平民・亀山吉郎の三男。1898年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、法学士の称号を受く。同年12月、文官高等試験に合格。土木監督署書記となり、内務省に出仕し更に土木局に勤務する。山形県警部長を経て、1903年6月、長崎県警部長に就任。 1905年2月、統監府警視となり、次に釜山理事庁理事官を務める。1910年9月、台湾総督府に転じ民政部内務局長に就任。1911年10月、警視総長に転じ民政部地方部長を兼務した。
鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1… 鶴見 正四郎(つるみ しょうしろう、1872年〈明治5年〉1月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月6日)は、日本の機械工学者・教育者・実業家。官立大阪高等工業学校の教授を務め、退官後に家庭用ガス湯沸器メーカーの陽栄製作所を創業した。 1872年〈明治5年〉1月24日に栃木県で生まれた。1896年〈明治29年〉7月に旧制第一高等学校を卒業し、1899年〈明治32年〉7月に東京帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)機械工学科を卒業した。同年10月に東京帝国大学大学院に進んだ後、1900年〈明治33年〉に官立大阪高等工業学校(当時の名称は大阪工業学校、のちの大阪大学工学部)の教授に着任した。1901年〈明治34年〉から1907年〈明治40年〉までは大阪高等商業学校(のちの大阪商科大学、大阪市立大学の前身)の教授嘱託も務めた。
田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年1… 田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日〈明治4年12月13日〉 - 1930年〈昭和5年〉5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥()。群馬県(当時は栃木県)生まれ。 尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田國男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。 栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)に、田山鋿十郎・てつ夫妻の次男として誕生。田山家は代々の秋元藩士。父は1876年(明治9年)警視庁邏卒(らそつ、後の巡査)となり一家で上京するが、西南戦争の際に従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死したため、館林に戻る。
上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1… 上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日〈明治4年12月10日〉 - 1925年〈大正14年〉5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。 三重県一志郡本村(後の久居市、現在の津市久居元町)出身。上野六兵衛の三男。1887年(明治20年)に東京農林学校に入り、1890年(明治23年)に農科大学予科に編入され、1892年(明治25年)に同大学農学科に転じ、1895年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業する。農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年… 神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1960年〈昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行(八十二長野銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。 弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣の羽田孜がいる。 明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた。出身地は長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)。
坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月1… 坂口 豊蔵(さかぐち とよぞう、1872年〈明治5年〉1月13日 - 1930年〈昭和5年〉6月12日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する。煙草元売捌・製糸業を営む。銀行会社の重役として知られる。 有限責任米子信用組合初代組合長、坂口合名会社代表社員、米子電車軌道、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる。 住所は鳥取県米子市尾高町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872… 三矢 重松(みつや しげまつ、明治4年11月29日(1872年1月9日) - 大正12年(1923年)7月18日)は、日本の国語学者・国文学者。学位は文学博士。國學院大學教授。 折口信夫の師。弟に三矢宮松がいる。いわゆる「三矢文法」を築き、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。 1872年(明治4年)1月9日、酒田県田川郡鶴岡大字二百人町(現・山形県鶴岡市)で生まれた。父・三矢維顕、母・町子の二男。実家は代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父の静は藩校の典学を勤めた人物であった。1877年(明治10年)、鶴岡朝暘学校に入学。朝暘学校卒業後、西田川郡中学校を経て山形県尋常中学校に転入。在学中、中台直矢、角田俊次について漢学を学び、庄内英学会に加わって英語を身につけた。
石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治… 石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治4年11月25日〉 - 1953年〈昭和28年〉11月21日)は、日本の教育者。郷土史家。号は咬菜(こうさい)、豊洲、酔逃。 福井県今立郡粟田部(現・越前市)に生まれる。1887年真宗大谷派学場で英語、漢文、数学を学ぶ。1888年病に倒れ、福井中学の受験を断念し、郷里に戻り病床で独習する。1889年名古屋の小堀蓬髪の漢学塾に入門。1893年名古屋で嚶鳴塾を開き、塾師になる。講義の間には、書生のために炊事もし、近隣から食べ物をもらった際には牡丹餅を作って配った。愛読書はスマイルズの『自助論』。1896年、文部省教員検定試験に合格し、1896年福井中学で倫理と漢文を教える。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年… 会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年1月1日) - 昭和32年(1957年)12月16日)は、日本の生物学者、遺伝学者。 1903年 - 1941年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授。1932年、帝国学士院賞受賞。 京都市出身。1872年、有栖川宮家に剣客として仕えた勤王派の父(福島県、矢吹出身)と外科医の娘である母(京都市出身)のあいだに長男として生まれる。銅駝校(小学校)、京都府尋常中学校、第三高等学校を経て、帝国大学理科大学動物学教室に入学、飯島魁に師事。同教室を1896年卒業後、1898年、第五高等学校(熊本)教授。この時同僚に夏目漱石がいた。1903年実家のある京都に戻り、京都高等工芸学校教授。
三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11… 三宅 利平(みやけ りへい、1872年1月1日(明治4年11月21日) - 1932年(昭和7年)3月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県多可郡、のちの日野村(現西脇市)で生まれた。1893年、同志社卒。酒造業を営む。加古川実業協会長、加古郡教育会長、京都同志社理事、全国酒造組合連合会評議員、兵庫県酒造組合連合会副会長、姫路米穀取引所理事、加古川銀行、日本綿布各(株)取締役、新宮軽便鉄道(株)社長、龍野電気鉄道(株)専務取締役を歴任する。また、加古郡議、同議長、加古川町長、兵庫県議、同参事会員、同副議長、同議長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫3区(当時)から立憲民政党公認で立候補してトップ当選した。
島内 桓太(しまのうち かんた、1871年1月31日(明治3… 島内 桓太(しまのうち かんた、1871年1月31日(明治3年12月11日) - 1940年(昭和15年)9月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。元佐賀藩士の島内桓二・斐(同藩士の綾部四郎太夫の三女)夫妻の息子として生れる。1893年(明治26年)12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「吉野」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)3月に海軍少尉任官、旅順口根海兵団分隊士となる。 1898年(明治31年)12月、呉水雷団第2水雷敷設隊分隊長に就任し、「平遠」分隊長、呉水雷団水雷艇隊艇長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長などを歴任し、海軍大学校で乙種学生として学んだ。
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3… 川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日) - 1955年(昭和30年)5月)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。 日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身。郷士・川口時清の長男として生まれる。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長、愛知県事務官・内務部長などを歴任。
倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈18… 倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈1871年1月28日〉- 昭和20年〈1945年〉8月26日)は、日本の実業家、水産学者。英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバー(Tomisaburo Awajiya Glover)、ただし、墓標に刻まれた名はトーマス・アルバート・グラバー(Thomas Albert Glover)。苗字の「倉場」は、「グラバー」をもじったもの。 幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている。
桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871… 桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871年1月27日〉 - 1931年〈昭和6年〉5月24日)は、日本の東洋史学者・京都帝国大学教授。文学博士。1898年に出版された著書(中等東洋史.上巻/中等東洋史.下巻)は、東洋史教科書の定番となった。 1871年1月27日 越前国(現・福井県敦賀市)に製紙業者桑原久兵衛の次男として生まれる。京都府尋常中学校から第三高等学校へ進み、1892年に同校卒業、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に入学し、漢文科から同大学院東洋史専攻へ(1896年)。1898年の修了後、母校の第三高等学校教授となった。 翌1899年に高等師範学校(現・筑波大学)教授に転じ(1907年迄)、国費留学のため退官、文部省より中国へ派遣される。
武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年… 武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年1月25日) - 昭和7年(1932年)12月9日)は、日本の実業家。内外綿頭取や在華日本紡績同業会委員長を務めた。 長野県諏訪郡湖南村生まれ。長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1892年高等商業学校(現・一橋大学)卒業、市立大阪商業学校(現・大阪公立大学)教諭。1895年日印貿易会社入社。1902年同社副支配人。1903年同社支配人。 1912年内外綿取締役。1922年から同社頭取となり、高付加価値化戦略を進めた。1929年在華日本紡績同業会委員長。また、日華学会評議員、大阪朝日新聞社内東亜調査会評議員なども務め、日満経済協和会を創立。
宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3… 宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3年12月3日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。 荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎え、定住したことに始まる。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。
倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年… 倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 昭和19年(1944年)12月22日)は、日本の外務官僚。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。実業家。 加賀藩士倉知行徳の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。内務属となったが、1897年(明治30年)に外務省参事官に転じ、ドイツ公使館書記官、統監府書記官などを歴任した。1908年(明治41年)、外務省政務局長に就任し、1912年(明治45年)には外務次官に昇進した。政務局長・次官在任中に日清協約、日露協約、韓国併合、条約改正などに関わった。 1913年(大正2年)に退官するとともに、貴族院勅選議員(2月13日)、錦鶏間祗候(2月14日)に任じられた。
出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年… 出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年12月1日) - 1929年(昭和4年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。染色家。衆議院議員。神奈川県高座郡鶴嶺村長。 出口彦四郎、ウタの三男として神奈川県高座郡今宿村(鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1892年(明治25年)東京工業学校染工科を卒業し、1896年(明治29年)横浜市高島町に染色工場を開設した。以後、改良機械の導入、モスリン無地染色、羽二重精練などで業界を率いた。1912年(明治45年)には横浜輸出織物染色同業組合を設立し、政府助成を得て岡野町に共用利用工場を設けた。また、横浜商業会議所議員、横浜撚糸織物専務取締役を務めた。
岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈… 岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈明治3年12月1日〉 - 1919年〈大正8年〉10月10日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は岡本義邦(旧姓・山名)、字は叔礼、椿所は号。津山出身。 東京に出て1895年(明治28年)に中井敬所の菡萏居社に入門し篆刻を学ぶ。同門に岡村梅軒・郡司楳所・田口逸所・増田立所・井口卓所などがいる。三村竹清に印を売り、その後交渉している。1907年(明治40年)には河井荃廬・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・山田寒山らと丁未印社を設立した。宮内省図書寮に奉職した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(18… 小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(1871年1月19日) - 昭和31年(1956年)1月26日)は、近代日本の歌人・翻訳者。 近代詩の形成に多大な影響を与えた訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名を連ねるなど、女性文学者として明治期に若松賤子と並び称された歌人・随筆家である。夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精(良精は再婚)、長兄は文豪森鷗外、次兄は劇評家の三木竹二(森篤次郎)、孫の一人は作家の星新一。家族・知人などの回想記を多く著し、とりわけ鷗外と竹二に関する記述は、鷗外研究で重要な資料となっている。 1871年1月19日(明治3年11月29日)、石見国(現島根県)津和野で津和野藩医、森静泰(後年、静男と改名)と峰の間に長女として生まれた(本名キミ)。
藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年1… 藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年11月29日) - 1934年(昭和9年)11月18日)は、日本の医師、病理学者。藤浪肉腫の発見者として知られる。 1870年(明治3年)旧尾張藩の侍医、藤浪萬得の長男 として愛知県名古屋市に生まれる。生家は代々の尾張藩医という名門であった。 1895年(明治28年)に東京帝国大学医科大学を首席卒業。病理学教室に入り、当時ドイツのウィルヒョウに学んで帰国したばかりの山極勝三郎教授に師事する。翌年ドイツに留学。ベルリン大学ではウィルヒョウに、ストラスブール大学ではレックリングハウゼン病で有名なフリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼンに、フライブルク大学病理学教室ではエルンスト・ツィーグラーにそれぞれ学び、4年間を過ごす。
弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦… 弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦)(1871年1月18日) - 1936年(昭和11年)3月9日)は実業家。日本生命三代目社長で「中興の祖」とされる。弘世現は娘婿。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年1… 浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1950年(昭和25年))は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本。 信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業。1899年(明治32年)故郷の上田に開業。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる。