渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月1… 渡邊 信二(わたなべ しんじ、1900年〈明治33年〉3月12日 - 1926年〈大正15年〉4月6日)は、大正時代に活動した日本の民間パイロット。日本の定期郵便飛行における初の犠牲者であり、また関西初の滑空飛行を行った人物とされる。 兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)に生まれる。志方尋常高等小学校卒業後播州鉄道会社勤務を経て1922年(大正11年)12月13日に日本航空輸送研究所に入所し、1923年(大正12年)2月21日付で飛行機操縦士免状(三等)の交付を受けて同社の郵便飛行事業に従事した。1924年(大正13年)11月27日に二等飛行機操縦士に昇格し、定期郵便飛行のほか機体組立整備や操縦士養成、郷土訪問飛行(1925年(大正14年)3月21日)、播丹鉄道全通奉祝全線飛行(同3月22日)などを行った。
上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1… 上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1987年8月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本石油に入社。1949年6月に取締役に就任し、1950年6月に常務を経て、1958年9月に副社長に就任し、1961年5月に社長に昇格。 石油連盟会長、経済団体連合会・日本経営者団体連盟各常任理事などを務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年8月17日、心不全のために死去。87歳没。
田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月… 田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月11日 - 1972年 <昭和47年> 7月11日)は、日本の経営者。日魯漁業 (現・Umios) 社長を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1923年に小樽高等商業学校を卒業。共同水産販売所での勤務を経て、日魯漁業に転じ、1947年4月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年4月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1968年1月には会長に就任。 1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1972年7月11日、肺ガンのために死去。72歳没。
趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月1… 趙 柱泳(チョ・ジュヨン、朝鮮語: 조주영、1900年3月11日 - 1976年11月25日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の弁護士、警察官僚、政治家。第4代逓信部長官、第2代韓国国会議員。キリスト教徒。 慶尚南道南海郡出身。明治大学法学部卒。日本弁護士試験合格。朝鮮興業銀行監査役を経て、光復後は警務部総務局局長、警務部監察長、弁護士会委員を務め、1950年の第2代総選挙で南海郡選挙区から無所属で国会議員に当選した。同年の朝鮮戦争で北朝鮮に拉致されたという説もあるが、その後は国会法司委員、鄭国殷(朝鮮語版)事件調査委員、交通部顧問、逓信部長官を歴任した。1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙にも出馬したが、いずれも落選した。
冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - … 冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - 1986年5月26日)は、日本の国文学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は中世文学。 東京生まれ。第二高等学校理科から東京帝国大学理学部を経て、1926年(大正15年)3月に京都帝国大学文学部国文科を卒業。京都女子専門学校教授を命ぜられるが、軍隊に服する。 京大時代は講師として立命館中学に赴任。生徒の一人に中原中也がいた。あるとき、中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで彼との交友が始まった。友人富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られる。 1952年、駒澤大学に着任し教授。のち国文学科主任、大学院国文専攻主任をつとめる。
英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 197… 英 百合子(はなぶさ ゆりこ、1900年3月7日 - 1970年2月7日)は日本の女優。広島県呉市吉浦町出身。日本初の本格的映画女優といわれる。同じ女優の永井百合子は柳永二郎との娘[4]、俳優の長谷部健は中野英治との息子[4][5]。
加藤 土師萌(かとう はじめ、1900年3月7日 - 196… 加藤 土師萌(かとう はじめ、1900年3月7日 - 1968年9月25日)は日本の陶芸家。本名は一(はじめ)。1961年に人間国宝に認定された。東洋の陶磁器に対して高い見識を持つ。教え子に鳴海要などがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 … 美根 五郎(みね ごろう、1900年(明治33年)3月4日 - 1971年(昭和46年)2月14日[要出典])は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。黄海道知事。 美根虎吉の五男として福岡県に生まれ、兄虎雄の養子となる。1924年(大正13年)高等試験行政科に合格し、翌年東京帝国大学法学部を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、慶尚南道警部、全羅南道学務課長、総督府土地改良事務官、咸鏡北道財務課長、大邱税務監督局税務部長、総督官房審議室事務官文書課長兼人事課長、国勢調査課長、官房人事課長などを経て、1942年(昭和17年)11月、総務局監察課長に就任した。のち黄海道知事に任じた。1944年(昭和19年)退官した。
八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3… 八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3日 - 1970年〈昭和45年〉10月10日)は、日本のキリスト教伝道者である。 北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3… 石原 文雄(いしはら ふみお、1900年(明治33年)3月3日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、山梨県出身の日本の小説家。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)に生まれる。祖父の代から「奈良屋」という旅館を営み、文雄が5歳の時に父親が26歳で逝去し、以後は祖父母と母親に育てられている。大正7年(1918年)に、当時甲府市伊勢町(甲府市伊勢)に所在していた山梨県立農林学校(現在の山梨県立農林高等学校)を卒業し、長野営林署や小学校の代用教員を務めた。 その後は作家活動をしながら山梨の文化振興に寄与した。また、市川大門町の町会議員として、昭和22年(1947年)5月29日から昭和24年(1949年)6月22日まで議長を務めている。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6… 柳 武(やなぎ たけし、1900年3月2日 - 1971年6月6日)は、日本の経営者。日本製鋼所社長を務めた。 栃木県出身。1923年に東京帝国大学工学部冶金学科を卒業し、同年に日本製鋼所に入社。1947年11月に取締役に就任し、1948年10月に常務、1956年5月に専務を経て、1957年11月に副社長に就任し、1959年11月には社長に昇格。1965年11月に相談役に就任。 1971年6月6日、急性肝炎のために死去。71歳没。
横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月… 横山 一郎(よこやま いちろう、1900年〈明治33年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印式に出席した人物でもある。 神奈川県横須賀市生まれ。横山家は高知県で農業を営んでいたが長男であった父・横山傳は海軍兵学校(20期)に進み、日清戦争及び日露戦争に出征。黄海海戦で、第三艦隊参謀(海軍少佐)として戦死した。母は黒岩家の出身で、夫の死後は高知に戻り洗礼を受けクリスチャンとなった。当時の遺族扶助料は僅少で生活は厳しかったという。 父の母校である高知県立海南中学校に進んだ。
松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3… 松村 秀逸(まつむら しゅういつ、1900年(明治33年)3月1日 - 1962年(昭和37年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、国会議員(参議院議員)。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。松村又熊の息子として生まれる。八代中学校(現熊本県立八代高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第12連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍野戦砲兵学校教官、関東軍参謀部付を経て、1935年(昭和10年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付(新聞班)に就任。
楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 … 楢原 良一郎(ならはら りょういちろう、1900年3月1日 - 1976年5月22日)は、日本の経営者。東京都出身。 1923年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1943年に古河鉱業に転じ、1949年に取締役に就任し、1953年に常務、1958年に専務、1961年に副社長を経て、同年11月には社長に就任。1971年2月に会長に就任。 1963年に日本鉱業協会会長に就任し、藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1976年5月22日肝硬変のために死去。76歳没。
木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 … 木村有香(きむら ありか、1900年(明治33年)3月1日 - 1996年(平成8年)9月1日)は、日本の植物学者。 ヤナギ科の分類を大成した植物学者として知られているとともに、旧制第七高等学校造士館に在学中に原始的な形態を持ち生きている化石として知られるキムラグモを発見したことでも著名である。様々な地域の野生のヤナギを個体識別し、季節ごとに標本を採集し、同一個体から得られた標本を比較することで葉の形態の季節変異の著しいヤナギ科の分類の確立に努めた。 1958年(昭和33年)8月、昭和天皇の採集品を鑑定するために那須御用邸に招かれる。翌月には、他の有識者とともに天皇から植物に関する質問を受けたほか座談会に参加。
鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 198… 鈴木 傳明(すずき でんめい、1900年3月1日 - 1985年5月13日)は、日本の映画俳優、水泳選手。本名は同じ鈴木傳明だが、読みはつぐあきら。 無声映画時代に活躍した現代劇の映画スターで、学生時代は水泳選手として活躍。明治大学在学中に『路上の霊魂』で映画デビューした。その後日活を経て松竹蒲田撮影所に入社、牛原虚彦監督とのコンビで『彼と東京』『陸の王者』『彼と人生』などの明朗な青春映画に主演し、スポーツマンタイプの二枚目スターとして人気を得た。戦後は実業界に転じた。 1900年(明治33年)3月1日、東京府東京市下谷区上野桜木町(現在の東京都台東区上野桜木)に、父・康正と母・和喜の1男3女の長男として生まれる。
能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1… 能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1944年(昭和19年)3月14日)は昭和期の作曲家。本名佐藤久助。 1937年、佐藤富房の筆名で作曲した「声なき凱旋」でポリドールより作曲家デビュー。 翌年テイチクレコードに移籍し、筆名を能代八郎とし、流行歌の作曲を行うようになる。 1939年、塩まさるが歌う『九段の母』が大ヒット。 1944年3月14日死去。享年44。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。
福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30… 福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30日 - 1953年(昭和28年)12月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。陸軍少佐・福地守太郎の長男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。1924年(大正13年)3月から7月まで陸軍戸山学校学生となる。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。
大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 19… 大川光三(おおかわ みつぞう、1899年3月30日 - 1965年11月7日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(2期)。 現在の大阪府高槻市生まれ。加島銀行に勤務するかたわら関西大学専門部経済科に通い、1923年に同専門部卒業し弁護士試験に合格。1927年に独立し、弁護士事務所を開業。 1931年に大阪府会議員に当選して政界入り(立憲民政党所属)、大阪府会では副議長まで務め上げ、1942年の総選挙で大阪4区(当時)から翼賛政治体制協議会推薦で立候補して国政入りを果たした。このため戦後、公職追放を受けるも、追放解除後の1952年総選挙に旧大阪3区から改進党から出馬し国政復帰。しかし翌年の総選挙で落選して再度国政から遠ざかる。
武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月… 武島 一義(たけしま かずよし、1899年(明治32年)3月29日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の内務官僚。官選鳥取県知事。 福岡県山門郡柳河町(現・柳川市)出身。第五高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市を経て、1926年、内務省に入省し宮崎県事務官となる。 以後、沖縄県、茨城県、長野県で勤務。さらに、厚生省生活課長、熊本県内政部長を歴任。 1943年7月、鳥取県知事に就任。同年9月に発生した鳥取地震の復興に尽力。1945年4月に知事を退任。同年に公職追放となり退官した。
香川 綾(かがわ あや、1899年3月28日 - 1997年… 香川 綾(かがわ あや、1899年3月28日 - 1997年4月2日)は、香川栄養学園の創始者。医学博士。日本における栄養学の普及に多大なる功績を残した。 1899年3月28日、和歌山県東牟婁郡本宮村(現:田辺市)に警察官・横巻一茂とのぶ枝の娘として生まれる。母方の祖父が紀州藩の食膳係を務めていたこともあり、幼い頃から食生活の大切さを教わっていた。14歳の時に母を肺炎で亡くし、この経験から医師を志すようになる。 1914年、和歌山県師範学校女子部(現:和歌山大学)に入学。卒業後は小学校の教師を務めていたが、1921年に上京して東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)へ入学。1926年、東京帝国大学医学部の島薗順次郎の元に勤務。
清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月… 清原 邦一(きよはら くにかず、1899年(明治32年)3月27日 - 1967年(昭和42年)11月11日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。 和歌山県那賀郡(現紀の川市)で、清原英三の長男として生まれる。旧制・和歌山県立粉河中学校、旧制・第一高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。 1923年12月、高等試験行政科試験に合格し、1924年5月、裁判所書記兼司法属に任官し東京地方裁判所書記兼大臣官房調査課に配属された。同年12月、高等試験司法科試験に合格し、1925年3月、司法官試補に任官し大阪地方裁判所詰となる。1926年11月、検事に任官し大阪地裁予備検事となる。
川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 19… 川崎 栄治(かわさき えいじ、1899年3月27日 - 1985年10月9日)は、日本の外交官。1921年に外務省に入省して以降、主にラテンアメリカ諸国に置かれた在外公館に駐在し、1965年に在ボリビア日本大使(特命全権大使)に任ぜられた。外務省を退官後、1970年から1977年までラテンアメリカ協会の理事長を務めた。 1899年3月27日に生まれ、福岡県で幼少期を過ごす。1921年3月に東京外国語学校西語部拓殖学科を卒業し、同年4月に外務省に通訳生として入省する。 入省後は、在ダバオ領事館、在スペイン大使館などを経て、1928年に在リマ領事館への赴任以降は、ラテンアメリカ諸国を中心にキャリアを歩んでいく。
高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947… 高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947年1月6日)は、日本の裁判官。ゾルゲ事件で裁判長を務めた。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第一中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部を卒業。同年司法官試補となり、以後東京地方裁判所判事・検事、対満事務事務官、企画院書記官、司法省刑事局第4課長・第3課長などを歴任。 1942年東京刑事地方裁判所部長判事として、ゾルゲ事件の主犯とされた尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲらの裁判(同裁判所第9部)の裁判長となる。尾崎とは一高・東京帝大を通じて同期生・友人の間柄であったが、高田が尾崎に対して下した判決は死刑であった。高田は判決の後、次のように付け加えたという。
黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日… 黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。愛知県守山市長。 兵庫県出身。愛知県青年師範学校卒。安城農林学校教諭を経て、守山高等小学校校長、全国青年学校協会会長、全国青年師範同窓連盟理事長、愛知県青年師範学校教員会会長などを歴任する。 1951年三郷澱粉協同組合理事長、守山町教育委員、愛知県商工協同組合理事などを務め、1955年守山市長選挙に立候補し初当選。1959年に再選。在職中に全国市長会から海外産業及び都市開発視察団員に選ばれ、欧米各国を視察。 一方で名古屋市との合併協議にも関わり、1963年に守山市が名古屋市に編入されて後は守山公民館長・愛知県社会教育委員を務めた。
富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、… 富ノ澤 麟太郎(とみのさわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、1899年3月25日 - 1925年2月24日)は、日本の小説家。 山形市生まれ。幼い頃に宮城県へ移り、仙台市の木町通小学校、仙台第二中学校(宮城県仙台第二高等学校の前身)に学んだ。 1918年に上京して、早稲田大学予科に学び、佐藤春夫に師事するとともに、横光利一、中山義秀と交友関係をもった。大学は結局、中退となった。 1921年に横光利一や古賀龍視などとともに同人誌『街』を立ち上げ、続く1922年には、横光利一、中山義秀、小島勗などと同人誌『塔』の創刊に参加した。 富ノ澤の作風は「新感覚派の先駆け的存在」とも評され、代表作としては、自伝的作品とされる『流星』などが挙げられる。
佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月… 佐野 保房(さの やすふさ、1899年 <明治32年> 3月25日 - 1980年 <昭和55年> 12月12日)は日本の政治家。東京都世田谷区長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 山梨県(南巨摩郡身延町常葉竹之島)生まれ。中央大学法学部卒。1927年弁護士として活動を始めた。1932年世田谷区会議員、1947年都議会議員、都選管委員長、笹塚館社長、公明選挙連盟評議員、選挙制度調査会委員を経て、1959年から1975年まで世田谷区長(4期)。1966年から1968年まで特別区区長会会長も務めた。1980年12月12日、肺梗塞のため81歳で死去。墓所は世田谷区慈眼寺。死没日付をもって従五位に叙され、勲四等旭日小綬章を追贈された。
深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3… 深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3月24日 - 1992年(平成4年)3月24日)は、日本の洋画家、童画家。岩手県内の美術教育にも尽力した。
的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 198… 的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 1987年9月28日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元富士製鐵代表取締役副社長。元日本金属学会会長。元日本鉄鋼協会副会長。 1924年九州帝国大学工学部冶金学科卒業、東北帝国大学工学部金属工学科講師。1927年東北帝国大学工学部金属工学科助教授。1935年九州帝国大学工学博士。1936年東北帝国大学工学部金属工学科教授。1955年日本金属学会会長。1959年東北大学工学部長。1962年東北大学名誉教授、富士製鐵代表取締役副社長、富士製鐵中央研究所所長。1971年日本工学会会長。日本鉄鋼協会副会長、日本学術会議会員なども務めた。墓所は染井霊園。
黒川 真武(くろかわ またけ、明治32年(1899年)3月2… 黒川 真武(くろかわ またけ、明治32年(1899年)3月23日 - 昭和57年(1982年)2月5日)は、日本の化学者、工業技術院長。化学、特に燃料工学に関する本邦屈指の権威として知られ、試験研究に関する技術行政の分野でも大きな足跡を残した。学位は工学博士(東京帝国大学)。 大正12年(1923年)東京帝国大学工学部応用化学科卒業後、農商務省燃料研究所へ入所する。昭和9年(1934年)燃料研究のため欧米を視察、帰国後『燃料協会誌』に「獨逸に於ける代用燃料の現況及将来」を寄稿する。昭和12年(1937年)に竹内寛との共同論文で『水性ガス反応における触媒の研究』を発表、昭和21年(1946年)に『石炭の水素添加に関する研究』で東京帝国大学より工学博士の学位を授与される。
浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - … 浜野 正平 (はまの しょうへい、1899年3月22日 - 1974年4月29日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 戦前の明治神宮競技大会や全日本選士権大会で選手として活躍し、後には大阪府警察名誉師範や大阪柔道連盟会長等を務めるなど大阪柔道界の重鎮として知られた。 現在の香川県坂出市に出生し、幼少時代は地元香川に伝わる無相流の柔術を学んだ。坂出商業時代に吉本官次より柔道の手解きを受け、卒業後は上京して明治大学法科専門部へ進学、後には大阪外国語学校支那語科(二部)にも通った。この間、明治大学で三船久蔵に師事したほか講道館および大日本武徳会で永岡秀一・佐村嘉一郎両範士の指導を仰ぎ、1917年9月付で講道館入門。
水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 … 水島 三一郎(みずしま さんいちろう、1899年3月21日 - 1983年8月3日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。専門は構造化学・分子構造・分子科学。分子構造論の世界的先駆者。日本学士院会員。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。
高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 196… 高木 幹夫(たかぎ みきお、1899年3月21日 - 1966年8月14日)は、日本の実業家。元東京海上火災保険社長。 高木磯太郎の長男として、福岡県筑紫郡大野村牛頸(現・大野城市牛頸)に生まれる。1917年、福岡県立中学修猷館、1920年、第一高等学校英法科を経て、1923年、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、東京海上火災保険に入社する。なお、東京帝国大学在学中の1922年には、高等文官試験行政科に合格している。 1924年から5年間、海上保険研究のため英国に留学し、将来の最高幹部の基礎を作った。1939年、大阪支店長に抜擢され、その後海上営業部長となる。1944年の明治火災保険、三菱海上火災保険との合併後も、海上部長、総務部長、取締役と進み、1947年1月、常務取締役となり、1957年6月、社長に就任する。
織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 … 織田 智(おだ さとる、1899年(明治32年)3月20日 - 1981年(昭和56年)7月19日)は、昭和期の内務官僚。戦後山形県知事(官選最後)を経て、市川市長となる。 福井市出身。東京帝国大学を経て内務省に入省し、1940年から3年間、千葉県書記官・経済部長を務める。その後、朝鮮総督府物価課長となるが、戦後帰国して本省に戻り、1947年3月14日に山形県知事に任命される。 ところが、就任直後に千葉県知事選挙に出馬すべく県知事の辞表を出して無所属での立候補を表明した。折しも日本自由党と日本進歩党(3月31日に民主党となる)の間で統一候補の合意に失敗し、候補を欠いた進歩党は3月17日になって織田を推薦した。
時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19… 時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。出生時の戸籍上の名前は池野 音吉(いけの おときち)であるが、1961年(昭和36年)に筆名を本名に改名したため、没年時の本名も時雨音羽である。 北海道利尻島沓形村番外地出身。5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年(大正5年)沓形村役場に附属員として勤めていたが、1918年(大正7年)秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、1923年(大正12年)卒業後、大蔵省主税局織物課に勤めた。 1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。
恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月1… 恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月18日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の政治家・歴史学者。島根県知事(2期)、大田市名誉市民。政治家・恒松隆慶の孫。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 島根県安濃郡長久村(現大田市長久町)で、恒松嘉吉・ケン夫妻の二男として生まれる。杵築中学校(現島根県立大社高等学校)在学中は剣道に励んだ。祖父隆慶と岡本かの子の父・大貫寅吉が親しかったことから、慶應義塾大学予科に進学後、岡本一平・かの子の家に寄宿していた。岡本夫妻はともに家事家計が苦手であり、見るに見かねて手伝っているうちに家事一切や幼い息子太郎の世話、夫妻の給金や原稿料の貯蓄、かの子の執筆のための資料集めや原稿の清書までやる羽目になったという。
小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3… 小池 厚之助(こいけ こうのすけ、1899年(明治32年)3月16日 - 1985年(昭和60年)1月2日)は、日本の実業家。元山一証券社長、元同社会長、元小池銀行頭取、元小池証券社長、元高千穂商科大学(現高千穂大学)理事長。 小池国三の子として1899年(明治32年)山梨県で生まれ、旧制高千穂中学校(第3回卒業)を経て東京帝国大学政治学科を卒業。1943年(昭和18年)9月、厚之助が社長を務めていた小池証券が山一証券に吸収合併。新体制となった山一証券では厚之助が社長となり、山一の社長だった木下茂が会長に就いた。厚之助は小田急電鉄株式会社監査役、東京商工会議所議員、国際商業会議所日本国内委員会財務委員、経済同友会幹事なども務めた。
佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月1… 佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月1日)は、日本海軍の軍人。海軍兵学校48期。太平洋戦争末期のミンダナオ島防衛戦において、第32特別根拠地隊ザンボアンガ派遣隊長兼第33警備隊副長として戦死。最終階級は海軍中佐。五・一五事件を契機に予備役に編入され、満州国軍政部に籍を置いた時期もあった。 広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。
川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - … 川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - 1981年3月31日)は、日本の仏教学・比較思想学者。 1899年、香川県(旧:大川郡長尾村前山来栖。現:さぬき市前山)生まれ。1922年に東京帝国大学法学部を卒業したが、同じ頃に哲学を研究したいとの希求が高まり、同年、東京帝国大学文学部に入学し、1925年同文学部哲学科を卒業し、直ちに同大学大学院に入る。1927年日本女子大学教授に就任し、西洋哲学、特にプラトンの研究に傾注した。 1941年、『プラトン弁証法の研究』(河出書房、1940年刊)によって東京帝国大学から文学博士の学位が授与された。同年、東京文理科大学助教授に、1943年には同大学教授に任ぜられて、戦後にも及び、1950年には東京大学教養学部教授に就任して、比較哲学の講義や東西思想の比較研究を行った。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
大坪 保雄(おおつぼ やすお、1899年3月14日 - 19… 大坪 保雄(おおつぼ やすお、1899年3月14日 - 1974年1月29日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 佐賀県生まれ。東京帝国大学法学部卒。内務省入省、警保局出身。1935年、満洲国総務庁法制処長。1940年、第37代島根県知事。大阪府警察局長。1944年、第28代長野県知事。長野県知事として終戦を迎え、玉音放送を受けて、県民に終戦を告諭した。1945年10月27日、知事を依願免本官となり退官。公職追放となる。 追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙と1953年の第25回衆議院議員総選挙に佐賀選挙区から自由党で出馬するが、落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙で初当選。
佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13… 佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉7月29日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。現在の岩手県奥州市(旧江刺市域)出身。 1922年に慶應義塾大学を卒業し、星製薬、時事新報社での勤務を経て、1935年に岩手日報社専務に就任する。その後、1942年に中日新聞社の前身である新愛知新聞社に入社し、取締役と常務を歴任した。 1950年に中部日本放送の専務に就任し、副社長を経て、1959年11月から社長に就任した。 1961年7月29日社長在職中に心筋梗塞で死去。62歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。