近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治1… 近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家。教育者である近藤喜則は祖父にあたる。建築家の白井晟一は義弟にあたる。 山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。 祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。
佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月2… 佐藤 徳重(さとう とくしげ、1884年(明治17年)3月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。群山府尹。平壌府尹。 佐藤健造の四男として、大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)に生まれる。1903年(明治36年)陸軍士官候補生に合格し、歩兵第47連隊に入隊する。陸軍二等計手に進んだのち、1909年(明治42年)1月、陸軍判任文官試験に合格し、1911年(明治44年)5月、朝鮮総督府道書記に就任する。1919年(大正8年)4月、退官し東洋拓殖に入社。1921年(大正10年)4月、再び任官し、同年10月に忠清北道税務課長に就任した。 ついで平壌府内務課長、大邱府内務課長、統営郡守を経て、1931年(昭和6年)4月30日、群山府尹に就任した。
一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)… 一柳 満喜子(ひとつやなぎ まきこ、1884年(明治17年)3月18日 - 1969年(昭和44年)9月7日)は、キリスト教教育者。近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めた。 兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、明治維新後は貴族院議員となった一柳末徳子爵の三女として誕生。神戸女学院音楽部卒。単身で渡米する旅の途中でハワイ・オハウ大学長のグリフィス[要出典]の勧めもあり、日本で最初の女子留学生・津田梅子が卒業し東洋女性のための奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学ぶ。その後アリス・ベーコンの教育実践活動に参加した。
小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1… 小林 秀三(こばやし ひでぞう、1884年3月15日 - 1904年9月21日または9月22日)は、明治時代の日本の教員。田山花袋の小説『田舎教師』のモデルになったことで知られる。 栃木県足利郡小俣村(現・足利市)に生まれる。父の家業が不振となったため、9歳だった1893年6月に埼玉県熊谷町に転居した。 埼玉県第二尋常中学校(のちの埼玉県立熊谷中学校、現・埼玉県立熊谷高等学校)に進学した。家庭の貧窮がさらに進んだため、中学在学中の1900年の冬に北埼玉郡忍町(現・行田市)に再度転居している。中学卒業時には弘中又一(夏目漱石の小説『坊っちゃん』のモデル)が教員におり、弘中赴任後の最初の卒業生でもあった。
矢野 宗幹(やの むねもと、1884年3月15日 - 197… 矢野 宗幹(やの むねもと、1884年3月15日 - 1970年12月31日)は、日本の昆虫学者。 福岡県出身。旧制東筑中学(後の福岡県立東筑高等学校)、東京帝国大学卒業。1909年(明治42年)、林業試験場技師となり、のち東京帝国大学、京都帝国大学の講師をかねた。1917年(大正6年)、東京昆虫学会(現日本昆虫学会)を創立。日本昆虫学会会長、日本応用昆虫学会長を歴任。
西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959… 西 勝造(にし かつぞう、1884年3月15日 - 1959年11月21日)は、西式健康法の創始者。 神奈川県高座郡下鶴間村生まれ。16歳の時、医者から20歳まで生きられないと言われ、さまざまな健康法を実行。やがて健康を取り戻す。1904年西洋医学の逆をゆく健康法をあみだす。コロンビア大学でトンネル工学や橋梁工学を学ぶ。1927年「医学の革命」として、独特の医学を体系化し公表、西式健康法として知られた。東京都第4区 (中選挙区)から1948年第23回衆議院議員総選挙に無所属で、1949年第24回衆議院議員総選挙に国民協同党から出馬し落選。息子の西大助(おおすけ、1921-97)が後を継いだ。
若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3… 若尾 幾太郎(わかお いくたろう、1884年(明治17年)3月14日 - 1938年(昭和13年)12月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 神奈川県横浜区(現横浜市)で、二代若尾幾造の長男として生まれる。1903年、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を卒業した。 父の事業を補佐して生糸貿易業などに従事。1916年、横浜連合青年会会頭に就任。1922年、家督を相続。若尾合名会社社長、若尾銀行頭取、帝国ホテル取締役、湘南電気鉄道取締役、富士山麓電気鉄道取締役、日本土地証券取締役、ホテルニューグランド取締役、横浜火災海上保険取締役、帝国蚕糸監査役、横浜桟橋倉庫監査役、三ッ引商事監査役などを務めた。
石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1… 石黒 英一(いしぐろ えいいち、1884年3月12日 - 1973年12月29日)は、日本の経営者。愛知県出身。 1910年に大阪高等工業学校を卒業し、同年に名古屋ガス(のちの東邦ガス)に入社。1936年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1960年8月に社長に就任。1964年8月から相談役を務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1973年12月29日老衰のために死去。89歳没。
原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月… 原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年(明治17年)3月10日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。徳島県徳島市生まれ。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。娘婿は、坂野常和(元大蔵省証券局長、元日本化薬会長)。 1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放に際し、東京の新設放送局は二局に限ることを決定した。しかし既に民間放送開始に向けて新聞会社を母体とする朝日放送(朝日新聞系)、ラジオ日本(毎日新聞系)、読売放送(読売新聞系)、東京放送(電通系)が準備を進めており、どの新聞社系の会社が免許を取得しても軋轢が生じることが不可避となった。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日… 後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。
豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3… 豊田 利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の実業家。位階は従五位。勲等は勲四等。 株式会社豊田自動織機製作所社長(初代)、豊田紡織株式会社社長(第3代)、トヨタ自動車工業株式会社社長(初代)、豊田工機株式会社社長(初代)などを歴任した。 豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。ただし、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。利三郎は元々は車作りに反対していたが、喜一郎の細かい計画や上海自動縫の西川からの資金援助で豊田自動車(後のトヨタ自動車)を設立した。
島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3… 島田 勝之助(しまだ かつのすけ、1884年(明治17年)3月5日 - 1960年(昭和35年)2月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。北海道炭礦汽船会長、貴族院勅選議員。 東京府で島田慶助の三男として生まれる。1903年(明治36年)東京外国語学校仏語科を卒業した。 卒業後、三井物産に入社した。1931年(昭和6年)ロンドン支店長に就任し、1934年(昭和9年)取締役となる。1935年(昭和10年)三井合名に転じて理事に就任。1936年(昭和11年)常務理事となり、北海道炭礦汽船取締役、三井鉱山取締役、三井農林会長を兼務した。1939年(昭和14年)三井合名、三井鉱山の役員を辞して北海道炭礦汽船取締役会長に就任した。
桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4… 桑島 主計(くわしま かずえ、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1958年〈昭和33年〉9月24日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、ブラジル大使。 香川県出身。1906年(明治39年)に早稲田大学政治科を卒業し、外務書記生試験に合格した。清国に在勤し、1908年(明治41年)に高等文官試験に合格し、外務属となった。1911年(明治44年)、外交官及領事官試験に合格し、領事官補、領事、外務書記官・帝都復興院書記官、大使館一等書記官を歴任し、その間に奉天、漢口、サンフランシスコ、バンクーバー、シカゴ、ワシントンD.C.に勤務した。さらにホノルル総領事、漢口総領事、大使館参事官、天津総領事、外務省亜細亜局長、同東亜局長を務めた。
早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三… 早瀬 太郎三郎(はやせ たろさぶろう、旧字体: 早瀨 太郞三郞、前名:為治郎・為次郎、1884年〈明治17年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉5月30日)は、日本の商人(質商)、大阪府多額納税者、資産家、地主、実業家。 大阪府大阪市東区横堀五丁目生まれ。早瀬太郎三郎の長男。大阪府立堂島中学校に入り、1902年に卒業、先代太郎三郎の病没により、家督を相続し、前名・為次郎を改め襲名した。1907年、早稲田大学商科卒業。1年志願兵となり、除隊後所有土地の経営に従う。 「今木屋」と称し、貸地業を営み、傍ら会社の重役であった。桐花興業社長、大阪土地協会会長、大神中央土地、木津川土地運河、八馬汽船各取締役、東北興業、九州石炭鉱業、早瀬塗料店、東洋ベアリング、呉羽紡績各監査役、早稲田大学評議員などをつとめた。
比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3… 比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3日 - 1941年(昭和16年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 福島県石城郡湯本村(常磐市を経て、現在のいわき市)出身。早稲田大学政治経済科卒業。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬。対立候補は星製薬社長の星一(立憲政友会)であったが、「薬は星、政治は比佐」のキャッチフレーズで勝利を収めた。 以後、当選回数は6回を数え、第2次若槻内閣と第1次近衛内閣で陸軍参与官を務めた。 1941年(昭和16年)現職のまま死去。戦後、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に公職追放者として掲載された(追放理由は「陸軍政務官」)。
千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 -… 千葉 了(ちば りょう、1884年(明治17年)3月2日 - 1963年(昭和38年)11月8日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。
山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日… 山口 剛(やまぐち たけし、1884年(明治17年)3月1日 - 1932年(昭和7年)10月8日)は、日本の国文学者・中国文学者。早稲田大学教授。号は、聾阿弥・聾不言・不言斉主人など。 山口常太郎・なか夫妻の長男として、1885年(明治18年)茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)に生まれた。父・常太郎は土浦小学校の校長を務め、退職後は代言人の傍ら俳句・新体詩を指導していた。 剛も土浦中学校(現:茨城県立土浦第一高等学校)から早稲田大学高等師範部卒業(現:早稲田大学教育学部)へと進学し、1912年(大正元年)に早稲田大学講師。更に、早稲田大学高等学院教授(1920年 / 大正9年)・早稲田大学高等師範部・文学部教授(1924年/大正13年)を歴任。
小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 19… 小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 1955年12月4日)は、岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人・教育家・書道家。「岩手歌壇の父」と言われる。本名は小田島理平治。旧姓は佐々木。 1884年3月、和賀郡小山田町の農家の二男として生まれる。1902年、19歳で「小国民」懸賞小説に二等当選。同年4月、岩手師範学校本科に入学。1904年、同校文芸同人誌『花摺草』に短歌、俳句、美文「わが罪」を発表。1905年7月、石川啄木を訪問し交際が始まる。[要出典] 与謝野鉄幹は、「君は短歌より長詩の方が優る」と手紙でいさめたが、結果的には石川啄木が小田島にあてた書面「和歌は現代に新価値あり」に動かされ、歌人を目指すことになった。
久内清孝(ひさうち きよたか、1884年3月 - 1981年… 久内清孝(ひさうち きよたか、1884年3月 - 1981年4月12日)は日本の植物学者、薬学者である。日本の植物分類学の初期の研究者の一人である。
釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 -… 釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。教育者。 福岡県出身。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格。佐賀県属、同警視、同理事官、神埼郡長、宮城県理事官、朝鮮総督府事務官、同税関長、咸鏡北道内務部長などを歴任した。 1928年(昭和3年)に退官し、1932年(昭和7年)に門司市助役に就任。その後、学校法人九州学園理事長、九州女子高等学校・中学校校長を務めた。
寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 19… 寺崎 武男(てらさき たけお、1883年3月30日 - 1967年2月16日)は、日本の洋画家・版画家。房総神話を描いた画家として知られる。 東京都生まれ。1907年に東京美術学校西洋画科を卒業し、農商務省実業講習生としてイタリアを訪れ、ベネチアを拠点に活動し、フレスコ画やエッチングなどを学ぶ。1918年、山本鼎らと日本創作版画協会を設立。後に日本版画協会の創立に参加した。作品に「房州の海」「安房開拓神話」などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3… 高橋 弥太郎(たかはし やたろう、1883年(明治16年)3月27日 - 1945年(昭和20年)10月20日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。樺太庁豊原市長。 長野県東筑摩郡松本(現松本市)出身。松本商業学校を卒業する。1906年(明治39年)5月、樺太に渡り、豊原実業懇話会および信用組合設立に参画した。豊原町会議員当選を皮切りに、1931年(昭和6年)2月、豊原町長に就任し、市制施行後の1937年(昭和12年)9月に市長として引き続き再選した。町長、市長を12年間、無給で勤めた。 1942年(昭和17年)2月に退任し、翌年4月、樺太配電・樺太魚菜配給各社長に就任した。のち大泊町にて洋服店を経営した。
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月… 長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。 1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた。長沼賢明の長男。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。 1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任。
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月2… 西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男は2代目水戸光圀役で知られる俳優の西村晃。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月… 篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月26日 - 1966年〈昭和41年〉9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に通算4回当選した。 東京府(現・東京都)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科卒業後官界に入り、司法官試補となった。その後大蔵省に移り(主計局属)、税務監査局事務官、大蔵省主計官、大蔵省書記官、長崎税関長、熊本税務監査局長を歴任した。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に立憲民政党公認で旧千葉県第1区から立候補し初当選した。2年後の第18回衆議院議員選挙では民政党大敗のあおりを受け次点に終わったものの、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員選挙で政界に返り咲いてからは連続3回総選挙に当選した。
藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - … 藤井 甚太郎(ふじい じんたろう、1883年3月25日 - 1958年7月9日)は、大正・昭和期の日本史学者。法政大学文学部名誉教授。明治維新史の実証主義的研究の先駆者として活躍した。
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 … 粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。 旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。 1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。
野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 -… 野口 保市郎(のぐち やすいちろう、1883年3月21日 - 1952年8月5日)は、日本の地理学者。 茨城県出身。1912年に東京帝国大学西洋史学科を卒業した。 郁文館中学校・開成中学校・成蹊中学校教諭、浦和高等学校講師などを経て、1921年より法政大学で教授を務めた。また、中央大学教授も務めている。 1949年に「常陸風土記の歴史地理学的研究」で東北大学より文学博士号を取得した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月1… 磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。 香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した「漆サボテンにホロホロ鳥飾棚」で選奨を受賞。1953年(昭和28年)には岡山大学教授に就任。
茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1… 茅野 蕭々(ちの しょうしょう、1883年3月18日 - 1946年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、翻訳家。本名は茅野 儀太郎、号は暮雨。妻は歌人の茅野雅子(旧姓:増田)。 長野県諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校、第一高等学校を経て、1908年東京帝国大学独文科卒業。同科の同級生に小宮豊隆、小牧健夫、1年上に成瀬無極、一年下に小野秀雄がいた。第三高等学校教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学教授を歴任した。 旧制一高在学中から与謝野鉄幹が主宰する新詩社の『明星』同人として短歌、詩、評論等を寄せ、妻雅子とともに活躍した。「蕭々」は与謝野鉄幹から与えられたペンネームである。
次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉… 次田 大三郎(つぎた だいざぶろう、1883年〈明治16年〉3月18日 - 1960年〈昭和35年〉9月15日)は、貴族院勅選議員ならびに廣田内閣の法制局長官、幣原内閣の内閣書記官長。第六高等学校、東京帝国大学卒業。幼名は七五三五郎。 後妻は三菱総理事や南満州鉄道副総裁を務めた江口定条の長女。日本共産党議長などを務めた野坂参三は義弟。 岡山県邑久郡南幸田村(幸島村、西大寺市水門町を経て現在の岡山市東区)出身。次田大三郎の四男・七五三五郞として生まれる(1914年に襲名)。東京帝国大学法科大学政治科卒業。東京帝大卒業後は官僚となる。1909年(明治42年)11月、高等文官試験行政科を合格。茨城県属。
宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1… 宮良 長包(みやら ちょうほう、1883年3月18日 - 1939年6月29日)は、20世紀前半の日本の作曲家、教育者。沖縄県八重山郡石垣町(現・石垣市)出身、石垣市名誉市民。 1883年(明治16年)石垣町新川に生まれる。宮良家は音楽的才能に恵まれ、長包の叔父・長次は、八重山民謡の代表として広く愛唱されている「トバラーマ(とぅばらーま)」の名歌手で、長包の妹・ヌヘマは1935年(昭和10年)にコロムビア・レコードで八重山民謡を録音している。 石垣南尋常小学校、八重山島高等小学校を経て、1903年(明治36年)、首里の沖縄師範学校に入学。卒業後、八重山高等小学校(現:石垣市立登野城小学校)訓導として教育者となる。
西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月1… 西方 利馬(にしかた としま、1883年(明治16年)3月17日 - 1973年(昭和48年)11月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。 山形県東置賜郡中川村(現・南陽市)で、旧米沢藩の中山城代家中(陪臣)の西方家に生まれる。1919年中央大学法律科卒。中山葡萄、山形新聞各社長、山形県議、山形県体育会長などを務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙において山形県第4区(当時、小選挙区)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来当選6回。立憲政友会総務、内閣東北局委員、内務省委員などを歴任する 。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となる。1951年追放解除。1973年死去。
青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 19… 青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 1952年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1909年明治大学法科選科修了。1913年(財)警務協会経営警察官練習所卒。千葉県野田、佐原、北条の各警察署長、同県刑事課長を歴任。千葉県議、同参事会員、同議長、県労務調停委員会委員長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本進歩党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において千葉3区から民主党公認で立候補したが落選した。 このほか白井自動車(株)取締役、土木建築(資)松井組常任顧問を務めた。1952年死去。
藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3… 藤田 傊治郎(ふじた うんじろう、1883年(明治16年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。 岡山県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格。岐阜県属、神奈川県属、同鎌倉郡長、同理事官、兵庫県理事官、同視学官、秋田県警察部長、関東庁事務官兼参事官・警務局警務課長兼警察官練習所長、同内務局学務課長、広島県学務部長、鹿児島県内務部長、栃木県内務部長を歴任した。一時休職の後、1932年(昭和7年)、千葉県書記官・内務部長に任命された。 1935年(昭和10年)、台湾総督府交通局理事・逓信部長に転じ、翌年には台南州知事、ついで台北州知事に就任した。
村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 19… 村尾 圭介(むらお けいすけ、1883年3月13日 - 1959年7月19日)は日本の医師、弓道家。結核の専門医で、学位は医学博士。 静岡県浜名郡小野口村(現・浜松市)出身で、東京帝国大学で学んだ。学生時代は高野六郎と毎日顔を合わせていた。高野によると、当時の村尾は陽気なやんちゃ坊主で、既に弓道の極意に達していた。1909年のクリスマスの頃に大学を出た。 初め故郷の浜松で勤めた。研究分野を病理から外科へ、外科から結核へ変えた。研究の目的で1920年夏に上京し、開設されたばかりの公立結核療養所・東京市療養所に勤めた。病室の仕事と研究室の仕事をもった。江古田にあった東京市療養所には本郷から通った。1923年の関東大震災に遭い、東京市療養所の敷地に避難して、そこの自動車小屋の2畳敷の部屋に住み着いた。
高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉… 高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年〈明治16年〉3月13日 - 1956年〈昭和31年〉4月2日)は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。本名は高村 光太郎(たかむら みつたろう)。父は彫刻家の高村光雲。 日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟が2人おり下の弟は鋳金家の高村豊周。甥(豊周の息子)は写真家の高村規である。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。 東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)出身。
大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)… 大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)3月13日 - 1951年(昭和26年)3月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。醸造家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県志太郡藤枝宿(藤枝町を経て現藤枝市)出身。生家は酒造業を営み、父の先代大塚甚之助は志太電気会社や藤相鉄道などを創設した実業家。 藤枝町長、同町会議員、静岡県会議員、同副議長、議長、静岡県鉄工組合連合会理事、同酒造組合連合会長、全国酒造組合中央会理事、藤相鉄道監査役、静岡県酒類販売社長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙では静岡全県区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は日本自由党総務、衆議院請願委員長を務めた。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 -… 加藤 鐐五郎(かとう りょうごろう、1883年3月11日 - 1970年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議長(第48代)、法務大臣(第4代)。衆議院議員(12期)。 愛知県瀬戸市出身。政界入りする前は医学博士号を持つ医師であり、戦前の帝国議会時代より衆議院議員選挙に通算12回当選。戦時中は政友会系の地方紙で現在の中日新聞社の前身の1紙に当たる新愛知新聞社の顧問を務めていた。 造船疑獄に対する指揮権発動で法務大臣を辞任した犬養健の後任法相となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎の後任議長に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日… 吉岡 重三郎(よしおか じゅうさぶろう、1883年3月10日 - 1974年3月22日)は、大阪府大阪市出身の実業家。東京テアトル株式会社創業者。 1883年(明治16年)3月10日、大阪府大阪市の吉岡勘三郎の三男として生まれた。大阪高等商業学校(後の旧制大阪商科大学、大阪市立大学の母体の一つ)在学中は野球部捕手として活躍し、1903年(明治36年)に大阪高等商業学校を卒業した。1909年(明治42年)に箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)に入社して営業を担当。同時期に入社した人物には佐藤博夫がいる。1915年(大正4年)には同社が建設した豊中球場の活用策として、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を発案して大阪朝日新聞の(当時社会部長)長谷川如是閑らと交渉し開催を実現させた。
前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月1… 前田 直造(まえだ なおぞう、1883年(明治16年)3月10日 - 1943年(昭和18年)4月10日)は、日本の逓信官僚。 三重県出身。第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。翌年に高等文官試験に合格した。逓信局書記、通信事務官補、通信副事務官、逓信局副事務官、逓信局事務官、逓信書記官を歴任し、その間に和歌山郵便局長、京都中央電話局長、北海道逓信局総務部長、熊本逓信局監察課長、同監理課長、東京逓信局規画課長を務めた。さらに逓信局電話課長、電務局規画課長などを歴任。1927年(昭和2年)、仙台逓信局長に就任し、大阪逓信局長、東京逓信局長も務めた。1933年(昭和8年)、退官。
澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9… 金子 喜代太(かねこ きよた、1883年(明治16年)3月9日 - 1971年(昭和46年)6月6日)は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の重役を務めた。 1883年(明治16年)3月に、高知県の金子虎太郎の長男として生まれた。東京高等師範学校(筑波大学)の物理化学科を1907年(明治40年)に卒業した。 或いは数学科を卒業した。 教師として数年間働いてから、東京帝国大学(東京大学)に入学して、穂積八束博士宅に寄寓して、昼は学生、夜は教師をして苦学しながら、法科 または政治科を大正4年に卒業した。 卒業後に最初は三菱合資に就職したが、 穂積八束博士の娘であり穂積重威の妹でもある女性と結婚して、浅野総一郎の親戚となり、大正6年に浅野セメント(太平洋セメント)に転職した。
白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9… 白勢 黎吉(しろせ れいきち、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。実業家。 新潟県北蒲原郡新発田町(現在の新発田市)出身。今井文三の二男として生まれ、白勢家を継いだ。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、交通局理事、鉄道部長兼総務課長、交通局総長を歴任した。 退官した後は、台湾青果社長、常磐簡易火災保険会社常務取締役、東海運輸株式会社社長、台湾土地建物株式会社取締役、台湾乗合自動車事業組合理事長、台湾自動車事業組合連合理事などを務めた。
広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治1… 広部 達三(廣部 達三、ひろべ たつぞう、1883年〈明治16年〉3月9日 - 没年不明)は、日本の農学者。東京帝国大学農学部教授。農林省農事試験場技師。旧姓・太田。 宮城県仙台市生まれ。太田可一の弟。1907年、東京帝国大学農学科卒業。1912年、広部銀行頭取・広部清兵衛の養子となる。農科大学講師兼農事試験場嘱託同技師農林技師歴職。また広部拓殖社員である。 『広部農具論』、『広部農用機具』などの著書がある。趣味は庭球、柔道、弓道、スケート、写真。住所は東京市渋谷区神山町。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。