許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1… 許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾の政治家・医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある。また、日本で3人目の女性医師である。 1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた。日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した。 台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日… 真崎 秀樹(まさき ひでき、1908年〈明治41年〉4月1日 - 2001年〈平成13年〉11月14日)は、日本の外交官。1959年から1964年までと1969年から1989年まで宮内庁で昭和天皇の通訳を務めた。 陸軍大将の真崎甚三郎は父。貴族院議員の長谷川赳夫は妻の父。 佐賀県出身。東京府立第四中学校、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業。1934年に外務省情報部嘱託。1939年に外務省翻訳官。1940年に大使館二等通訳官・中華民国・上海駐在。1941年にアメリカ在勤。1942年1月に中華民国在勤、上海駐在、9月に一等通訳官、10月に帰国。1943年5月に陸軍通訳官・比島軍政監部付、10月に大使館三等書記官を歴任。
猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月… 猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月- 1987年(昭和62年)4月11日 )は、日本の植物生態学者である。資源科学研究所研究員を経て、山に牛を放牧する酪農である山地酪農を提唱し日本に広めた。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)に岡山県高梁市で出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学を経て、1928年(昭和3年)に鹿児島市にある第七高等学校理科甲類へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、1932年(昭和7年)東北帝国大学理学部生物学教室へ入学する。1935年(昭和10年)3月に同大学を卒業した。 猶原は大学卒業後、1938年(昭和13年)30歳とき、東京府大泉師範学校の設立時教諭となり、同時期に、企画院の外郭団体として設立された大日本帝国の国策調査・研究を行う機関である東亜研究所に所属する。
遊亀 教授(ゆうき さずく、1908年4月 - 1997年1… 遊亀 教授(ゆうき さずく、1908年4月 - 1997年1月27日)は、日本の倫理学者、浄土真宗の僧侶。 福井県武生出身。1932年龍谷大学文学部倫理学科卒、1936年同研究科修了。京都女子大学講師、1960年「鎌倉仏教の倫理学的研究」で龍谷大学文学博士、龍谷大学文学部助教授、教授、1971年学長代行。1979年名誉教授。 浄土真宗本願寺派(西本願寺)伝道院萇。教善寺住職。
鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993… 鈴木 清(すずき きよし、1907年4月29日 - 1993年2月18日)は、日本のプロレタリア作家、政治家。 秋田県平鹿郡旭村(現・横手市)出身。横手中学から山形高等学校へ進学するも社会運動にかかわって中退。 山形高校在学中に紺野与次郎らとともに社会主義運動に入る。その後上京し、東京合同労組書記などを経て職工になる。1929年、四・一六事件に連座し逮捕される。ほどなくして創作活動に入り、『監房細胞』(1931年)などの小説を著し、日本プロレタリア作家同盟の秋田支部を結成して活動した。作家同盟解散後も創作活動を続けたが、1940年には東北農業研究所を設立、農村での改良運動にかかわる。 第二次世界大戦後は政治活動も行い、1946年には旭村の村長職もつとめた。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1… 赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1979年1月24日)は、日本の歴史学者。北海道旭川市出身。 北海道鷹栖村(現旭川市)の真宗大谷派の寺院光岸寺に次男として生まれる。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部史学科に進み、三浦周行・西田直二郎・中村直勝らに学ぶ。同期に清水三男がいる。卒業論文として「室町幕府の統制意識に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部史学科卒。 京都府嘱託・主事として、府下の社寺宝物や史跡の調査に従事。1949年京都府教育委員会文化財保護課の初代課長。東寺百合文書のうち、東寺にて放置されたままであった文書群の存在を確認してその解読にあたり、その成果を「東寺百合文書」として発表する。
木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4… 木場 深定(きば じんじょう、1907年 <明治40年> 4月28日 - 1999年 <平成11年> 9月20日)は、日本の哲学者。ドイツ哲学を専攻。東北大学名誉教授。位階は正四位。 富山県小矢部市出身。1932年東北帝国大学法文学部哲学科卒、1962年「ヘーゲル宗教哲学の研究 特に宗教的意識と哲学的思惟との関係について」で東北大学文学博士。東北大学文学部教授。1971年定年退官、名誉教授、大谷大学教授を務めた。 1999年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 父・木場了本は第四高等学校で西田幾多郎の教えを受けた後、1911年東京帝国大学文学部哲学科卒、京都で大谷大学の教授を勤め、後郷里金沢に帰って第四高等学校の教授となった。
斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 199… 斎藤 清(さいとう きよし、1907年4月27日 - 1997年11月14日)は、日本の木版画家。文化功労者(1995年)。 独学で独自の木版画技法を確立。浮世絵版画の技法や西洋作家の近代的造形を取り入れ、日本的感情を表現した。安井曽太郎の木版に魅せられ、版画を研究した。版画の他に油彩や水墨画も数点残している。 やないづ町立斎藤清美術館などのほか、斎藤と生前親交があったアメリカ人美術商ノーマン・H・トルーマンが斎藤の作品を約3,000点収集している。一部は東京の渋谷ヒカリエで2018年12月に公開された。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27… 生野 初子(いくの はつこ、1907年〈明治40年〉4月27日 - 1967年〈昭和42年〉)は、日本の女優である。本名は出生名が生野 静子(いくの しずこ)、俳優の高木新平と結婚して高木 静子(たかぎ しずこ)となった。 1907年4月27日、福岡県浮羽郡吉井町(現在の同県うきは市吉井町)に「生野静子」として生まれる。 満12歳になる1919年(大正8年)に女歌舞伎の一座に入団し、熊本市内にあった旭座で初舞台を踏む。1924年(大正13年)1月、京都のマキノ映画製作所等持院撮影所に入社、阪東妻三郎主演、寿々喜多呂九平脚本、後藤秋声監督のサイレント映画『山猫の眼』に阪東の相手役として出演し、「生野初子」の名で映画界にデビューした。
多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 200… 多田小餘綾(ただ こゆるぎ、1907年4月27日 - 2008年4月6日)は、阿波踊りのおはやし「阿波よしこの」の歌い手である。 また、お鯉さんの名で伝統文化の継承と「よしこの」の普及に貢献し続けた。 徳島県徳島市富田町出身。徳島市名誉市民。とくしま市民遺産選定。 日本コロムビア大阪支社、ポリドール・レコードに所属していた。2006年に『お鯉〜唄声は時代を超えて〜』のCDが発売され、2007年には徳島県民栄誉賞を受賞し、自身が目標としていた「100歳での現役よしこの歌手」を実現する。 2008年4月6日6時40分、老衰のため死去。享年102(100歳没)。晩年は公演時に車椅子で移動する姿が多くみられていた。
仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-199… 仲宗根政善(なかそね せいぜん、1907年4月26日-1995年2月14日)は、日本の教育者、言語学者、琉球大学名誉教授。
山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月… 山本 健吉(やまもと けんきち、1907年〈明治40年〉4月26日 - 1988年〈昭和63年〉5月7日)は、日本の文芸評論家。本名は石橋 貞吉(ていきち)。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に『現代俳句』(1951年)、『古典と現代文学』(1955年)、『いのちとかたち』(1981年)など。 文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員。
山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月2… 山本 和夫(やまもと かずお、1907年〈明治40年〉4月25日 - 1996年〈平成8年〉5月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。妻は、児童文学作家で翻訳家の山本藤枝。ロシア児童文学の翻訳・研究家の松谷さやかはその子にあたる。 福井県遠敷郡松永村門前(現小浜市)で、山本文雄の長男として生まれる。旧制小浜中学校卒業。中学時代より詩作を始め、1926年(大正15年)東洋大学専門学部倫理学東洋文学科に入学、1929年(昭和4年)に卒業した。在学中に乾直恵、白井一二らと『白山詩人』同人となり赤松月船、勝承夫、大村主計と詩を発表し、処女詩集『仙人と人間との間』を創刊し活躍した。 1932年(昭和7年)三省堂編集部に勤めながら文学活動を続け、1935年(昭和10年)には同人誌『星座』に参加、同誌に連載した『国木田独歩ノート』で全国同人誌クラブ賞受賞。
安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980… 安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は、日本の国際法学者、平和運動家。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長、原水爆禁止日本協議会(原水協)初代議長。 大阪府門真市出身。大阪市立生魂小学校時代の同級生に作曲家の服部良一がいた。 国際法専攻。戦前期はモーゲンソーの影響を受ける。第二次世界大戦中には東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した。しかしこのことをもって1947年占領軍により戦争協力とみなされ、1948年に東大を公職追放となる。神奈川大学教授を経て法政大学教授に就任した。 1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を契機に、同年5月9日、東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組など39人は「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成した。
巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 … 巽 フサ(たつみ フサ、1907年〈明治40年〉4月25日 - 2023年〈令和5年〉12月12日)は、大阪府柏原市在住だった長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。2022年4月19日から死去するまで長寿日本一であった。 1907年4月25日、6人兄弟の次女として八尾町(現在の大阪府八尾市)に生まれる。桃やブドウを育てる農家の夫と32歳の時に結婚。3人の子供に恵まれた。結婚前は華道や茶道を習い、生け花が得意で、106歳までは自宅の玄関に生けた花を飾り、庭では菊を育てていた。みたらしやぜんざいなど甘い物が大好きであった。 2013年、柏原市の特別養護老人ホーム「はくとう」に入所する。入所時は車いすに乗ったまま体操するなど元気だったという。
鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 19… 鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 1985年5月28日)は、兵庫県出身の日本の建築構造学者。工学博士(京都帝国大学)。大阪大学名誉教授。日本建築学会元副会長。武田五一の教え子で、構造学の研究に関する業績を残している。 ついても先駆的な業績を残した。このような実践を通し、構造力学という純粋で厳密な学問の大切さとともに実務に密着する鋼構造学の設計・施工の実態を踏まえた地道な技術者教育とその基礎にある人間教育がすべての根源であるとの認識を固めたように思われている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007… 小出 武(こいで たけし、1907年4月24日 - 2007年1月6日)は日本の地理学者。 旧制東京文理科大学卒業。信濃教育会研究所主任、長野県立高校教諭、本州大学(現・長野大学)教授、1969年から1972年まで学長代行を務めた。理学博士(東京教育大学)。元長野県地理学会会長。勲四等旭日小綬章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月2… 8代目 雷門 助六(かみなりもん すけろく、1907年4月22日 - 1991年10月11日)は、東京府東京市本郷区壱岐殿坂出身の落語家、喜劇役者。本名∶岩田 喜多二。旧姓は青木。出囃子は『助六ばやし』。愛称は「六さん」。 父は6代目雷門助六。5歳だった1912年から父の門下で小助六の名で人形町末広で初舞台、以降小噺やかっぽれで舞台に立った。 1917年には5代目柳亭左楽の門人となり、小学校の頃は一時中断していた時期もあったが1921年10月には16歳の若さながら睦の五郎の名で真打に昇進。この時睦ノ太郎、睦の三郎とで若手三羽烏として売り出される。 1928年には父の6代目助六が睦会を脱退し独立した際、自身は睦の五郎を返上し雷門五郎に改名する。
渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 20… 渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 2000年7月21日)は、日本の写真家である。 戦前はライカなどの小型写真機を駆使したスナップ写真で著名となった。フリーランスとなってからは、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』に参加。また国際文化振興財団や木村伊兵衛らの中央工房に関係した国際報道写真協会で活躍。報道写真家の草分けとなる。戦後には大型カメラを使用する建築写真界の第一人者、そして優れた写真教育者となった。写真家としては日本で最初の文化功労者。三条市名誉市民。 新潟県南蒲原郡三条町(現在の三条市)に呉服商の家に生まれる。1925年小西写真専門学校(のちの東京写真専門学校)に入学。在学中より『写真月報』に作品を発表。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991… 河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991年2月11日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。静岡大学名誉教授。 愛知県知多郡内海町(現・南知多町)出身。第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学仏文科卒業。徳川義忠(尾張徳川家・分家)の家庭教師を務め、31年草村北星の龍吟社に入る。32年藤山工業図書館勤務、38年財団法人東亜研究所(近衛文麿総裁)に入り調査員となる。戦後の47年広島文理科大学および広島高等師範学校講師、48年静岡高等学校教授、49年静岡大学文理学部教授、54年図書館長、62年文理学部長、65年改組により初代人文学部長、67年東京教育大学教授、71年定年退官、静大名誉教授、72年白百合女子大学教授、78年定年退職。
安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993… 安部 三史(あべ さんし、1907年4月20日 - 1993年11月5日)は、日本の医学者。専門は公衆衛生学。元北海道医療大学学長。 北海道出身。1933年(昭和8年)北海道帝國大學医学部卒業後、同医学部助手。1941年(昭和16年)帯広高等獣医学校講師に就任。帯広獣医畜産専門学校講師を経て1946年(昭和21年)北海道大学医学部講師。その後、同医学部助教授。1956年同教授。1963年同医学部長。1967年北海道大学歯学部教授となり、同歯学部長。1970年北海道大学停年退官。同名誉教授。北星学園大学文学部社会福祉学科教授。1974年東日本学園大学薬学部教授。1977年東日本学園大学2代学長に就任。
松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月… 松浦 東介(まつうら とうすけ、1907年(明治40年)4月18日 - 1964年(昭和39年)3月6日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 山形県東村山郡成生村(現在の天童市)大字大清水に生まれる。1926年、山形県立寒河江中学校を卒業。山形県会議員、同参事会員を務めた。1942年の翼賛選挙では山形1区(当時)から大政翼賛会の推薦を受けずに立候補したため落選した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で山形選挙区から出馬して当選。以後、23回、24回、25回、27回、29回、第30回総選挙で当選し、衆議院議員を通算7期務めた。 この間、日本自由党、民主自由党、自由党、日本民主党、自由民主党に所属。
小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 199… 伊藤 芳夫(いとう よしお、1907年4月18日 - 1992年4月4日)は、日本の植物研究家である。サボテンの交配や研究を行い、サボテンに関する多くの著作を行った。 山口県宇部市に生まれた。旧制中学卒業後、独学でサボテンの研究を行った。1952年、中井猛之進の推薦で「南米産サボテンの新分類法」の学位請求論文を提出した。1957年の『サボテン図説 南米物サボテンの分類』はドイツのサボテン研究家で、網羅的なサボテンの事典を作ったドイツのクルト・バッケベルクの著書『サボテン科』("Die Cactaceae: Handbuch der Kakteenkunde")に引用された。新種のサボテン450種を作出し、200以上のサボテンの属や1000以上の種の命名をおこなった。
権 泰郁(クォン・テウク、朝鮮語: 권태욱/權泰郁、1907… 権 泰郁(クォン・テウク、朝鮮語: 권태욱/權泰郁、1907年4月17日または1910年10月15日 - 1981年6月11日または6月12日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、大韓民国の政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 慶尚北道安東郡出身。東京麻布中学校、中央大学予科・法学部卒。中央大学在学中に反日運動により収監されたことがある。卒業後は東京で歯科材料商を営んだほか、貧民救済事業を従事した。光復後は馬山工科学館長、馬山帰還同胞会長を務めた。1948年の初代総選挙で国会議員に初当選し、国会で米国へ渡航しようとした徐載弼を慰留した。第2代国会議員在任中に舌禍事件により30日間の出席停止処分を受けた。
五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(… 五代目嵐芳三郎(ごだいめ あらし よしさぶろう、1907年(明治40年)4月17日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、歌舞伎役者・俳優。俳名は橘丈。屋号は豊島屋。本名は寺田勝次。 曾祖父は二代目嵐璃珏。四代目嵐芳三郎の子。 東京の上野の生まれ、本郷元町尋常小学校卒業。1914年に三代目嵐市太郎の名で本郷座で初舞台。五代目市川鬼丸(後の三代目尾上多賀之丞)の部屋子になり、1921年に市村座に参加。1927年6月に五代目嵐芳三郎を襲名。1944年に前進座に参加。女形、二枚目を得意とし晩年は老け役に徹した。 1954年に文部省芸術祭奨励賞受賞。 墓所は台東区一乗寺にある。戒名は「前勝院技能日芳居士」。
有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 19… 有光 茂夫(ありみつ しげお、1907年4月15日 - 1994年11月16日)は、日本の経営者。東洋信託銀行社長を務めた。高知県出身。 1930年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三和信託に入行し、1945年に三和銀行に移る。1956年に取締役に就任し、1959年に常務に就任し、東洋信託銀行常務も就任。専務、副社長を経て、1969年11月に社長に就任。1974年11月に取締役相談役に就任し、1979年12月には相談役に就任。 1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1994年11月16日に心不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮 操子 (みや みさこ、1907年 (明治40) 4月15… 宮 操子 (みや みさこ、1907年 (明治40) 4月15日 - 2009年 (平成21) 5月7日) は、岩手県出身のダンサー。本名ミサオ。 江口隆哉と共にドイツ留学し、ドイツ表現主義舞踊「ノイエタンツ」創始者として知られるマリー・ヴィグマン (1886-1973) に師事、帰国後モダン・ダンスの先駆者として活躍した。 1907年岩手県黒沢尻 (現在の北上市) に生まれる。10歳前後の頃に、鉱山採掘の仕事をやめた両親と姉と共に東京に移住。高等女学校に進学し、ピアノやヴァイオリンのレッスンに通い、演劇の勉強もした。関東大震災後の新しい時代風潮の中で、乗馬や射撃にも挑戦し、夢中になって打ち込めるものを探していた。
安田 一(やすだ はじめ、1907年(明治40年)4月14日… 安田 一(やすだ はじめ、1907年(明治40年)4月14日 - 1991年(平成3年)3月26日)は、安田財閥三代目当主。 安田善次郎の長男。旧制学習院高等科卒業。1932年(昭和7年)、東京帝国大学文学部支那文学科卒業。二代目安田善次郎の急逝のあとをうけて、1936年(昭和11年)、29歳で安田保善社総長に就任。後見役には叔父安田善五郎が就いた。以後安田銀行会長、安田生命会長など、安田グループの要職を歴任。1945年(昭和20年)財閥解体にともない、翌年公職追放となるが、日本貯蓄銀行(後の協和銀行)会長を経て、1953年(昭和28年)安田生命会長、安田火災海上相談役に復帰。経団連顧問、日本デンマーク協会会長等を務めた。
村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 -… 村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 - 1991年12月23日)は、日本の西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1907年、東京帝国大学教授・村川堅固の長男として東京浅草に生まれた。成蹊中学、浦和高等学校を経て、東京帝国大学西洋史学科に進んだ。1930年に卒業。 卒業後は、第一高等学校教授となった。1940年、東京帝国大学助教授に就任。戦後の1947年に教授昇格。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。1967年に日本学士院会員に選出された。 1970年1月7日には講書始の儀で進講者をつとめ、「アリストテレスと歴史学」を講義した。1991年に死去。 父に続いて西洋史研究を進め、ラテン語辞典編纂Thesaurus Linguae Latinae編纂などを通して、日本における古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を築いた。
佐藤 貫一(さとう かんいち、1907年4月13日 - 19… 佐藤 貫一(さとう かんいち、1907年4月13日 - 1978年2月26日)は、日本の刀剣学者。(財)日本美術刀剣保存協会常務理事。刀剣博物館副館長。貴ノ花後援会会長。号は寒山。 日本刀研究の権威として知られる[要出典]。特に新刀の研究で知られ、古刀の研究で知られる本間薫山と並んで、しばしば両山と呼ばれる[要出典]。 栄典・称号は従四位・勲三等・瑞宝章・文学博士(國學院大學)・剣道教士七段。
近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 19… 近山 金次(ちかやま きんじ、1907年4月12日 - 1975年11月6日)は、日本の歴史学者(古代ローマ史・中世精神史)、教育者。学位は文学博士(慶應義塾大学・1950年)。慶應義塾大学名誉教授。 慶應義塾大学予科教員、慶應義塾大学文学部教授、慶應義塾中等部部長(第3代)、清泉女子大学文学部教授などを歴任した。 東京府東京市出身の西洋史学者である。慶應義塾大学文学部を卒業すると、同大学の予科の教員を経て、文学部で教授を務めた。また、慶應義塾中等部の部長も兼務した。その後、清泉女子大学に転じ、文学部の教授を務めた。また、翻訳者としてガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』を日本に紹介したことでも知られている。
桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)… 桜井 志郎(櫻井、さくらい しろう、1907年(明治40年)4月9日 - 1976年(昭和51年)3月9日)は、昭和期の農林技官、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は南日。 富山県上新川郡山室村(現富山市)で南日恒太郎の四男として生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学農学部農学科を卒業した。 1931年、東礪波郡油田村三郎丸(砺波町を経て現砺波市)の大地主、12代・桜井宗一郎の養子となり、農林省に入省した。三重県耕地課長、和歌山県農地部長、農林省土地改良課長、同設計課長、同建設部長などを歴任。この間、東京大学講師、日本農業土木学会副会長、国際かんがい排水委員会日本代表なども務めた。
稲葉 秀三(いなば ひでぞう、1907年4月9日 - 199… 稲葉 秀三(いなば ひでぞう、1907年4月9日 - 1996年4月17日)は、日本の官僚、実業家。
平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - … 平木 謙一郎(ひらき けんいちろう、1907年4月9日 - 1975年6月12日)は、日本の経営者。福岡県出身。 1930年に東京帝国大学独法学科を卒業し、同年に住友信託に入社。1946年に住友商事に転じ、1949年に取締役、1953年9月に常務、1959年3月に専務、1965年5月に副社長を経て、1966年5月に明電舎社長に就任。1974年11月から会長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1975年6月12日膵臓脳腫のために死去。68歳没。
山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月… 山口 慎一(やまぐち しんいち、1907年(明治40年)4月8日 - 1980年(昭和55年)2月10日)は、満州国で活動した日本人の翻訳家・文芸評論家。主な筆名は大内隆雄(おおうち たかお)。その他の筆名には矢間恒耀、徐晃陽、大藤巍がある。 1925年、長春商業学校を卒業すると、20人に1人という満鉄派遣留学生試験に首席で合格し上海の東亜同文書院に入学、4年間学業は常に首位だったという。 東亜同文書院の教育の特徴であった学生による中国調査旅行では、森本辰治、日高清磨瑳、中崎一之とともに「華南、滇越南沿線経済調査班」として1928年5月29日から7月25日にかけて上海、汕頭、廈門、香港、広東、仏印、雲南、台湾を巡っている。
小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)… 小林 甲子郎(こばやし こうしろう、1907年(明治40年)4月7日 - 1989年(平成元年)6月27日)は、昭和期の実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)代表取締役社長(第3代)。 山梨県初狩村(現大月市)において、酒造業を営む小林亀麿、ふくの二男として生まれる。二男であるが、兄が早逝したので実質的には長男として育つ。 父亀麿は、初狩村の村長や、北都留郡議会、山梨県議会で議員をつとめ、都留電燈会社(後に東京電力に統合)の社長をつとめた地元の実力者であった。 小林は、山梨県立都留中学校(現・山梨県立都留高等学校)を経て、1931年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、甲州財閥の縁で、東武鉄道に入社した。
始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991… 始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991年11月26日)は、昭和期の商工官僚・政治家・弁護士。建設大臣などを歴任した。
酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 199… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 1993年1月23日)は、昭和時代の団体職員。昭和研究会、大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会を経て、日本民間放送連盟創立に参画。 静岡県に生まれる。1930年に青山学院英文科卒業後、大日本青年団本部編集部に入る。後に後藤隆之助と共に青年団を退団し、側近として昭和研究会に参加。のち大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会に所属。 1951年に日本民間放送連盟創立に参画し、事務局長、常務理事を経て、1963年に3月専務理事に就任。1972年12月より日本音楽著作権協会理事長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 19… 下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 1970年10月4日)は、日本史学者、東京大学文学部名誉教授。 1932年東京帝国大学文学部国史学科卒、1937年外務省嘱託として『大日本外交文書』を編纂、旧制高知高校教授、名古屋大学文学部助教授を経て、1956年東大国史学科助教授、1959年米国ミシガン大学客員教授、1960年教授、1968年定年退官、愛知県立大学教授となるが、1970年死去。東大文学部最初の近代史専攻の教官で、外交史を専門とした。 下村冨士男は反共産主義として知られていたため、東大国史学科赴任には反対の声があったという。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野沢 清人(旧字体: 野澤 淸人、のざわ きよんど、1907… 野沢 清人(旧字体: 野澤 淸人、のざわ きよんど、1907年(明治40年)4月7日 – 1959年(昭和34年)10月18日)は、昭和期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町)で生まれる。1930年(昭和5年)東京薬学専門学校(現東京薬科大学)を卒業した。 薬科関係の経歴を歩み、1941年(昭和16年)薬剤官として応召し、終戦を薬剤大尉として迎え、3年間シベリア抑留となった。 復員後、第一化学工業所を設立し、のちに関東化学と改称して社長に就任。その他、社会保障制度審議会委員、日本薬剤師協会(現日本薬剤師会)副会長、同常任顧問、東京薬科大学理事長、試薬協会理事長などを務めた。
小林 栄次(こばやし えいじ、1907年(明治40年)4月6… 小林 栄次(こばやし えいじ、1907年(明治40年)4月6日 - 1980年(昭和55年)1月12日)は、日本の実業家。また、名前の表記は旧字の「榮次」が正式である。株式会社大多摩ハム小林商会の創業者。元日本ハムソーセージ工業協同組合副理事長、社団法人日本食肉加工協会常務理事。 長野県下高井郡長丘村(現在の中野市七瀬区)出身。早くから日本においてハムの製造事業を開始し、食肉加工業界を発展させた者の一人。ドイツ人技師、アウグスト・ローマイヤーのもとで日本において早くからロースハムを売り出し、その普及に貢献した。 1907年(明治40年)4月6日に長野県下高井郡長丘村(現在の中野市七瀬区)に生まれる。
中井 一郎(なかい いちろう、1907年 <明治40年> 4… 中井 一郎(なかい いちろう、1907年 <明治40年> 4月6日 - 1998年 <平成10年> 9月18日)は日本の政治家。神奈川県小田原市長(4期)。17代全国市長会会長。位階は従四位。 現在の神奈川県小田原市出身。旧制小田原中学卒。足柄下郡片浦村会議員を経て、神奈川県会議員を連続6期、同議長なども歴任した。県議時代は自由民主党に所属した。 1969年に小田原市長に初当選。4期務めた。市長在職中は市民に「市長と話し合う会」の開催、市役所の日曜開庁、浄水場や清掃工場、給食センターなどの開設、小田原城跡の一部開放や公園化、「緑を豊かにする条例」の制定など数々の業績を上げた。1983年から全国市長会会長に就任した。
伊藤 研之(いとう けんし、1907年4月6日 - 1978… 伊藤 研之(いとう けんし、1907年4月6日 - 1978年9月17日)は、日本の洋画家。二科会福岡支部長。福岡文化連盟初代理事長。 福岡市大名町(現・中央区大名)に生まれる。大名尋常小学校、福岡県中学修猷館を経て、1927年、早稲田商業学院に進学。1929年、早稲田大学文学部仏文科に入学する。 早大在学中、二科会の酒本博示に洋画を学び、1930年協会研究所にも通う。1930年、第5回1930年協会展に入選。1931年、第18回二科展に『風景』が入選し、洋画家を志し二科展に出品を続ける。1933年、早大を卒業して福岡に帰郷し、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」に参加。1938年、二科会の中での前衛的な画家による九室会の創立に参加する。
千葉 千代世(ちば ちよせ、1907年(明治40年)4月6日… 千葉 千代世(ちば ちよせ、1907年(明治40年)4月6日 - 1991年(平成3年)3月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(2期)。旧姓は安田。 千葉県安房郡大山村(現鴨川市平塚)で、安田常吉、さだ夫妻の長女として生まれる。15歳で上京、東京文化女学校専門部卒。書生をしながら小学校家庭科教師、保健婦の資格取得。1929年港区の小学校の学校衛生婦、1941年養護訓導となる。 戦後、1945年、東京都国民学校教職員組合結成に参加し婦人部長に就任。また同年の日本社会党結成時に入党。日本教職員組合書記長、同副部長、同婦人部長、日本労働組合総評議会婦人協議会長などを務める。 1959年の第5回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して初当選。
牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 198… 牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 1986年9月17日)は、日本の民俗学者、神職、歌人。現代に神がかりを残す大元神楽の伝承者で主に神楽と田植歌の分野で功績を残している。 1907年4月5日、島根県邑智郡市山村(現江津市桜江町市山)に生まれる。実家は神職を家職としていた。 1921年、市山村尋常高等小学校を卒業し島根県立浜田中学校に入学するも、長期の病気療養を経て1925年に退学、広島市の私立山陽中学校に編入し1927年に卒業した。医科大学進学を希望していたが、兄の死により牛尾が家業を継ぐことになり國學院大學神道部に進学する。なお母の死によって上京は1年遅れる。 在学中、鈴木棠三、三谷栄一らとともに方言研究会を創設し会誌「方言」を発刊するも3号で廃刊する。