生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。
土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)… 土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)4月20日 – 1946年(昭和21年)3月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲民政党)、医師。旧名・清。 千葉県武射郡山室村(豊岡村、松尾町を経て現山武市)で、土屋清左衛門、たけ の長男として生まれる。1887年(明治20年)清三郎に改名。済生学舎・東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)を卒業。内務省伝染病研究所嘱託、警視庁検疫官、岐阜県衛生技師を歴任し、退官後は開業医となった。そのかたわら日本語雑誌「日本之医界」、英文雑誌「Japan Medical World」、中国語雑誌「東亜医学」の発刊・経営にあたった。 1916年(大正5年)、牛込区会議員に当選。
五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15… 五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東急及びその子会社の東急電鉄といった東急グループの事実上の創業者である。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民。 長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された。
古宇田 晶(こうだ あきら、1882年(明治15年)4月16… 古宇田 晶(こうだ あきら、1882年(明治15年)4月16日 - 1939年(昭和14年)11月13日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選宮崎県知事。 東京府出身。古宇田義鼎の四男として生まれた。第三高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。農商務省に入省し山林局に配属。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 その後、内務省に転じ宮城県事務官となる。以後、新潟県理事官、兵庫県理事官、岩手県警察部長、宮崎県警察部長、静岡県警察部長、愛知県警察部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1927年5月、田中義一内閣により宮崎県知事に任じられた。普通選挙による初の県議選において、選挙違反に問われ大迫元繁宮崎市長と共に逮捕された。
久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 19… 久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 1967年4月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。陸軍科学研究所長、陸軍技術本部長を歴任。戦後、東洋高圧工業(現・三井化学)社長。 滋賀県出身。近江西大路藩(蒲生郡日野町)出身の教育家久村静弥の長男として生れる。陸軍幼年学校(13期)を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校14期卒業(砲兵科)。翌年6月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1908年(明治41年)12月、陸軍砲工学校高等科(14期)を優等で卒業。1909年(明治42年)9月、砲工学校員外学生となり東京帝国大学工学部火薬学科に入学。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学を卒業し大阪火薬工廠宇治火薬製造所付となる。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4… 勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4月13日 - 1936年(昭和11年)11月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・勧修寺顕允の長男として生まれる。父・顕允の死去に伴い、1900年(明治33年)10月4日、家督を相続し伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した。 1908年(明治41年)東京高等農学校を卒業。1910年(明治43年)以降、殿掌、掌典、陵墓監、同志社女子専門学校講師、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)講師などを務めた。 1919年(大正8年)6月14日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治… 大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治15年)4月9日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、日本の実業家・教育者。号を三空居士と称した。大倉喜八郎の大倉財閥とは全く関係がない。 大倉洋紙店(現・新生紙パルプ商事)会長。現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設。第10・11代東洋大学学長。 1882年4月9日、佐賀県神埼郡西郷村(現神埼市)の士族・江原家に生まれる。1902年に旧制佐賀中学校、1906年に上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社。社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長に就任、事業を大きく発展させる。 日本の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、教育の重要性を説き、私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里である佐賀県西郷村に農村工芸学院などを開設したほか、この考えをさらに広く普及させるべく、1932年には現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設する。
中田 騄郎(なかだ ろくろう、1882年(明治15年)4月8… 中田 騄郎(なかだ ろくろう、1882年(明治15年)4月8日 - 1957年(昭和32年)8月12日)は、日本の衆議院議員(国民同志会)、弁護士。 静岡県榛原郡勝間田村(現在の牧之原市)出身。1901年(明治34年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。弁護士を開業し、静岡県弁護士会長に選出された。また静岡市会議員となり、議長も務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、社団法人救護会理事長、静岡県社会事業協会副会長、藤相鉄道株式会社監査役などを務めた。
小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日… 小川 未明(おがわ みめい、1882年〈明治15年〉4月7日 - 1961年〈昭和36年〉5月11日)は、小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。娘の岡上鈴江も児童文学者。 「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。 新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた。
岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961… 岡田 宜法(おかだ ぎほう、1882年4月7日 - 1961年12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学学長。 明治15年(1882年)4月7日、埼玉県北埼玉郡上会下村(鴻巣市)に生まれる。同村の雲祥寺にて出家。 明治39年(1906年)に曹洞宗大学林(駒澤大学)を卒業し、布教使となり各地を歴訪。世田谷中学(世田谷学園)教頭を経て、大正14年(1925年)に駒澤大学教授に就任。昭和19年(1944年)に『日本禅籍史論』で文学博士となる。 戦後は、昭和22年(1947年)から28年(1953年)まで駒澤大学長となる。 昭和36年(1961年)12月29日に遷化。
滋岡 長彦(しげおか ながひこ、1882年(明治15年)4月… 滋岡 長彦(しげおか ながひこ、1882年(明治15年)4月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県姫路市長。 大阪府出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大阪府属、同警視、同泉南郡長、同三島郡長、栃木県芳賀郡長、同上都賀郡長、同理事官、京都府学務課長、和歌山県警察部長、山口県内務部長などを歴任した。 退官後の1925年(大正14年)に姫路市長に選出され、1930年(昭和5年)までの2期在任した。
間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日… 間宮 龍真(まみや たつま、1882年(明治15年)4月2日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。東京市麻布区長。 島根県松江市出身。佐々木龍夫の五男として生まれ、間宮興孝の養子となった。1907年(明治40年)に東京外国語学校を卒業した後、長崎高等商業学校助教授を務めた。1914年(大正3年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)内務省に入省して埼玉県属となり、同南埼玉郡長、島根県飯石郡長、同理事官、島根県学務部長、埼玉県学務部長を歴任し、1931年(昭和6年)に大分県警察部長に就任した。 退官後、東京市に入り、教育局庶務課長、同社会教育課長を務め、1937年(昭和12年)に麻布区長となった。
矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月… 矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月1日 - 1958年(昭和33年)10月8日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ王国)公使在任中タイ立憲革命を支援。第二次世界大戦時にはタイ人留学生受入れを進め日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団大使等を務めた。 山口県出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。翌年、外交官補としてシャムに赴任。安東領事官補、ロンドン領事官補、蘇州領事官補、汕頭領事官補、シドニー領事官補、ボンベイ(現在のムンバイ)領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務事務官・参事官、イタリア大使館一等書記官、外務書記官、在アメリカ合衆国大使館一等書記官、青島総領事などを歴任。
永山 止米郎(ながやま とめお、1882年(明治15年)4月… 永山 止米郎(ながやま とめお、1882年(明治15年)4月 - 1940年(昭和15年)12月25日)は、台湾総督府官僚。 茨城県出身。1904年(明治37年)に東京帝国大学農科大学実科を卒業し、1907年(明治40年)には法政大学英法科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、山林事務官補、山林事務官、鴨緑江採木公司参事・営業部長を務めたのち台湾総督府に転じ、阿里山作業所事務官、営林局事務官、専売局参事を歴任。1927年(昭和2年)、新竹州知事に就任し、その後台南州知事に転じた。 退官後は、嘉南大圳の組合理事長を務め、さらに京王電気軌道株式会社取締役を務めた。墓所は多磨霊園
本山 文平(もとやま ぶんぺい、1882年4月 - 1980… 本山 文平(もとやま ぶんぺい、1882年4月 - 1980年9月13日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本統治時代の台湾及び日本の官僚。 新潟県出身。第一高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学を卒業。台湾総督府に入り専売局属となる。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1924年の奉令で常吉徳寿の後を引き継いで台湾台中州の知事となった。管轄は、現在の台中市、台中市、彰化県、南投県などの地区。1926年10月、警務局長に転じ、1928年7月まで在任した。 後に内地に戻り、1929年には大分県知事に任命され、翌1930年には熊本県知事に転任した。1931年12月18日に休職。
坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)… 坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)4月30日 - 1974年(昭和49年)10月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、旭川市長。旭川市名誉市民。 香川県大内郡相生村(のち大川郡相生村→引田町、現・東かがわ市)出身。10歳の時に両親とともに旭川村(のち旭川町→旭川区、現・旭川市)に移住した。早稲田大学邦語政治科、同大学政治経済科卒。卒業後は旭川商業会議所の設立に力を尽くし、初代書記長となった。旭川区会議員、同市会議員に当選。同副議長、議長を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で北海道第4区から衆議院議員に初当選し、連続9期務めた。
川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30… 川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30日 - 1947年(昭和22年)1月9日 )は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員(立憲政友会)、山梨県 北巨摩郡若神子村長。 山梨県北巨摩郡多麻村(須玉町を経て現在の北杜市)で篠原俾孝の二男として生まれ、1900年(明治33年)に若神子村(現:北杜市)の川手四郎兵衛の婿養子として迎えられた。農業を営んだ。 北巨摩郡会議員、若神子村会議員、若神子村長を務めた後、1919年(大正8年)に山梨県会議員に当選し4期在任し、県参事会員、県会議長に在任した。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選し、衆議院議員を1期務め、政友会山梨支部幹事長兼相談役となった。
松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29… 松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29日 - 1964年(昭和39年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 岐阜県本巣郡船木村出身。陸軍士官学校第16期卒業。1905年(明治38年)には工兵第11大隊副官として日露戦争に出征。1909年(明治42年)には陸軍砲工学校高等科を卒業し、1915年(大正4年)から1917年(大正7年)まで東京帝国大学工学部電気科で聴講生として学んだ。1920年(大正9年)8月に陸軍工兵少佐に進級し、東京砲兵工廠廠員兼陸軍省兵器局御用掛の任にあった。1923年(大正12年)9月時点で陸軍造兵廠廠員陸軍技術本部部員陸軍省兵器局御用掛となり、1924年(大正13年)8月、陸軍歩兵中佐に進級し、陸軍技術本部附兼陸軍歩兵学校研究部部員陸軍省兵器局御用掛を発令された。
宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月2… 宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月27日 - 1954年〈昭和29年〉3月15日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県長野市の人物で、家業の金物商を営みつつ会社経営にも関わり長野信用金庫(旧・長野市庶民信用組合)理事長を長く務めた。また剣道を趣味とし大日本武徳会長野支部教師を務めた経験もある。 宮下友雄は、1881年(明治14年)4月27日、長野県民・宮下太七郎の長男として生まれた。宮下家は長野市内随一の旧家で、善光寺町に移り住んだのは寛保2年(1742年)のことという。家業として天明8年(1788年)より金物商(屋号は「増太」)を営んだ。父の太七郎は長野町会議員に選出(1889年の第1回町会議員選挙にて)されたほか、長野市所在の長野貯蔵銀行や長野電灯で取締役を務めた人物である。
植村 東彦(うえむら はるひこ、1881年(明治14年)4月… 植村 東彦(うえむら はるひこ、1881年(明治14年)4月25日 - 1964年(昭和39年)5月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。植村茂の長男として生れる。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を首席で卒業し、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに1908年(明治41年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学し、1911年(明治44年)7月、同大工科大学応用化学科を卒業し東京砲兵工廠付となった。 1916年(大正5年)5月から翌年1月まで欧米に出張。
武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月2… 武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日 - 1955年(昭和30年)8月2日)は、日本の文部官僚。教育者。 金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた。 その後、日本青年館理事、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事、東京帝国大学講師、慶應義塾大学講師を務めた。
藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月2… 藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。甲子不動産、佐賀炭鉱各元取締役。大阪港湾土地元監査役。朝鮮銀行総裁席外国為替元課長・初代ニューヨーク支店長。元参議院議員の藤巻健史と藤巻幸夫は孫。 新潟県出身。農業・藤巻伊三郎の次男として生まれる。兄が亡くなったため、戸主を継いだ甥・敏太郎から1930年(昭和5年)に分家する。1904年(明治37年)、旧制東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、第一銀行に入行。5年後の1909年(明治42年)、朝鮮銀行に転じ大連支店支配人、東京支店助役、東京総裁席課長を経て大阪支店の支配人に就任。一方で大阪港湾土地監査役に挙げらる。
西園寺 八郎(さいおんじ はちろう、1881年〈明治14年〉… 西園寺 八郎(さいおんじ はちろう、1881年〈明治14年〉4月22日 - 1946年〈昭和21年〉7月1日)は、日本の宮内官僚、政治家。位階・勲等・爵位は従二位勲一等公爵。 旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生する。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。西園寺家と毛利家には、西園寺実輔の生母が長州藩主・毛利秀就の娘であったり、西園寺賞季の娘が長府藩主・毛利匡芳に嫁いだなどの関係があった。その後、ドイツのボン大学に留学した。ドイツではヨハネス・ユストゥス・ライン家に寄宿した。1906年(明治39年)公望の長女・新子と結婚した。
遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年… 遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉9月4日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員(1期)。幼名・要三郎。 島根県神門郡今市町(現出雲市)で先代遠藤嘉右衛門の二男として生まれ、1914年(大正3年)家督を相続し嘉右衛門を襲名した。 1901年(明治34年)東京専門学校政治経済科を卒業。今市町長、簸川郡町村会長、今市商工会顧問、今市町農会長、簸川郡青年団長、同自治協会長、同衛生会頭、雲陽実業銀行頭取、出雲製織(株)取締役となる。 1916年(大正5年)の島根県郡部の第12回衆議院議員総選挙補欠選挙で立憲同志会から立候補して当選する。衆議院議員は1期務めた。
中村 新太郎(なかむら しんたろう 1881年4月21日 -… 中村 新太郎(なかむら しんたろう 1881年4月21日 - 1941年12月8日)は、日本の地質学者。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4… 畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4月20日 - 1971年(昭和46年)11月17日)は、日本の実業家・機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者。石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した。 1881年(明治14年)、金沢で能登の守護大名・能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。 畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ。
朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4… 朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。帝国学士院会員、文化勲章受章者。 東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。東京府士族・朝比奈和四郎の長男。旧制府立一中、旧制第一高校を経て、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。大学院に入り助手となる。 1909年、ヨーロッパに渡り、リヒャルト・ヴィルシュテッター、エミール・フィッシャーに師事する。1910年、薬学博士の学位取得。1912年、東京帝国大学助教授、1918年、教授。 1923年、「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、1943年、文化勲章受章。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉… 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)。 石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。 新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月1… 沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岡山県久米郡里方村(現:久米南町)に国塩与三郎の二男として生まれ、岡山県会議員の沢田正泰の養子となった。妻は正泰の四女。赤坂高等尋常小学校、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。山形県事務官、朝鮮総督府書記官、同道事務官、監察官、慶尚南道知事、慶尚北道知事を歴任した。 退官後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮電気興業株式会社取締役、朝鮮電力株式会社監査役などを務めた。
後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4… 後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月9日)は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師。日本大学教授。号は「石農」。「支那通」として知られた。 愛媛県に生まれた。広島県人・後藤榮太郎の二男。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた。 著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた。
桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治… 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治14年〉4月15日 - 没年不明)は、日本の実業家、島根県多額納税者、島根県の大地主。族籍は島根県平民。 島根県・桜井三郎右衛門の長男。1908年、家督を相続し、旧名・直養を改め襲名する。農業を営む。八雲銀行、出雲館製糸所各取締役、松江銀行監査役をつとめる。 住所は島根県仁多郡阿井村(現・奥出雲町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月1… 小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月14日 - 1938年(昭和13年)10月25日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 熊本県飽田郡奥古閑村(天明村、天明町を経て現熊本市南区)出身。熊本中学校、第五高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。卒業後は熊本中学の教諭兼舎監となったが、辞して熊本市で弁護士を開業した。 熊本県会議員を2期務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その後、満州に渡り、弁護士業のかたわら熊本海外協会満洲本部長に就任した。奉天市で客死。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月… 久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月13日 - 1976年(昭和51年)1月27日)は、日本の鉄道官僚。工学博士。貴族院男爵議員。 男爵・文部大臣久保田譲の長男として生まれ、1936年(昭和11年)に襲爵した。1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。アメリカ合衆国に留学し、鉄道・橋梁建築を学んだ。帰国後、鉄道院雇、同技師、東京建設事務所長、鉄道省建設局線路調査課長、同工事課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道省運輸局長、鉄道次官などを歴任した。運輸局長の時には外国産のバスに押されていたところ、国産バスの開発推進を菅健次郎に指示した。 1934年(昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、大日本体育協会専務理事、東京オリンピック組織委員会事務局長などを務めた。
高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年… 高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年〉4月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、青森県多額納税者、地主。金木商事代表取締役。金木銀行取締役。族籍は青森県平民。 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。高橋彌左衛門の養孫。高橋清吉の二男。1904年、家督を相続し、前名・徳三郎を改める。農業を営み、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。 住所は青森県北津軽郡金木町。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉… 杉森 孝次郎(すぎもり こうじろう、1881年〈明治14年〉4月9日 - 1968年〈昭和43年〉12月8日)は、日本の倫理学者・思想学者・政治学者・社会学者。旧姓は白松(しろまつ)、号は南山。 静岡県小笠郡南山村生れ。12歳で同郡賀茂村の医師である白松家の養子となる。14歳で東京に遊学し、上野図書館で独学生活を送った後、独逸協会中学校・数学館の第五学年編入試験に合格し、入学をした。その後、医師を目指して千葉医学専門学校に進学したが、進化論の講義を聞いた際「こんな学問があるのなら、医学など学んでいられない」と発意し、2年次に千葉医専を自主退学して白松家から学資援助を含む養子縁組を外された。その後、神田に私塾専修学院を創設。
児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4… 児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4月3日 – 1929年(昭和4年)3月8日)は、日本の洋画家。 岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館・仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。黒田清輝、藤島武二らに師事した。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)2年飛び級で卒業。 1907年(明治40年)東京府主催の勧業博覧会美術展に「なさけの庭」を出品、1等賞を受賞して宮内省買い上げとなる。
松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月… 松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月3日 - 1966年〈昭和41年〉2月18日)は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 大分県速見郡、のちの北由布村(由布院村、由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で、北由布村長を務めた松原達の長男として生まれ、親類で漢学塾を営む松原孫作の養子となる。1902年(明治35年)大分県師範学校を卒業した。 玖珠郡戸畑小学校勤務、同郡野上尋常高等小学校長を務め、1907年(明治40年)旅順尋常高等小学校訓導、同第二尋常高等小学校長を歴任。南満州教育会の創立に参画し常任理事に就任。1915年(大正4年)広島高等師範学校教育学科研修生となる。
戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2… 戸部 彪平(とべ ひょうへい、1881年〈明治14年〉4月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月16日)は、日本の政治家、農政家。群馬県吾妻郡嬬恋村長、同村会議員。 群馬県吾妻郡嬬恋村田代に、戸部常太郎の長男として生まれる。小学校卒業後、近衛歩兵第2連隊へ入営し、日露戦争に従軍して勲八等、功七級に叙された。 1924年(大正13年)に同村の田代区域長となり、1925年(大正14年)より村会議員。1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで連続3期嬬恋村長を務めた。渋川駅から嬬恋村・鳥居峠を経て長野県真田に至るバスの開通をはたらきかけ、1933年(昭和8年)に実現させた。 1932年(昭和7年)からは当時貧窮に陥った嬬恋村の村民への救済のために、青果商人の青木彦治や農業技術員として活動していた塚田国一郎と共に冷涼な気候に適していたことよりキャベツの栽培及び生産を始める。
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881… 塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名。 旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した。
斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月… 斎藤 宗宜(さいとう むねのり、1881年(明治14年)4月1日 - 1939年(昭和14年)12月20日)は、日本の内務官僚、弁護士。府県知事。 静岡県出身。第一高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り山林属となるが、内務省に転じ、1910年、岐阜県山県郡長に就任した。 以後、群馬県学務課長、山形県警察部長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、高知県・熊本県の各内務部長などを歴任。 1923年10月、宮崎県知事に就任。さらに、熊本県・大阪府の各知事を務める。1932年6月、京都府知事に就任。不況下の中小商工業者の救済に尽力し「産業知事」と呼ばれた。
篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1… 篠崎 太一(しのざき たいち、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1960年〈昭和35年〉8月22日)は、明治から昭和時代の政治家。神奈川県高座郡田名村長、相模原町長。 相模原に生まれる。1903年(明治36年)神奈川県師範学校卒業後、高座郡明治小学校、同郡上溝小学校訓導を経て、1912年(大正元年)同郡尋常高等大和小学校校長となる。1916年(大正5年)同郡座間小学校校長、1918年(大正7年)同郡上溝小学校校長を経て、1928年(昭和3年)高座郡田名村役場吏員となり、収入役、助役、村長を歴任した。1941年(昭和16年)町村合併により相模原町が成立するとその村長に選任され、1946年(昭和21年)10月まで在任した。
権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 … 権野 健三(ごんの けんぞう、1881年(明治14年)4月 - 1959年(昭和34年)6月28日)は、日本の実業家。東洋綿花(現・豊田通商株式会社)代表取締役会長を務めた。 大阪生まれ。茨木中学校(現大阪府立茨木高等学校)卒業後、三井物産で綿花を取り扱い、1920年に三井物産綿花部が東洋綿花として独立すると、同社取締役に就任。上海紡織会長を経て、1936年から東洋綿花会長を務めた。豊田利三郎と豊田喜一郎、藤野勝太郎が保有していた豊田紡織株を東洋棉花が取得したことにともない、1937年豊田紡織の取締役に就任。1943年トヨタ自動車工業取締役。1959年藍綬褒章受章。同年死去。趣味は狩猟、囲碁、陶磁器で、酒は飲まなかった。
藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 … 藤田 栄介(ふじた えいすけ、1881年〈明治14年〉4月 – 1940年〈昭和15年〉3月10日)は、日本の外交官。駐ルーマニア公使。 鹿児島県鹿児島市加治屋町出身。中学造士館を経て、1904年7月第七高等学校造士館 (旧制)卒業(第一部法科志望、第1回卒業生)。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。1910年(明治43年)より領事官補として安東、牛荘に勤務した。その後、三等書記官、二等書記官、台湾総督府事務官、総領事・台湾総督府事務官、外務書記官・情報部第一課長を歴任した。1925年(大正14年)より済南総領事、青島総領事を務めた。1930年(昭和5年)、駐ルーマニア公使に任命され、駐ユーゴスラビア公使も兼任した。
野田 亀喜(龜喜、のだ かめき、1880年(明治13年)4月… 野田 亀喜(龜喜、のだ かめき、1880年(明治13年)4月29日 - 1941年(昭和16年)5月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 陸軍主計将校・野田豁通の二男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)1月30日、男爵を襲爵した。 学習院を経て帝国大学法科大学を修了。1910年(明治43年)日本建築用紙取締役に就任。その後、台東製糖取締役、木毛取締役、八千代銀行監査役、愛国旅行社社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明… 片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明治13年)4月28日 - 1956年(昭和31年)1月7日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・水野、幼名・央、法諱・宗昌。 旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の六男として生まれる。先代、子爵・片桐貞健の死去に伴い家督を継承し、1892年(明治25年)8月16日、子爵を襲爵した。同年9月5日、貞央と改名した。 1911年(明治44年)9月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。狩猟調査会委員、農林審議会委員、矢作水力役員、大阪タクシー自動車役員などを務めた。 1914年(大正3年)2月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した。