笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22… 笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22日 - 1956年(昭和31年)1月10日)は、日本の教育家・古代史家・郷土史家・考古学者。号は無何有郷人、神也。内藤湖南・高橋健自に続いて邪馬台国大和説を提唱し、他に倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼とする説や、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説を提唱した。叙正六位、勲六等瑞宝章受章。 1884年6月22日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平・アイ夫妻の長男として生まれる。 脇町尋常小学校、脇町高等小学校、徳島県立脇町中学校を経て、1902年9月に國學院大學に入学する。1905年に特待生に選ばれ、1906年7月、國學院大學高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業する。
大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - … 大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - 1965年6月26日) は 日本の生物学者 (動物学)。理学博士、農学博士。 シロアリの研究を行ったが、台湾勤務時代にスタンフォード大学に留学し、D.S.ジョーダンのもとで魚類研究を行った。特にサケ科の淡水魚類を中心に動物学の研究を行い、「サラマオマス」(サクラマスの亜種、現在はタイワンマスと呼ぶ) を命名した。2001年より台湾の2000元札にタイワンマスが印刷されている。台湾では、20数種類の淡水魚の新種を命名し、台湾淡水魚の父と呼ばれている。 妻・今子との間に8男2女に恵まれ、長男の大島正隆(1909年3月5日-1944年1月12日)は歴史学者として将来を嘱望されたが、1944年に34歳の若さで病死している。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)… 田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士。 岩手県二戸市出身。出生名は下斗米秀三。東京帝大を卒業した後に、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の父稲蔵の弟である下斗米与八郎の三男)の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った。 第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された。
水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10… 中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10日 – 1969年(昭和44年)3月19日)は、衆議院議員。台湾総督府官僚。 長崎県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、林務課長心得、庶務課長、糖務課長、商工課長、特産課長を歴任し、台中陳列館館長、茶検査所所長、台湾茶共同販売所理事長を兼ねた。その後、専売局長、台北州知事、殖産局長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後、公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。 アルコール輸送株式会社取締役、日本糖業連合会常務理事、全国産業団体連合会理事、食用糖蜜需給調整協議会会長、東亜経済懇談会参与を務め、さらに日研化工株式会社会長、第一醸造株式会社会長、知床鉱業株式会社社長となった。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日… 渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会、昭和会)。呉市長。弁護士。 広島県呉市出身。渡辺秀四郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し、弁護士を開業した。呉市会議員、同参事会員、広島県会議員、同参事会員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で再選され、また呉市長にも選出された。 その後、上海居留民団助役を務めた。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 … 羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 - 1957年〈昭和32年〉2月26日)は、日本の小説家、外科医。 本名は松橋 紋三(まつはし もんぞう)で、「羽志主水」の名は本名から「松」を除いた「橋紋三」をもじった筆名である。 小説家としての活動期間は短いが、雑誌「新青年」に掲載した、戦前の北海道の過酷な労働環境を題材とした作品『監獄部屋』で、高い評価を得た。 長野県長野町(後の長野市)出身。旧制第四高等学校(後の金沢大学)を経て、東京帝国大学(後の東京大学)医学部へ進学し、1908年(明治45年)に卒業した。医師として山形の済生病院を経て、妻の父が東京の日本橋に土地を持っていた縁で、1916年(大正4年)か1917年(大正6年)頃に、日本橋本石町で開業した。
米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)… 米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1976年(昭和51年)10月26日)は、日本で最初の無線通信士。関東大震災の際、被害状況を速やかに無線通信により海外に発信し、国際的な救援活動が行われるきっかけを作った。 石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。
瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月… 瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家、資産家、地主。瀬田不動産合資会社代表社員。鍋屋合資会社代表社員。板橋町大山出身。 東京市板橋区板橋町九丁目、瀬田吉兵衛の息子。東大林学科卒業。農業を営む。1915年に板橋町会議員に当選、以来1919年に至る1期間板橋町政に参画し、町利民福の為に大いに尽瘁したが、1919年に至って考える所があり政界を断念し、土地管理等の家業に努力する。 傍ら事業界に進出し、東洋計器会社、斎藤レンズ製作所、浦和商業銀行等に投資する。1926年、成子内親王に神代雛(上田直次作木彫)一対を献上する。
加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)… 加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1939年(昭和14年)1月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身。加藤久米治の四男。1907年(明治40年)、日本大学を卒業。卒業後、日本大学の幹事として経営に参加した。 水野錬太郎の知遇を得、寺内内閣で水野が内務大臣に就いたとき、大臣秘書官を務めた。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に政友会から出馬し、当選。議員就任後も加藤友三郎内閣と清浦内閣で内務大臣になった水野の秘書官を務めた。 その後、田中義一内閣で内務参与官、犬養内閣で拓務政務次官、第1次近衛内閣で陸軍政務次官を歴任した。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)… 宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1966年(昭和41年)11月6日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉。号・本郷子。 長野県諏訪郡小井川村(平野村を経て現岡谷市)で生まれた。後に健次郎を襲名。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し、家業の宮坂製糸所を承継。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた。 1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め、同議長にも在任した。
瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1… 瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1947年9月18日)は、日本の商学者。神戸経済大学(現神戸大学)名誉教授。初代日本経営学会理事長。 大阪府貝塚市出身。1908年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。村瀬春雄門下。1910年神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1913年英米留学。1923年欧米出張。1924年同校商業研究所調査部長。1929年神戸商業大学(現神戸大学)教授。1935年商学博士の学位を取得。1941年日本経営学会初代理事長。1942年依願退官。同年従三位。のち、東洋紡績経済研究所初代所長、神戸市助役、神戸市最高顧問を歴任した。
八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6… 八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6月27日 - 1950年(昭和25年)2月3日)は、明治末から昭和前期の大蔵官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 伯爵・油小路隆董の三男として生まれ、子爵・八条隆邦の養子となる。養父・隆邦の死去に伴い、1896年(明治29年)9月8日、家督を相続し子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。1909年(明治42年)大蔵省に入省し、税務監督局属兼大蔵属、同監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任。1915年(大正4年)7月15日、依願免本官となり退官した。その後、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問、帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員などを務めた。
西村 卯(にしむら う(しげる)、明治16年(1883年)6… 西村 卯(にしむら う(しげる)、明治16年(1883年)6月27日 - 昭和46年(1971年)5月17日)は、日本の検察官、弁護士。勲二等。鳥取県士族。鳥取県米子市内町出身。 外科医中村徳吉の実兄。鳥取県士族西村佐司衛の長男 趣味は弓道、謡曲、和歌 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 … 万代 順四郎(まんだい じゅんしろう、1883年6月25日 - 1959年3月28日)は、日本の実業家、明治から昭和期の銀行家である。全国銀行協会連合会元会長、三井銀行元会長、帝国銀行元頭取・会長を歴任した。 岡山県勝央町出身。作東義塾(現・岡山県立勝間田高等学校)を経て、1907年(明治40年)、青山学院高等科(現・青山学院大学)を卒業。同年、米山梅吉の誘いで三井銀行に入社し、1937年(昭和12年)に同銀行会長に就任する。1943年(昭和18年)に帝国銀行を設立して取締役頭取となる。その2年後に同銀行の会長、全国銀行協会連合会会長に就任。1953年(昭和28年)には、東京通信工業(現・ソニー)会長などを歴任。
原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日… 原 邦造(はら くにぞう、1883年〈明治16年〉6月19日 - 1958年〈昭和33年〉3月30日)は、日本の経営者。第百銀行頭取、愛国生命社長・会長、帝都高速度交通営団総裁、日本航空会長などを務めた。旧姓・田中。 大阪府島下郡、のちの三島郡茨木村(茨木町を経て現茨木市)で、田中友次郎の二男として生まれ原六郎の養子となる。第三高等学校を経て1907年に京都帝国大学法科経済学部を卒業し、同年に満鉄に入社。 第百銀行頭取、愛国生命社長を経て、1930年に愛国生命会長に就任した。1940年には取締役を務めていた東武鉄道で根津嘉一郎、吉野伝治と社長の死去が相次ぎ、一時的に東武の会長および社長を務めた。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月… 大久保 偵次(おおくぼ ていじ、1883年(明治16年)6月15日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る。 鹿児島県に生まれる。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる。 官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった。
奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 19… 奥田 誠一(おくだ せいいち、1883年6月15日 - 1955年10月27日)は、日本の陶磁器研究家。三重県津市西新町出身。三重県尋常中学、東京帝国大学文科大学心理学科卒。号は次郎坊、無背庵、無背道人、無背廬。東大心理学科副手、東大美術史研究室助手を経て、特許局勤務、農商務省技師を兼任した。古陶磁を研究し、1914年、東京帝国大学文科大学心理学教室内に大河内正敏らと陶磁器研究会を開設。のち、同会に属する大河内正敏、佐藤功一ら会員有志により結成された彩壺会に参加。1924年、東洋陶磁研究所を創設。国宝保存会委員、文化財専門審議会専門委員、重要美術品等調査会委員、東大講師、工大講師、帝室博物館学芸課学芸委員。
二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月… 二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月14日 - 1927年〈昭和2年〉9月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院公爵議員。 公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。当選後は無所属だったが、1922年(大正11年)9月27日、研究会に所属した。 1917年(大正6年)以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年(昭和2年)9月11日、議員在職中のまま死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。
神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月… 神代 種亮(こうじろ たねすけ、1883年(明治16年)6月14日 - 1935年(昭和10年)3月30日)は、日本の校正家。「校正の神様」といわれた。号の帚葉は、誤字を除ける校正業を落葉掃きで譬喩したもの。七松庵とも号す。 石見津和野(現・島根県津和野町)出身。松江師範学校を卒業して教師となる。明治末年に教師を辞めて上京し、大正末年まで海軍大学校図書館に勤務する。そのかたわら、図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭する。後に明治文化研究会の一員となる。 1924年11月25日、東京朝日新聞の夕刊で「校正の神様」として紹介される。1930年、「日本校正協会」を設立・主宰し、雑誌「校正往来」を発行する。
宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 19… 宮本 和吉(みやもと わきち、1883年6月10日 - 1972年10月22日)は、日本の哲学者。 1883年(明治16年)、山形県東田川郡下名川村(後の朝日村、現・鶴岡市)生まれ。荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)では阿部次郎と友人となった。父の転勤で阿部が転校すると、意気消沈したという。松嶺小学校の代用教員を1年間勤め、上京して第一高等学校一部に入学。同級生には、鶴見祐輔がおり、寮では斎藤茂吉と同室であったという。1909年(明治42年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院に進んだ。在学中より研究の一方で、岩波書店の『哲学叢書』編集に携わったりして生計を立てていた。1912年には、東京農業大学で英語講師を務めた。
田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 19… 田代 秋鶴(たしろ しゅうかく、1883年6月9日 - 1946年12月13日)は、日本の書家。名は其次、字は信仁。秋鶴は号で、別号に五千石道人がある。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市片丘)に生まれた。1899年、16歳で教員試験に合格して塩尻小学校に奉職した後、1903年に東京音楽学校師範科を卒業、東京市誠之小学校に勤務した。 書家としては1904年に丹羽海鶴に入門し、その後巖谷一六、日下部鳴鶴、比田井天来らの影響を受けて六朝書や顔真卿の書法を研究し、その書風は「古厚蒼勁にして閑雅」と評された。1907年に二松學舍(現二松學舍大学)に入学。その後東京高等師範学校講師、文部省教員検定試験(文検)検定委員、興亜書道連盟理事・総務を務めた。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月… 芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。 千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任。
諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4… 諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年〈明治16年〉6月4日 - 1982年〈昭和57年〉12月8日)は、日本の漢学者・漢字学者。号は止軒。学位は、文学博士。東京文理科大学名誉教授。都留短期大学学長・都留文科大学初代学長を歴任。大著『大漢和辞典』、『広漢和辞典』(各・大修館書店刊)の編者代表として知られる。直江兼続の子孫を称した。 新潟県南蒲原郡庭月村(後に四ツ沢村→森町村→下田村、現在の三条市庭月)の大庄屋の二男に生まれた。1908年に東京高等師範学校を卒業後、漢学の教員として同校に勤める。青年時代には中国に留学したが、このときに満足できる辞書がなかったことが、後の『大漢和辞典』の製作に繋がっていった。
小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2… 小畑 惟清(おばた これきよ、1883年〈明治16年〉6月2日 - 1962年〈昭和37年〉7月23日)は、日本の医学者(医学博士)、産婦人科医(浜田産科婦人科病院院長)。東京都特別区公安委員、実践女子学園理事長、日本産科婦人科学会会長、東京都医師会会長、日本医師会会長を歴任。 熊本県宇土郡宇土町にて漢方医小畑宗憲の次男として生まれる(長男は夭逝)。宇土尋常小学校卒業後、鶴城学館予科(高等小学科)及び本科(中学科)、さらに熊本市の私立済々黌へ編入。1901年(明治34年)に県立熊本中学校(第二済々黌より改称)、1904年(明治37年)に第五高等学校、1908年(明治41年)12月に東京帝国大学医科大学を卒業。
名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1… 名川 侃市(ながわ かんいち、1883年〈明治16年〉6月1日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(広島県第一区選出、当選6回)。鉄道政務次官。司法参与官。第一東京弁護士会会長。松竹監査役。 東京弁護士会会長、国家公安委員を務めた名川保男の兄。 広島県高田郡坂村(のち向原町、現安芸高田市)に生まれた。名川次郎平の長男。1903年(明治36年)、明治法律学校(現明治大学)卒業。1906年(明治39年)、法政大学卒業。 判事検事登用試験合格。1909年(明治42年)、東京地方裁判所判事に任官。1917年(大正6年)に退官し弁護士となる。一般訴訟事務を取り扱う。
中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 191… 中島 喜久平(なかじま きくへい、1883年6月 - 1914年8月2日)は、日本の文筆家。 長野県諏訪郡米沢村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校に試験の成績一番で入学。同期に鶴見祐輔がいた。東京帝国大学法科大学卒業。中島菫畝の筆名で執筆をしている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月2… 滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。本名は滝田 哲太郎。総合雑誌『中央公論』の編集長を務めた。 秋田県南秋田郡手形新町下丁(現・秋田市手形新栄町)生まれ。父・滝田以久治は秋田藩士の家系の出で、立憲民政党総裁等を務めた町田忠治の弟。厳格で教育熱心な父親に期待をかけて育てられた。秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科に進学、のち法科に転じる。在学中に近松秋江が主幹を務める『中央公論』で、ロンドン・タイムズ、デイリー・メール等外国の新聞雑誌類の翻訳アルバイトをするが、やがてその能力を認められ正式な編集者になり、大学はほとんど出席しなくなって中退した。
五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15… 五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15年(1882年)6月28日 - 昭和20年(1945年)4月13日)は歌舞伎役者。本名は岩井 久次郎(いわい ひさじろう)。屋号は大和屋。定紋は丸に三ツ扇、替紋は杜若丁字。俳名に燕子がある。 四代目岩井粂三郎の子として東京浅草の花川戸に生まれる。明治20年(1887年)8月に岩井紀の丸で初舞台。明治28年(1895年)4月または29年(1896年)3月、明治座で四代目岩井久次郎を襲名。明治39年(1906年)10月東京座『異風行列』の濃姫で五代目岩井粂三郎を襲名、名題昇進。市村座から後に四谷の大国座に出る。その後関西に住み着き活躍。晩年は再び東京に戻っている。
小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24… 小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24日 - 1962年(昭和37年)9月10日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 東京府麹町区飯田町三丁目(現東京都千代田区飯田橋)出身。小野金六の長男として生まれ、1923年(大正12年)3月に家督を相続する。東京外国語学校を修了し、1907年(明治40年)フランスへ留学する。 東京割引銀行頭取、日本煉炭、東洋製罐、松菱殖産、内外食品、東洋鋼鈑各社長、富士製紙、中央ゴム工業、北海道電灯、富士身延鉄道、秋田電気、小武川電力、王子電気軌道、京浜電力各取締役、富士山麓土地、富士山麓電気鉄道各監査役を歴任した。ほか、帝国水産会特別議員、大日本水産会理事、国家総動員審議会委員などを務めた。
野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 19… 野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 1961年2月13日)は、兵庫県出身の俳人。本名勇。 竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲。1897年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し、1910年より大阪九条で日英学館を経営した。在学中より高浜虚子に師事。兄泊雲とともに丹波二泊と呼ばれた。1922年、田村木国、皆吉爽雨と「山茶花」を創刊、雑詠選者。1936年、「山茶花」を辞し「桐の葉」を創刊・主宰。豪放磊落な性格で酒豪であった。 「ホトトギス」停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている(『現代俳句大事典』)。
渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月1… 渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月16日 - 1946年(昭和21年)8月13日)は東京出身の俳人。本名は渡辺義(よし)。 東京府東京市浅草区浅草小島町(現在の東京都台東区小島)に生まれる。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。育英小学校卒業を経て、1899年、日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。また同居した妹つゆ女も俳人であった。 1906年、高浜虚子に師事。千鳥吟社より「俳諧草紙」を創刊(1909年「文庫」に合併)。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月16日 - 1955年(昭和30年)1月12日)は、日本の裁判官。 熊本県飽託郡画図村(現在の熊本市東区)出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。広島地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、京都地方裁判所判事、大阪控訴院判事、大津地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、大阪区裁判所監督判事を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官した後は公証人となったが、1940年(昭和15年)に大審院判事に復職した。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉… 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉6月16日 - 1963年〈昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京(赤坂区葵町、現東京都港区虎ノ門)生まれ。長唄の名を聴松。 父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1919年〈大正8年〉 -1991年〈平成3年〉)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。 父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。 気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1… 笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1969年6月9日)は日本の都市計画家、内務官僚。工学博士(東京帝国大学)。 大正9年施行の都市計画法、市街地建築物法(現・建築基準法)の制定に尽力。戦前は満州国建築局長や日本大学などで教職につくほか、都市計画や営繕事業を主導する。戦後はまた建築法規の作成に貢献した。 新潟県南蒲原郡加茂町(現・加茂市)生まれ。1907年、東京帝国大学工科大学建築学科卒。卒業後、横河民輔率いる横河工務所に勤務後、陸軍技師を経て警視庁技師建設課長(1915年まで)。保安部の工場課勤務。当時の警視庁舎は現在の第一生命ビル(帝劇の南隣)のところに赤煉瓦造りの三階建建物であった。
石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月… 石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月11日 - 1959年(昭和34年)10月8日)は、日本の作家、歌人。大阪府富田林市出身。 雅号はゆふちどり。新詩社の社友となり、「明星」等に短歌、詩、小説等を発表した。本名杉山 孝(すぎやま たか)。代表作は「小板橋」。
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月1… 金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。
池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべ… 池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべえ、1882年(明治15年)6月11日 - 1962年(昭和37年)2月20日)は、大正から昭和前期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(帝国議会・1期)、参議院議員(国会・1期)、福井県足羽郡酒生村長。幼名・千代三。 福井県足羽郡荒木新保村(酒生村荒木新保、足羽村、足羽町を経て現福井市)で、地主、先代・池田七郎兵衛の三男として生まれる。北陸中学校(現北陸中学校・高等学校)を卒業。1913年(大正2年)父の死去に伴い家督を相続し七郎兵衛を襲名した。農業を営む。 経営不振の第九十一銀行を買収して取締役頭取に就任。その他、福井紡績取締役、大正電気取締役、白山水力取締役、福井電力取締役、日本水力監査役などを務めた。