磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17… 磯野 敬(いその けい、1868年7月6日(明治元年5月17日)- 1925年(大正14年)10月25日)は、明治後期から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。 上総国夷隅郡、のちの千葉県夷隅郡市野郷村(現:勝浦市市野郷)で、富豪・磯野市郎兵衛の長男として生まれる。1892年(明治25年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。1904年(明治37年)12月、家督を相続し、造林業を営む。 地方森林会議員、日新護謨取締役なども務める。 1912年(大正元年)、東京府東京市小石川区大塚窪町(現:東京都文京区小石川五丁目)に近代和風建築の粋を集めた自邸が竣工。同邸は2005年(平成17年)12月27日、「旧磯野家住宅」として国の重要文化財に指定される。
加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年… 加藤 茂苞(かとう しげもと、慶応4年5月17日(1868年7月6日) - 1949年(昭和24年)8月16日)は、出羽国鶴岡(現・山形県鶴岡市)出身の農学者。農学博士。九州帝国大学教授。水原高等農林学校教授。東京農業大学教授。 水稲の品種改良に約25年に渡り取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し東北稲作改良の父といわれた。代表的な新品種に「陸羽132号」がある。また、世界に存在する稲を印度型と日本型の2種類の型に分類する事を提案した。著作物に、水稲品種の改良、新品種育成に関する論文25編、講演筆記22編がある。
板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(18… 板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(1868年7月4日) - 昭和17年(1942年)2月4日)は、日本の教育家。従四位。 慶応4年5月15日(1868年7月4日)土佐藩士・板垣退助の嫡男として土佐国高知城下に生まれる。母は土佐藩士・小谷正臣(善五郎)の娘、鈴。 明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実弟・乾正士と共に参加。同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動。北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎らがいた。 明治21年(1888年)5月15日、山田平左衛門を校長に招聘し、高知県土佐郡種崎町に私立学校泰平学校を設立した。
小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶… 小林 彦五郎(こばやし ひこごろう、1867年7月31日〈慶応3年7月1日〉 - 1944年〈昭和19年〉4月28日)は、日本の教育者、聖職者。立教女学校(現・立教女学院)校長、立教高等女学校校長、立教大学元教授、日本聖公会の聖職者。財団法人聖路加女子専門学校(現・聖路加国際大学)理事。 岡山出身。大阪・英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、テオドシウス・ティングの薫陶を受ける。1886年(明治19年)3月には、授業日数を増やすなどの要求から生じた同校の学生運動では、元田作之進(後の立教大学初代学長)とともに急先鋒となり、改善を求める運動を行った。同1886年(明治19年)にヘンリー・ページ(Henry D. Page)よりキリスト教の洗礼を受けた。
吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶… 吉田 増次郎(よしだ ますじろう、1867年7月29日 (慶応3年6月28日) - 1942年3月14日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
今泉 嘉一郎(いまいずみ かいちろう、慶応3年6月27日〈1… 今泉 嘉一郎(いまいずみ かいちろう、慶応3年6月27日〈1867年7月28日〉 - 1941年〈昭和16年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。鉄鋼技術者として官営八幡製鉄所に勤務したのち、日本鋼管(後のJFEホールディングス)を創業。衆議院議員(1期)も務めた。工学博士。 慶応3年(1867年)、上野国勢多郡東村花輪に生まれる。父・彦右衛門(のち彦作)は幕府代官付の村吏を務め、明治維新後には区長となった。母・常子は伊勢崎藩の藩医だった原(入婿し田村)常益の二女として生まれ、12歳で江戸へ出て浅田宗伯に学んだのち、17歳で漢方医となっている。 1873年(明治6年)に祥禅寺で花輪小学校が開校されると嘉一郎は直ちに入学。
田村 律之助(たむら りつのすけ、1867年7月25日〈慶応… 田村 律之助(たむら りつのすけ、1867年7月25日〈慶応3年6月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉12月15日)は、下野国都賀郡西水代村(現・栃木県栃木市大平町西水代)出身の農学者。栃木県におけるビール麦(二条大麦)栽培の基礎を作った人物として「ビール麦の父」と呼ばれている。 慶応3年6月24日(1867年7月25日)、下野国都賀郡西水代村(現・栃木県栃木市大平町西水代)に長男として生まれる。自らを律し、律儀な人になるようにと「律」を、田村家の跡継ぎとして父の名から1字を取って「助」を、それぞれ取って律之助と名付けられた。祖父は律之助を立派な跡取りにしようと箸の持ち方や返事の仕方、姿勢など厳しくしつけ、律之助は従順に育った。
市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(… 市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(慶応3年6月23日) - 1928年(昭和3年)8月15日)は、明治から大正時代の土木工学者、内務技監、大日本帝国陸軍軍人。 市瀬亨介の次男として丹波国多紀郡(現丹波篠山市)に生まれ、1893年(明治26年)3月、分家する。1890年(明治23年)7月、帝国大学工科大学土木科を卒業し、工学士の称号を得る。1911年(明治44年)工学博士。同年、内務省土木監督署に出仕し、技師試補を拝命。さらに12月には陸軍志願兵となり日清戦争に従軍。1892年(明治25年)8月、陸軍歩兵少尉に進む。1893年(明治26年)11月、土木監督署技師に任じ、広島土木監督署在任中に児島港築港事業に従事した。
大澤 三之助(おおさわ さんのすけ、1867年7月22日(慶… 大澤 三之助(おおさわ さんのすけ、1867年7月22日(慶応3年6月21日) - 1945年(昭和20年)7月26日)は、日本の建築家。東京美術学校等で後進を指導した。 江戸(現東京)麻布生まれ。父・大沢昌督は町医者で、維新後、陸軍の薬剤官となる。18歳の時、尾崎紅葉らの硯友社が創刊した「我楽多文庫」の挿絵を描いた。1891年、第一高等学校卒業、東京帝国大学工科大学造家学科に進み、1894年卒業。卒業後、1年志願兵として兵役に就く。 1897年3月、東京美術学校図案科講師、1902年12月、図案科二部(建築装飾)の教授に就任。また、1899年 - 1904年は東京帝国大学で講師を務めたほか、1905年には陸軍歩兵大尉となる。
川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年… 川島 亀夫(かわしま かめお、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 昭和4年(1929年)12月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 美作国苫田郡津山(現在の岡山県津山市)出身。1890年(明治23年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)英語法科を卒業。高等文官試験に合格し、司法官として各地の裁判所に勤務した後、司法省参事官、司法大臣秘書官を務めた。その後、官を辞し、弁護士を開業した。 1909年(明治42年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。日本製糖汚職事件で起訴されるが、無罪判決を受けた。
三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
守屋 義之(もりや よしゆき、1867年7月18日〈慶応3年… 守屋 義之(もりや よしゆき、1867年7月18日〈慶応3年6月17日〉 - 1938年〈昭和13年〉1月20日)は、日本の実業家。広島電気、島根電力各社長。広電証券、太田川水力電気各代表取締役。瀬戸内海横断電力取締役。電気協会中国支部長。広島商工会議所会頭。中国財界の有力者であった。 広島県安芸郡府中村(現・府中町)生まれ。守屋棟蔵の長男。生家は土地の旧家・素封家として知られたが、父・棟蔵に至り家産はほとんど尽きた。 7歳の時に小学校に入学した。それから11歳の1月までは通学していたが、3月には卒業も出来るという際どい時に祖父・貞次の死亡によって急に農事を手伝わねばならぬ事となり、小学校を中途退学した。
池田 亀治(いけだ かめじ、1867年7月16日(慶應3年6… 池田 亀治(いけだ かめじ、1867年7月16日(慶應3年6月15日)- 1934年(昭和9年)3月8日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家、銀行家。衆議院議員。号・万年、俳号歌号・伸穂。 出羽国仙北郡、のちの秋田県仙北郡新刈和野村(刈和野村、刈和野町、西仙北町を経て現大仙市)で、豪農・池田勘左衛門の長男として生まれる。根本通明に師事し勉学に励んだ。 刈和野町会議員となる。1898年(明治31年)秋田県会議員に選出され、同参事会員、仙北郡会議員、所得調査委員にも在任した。1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(秋田県郡部、立憲政友会)で初当選し、その後、第16回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算4期在任した。
矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867… 矢口 長右衛門(やぐち ちょうえもん、前名・縫太郎、1867年7月12日(慶應3年6月11日) - 1935年(昭和10年)11月4日)は、日本の実業家、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者。族籍は栃木県平民。 先代矢口長右衛門の長男。高松長三の実兄。家は代々農業及び醤油・醸造業を営み、栃木県下の大地主である。 1887年、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科を卒業。帝国大学法科大学選科に入り、理財学を専攻し、帰郷して祖業を継承する。1911年、家督を相続し、旧名・縫太郎を改めて先代の名を継ぐ。 早稲田大学評議員、塩谷郡醤油組合長、宝積寺銀行頭取、宝積寺銀行取締役監督、宇都宮電球取締役会長、矢板銀行、小川銀行、喜連川興業銀行、下野中央銀行、下野新聞、宝積寺米券倉庫、宇都宮米券倉庫、塩原軌道各取締役、東海生命保険監査役などをつとめた。
綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年… 綾部 惣兵衛(あやべ そうべえ、慶応3年6月6日(1867年7月7日) - 大正12年(1923年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。薬剤師。 武蔵国入間郡川越町(現在の埼玉県川越市)出身。東京帝国大学医科大学製薬科や日本薬学校で薬学を学んだ後、郷里に薬局を開き、後には日本薬剤師会埼玉支部長となった。また川越町会議員、入間郡会議員、同参事会員、埼玉県会議員、同参事会員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回に至るまで4回当選を果たした。 その他に川越商業会議所副会頭を務め、また日本薬剤株式会社取締役、帝国化学製麻株式会社取締役、中武銀行取締役、関東印刷株式会社取締役、東日本炭鉱株式会社監査役を務めた。
山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6… 山脇 房子(やまわき ふさこ、1867年7月5日(慶応3年6月4日)- 1935年(昭和10年)11月19日)は、日本の教育者。夫は法学者で女子実脩学校(後の山脇高等女学校)創立者の山脇玄。旧姓・小倉。聖公会信徒。 1867年(慶應3年)出雲国松江北田町(現在の島根県松江市北田町)で松江藩士小倉忠の長女として生まれた。 1883年(明治16年)松江女子師範学校を卒業後、松江の宣教師の紹介で仙台に赴き、アメリカ人宣教師スワルツ夫妻のもとで半年間英語を学んだ。 1885年(明治18年)上京し、麻布飯倉片町のイギリス人ホールのもとで2年間、経済学や文学を学んだ後、女子教育奨励会の教師であったイングランド国教会の宣教師カロライン・カルクスのもとで25歳まで英語や洋風作法を学んだ。
加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日… 加賀 卯之吉(かが うのきち、旧姓・山室、1867年7月4日〈慶応3年6月3日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選2回、憲政会)、ジャーナリスト。族籍は三重県平民。 伊勢国桑名(後・三重県桑名郡桑名町、現・桑名市)に生まれる。山室今助の長男。1884年、加賀金七の養子となり、1886年、養母の後を承け家督を相続した。英漢学を修めた。 桑名郵便局雇、同局長代理、名古屋逓信官吏局員を務めた。その後、伊勢新聞社、福岡日日新聞社及び神戸新聞社の経済通信の嘱託となる。また、日本商業新報を創刊し社長となった。 経済記者として、毎年8月から11月までの約90日間に渡って全国の米作の状況や農家の財政状況を視察して、次年度の需給の予測とその対策を発表し、『福岡日日新聞』『関門日日新聞』『神戸新聞』『やまと新聞』『中外日報』『帝国通信』などに記事を提供した。
石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6… 石橋 思案(いしばし しあん、1867年7月3日(慶応3年6月2日) – 1927年(昭和2年)1月28日)は、日本の小説家。本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝国大学中退。 尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。「雨香」とも号し、また都々逸では「自劣亭」の号を用いて活躍した。 1867年(慶応3年)6月2日、横浜の弁天町に石橋政方の長男として生れる。父・政方は外務省官吏。祖父は長崎の通詞で、石橋助左衛門といった。幼少時に上京し神田に住む。お茶の水の師範学校附属小学校に通い、1878年(明治11年)、学習院に入学。
奈良坂 権六(ならさか ごんろく、1867年7月2日(慶応3… 奈良坂 権六(ならさか ごんろく、1867年7月2日(慶応3年5月13日) - 1923年(大正12年)9月24日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(4期)。 陸奥国黒川郡石積村(のち陸前国黒川郡石積村→宮城県黒川郡石積村→富谷村→富谷町、現・富谷市)出身。黒川郡大童村(のち黒川郡富谷村→富谷町、現・富谷市)の奈良坂家の養嗣子となる。西成田小学校教員、学務委員、収入役、富谷村会議員を経て、1914年(大正3年)富谷村長に就任した。村長は1922年(大正11年)まで務め、村政に尽くした。 退任後は仙台市に移り住み、1923年(大正12年)に死去した。 この項目は、宮城県に関連した書きかけの項目です。
小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月… 小川 三知(おがわ さんち、1867年7月1日(慶応3年5月29日)- 1928年(昭和3年)10月24日)は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。 慶応3年(1867年)、静岡県静岡市裏一番町十五番地(現在の住吉町)で静岡藩医・小川清斎の次男として生まれた。静岡濠頭小学校、静岡中学校卒業後、上京。明治16年(1883年)、独逸学協会学校予備科に入学。長男漣平が早世したため、家業の医者になるべく第一高等中学校に入学したが、絵画への憧れは消えなかった。
塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6… 塚本 ハマ(つかもと ハマ、1866年7月31日(慶応2年6月20日)- 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の女性教育者である。旧姓は小川。 江戸の本郷にてうまれる。幼少時に静岡県に移住し、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学する。入学後両親を失った野口幽香と親交を持ち、欠席時の補佐として携わった。これにより幽香と共に1889年(明治22年)キリスト教に受洗し、卒業後は大阪女子師範学校(後の大阪第一師範学校、現在の大阪教育大学教育学部)にて教鞭を執り、その管理も務めた。後に同学校に勤務する傍ら、梅花女学校(現在の梅花女子大学)の教師も兼任した。 この頃に農学者の塚本道遠と結婚し、6人の子供を産む。
初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日… 初代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1866年7月29日(慶応2年6月18日) - 1931年(昭和6年)3月31日)は、明治から昭和時代戦前の実業家。政治家。貴族院多額納税者議員。田村駒創業者。 摂津国池田村槻木(現・池田市槻木町)の酒造業・笹部九兵衞(神田屋)の二男として生まれたが、家業はすでに傾いており、9歳で父親を亡くし、13歳で西田商店(現・呉春酒造)に奉公、徴兵逃れのため1883年に親戚の田村キクの養嫡子となった。翌年、モスリン友禅の開発に成功した大阪の洋反物商・岡島千代造の店員となり、鮮明な染色法等を完成、1891年に岡島合名会社の共同出資者となり、1894年に洋反物卸商として独立、実弟の平松徳三郎(伊丹平松家養子)とともに「神田屋田村駒商店」を創業。
石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 … 石川 源三郎(いしかわ げんざぶろう、1866年7月27日 - 1956年12月7日)は、日本の実業家、教育者。 1891年12月21日、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールで、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案された新スポーツのバスケットボールを初めてプレーした人物。1892年卒業の「一般事業担当主事養成科クラス」18人の学生のひとり。最初に実施されたゲームのスケッチを残している。 1866年(慶応2年)館林藩の藩士・石川喜四郎の三男として生まれる。字(あざな)は、定邦または定国(さだくに)。2歳の時、父が戊辰戦争で戦死。8歳時に母の実家である東京・富ヶ谷へ移り住む。
大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日… 大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日(1866年7月26日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は江戸出身の実業家。 当時経営が悪化していた芝浦製作所(現東芝)を再建し、同社専務等を務めた後に、各地で水力電気会社を設立した。 また、二葉亭四迷とは、東京外国語学校および東京商業学校(現一橋大学)での親友であり、四迷は大田黒をモデルに小説『浮雲』を執筆した。 徳川幕府の御家人である小牧辰蔵の四男として江戸小石川(後の東京府東京市小石川区、現・東京都文京区)に生まれ、幕府の没落により3歳のとき一家で静岡へ移住し富士の裾野に帰農。没落士族の辛酸を嘗める。 沼津の旧制中学校を卒業後、上京して大学予備門(現東京大学)を受験したが失敗して東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に入学、二葉亭四迷と親交を結ぶ。
岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年… 岩田 鶴皐(いわた かくさい、慶応2年6月15日〈1866年7月26日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月11日)は、日本の書家。日下部鳴鶴の弟子である。本名は要輔。号は群鵞居士、刀寧漁夫。 下総国相馬郡高野村(現・茨城県守谷市高野)出身。茨城師範学校を卒業後、茨城県・神奈川県の小学校、神奈川師範学校、埼玉師範学校で教師を務める。1921年に書道雑誌『郡鵞』を発刊。日本美術協会評議員、泰東書道院総務審査員、大日本書道院総務審査員を務めたほか、1936年には日本書道学校を創設するなど書道界の発展に尽力した。 1927年当時の住所は東京市牛込区矢来町2番地26号。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応… 吉江 石之助(よしえ いしのすけ、1866年7月24日(慶応2年6月13日) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功四級。 福井藩士・吉江徳衛の長男として越前国(現・福井県)に生まれ、1894年(明治27年)家督を相続する。本籍は東京府、のち静岡県。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業。 東京防禦総督部副官、近衛師団副官、第13師団参謀、歩兵第31連隊附、第14師団参謀、歩兵第59連隊附を経て、1912年(明治45年)4月に陸軍歩兵大佐・関東都督府高級参謀に任官。
小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1… 小林 丑三郎(こばやし うしさぶろう、慶応2年6月12日〈1866年7月23日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月16日)は、日本の衆議院議員(公友倶楽部→公正会)、経済学者。 上野国邑楽郡小泉村(現在の群馬県邑楽郡大泉町)に、慶次郎の次男として生まれる。1894年(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大蔵省に入省した後、1896年(明治29年)に法制局参事官、1898年(明治31年)に法制局書記官に任じられた。1907年(明治40年)に台湾総督府財務局長に転じ、また法学博士の学位を授けられた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し、当選を果たした。1917年(大正6年)、海外駐箚財務官に任命され中華民国に赴任した。
岩月 直彦(いわつき なおひこ、1866年7月21日(慶応2… 岩月 直彦(いわつき なおひこ、1866年7月21日(慶応2年6月10日) - 1938年(昭和13年)6月5日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・堀之内。 堀之内庄右衛門の弟として薩摩鹿児島藩領薩摩郡隈之城郷(隈之城村、川内町、川内市を経て現薩摩川内市勝目町)に生まれ、1891年(明治24年)8月、前戸主岩月佐美の養子となり家督を相続する。1887年(明治20年)薩摩郡城下尋常小学校訓導、同校長を経て隈之城村会議員に当選。ほか、鹿児島県農工銀行取締役、隈之城村学務委員、鹿児島県会議員、同参事会員などを歴任する傍ら、金銀鉱業を経営し、大口金山支配人を務めた。 1904年(明治37年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1906年(明治39年)8月27日まで在任。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月… 土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日(1866年7月20日) - 昭和6年(1931年)11月6日)は、日本の医学者。号は鶚軒。日本における皮膚科学の開祖。 1866年、越前国武生領の医者・五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現・福井県越前市武生)に生まれた。1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現・台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学んだ。同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。1885年には東京帝国大学医学部予科に入学した。1889年、母方の叔父土肥淳朴の養子となり、以降土肥姓を名乗った。1891年に卒業。 卒業後は、東京帝国大学附属第一医院外科医局に入局し、外科医スクリバの助手となった。
栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(186… 栃内 曽次郎(とちない そうじろう、慶応2年6月8日(1866年7月19日) - 昭和7年(1932年)7月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。晩年には貴族院議員を務めた。
富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月1… 富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月18日〉 - 明治18年〈1885年〉12月2日)は、日本の社会運動家、教師。婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。 播磨国龍野の醤油問屋の娘として生まれる。兄一人、姉三人、妹一人いる。幼い頃から学問が好きで、1878年に公立龍野中学校入学、1881年(明治14年)同校を卒業し、翌年小学高等科教員免許を受ける。京都にのぼり岸田俊子のもとで学ぶ、その後上京し、自由燈の校正係となり、その後絵入自由新聞の記者として奉職。日本で最初の女性新聞記者と呼ばれる。新聞記者従事中に、福田英子と知り合い、婦人解放運動を活動させる。
三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年… 三島 通良(みしま みちよし、1866年7月17日(慶応2年6月6日) - 1925年(大正14年)3月9日)は、明治から大正期にかけての日本の衛生学者、医師。文部省からの委嘱により日本の児童の調査を行い、日本独自の学校衛生を提唱、推進した。また、母子衛生法の改良、三島式種痘法の発明などを行った。しばしば「日本の学校衛生の生みの親」と称される。号は静堂。 慶応2年(1866年)に武蔵国入間郡霞関村笠幡(現・埼玉県川越市笠幡)に生まれる。父の通郷(つうけい)は嘉永から安政年間に私塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教え、明治維新後に受け持っていた修験道場が廃止されると家財や田畑を売り払って上京して遊学し、神奈川県検事などの官職を務めた人物であった。
高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年… 高橋 欽哉(たかはし きんや、1866年7月17日〈慶応2年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉10月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 豊後国大分郡西庄内村(現由布市庄内町)生まれ。1890年(明治22年)に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)で高級旅館泉孫を経営する高橋孫三郎の養子となる。浜脇町会議員を務めた。 1906年(明治39年)から7年間、別府町助役を務めた。同年、別府町会議員に当選した。その後、1909年(明治42年)、1912年(明治45年)、1916年(大正5年)、1920年(大正9年)に再選した。1919年(大正8年)9月25日には速見郡選出の大分県会議員に当選。1924年(大正13年)の別府市会議員選挙でも当選している。
牧野 彦太郎(まきの ひこたろう、1866年7月15日(慶応… 牧野 彦太郎(まきの ひこたろう、1866年7月15日(慶応2年6月4日) - 1940年(昭和15年)7月9日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。 牧野丈之助の長男として、美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知町を経て現中津川市付知町)に生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続する。1890年(明治23年)慶應義塾を卒業する。 農業を営み、東京木管製造所を経営した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年… 上野 勘助(うえの かんすけ、1866年7月13日(慶応2年6月2日) – 1914年(大正3年)1月20日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡上岩出村(岩出町を経て現岩出市)で、大庄屋を務める家に生まれた。1887年(明治20年)慶應義塾別科を卒業し、1898年(明治31年)東京法学院(現中央大学)を卒業した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で和歌山県第2区から自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、北海道開拓を志し、幌向原野(現岩見沢市)に入植して農場を営んだ。1910年(明治43年)と1913年(大正2年)に空知支庁管内から北海道会議員に選出された。
岡本 栄吉(おかもと えいきち、1866年7月12日(慶応2… 岡本 栄吉(おかもと えいきち、1866年7月12日(慶応2年6月1日) - 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡大町村(西条町を経て現西条市)で、素封家・岡本文吾の第四子として生まれる。西条育英館を卒業する。1905年(明治38年)家督を相続。1908年(明治41年)大町村会議員に当選。議員を務める傍ら西条水力電気設立に参画し、西条銀行頭取などを務めた。ほか、相続税審査、所得税調査各委員などを務めた。 1918年(大正7年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2… 福田 雅太郎(ふくだ まさたろう、1866年7月7日〈慶応2年5月25日〉- 1932年〈昭和7年〉6月1日)は、日本陸軍の軍人。陸士旧9期、陸大9期。栄典は従二位勲一等功三級、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)。最終階級は陸軍大将。 大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。大村中学校、有斐学舎を経て、1887年(明治20年)7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業。 日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、1900年(明治33年)12月30日、独国から帰国した(少佐)。
村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月… 村瀬 庫次(むらせ くらじ、1866年7月7日(慶応2年5月25日) - 1921年(大正11年)5月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 尾張国丹羽郡小折村(のち愛知県丹羽郡布袋町、現・江南市)出身。漢学を学ぶ。実業界に身を投じ、愛北物産(資)社長、名古屋米商会所肝煎、(株)鉄道車両製造所取締役、(株)名古屋商品取引所理事長、(株)丹葉銀行副頭取、丹羽郡所得税調査委員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知4区から無所属で立候補して当選する。1898年8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉俱楽部公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙で落選した。
福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866… 福島 泰蔵(ふくしま たいぞう、慶応2年5月23日〈1866年7月5日〉 - 明治38年〈1905年〉1月28日)は、日本陸軍の軍人。弘前歩兵第31連隊の中隊長として、八甲田山雪中行軍を成功させた人物として知られている。日露戦争中の黒溝台会戦で戦死。陸軍少佐(没後昇進)。雅号に義山。 慶応2年(1866年)5月23日、上野国新田郡世良田村平塚(現・群馬県伊勢崎市平塚)で廻船運送業を営む福島泰七、あさの長男として生まれる。1874年(明治7年)地元に開校された平塚学校に入学し、下等小学校卒業の際は群馬県令・楫取素彦より特別優等賞を受けている。1884年(明治17年)に司法省法学校を受験するが、合格はできなかった。
黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈186… 黒井 悌次郎(くろい ていじろう、慶応2年5月22日〈1866年7月4日〉- 昭和12年〈1937年〉4月29日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。海軍大将。山形県(旧米沢藩)出身。江戸時代中期の米沢藩士黒井忠寄は傍系である。黒井家の菩提寺はともに鍛冶町の曹洞宗高国寺。 米沢藩士(250石)黒井繁邦の二男。同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の藩校をルーツとする興譲館中学より海軍兵学校に入学。明治20年(1887年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出する。 練習艦「龍驤」での訓練を終えて、最新の巡洋艦「高千穂」で最初の2年あまりを過ごす。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月… 舟橋 遂賢(ふなばし / ふなはし なるかた、1865年7月29日(慶応元年6月7日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、明治から大正期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で少納言・舟橋康賢の二男として生まれる。父の死去に伴い1880年(明治13年)1月16日、家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1882年(明治15年)以降、京都宮殿勤番、殿掌などを務めた。1889年(明治22年)東京専門学校邦語政治科卒業。1890年(明治23年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した。
里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応… 里井 圓治郎(さとい えんじろう、1865年7月28日〈慶応元年6月6日〉 - 1937年〈昭和12年〉6月21日)は、明治-昭和期の日本の実業家。 国内ではじめて近代的なタオルの織機を開発し生産を始めた人物。 1865年(慶応元年)に和泉国日根郡佐野村(現大阪府泉佐野市)で生まれる。1885年〈明治18年〉、大阪で舶来雑貨商を営む新井末吉の奨めによりタオル製織の研究を始める。1887年(明治20年)、タオルの特徴である輪奈をつくる打出機を開発したことにより、国内で初めてのタオル製織に成功する。以後同地では日本のタオル産業発祥地として発展していき同地で生産されたタオルは「泉州タオル」と呼ばれている。
野呂 駿三(のろ しゅんぞう、1865年7月27日(慶応元年… 野呂 駿三(のろ しゅんぞう、1865年7月27日(慶応元年6月5日) - 1945年(昭和20年)12月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・菅井。 美濃国恵那郡、のちの岐阜県恵那郡中津町(中津川町を経て現中津川市)で菅井九三の三男として生まれ、先代万次郎の養子となり1898年(明治31年)家督を相続した。酒と醤油醸造業を営む。御嵩町長、岐阜県会議員、同議長、東美銀行、濃飛商工銀行各頭取、東美鉄道取締役、中央製紙、木曽興業、樺太工業各(株)監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において岐阜7区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1… 玉子屋 円辰(たまごや えんたつ 旧字表記:玉子屋 圓辰、1865年7月27日(慶応元年6月5日) - 1944年(昭和19年)6月19日)は日本の萬歳および音頭取りの芸人。明治末期から昭和初期にかけ、古典芸能であった萬歳をのちの「漫才」につながる近代的な形式の寄席芸能に仕立て直し、多くの後進を育てたことから、「上方漫才中興の祖」「近世漫才の祖[要出典]」と称される。本名:西本 為吉。 河内国河内郡池島村(のちの大阪府東大阪市)の生まれ。生家は農家。成人して鶏卵の行商をはじめると、河内音頭や江州音頭を歌いながら通りを歩いて鶏卵を売り、評判を取った。音頭取りは俄、講談などと並ぶ当時の大阪の寄席芸の主流であり、そのうち江州音頭は鶴賀鶴年一座や桜川大蔵一座などによるブームの真っ只中だった。
熊谷 五右衛門(五右衞門、くまがい ごうえもん / ごえもん… 熊谷 五右衛門(五右衞門、くまがい ごうえもん / ごえもん、1865年7月25日(慶応元年6月3日)- 1942年(昭和17年)9月1日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越前国坂井郡熊坂村(福井県坂井郡坪江村、金津町熊坂を経て現あわら市熊坂)で、先代・熊谷五右衛門の長男として生まれる。農業を営む。1880年(明治13年)7月、家督を相続した。 坪江村会議員、坪江村長、坂井郡会議員、丸岡町長を務めた。1893年(明治26年)福井県会議員に選出され通算17年在任し、杉田定一系の中心として活動し、参事会員、副議長、議長も務めた。この間、九頭竜川の改修に尽力した。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福井県郡部から出馬して当選した。
近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶… 近藤 虎五郎(こんどう とらごろう、1865年7月23日〈慶応元年6月1日〉 - 1922年〈大正11年〉7月17日)は、明治-大正時代の土木技師。戦前前期の土木界を代表する人物の一人。日本初の工学博士。 村上藩士・近藤金彌の長男に生まれ、新潟学校を卒業。1878年(明治11年)9月明治天皇北越御巡行の折、特に学術優秀ということで、目録を贈られている。その後、東京帝国大学工科大学土木工学科に進学。常に主席を通し、特待生として1887年(明治20年)に卒業。私費で2年間米国留学し土木工学の先進技術を学び帰国。1890年(明治23年)内務省土木局に入り内務技師となり、1896年(明治29年)の河川法制定後国費による河川改修工事や湾岸・上下水道の新設工事の監督指導に当たる。
斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶… 斎藤 安雄(齋藤、さいとう やすお、1865年7月23日(慶応元年6月1日)- 1931年(昭和6年)1月28日)は、日本の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。旧名・慶之助。 武蔵国榛沢郡中瀬村(のち埼玉県大里郡中瀬村、現:深谷市)で、素封家・斎藤雄之助の長男として生まれる。1879年(明治12年)、家督を相続し安雄と改名。1885年(明治18年)、埼玉県師範学校を卒業。1891年(明治24年)まで小学校訓導を務めた。 1893年(明治26年)、自由党埼玉県支部が結成され同党に加盟。1894年(明治27年)、埼玉県会議員となる。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から自由党所属で出馬して当選。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。